「卯木千景」の証明(至千) いつか、こういう日が来るんじゃないかというのは頭の隅にあって、本当は分かっていた。
先輩が、会社を辞めた。
「一体どうしたんですか?」と俺が聞くと、「しばらくニートも良いかと思って」と先輩は笑った。
「せんぱ、」と言いかけた俺に、先輩は笑ったまま続けた。
「会社辞めたんだから、もう先輩じゃないよ」
「……千景さん」
居なくならないですよね、と言いたくて、怖くて言えなかった。怖くて怖くて、ただ怖かった。
「茅ヶ崎、何か俺に言っておきたい事ある?」
驚いて、息を飲んで、俺はどうしようもなく言った。
「千景さんのことが、好きです」
声が震えて、めまいがして倒れそうだった。なんで、言ってしまったんだろう。
「好きって? 人間愛の話?」
ここまで来たなら同じだと、洗いざらいしゃべる。
「人間的にも、好きですよ。結構俺たち、阿吽の呼吸的なとこありませんか。とまあ、それは表向きの話で」
千景さんが、俺を見ている。
「……あの、抱きたい、的な意味も、あったり」
「いいよ」
「……駄目ですよ」
「なんで? 茅ヶ崎のしたい事、していいよ。なんでも」
「そんな事言わないで下さい」
「茅ヶ崎、俺の事嫌いなの?」
「俺に抱かれる千景さんは、俺的に解釈違いなだけです」
「俺が言ってるんだから、公式じゃないの? 卯木千景公式だよ」
「オタクの心は繊細なんで」
「お前はほんとめんどくさいね」
千景さんは、そっと笑った。
そして、千景さんは姿を消した。
MANKAIカンパニーのアナログな記録資料だけを残して、『卯木千景』の痕跡はwebにも、公的な記録にも、会社からも無くなっていた。
俺のスマホにこっそり撮り溜めていた千景さんの隠し撮りの写真すら、消されていた。
「さすが、チート先輩……」
新生春組になって、劇場の舞台上で初めてみんなで寝た時の千景さんの寝顔写真。復刻なしの限定SSRだったのにな。
会社で、千景さんの話題が出ることも無くなった。
業務内容の引き継ぎは完璧すぎるほど完璧で、千景さんがいないと分からない、という事はなかったらしい。
過去、路上で配られた劇団の公演フライヤーのキャスト名には『卯木千景』の名前がちゃんとあるのに。
千景さんと千景さんの僅かな荷物が無くなった103号室は、酷くがらんとして思えて、ああ、こんな事なら、千景さんが簡単に引っ越しなんて出来ないように、めちゃくちゃ物をプレゼントしてしまえば良かったと後悔した。ジュエプリの円盤初回豪華BOXとか、ナイランのガウェインスケールフィギュアとか。あと、なんか、とにかく沢山。荷物が重くなる事で千景さんがどこにも行けなくなるなら、俺の宝物全部、渡したって構わなかったのに。
千景さんが居なくなって時間が経っても、千景さんと似た背格好の人を見るだけで、千景さんではないのかと俺はヒヤリとして、その度へこんだ。
千景さんと行ったランチの場所や、電車の時、帰りに使った駅で、千景さんの面影ばかりを探していた。
珍しく定時で退勤出来たその日、いつものように電車を降りて、寮へ帰るために踏み出した街中、スラリと高い身長に濃いグレーのパーカーを着た男から視線を感じた気がした。
その鋭さに覚えがあって、俺が振り向くと男はすでに後ろ姿で、歩き去ろうとしていた。
何故か、もう彼はこちらを振り向く事はないだろうという確信が俺にはあった。
俺は走って追いかける。男の背中が曲がり角の向こうに消えた。
俺もその角を曲がると、男の姿は先ほどより遠のいていた。俺はこんなに必死に走っているのに。
「……ちょっと! 待って!」
俺が走っているのに、彼は長い脚でまたすいと角を曲がってしまう。
俺はへとへとになりながら走って、また角を曲がる。荒い息を吐きながら見上げた道のずっと先で、男の姿はもはや豆粒みたいだ。
「無理、ゲー、かよっ!」
遥か彼方の男の姿がまた曲がって見えなくなる。
「待ってって!」
俺はもう姿も見えない後ろ姿を追いかけて、脚を引き摺るように坂を駆け上がった。
やっと辿り着いた曲がり角の先、追った彼の姿はもうどこにも見えなかった。
「千景さん……」
はあ、と息を吐く俺の顔の横を、汗がいく筋も落ちる。
