【5/4新刊仮サンプル】私たちはお伽噺になれないプロローグ
シンデレラ。
意地悪なまま母と義理の二人の姉から虐げられ、灰かぶりと笑われた少女。
魔法で生み出された美しいドレスを纏い、彼女はきらびやかな舞踏会へと向かった。
裾からのぞくのは、シャンデリアの眩い光を反射しきらめくガラスの靴。普段よりも高い目線に臆することなく、靴音を響かせまっすぐに進む。
あの美しい令嬢は誰だと、興味と好奇心の滲む囁きが耳に届いた。
ひときわ豪華な衣装を身に着け、つややかな光沢を帯びるマントを翻しこちらへ歩いてくる青年は、きっと『シンデレラ』の運命の王子様だ。
(それでも、私は――)
迷いも疑問も振り捨てて、晶は一つの決意を固める。そして立ち止まると、ドレスの裾を大きく持ち上げた。
一章
ゆったりと優雅なワルツを奏でるピアノの音色に、「あっ」と晶の声が重なった。
「すみません、カイン」
「大丈夫だ、気にするな」
ダンスの練習相手であるカインの右足を思いきり踏んでしまった。ちなみに本日三度目の失態である。何度も同じことを繰り返す自分が情けないし、ただただ申し訳ない。
「そんな顔するなよ、賢者様。誰だって最初はこんなものさ」
「ありがとうございます、カイン……」
からりと笑うカインに感謝を伝えながらも、気付けば肩を落としていた。晶とて、最初から完璧に踊れるとはもちろん思っていなかったけれど、練習を始めてもう十日だ。そろそろ様になってきたっていいのではないかと、苛立ちと焦りが募る。
「ほら、もう一度最初からだ」
カインが人差し指を振ると、チェストの上に置かれた陶器の置物のピアノがぽーんと音を立てた。それまで室内に流れていたワルツがすうっと波が引くように止まる。あの置物には魔法でラスティカが弾くワルツが記録されていて、音楽に合わせて練習ができるのだ。
右手をカインの左手と握り、左腕は背中に添えられた彼の右腕の上に添える。踊り始める前のこの状態のことを、ホールド、というらしい。
(体はこの姿勢を保ったままで、まずは右足から――)
カインが小声でカウントを取り、ピアノの置物をタイミングよく起動させると、再びワルツが流れ始めた。晶は習ったことを頭の中で反芻しながら、必死にカインのリードについてく。首筋を汗が伝う感覚があった。
なぜ晶がダンスの練習をしているのかというと、答えは単純かつ明白だ。舞踏会に参加することになったからである。
晶へ参加を打診してきたのは、アーサーとドラモンド。
二人は晶に無理にとは言わなかった。なぜ晶に――賢者に打診をするのか、その裏にあるややこしい事情を包み隠さず話した上で、これは強制ではないし晶が断っても自分たちが全て何とかする、とはっきりと断言してくれたのである。
そして晶は全てを承知で引き受けた。その決断に後悔はない。
しかし舞踏会で踊るワルツの習得は、困難を極めていた。
(右、左、戻して。今度は左、右、戻す)
頭の中で呪文のように唱えながら、身に着けたドレスの裾から見え隠れする自分の靴先とカインの靴とを目で必死に追いかける。舞踏会本番ではこんな風に俯きながら踊ることは絶対にしてはいけないのだけれど、今はとてもじゃないけれど怖くて顔を上げられない。こうやって見ていても相手の足を踏んでしまうのだからなおさらだ。
ここは魔法舎五階の空き部屋。オズが魔法で部屋を何倍にも広くしてくれて、ちょっとした小広間のようになっている。ここを練習場所に、ダンスを踊れる魔法使いたちを相手に毎日練習を重ねていた。
その結果、舞踏会で踊るワルツの音と動きは頭には入ったが、その通りに体が動くかどうかはまた別の話で。集まった貴族たちの前で堂々と、優雅に踊るなど、夢のまた夢のように思えてしまう。
舞踏会までの日数は、そろそろ折り返しを迎える。この調子で本当に間に合うのだろうか。
その不安が、晶の足をもつれさせた。
「ぅ、わっ!」
カインを踏むことだけは避けたい、という意識が働き、もつれた足が言葉では表せないくらいこんがらがった。ぐらりと体が傾く。
「おっと。大丈夫か? 賢者様」
すかさず伸びてきたカインの腕に支えられて、体を床に強打することは免れた。
「助かりました、カイン」
「足、ひねってないか?」
軽く足首を回してみるが、違和感や痛みはない。「大丈夫です」と答えると、カインは
おかしそうに笑った。
「なんか、すごいことになってたぜ」
「あはは……。カインを踏まないようにと思ったら、自分でもよく分からないことになってました」
「そんなこと気にしなくていいのに」
「さすがに気にしますよ」
体勢を立て直し、乱れた髪や服を整える。晶は軽く息が上がっているが、カインは練習を始めてからずっと涼しい顔のままだ。やはり何年も厳しい鍛錬を積んできた元騎士団長と晶では、持っている体力が違いすぎる。
「はあ。また最後まで通せませんでしたね、すみま――」
「謝るのはなしだ。何度も言うが、最初なんてこんなものだよ」
ばしっと勢いよく背中を叩かれて、その勢いに思わず笑ってしまった。もちろん手加減はしてくれただろうが、それでもかなりの衝撃だったのだ。
笑った晶を見て、カインが安心したように頷いた。
「よし。……カイン、もう一度――」
気を取り直して練習を再開しようとしたところで、練習部屋のドアが叩かれた。晶とカインが同時に「どうぞ」と答えるのをきっちりと待ってから、ドアが静かに開かれる。
「賢者様、カイン。練習の調子はどうだろうか」
「アーサー、今は大臣たちとの会議じゃなかったのか?」
練習部屋に入ってきたのはアーサーだった。グランヴェル城に缶詰め状態のはずの彼を見て、驚いたカインがすたすたと駆け寄っていく。
「大臣の一人に急用が入ってな。会議は明後日に延期になったんだ」
だから自分の息抜きに付き合ってもらえないかと持ち上げられたアーサーの右手には、大きなバスケットが提げられていた。
「ちょうど俺たちも休憩しようと思ってたんだ。な? 賢者様」
「はい。私の息が上がってしまって」
晶が手を出す間もなくカインが部屋の隅に寄せていた丸テーブルと椅子をてきぱきと引っ張ってきて、アーサーが持参したバスケットを開ける。中に入っていたのはティーポットとほんのりバターが香るきつね色のクッキーだ。晶が戸棚から取り出したティーカップは、いつでもお茶会ができるようにと練習相手の一人であるラスティカがこの部屋に置いていったものである。
「一息ついたら、私とも一曲お願いできますか? 賢者様」
テーブルを囲み、窓辺でまどろむサクリフィキウムを眺めながらクッキーを咀嚼していた晶は、口の中のものを飲みこんでからアーサーの申し出に苦笑いを浮かべる。
「もちろん、と言いたいところですが、今日もカインの足を何度も踏んでしまっているような状態なんです」
カインならいいというわけではないが、中央の国の王子様の足を同じ調子で踏むのはさすがにまずいだろう。当のアーサーが気にしないと分かっていても、それは絶対にだめだと晶の中の常識が叫んでいる。
晶の遠回しな遠慮に、アーサーは柔らかく笑って首を振った。
「あまり難しく考える必要はありません。まだ日もありますし、賢者様が踊るのは最初のワルツだけですから」
そう、晶が踊るのは一曲だけである。舞踏会への参加が決まったのがなにぶん急で、何曲も踊れるようになることは現実的ではないため、初めのワルツだけを確実に習得する方針に決まったのだ。
「それに、万が一失敗したって、お咎めがあるわけじゃない。もっと気楽にいこう!って言うだけなら簡単だよな」
「うっ、カインの言う通りです」
そう簡単に楽観的になれないことを見抜かれて、苦い顔を作りながら頷く。アーサーとカインが顔を見合わせて困ったように笑った。
魔法使いを束ねる賢者として、各国の王侯貴族の前に出る機会はそう多くない。人間と魔法使いの間を取り持ち、関係を改めていくためには、彼らに良い印象を持ってもらって損はない、というのが晶の考えだ。あわよくば一目置かれるくらいの出来栄えに到達できたらいいのだが、さすがにそれは高望みが過ぎるだろう。
「明日は、練習相手になれる魔法使いが誰もいないんだったよな。気分転換に一日休むのもいいんじゃないか」
「カインの言う通りです。根を詰めては、できることもできなくなってしまいますから」
二人の提案に「そう、ですね」と曖昧に笑って答えながら、晶は頭の中で正反対のことを考えていた。
(明日は一人で練習しよう。舞踏会までに間に合う気がしないし)
ピアノの置物で音楽を流すには魔法を使う必要があるから、音に合わせて練習することはできないけれど、動きの確認くらいならできるはずだ。
ひっそりと個人練習を心に決めて、晶は二つ目のクッキーに手を伸ばしたのだった。
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結局あのあとアーサーと一曲踊り、最後の最後で足を踏んでしまった。もちろんアーサーは笑って許してくれたけれど、このままでは本当にまずいという危機感は強まるばかりだ。
「……よし、誰もいない」
夕食を終え一度は部屋に戻った晶だったが、どうにもゆっくり休む気になれず、サクリフィキウムを抱いて中庭にてきたところである。自室で夜な夜な練習しては、下の階の魔法使いの迷惑になると思ったのだ。
「サクちゃんはここで見ててね」
「に」
噴水の縁にサクリフィキウムを下ろし、夜の空気で深呼吸を一つ。肩や手足を軽く回してほぐしてから、一人でホールドを張ってみる。しかし、
「うーん、なんか違うな。みんなと踊ってる時はもう少し様になってた気がするんだけど」
どこがおかしいのかは分からないが、これが正しい姿勢でないことだけは確かである。
(多分、みんながちゃんと踊れる人だからだ)
まだダンスを始めたばかりだけれど、練習相手の魔法使いたちひとりひとりにちょっとずつ違いがあり、そしてそれぞれが洗練されていることは肌で感じた。
カインは迷いなくしっかりとリードしてくれて、アーサーもカインと似ているけれど、所作には王族らしい気品が滲む。
ヒースクリフは二人と対照的に控えめではあるけれど、進む方向をそれとなく示し導いてくれているのを感じた。
そしてこの三人から別格に上手いと評されるのがラスティカだ。彼と踊っている時は、「もしかして自分はすごく上達したのでは」と勘違いしそうになるほど自然と体が動くから不思議である。三人からの評価が高いのも納得だ。
そしてそれはつまり、純粋な晶だけの実力は、昼間のあれよりももっと低いということに他ならないわけで。
(よし、最初に教わったことを復習しよう。ラスティカはなんて言ってたっけ?)
