ずっと不穏な音がしていたずっと不穏な音がしていた。
禰豆子が人間に戻ってから善逸は少しずつ奇妙になっていった。不安げな匂いをさせて、まるで誰かに禰豆子を取られてしまうのではないかと言うように、誰彼構わず警戒心をあらわにしていた。
あれほど大騒ぎしていた鬼狩りも、禰豆子から離れたくない一心で、夕暮れ時にさっと行ってスパッと首を掻っ斬って短時間で帰ってくる。
身ごもったメスを守るオスみたいだ、と伊之助が言ったが、ふたりはそんな関係ではないことを炭治郎は分かっていた。
善逸が禰豆子を心の底から大切に思っている匂いで分かっていたが、それを覆うほどの不安の匂い。徐々に心を病ませていたのかもしれない。そう思うほどに、不安の匂いはひどいもので、炭治郎でさえ何かわからぬが不安に駆られた。
禰豆子は善逸の焦燥など知らぬようで、朗らかに鬼殺隊隊士に挨拶をする。その後ろで、鯉口を切る善逸がいた。眉を吊り上げて威嚇するようならばお笑い草になろうが、善逸はあくまでも真顔でーーまるで鬼に対峙したかのように鯉口をくつろげていた。
一度、本当に刀が抜かれたことがあった。事もあろうに善逸は風柱に対して抜刀していた。神速の居合である雷の呼吸と風の呼吸。不死川は見えてなかっただろうが、歴戦の勘で善逸の一刀を受けた。
不死川よりも驚いていたのは善逸の方だった。ぎょっとして刀を引いた善逸に不死川は「いい太刀筋じゃねえかァ。……フン、先制は雷に負けるなァ」と、だけ言って去っていった。お咎めもなかった。
どうしてあんな事をしたんだと問い詰めると善逸は蒼白な顔で、「柱は怖い」とだけ吐露して、禰豆子から離れることは無かった。
一般隊士と柱の差は与えられた権限からも分かるように雲泥の差だ。むろんそれはそこまでの実績があり、お館様から信頼されているからあのように莫大な給金と屋敷を拝領するのだ。
話は逸れるが、炭治郎善逸伊之助の三者は柱に匹敵する実力を有しているが階級が至らないと言うことで就任は辞退していた。鬼殺隊はあくまでも隊である。鬼ひいては鬼舞辻無惨を屠るという大願のために隊律をねじ曲げるなど、あってはならないことだった。
鬼殺隊は、ひとつの生き物として鬼の首元に食らいつくのだ。気が遠くなるほどの長い年月をかけて。
故に、鬼殺隊はどのような綻びを許さない。ひとつの生き物に僅かな乱れが、不安が、懸念があっては生き物として成立しないからだ。
綻びは竈門禰豆子という形で解け始めた。
「ごめんね」
お館様はそう言って、炭治郎に深々と頭を下げた。額を畳に擦り付けるほど深く深く。それで、さっきの発言はもはや取り返しのつかない決定事項だと分かった。
幽鬼のようにふらふらと退席して、どうやってかわからないがどうにか帰路に就いていた。
炎柱を喪った際に闘った鬼が見せた悪夢のようだ。ふと腰に差した日輪刀に触れ、自刃を思った。しかしこれは夢ではなかった。
お館様は言った。
ーー禰豆子を生かしておくことができなくなったんだよ、炭治郎。ごめんね。
禰豆子は鬼になったが、人を喰らわず太陽を克服した。人へ戻ったが、禰豆子の血肉が鬼にどのような作用をもたらすか分からなかった。実験など出来ようはずもない。……もしも太陽を克服する鬼が実験の末に出来てしまったら絶望だ。
それが一般隊士の間でドロドロとした疑惑となって流れていた。それは綻びだった。
竈門禰豆子を殺せと言う声。
竈門禰豆子を生かせという声。
