春先、猫の眼から.
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微かに香る風が窓から流れ込み顔を撫でていくのを感じ、瞼を開ける。鼻がこそばゆいと思ったら、風に乗って桜の花びらが入ってきたようだ。桜が咲き始めたか。
この家に住みはじめておよそ半年。数年間続けた野外生活に慣れすぎてしまったせいか、未だにこのふかふかなベッドが柔らかすぎて馴染めない。でも、耳と尻尾を頭や体の下に置いてしまっても痛くならないから、柔らかい寝床は好きだ。
クロゼットから白ベースに若苗色の帽子がつくロングパーカーを取り出す。草と土の匂いばかりついていたこのパーカーから、今は柔軟剤の香りがする。その下にあった紺色ベースの長袖に、いつも合わせているズボンも取り出す。寝間着をそれらに着替え、部屋を出る。この部屋は客室だったが、今は僕の部屋という扱いで、ドアに「Rui」という看板までつけてくれている。
歯を磨きながら、暇を持て余した脳で記憶を辿る。
親離れして以来、初めて飼い主を得た。名を天馬司という。いつも司くんと呼んでいる。僕と同じく、ショーを観るのも、ショーをするのも大好きで、出会いもまさにショーがきっかけだった。今思えば、これが人間の言う運命というものなのかもしれない。だって、今までも僕を飼いたいという人は数人いたけれど、一緒にショーをしてほしいという希望に応えてくれる人は一人もいなかったから。
キッチンに向かえば、司くんはもうエプロンを腰に巻いていた。
『おはよう、司くん』
自作の意思疎通道具で、口を動かさずに司くんに話しかける。ピアスの形をしたそれは、頭の上に生えている耳につけている。
「お、今日も早いな。類の分を一番先に用意したから、もう食べれるぞ」
『ううん、僕は急がないし、一緒に食べるよ』
「ではすぐ行くから先に座って待っていてくれ」
司くんはいつも自分のことを未来のスターと言うけれど、眩しいぐらい輝く姿を僕には、時々太陽に見えた。いや、太陽だと直視すらできないから、僕が目で独り占めできる時間を得るために、苦手だった早起きを克服させてくれた司くんは、本人の言う通り、星(スター)のが正しいかもしれない。
『「いただきます」』
司くんの家族…今は僕の家族とも言える、揃ってややグラデーションのかかった金色をした髪の、ご両親と妹の咲希くんと食卓を囲む。少し前まで僕はおかずを口に運びながらチラチラと司くんを盗み見をした頃もあったが、何故かいつもすぐに咲希くんに気づかれてはふふっと微笑まれるのが妙に恥かしく、食事に専念するようになった。(尚本人には一度も気づかれることはなかった。)
司くんは人間で、勉学に励むことを義務付けられているので、今日も学校へ向かうために家を出る。咲希くんの後ろをついてこちらに背を向く司くんを見て、思わず頭の中で名を呼んでしまった。
「ん?呼んだか?」
『あっ…ごめん、なんでもないよ」
慌てて耳につけっぱなしだった水色のピアスを外す。手に握ってる少し細長いピアスは、家を出る時に作ったもの。家を出るまでずっと猫語で難なく生活できていた僕は、頭の良さには自負しているが、違う種族の言葉をすぐにマスターできるほどではなかった。そこで、翻訳機器を作ったほうが早いと思い、どうせならと口を使わなくても伝わるものをと思ったら、こんなものが作れてしまった。(そのせいで数年経っても人語は下手なままである)
司くんには「それで何か賞が取れるのでは??」と何度も言われたが、伝えたくないことまで伝えてしまうという致命的な欠点があるので、賞は無理だろうと思った。
現に、この不自然な状況を作ったのも正にその欠点が原因だった。さっきは非常に危なかった。『出かける前に、キス、したいな。人間が、恋人が出かける時に、するようなキスを。』なんて思ったことが、本人に伝わってしまう所だった。
僕は、恋人でもなんでもなく、ただの飼い猫なのに。
「ん?どうした?急にピアス外して」
「…口で、いってらっしゃいって、言おうと思って」
「なるほどな!類も喋るのがますます上手になったもんな。うむ、いってきます!」
「いってらっしゃい。つかさくん」
「暇だったら出かけてもいいが、晩ご飯までには帰ってくるんだぞ」
「うん。わかってるよ」
洗面所で綺麗に整えた髪をわしゃわしゃと撫で乱される。司くんは僕より一回り小さいのに、まるで小動物を撫でるような手つきで腕を伸ばして撫でてくる。
バタン、という音で門は閉められ、もう司くんの姿は見えないはずなのに、目を閉じれば、まださっきの暖かい笑顔が瞼の裏に浮かんできて、胸をざわつかせる。