以前、寮で、春組のみんなで、鬼ごっこをした事があった。「全員鬼にならないと」と言われ、俺が千景さんを捕まえないと終わりに出来ないと言われて、俺はへとへとになりながら千景さんを追いかけた。けど、千景さんはたまに追いつけるような距離に引き寄せて俺をその気にさせて、またさっと逃げて距離を容易く取り、俺を揶揄って遊んでた。
俺は、悔しくて、つらくて、情けなくて、本当は泣きたかった。
俺があの人を捕まえられないなんて、分かっていた。俺のアジリティと体力を知っている人間なら、百人が百人、到底無理だと言うだろう。俺だって無理だと思うし、実際無理だった。なのに、俺は無様にも諦められなかった。
けれど、『永久に捕まえられないだろうから、これでこの勝負は打ち切り』とはならなかった。そう言っても良かったはずなのに。
千景さんが、足を止めて、手を差し出してくれた。
『はい』
しょうがないなと、その目で俺を見ていた。
俺は、もう惨めで、でも悔しくて、めちゃくちゃな気持ちのまま千景さんを見た。
そうして俺の手は、千景さんの手に、やっと触れた。
汗だくで可哀想な有様となった俺へのお情けで、俺なんかに、千景さんが捕まってくれた。
ねえ、千景さん。俺、悔しいけど、やっぱり自力で千景さんを捕まえるの、無理ゲーみたいです。
俺は、すぅ、と息を大きく吸った。
「千景さん!」
フラフラだったけれど、まあまあ声は出た。稽古で腹式呼吸しといて良かった。
俺はもはや歩いているのでは? くらいの速度だが、それでも手当たり次第に走り回った。
「千景さん!」
幾度曲がり角を越えても、千景さんの姿は無かった。
そもそも、さっきの男の後ろ姿が千景さんだって確証も無い。俺の幻覚? 願望? 夢? 違う、千景さんは、居たんだ。会社のあのフロアに、俺と食べたランチの店のあのテーブルに、一緒に歩いた帰り道に、劇団の劇場に、稽古室に、103号室に。絶対に居た。
「千景さん!!」
ああ、もう無理なのかも、と何度も思った。思って、思うたび、諦めを振り切るようにまた足を踏み出した。
もうやめれば? って声は誰の声だったろう。俺の声のようでもあったし、千景さんの声にも聞こえた。
「千景さん!!……千景さん!!」
視界が滲むけれど、その原因が汗なのか涙なのかも区別がつかないほどぐしゃぐしゃになっていた。
走りすぎたせいでえずいて吐きそうになりながら、辺りが夜闇で見えないほど暗くなってもまだ走っていた。
革靴の中でとっくに靴擦れした足が、もう痺れて痛みの感覚も消えていた。棒のような足を出して、身体をただひたすら前に運ぶ。
俺が「無理だからもう終わりにする」と走るのを辞めたら、この勝負は本当に終わってしまうんだ。
俺が走り続けている限り、千景さんを諦めない限り、このゲームはまだ終わらない。
だてに廃人ゲーマー、記念日耐久長時間配信やってない。いや、今の状況だいぶつらいけど。諦めたら試合終了ですよってうちの監督さんもきっと言うはずだ。俺たちの戦いはこれからだ、っていや、これは終了フラグだからやめとこう。
あの角の先に、どうか。たどり着き、視界が開ける。
「千景さん!」
けれど、その角の先にも千景さんは居なくて。疲労で足がもつれ、俺は派手に転んだ。危うく顔をアスファルトに打ちつけそうになって腕をついたら、掌の皮膚が少し削れて血が出た。
「……いって」
膝をついて起き上がり、掌に見えた赤で反射的に痛いと言ったが、正直それすらよく分からなかった。息もままならなくて、頭がくらくらする。
血の滲む手を見下ろした所に差した影。
引き寄せられるようにそちらを見ると、俺が膝をついた一メートルほど先の所に。男が立っていた。
いつのまに、と、息を呑み。けれど確信があって、焦がれたその人を見上げた。
綺麗な月の浮かぶ夜空を背にして、フードを被り、眼鏡のない冷たい顔で千景さんが俺を見下ろしていた。
「……千景さん」
「『卯木千景』なんて人間はいない。ただの偽名だ」
俺は、膝をついたまま千景さんを見上げていた。
「本当の名前は組織に入る時に、死亡者のリストに記載されてそれでおしまい。捨てた名前だ。誘われて組織に入ってからは『エイプリル』というコードネームを使った。『卯木千景』も、日本で工作員として活動するために与えられたもので、便宜的に使用していただけだ。そんな人間、どこにもいない。存在しないんだ」
「……俺は、千景さんと、あの103号室で一緒に居ました。MANKAIカンパニーの一員として、役者の卯木千景と、一緒に舞台に立ちました。会社も同じで……これでも結構いろいろ、知ってるんですよ」