おっとりと優しい口調ながら的確に分かりやすく教えてくれる声を思い出しながら、一人で何とか正解に辿り着こうと奮闘する。月明りの下でもぞもぞ身じろぎする姿はかなり滑稽だろうが、舞踏会本番でやらかすことに比べれば些細なことだ。
「もう少し胸を張って、腕の高さは、この辺? いや、練習の時はもうちょっと高かったような……」
「夜まで練習? 精が出るね」
ぶつぶつ呟いていたところに突然声をかけられて驚いた。
腕を下げて振り返ると、白衣を脱ぎ袖を捲った砕けた服装のフィガロがこちらに歩いてくるところだった。最近任務が続き魔法舎を空けがちだったフィガロと言葉を交わすのは数日ぶりである。
「こんばんは、フィガロ。まだ起きていたんですね」
「こんばんは。それはこっちの台詞だよ」
「私は、ちょっと個人練習を……。フィガロはどうしたんですか? もしかしてミチルに隠れてお酒を――」
そこまで言いかけて、彼が手ぶらなことに気付く。フィガロもそんなことはしていないと証明するかのように、両の手のひらを晶に向けてひらひらと振った。
「上の階で誰かが部屋を出て行く音が聞こえた気がしてね。もしかしたらと思って様子を見に来たんだよ」
「そうだったんですか。すみません、起こしてしまいましたね」
部屋の出入りの音すら聞こえてしまうのなら、やはり自室で練習しなくて正解だった。
「まだ寝るつもりじゃなかったから気にしないで。それより大丈夫? 無理してない?」
サクちゃんの横にゆったりと座り、組んだ足に頬杖をついて、フィガロは晶を見上げて言った。月明りを反射する榛と灰色の瞳に一瞬見惚れてかけて、なるべく自然に目を逸らす。
「無理なんて、全然。今日もカインとアーサーの足を踏んでしまって……」
「始めてまだ一週間くらいでしょ? 失敗して当然だよ」
フィガロは晶が目を逸らしたことに気付いていないようだった。そのことに内心ほっとしながら、とくとくと走り出した心臓の鼓動を意識する。
フィガロのことを、最初はちょっと怖い人だと思っていた。ほとんど初対面の状況で『篭絡したい』なんて言われて、警戒しない方がおかしい。
けれど、フィガロの人となりを、辿ってきた途方もない長い時の一端を垣間見るうちに、その心の奥に息を潜めている孤独の存在を知った。
放っておけなくて、意識するようになって。その言葉や笑顔に心を揺さぶられる意味を感覚では分かっていながら、今はまだ目を逸らしていた。真正面から向き合うことに尻込みしている自分がいる。
「舞踏会本番までに踊れるようになっている自分が全く想像できなくて。なので、時間がある時に少しでも練習しておきたいんです」
早まる鼓動に引きずられないよう、意識してゆっくりと言葉を紡いだ。フィガロは心の機微に聡いから、努めて平静を装う。
「まあ、きみが焦る気持ちは分かるよ。貴族が集まるような場所に行かなきゃいけないんだ、身構えるのは当然の話だよね」
「そういう場所できちんとした姿を見せるのも、私が賢者としてできることの一つかなと思いまして」
晶の言葉に、フィガロは「そっか」と短く応えて立ち上がった。もう部屋に戻るのかと思ったら、なぜかこちらに近付いてくる。
「右手はもう少し高い位置で」
「えっ」
右の手のひらにするりと滑り込んできたフィガロの左手に、心臓が大きく跳ねた。
「肩からはもっと力を抜いて大丈夫。胸を張って――なんだ、上手じゃない」
反射的に距離を取ろうとしたが、それよりも一瞬早く大きな手が晶の背中に回された。見上げたすぐそこに、月明りに照らされるフィガロの顔がある。
「そのままステップを踏んでみて。いち、に、さん……」
「フィガロ⁉」
驚きに情けない声を上げつつも、リードされるまま基本のステップを踏む。何度かそれを繰り返せば、フィガロは動きを止めて「基礎はばっちりだよ」と大きく頷いた。
「夜な夜な練習する必要なんてなさそうだけどな」
「た、たまたまうまくいっただけですよ。今日も散々でしたし、明日はいつも練習に付き合ってくれている魔法使いと予定が合わなくて練習できないですし」
「それならここにいるよ」
「えっ?」
フィガロがけろりとした顔で自分のことを指差す。晶はぱちぱちと目を瞬かせてからようやく意味を理解した。
「フィガロ、踊れたんですか?」
思わず大きな声を出してしまう。中庭に響いた自分の声に慌てて手で口を押えた。
「まあ、長く生きてるからね。――俺が召喚されたばかりの時のパーティーでも、きみをダンスに誘ったでしょ?」
「そういえば……」
篭絡したいと真正面から言われた日は、今となっては遠い昔のようだ。それでも鮮明に覚えているあのパーティーで、確かにフィガロは晶をダンスに誘ってきた。踊れなかったらあんな風に誘うこともない。
「今日魔法舎に帰ってきた時、ミチルたちから話を聞いてさ。俺にも協力できそうだなと思ってたんだ」
「でも、最近任務や用事で魔法舎を空けることが多かったですよね? 疲れてないですか?」
「心配してくれるんだね。でも大丈夫、疲れてないよ。俺は明日一日空いてるから、じっくり練習に付き合ってあげられる」
「ありがとうございます! すごく助かります!」
「だから今日は早く休みなさい。無理をして、本番を万全の状態で迎えられなかったらそれこそ目も当てられないよ?」
「……確かに、フィガロの言う通りです」
焦りが幾分か緩和されて大人しく忠告を受け入れると、波が引くようにフィガロがすっと離れていった。
「それじゃ、また明日。おやすみ、賢者様」
「おやすみなさい、フィガロ」
くるりと踵を返し、屋内に戻っていく背中を見送る。
(まだ、騒いでる)
とくとくと忙しなく鼓動を刻む心臓を感じる。何度か深呼吸を繰り返すが、なかなか収まりそうにない。
おもむろに持ち上げた右の手のひらをじっと見下ろし、左の指先でそっと触れる。フィガロの手の温度がまだ残っているような気がして、そしてそんなことをぼんやりと考えたことに恥ずかしくなって、ぶんぶんと勢いよく頭を振った。
「サクちゃん、部屋に戻ろうか」
動揺にうわずる声でサクリフィキウムを呼び寄せ、宙を漂い近付いてきたふわふわの体を胸に抱く。
果たして明日、この心臓はフィガロとの練習に耐えられるのだろうか。
中庭に出てきた時とはまったく異なる落ち着かなさを抱えて、晶も魔法舎の中へと戻ったのだった。
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「じゃ、始めようか」
「よろしくお願いします、フィガロ」
午前中の比較的まだ早い時間。晶は珍しく早起きしてきたフィガロと、練習場所の空き部屋で向かいあった。
「ドレス姿の賢者様は新鮮だね。練習用?」
「そうなんです、クロエが舞踏会のドレスの試作もかねて作ってくれて……」
薄緑色のドレスは露出のない簡素な作りではあるが、手足を動かす際に一切の窮屈さがなく、鏡で全身を見ると不思議とスタイルが良く見える。クロエはこれを着た晶を見て、「ウエストの位置はやっぱり高い方がよさそう」とか「首元は詰まってない方がいいな」とか呟いていた。そういう細かな点を改善しつつ、舞踏会のドレスを作ってくれるのだろう。
晶のドレス姿をしげしげと眺めたフィガロは、大きく一つ頷いて「よく似合ってるよ」とあまりにまっすぐに褒めてくるから、どんな顔をすればいいのか分からなくなる。
「あ、ありがとうございます」
気恥ずかしさを紛らわせるように、ドレスの裾を軽く持ち上げ、足元を気にするふりをする。ちなみに靴は普段履いているもののままだ。ドレスと合わせてクロエが用意してくれる予定で、それが完成するまでは履き慣れた靴の方がいいだろうという複数の魔法使いたちからの助言に従った形である。これだけ転んだり相手の足を踏んだりしているので、確かに踵の高い靴では何かと危なかっただろう。
(……よし、集中)
ついもじもじしてしまったが、折角の練習時間を無駄にするわけにはいかない。
気持ちを切り替えて顔を上げれば、フィガロとしっかり目が合った。昨日の夜の出来事が瞬時に蘇り、思わず体に力が入る。
「賢者様、緊張してる? リラックス、リラックス」
「は、はい」
「うーん、まだかたいね」
「……あの、私、もしかしてお邪魔でしたか?」
フィガロと晶の会話におずおずと入ってきたのは、部屋の隅でスケッチブックを構えたルチルである。
朝食の席でフィガロと晶がダンスの練習をすることを知ったルチルから、踊る二人を絵に描かせてほしいと頼まれたのだ。
「邪魔だなんて、そんなわけないじゃない。ねえ、賢者様?」
「もちろんです。ただ、絵になるようなダンスは、私にはまだ難しそうですけど……」
ルチルの申し出を快諾しておいて、今更こんなことを言うのは申し訳ない。けれど、未熟な状態で本当にいいのだろうかという不安がどうしても拭えないのだ。
浮かない顔の晶に、ルチルは「それでいいんです」とあっさり頷いた。
「私は『ダンスの練習をするフィガロ先生と賢者様』の絵を描かせてもらいたいんです」
だからダンスの巧拙は関係ないのだとルチルは言う。
「ですから、お二人が一生懸命練習しているところ、是非見せてくださいね!」
「……そういうことなら、喜んで」
晶の返答を嬉しそうに笑って聞いてくれたルチルを見て、気付く。いつの間にか妙な緊張がすっかり解けていた。
改めてフィガロに向き直ると、「ちょっと肩の力が抜けたみたいだね」と呟きながらフ左手が差し出される。
「まずはホールドの組み方からやっていこう。昨日見た感じ、問題なさそうだったけど」
右手をフィガロの左手に重ね、一歩分距離を詰める。真正面から向き合うのではなく、半歩横にずれるのが正しいのだと、初日にラスティカから教わった。
左の肩甲骨にフィガロの手が回されて、晶は左腕をフィガロの右腕をそっと添える。
「もう少し肘を上げてみて――。そうそう、そんな感じ」
「この体勢、ちょっと辛いんですが」
「うーん、肩に力が入ってるのかも。難しいかもしれないけど、肩の力は抜いて、腕だけ上げる意識をしてみて」
「腕だけ……。こう、ですか?」
フィガロの助言を頭の中で細かくかみ砕いて、少しずつ体に落とし込んでいく。確かにこの方が余計な力が入っていない気がする。
「うん、ばっちりだね。じゃあこの姿勢を保ったまま、軽くステップを踏んでみようか。いつも練習の時はどんな感じなの?」
「えっと、実際の曲に合わせることが多いんですが、その前に基本的なステップを組み合わせたものを準備運動に何度か繰り返すんです」
これはヒースクリフが考えてくれたものだ。晶から組み合わせの簡単な説明を聞いたフィガロは、なるほどねと呟いた後、靴先で床を叩きゆったりと拍を取る。囁くようなカウントに合わせて、晶は体を動かした。
「顔は上げて。足なんていくら踏んでもいいから」
「はい!」
「背筋は伸ばして。頭の先から糸でひっぱられてるみたいに――そう、上手だ」
すぐ上から降ってくる指摘に応えながら、足元は常に動かし続ける。それだけでいっぱいいっぱいなのに、密着する体をどうしても意識してしまう。
(ち、近い……)
緊張とはまた違う感覚だ。ふわふわ、そわそわしてしまう。
他の魔法使いと練習をする時と何も変わらないのに、フィガロが相手になった途端そうなってしまう理由まで考える余裕は、今の晶にはない。
「よし、もう少し早くしてみようか」
「えっ⁉」
晶が驚いたと同時に、フィガロのリードが変わったことを体で感じた。
フィガロは、他の魔法使いたちに全く引けを取らない腕前のようだ。体感では、ラスティカと踊っている時に一番近い。流れが早くなっても、晶の体はそれを自然と受け入れて、進むべき方向へ自然と足が向かう。フィガロがうまくリードしてくれている証拠だ。
「ほら、できるでしょ?」
