甘えたい晶さんとファウストのふぁうあき「いいなあ……」
食堂の窓の外、中庭で繰り広げられる穏やかな光景に、気付けば思ったことがそのまま口から零れ出ていた。
「いいな? ――ああ、あれか」
濡らした布巾を手にキッチンから出てきたネロが、晶の独り言に小首をかしげながら同じように中庭へ視線を向け、そして納得したように頷く。
穏やかな日差しの差し込む中庭には、影のように真っ黒な人影が一人、木の傍に腰を下ろしていた。その膝には三毛柄の猫が、心地よさそうに腹を見せて寝転がっている。
「あんたもファウストも、本当に猫が好きだな」
「あっ、いえ、そうではなくて……」
くくっ、と喉の奥で笑ったネロに、うっかり首を横に振ってしまって、反応を間違えたと後悔した。これでは晶の先ほどの独り言について、確実に言及されてしまう。
「違うのか? 俺はてっきり、猫と一緒にいるうちの先生が羨ましいんだと……」
「気にしないでください。特に深い意味はないというか、なんというか」
「――へえ、深い意味はない、ねえ」
含みのあるネロの笑みに、晶は顔を強張らせる。
「テーブルは私が拭いておきますよ。ネロはキッチンの方を――」
「あんたたち、てっきり順調なのかと思ってたけど、なんか悩んでんの?」
ネロの手の中にある布巾をもらおうとしたが、さっと避けられてしまった。そして何気なく向けられた言葉に、晶はぎょっとして思わず一歩後ずさってしまう。
「え、ネロ、もしかして気付いて……?」
「やっぱそうなのか。確信はなかったんだけど、なんとなくそんな気はしてたよ」
そして今の晶のあからさまな言動こそ、ネロに確信を与えてしまったというわけだ。完全に不意をつかれて、墓穴を掘った。
晶とファウストは、いわゆる恋人同士というやつだ。まだ誰にも言っていないし、恋人らしいことなんてほとんど何もしていないけれど、それでも間違いなく恋人同士なのである。
「私たち、そんな風に見えましたか?」
「言っただろ、なんとなくだよ。あんたたちの表情とか、距離感とか、微妙に違う気がしてさ」
「他に気付いている魔法使いは……」
「どうだろうな。少なくとも、俺はあんたたちのことについて、他のやつらと話したことはないよ」
なら、周知の事実というほどに知られているわけではないのだろう。と思いたい。
じわじわと湧いてくる気恥ずかしさに、顔が熱くなる。温度の低い手の甲を押し当てて頬を冷ましていると、ネロは「で、なにが『いいなあ』なんだ?」と問いかけてきた。
「別に面白がって聞いてるわけじゃなくてさ。なんか悩んでることがあんなら、話してみたらどうってこと」
慣れた手つきでテーブルを拭きながら、ネロは気軽な声でそう言った。
(ありがたい申し出だけど……)
しかし何よりも恥ずかしさが勝る。
相談しようか、しまいか。しばしの葛藤はあった。そしてその結果、晶は思い切って打ち明けることを選び、おずおずと口を開く。
「私とファウストは、その、一応お付き合いをしているんですが」
「一応なんだ」
「……だって、恋人らしいこと、何もしていないんです」
後ろ向きな言葉選びを笑ったネロに向けて、ちょっと拗ねたような声を出してしまった。えっと声を上げて、ネロが手を止めテーブルから顔を上げる。そこに浮かんだ驚きの表情に、「本当に、何もなくて」と晶はさらに言葉を重ねた。
そう、何もしていないのだ。手を繋ぐことも、抱擁も、キスも。恋人同士なら数日のうちに済ませることだって少なくない触れ合いすら、していないのである。
もう一度、中庭に視線を向ける。ファウストはとても穏やかな表情で三毛猫と戯れていた。いつもしている手袋は、今は外されている。
(私は手袋を外した手に、触ったこともないのに)
それに、あんな風に甘えたことだってない。
どちらかの部屋で、ゆっくりお茶を飲みながら他愛のない話をする。晶がファウストと恋人同士になってからやったことなんて、せいぜいそれくらいだ。
「私だって、あんな風にくっついて――」
甘えてみたい、と言いかけたところではっとした。また思ったことが口から出ていた気がする。ちらりと視線を投げた先のネロが、にやにやとこちらを見てくるから、やっぱり声になってしまっていたらしい。
「うう、今のは聞かなかったことにしてください」
「あはは、顔真っ赤」
「っ、ちょっと冷ましてきます!」
いたたまれずに、晶はその場を早足で逃げ出す。
余裕のない晶は気付いていなかった。中庭のファウストが、食堂にいる自分とネロを静かに見ていたことに。
*
今夜、部屋に来ないか?
