どれだけの業を積んだ末なのか。
前世に意味は無い。
竈門禰豆子は生まれてすぐに偶然を配された。それは、竈門禰豆子という名前だ。その名は彼女の前世の名前で、今世でもそれを名乗ることが決定された。しかし、家族は上手く当てはまらず、そこの輪廻は回っていなかった。
禰豆子は一人っ子だ。商社マンの父とキャリアウーマンの母。前世の両親とは真逆だ。
前世の要素は、名前と見た目と性格。と言っても、性格面はあちらの禰豆子は大正生まれで兄弟がたくさんいて、こちらの禰豆子は平成生まれの一人っ子。比べるのは少し難しかった。
禰豆子は大正の記憶を持ち合わせているが、それは櫛の歯が欠けたような断片でしかない。
今世で、兄の炭治郎に会ったことがあったらしい。何故、らしいというのか。それは、禰豆子が幼い頃に、有名なお寺の住職が突然禰豆子を抱き上げて泣き出したからだ。それは母が語ってくれた。抱き上げられた禰豆子もすすり泣いて、お兄ちゃんと住職にすがりついたという。
禰豆子が三つになる前の話で、もう忘れてしまった。覚えていないくせに、寺院を見るとほんのりと心が温かくなる。
そういった不思議な出来事は兄との出会いだけで、何事もなく高校二年生になった。
中等部からの持ち上がりの高等部で、校風はおっとりした禰豆子に似合いの穏やかな女子校。学区外から通うのがつらいけど、大正時代に建築されたレトロで趣のある校舎が気に入っていた。
高校二年生の始業式。
遅咲きの桜が満開。
市の文化財に登録されている講堂の窓から桜が舞い散るのがよく見えた。講堂をぐるりと囲む桜並木はどこの窓からでも桜が見える。
校長先生の祝辞が聞こえる。校長先生はゆっくりとした話し方で、禰豆子はいつも眠くなる。あくびをかみ殺して、禰豆子は背もたれから背を起こして、上履きを履いた足をちゃんと揃えた。
始業式は新任の教師の紹介にうつった。私立だから新任を迎えるのは少し珍しい。そう言えば英語の先生が定年退職したことを思い出した。品の良いおじいちゃま先生だった。
「では、我妻先生から一言お願いします」
禰豆子からは、その先生がよく見えなかった。紹介された先生が壇上にあがってきて、ようやく見える。
まず見えたのが山吹の花の色。金の髪。濃紺のスーツ。まっすぐ伸びた後ろ姿。若い男の先生。
先生の横顔が見えた瞬間、禰豆子は目を見開いた。
世界が、止まった。
「はじめまして。みなさんおはようございます。今年からみなさんと一緒に勉強をすることになった我妻善逸と申します。担当教科は、この髪の色の通りに英語です。生きた英語を教えていきたいと思いますので、一緒に頑張っていきましょう」
それは、竈門禰豆子の伴侶であったひと。
よく泣いて、たくさん笑ってくれる人。弱音も吐いて拗ねもするけど、何もあきらめない。自覚ないのが悲しいほどに優しくて、禰豆子のただひとりの男の人。
――禰豆子ちゃん。
禰豆子の記憶の中で、甘さと切なさを強く孕むあの呼び方。
どこか分からない真っ暗な部屋の扉を開けてくれたのを思い出す。
真っ暗な部屋。
何故、そんなところにいたのか分からない。扉が開くと、そこは幽けし明かり。きっと月光。
――散歩に行こうか。
暗い部屋の中から禰豆子が見上げると、年若い善逸が手を差し出してくる。その手は顔と不釣り合いなほど無骨だった。
大正の禰豆子は不作法だったのだろうか。そんな善逸に対して、うなり声で返事をしていた。そんな返答されれば誰だって鼻白んでしまうだろうに、底抜けに優しい彼は嬉しそうに顔面をくしゃりと崩した。
――可愛いねぇ、禰豆子ちゃん。
禰豆子の手が、記憶の中で動く。袖の長い羽織が動く。