「これ、できているんですか?」
「できてるって。自信を持って」
慣れない速さに何とかついていこうと必死な状態でなんとか答えると、フィガロがくすくすとおかしそうに笑った。その音につい顔を上げ、表情を見れば、胸の奥がきゅっと疼く。
ほんの一瞬、ダンスから意識が離れたことで、次の動きが分からなくなった。焦って適当に踏み出した右足の裏に感じた感触は、固い床ではなく誰かの――フィガロの足の甲で。
「わ、すみません!」
ぱっと体を離して頭を下げれば、フィガロはさして痛みも感じてなさそうな顔でからりと笑った。
「大丈夫。さ、もう一回やってみよう」
「はい、お願いします!」
くよくよしても仕方がない。フィガロの励ましに大きく頷く晶だったが……。
「できました!」
「兄様、見せてください!」
晶が休憩を兼ねてサクリフィキウムと戯れていると、部屋の隅で黙々とスケッチブックに向かっていたルチルが立ち上がった。遅れて練習部屋に来ていたミチルが、兄の隣でわくわくと目を輝かせている。
晶も二人の傍に寄れば、ルチルがスケッチブックをくるりとひっくり返して完成した絵を見せてくれた。
「これが……賢者様とフィガロ先生が踊ってるところ、ですか?」
訊ねる声は訝しげに語尾が持ち上がっていた。晶も同意する意味で頷く。
ルチルの描く絵はいつもとても独創的かつ前衛的だ。しかしそれを考慮しても、どこをどう見ても絵には一人しか描かれていない。
二人からの疑問に、ルチルはふるふると首を横に振った。
「これは、フィガロ先生が息切れしてしゃがみ込んでるところ!」
作者のはきはきとした答えに、晶は苦笑いを浮かべ、ミチルは「もう……」と呆れたように呟く。
「フィガロ先生のことだから、格好つけて無茶したんですよ。いつも腰が痛いとか言ってるのに」
「賢者様とフィガロ先生の絵も描いたよ。ほら」
ひとつ前のページに遡ると、ルチルの言う通りなにやら二つの塊が寄り添っている絵が描かれていた。色とシルエットが確かに晶とフィガロである。
他の絵も見せてくださいとミチルがルチルのスケッチブックを覗きこむ横で、晶は最後に見たフィガロの姿を思い起こしていた。
「でも、ちょっと心配です 歩き方もぎこちなかったですし」
晶の練習相手を申し出てくれたフィガロはというと、お昼を待たず自室へ引き上げていてしまった。どうやら久しぶりに踊って足腰にきたらしい。ミチルが明日の授業の予習復習を終え練習部屋に顔を出したのはそのあとだった。
『久しぶりに踊ったらちょっと疲れちゃった。お昼になるまで部屋で休んでるね』
そう言って立ち去るフィガロの足取りは重く、腰に手まで当てていた。明日以降に響かなければいいけれど。
(追い打ちかけるみたいに足を踏んじゃったし、転びかけたところを助けてもらったりもしたし……。お昼ご飯、フィガロの部屋まで届けよう)
とりあえず今日一日は安静にしてもらいたい。
「ボク、最近よく効く湿布薬の調合を見つけたんです。あとでフィガロ先生にも作ってあげようっと。――賢者様は大丈夫ですか? もしだったら、一緒に調合しますけど」
「私は大丈夫です。練習を続けていたら、体が慣れてきたみたいで」
多少の疲れは感じつつも、まだまだ踊れそうなくらいには元気が残っている。体に痛みや重さも特に感じていない。これだけ足が絡まって転んでいるのに怪我をせずに済んでいるのは、いっそ特技の一つと考えるのはどうだろうか。
「私はこのままここで絵を描こうと思いますが、賢者様はどうされますか?」
「まだお昼まで時間がありますよね。どうしようかな」
「ボクはもう少ししたら、ネロさんのお手伝いに――」
「失礼します、賢者様」
ミチルの言葉の途中で練習部屋のドアが叩かれて、静かに入ってきたのはレノックスだった。その手には、透明な液体が入った小さなガラスのポットがある。
「レノックス。どうかしましたか?」
「フィガロ先生からこれを持っていくように頼まれました。先ほど、腰を労わりながら歩いているところに居合わせて」
そうだったんですか、と相槌を打ちながら、晶の視線はレノックスの持つポットに吸い寄せられる。先に反応したのはルチルとミチルだ。
「わあ! これ、フィガロ先生特製のジュースですよね」
「私、大好きなんです」
「二人にも分けてあげてと、フィガロ先生が」
レノックスがわずかに口の端を持ち上げて言うと、兄弟はさらに嬉しそうに声を上げた。
「疲れた時や体調を崩している時に飲むものなんです。この輪切りになっている実に、疲労や免疫力を回復させる効果があるんですよ。標高の高い一部の地域にしか生息していなくて――」
ポットを受け取ったミチルが、晶の目の高さまで掲げて中を見せてくれた。レモンやオレンジに似た淡い黄色の輪切りがぷかぷか浮かんでいる。
「説明はそれくらいして、先に飲んでみてもらえばいいんじゃないか?」
「あっ、そうですよね! 兄様、カップを出してください」
このまま話し続けそうなミチルを、レノックスがやんわりと止めた。ルチルが戸棚から四人分のカップを取り出して、部屋の隅に寄せられているテーブルの上に並べ始める。
「ルチル、俺の分は――」
「これ、四人で飲んでちょうどぴったりの量に見えませんか? レノさんの分も、フィガロ先生はちゃんと用意してくれているんですよ」
ジュースで満たされたカップをルチルから受け取り、ちょっと行儀が悪いと思いつつ立ったまま口をつけた。柑橘類のほのかな酸味と喉に膜を張るような重たい甘みに思わず目を瞠る。
「おいしい!」
「そうなんです! 風邪を引いた時、フィガロ先生によく作ってもらいましたよね。兄様」
「元気な時には飲ませてもらえないから、疲れたふりをして作ってもらおうとして、先生には全部お見通しだったこともあったね。ふふ、懐かしい」
「二人にとっては思い出の味なんだな」
幼い兄弟とフィガロのやり取りが目に浮かぶようで、晶は自然と微笑んでいた。
肩の上に乗っているサクリフィキウムはフィガロ特製のジュースに興味があるのか、首をぐいと伸ばしカップをすんすんと嗅いでいる。猫に柑橘系とはちみつは大丈夫だったっけ?などとぼんやり考えていたら、隣に立っていたレノックスがこちらに顔を向けてきた。
「賢者様、練習の調子はいかがですか?」
「調子、はちょっと怪しいかもしれないです」
苦笑いで答えながら最後の一口を飲み切ったところで、ミチルとルチルからそれぞれ激励を受けた。
「大丈夫ですよ、賢者様はこんなに頑張っていらっしゃるんですから」
「きっと踊れるようになりますよ!」
「ありがとうございます。そうなるように、もっと頑張ります」
飲み終わったカップを置き、両手でこぶしを作ってみせれば、ルチルがふいに目元を和らげて「賢者様」と呼びかけてくる。
「もっと、踊ることを楽しんでみたらいいんじゃないでしょうか」
「踊ることを?」
一度も思い至らなかった発想に、彼の言葉の一部を反芻すると、ルチルは穏やかな微笑みを浮かべて深く頷いた。
「今は、賢者としてしっかりやらなきゃ、偉い人たちの前で失敗しないように、っていう気持ちを強く感じるんです。それもとっても大切なことなんでしょうけど、折角の舞踏会なんですから、踊ることだって楽しまなきゃ」
「ルチルの言うことも一理あるな」
「お城で舞踏会なんて、お伽噺みたいですね」
「そうそう! お伽噺の中のお姫様になった気分で踊ってみる、なんてどうでしょう」
「わ、私がお姫様、ですか⁉」
突拍子もない提案につい声が裏返った。
(でも、一理あるのかも?)
舞踏会に参加することになった背景や、きちんとしなきゃという責任感に急き立てられていたことは確かだ。純粋に舞踏会を楽しむ気持ちなんて、これっぽっちもなかった。
けれど、肩ひじを張ってまるで戦いに行くかのような心持ちで参加するのではなく、気楽に楽しんだ方が、かえってうまくいくのかもしれない。
(でも、お姫様。私がお姫様、かあ)
頭の中で何度か繰り返す単語は、あまりに縁がなかったものだから、いまいちしっくりこない。
「憧れの王子様と舞踏会で踊るお姫様。お伽噺のハッピーエンドみたいで、とってもロマンチックだと思いませんか?」
しかしルチルとしてはとても的確な表現だったようで、まるで自分が舞踏会に参加するみたいに目を輝かせている。
「……あ」
顎に手を当て考え事をしながら聞いていたらしいレノックスが短く呟いた。晶たちの視線が自然と彼に集まると、「すみません」と小さく謝りつつも、レノックスが会話の主導権を引き継ぐ。
「ルチルの話で例えるなら、賢者様の『王子様』は決まっているんですか?」
レノックスの問いかけに、練習部屋が一瞬しん、と静まった。晶はしばらくその静寂を聞いてから、「そういえば……」と呟く。
「私が舞踏会へ参加することが決まって、パートナーを誰が務めるのかを今まさに話し合っているとアーサーから聞いたのが、確か一週間前くらい――」
そこから音沙汰はない。昨日顔を合わせた時も、その話題については特に触れられなかった。自分のダンスに精一杯でそんなことすっかり忘れていた晶も、自ら訊ねることをしなかった。
つまり、晶のパートナーは未だ決まっていないのである。少なくとも晶は何も聞かされていない。
「私、誰と舞踏会に行くんでしょう……?」
誰に宛てたわけでもない問いかけは、再び訪れた静寂にすっと溶けて消えていく。
(どうして今まで気にしていなかったんだろう。すごく重要なことなのに)
晶が舞踏会で踊るのは一番初めのワルツだけだ。しかし踊るだけが舞踏会ではない。ワルツのあとは、社交という名の腹の探り合いが晶を待っている。
西の国で政治的なあれこれに巻き込まれた今なら、それがいかに奥が深く難しいものなのかを晶はよく分かっていた。そして自分一人では到底うまく立ち回れないことも痛感している。
だからパートナーには、まずダンス初心者をリードしてワルツを踊り、そのあとは社交に不慣れな晶を助けられる人物であることが望ましい。いや、必須条件だろう。
その相手が今からでも分かっていれば、少しは安心してダンスの練習に励めるかもしれないのだが、今のところ情報は皆無だ。
(アーサーがちゃんとした人を選んでくれるとは思うけど……)
ダンスだけではなくパートナーのことまで気がかりになってきた。
二つの不安が頭の中をぐるぐる回り始めたところで、それを察したように大きな手のひらが晶の肩をぽんと優しく叩いた。
「急に決まった話のようでしたから。調整に時間がかかっているのかもしれませんね」
「賢者様のパートナーになりたい方がたくさんいて、誰がやるかの話し合いをしているのかも」
レノックスが、そしてそれに続いたルチルが、晶の不安を汲み取って励ましてくれる。
「きっと、素敵な舞踏会になりますよ! ボクも見てみたいです!」
「みなさん、ありがとうございます。とりあえずは今できることを頑張ることにします」
「そろそろ昼食の時間だな。食堂に移動しようか」
レノックスがうまく話題を切り替えてくれて、連れたって練習部屋を出る。今日のお昼は何だろうと、ルチルとミチルが話す声を聞きながら、晶はぼんやりと考えた。
(私の『王子様』、一体誰なんだろう)
二章
「私のパートナーが誰になるのかって、知っていたりしませんか……?」
ラスティカとの練習を終え、魔法舎にいる面々と談話室でお茶を飲んでいたところで、晶はおずおずと切り出した。部屋に集まっているのは、ムルをのぞいた西の魔法使いとヒースクリフ、シノ、リケである。
晶の突然の問いかけに、みなそれぞれ不思議そうな顔をした。確かにこれだけでは要領を得ないだろう。
「舞踏会に参加する時の私のパートナーのことです。アーサーからは、誰にするか話し合っている最中と聞いたままになっていて」
「アーサー様とはここ数日、全然お話しできていません。なかなかご飯も一緒に食べられなくて」