ファウストからの誘いを、晶はいつも通り快諾した。人によっては『夜のお誘い』とも受け取れる言葉だが、そこに他意がないことを晶はよく知っている。それを知らなかった頃、その誘い方に悶々とさせられたのは、晶だけの秘密だ。
あとは寝るだけ、という寛いだ格好でファウストの部屋を訪ねる。部屋の主もいつも通りの寝間着姿で、ベッドに腰掛けて本を読んでいた。
「こんばんは、ファウスト」
「……こんばんは」
これもまたいつもと変わらない挨拶だけれど、ファウストの返答に微妙に間があったような気がした。
どうしたんだろうと不思議に思いつつ、ファウストの右隣に少し間隔を空けて座る。全部全部、いつも通り。何も変わらない、二人で過ごす夜の光景だ。
「今日の夕ご飯も美味しかったですね」
「ああ、そうだな」
無難な話題を持ち出せば、返ってきたのはなんともあっさりとした相槌のみ。
いつもだったら、まずはお茶を淹れてくれるのに、ファウストは手元の本を閉じた姿勢のまま、ぴくりとも動かない。
なにか、変だ。
「あ、あの、ファウスト……?」
おそるおそる声をかけると、ファウストは観念したかのように深く息を吐き出し、本をベッドに置いた。それから軽く晶の方を向いて座り直すと、黒眼鏡の奥で視線を下に向けながら口を開く。
「ネロから、話を聞いた」
ネロ。話。一拍置いて、昼間の会話を思い出す。
「あれは、えっと……」
「僕は、きみのことを大切に思っている」
決して大きくはないけれど凛とした声に、心臓がどきりと音を立てた。さきほどまで遠慮がちに俯いていた瞳が、今は眼鏡越しに晶をまっすぐ捉えている。
「大切に思うからこそ、きみに触れることを躊躇ってしまった。多くを呪ってきた僕が、触れていいものなのか、と」
ファウスト、と吐息だけで彼の名前を呼ぶのと同時に、左手の手のひらにあたたかいものが滑り込んできた。
それは、ずっと触れたいと思っていた、ファウストの手だった。伝わってくる温度と、自分よりも大きな手のひらに、体がじわじわと熱を帯び始める。
(手汗とか、大丈夫かな)
待ち望んだこの状況で、考えることがそれなのかと、自分自身にちょっと呆れてしまう。
そんな晶をよそに、ファウストは強張っていた口元をふっと緩めて、優しく笑いかけてきた。
「甘えたいなら、甘えたらいい。きみにはその権利がある」
「権利、だなんて」
「僕が人間嫌いの引きこもりなことは知っているだろう。誰かれ構わず許すことじゃない」
それは、晶が特別であると言っているようなものだった。繋いだ手にぎゅっと力をこめられると、まるで心臓まで握られたように、胸が苦しくなる。
「ほら、おいで」
猫を呼ぶ時のような穏やかな声音に背中を押されて、晶は左に詰めて座り、ファウストとの間にあった微妙な空間を自ら埋めた。そしてその肩口に、ぽすりと頭を預ける。彼の傍にいる時ふと漂ってくる香りが今までで一番強く感じられて、鼓動は早くなる一方だ。
「これは、かわいい甘え方だな」
この話題を切り出す前は躊躇っていた様子だったのに、ファウストは緊張も動揺も感じさせない声で小さく笑った。なんだか自分だけがじたばたしているようで、情けない。
「もう少し、こうしていようか」
「はい……」
小さく頷くと、晶の髪にファウストが頬を寄せてくる気配がした。肩が、腕が触れ合っていて、握りあった手はいつの間にか指の間を絡めるような繋ぎ方に変わっていて。
この人が好きだなあと、騒がしい心臓の音を聞きながら思う。
二人はこの夜、他愛のない話に花を咲かせながら、いつまでも手を繋いで寄り添っていたのだった。