善逸の掌に乗せた禰豆子の手が恐ろしいものだった。爪が、異常なほどに長くとがっている。
何かを思い出す。
雪の夜。
思い出すのと同時に、何かがブレーキを踏む。
思い出すな。思い出さなくていい。幼い頃に一度だけ会った兄の声に似ていた。うそ。覚えていないくせに。
走馬燈が回り始める。カラカラと場面が変わっていく。
現実で、イスから崩れ落ちるのを遠くで感じながら、禰豆子は為す術もなく走馬燈を見続けた。
どばっとあり得ないほどの血しぶきに混じる人肉の欠片。血のにおい。鉄臭いはずのそれを、餓えが、喉が、臓腑が、禰豆子が乾く。皮膚を切られた瞬間の痛みは灼熱だ。骨を切断される。溶接するようにくっつけるから禰豆子は気にせずに動く。
駄目。
思い出してはいけない。
あの痛みは、人が簡単に死んでしまえる激痛だ。心の臓が耐えられない。ショック死だ。耐えられたとしても発狂する。
記憶が体感を伴ってやってくる。手を伸ばせば、腕が引きちぎれるぞ。そうだ、肉塊に押し潰されそうになっただろう。
走馬燈は止まらない。
肉塊に四肢を捕らわれて。ガタンガタンと長寛な電車音の中で、四肢を押しつぶされそうになって、刹那、一薙ぎの雷光と、目の前で立ち塞がる黄色い羽織の男の子。
ぶつんと乱暴に画面が切り替わった。
「ほら、金魚が泳いでいるよ。見て、禰豆子ちゃん」
明かりの落とした寝所で、彼が走馬燈の蝋燭に火をともす。影絵の金魚がゆうるりと泳ぐ。それを禰豆子は布団に寝転がって、肘を突いて見ていた。仕事帰りに彼がどこからかもらってきた回り灯籠。
「綺麗な走馬燈ね、善逸さん」
禰豆子はちゃんと返事をしていた。夏の暑い盛り。ちょっと古いけど風流だよね、と金色の髪の人が静かに微笑む。もう男の子ではなくて、青年と言ってもよい年頃。
「こうすると金魚も止まるね」
善逸が親指と人差し指で灯籠の回転を止める。走馬燈は止まった。禰豆子の過去の走馬燈も止まった。
走馬燈は止まって、禰豆子は覚醒をうながされた。
見覚えのない天井と、回りをカーテンで仕切られている。そこは保健室のベッドだった。
禰豆子はぼんやりとした頭で起き上がると、気がついたらしい養護教員がカーテンを開けた。
「竈門さん、大丈夫? 気持ち悪くない?」
「あ、はい。大丈夫です」
手を借りてベッドから降りながら、始業式の途中で気絶した、と教えられる。
「竈門さん、早退する?」
「いいえ、もう大丈夫です。気持ちも悪くありません。でも調子悪くなったらきちんと言いますね。本当にすみませんでした」
「うん。顔色も良くなってるし、大丈夫かな。あまり無理はしないこと。それと、鏡一度見た方がいいわね」
自分を見下ろした禰豆子は少しだけ顔を赤らめた。制服のリボンは緩んで胸元が無防備だし、結っていた髪も背に落ちていた。保健室の鏡を借りて、身だしなみをチェックする。リボンを結び直して、髪を結ぶ。
鏡の向こうから見つめてくるのは、自分がいつもと変わりなくて安堵する。指先も丸く切りそろえられていた。
養護教員に礼を言って、保健室をあとにする。ホームルームが始まっている校舎はシンと静まりかえっていた。歴史のある校舎は音を吸い込むのかもしれない。禰豆子の足音だけがする。
禰豆子はやおら足を止めて、講堂を囲む桜を窓越しに見上げた。
気を失う前のことを思い出す。
壇上に上がったあの人。禰豆子だけに配された偶然をあの人も持っていた。我妻善逸の名と似姿。
彼だと分かった瞬間に、フラッシュバッグだった。これまでなかった経験だ。歯の欠けた櫛の記憶がいくつか戻る。体験していないことを、知覚している。
真っ暗な部屋。どうやら小箱のようなもの。それを思い出した瞬間に、気絶したらしい。
