半日くらいで書いた現パロ社会人フィ晶♀ たたん、とエンターキーが小気味いい音を立てる。キーボードの左側に積みあがった書類をおもむろに一枚捲り、隅に印字されたページ数の『1』を、晶は思わず二度見した。
「終わっ、た……?」
疲労にかすむ目をこすりながらパソコンのディスプレイに顔を寄せる。劣化して滑りの悪いマウスホイールをころころ動かしながら、細かい数字が羅列する表計算ソフトを上から下までスクロールした。
(数値は全部入ってるし、エラーのセルもないし……)
極めつけに、順に並べて入力が終わったものを一番下へ、と管理していた書類の山の頂点にあるのも最初のページに戻ってきている。
膨大な書類整理とデータ入力をようやく終えたのだと、その事実をようやく頭が理解した。晶は大きく息を吐きながら、デスクチェアに深く背を預ける。
「やっと、終わったぁ」
上司がこの書類の山を抱え、「真木さん、これ急ぎで」と晶のデスクにやって来たのは昨日の夕方のことである。
なんでも、先日退職した同僚が、未処理の書類を大量に隠していたという。そのデータの統計が週明けの会議に必要だから至急取りまとめをお願いしたい、と頼まれた時、晶は断りたくて仕方がなかった。
その日は木曜日で、翌日の金曜日を晶はずっと心待ちにしていた。仕事を定時で終わらせて、恋人とちょっといいところのホテルのディナーに行く予定にしていたからである。
書類の量を見れば、およそ一日と少しで終わらないことは明白で。二日続けて終電で済めばましな方で、最悪休日出勤もありえると、いうのが晶の予想だった。
何とかして断りたい。だって、金曜に定時で上がれるように、月曜からずっと頑張ってきたのだ。
けれど周りを見渡せば、同僚たちは誰も彼も忙しそうで、晶と上司のやり取りも耳に入っていない。人員が一人減っただけで多忙を極めるくらいには、晶の部署は人手不足が深刻だった。
今一番手が空いているが自分であることは、晶もよく分かっている。この状況で断れるような晶なら、きっと上司も頼んではこなかっただろう。性格も手持ちの案件も、きっちりと把握されている。
渋々書類を受け取った晶に、上司は何度もお礼を言って自席に戻って行った。それを見届けてからそっと席を立ち、恋人へ謝罪のメッセージを送ったのは記憶に新しい。
「みんな、もう帰ってたんだ……」
部屋はがらんとしていて人の気配はない。集中しすぎて、同僚たちが帰ったことにも気付かなかった。
壁にかかった質素な時計は九時半を回っている。忙しいとはいえ、至急性の高い案件を持っていたのは晶だけだったから、同僚たちは残った仕事を翌週に回して帰ったのだろう。
苦労して作ったデータをしっかりと保存し、上司宛のメールに添付する。送信されたことを確かめてから、手早くパソコンの電源を落とした。ぐぐっと大きく伸びをすれば、人体から聞こえてはいけないような音が首や肩から聞こえて、思わず笑ってしまう。
「せめてフィガロに直接謝りたかったな」
フィガロが籍を置く部署はここから二つ隣の部屋だから、社内ですれ違うことも珍しくない。しかしデートの断りを入れてからは運悪く一度も姿を見ていなかった。
キーボードを奥に押しやって、組んだ腕を枕にデスクに突っ伏す。終電を覚悟していたから、この時間に終われたのはなかなかに頑張った方だろう。
手探りでデスク横に置いた鞄からスマートフォンを取り出す。腕に頭を預けたまま真っ黒な画面をぼんやりと眺めれば、ひどく疲れた顔をした自分がぼんやりと映った。
「色々、準備してたのにな」
奮発して買ったワンピースとアイシャドウ。髪をうまく巻けるように毎日練習をして、肌の調子も整えて。
浮き足立っていた自分を思い出して、無性に泣きたくなる。
フィガロは気にしなくていいと返信をくれて、無理はしないでと心配もしてくれた。その優しさが逆に申し訳なさを募らせる。