リケが寂しそうに肩を落とす。
舞踏会の準備に追われて、アーサーはいつにも増して忙しそうだ。先日会議がなくなったからとひょっこり顔をのぞかせてから、晶も会えていない。
だからこうして他の誰かが、何かしら情報を持っていないかと淡い期待を抱き、問いかけてみたのだった。
「やっぱり、みなさんも聞いていないですよね。……今度アーサーに会った時、私から聞いてみるので大丈夫です!」
半ば分かりきっていたことだから落胆は少ない。努めて明るい声を出し、晶はここで話題を終わらせようとした。そこで一人掛けのソファでくつろぐシャイロックが、ふうとパイプの煙を吐き出したことで、自然と全員の視線がそちらに集まる。
「アーサー様の判断にお任せしますが、パートナーは私たち賢者の魔法使いのどなたかに務めていただきたいものですね」
「賢者の魔法使いに? なにか理由があるんですか?」
理由が思い至らず素直に訊ねれば、シャイロックは長い足をゆったりと組みかえ、その上で頬杖をつき極上の微笑みを浮かべた。
「私たちの賢者様を、どこの誰とも知らない方にお任せするのは、少し妬いてしまいそうですから」
「ご、ご冗談を」
「いや、俺もシャイロックに賛成だ。賢者のパートナーは、ヒースがいいだろ」
「シ、シノ⁉」
突然話題にあげられたヒースクリフが、びっくりした時の猫みたいに体を大きくと震わせた。晶の膝の上に甲箱座りしていたサクリフィキウムが、その声に耳をぴくりと動かす。
「ヒースも舞踏会に参加するし、賢者の魔法使いだ。ヒースになら賢者を任せられるだろ」
ダンスの練習相手だってやってるんだし、とシノは一切疑いない眼差しで自分の隣に座る主人を親指で示した。
しかし当のヒースクリフはというと、どこか居心地の悪そうな、複雑そうな表情を浮かべている。彼はカップに口をつけてから空だったことに気付たようで、恥ずかしそうにソーサーごとカップをテーブルに置いてから形のいい唇を開いた。
「俺は、だめじゃないかな。あっ、いえ、賢者様のパートナーを務めることが嫌なわけではありません! ただ――」
「なんだ、はっきり言えよ」
「賢者様は主催国――中央の国側の人間として舞踏会に出席するんだよ」
若い魔法使いたちは小首をかしげるが、シャイロックとラスティカは特に驚いた様子もなくヒースクリフの話を聞いている。もしかしたら、すでに誰かから話を聞いているのかもしれない。
(私も最初聞かされた時は、どういうことなのかさっぱりだったな)
アーサーとドラモンドから丁寧に説明された時を思い出す。案の定、説明を求めたシノはヒースクリフの答えにむすっと顔を顰めた。
「つまり、どういうことなんだ?」
「私が説明しましょう。――魔法舎は中央の国にあり、中央の国が管理している組織というのが国内外での共通の認識です。それはみなさんもご存じですね」
シャイロックの言葉に、若い魔法使いたちが表情を硬くしてこくりと頷く。危うく西の国に留まることになりかねなかった一連の出来事はまだ記憶に新しい。
「しかし、その魔法舎を取り仕切る賢者様と賢者の魔法使いが、西の国の戴冠式や式典に出席した。しかも、西の国が魔法舎を作り、こちらへ移住しないかと勧誘したなんて噂まで流れている始末です」
「詳しい事情を知らない貴族や役人たちは、魔法舎が中央の国の管理下から外れて西の国へ移る可能性があるんじゃないかって疑ってるんだ」
「――で、ヒースがパートナーになれない話とどう繋がるんだ?」
曇りない視線を向けられたヒースが、呆れたように肩を落とした。シャイロックは「政治的な話は、まだシノには早かったようですね」と穏やかに笑っている。
「魔法舎は変わらず中央の国にある。それを示すために、中央の国の人間として賢者様は舞踏会に参加するんだ。そのパートナーが『東の国のブランシェット家の人間』だったら、他の貴族たちにはどう捉えられると思う? シノ」
「……中央の国とブランシェット家が――東の国が、魔法舎に関して何か手を結ぼうとしている?」
「そう、魔法舎の在り方は変わらないと示さなければいけないのに、余計な勘繰りをされてしまうんだ。俺がパートナーになれないのは、大体そういう理由だよ」
ようやく理解したらしいシノが、不服そうに「面倒くさい」と小さく吐き捨てる。シャイロックとヒースクリフがすらすらと述べた説明とほぼ同じことをアーサーたちから聞かされた晶も、貴族や国家間の関係というのは複雑でややこしいんだなと思ったものだ。
「一つ聞いてもいいでしょうか」
それまで静かに話を聞いていたリケが、ぴっと右手を挙げた。
「なぜそこまで難しい事情があるのに、賢者様が舞踏会に参加されるのですか? アーサー様が舞踏会に参加してほしいと賢者様にお願いしたと聞いていますが……」
純粋でまっすぐなリケの瞳は、シャイロックとヒースクリフ、そして晶へと順に向けられた。そこまでの事情は知らない二人からの視線に、晶は自分が説明するという意味で小さく頷く。
「私たちがリリアーナ姫の戴冠式や西の国の式典に出席したことで、今後魔法舎が政治に関わってくるのではないかと思われているみたいなんです。それで、賢者がどんな人物なのかぜひ会ってみたいと、魔法管理省に書状がたくさん届いたそうで……」
中央の国に所在しているものの、魔法舎に集まる賢者と賢者の魔法使いの役目はあくまで大いなる厄災を退け世界を守ること。そして今は、例年よりも接近した厄災の影響により起こる怪異へ対処することだ。政治的に重要視される存在ではあるが、政治に直接関ってくることはなかった。
その賢者と賢者の魔法使いが、西の国の王位継承の場に立ち会った。この事実を、今後は魔法舎が政治に関わってくるのだと見た貴族たちは少なくないのだという。
特に魔法使いを束ねる立場にある賢者が政治へ関心を持っているのか、魔法使い達をきちんと管理できているのか、そもそもどんな人物なのか。知りたがっている人物は国内外のあちこちにいるらしい。
「全員に個別で対処するというのは、現実的ではないでしょう。そこでドラモンドとアーサー様は、賢者様を舞踏会に出席させ、魔法舎の在り方や賢者様の人となりを出席者全員に示そうと考えているわけですね」
「あくまで魔法舎はこれまでと変わらず、中央の国の魔法舎を拠点に、大いなる厄災との戦いに備える。政治や外交に口を出すつもりはない。それを示す意図があると、アーサーとドラモンドさんからは説明を受けました」
「……とても難しい話でしたが、やむを得ない事情があるということは分かりました」
リケはぎゅっと眉根を寄せ、渋い顔のまま頷いた。外の世界に出て日が浅いリケにとっては、この手の話はまだ少し早かったかもしれない。
「ねえねえ、それじゃあカインはどうかな。賢者様の練習にも付き合ってるからダンスはばっちりでしょ? 騎士団長だった時にパーティーや舞踏会にも参加したことがあるって言ってたよ」
「確かに、立場上とくに懸念する点はありませんが……」
舞踏会への興味によるものか、クロエが目を輝かせながら次の候補を上げた。それに答えたシャイロックは、途中で言葉を切るとくすくすと吐息で笑う。
「シャイロック、どうかした?」
「いえ、あのやんちゃ坊主さんは、貴族同士のやり取りは少々苦手ではないかと思っただけですよ」
裏表がない性格はカインの美点だが、笑いながら相手の腹を探るような場でそれを生かすことは難しそうだ。魔法舎の独立性を示すため、声をかけられても一定の距離を保たなければならない今回の状況ではなおさらだ。
「あと賢者の練習相手になってるやつは――」
他の候補を考えたシノの呟きに、誰もがある一人に視線を送る。
「僕を選んでいただけるなんて、光栄です。賢者様のエスコートなら僕にお任せください」
ふわりと花が咲くように微笑んだラスティカ。目が合って晶も笑い返すけれど、口の端がどうにも引きつっているのを感じる。
なんとなく、他の魔法使いたちも同じことを考えている気がした。
(気付いたら私を置いてどこかに行っちゃうとか、ありそうだなあ)
ダンスについては申し分ないが、踊ったあとが大層心配である。一人ぼっちで貴族たちのど真ん中に取り残されたらと思うと、想像しただけで胃がきりきりしそうだ。
「あのさ、もし賢者様のパートナーが俺たちの中から選ばれたら、俺が衣装を作りたいな! 賢者様のドレスに合うようなデザインで――。あっ、賢者様のドレスは今こんなデザインを考えてるんだけど、色に迷ってるんだ」
微妙な空気になった部屋を明るくしようとするように、クロエが話題を変えた。取り出したスケッチを晶に見せてくれる。
色はついていないが、描かれたドレスは薄く軽い布を幾重にも重ねられた、柔らかそうなものであることが不思議と伝わってきた。肘の下で袖が広がる形や、首元がレースで覆われているあたりに、肌の露出を避けたいという晶の要望が取り入れられている。
「賢者様の髪や瞳の色なら、暖かい色が似合うと思うよ」
「そう! でも選び方さえ間違わなければ、こういうのも合うと思うんだよね」
ラスティカの意見にはきはきと同意しながら、クロエは魔法で布の見本を取り出した。手のひら大の布が分厚く束になった中から彼が選んだのは、大樹の葉を思わせる深い緑色。
「これ、僕の瞳と同じ色です!」
「もう少し明るい色でもいいんじゃないでしょうか」
クロエの手の中の色見本に、リケやシャイロックが反応する。晶はというと、自分のドレスのことではあるが、あれだけの数の色の中から選ぶ自信がなく、輪の外から見守っている状態だ。
「あ、ねえねえ、こんな風に二色を合わせるのもよさそうじゃない?」
「さすがクロエだね。僕はとってもいいと思うよ」
「でしたら、この色とこの色はどうでしょう」
「僕にも考えさせてください!」
西の三人とリケは色見本にすっかり夢中だ。そこで出た意見をクロエが律儀に書き留めている。
「えっと、何の話をしていたんだっけ?」
「忘れた」
ヒースクリフとシノがこそこそと小声でやり取りするのが聞こえて、晶は苦笑いを浮かべるのだった。
✧
晶の不安を感じ取ったかのように、翌日のダンスの練習相手はアーサーだった。
忙しい彼を心配し休息を勧めたのだが、諸々に一段落がつき今夜はしっかりと睡眠時間が取れそうだからと言われれば、それ以上食い下がることはできなかった。
自分のパートナーについて、何か決まったことはあるのか。その疑問をすぐに口にしたい気持ちはあったけれど、多忙の中時間を割いてもらっていると思えば、まずは練習に集中するべきだと自分を律した。そして、
「では、少し休憩にしましょうか」
「はい。……あの」
「随分と上達されていて驚きました。賢者様の努力がうかがえるようです」
「みんなが練習に付き合ってくれたおかげですよ」
パートナーの足を踏まないこと。引っ張らないこと。転ばないこと。
とにかくそればかりを考えていたが、昨日のラスティカとの練習あたりから、ようやくそれよりも先のことを考える余裕が出てきたのである。
「でも、アーサー達のように踊ることはまだまだ難しそうです」
顔を上げ、指先や足さばきなど細かな所作に意識が向くようになって、自分の未熟さを痛感した。ステップを誤らず、足を踏むことも少なくなったけれど、そこに優雅さや品というものは感じられない。ただワルツの動きをなぞっているだけなのだ。
「舞踏会まではまだ日がありますから。あまり気負わず、踊ることを楽しんでみてください」
「この前、ルチルにも同じような助言をもらいました。お姫様になって、王子様と踊っている気分で、と」
楽しむなんてまだまだ先だろう、というのが率直な感想である。
まして『お姫様みたいに』なんて、まずはお姫様のように踊れるようにならなければ話にならない。
