好きを知らずに花のみち。 禰豆子の婚約者は可愛い人だ。
ふたつ年嵩でよく笑ってる人。泣くことも多いけど、禰豆子の前では圧倒的に笑顔が多かった。
だから禰豆子は善逸のことを可愛い人だとずーっと思っていた。泣き虫だけど朗らかでよく笑っている人。
だから、そんな彼には慈しむ想いが強かった。切なく身を焦がすのではなくて、心にほっこりとゆたんぽを抱えるような。そんな安心感、安堵感。婚約者が泣いていれば頭を撫でてあげるし、笑いかけてくれば微笑み返す。
それは、とても穏やかな親愛。底なしの親愛。
この人と結婚すれば、波風ひとつたてることなく平安に暮らしていける。
浪漫小説のように心散り散りになる燃える恋もしてみたかったのは嘘ではないが、禰豆子はやはり平穏を選んだ。同じように善逸もそうだったのだろうと禰豆子は考えていた。
婚約する前も、婚約したあとも彼は禰豆子に指一本触れることなく、ただただ実直に親愛を伝えてきた。だから、禰豆子はそう思っていた。
祝言の日は快晴だった。
禰豆子は白無垢を着ていた。黒の留め帯も捨てがたかったけど、黒の羽織袴を善逸が着るというので禰豆子は白無垢になった。
姿見に写し出された自分は少し幼くて、でもとびきり幸せそう。まさにその通り。先程兄が来て、ひとしきり泣いたあとでもすぐ笑顔になれた。
なんの不安もない。お嫁に貰ってくれる人は泣きたいくらいにやさしい人。心をかき乱すようなことはない。
「お嫁さま、お時間ですよ」
お手伝いにきてくれた人に手を取られて、禰豆子は皆が待つ広間に連れていかれる。少しだけ心臓の鼓動が早い。近所の方や仲の良いお友達、それに不幸を経てからの得難い知人などが参列している。その人たちに晴れ姿を見せるのは少しばかり恥ずかしい。
閉じられた襖の向こうから楽しそうな笑い声が聞こえる。禰豆子はとても幸せだった。
襖前に立っていた兄が目を細めて頷いてくる。お手伝いさんから禰豆子の手を取って、幸せになるんだぞと囁く声に涙が浮かぶ。
控えていたお手伝いさんが、静かに襖を開いた。
左右に別れた参列者の花道。その向こうに、黒の羽織を着付けた男性が立っていた。
「え?」
禰豆子は疑問の声を上げた。小さな声は隣にいた兄にも聞こえなかったのに、黒の羽織の男性はきっちりと拾い上げたらしく少しだけ小首を傾げる。
禰豆子は混乱していた。心臓の音は今までないほどに音を立てていく。兄に促されて、ゆるゆると足を進めていくがどうやって歩けばいいのか分からないくらいに頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「善逸、頼むぞ」
兄がその男性に禰豆子の手を渡す。男性は力強く顎を引いた。
「ああ。何よりも大切にするよ」
下がっていく兄から、目の前の男性に視線をうつす。
こんな人、禰豆子は知らない。
いつも善逸はにこにこ笑っていて優しくて、すぐに泣いちゃうところがまた可愛らしくて。きっと揃いのお人形さんのように可愛らしいめおとになると思っていた。
にゃはーと笑った禰豆子に、同じようにでれーと笑ってくれる善逸を想像していたのに、高砂で禰豆子を待っていた人は、禰豆子が思っていたよりもずっとずっと男の人だった。
黒の羽織に負けないほどの凛々しさ。散切り頭は整えられて、程よく後ろに流されている。ハシバミ色の瞳は優しさよりも色っぽくて。真っ直ぐに伸ばされた背筋は彼の上背が逞しいことを際立たせる。
「禰豆子ちゃん」
そっと囁くような声は低く、あまい。金平糖をとかしてもこんな甘さにはならない。こんな声が出せるなんて初めて知った。やわらかな目元が愛おしいと言うように細く笑まれる。
目は口ほどに物を言う。正鵠を射る言葉だ。
耳まで真っ赤になって、禰豆子はしずしずと隣に並んだ。
綿帽子の影から夫になる人を伺い見る。真面目な顔で正面を見ていた。こんなにも横顔が素敵なんて、そんなことも知らなかった。
視線を感じてか、少しだけこちらに顔を傾けた人がほんの少しだけ口角をあげた。こんな静かに笑うのも禰豆子は初めて知った。
あわてて正面に戻してから、禰豆子は気恥しいように俯いた。心にともる何かは言いようがないほどに甘くて、とろけて、最早どうにもならないほど。
祝言の最中に、花婿様に見惚れるなんて間抜けにもすぎる。
ふわふわと足が浮いてるような。
信じられなかった。祝言のその時になって、禰豆子は夫への恋慕を自覚した。
恋した人と結ばれる、その日の夜に。