圧倒的に前者が声高に叫ばれた。鬼であった時ならばいくらかの戦力もあったが、人に戻った禰豆子にはそんなもの一欠片も残っていない。とうとうお館様は決断をくだした。
竈門禰豆子を殺すではなくて、竈門禰豆子に死んでもらう。彼女には、皆の不安を汲んで自ら死を選んでもらう。尊き死だ。
……これならば、鬼であったほうがまだ…。
炭治郎は思ったことを封じるように歩みを進めた。
4人が仮宿としている家屋が見えてきたあたりで、嗅ぎなれた血の匂いと悲痛の匂いが炭治郎の鼻先を掠めた。
まさか、血迷った隊士が禰豆子を始末しにきたのか。
炭治郎は走り出した。しかし、血は禰豆子のものではなく伊之助のものだ。匂いも禰豆子と善逸と伊之助の3人しかしない。だが安心はできない悲痛な匂いは泣きたくなるほどに悲しい。
「禰豆子っ!善逸!伊之助!」
三人の名を呼んで家の引き戸に手をかけた瞬間だった。
悲痛な匂いが眼前にやってきた。背を逸らして悲痛を躱す。
悲痛の匂いは、善逸の刀だった。
「善逸、お前…!」
気絶した禰豆子を片手に抱き、もう片手には抜き身の日輪刀を引っさげた善逸が悔しそうな顔で炭治郎を睨んできた。
「くそ、さすが炭治郎だな。斬ったと思ったんだけどな」
「何を言ってるんだ!禰豆子をはなせ!」
「やだよ。絶対に離さない」
ちらりと家の中を見ると、伊之助が伏せっていた。出血が見られる。
「善逸、伊之助をどうした」
「ああ、あの馬鹿イノシシね。さあねえ?顎先おもいきり蹴ったから目ぇ回してんじゃない。あいつ、俺が本気でかかってこねぇと思ってんのよ。んなわけないでしょ。伊之助の強さはよく分かってんだから本気でかかるに決まってる」
「…死んではいないんだな」
「そりゃあねえ。禰豆子ちゃんを攫ってく邪魔したけど、別に殺したいわけじゃないし。ってことで炭治郎も悪いけど少しくらい斬られてくんない?」
「禰豆子を離すんだ、善逸。禰豆子は……」
「そうだよ」
善逸は片手に抱いた禰豆子を優しく見つめた。
「禰豆子ちゃんは死ななきゃならんのでしょ」
「……」
「俺はそんなこと絶対にさせたくないよ、炭治郎。俺は、禰豆子ちゃんのこと気が狂うほどに大好き。炭治郎もそう思うだろう?」
ーー最近の我妻善逸の竈門禰豆子への執着は病的である。と。
「仕方ないよなぁ。禰豆子ちゃんが大好きで頭がイカれた隊士が規律違反して、彼女をさらっていくんだからこれは仕方ない。……幸いこの隊士には違反して腹を召す育手も兄弟子はとっくにいないしな。ああ、炭治郎は召す腹と兄弟子がいるなぁ。ま、正しく規律を守ってろってことで」
炭治郎の中でひとつひとつのからくりがハマっていくようだった。
おかしくなった善逸は、それはすべてこの為の布石。
「善逸、ずっと前からこの事を考えていたのか」
「……禰豆子ちゃんはもらってくよ。絶対に禰豆子ちゃんは俺が守り通す。絶対にだ。その間に、どうにか決着をつけろ。それまで俺が命をかけて守り抜く。……だけど、今はお前は俺を止めろ。炭治郎、嘘つけないだろ。嘘つかなくていいようにな、俺を止めろよ。俺、本当に禰豆子ちゃんのこと大好きだからふたりっきりで逃避行なんてしたらきっと禰豆子ちゃんにいかがわしい事しちゃう」
「……ああ、禰豆子に手を出すな。善逸、禰豆子に手を出すなよ!」
「それはお兄様の度量次第ってことでぇ!」
竈門禰豆子は常軌を逸した我妻善逸隊士によって連れ去られた。その場に居合わせた竈門炭治郎、嘴平伊之助の両名に負傷を追わせ逃走。行方は杳として知れず、3年の月日が流れた。