ヴ墓大規模改修をするからと、一部の人が部屋を追い出されることになった。
どうやら人や、人じゃないのが増えすぎた結果荘園の部屋の数が足りなくなったらしい。
数日で終わりますから、と追い出される予定の人たちはぶーぶー不満を垂れていたが、その後に来た通達にナイチンゲールの部屋のドアを必死で叩くのが何人も出る羽目になった。
「よりにもよってお前か……」
朝目を覚ました僕は、自分の部屋が少し広くなってることに気づいた。視線の先には昨晩までなかった大きなベッドがあって、なんらかの荷物が床に散乱している。
近づいてみても起きる気配のないベッドの中の主人に、恐る恐るシーツを捲る……割と見たくなかった顔が、そこにはあった。
そう、部屋が足りなくなったから移動させられる。
つまり誰かが誰かの相部屋になるということ。
少しの間にすっかり全て終わりますから、とこの機会に親睦でも深めろとでも言いたげなナイチンゲールからの通達に移動の対象になったハンターもサバイバーも、そりゃあもう猛抗議だった。
ある程度の配慮はされるし、結魂者みたいな規格外のドアが必要な存在は一人部屋がどうにか割り当てられたのだけれども、みんなもういい大人でしょう?と言われて仕舞えば口を閉じることしかできなくなった。
「嫌だ……」
ベッドからはみ出しそうなほど長い髪の毛。
閉じた瞳の、伏せられたまつ毛。
眉間に皺のよる、寝顔。
その全てがまさか僕の部屋にいるなんて。
神とやらは、やはり僕に優しくない。
僕は彼に、恋をしている。
「……貴様の部屋か、これは」
わざわざ僕の部屋を選んでくれた運命に対し、さっさと一人で何処かへ行くのも失礼かと思い、僕は一人で静かに朝っぱらから日記をつけていた。
勿論内容は今起きてることについてだ。
机に向かっていた僕はペンを置き、彼の方を向く。
うねうねと不機嫌に蠢く髪の毛だったが試合の時ほど恐ろしいとは思わない。
機嫌がとても悪いです、といった表情の顔は寝起きだというのになんだか劣情を煽る顔をしていた。
思わず顔を顰める……それはカモフラージュでもあったのだけれども。
「そうだ、僕の部屋で悪かったな」
「……この部屋は光が入らないだろう」
「……そう、だけど」
「今からでも部屋を交換しないか、私と。出来立てほやほやの部屋を開け渡してやろう」
「お前からすれば僕の皮膚がどうなってもいいと、そう言いたいんだな」
喧嘩をしたいわけじゃないのに、彼から売りつけにくるのだから買ってしまう。
こんな憎まれ口を叩かなくたって、きっと僕たちは会話ができるはずなのに。
「冗談だ、アンドルー」
「そんなことよりも、だ。お前の部屋散らかりすぎじゃないか……なんで部屋ごと?移動してきた直後なのに、床に色々散らばってるんだよ……それ試合で着てる服だろ……」
「酒を飲んで、眠くなって、そのまま脱いで寝た。それだけのことだ」
「ダメ人間!」
立ち上がり、彼の床に散らばった服を集め寝ぼけ眼の彼に投げつける。
起き上がった彼に近づいてようやくわかった、彼は寝る時シャツのボタンを開けて寝るタイプらしい。
「貴様はまだ私を人間と呼ぶか」
「めんどくさい駄々捏ねてないで片付けろよ!暫くはお前の部屋かもしれないが、ここは僕の部屋でもあるんだ!」
丸ごとそっくり、というわけにはいかなかったけれどもどうやら部屋の空間ごと僕の部屋にくっついたようだった。
一体どんな魔法を使ったというのだろうか、難しいことは考えない方がいいかもしれない。
下半身が蛇の女だとか、邪神だとか、体の動きを止められるほどの呪いが使える女だとか。
そんなのここにはわんさかいるのだから、今更考えたところで…遅い。
「早くしろよ、朝飯に遅れるから」
「いい、私は食わん」
「うるさい!早くしろって」