「では、それを最終目標にされてみてはいかがでしょう」
「それは、なかなか高い目標ですね」
舞踏会まであと十日もない。なんとか正しいステップに辿り着いたばかりの晶には、無謀な目標だと思えてしまう。
つい顔を顰めると、アーサーがおかしそうに笑った。
「賢者様には今回大変な役目をお願いしてしまいましたから、どうしても身構えてしまうでしょう。ですが、慣れれば舞踏会も楽しいものですよ」
きらびやかなシャンデリア。着飾って踊るダンス。宝石のように輝く極上の料理たち。
オズの城からグランヴェル城へ戻り、初めて参加した舞踏会では驚きと感動の連続だったとアーサーは懐かしそうに語った。
「……舞踏会を楽しむのを目標にしてみようかな」
「とてもいい目標だと思います。――さあ、紅茶を淹れましょう。賢者様は座っていてください」
アーサーはそう言って魔法でお茶と焼き菓子をテーブルに出現させた。
休憩が必要なのはアーサーの方だと、その役目を代わりカップに紅茶を注ぎながら、晶は思う。
(舞踏会を楽しめるかどうかにも、私のパートナーが誰になるのかって、やっぱり大きく関わってくるよね)
前向きかつ現実的な目標を立ててみたが、結局そこにも深く関わる人物の話をまだ持ち出せていない。
先ほどは上手く切り出せなかったが、今ならちょうどいいだろう。
二人分の紅茶を淹れて自分も席に着くと、晶はようやくずっと気にかかっていたことをアーサーに訊ねた。
「あの、アーサー」
「はい、なんでしょうか」
「私のパートナーの話って、何か進捗はありましたか?」
もしかしたらまだ決まっていないのかもしれないと思い、『パートナーは誰か』とは聞かなかった。
問われたアーサーは、数度目を瞬かせてから「あっ!」と思い出したように短く声を上げる。
「申し訳ございません。調整しているとお伝えしてから、何もお話しできていませんでした」
「いえ、アーサーはずっと忙しそうでしたから! 何か決まったのかなとちょっと気になっていただけで」
心の底から申し訳なさそうにしゅんと肩を落とされると、こちらの方が申し訳なくなってしまう。
「賢者様が参加されることが正式に決まる前から、パートナーについてはいろいろと意見が出ていまして、なかなか結論が出ず……」
「色々と、複雑ですからね」
「賢者様のエスコートは私が、と思っていたのですが、ドラモンドたちからそれは他に良い相手が見つからなかった時の最終手段にした方がいい、と」
「アーサーが最終手段、ですか」
「はい。舞踏会には西の国の貴族たちも多く参加します。ただでさえ西の国へ移ることを辞して帰ってきたのだから、その上で舞踏会のパートナーまで私が務めるとなると、西の国を挑発することになるのではと危惧しているのです」
ようやく晶にもアーサーの言うことが分かった。なんて面倒なんだ、という感想は心の中だけに留めておく。
魔法舎は変わらず中央の国にあると示しながらも、必要以上に中央の国との密接な関係を匂わせれば、魔法舎奪取に失敗した西の国を煽ることになる。聞くところによると西の国はまだ魔法舎のことを諦めていないらしく、下手な挑発でその動きが活発になっても困るとドラモンドたちも考えているのだろう。
(舞踏会に参加するのって、私が思ってるよりもずっと重要なことなんだな)
なおさらみっともない姿は見せられない。特に最初のワルツで失敗しようものなら、第一印象は最悪だ。
「昨日、シャイロックやヒースともその話になりました。シノが、パートナーはヒースがいいんじゃないかと言っていたんですが、ヒースは今回それは避けるべきだと首を振っていました」
「ヒースになら賢者様を安心してお任せできるのですが、私と同様、パートナーを務めるだけで色々と勘繰られてしまいますからね」
いつも笑顔を絶やさないアーサーが、珍しく苦笑いを浮かべた。どうやらかなり難しい問題のようだ。
アーサーもヒースクリフも、賢者の魔法使いである。しかし舞踏会の場においては、まず中央の国の王子や東の国の大貴族の息子として見られるのだ。たとえ本人たちがどう思っていようとも。
(シャイロックが賢者の魔法使いをパートナーにって言ったのは、こういう事情も全部分かっていたからなんだろうな)
冗談めかして言ってはいたけれど、全ての事情を考慮すれば、賢者の魔法使いの中から晶のパートナーを出すことが最も穏便に済むと分かる。
そして晶はあの話を終えたあと、話題には上がっていなかったが、パートナーを務めるのに相応しい魔法使いがもう一人いたことに気付いていた。そのもう一人が晶のダンスの練習に付き合ってくれたことを知る魔法使いはあの場にいなかったから、誰も名前を上げることはなかったけれど。
(……さすがにそれは、私に都合が良すぎるな)
ほんの小さな『こうだったらいいのに』は、胸の奥に押し込める。アーサーが忙しい中たくさん考えて、偉い人たちとたくさん話をしてくれたことを分かっているから、晶から「この人がいいんですけど」なんて口を出そうとは思わなかった。
「しかし、パートナーが――いえ、『王子様』が決まらないままでは、賢者様も落ち着かないでしょう」
ルチルの表現を真似て、アーサーが悪戯っぽい目をしてこちらを見つめてくる。
「ご安心ください。実はもう目星はついております。昨日話し合いに決着がつきましたから、あとは私がその者に打診をするだけです」
「そうだったんですか! 良かった……」
まだ調整中のままである可能性も十分に考えていた晶は、アーサーの返事にほっと胸を撫でおろす。
「賢者様もよく知っている方ですので、ご安心ください」
「もしかして、賢者の魔法使いの誰かですか……?」
晶がこの世界でよく知っているといったら、賢者の魔法使い以外ない。
(アーサーが目星をつけているのって、まさか――)
晶がひそかに頭に思い浮かべていた、あの魔法使いのことだったりはしないだろうか。
軽く身を乗り出して訊ねる晶に、アーサーは唇を人差し指にあてて片目を瞑る。どことなく晶が頭に思い浮かべている『彼』を思わせる仕草だった。
「まだ秘密です。賢者様は私を信じて、練習に集中していただいて大丈夫ですから」
「……分かりました。引き続きよろしくお願いします」
小さな期待が胸の中で膨らむ。まさか、もしかしたら、と都合のいい想像が頭をよぎった。
けれど高揚しそうになる気持ちをぐっとおさえて、晶はアーサーにぺこりと頭を下げた。
✧
なるべく舞踏会の準備に集中できるようにと、晶と晶の練習相手になる魔法使いは任務が少なくなるよう調整されていた。特に晶に対しては、大役を担うことへの精神的配慮もあったのだろう。
しかしさすがに全てを任せきりというのは忍びない。賢者の本来の役目は、賢者の魔法使いを導き大いなる厄災に立ち向かうことなのだ。魔法舎に引きこもり不格好なダンスを踊っていることではない。
というようなことをスノウとホワイトに相談したところ、比較的近場で長期化する可能性の低い任務へ同行することが決まった。
中央と西の国境付近の宿場町。『夜な夜な怪しげな人影が一軒一軒宿の前を見て回り、非常に不気味であるため調査してほしい』という依頼が町長から届いたのは三日前。数名の魔法使いたちと共に調査へ向かい、その日のうちに原因を突き止めたのだが、事件の解決を大いに喜んだ町長の好意で宿場町に一晩泊まることになったのだ。
「夕ご飯、おいしかったな。お腹いっぱい……」
西の国との交易の拠点でもあるこの宿場町は活気があり潤っているようで、町長の屋敷で振る舞われた夕食はとても豪華だった。
膨れたお腹を撫でながら晶がやって来たのは、今日の宿として用意された屋敷の離れ、その突きあたりにある小広間である。ドアがある壁以外の三面がガラス張りで、煌々と月光が差し込んでとても明るかった。
「明かりをつけるように言われたけど、今日は月が明るいからいらなそうだね」
いつものように肩に話しかけて、サクリフィキウムは魔法舎に残してきたのだと思い出す。スノウとホワイトがメンテナンスのために預かってくれているのだ。今日の任務に参加している魔法使いや依頼の内容から、サクリフィキウムがおらずとも危険はないと判断されたのである。
「……よし、始めよう」
晶が小広間に来たのは、腹ごなしがてらダンスの練習をするためだった。
視線を下げず、常に胸を張って、本心はどうであれ見た目だけは自信があるように精一杯装う。さすがにもう足が絡まって転ぶようなことはない。
(指や足の先まで意識を集中させて、目線にも気を付けて)
窓のガラスには晶が一人で踊る様がうっすらと映っている。それを横目に黙々と練習していたら、月光が一瞬翳った。あれ、と思ったところで箒に乗った人影が窓の外の小さな庭に降り立つ。
「……フィガロ、どこかに出かけていたんですか」
庭に出て声をかけると、箒をしまったフィガロがこちらを振り返った。
「町の様子を見てきたんだ、一応ね」
「そうだったんですか。お疲れ様です」
「異変はすっかり治まっているし、おかしなものが寄ってこないよう祝福の魔法もかけてきた。もう心配いらないよ」
今回の異変の原因は、簡潔にいれば彷徨っていた死者の魂によるものだった。人知れず生涯を終えたその魂の主を正しく埋葬し浄化の儀式も行い、万事解決と思っていたが、フィガロが最後の仕事を人知れずやってきてくれたようだ。
「声をかけてくれたらよかったのに。……ありがとうございます、一人でやってもらって」
「俺一人で事足りると思ったから、誰にも声をかけなかっただけだよ。それで、賢者様はここで何してたの?」
上体を軽く横に倒してフィガロが晶の背後を――小広間の中を覗き込む。晶はフィガロを中に招き入れながら「ちょっと個人練習を」と答えた。
「なんだ、それこそ俺に声をかけてくれたらよかったのに」
「ご飯を食べ終わって突然思いついたので。それに、一日任務で動きっぱなしだったフィガロに、個人的な練習に付き合ってもらうのは申し訳ないですよ」
「それはきみだって同じでしょ?」
晶の横を通り小広間の中心まで進み出たフィガロが、くるりと体を反転させた。
「お手をどうぞ、賢者様」
すっと差し出された左手と含みのある微笑みに、思わず「ふふっ」と笑ってしまう。
「あまり無理はしないで下さいね、フィガロ」
「それについては、あまり触れないでほしいなあ」
眉尻を下げてちょっと恥ずかしそうに笑うフィガロの左手に、晶は右の指先をそっと添えた。
合図もなにもないまま、滑るように踊り出す。今日は音楽も流れていないのに、不思議とフィガロと息が合った。
「賢者様、随分上達したね」
「そうでしょうか? でも、足を踏んだり転んだりすることはほとんどなくなりました」
「毎日の練習の賜物だよ。この調子なら、こんなのを取り入れてもいいかもね」
「えっ? ――わあ!」
ターンの勢いのまま、フィガロが組んだ手を高く持ち上げた。勢いを殺しきれず、晶はその場でくるりと一回転。再び正面から向き合ったところでフィガロの手が晶の背中を支えて、ぴたりと体が止まった。
「こんなのなんかどう? 結構見栄えがすると思わない?」
驚きのあまりぽかんとフィガロを見上げて、晶が口にした言葉といえば――。
「び、びっくりした……」
「あはは、ごめんごめん」
心底おかしそうに笑うフィガロに、心臓がとくとくと騒ぎ出す。
不思議なひとだと、晶は目の前の魔法使いを見上げて思った。
笑えない冗談を言ったり、冷酷な決断を下したり、思慮深く穏やかな年長者の一面を見せたり。かと思えば時折今みたいな飾らない表情が垣間見える。
どれが本当のフィガロなのか。戸惑いを覚えたこともあったけれど、今は違う。
それらは全部フィガロなのだ。時折見せる底知れぬ孤独も、心の奥に隠した傷も。
傍にいたいと思った。このひとを一人にしたくないと、心から願うようになった。