せめて無事仕事が終わったことを知らせようとスマートフォンのロックを解除したところで、急に瞼が重くなった。
(終わったと思ったら、急に眠気が――)
昨日は終電だったから家に着いた時には日を跨いでいて、今朝ぎりぎりまで寝ていたとはいえ常の睡眠時間には程遠かった。
このまま寝るのはまずい。二日続けて終電になるか、終電すら逃すか、そんな危険をはらんでいる。
そう思いながらも、猛烈な眠気に逆らうことは困難で。
(十五分。ううん、十分だけ……)
誘惑に負けた晶は、一人静かなオフィスでうっかり眠ってしまったのである。
覚醒は突然だった。意識が戻った瞬間、デスクでうたた寝したことを認識して、勢いよく体を起こす。
「嘘、今何時⁉」
手に持ったままのスマートフォンで慌てて時間を確めれば、表示されたのは『22:08』の数字。
(良かった、まだ終電じゃない)
寝ていたのはほんの三十分ほどだったようだ。ほっと胸を撫で下ろした時、肩からばさりと何かが落ちた。
「あれ、これって……」
手に取って広げれば、それは男物のジャケットだった。光の加減でストライプが浮かび上がるネイビーのそれを、晶は以前にも間近で見たことがあった。
「あっ、起きた?」
ジャケットの持ち主の声にはっと振り返れば、ココアの缶を手に持ったフィガロが部屋に入ってきたところだった。
「様子を見に来たらきみが寝てたから、もう少ししたら起こそうと思ってたんだ」
「フィガロも残業だったんですか?」
「まあ、そんなところかな」
ゆったりとした足取りで近付いてきたフィガロは、晶の隣のデスクに腰を下ろした。長い足を流れるように組むと、手に持った缶をすっと差し出してくる。
「ありがとうございます。……あの、フィガロ。急にすみませんでした」
差し入れをありがたく受け取りながらぺこりと頭を下げれば、そこに大きな手がぽんと乗せられた。
「気にしないでって言ったじゃない。お疲れ様」
髪を梳くような優しい手つきに、目頭が熱くなった。
「……私、今日のデートすごく楽しみにしてたんです」
「うん」
「色々準備もして、定時で帰れるように調整もして」
「そっか」
「でも、みんな忙しそうだから断れなくて……」
ぽつりぽつりと想いを吐き出すたび、涙が一粒、また一粒と零れ落ちる。頭を撫でていた手がそれを丁寧に掬い取った。
「ディナーの予約なんてまた取ればいい。だからもう泣かないの」
「うぅ~~~」
子供みたいに泣くことじゃないと頭では分かっているのに、涙は溢れて溢れて止まらなかった。
しゃくり上げながら差し入れのココアを開けようとするけれど、プルタブに上手く指がかからない。それを見たフィガロが晶の手からぱっと缶を抜き取ると、片手で簡単にプルを開けた。
すっと戻された缶を受け取って口をつけると、甘ったるいココアが疲弊した頭に沁みわたる。
「それを飲み終わったら、家まで送るよ。遅い時間にきみを一人で歩かせるのが心配だったんだ」
泣きながらココアを啜る晶を、フィガロはデスクに頬杖をついて愛おしそうに見つめてくる。
優しい申し出が嬉しくて、けれど晶は顔を俯け、目を伏せた。
「晶?」
「送るだけ、ですか?」
離れがたい、一緒にいたいと、そう思った。一緒に駅まで行って、電車に乗って。ほんの数十分しか一緒にいられないなんて、物足りない。
生まれた静寂に、自分が何を口走ったのかを時間差で理解する。なんて大胆なことを言ったんだろうか。
「あっ、でも、昨日は遅かったらすごく部屋が汚くて! とても人を入れられる状態じゃなくて!」
だから今のは忘れてください、と言いかけた唇をフィガロの人差し指が塞いだ。
「なら今日は俺の家へおいで。たっぷり甘やかしてあげる」
うっとりと細められた瞳に背中がざわつた。甘やかすの言葉に熱っぽい何かがちらついているような気もしたけれど、それを承知でこくりと頷く。
この人になら何をされてもいいや、なんて、ちょっと恥ずかしいことを考えていることに、晶自身気付いていなかった。