千景さんが眉を顰めた。
「何も知らないだろ。……何にも。本当のことなんて」
俺は、ゆっくり立ち上がった。そして、笑って教えてあげるんだ。『卯木千景』の証明を。
「卯木千景、独身。4月15日生まれ、身長183センチ、A型。俺、茅ヶ崎至の紹介でMANKAIカンパニーに入団」
「……」
「嗜好的には辛いものが好き。マジックも上手。自分は甘いもの嫌いなくせに、誰かがプリン食べたいとか言うと、次の日にはいろいろ理由つけて買って帰って来ちゃう。あと、嘘を吐くけど、皆が驚いた顔したら、笑ってすぐ自分からネタばらししてくれますよね。そういう所も、なんだかんだ優しいなって思ってました。まあ、悪い言葉で言うならチョロいなって」
千景さんの顔が不機嫌になっていく。
「趣味的には、重度のネット民ですね。謎解きも嫌いじゃなくて、楽しんでた。まああと、動物は嫌いって言ってるけど本当は存外そうでもないんじゃないかな、とか」
「嫌いだよ」
「そこは本当なんですね」
俺が笑って茶化すと、千景さんが、む、と睨んできた。
「他にも、俺が食べた後のゴミや、脱ぎっぱなしのシャツや靴下を、怒りながらも片付けてくれたりするし、結構世話焼きかも」
「不衛生だから、仕方なかったんだ」
「機械類を直したり弄ってるのも、何気に楽しそうだったな。各種ステータスはどれを取ってもA++でチート級って感じ。あと、寝顔が無垢な感じで可愛くて」
千景さんの顔にさっと赤が走る。
「寝たふりしてる俺の頭、撫でてくれたりとか」
千景さんが、恥ずかしくなったのか顔を背けた。
「それから、追いかけっこして、俺が追いつけないのに諦めないでゲロゲロになってると、こうして捕まってくれます」
怪我をしてない方の手をそっと伸ばして、指先でそっと触れた千景さんの細い手首をそのまま、弱く握った。千景さんは、振り払わないでくれた。その肌に、酷く久しぶりに触れた気がした。
そのまま身体を寄せて、千景さんの身体を抱きしめた。彼の背中に腕を回して、自分より少し高い位置の肩に顎を乗せる。
「劇団を、春組を、家族だと思ってくれてて、すごく大事にしてて。特に咲也に弱い」
俺の腕の中で、千景さんが身体から少し力を抜いたのが分かる。俺の背中に、千景さんの腕が回された。
「……組織に、全部バレそうになって」
息も吸えない俺の視線の先、月が、空で輝いていた。
「……劇団に危害を加えられる前に、みんなを、守らなきゃと思った。だから、俺が消えるのが一番良いと思った」
俺の肩口がぱたりと濡れた。そっと、千景さんの頭に手を乗せて、撫でた。
「だからって、千景さんが居なくなったら……寂しいじゃないですか」
「ほかにっ、方法が、なくてっ!」
千景さんの声が涙で詰まっていて、俺は千景さんに頬擦りするように頭を寄せた。
「すみません。千景さんが頑張ってくれたのは分かってるんですけど。でも、もう俺、千景さんが居ない俺の人生って分からないんです」
千景さんの身体が、俺の腕の中で強張る。
「どうせ、人間いつか死ぬんですから、それまでは一緒に居ましょうよ」
そっと千景さんの顔を覗き込むと、遠慮がちに千景さんの視線が俺を見た。
「俺は、お前の思ってるような人間じゃない」
「そうですか?」
「知ったら絶対、解釈違いだって、きっとまた言う」
「あー……俺はどちらかと言えば懐古厨だし狭量なオタクですけど。でも、公式には長生きしてほしいんですよ。千景さんが居てくれるなら、それだけでいいです」
「……俺が、お前に抱かれたいとか思ってるなんて、引くだろ」
「いいですよ」
俺の言葉に、千景さんが目を丸くした。
「……ちがさ、き」
「俺の全部、千景さんにあげます。サ終は嫌なんで。俺に出来ることなら、なんでもしますから。財布でもATMでも」
だから、居なくならないで。
「……なんでも」
「ええ、なんでも」
二人で顔を見合わせて、その理由がくだらなくて、二人して笑った。
「……茅ヶ崎、俺、組織を抜けたんだ」
言われて、俺は千景さんの顔を正面から見た。
「『エイプリル』ってコードネームももう使えなくなったし、名前、どうしたらいいと思う?」
泣き笑いの顔で問われて、俺は千景さんの頬を撫でた。
「『卯木千景』って名前、俺、好きなんですよ」