脳裏にまだはっきりと残る、優しくしてあげられなくてごめんと泣きそうな顔で謝るフィガロ。もうあんな顔をさせないように、彼ばかりに背負わせてしまわないようにという決意は、賢者としてだけではなく、晶としての感情でもある。
(私はやっぱり、フィガロのことが――)
目を背け続けたものが心にすうっと溶けこんで、広がっていく。
どうして認めまいとしてきたのかと思うくらいに、その想いはすんなりと馴染んで、受け入れることができた。
「もう少し踊ろうか」
「はい」
もう一度頭からワルツを踊りながら、フィガロは朗らかに話しかけてくる。
「そういえば、聞いたよ。パートナーの話」
「そうなんです。今アーサーが打診してくれているところらしくて」
進捗が分かった今、以前のような不安はない。早めに決まってくれればいな、くらいに捉えている。
晶の答えを聞いて、フィガロはなんてことないように言った。「実は、アーサーから声をかけられたんだ」と。
「今日、任務に出る前の俺の部屋を訪ねて来てね。『フィガロ様こそ賢者様のパートナーに相応しいと思うのですが』って。つまりは、きみと一緒に舞踏会に出てほしいって頼まれた」
驚きに言葉を失う。アーサーが目星をつけていた人と、晶が『そうだったらいいのに』と淡く期待していた人が同じだったなんて。
「それで、フィガロはアーサーになんて返事を?」
浮かれそうになる気持ちを必死に宥める。だって、まだフィガロは『アーサーから打診された』としか言っていない。打診を受けたけれど断った、という話かもしれないと身構えようとする。
おそるおそる訊ねたが、フィガロはしごくあっさりと頷いた。
「俺で良ければ喜んでって答えたよ」
「フィガロ、引き受けてくれたんですか⁉」
「もちろん。――そんなに驚かないでよ。俺が断ると思った?」
「……引き受けてくれたら、嬉しいなと思っていました」
正直、フィガロが断る想像はできなかった。けれど信じてもしもぬか喜びだったらと怖くなってしまったのだ。他でもない、フィガロが相手だから。
ちょうど一曲分を踊り終えて、たん、と最後のステップを踏む。
「賢者様は、どうして俺が引き受けてくれたら嬉しいの?」
「え、っと」
まさかそこを突かれるとは思ってもいなくて、晶は答えに詰まった。
(どうして、って……)
ようやく自覚したばかりの、まだ柔らかくふわふわした感情が『理由はここにある』と声を上げる。晶はそれを押さえつけるように、両手を胸に当てた。
「フィガロは人当たりが良くて社交的で、貴族の集まる場でもうまく立ち回れそうだなと思ったんです。ヴィンセントさんが魔法舎へ視察に来た時も、そつなく対応していましたし。南の国で診療所を営んでいる魔法使いというのも親しみやすそうで」
言ったことはどれも本心だ。フィガロはオズの兄弟子で、彼と共に世界征服を進めていた過去があるが、表向きは親切な南の魔法使い。しがらみのない立場かつ晶のパートナーとしてそつなく役目を果たすだけの知識や技術がある。
初めて舞踏会に参加する晶のパートナーとして、フィガロは適任だった。
だから、嬉しい。そういうことにした。
晶の返答に、フィガロはにっこりと笑う。
「光栄だね。確かに俺はコミュニケーションは得意な方だし、各国の情勢も多少は把握してるつもりだ。ダンスもこの通り、賢者様に恥をかかせる心配もない」
でもね、とフィガロは続けた。人当たりのいい笑顔は、何かを愛おしむような穏やかな笑みに変わっていて。
細められた瞳は、まっすぐに晶を映している。
「俺がきみのパートナーを引き受けたのは、俺が適任だと自覚しているからじゃないんだよ」
さっきまで繋いでいたフィガロの左手が、そっと晶の頬を包み込む。
心臓の音がうるさかった。フィガロの声を聞き逃してしまいそうなくらい。
「きみの隣を、誰にも譲りたくないと思ったんだよ」
ばくばくと騒ぐ心臓の鼓動が、その時だけは聞こえなかった。フィガロの声がしっかりと耳に届き、そしてその言葉の意味を理解しようと、思考が忙しなく回り始める。
(私の隣。譲りたくない、って――)
晶の頭は、フィガロの言葉を『賢者の魔法使いとしての発言』として捉えようと必死だった。そう、ちょうど晶のパートナーの話を出した時のシャイロックのように。自分たちの賢者を、どこかの誰かにエスコートさせたくはない、という、信頼の延長としての言葉だと思おうとした。
けれど、晶を見つめる瞳が、頬を包み込む掌の熱が、それは違うと物語っている。フィガロという一人の魔法使いが、真木晶という一人の人間に対し、独占欲とも呼べるような特別な感情を抱いているのだと告げている。
フィガロの手のひらの温度が分からなくなるくらい、顔に熱が集まって熱い。
はくはくと、陸に打ち上げられた魚のように口を動かして硬直する晶に、フィガロがふはっと破顔した。
「賢者様が思ってる通りだよ。そういう風に受け取ってもらって構わない」
フィガロの左手が頬を撫で、頤を捕らえる。親指が晶の唇をそっとなぞったと思えば、フィガロの顔が近付いてきた。
ちゅ、と音を立てて離れていったのは、晶の視線が追いかける、フィガロの薄い唇で。
「俺はそろそろ部屋に戻るよ。おやすみ、賢者様」
フィガロは晶から距離を置き、こつこつと靴音を響かせて小広間を去った。何事もなかったかのような顔で。
「……え?」
一人取り残された晶は、たった今起こった出来事の衝撃に、しばらくその場から動くことができなかった。
三章
(隣を譲りたくない。譲りたく、ない……)
あの夜のフィガロの言葉を、頭の中で反芻する。
どう考えたって『そういう意味』にしか聞こえない。フィガロもそれを肯定していた。
そして触れるだけのキスが、あの言葉の意味をはっきりと伝えてくる。唇の感触を思い出すだけで、顔が熱くなった。
あの夜の翌日、晶たちが魔法舎に戻るのとほぼ同時に、人命に関わる至急の依頼が舞い込んだ。フィガロはその依頼へと出かけていき、そしてそのさらに翌日である今日の朝、昼過ぎには帰れそうだという知らせが届いた。
(返事とかした方がいいのかな? でも、返事が欲しいとは言われてないし)
意味深な言葉を投げ、キスをして、そして早々に立ち去ったのは、晶の返事を望んでいなかったからとも考えられる。
では、これまで通り接するかといえば、答えは否だ。どんな顔をして会えばいいのかだって分かっていないのだから、以前と変わらずなど到底不可能である。
こんな風に悶々と考えているうちに昼食も終わってしまった。きっともうすぐフィガロは帰ってくるだろう。
どうしたものか。どうすればいいか。堂々巡りの考え事に、気遣わしげな声が割り込んできた。
「賢者様?」
はっとして、意識が現実に引き戻される。練習部屋のテーブルで向かいあったヒースクリフが、心配そうに晶の顔を覗きこんでいた。
「体調が優れませんか? さっきから顔が赤いですし……」
「全然、全然大丈夫です! 一生懸命練習したからちょっと暑くて」
手で顔をあおぎ火照っているふりをすると、ヒースクリフは納得してくれたようだった。
「では、飲み物は冷たいものにしましょうか。――≪レプセヴァイヴルプ・スノス≫」
「ヒース、俺にもくれ」
部屋の隅に縮こまり、ファウストから出された課題とにらめっこしていたシノも寄ってくる。彼はヒースクリフがハーブティーを注いでいるのを待つ間、テーブルの横に仁王立ちしてお茶請けのクッキーに手を伸ばした。
「こら、シノ。食べるなら座って――」
「賢者、今日は集中できてないぞ。ヒースの足を四回も踏んでた」
ヒースクリフの声にかぶせるようにして、シノから鋭い指摘が飛んできた。まっすぐに見下ろしてくる真っ赤な瞳に怒りの色はなく、ただ事実だけを口にした、というような表情をしている。
「それについては、本っ当に申し訳なく思っています」
「顔を上げてください、賢者様。俺は大丈夫ですから。……シノ、そんないい方しなくてもいいだろ」
「事実だ。最近は上達して、足を踏まなくなったんじゃなかったのか?」
「誰にだって調子が悪い日や疲れている時くらいあるよ。お前だって、たまに授業中に寝てるじゃないか」
「……飯を食った後は眠くなりやすいんだ」
「昼食前に舟を漕いでたこともあったけど?」
「まあまあ、二人とも。――でも、シノの言う通りです。今日は集中できていませんでした。練習に付き合ってもらっているのに、ごめんなさい」
口喧嘩に発展しそうな二人を宥めつつ、ヒースクリフに謝罪した。疲れているわけでも調子が悪いわけでもなく、一昨日のフィガロとのあれこれにうつつを抜かしていたということが、申し訳なさに拍車をかける。
「俺のことは気になさらないでください。もしお疲れのようなら、今日は早めに練習を切り上げましょう」
「そう、ですね。今日はこれくらいで――」
集中できないまま惰性で練習を続けても意味がない。ヒースにも申し訳ないし、今日はもう終わりにしよう、と言い出そうとしたところで、練習部屋にルチルがやって来た。
「こんにちは。練習の調子はどうですか?」
「今休憩していたところなんだ。ルチルも一緒にどう?」
ヒースクリフがテーブルの上のお茶とお菓子を目で示すと、ルチルは「ぜひ!」と答えて空いていた椅子に座った。
「今日は何してたんだ?」
「これまでの授業の復習をして、部屋のお掃除をしたよ。それが一段落ついたから、また練習風景を絵にさせてもらおうと思って」
ルチルが取り出したスケッチブックを見て、ヒースクリフは恥ずかしそうに頬を掻いた。
「本当は俺よりも、他の人の方が絵になると思うんだけど。アーサー殿下とか」
「そんなことない。ヒースはかっこいいし絵になるだろ」
「うん。ヒースもアーサー様もとっても素敵! ですよね、賢者様」
「はい!」
「二人とも、物語に出てくる王子様みたいでとってもかっこいい」
ルチルの『王子様』から連想されるのは、舞踏会のパートナーもといフィガロ。一瞬忘れていた例の告白まがいのやり取りが思い出されて、晶はそれとなく顔を背けて赤くなった顔を隠した。
「たくさん描かせてもらったけど、みなさん踊り方に個性があって、それを絵にするのが楽しいんだ」
「だが、魔法舎に籠っていたら腕が鈍る。……今日は実践訓練の予定だったんだ」
にこにこと話すルチルとは対照的に、シノはむすっと口を尖らせた。
舞踏会を見据え一部の魔法使いの任務を減らしたが、しかし異変の調査依頼は待ってはくれない。結果、効率に重きを置き熟練の魔法使いが少人数で依頼を片付け、若い魔法使いたちは魔法舎に残ることが多くなっている。
久しぶりの実戦訓練にシノはずいぶんと気合いが入っていたようだったから、突然自習にされて不完全燃焼なのだ
「ファウストさんは今、任務に出ているんだよね?」
「うん。呪いが関係していそうだからって」
「フィガロも同行していたな」
「ファウストとフィガロ、それからレノックスが行ってくれました」
偶然とはいえ、過去に色々あった三人だけで任務に出てもらうことに少しだけ心配はあった。
けれど晶の懸念をよそに、三人は真面目な顔でそろって依頼書をのぞきこむと、てきぱきと打ち合わせをしながら依頼のあった地域へ出かけていった。
「その任務から帰ってきたら、ファウストに新しい魔法を教えてもらう。絶対だ」
「あっ、噂をすれば」
鼻息を荒げてシノが宣言すると、何かに気付いたルチルががたりと音を立てて立ち上がった気配がした。そろそろ顔の色も元に戻っただろうと姿勢を戻すと、ルチルが窓を大きく開けて外に向かって大きく手を振っている。
「フィガロ先生、レノさん、ファウストさん! お帰りなさい!」
窓の外に見えた小さな人影がそれぞれ手を振っている。ルチルが窓辺から離れると、箒に乗った三人が練習部屋に入ってきた。