もう一度眠りに入ろうとする体を無理やり引っ張り起こしてベッドから引き離す。
ほとんど開いてない瞳だったけれども、棚から服らしきものを出してきてやって叩きつければ、モタモタと着替え始めた。
そういえば、こいつを朝食会場で見た記憶がない。
こいつの言う朝とは、昼のことではないだろうか。
「……これでいいか。私はおそらく飯を食べながら寝るぞ。無論そうなれば貴様がここまで連れて帰ってきてくれるのだろうな?行動には責任を取れ」
「ああもう、いいよ!寝たらお前を引きずってここまで持ってきてやるから!」
この図体を引きずるにはやはり足だろうか。
それとも、眠った体を箱か何かに詰め込んでソリか何かで運んだほうが早いんじゃないだろうか。
僕は朝から重労働を強いられるのだろうか、こいつのせいで。
そんな不安をよそに、彼は至極まともに朝食を食べ、食後のコーヒーまで堪能してからしっかり自分の足で部屋へと戻った。
(今までの苦労はなんだったんだ……)
「お、アンドルー!お前の部屋確か移動の対象だったよな」
「ウィリアム」
「聞いてくれよ!てか聞いてくれなくても言うんだけどさ、俺の部屋に来たのガンジだったんだよ!朝起きてもうびっくり、気の合うやつと相部屋なんてなんかウキウキするよな」
「サバイバーも部屋移動の対象だったのか……?」
ニコニコと嬉しそうに話す内容はスポーツの話だとか、筋肉の話だとか、一緒になれてどれだけ嬉しいか話し合った、だとか。
自分の部屋とはまるでかけ離れた内容で、話が右から左へと通り抜けていく。
「ある程度希望は出せたみたいなんだ、ハンター同士がいいとか、気が合う奴の部屋がいいとか。流石に異性の相部屋は無理みたいだけど」
「あぁ……」
「それでも意見が通らなかった部屋もあるみたいなんだ、聞いたか?ノートンの部屋にボンボンが来たらしい。どんな会話してるんだろうな?」
思わず視線で二人を探した。
すると遠くの方でノートンの後ろをついていくボンボンの姿が見える。
なにやら可愛らしい機械音を立てながらついていくその姿はまるで産まれたての雛のようだったが、ノートン自身は迷惑極まりないといった表情で。
とうとう遠くの方から
「だから!僕の磁力でお前の中身がおかしくなるかもしれないだろ!離れろ!」
という絶叫が聞こえた。
そのうちあの部屋はまだ移動し直しになるのではないだろうか。
「ノートンだって別に好きで邪険に扱ってるわけじゃなそうだけどな」
「まあ……ボンボンの要望書はバルクが書くべきだったんじゃないかと思うが……」
バルクもなかなか朝見かけることが少ない。
昼まで寝ているか、部屋にこもって機械を触っているとか、そんな感じだろう。
おそらく昼頃には老体の悲鳴が聞こえることになるだろうが。
「で、お前の部屋は誰だったんだ?」
部屋の移動先の対象者は通達が来る。
快活なウィリアムみたいなのは兎も角、対人関係を進んで築きたいわけじゃない僕みたいな人間ばかり狙って選ばれているように思えたが、気のせいではないような気がする。
「……オ」
「え?」
「アントニオ!……っ、笑えよ!」
彼の笑顔が固まった。
なんなら、引き攣っているようにも見える。
「え……お前、それ大丈夫……なのか?」
思わず唇を噛み締める。
彼みたいな純粋な人に心配されるのが、一番心に来る。
「大丈夫じゃ……ない……」
僕は感情を隠すのが下手だ。
動揺なんてすぐ見抜かれてしまうからブラックジャックも弱いし、焦るとすぐ恐怖心が湧き上がって立つことすらできなくなる。
だから、荘園にいる何人かには僕の恋慕はばれているのだ。
それは他人の感情を察知するのがうまくてそれを手玉に取る嫌な奴だったり、ピュアで無邪気だからこそ僕の感情に対してバレてないよと言うのが下手な奴だったりする。
