かがり火裁判が終わった後、亜双義は被害女性が入院する病院を訪ねた。
体調は悪くないようだが、強く頭を打っているためしばらく安静にする必要があるそうだ。
記憶があって何よりだ、とはさすがに言えず、見舞いの品と、預かっていた証拠品を渡した。
「目が覚めた後、親戚や知人に責められました。騙されるのが悪い、なんで信用したんだと。
困っていた時に何もしてくれなかった……それどころか、追い詰めてきた人たちに」
両親を亡くし、巨額の遺産が舞い込んだ時、彼女を親身になって助けてくれる親類はいなかった。
それどころか、遺産を狙って無理やり結婚させようとする始末。
あの男はそんなタイミングを見計らって現れた。
事前に境遇や好みなどを調べ、運命の人との出会いを演出する。結婚詐欺師の常とう手段。
恋に落ちてしまえば、もう些細な違和感や不審な点も好意的に解釈したり気が付かないふりをしてしまう。
「恋は盲目、あばたもえくぼ、昔から言われるだけのことはある。それ自体は悪くない。悪いのは、騙した男だ」
「そう言って頂けると助かります。でも、次はもっと慎重になりますわ」
微笑みにまだぎこちなさの残る彼女に、少しでも助けになればと、探偵の連絡先を教える。
これから出会う相手の身元調査くらいやってくれるだろう。
病院から執務室へと戻った亜双義は、バンジークスに彼女の様子ややりとりを報告した。
「亜双義の言う通り、悪いのは騙した男だ。若い女性に、心細い時に優しくしてくれた相手に
惚れるなと言っても酷であろう」
「若い女性でなくても、な。俺は幸いにも騙されてはいなかったが」
「どういうことだ」
亜双義は驚く師の様に気も留めず、休憩や応接で使っている部屋の端のソファに腰かけた。
深く座り、視線を上に向ける。その先に何かある訳ではない。
この様子の時は、何か過去を思いやっているのだとバンジークスは最近知った。
「ヴォルテックス卿から貴公へ仕えるように命じられた時、身元不明の東洋人の扱いなど
散々味わってきたから覚悟はしていた。
なのにずいぶん親切にされたものだから拍子抜けしたぞ。ワガママも聞いてもらったな」
言いながら、自分の執務机とクッションを指す。どうしても正座で仕事がしたいと主張し、
用意してもらったものだ。
「声を荒げたり乱暴をすることもない。出す指示は明確。仕事の姿勢は正しくあり、
口には出さぬが情け深く……憧れて焦がれる理由に不足はあるまい」
まただ、とバンジークスは思う。従者の頃に恋していたという話は何度かされた。
その度、境遇から鑑みておかしくないだろうと論ずる。おそらく、反論を防ぐために。
「記憶をなくし、自分が何者かもわからず、それでも頭の中で使命を果たせという声だけが響いて……
そんな不安と焦りに苛まれて、暗がりに放り出されたような日々の中、貴公の存在と
それを思うこの気持ちは眩しい灯りのようだった。それをかがり火として、どうにか進むことができた」
それまで遠くを見ていた目がすっと下を向き、瞼が伏せられた。ぐっと眉根にしわが寄る。
「記憶を取り戻し、真実が明らかになるまでの間は苦しかった。憎い仇であるはずなのに、受けた恩に嘘がないのだ。
きっと、貴公が玄真に抱いた気持ちと似ていると思う」
「それは、苦しいな」
身を挺して自分を守ってくれた男が凶悪な連続殺人犯で、兄すらも手にかけた。自分が彼に抱いた親愛や尊敬はまやかしだったのか。
疑念をかかえたまま過ごす日々は、振り返るだけでも心が重くなる。
「俺は10年待たずに済んでよかった。貴公から受けた行為に嘘もはかりごともなかったと、すぐに知れて本当によかった」
亜双義はソファから身を起こし立ち上がると、バンジークスへと向き直った。
「過ごした日々が、感じた気持ちが、掲げた火が、すべて本物であったことに、心から救われた。おかげで俺は今、ここにいる」
晴れ晴れとした顔で告げる姿に、バンジークスはしばし見入っていた。
従者として過ごす日々と、自分への恋慕が今の亜双義にとっては意義のあるものであるらしい。
「いきなり従者など押し付けられ、最初こそ警戒したが……一人ではない日々を教えてくれたことには感謝している」
「そうか。アレも喜ぶだろう」
「また、アレなどと」
「仕方がないだろう。その礼を受けるべきは今の俺ではないのだから」
あきれるバンジークスに、拗ねたような顔をする亜双義。態度をかえるつもりはないらしい。
「まあよい。あの頃が貴君にとって嫌なものではなかったようで安心した」
「不安にさせていたのか?」
「どうも、その話になると機嫌が悪くなるように見えたものだから」
「それは……いや、誤解が解けたならいい」
他に真意がある様子だが、語る気はないようだ。バンジークスがふと時計を見ると、結構な時間がたっていた。
そろそろ仕事を再開すべきだろう。
「この話は、これで仕舞いか?」
「ああ、そうだな。もうアレはいないのだし……」
珍しく歯切れの悪い返事をしながら、亜双義は自席と言う名のクッションに座った。
その、ピンと伸びた背は従者の頃から変わらない。
胸中の変化は、外から計れるものではない。