(ど、どうしよう。どんな顔をして会えばいいのか……)
逡巡ののち、息を殺して空気になることにした。晶抜きでも会話は問題なく続いていく。
「これは……ダンスの練習と、ルチルはまた絵を描きにきたのかな?」
「ええ、そうなんです」
「すまない、練習の邪魔をしたな」
眼鏡をくい、と中指で持ち上げながらファウストが謝ると、ヒースクリフは「休憩中でしたから大丈夫です」とゆるく首を振った。
「それよりも、先生たちが無事でよかったです。呪いが関わる緊急の任務だったと聞きました」
「ファウスト様が呪いの正体をすぐに見破ってくださって、危険はなかった」
「きみたちの先生は優秀な呪い屋だからね」
「……二人のサポートがあったからだ」
褒められて居心地の悪そうなファウストを、ヒースクリフがにこにこしながら見つめている。尊敬する先生が帰ってきて嬉しそうだ。
そして、先生の帰りを待っていた生徒がもう一人。
「ファウスト」
「なんだ、シノ」
ファウストの前に仁王立ちしたシノが、先ほどまで睨めっこしていた宿題を眼鏡の前にずいと突きつける。
「見ろ、ちゃんと全部答えたぞ」
「確かに全て埋まってはいるな。頑張りは認めよう。……だが、補修は必要そうだな」
「なっ⁉」
「だが、それはまた今度だ。休憩の邪魔をして悪かったな。賢者も」
「い、いえ」
突然話題に混ぜられて声が裏返った。
しかしこれでファウストたちが退室すればひとまず安心できる。そう思い、からからに乾いた口を飲みかけのハーブティーで潤していたのだが……。
「ファウストたちも練習、見ていけよ」
「シノ、なんでお前が誘うんだよ」
「ちょうど今、踊ってるヒースがお伽噺の王子みたいにかっこいいって話をしてた」
「アーサー様が、だろ」
「あいつもなかなかだが、ヒースの方が――」
「二人とも、王子様みたいに素敵なんですよ。アーサー様は本物の王子様ですけど」
言い合いになりそうなやり取りに、ルチルの無邪気な声が重なった。
晶はというと、なんとか言い訳をしてこの部屋を出ることはできないかと考えているところである。ただでさえ気まずいのに、そんな中みんなの前で踊るなんて、足を踏むだけではなく派手にすっころぶような失態をしてしまいそうだ。
(これを飲み終わったら、それとなく、用事を思い出した体で……)
カップを傾けていると、ルチルが自身の発言で何かに気付いたように「そうだ!」と手を叩いた。
「賢者様の舞踏会のパートナー、そういえば決まったんですか? 以前お話しした時には、まだアーサー様が調整していると仰ってましたけど」
びっくりしてカップの縁に歯が当たってしまった。視線が集まる気配に、これでは部屋を出て行くことはできなそうだと悟る。
「えっと、その話なんですが――」
「賢者様のパートナーは俺がやることになったよ」
今この場にいるフィガロなのだと自分の口から伝えることを躊躇っていたら、そのフィガロ本人があっさりと打ち明けてしまった。ずっと部屋のあちこちを彷徨わせていた視線を、ようやく魔法使いたちへと向ける。
「あんた、踊れたのか?」
「ああ。賢者様のことは俺に任せてくれていいよ」
シノの疑いの眼差しを正面から受け止めて、フィガロは余裕そうに笑っている。ルチルがその横で「まあ!」と瞳を輝かせた。
「賢者様の『王子様』はフィガロ先生なんですね」
ふふ、と笑うルチルに見つめられ、その言葉を一拍置いてから理解し、胸の奥がくすぐったくなった。落ち着かなくて、結局飲み切れていないハーブティーのカップを両手でもじもじと弄ぶ。
恥ずかしいような、嬉しいような。勝手に持ち上がりそうになる口の端を懸命に下ろしながら、晶はどうにかこくりと頷きを返した。
(フィガロが王子様。私の、王子様……)
お伽噺のお姫様が王子様と踊っているのを想像して、舞踏会を楽しんでみたらいい。
ルチルのアドバイスに基づくのなら、晶はお姫様だし、そうなると確かにフィガロは王子様ということになる。
そういうものに憧れた記憶は子供の頃まで遡ってもあまり覚えがないけれど、この人が好きだと自覚して、その人も同じ気持ちだと分かっている今は、少しだけ想像ができてしまった。
華やかなダンスホール。着飾った男女の輪の中心で踊る、美しいドレスを着た自分と、正装を着こなすフィガロの姿を。
「まあ、賢者の魔法使いの中では、適任と言えば適任か」
「ええ、そうですね」
ファウストが少し複雑そうな声を出し、レノックスがそれに相槌を打っている。
「フィガロが賢者の王子役だとしても、一番王子らしいのはヒースだ」
「だから、なんでお前はそこに拘るんだよ……」
シノが主人を持ち上げ、持ち上げられたヒースが呆れたように呟いている。
それらの声を意識の片隅で聞きながら、晶は夢見心地の気分でようやくフィガロをまっすぐに見た。その瞬間、心に溢れていた高揚感や喜びといったものが、急に凍り付いたような感覚に陥る。
フィガロは遠くを見るような目でこちらをじっと眺めていた。凪いだ湖面のような瞳からは、何の感情も読み取れない。けれどその姿は、どこか寂しそうに見えた。
晶の隣を譲りたくないと言い、晶に口づけてきた時とはあまりにかけ離れた雰囲気に、背中の辺りがざわざわする。
「フィ、ガロ?」
張り付いた喉で何とか声をかけると、フィガロはゆったりと一度瞬いた。いや、晶にとってそれがとてもゆっくりに見えただけなのかもしれない。
瞬きのあとのフィガロは、びっくりするくらいいつも通りの表情をしていた。南の国の魔法使いらしい、人の良さそうな、けれどその内面を知っていればどこか身構えてしまうような笑顔。
「なに? 賢者様」
「……舞踏会のパートナー、よろしくお願いします」
あの夜言えずじまいだった言葉と共にぺこりと頭を下げる。まかせて、という返事は聞こえたけれど、その声もどこか強張っているようにしか聞こえなくて、頭を上げても晶はフィガロの顔を見ることができなかった。
✧
「フィガロ!」
夕暮れに染まる魔法舎の廊下に晶の声が響く。肩にかけた白衣をゆったりと歩いていた人影が足を止め、ゆっくりとこちらを振り返る。
「どうしたの? 賢者様」
晶を映す瞳に翳りが見えるのは、きっとフィガロの顔に影が落ちているからだ。そう思おうとしても、すぐに次の言葉が出てこない。
シノが提案した練習の見学を回避したあと、ファウストから任務の報告を受けている間にフィガロはふらりとどこかへ行ってしまって。それすらも彼らしくないように思えて、とにかく話をしようと魔法舎中を探し回り、ようやく見つけた背中へ声をかけることにも躊躇いがあった。なんだか、胸騒ぎがしたのだ。
今だって、普段なら「なに? 話しにくいこと?」と茶化してきたっておかしくないのに、フィガロは人形のようにただじっとそこに立っている。
「その、さっきのフィガロの様子が気になって……」
晶のことを想ってくれているから、他の魔法使いに任せたくないから、パートナーを引き受けてくれたはずだ。居合わせた魔法使いたちの前でパートナーが決まったことを打ち明けたのだって晶ではなくフィガロだった。
それなのに、晶を見た瞳は、表情は、まるでそれまでとは別人のように虚ろで。何かを諦めたようにも、はるか遠くを眺めていたようにも思える顔つきが、晶の頭からどうしても離れなかった。
「なにか、あったんですか?」
「……ううん、なんでもないよ。ちょっと疲れていたのかもしれないね」
へらりと軽薄そうに笑って、フィガロはごく自然に、けれど確実に晶から目を逸らした。
そんなの、なんでもないわけがないじゃないか。
「私がそれを信じると思いますか?」
「いいや、思わないよ。参ったな、きみの前ではうまく嘘がつけないや」
やれやれと肩を竦め、大きく息を吐き出してから、フィガロは晶を見た。
向けられたのは、びっくりするくらいにこやかな笑顔。どこか胡散臭さが滲む、『フィガロ先生』の顔。先ほどと同じだ。
フィガロとの間に見えない壁が突然現れたようだった。今、確かに、フィガロは晶に対して『フィガロ先生』という顔をかぶって本心を隠した。
聞きたくない。この場を立ち去りたい。そう思うけれど手足が動かなくて、フィガロの唇がゆったりと動くのをただ見ていることしかできなかった。
「この前のことは、忘れて」
フィガロが口にした『この前のこと』は何なのかなんて、考えることもしなかった。ただ直感で、あの夜の出来事を指しているのだと理解する。
「きみは賢者で、俺は賢者の魔法使い。賢者の魔法使いの中で俺が一番適任だったからパートナーとして舞踏会に参加する。ただ、それだけだよ」
「それだけ、って……」
はじめから用意していたかのように、フィガロの口ぶりは淀みがなく流暢だった。初めからそうするつもりで、きみの隣を譲りたくないという台詞を上書きしようとするように。
体からみるみる力が抜けていく。今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだった。どうしてフィガロがそんなことを言うのか、晶は分からない。
「私、返事をした方がいいのかと、思って……」
「返事? なんのこと?」
「あの夜のことですよ!」
取り付く島もないくらい、本当に何もなかったことにされて、つい声を荒げてしまった。
「私は、嬉しかったです。フィガロの気持ち。私も、同じ気持ちで――」
「舞踏会の準備で大変な時に、余計なことを考えてる余裕はないでしょ?」
容赦のない切り返しが、晶の胸の真ん中を深く抉った。
自分で思っているよりも浮ついて喜んでいたのだと、晶は初めて自覚する。
「明日俺は任務に出るけど、魔法舎にいる時は練習相手になるから、遠慮なく声をかけてね」
終始貼り付けたような笑顔のままフィガロはそこまで言い切ると、「じゃ、俺はこれで」と踵を返し、曲がり角の向こうへ消えていく。
「に?」
ずっと傍にいてくれたサクリフィキウムが、気遣わしげに一つ鳴いた。もう立っていられなくてその場に膝を抱えてしゃがみ込む。
「大丈夫だから。心配しないで、サクちゃん」
頬にふわりと触れたサクリフィキウムの柔らかい毛並みにそっと顔を寄せる。猫によく似たそれを胸に抱き寄せて、晶は部屋へ戻るべくふらふらと立ち上がった。
✧
右足が床ではなく人の足を踏みつけた時、部屋の隅で大鎌の手入れをしていたシノから苦言が飛んできた。
「賢者、いい加減集中してやれよ。誰の足を何回踏んだと思ってるんだ」
「こら、シノ!――俺の足のことは、気にしないで下さいね」
ヒースクリフがすぐにシノを窘め、そして晶を気遣ってくれる。
「何か心配事か? 舞踏会のことなら、その心配を解消するためにこうやって練習してるんだろ?」
「賢者様がここ数日ずっと元気がないように見えて……。みんな、心配していますよ」
「すみません。ちょっと考え事が止まらなくて――」
舞踏会が、片手で数えられるくらいもう目の前まで近付いている。ぐるぐる同じ事ばかり考えていないで、早く割り切って練習に集中しなければいけないと分かっている。分かっているのに、どうしても頭をよぎるものを無視できない。
「突然舞踏会に出席することになったんですから、落ち着かなくて当然ですよね」
心配事、考え事があって当然だとヒースクリフが同情してくれて、晶は良心が痛んだ。晶が集中力を欠くほど考えていることは、舞踏会に全くの無関係ではないが、直接的な悩みとは言えない内容で。
(どうしてフィガロは、あの夜のことをなかったことにしたんだろう)
その理由をずっと考えてしまう。
自分はあくまで賢者の魔法使いの一人であり、適任だから舞踏会のパートナーを引き受けたに過ぎない。晶にも、そしてフィガロ自身にも言い聞かせるような物言いが、どうしても安易に飲み込むことができないのだ。
「お前は俺たちの賢者だ。胸を張って、堂々としてればそれでいいだろ」