彼は後者だ。
「そ……っかぁ……いや、まぁでもさ!ほら、わかんないぜ?ほら、なんかこう……あるじゃん!」
「ウィル、君は励ましが下手くそすぎる」
背後から現れたのはガンジ・グプタ。
手のひらで優しくチョップをかます彼の顔にもなんとなく配慮の色が浮かんでいる。
「だってよぉ……運だっていったって、気まずくねえか?好きな奴と同じ部屋……」
「……まぁ、しかし……それをチャンスにすることもできるんじゃないか。そうだろう、アンドルー」
「ちゃ、チャンスって」
「なにも迫れと言ってるわけじゃない、知らない一面を見れるかもしれないという事だ。折角の機会だ……積極的に関わってみるのはどうだ?」
まさかクールな彼の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。
なんだか彼自身も照れているような気がする。
それもそうだ、こんなベタベタな恋愛模様に付き合わされているのだから、赤面の一つや二つするだろう。
砂糖すら吐きそうなシチュエーションではあるが、僕は胃液を吐きそうだ。
「……二人とも、ありがとう」
頑張れよ、と二人は僕の肩を叩いて去っていった。
二人は昼の試合があるのだろう、そんな内容の会話をしながら部屋へと戻る二人をなんだか羨ましいと思った……僕にも仲のいい人がいれば、と。
気にかけてくれる二人に対して仲が良くないと言えば嘘だが、〝彼らのように共通の話題、熱を持ったもの、似た点〟がある存在なんて、この荘園にはきっといない……。
「はぁ」
今から憂鬱だ。
これから僕は彼と同じ空間で息をして、同じ空間で寝て、同じ音を聴く。
そんな数日、耐えられる気がしない。
絶対にどこかでボロが出てしまう。
(成就しろだなんて、贅沢なこと思ったことないのに)
この恋心は胸に秘めたままでよかった。
伝わらずとも、実らずとも、誰かを好きになった経験、それだけがあればよかったのに──
(でも、僕はなんで彼を好きになったんだろう)
思い返してみれば、好きになる要素なんてほとんどないはず。
冷たいし、すぐに皮肉を言うし、揶揄うし。
優しいと思ったことなんてあっただろうか?惹かれる条件として彼の振る舞いは比較的薄いはずだ。
紳士かと思えば悪魔のようで、悪魔かと思えば人間のようで。
僕は彼に心をかき乱され続けている。
「アンドルー」
実によく聞き馴染みのある声で呼び止められ、僕は外へと向かう足を止めた。
ひどく不機嫌そうな顔のアントニオは僕の肩を掴み、顔を近づけて詰め寄ってくる。
「私の酒をどこに隠した」
「は?隠したって……僕とお前、一緒に出てきたじゃないか。お前の荷物なんて触る暇ないだろ」
「私が寝ている間にくすねたんじゃないのか」
「は!?失礼な!僕はそこまで落ちぶれちゃいない!」
激昂した。
急に覚えもない罪を被せられ、しかもそれは僕に対する偏見の塊で。
いくら好きな相手とはいえ怒るのも当たり前の話である。
「……だとしたら、なぜ私の棚から酒が消えている」
「知らない!お前のことなんか考える必要性は僕にないんだ、手を離せ!」
無理やり掴まれた肩から手を払いのけ、怒りに任せて飛び出した。
向かう先は屋敷の裏側、日の当たらない影の中。
苛立ちに任せて落ち葉の山へと頭から突っ込む。
がさがさと鳴る葉っぱ達が僕を歓迎してくれているようだった。
そもそも僕は酒なんて飲まない。
飲む機会がなかったというのもあるけれど、あんな毒を体の中に流し込むだなんて、真っ平ごめんだ。
「ふん、いいさ……どうせ僕は……」
幼い頃、こうやって落ち葉の山に頭を突っ込んで母親から叱られたことがある。
虫がつくからだとか、葉の鋭い部分で顔を切ってしまうとか、色々な心配からだったけれど。