あの小箱を、それ以上思い出してはいけない。ひたひたと恐怖が張り付いているかのようだ。
禰豆子は教室に向かって歩き始め、曲がり角でぴたりと立ち止まった。
だって、居たから。
もう後ろ姿でも分かってしまう。会ってしまったから、きっと死ぬまで間違えることはない。
不意にその人が振り向いた。
禰豆子は日の影にいて、その人は日の当たる場所。だから見えにくかったのだろう。どこか目を細めてから、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。
壇上で見たときよりも背は高い。髪は黄色みの強いゴールデンブロンドで、ストレートなのに癖が強い。柔和な眉毛と子どもっぽい目元に、忘れがちだけども鼻筋はすっと通っている。はしばみ色の瞳が、禰豆子はとても好きだった。真面目な顔をしている時は男前で、気を抜いている時は愛嬌のある人。
どちらも、いつも禰豆子の側に居てくれた。
禰豆子の前に立って、善逸が小首を傾げて笑いかけてきた。
「こんにちは」
何で名前を呼んでくれないの? それが不思議に思った。
「あ、」
「君、始業式のときに倒れた子だよね。大丈夫だった? 俺の話が長すぎたかなぁ」
あ。
覚えていない。
このひとは、なにも、おぼえていない。
「――はい。大丈夫でした。はい、あ……あがつませんせい」
声が震えないのは上出来だ。顔はあげられない。視線が定まらなくて、自分の上履きを見据えたのに、視界に入った善逸の掌の大きさを見て、また大正を思い出す。手の大きさまで一緒。腕時計の趣味が良い。腕をたどって胸元まで。ネクタイが薄い黄色。とてもよく似合っている。ネクタイピンはどこかで昔見たような模様。思い出せない。
「そっか。良かった。うん、ええと……竈門禰豆子さんだよね。間違っていないよね。うん、実は俺が君の担任なんだ。いま、保健室に様子を見に行く途中だったんだよ。行き違いにならなくて本当に良かった。でも大丈夫? 顔色、あまり良くないみたいだけど。もしかして早退するのかな」
変わらないしゃべり方に、禰豆子は泣きそうになった。
「大丈夫ですよ、先生。先生があんまりにもお話されるから、お返事できませんでした」
「ああ、ごめんよう。俺、どうにも会話のキャッチボールが苦手でさ。でも、授業は出来るだけわかりやすくするからね!」
「はい、先生の授業楽しみにしていますね」
「じゃあ、教室に戻ろうか。俺、担任なんて初めてだから、もうほんと教室行くのが緊張しちゃってさ。竈門さんが一緒に行ってくれて心強いよぉ」
「ふふ。わたし一年のとき」
禰豆子は口をつぐんだ。目が回った。今こそ気絶すべき時なのに、剛胆な自分は何事もなかったように息を吐く。
「……一年のとき、クラス委員長やってましたから、どうぞ頼りにしてくださいね」
「うわぁ。それは頼もしいねぇ。今年もやってくれると嬉しいな」
「そう、ですね」
善逸が出席簿を持った左手の薬指がちょうど見えた。
教職員はアクセサリーなんてしてはいけない。
だから、先生の薬指にはめられた指輪の意味を禰豆子は正しく理解した。禰豆子は何もつけていない自分の薬指を見下ろす。
誰かが、この善逸の薬指に一生一緒に生きていこうねと、呪いと祈りを込めてはめた。あのとき、禰豆子が善逸に言われたように、このひとは今世ではもう他の人にそれを誓った。
来世でも一緒になろうね、なんて寝物語で言っていたのを思い出す。鼻の奥がツンと痛くなって少しだけ歩幅を緩めて、斜め後ろから彼を見た。
どうにもならない激情が重たい息を吐かせる。
「どうかしたの?」
今世でもこの人の耳はいいのかもしれない。振り返ってきた善逸に、禰豆子はいいえとにっこり笑って答えた。