このざわめきを言葉にして伝えたら、
伝わったら、
どうなるんだろう。
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妙に一人でいるのが寂しくなって、テレビをつけてみた。ちょうど、猫と触れ合う番組が流れた。猫と言っても、僕のような大きさではなく、完全に動物なほうだけれど。
『わ、舐めてきた!』
『猫ってよく舐めてくるよね~!』
『ね~!人型の猫も舐めてくるのかな!?』
『え!どうだろう!?』
ぼーっとテレビから流れる会話を耳に入れながら、二人の人間に可愛がられている子猫の真似をして、手の甲をぺろっと舐めてみる。少しだけざらっとする舌の感触が残った。人型の猫は、どこまで許されるんだろう。
「今日は…暑いな」
人型でないとショーは難しいし、猫型の同族を羨むことはなかったのに、テレビの画面を見ながら生まれて初めて、自分が猫型だったら、もっと軽率に色んなことができたのかな、なんて思った。
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この頃、体を上手く制御できない時がある。司くんのことを可愛いなと思った次の瞬間にはもうハグしていたり、隣にいればその柔らかい金糸に自分の紫を混ぜるようにすりつけてしまっていた。
それらの行為を司くんは猫のスキンシップだと思っているようで、「甘えたいのか?よーしよしよし!存分に甘えたまえ!」と言いながら頭を撫でてくるが、ただ甘えたいだけではないと、自分の中でぼんやりと違和感を感じていた。
本能に身を任せて「スキンシップ」を進めると、足りない何かが満たされる気もするが、それよりも同時に生まれる「もっと欲しい」という気持ちが強かった。それで頭の中がこんがらがって、ピアスをつけてても伝えたいことが思うように伝わらないこともあったので、喋りの練習も兼ねて、ピアスはどうしてもという時にだけつけるようにした。
今日は僕の両腕の中に納まりながら、表情が見えなくとも分かるほど、楽しそうな声で昼間の出来事を話してくれる司くんが愛しくて愛しくて、気がづいたら目の前にある綺麗な形をした耳をぺろっと舐めてしまった。
司くんの話がぴたっと止まったことで我に返り、慌てて舌を口の中にしまい、様子を窺う。
「…び、びーっくりしたぞー!は、ハハ…っ」
そう言いながらも司くんはこっちへ向いては笑顔を作ってくれた。が、いつもは元気に上へと伸びる眉がやや下がり気味になり、加えて布越しでも伝わってくる微かな震えからして、司くんも僕の行動に戸惑っているだろう。
「…っ ごめん」
「い、いや?気に、するな。話…続けるぞ…っ」
「…う、うん」
どぎまぎする会話を交わした後、司くんは顔を元の方向へ戻し、再び表情が分からなくなった。それでも、僕のややざらっとした舌に舐められたせいで少し赤くなった司くんの耳が見え、僕は心の中でもう一度「ごめん」と呟いた。
流石におかしいと思って調べてみたら、季節と年齢的に、どうやら猫の発情期がきたらしい。字面のインパクトは強いが、それが分かればかえって潔かった。普通、春が過ぎれば元通りになるとのことだし、少し寂しくなるが、2~3ヶ月ぐらい司くんと少し距離を取れば… など、脳内で対策を練っているそばから、もう体がいうことを聞かずに司くんにべったりくっついている。ここは僕の部屋で、他に誰もいないとはいえ、明らかに正常な距離ではない。
あああ、その細い腰に回している不躾な僕の腕を、引き剥がさなければ。
「なぁ、類」
「っ ど、どうしたんだい」
まるで他人と綱引きでもしているような気持ちで自分の体と戦っていたら、司くんが今までにない真剣で、それでいて少し困ったようにも見える顔で名前を呼んでくる。真っ直ぐな瞳に全てを見透かされそうになり、心臓がバクバク煩く存在を主張し、手を、足を震わせる。僕が、僕が自分をコントロールできていないから、ついに嫌な気持ちにさせてしまったんだ。
ああ、触れたい。
駄目だ。
シャツの襟から見える白い首を、熱くなった舌で舐めてみたい。
だめだ。
「オレ、今日獣医の所に行って聞いてみたんだが、」
司くんの声が耳に入るが、いつものはきはきとした感じでなく、膜を一枚隔てたような聞こえ方になっていた。
ピアスをつけていなくてよかった。
体の中で暴れるこの熱をどうにかしたい。
司くんに、ぶちまけたい。
ちがう、ちがう、
だめだ、そんなことしたら、
「お前もしかして…発情期なのか?」
嫌われる。