なんだか急にそれを思い出して、心の奥がぎゅう、となる。
「僕なんて……」
この落ち葉の山に、虫がいればよかったのに。
そうすれば、僕よりも無力な存在をただ眺めて自尊心を満たすことができたかもしれないのに。
けれど、ここには虫がいない。
命の音は、僕たち以外に必要ないのだから。
「……」
葉を枕にして、空を見上げる。
忌々しいほどの曇天。
陽の光なんて見当たらないほどの、紫外線なんて存在しないんじゃないかと思うほどの。
そのまま少し目を閉じて、小さな考えことをしてみる……例えば、今ここに彼が訪れたとして、僕に謝ってくれたら。
僕は彼を許すだろう、ちょっとばかり背中を小突いて、一緒に酒の瓶を探してやってもいいかもしれない。
僕の予想だと、こうだ……部屋の移動をする時、きっとどこかに荷物をズレて送ってしまっていたとか、そこだけ送り忘れて、今頃改築されている彼の部屋の中にあるだとか。
どうせきっとすぐ見つかるものだ、なんなら新しく買い直せばいいものだ。
彼は僕とは違う。
無くしたものに対して怒れる人だ。
どうして無くなった、と探せる人だ。
僕は何を無くしたって諦めてしまう、そういう人生だったから。
だからきっと、彼への気持ちすら無くしてしまっても諦められることができるだろう。
初めからなかったかのように。
「……そう、できればよかったのに」
もっと早いうちに、そうなってくれればよかった。
心の奥底に根付いてしまった思いは簡単に無くすことができない。
僕の最愛は未だ心の中で安らかに眠っている。
他人に期待するよりも、自分で救いを探す方が早いのだ……だから、だから。
「そうしたら、僕はきっとこんなにも悩むことなんてなかっただろうに」
彼という根が心の中に住み着く前に、僕は全てを捨てたかった。
理由もわからないまま恋に落ちて、理由もわからないまま避けて、それなのに彼はこれから僕の部屋にいることが決まって。
とてもじゃないが、苦しくないとは言えない。
他人への愛なんて、渡し方も見せ方もわからない。
「……僕は……」
ぽつり、ぽつりと独り言は曇り空へと消えていく。
「それでも、アントニオのことが……好きなんだろうなぁ……」
諦め、懺悔、誠実な愛の告白。
真っ暗な世界の中、音すら聞こえないこの世界に吐露した思いを知る者はどこにもいない。
それでいいのだ、きっと。
目を覚ますと、すっかり外は暗くなっていた。
ぽつりぽつりと見える明かりを頼りに屋敷へと戻っていく……その途中で、僕は何かに躓いた。
見てみるとそれは何か硬いものだった。
暗い中視力の悪い僕はそれが何かわからず持ち上げてみる……触ってみると、それは何かの瓶のようだった。
まさか、と思い持って帰る。
「どこ行ってたのさ、お酒の瓶なんて持って珍しい」
頭を撫でられたかと思えば、葉っぱがついたままだったようだ。
ニコニコと笑っているように見えるデミの言葉に、僕は確信を得る。
「葉っぱ…ありがとう、デミ」
「ん?あぁ、頭にそんなのくっつけて、まるで子供みたいね」
そう言って彼女は僕の頭を満足そうにぐしゃぐしゃと撫でて去っていく。
僕は空っぽの瓶を携えて自分の部屋へと向かい、ソファで眠りこけていたアントニオを叩き起こして、不満そうな顔の前に今さっき拾った瓶を突きつける。
「これ、お前のだろ」
すると彼はひどく驚いた顔をしてそれを受け取り、僕の顔と瓶を交互に見つめ何かを言いたそうに口を動かす。
「そらみろ、僕は盗んでなんかいない。どうせ酔っ払って外まで行って、そこら辺に置いてきて帰ったんだ。結局飲んだ後じゃないか」
僕はもう怒っていない、呆れが勝っていてる。
彼らしい話のオチだと思ったから、そうした。
酒浸りで、どうしようもなくて、他責思考で、最後には綺麗なオチがつく。