手元の魔道具に視線を落としたまま、シノは淡々と、はっきりした口調で言い切った。彼が嘘偽りなくそう思っていることがまっすぐに伝わってくる。
「……言い方は少し乱暴ですが、シノの言う通りです。自信を持って、なんて俺が言えることではないけど、賢者様は俺たちの賢者様なんですから」
「二人とも……」
きっと二人は分かっているのだ。賢者として舞踏会で立派な姿を見せ、賢者の魔法使いを率いる者として毅然とした態度を取らなければと晶が意気込んでいることを。それは自分たちのためなんだということを。
失敗したっていい。言葉に込められたその想いが嬉しかった。
「ありがとうございます、シノ、ヒース。――あの、実は……」
彼らの信頼と誠実さに、このまま勘違いをさせたままではいけないと言葉を続けようとしたところで、勢いよくドアが開いた。
「いたいた! 賢者様ー!」
「ムル? どうしたんですか?」
この「どうしたんですか」には二重の意味があった。一つ目はいきなりへやって来た理由を問い、そしてもう一つはその姿に対してである。まるでベッドの下に潜り込んで遊んだ猫のように全身煤だらけ埃まみれだったのだ。
「ムル、大丈夫? なんだかすごいことになってるけど……」
「あはは、埃まみれ〜」
「おい、その状態で近付くな。鼻がむずむずする」
笑いながら部屋に入ってきたムルを見て、シノが腕で鼻を覆い後ずさる。
(シャイロックが見たら、バーを出入り禁止にしそうだな)
晶もくしゃみが出そうになるのを我慢していると、ムルの後ろからルチルがひょこりと顔を出した。ずっと後ろにいたようだ。
「練習中に失礼します。ムルさんが賢者様にいいものを見つけてくださったんです」
「どこにしまったか覚えてなくて、あちこちひっくり返して探した! そしたら埃まみれになっちゃった~」
のんびりと話したあと、ムルが魔法で身だしなみを整えた。ようやく鼻の不快感が治まって、ふうと小さく息をつく。
「それで、なんなんだ。いいものって」
「これだよ。めちゃくちゃ古い魔導書!」
ムルがぱちりと指を鳴らすと、晶たちの前に一冊の魔導書が現れた。
重厚感のある真紅の皮張りの装丁に、蔓のような植物を模した金の装飾。表紙の四隅はところどころが擦れ、全体的に色褪せている。
タイトルや作者が書かれていないことをのぞけば、古びた本にしか見えないが――。
「へえ、こいつはなかなかの代物らしいな」
「すごく強い力を感じるね」
ふわふわと宙に浮く魔導書を、シノとヒールクリフが興味津々といった様子で眺めている。相当な代物のようだ。
「そんなにすごいものなんですか?」
顔を近付けてまじまじと眺めるが、当然人間の晶には魔力の類を感じることはできない。どこか埃っぽい、古びた紙の匂いがかすかにするくらいである。
「長生きの魔法使いさんたちみたいな気配、って言えばいいんでしょうか」
「ルチルの言いたいこと、俺も分かるよ。オズ様やスノウ様、ホワイト様と近い気配がするよね」
「この本もオズも双子も、とっても年寄りってことだね!」
「俺たちからすれば、あんただって大差ないけどな」
おかしそうにけらけら笑うムルに、シノの呟きは届いていないようだ。
(スノウとホワイトが聞いたら怒りそうだなあ)
白く丸い頬をさらにぷくっと膨らませて「失礼な奴じゃ!」と腰に手を当てる北の双子の姿がありありと想像できた。彼らがこの場にいなくて良かった。
「それで、これはどんな魔導書なんですか?」
「開いてみていいよ! 聞くよりも見た方が早いから」
言われるがまま表紙に手をかけて、一旦止まる。目の前にあるのはただの本ではなくたいそう古い魔導書なのだ。
「開いた途端爆発とか、そういうのはないですよね……?」
「それはないと思うよ。長い時間の中で魔導書の魔術が変容してない限りね!」
絶妙に不安な返答だが、本当に危険なものならさすがにこんな言い回しはしないだろう。そう信じて、晶はおそるおそる表紙をめくった。
「……おい、何も書かれてないじゃないか」
晶の横から首を伸ばして魔導書を覗きこんだシノが、じっとこちらの様子を見守るムルに物申した。ヒースクリフも、怪訝そうな顔でまっさらなページを見つめている。
うんと長くこの世にあるわりには痛みや黄ばみのないページは何度見ようとも白紙だった。
「この魔導書は使用者の記憶にある物語から空想の世界を生成するんだ。だからまだ何も書かれてない」
「記憶から世界を、ですか?」
想像がつかなくて、つい聞き返してしまった。ムルは「そうだよ」と大きく頷いてから、ぷかりと魔導書の上まで浮かび上がってさかさまになる
「そして魔導書の中に入って、その世界の主人公になれるんだ!」
人の精神や記憶にすら干渉する極めて複雑な魔術だと、ムルは鮮やかな宝石のような瞳をすうっと細めた。こうした表情に、彼が千年以上生き、稀代の天才学者と呼ばれた片鱗を垣間見たように思う。
「この魔導書に決まった名前はないんですって。英雄の書だとか、聖女の書だとか、色々な呼ばれ方をしているんだとか」
「へえ、英雄か。本桃の英雄になるために、まず軽く体験してみるのも悪くない」
英雄という単語にシノが鋭く目を輝かせた。晶の横から魔導書に手をかざし、息を吸い込んだのは呪文を唱えようとしたのだろう。しかしヒースクリフがその腕をそっと掴み、ふるふると首を横に振る。
「待ちなよ、シノ。これはルチルとムルが賢者様のために持ってきたものなんだから」
そういえばそうだった。物珍しさにこの魔導書が目の前にある理由をすっかり忘れていた。
「私がこの魔導書を使うってことですか?」
「はい。御伽話のお姫様になってみたらどうかなと思って。賢者様は以前私に、賢者様の世界の御伽話をたくさん聞かせてくださいましたよね」
人魚姫の物語を始め、ルチルの絵本製作の参考になればと有名どころをいくつか話した記憶がある。
「なるほど、知っている物語が魔導書の力で再現されて、その主人公になれるということですね」
「はい。お姫様になって、王子様と踊って。そういう体験が何かのお役にたたないでしょうか」
お姫様になったみたいにと晶にアドバイスをくれたのは他でもないルチルだ。
ヒースクリフは言っていた。みんな心配していると。ルチルもその一人で、舞踏会を前にして明らかに様子がおかしい晶を勇気づけようとしてくれているのだ。
気がかりの根本的な解決にならないとは分かっているけれど、この優しさを無下にするなんてできなかった。それに、舞踏会に参加することに対して緊張と不安を抱いているのは事実だ。
「ありがとうございます。それでは、この魔導書を使わせてもらって――」
「ねえ、やたらと強い魔力を感じるんだけど」
魔導書に手を伸ばしたのと、晶の悩みの元凶が入ってきたのはほとんど同時だった。
怪訝そうな顔のフィガロは、晶たちが取り囲む魔導書を認めて全てを悟ったようで盛大にため息をつく。
「これはまた、すごいものを出してきたね。――ムルが持ってたの?」
「そうみたい! どこで手に入れたのかよく覚えてないけどね」
ムルのこういう発言にももうみんな慣れたもので、深く聞こうとする者はいない。
ほんの一瞬、フィガロと目が合ったような気がした。けれどすぐにそらされてしまって、目が合ったと感じたことの方が間違いだったのかもと晶は思う。
(目が合ったって、フィガロは気付かなかったんだ。きっと)
そう自分に言い聞かせて、胸のすみっこから顔を出した小さな寂しさを押し込める。
「今、ミスラとオーエンが派手に喧嘩してるんだ。貴重な魔導書は一旦しまっておいた方がいいと思うよ」
なるほど、その忠告をしに来てくれたのか。
心の中で一人納得したところで、練習部屋の壁が爆発した。
突然のことに驚いたし、心臓もばくばく鳴っているけれど、土煙から顔を守りつつ冷静に辺りの様子を確認しているから、慣れとは怖いものだ。
「あれ、集まって何してるんですか?」
崩れた壁の山に足をかけて土煙の中から現れたのはミスラだ。そしてその後ろからは腹部を真っ赤に染めげほげほと血を吐くオーエンがやって来る。
「よそ見なんて、随分余裕じゃないか。ミスラ」
「はあ。だってあなた、弱いですし」
あっ、と誰かが声を漏らしたのが聞こえた。きっと誰もが同じように思っただろう。
オーエンがこめかみに青筋を立てて魔道具のトランクを構えた。部屋の空気がぴんと張りつめる。
「お前、やっぱり馬鹿だね」
「は? 今なんて言いました?」
「二人とも、ちょっと落ち――」
「≪アルシム≫」
「≪クーレ・メミニ≫」
間に入ろうとする晶の声はあっさりと遮られ、呪文と共に爆風と雪氷が部屋を襲った。
「ちょっと、ミスラさん!」
「あはは、めちゃくちゃだ! おもしろーい!」
「全く……。みんな。俺の傍に――」
フィガロの魔道具の光を視界の隅に捉えたが、彼が結界を張る前に流れ弾が一つ、こちらに飛んできた。
幸い誰かに直撃することはなかったけれど、禍々しく輝く魔法の弾丸が弾け、宙をふわふわ漂っていた魔導書を弾き飛ばす。
(魔導書が!)
咄嗟に手を伸ばし捕まえたところで、魔導書が淡く発光していることに気が付いた。触れた手のひらが吸われるような妙な感覚に戸惑いを覚える。
「賢者様!」
フィガロの慌てた声は珍しい。まず思ったのはそんなことで、しかし手が吸われる感覚はどんどん強まり、晶は焦った。このまま魔導書に吸い込まれてしまいそうだ。
「えっ、なにこれ。わ――」
ぐいと腕を引かれたように体が傾く。このままでは魔導書に頭から突っ込む、と思ったはずなのに、まっさらなページに額がずぶりと埋まる感覚があった。
誰かに腕を掴まれた気がしたけれど、頭の中を何かにかき回されるような得も言えぬ不快感に、晶は意識を失ったのだった。
✧
「ミスラとオーエンは、どこかに行ったみたいだね」
土埃に咳込みながらヒースクリフが顔を上げる。
「……近くからそれらしい音はしない。魔法舎を離れたみたいだな」
一瞬耳をすませたシノが、ふん、と鼻を鳴らした。
「賢者様とフィガロ先生がいません!」
乱れた髪をそのままに、ルチルが心配そうに部屋を見回す。しかし荒れ果てた室内に二人の姿はない。
切りそろえられた紫の髪をふるふる振って埃を払ったムルが、開いた状態で床に落ちた魔導書の傍に膝をつく。
「あっ、賢者様だ! おーい!」
「えっ、賢者様?」
「本当ですね。これ、賢者様に見えます……」
同じように魔導書の傍にしゃがみ込んだヒースクリフとルチルが困惑の表情を浮かべた。
ルチルが指さした先、開かれた魔導書には色鮮やかな一枚の絵が描かれている。古びた井戸で水を汲む若い娘。その姿は異世界から召喚された賢者とよく似ている。
「流れ弾が当たった時、魔導書が光ったのを見たぞ」
「俺は、賢者様とフィガロ先生の声を聞いたよ」
「ミスラの魔法が当たったことで魔導書が発動したんだ。最初に触れた賢者様が使用者になったみたいだね」
あっけらかんと話すムルに、若い魔法使いたちが「えっ⁉」と揃って驚きの声を上げる。
「でもおかしいな。魔導書に入れるのは一人だけなのに、フィガロもいなくなってるね」
そう言って、ムルがおもむろに魔導書を一ページ捲った。そこにはまた別の絵が描かれている。
派手な装飾が施された椅子に座る、美しく着飾った妙齢の女。その後ろに控えているのは――。
「この人、フィガロ先生にそっくりです!」
ルチルが真っ先に気付き、ヒースクリフとシノも「本当だ」と頷いている。
「つまりは、賢者様だけじゃなくてフィガロ先生も魔導書の中に入っちゃったってことですか?」
「古い魔導書だから、予想してないことが起こってもおかしくないね。とても興味深い現象だ」
細めた瞳を怪しく光らせて、稀代の天才学者が笑う。若い魔法使いたちは困惑の表情で顔を見合わせるしかなかった。