恋してダンゴムシ(至千) 監督さんに「好き。愛してる」と繰り返す真澄を、あの時の俺は心の底から馬鹿にしていた。
面白がるレベルですらなく、嘲っていたと思う。
真澄がキラキラした目で監督さんをひたすらに見つめるような、そんな真っ直ぐな気持ちを持てるのは、まだ痛い目を見た事がないからだと年齢と経験値から来る上から目線で見下していた。
気持ちなんてすぐに変わる。学生時代の俺に嫌がらせをしていたような大多数のリア充達だって、周囲の評価に簡単に流されて自分の頭で判断なんてしない。その逆も簡単で、昨日まで友達だったヤツが掌返すのも当たり前。
そもそも、俺たちの身体は毎日新陳代謝を繰り返して、今日の自分は昨日の自分とはもう別人だ。「ずっと一生、一緒にいたい」なんて言ったって、そう思った自分の細胞はすぐに死ぬ。明日には入れ替わって別人になるんだから、他人となった昔の自分を簡単に裏切る。
だから、監督さんの足元で丸まってダンゴムシを演じる真澄を、恋愛なんて何も分かってないだけだと笑っていた。
「ただいま〜!」
「ただいま」
寮の玄関から、監督さんと、続けて先輩の帰宅の声がする。
俺がソファから立ちあがろうと思った瞬間には、真澄がもう玄関先に飛んで行った。
「アンタが帰ってくるの、待ってた」
「ま、真澄くん!?」
俺が玄関先に顔を出すと、ちょうど真澄の服の首根っこを先輩が捕まえて、抱きついた真澄と監督さんの距離を取らせている所だった。
「合意もなく相手にキスを迫るものじゃないだろ」
「うるさいこれはおかえりのキ……」
「咲也ー、連れてって」
先輩が呼ぶと、廊下に出てきた咲也が「はい、行くよ真澄くーん」と真澄を引きずって回収して行った。「あはは〜」と苦笑しながら、監督さんはその後ろに付いて行った。
俺と先輩の二人きりになって、俺は先輩を見上げて微笑んで見せる。
「おかえりなさい」
「ただいま」
先輩が上着を脱いで手で払った所で、その指先を軽く引いて廊下を先導した。歩き出した俺に長い足でゆったりと付いてきながら、先輩が疑問に思ったのか俺を呼ぶ。
「茅ヶ崎? なに?」
「まぁまぁ」
俺は先輩の手を取ったまま、一〇三号室の前に着くと共に中に入る。ドアを閉めて、にっこりと笑って向き直る。
「なにか急用……」
急用だった? と聞く先輩の唇に、少し背伸びするように顔を近づける。もちろんキスするために。だが、それを察した先輩が、わずかに驚いた顔をして身を引いた。
え、と俺は心外に思って。先輩のジャケット越しに二の腕を捕まえると、さらに顔を寄せて追いかけた。
「ちょっと、茅ヶ崎」
先輩が一歩後ろに引いてさらに逃げるから、俺はもはやちょっとムッとして下から上目遣いで文句を言う。
「俺にも、合意を取れって事ですか?」
すると先輩は困った顔をした。
「そうじゃない」
いわゆるお付き合いを始めたばかりだけど、先輩からそんな態度を取られた事はまだなかった。まさか、と俺の頭にさまざまなマイナス方向の予想が十個くらい即座に浮かぶ。
「嫌なんですか?」
「違う。話聞け」
「キスしたいです」
「いや、しな……」
「もう黙って」
とうとう先輩の背中が閉めたドアにぶつかって逃げ場がなくなって、俺に追いつかれる。俺が唇を押し付けると、先輩の唇がぎゅ、と緊張するのが伝わってきた。
いや、そんな。まじで嫌がってる?
俺はキスしながら愕然として、いつもよりほんのりあたたかい先輩の唇を自分の唇で柔く喰んだ。
びく、と先輩が震えて、俺の肩を手で押し返そうとする。
「先輩、舌出して」
俺が頬に口付けながら囁くと、先輩は強く目を瞑って、口を閉じたまま歯まで強く食いしばる様子で、ふる、と首を横に振った。
まじで、なんで?
俺はもう頭が真っ白になって、縋る気持ちで先輩の腰を撫でて、そのまま背中をシャツ越しに撫で上げた。背中が弱い事はもう分かってる。
「……っ!」
びく、と先輩が身体を強張らせてのけ反ってあらわになった、その喉に吸い付いた。正面から抱き締めて、ちゅ、と音を立てると、耐えきれないように先輩が口を緩めた。
「……っあ、ちがさ」
その隙を狙って、先輩の歯の隙間に俺の親指を奥歯に向けて差し込んで、閉じられないようにする。
「んっぁ、」
「先輩」
親指を入れた横から、唇を合わせて指を抜く代わりに舌を差し込んだ。
「んっ……」
「は、」
先輩の舌を俺の舌で絡め取った瞬間、今まで体験したことのない痛みが俺の舌に走った。
「ン、ンんんッ!?」
よもや噛まれたのかと思わず衝撃に舌を引っ込めるけれど、舌を引っ込めた俺の口内にその凄まじい痺れが広がって、頭がスパークする激痛に俺は瞬間的に口を押さえて身体を折り、結果先輩の足元に蹲るように跪く事になった。
「……だから止めようとしたのに」
俺が涙目で苦悶しながら見上げると、先輩が俺の目の前にしゃがみ込んで、バッグからペットボトルの水を出した。
「辛いものの時は水飲まない方がいいとか聞くけど、どうする?」
俺が無言でそのペットボトルを掴むと、先輩は譲るように手を離したので、即座に蓋を開けてその水を飲んだ。
正解か不正解か分からないが、ほどなく異常なほどの激痛は去った。まだ痺れが残ってはいたが、俺は震える声で分かりきった事を先輩に聞いた。
「な、にを、食べたんですか」
先輩は膝に頬杖の肘をついて、少し顔を傾けて笑顔で俺を見た。
「この近くに出来た、イギリスから初上陸って触れ込みの新しい激辛カレー屋に監督さんと行ってきた。最大辛さに激辛ソースプラス赤唐辛子生でトッピング二倍量。ちょっと雑な辛さかなって思いながら帰ってきたとこだよ」
「それが人間のすることかよォ…っ!」
俺が床に額を付け丸まって唸ると、先輩が俺の頭皮をつんつんと指で突いた。
「俺は止めようとしたよ? さすがに今はキスしない方がいいんじゃないかって。でも茅ヶ崎が聞かなかったんだよね?」
「……先輩に、嫌われたのかと思って。ムキになりました」
ぐぅ……とさらに縮まる俺を、先輩が楽しそうに揶揄う。
「あはは。茅ヶ崎、ダンゴムシみたい」
俺はもう悔しくて悔しくて、そして監督さんの足元でダンゴムシを演じた真澄と俺が今同じ立場だと痛感させられた。馬鹿みたいだ、っていつかの俺に笑われて見下されそうだ。でも、仕方ないだろ。
「……先輩のためなら、ダンゴムシも辞さない覚悟ですよ」
「へえ? じゃあ、茅ヶ崎。キスしてよ」
「は?」
俺が信じられない言葉に上半身ごと起こして先輩を見上げると、先輩が俺を見下ろしてにやにやと悪い顔で笑っていた。
「キスして欲しいな」
「それって」
「今すぐ。ね、キスして、茅ヶ崎」
数秒後、俺が再び呻いてダンゴムシになったのは、ぜんぶ恋のせいだ。俺の頭の上で楽しそうに笑うとても意地の悪いノーロマン先輩に、恋してしまったせいだ。