それでいいと思ったからそうした、のに。
「アンドルー、これをどこで」
「外って言っただろ!」
なぜか煮え切らない。
というより酷く動揺しているように見える。
怒られるのが怖いとか、そういうようには見えない。
無言の時間に、何か裏があるんじゃないかとすら思ってしまう。
「ふ」
「ふ?」
「ふっ……ふ、は、ははは!」
「なっ!なに笑ってるんだよ!僕は真剣に……」
「いや、存外私は間抜けなのだと、自分に呆れていただけだ」
「え?」
その笑みは、確かに嘲笑ではなかった。
面白くて仕方ない、愉快で仕方ない、けれどもどこかで何か呆れているような、そんな笑いだった。
感情には鋭い方だ、この直感が嘘だとは思えない。
「すまなかった」
「え……あ、うん、別に……」
彼はずいぶん素直に謝罪をして静かな笑みを浮かべ、僕の方に歩み寄る。
心臓がどきり、とした。
それは御伽話のきらびやかなときめきなどではなく、痛みを伴う、心臓の音。
空っぽの瓶を僕から受け取って、それを床に置く。
明日捨てる、と言う彼にこれ以上なにも言及する気にもなれずもやもやとした感情が渦巻いたまま、兎に角僕は部屋を出た。
(思い出した、僕が彼を好きだと思った理由)
笑った声が、随分と自分に似ていたのだ。
自分の声なんて録音でもしなければなかなか聞く機会が無いが、この人生の中心から笑えたことなど数えたことぐらいしか無い。
だからこそいつだったか……たまに笑えたその瞬間、自分の声を覚えておこうと決めたのだ。
笑みを浮かべる彼が近寄ってきた時、まるで自分が目の前にいるかのように錯覚した……そんな筈はないのだけれど。
あんな空っぽの瓶、お互いにとってどうでもいい筈だった。
アンドルーからしてみれば自分の疑いを晴らすため。
アントニオからしてみれば、自分の不利益を精算するため。
けれども中身が無いともなれば、アンドルーはそもそも全くの無罪であるし、アントニオは散々探した結果骨折り損のくたびれもうけだ。
だからこそ、二人ともこれ以上揉めないように、と素直に言葉を交わした。
けれども……それは他の人でもそうだっただろうか?
「……でも、あんなところまで酔っ払って行くものなのか、アイツも」
少しの疑問を残したまま、日は暮れて行く。
そんな中一つの悲報…吉報が届いた。
夕飯の香りが漂う食堂の掲示板に張り出された一枚の紙に、みんなの話題は持ちきりだった。
「じゃあまだ俺たち腕立て伏せ競争続行できる、ってことだよな!」
「受けてたとう」
「彼女、静かにしてると本当にお人形さんみたいなんだけど……日中ずっと石膏いじったり石削ったりしてるから、部屋が粉まみれになっちゃって……換気はしてくれてるんだけどさ」
遅れてたどり着いた会場に、アンドルーはデミに手招きをされ紙を見る……それは改築工事が思ったよりも時間がかかりそうだということ。
そしてその補填について。
荘園もなにも考えていないわけでは無い、相部屋にさせられた者にはいずれ何かの形で何かを渡すと……行って仕舞えば、それは賄賂に近いのだが。
「勘弁してくれ……僕はいつまでアイツといればいいんだ」
「アンドルー、そういえばアントニオと揉めたってきいたけど大丈夫?」
食事を義務のように運ぶ中、隣の席のデミからの言葉に思わず口の中のものを吹き出しそうになる。
「はっ……!?どこからそれを」
デミはあっ、と口を手で抑えて軽快にウインクをした。
その可愛らしい仕草に騙されるほどアンドルーは男ではなかったが、いったい自分の気持ちはどこまで漏れているのだろうと不安になる。
「あの人、私のお酒飲みに来るからちょいちょい関わりはあるのよね……なかなか面倒じゃない?彼」
「面倒に度合いがあるなら、最上級だろうな」
「じゃあ、彼は案外甘えん坊だってのも知ってる?」
今度はテーブルに頭を打ち付けたくなった。
「デミ!周りに人がいるだろう!」
「いやいや、あの場にいる人ならみんな知ってるよ。アンドルーはあんまりお酒の集まりに来ないから知らないだろうけど……ねえ?」
と言葉を投げられた先にはウィリアム。
頷く彼の目線の先のガンジも静かに首を縦に振り……少し離れた席にいる頼まれてもいない狂眼とリッパーがうんうんと腕を組んでいる。
「えっ……そんなに酷いのか」
「酷いって言うか、絡み酒じゃないだけマシかねぇ……つらつらと自分の孤独について語って、ひたすら人について語り出して……いやいいんだよ、そういうものだしお酒って。でも大の大人が人恋しくて静かに涙を流す姿はなかなか……」
「ええっ!?」
想像もつかない。
いつも皮肉に笑みを浮かべては腕を掴み、椅子を蹴り飛ばすような彼が。
人恋しくて泣く。
そしてそれを繰り返す。
あり得ない。
「最初は失恋かと思ったのよ、でも違うの。彼、女の人を口説くのは得意だけれど心を預けてもらったことは一度もないのね」
「流石だなデミ!俺お前の言ってることが全然わからん!」
「わからないなら黙ってろウィル」
「バーメイドであるからこそこんな話きっとしちゃいけないんだろうけど、でもみんな知ってることだし、貴方は今同室でしょう?なら知っておかないと……今って、ほら。そういう時間だし」
彼女に言われて僕は慌てて壁の時計を見る。
酒盛りを始めるにはぴったりの時間かもしれない。
「彼、お風呂にはもう入ったのかな……アルコール入れた後の入浴って危」
「!!!!」
慌てて立ち上がり、食事の挨拶もそこそこに部屋へと急いで戻る。
彼が自分の部屋で溺死している風景を思い浮かべて、背筋が凍った。
「行っちゃった……でも本当に言っちゃってよかったのかな、これ」
「バーボンさんは彼の背中を押してあげたんじゃないか?」
「ええ、貴女は彼を案じてあの飲んだくれのことを話したのですから。善行を積んだと言えるでしょう」
部屋に戻ると、そこには案の定酔い潰れた大男が床に寝転がっていた。
転がる酒瓶、カーペットに溢れた真っ赤なワイン。
確かに今は二人の部屋かもしれないが、そもそもここは自分の部屋である。
たった今、心配より不快が勝った。
「アントニオ!!!」
人生で一番の大声が出た。
「……あ?」
本当にその横顔を引っ叩いてやりたい。
という気持ちを少し込めて引きずり起こした、気持ち強めに。
床に座らせた彼は肩が痛いと不満を述べたがそんなの知ったことでは無い。
「まさかその泥酔状態で風呂に入ろうというわけじゃないよな!」
「ふろ?……風呂、か。……あぁ……そうだな」
心底呆れたまま長い腕を引っ張って風呂場へ連行し、服をはぎ取り浴槽へと送り届ける。
その感何か特別な感情が湧くわけではなかった……最早世話だ。
一人でいる時の彼は一体どれほどズボラなのだろう。
大きなため息をつき、脱いだものをカゴに放り込み、甲斐甲斐しくクローゼットから寝巻きらしきものを一式脱衣所に放り投げる。
「溺死してくれるなよ!」
と何度もドアの隙間から様子を確認する姿はまるで親のよう。
そんな心配をよそに少しだけ酔いが覚めたアントニオはのんびりと体を温め、出てくる頃には千鳥足ではなくなっていた。
「お前が風呂で死んでいるかとおもって」
「それはご丁寧にどうも」
湯船の中で思考が少しクリアになったのだろうか、髪の毛を拭きながら出てきた彼は普通に見えた……見えるだけだ。
「聞いたんだ、泥酔した状態で風呂に入ったら溺れて死ぬんだって……体が温まるからアルコールが回るんだと」
「酒に溺れて死ぬ、ということか。面白いじゃないか」
「僕の部屋で死ぬな!」
それに、お前のことが好きだからまだ死なないで欲しいと言いたかったけれども頑張って飲み込んだ。
会話が下手なのだ、生まれてこの方友達と言える人間は誰一人いないのだから。
「これでようやく晴れて私はこの、大きな、ベッドで、君に邪魔されず、眠れると。そういうことだな」
皮肉たっぷりに再びベッドへと横になる姿に、髪の毛乾かさなくていいのかとか、喧しいだとか、色々浮かんだけれども……これ以上彼に声をかけたところで不快に思わせるだけだろう。
僕はそう思って、一つため息をついて自分も風呂に入ろう、と思った。
そして彼の皮肉は受け止めたまま持っていって、脱衣所へと向かう。
返答のない皮肉はただの悪意だ。
アントニオは体を起こしてアンドルーが去っていった方を見る。
そして顎を自分の指の腹で撫で、何かを考え……思いついたように立ち上がる。
そう、彼がやる事といえば大抵ロクでもないことなのだ。
「着替えがない」
湯気がほわほわと立つ濡れた体は一心不乱にさきほど置いたばかりの着替えを探す。
濡れたままでは良くないと体をタオルで拭きながら探すけれども、置いたはずの場所にない。
もしかしたらここに置いたのは自分の気のせいだったかもしれない、と脱衣所をいろいろ探してみたけれども、何も見当たらない。
壁にかけてある鏡がどんどん曇っていく。
(……行儀が悪いけど、仕方ない。タオルを巻いたままいくしか……)
クローゼットにさえたどり着いて仕舞えばなんて事ない。
けれどもその道中には彼がいる。
とはいえどうしようも無いので今は揺れる心を抑えて服を取りに向かうしか無い。
髪の毛の水気をしっかり拭き取って、そーっと壁から彼のいるところを覗く。
どうやらベッドで眠っているようだった。
ほっとした気持ちでゆっくり彼を起こさないようにクローゼットへ向かおうとすると……何かが腕を引っ張った!
「うわ!」
タオルを抑えていた手が思わず離れるところだった。
「何をしている?」
「あっ!いや、あの……着替えが、見当たらなくて……もっ、持ってきたと!思っていたんだ……クローゼットにはまだ、服があ……あるっ、は、ずで」
眠っていたと思っていた彼が自分の姿を見つめている。
布一枚隔てた自分の裸体を見ている。
急に思考が鈍った、顔が熱くなって、己がとても矮小なものに思えて。
恥、その気持ちが一点だけ脳内で暴れている。
「ふぅむ……」
「みっ、見ないでくれ……!」
恥を通り越して、涙が出てくる。
急いで服を取りに行こうとしたけれども、引っ張られた腕のせいでうまく動けない。
なぜ離してくれない!と振り返り、彼の顔を睨みつける。
けれども彼の表情はまるで何かを品定めしているかのように、真剣だった。
「離せ!」
「嫌だと言ったら?」
「なっ……馬鹿なのか!?僕が風邪をひいてもいいっていうのか!」
「ならば、引かないようにすればいい」
そう言って彼は僕の体を力づくで引っ張る。
そしてそのまま僕は大きなベッドに放り投げられ、その衝撃でタオルがはだける。
突然のことに混乱している僕は体を隠すことすら忘れて呆然としてしまう。
「え、は……は?」
とても正気とは思えなかった。
彼はゆっくりとベッドに乗り上がってくる。
本能的に危機を感じた。
今すぐにでも降りようとする……けれども僕の四肢を彼の髪が伸びてきて、動けないよう縛りつける。
取って食われるのかもしれない、と思った。
そしてすぐに僕は……勘違いをしてしまいそうな劣情を持て余すことになる。
僕の体に覆い被さった彼は大きく、はだけた胸元から覗く鎖骨に目が離せない。
筋張った手のひらが僕の頭を撫でる……撫でる?
「アントニオ?」
思わず名前を呼ぶ。
返事はない。
そして我に帰った……そうだ、今の僕は裸なのであった。