望むならイギリスには、この世に生まれ落ちてから一番最初に美しいと思ったものが二つある。
一つは兄弟愛。
生まれてから暫くして、今でこそシェアハウスをしているぐらい大人しくはなったが、兄たちからは見つかり次第追い回されるような日々を送っていた。当時は理不尽だと思っていたが、物事の道理を理解できる今ならば仕方のなかったことだと思う。しかし、運命の悪戯でうっかり半永久的な生き物として生まれ落ちた瞬間からそういった経験をしたからこそ、渇望したものがあったのだ。
優しい兄、そんな兄を慕う弟。
集落に行けばそんな光景をよく目にした。例えば狩りの仕方を教える兄と、一生懸命聞く弟。あるいは危ない目に遭った時に助けてくれる兄と、涙ながらに感謝を伝える弟。
イギリスの遊び相手になってくれていた弟を迎えに来る兄だっていた。
色んな兄弟愛を見て、やがてイギリスは強く憧れるようになった。いつか、自分もあんなふうに。
兄弟愛は美しい。たとえ血によって結ばれる関係が美しいものだけではないことを知ってからも、幼少期の時に抱いた強い憧憬はいつまでもイギリスの心を捉えて離さなかった。それはアメリカが元弟となってしまった後もなお、ずっとずっと焦がれ続けていた。
守り守られて、手を取り合い共に困難を乗り越える。
終ぞイギリスが手に入れることの無かった愛。ギリシャの家の哲学者たちはそれをストルゲーと呼ぶのだそうだが、そこにイギリスは一瞬のアガペーをも求めていた。
そんな概念的なものが、この世で最も美しいとすら思っていた。
*
「お前のこと、ただの一度だって弟だと思ったことない!」
そう言い放った男は、俺の顔を見て「しまった」という顔をした。言い放った男の名前はフランス、この世で最も目障りな隣国の男だった。
売り言葉に買い言葉、呑みの席での話だ。自分たちが小競り合いをしていることはもはや日常風景だ。ここはイギリスの家のパブで、かつイギリスの行きつけだから当然この男も顔を覚えられている。皆、自分たちを「そういうもの」として扱ってくるため最早仲裁する人間は誰もいない。
しかし、今夜は少し雲行きが怪しかった。いつもよりも酒を飲むペースが早いフランスにもっと早く違和感を持っておけば良かったのだ。ここ数年、サシで呑みに行く機会も暇も言い訳も無かったから気づけなかった。
案の定早々に酔い始めたフランスは、珍しく昔を回顧し始めた。
──昔はさぁ、こ〜〜〜んな小さくて細くて……あぁ、今でも細いか。とにかく、ふらんしゅふらんしゅ、って後ろついてきてさぁ……。可愛かったのにさ〜〜。
だの、
──なんかちょっと殴り合って目離してる隙に図体はデカくなってるし、弟と妹作りまくってるし、ぼっちのくせに友達作ってるし、ほんと何?昔は俺がいなきゃ兄貴たちに虐められてた泣き虫アングルテールがさぁ……今は兄貴たちとも仲良いもんなぁ?シェアハウスって聞いた時、マジで言ってる?って思ったぜ。
極めつきには、
──お前昔っから兄弟に憧れてるの俺知ってるからね?なのに俺のこと大事にはしてくれないんだ〜って。
そう言って、普段は飲まないジンをフランスは煽った。
最近会えていない中で「店はお前に任せる」とテキストを受け取った時には少し期待もしたが、話を聞いてみれば結局はこれだ。
自分がどれだけ年月を重ねようと、身長が追いつこうと、隣の男にとって自分は永久に「泣き虫アングルテール」なのだ。
「お前は知らないかもしれないけど、俺はお前のことずっと兄弟だって、」
もういい、やめてくれ。何が悲しくて酒の席ですら振られ続けなくちゃいけないんだ。
「やめろ、気色悪い。飲み過ぎだ。マスター、チェイサーをこいつに」
「あいよ。なんだ、フランスさん随分と腐ってんね。いつもはもっと『お兄さん面』してるだろ」
「こいつはどっちかと言うと元々我儘王子の方が似合うぞ」
「ははっ」
馴染みのマスターは笑いながら水をコップに入れて差し出してきた。そして、別の場所から呼ぶ声がしてさっさとそっちに行ってしまった。
気色悪い、は本音だった。この男が自分と兄弟?まさか、笑わせてくれる。そんなことがあっていいはずがない。
「おいフランス飲め」
「そういうとこムカつく。ちょっと弟妹が多かったからって調子乗んな」
「弟妹の多さはお前もそうだろうが」
「俺のことあやすな。そういうの一番ムカつく……」
俺はお兄さんなの、そう言いながらフランスは嫌々水を飲んだ。
元々シャツは上までボタンをとめない方だというのに、今はさらにネクタイを緩めて第二ボタンまで開けているせいで、水を嚥下しているところがよく見えた。その白い首と、少し汗ばんだ肌に思わずイギリスは喉を鳴らした。
フランスはコップから口を離し、ぽってりと厚い唇をツンと突き出した。いつもならキモいと言い放つが、本当は千年ほどずっと可愛いと思っている。アルコールのせいで赤らんだ目元と、その奥で揺れるニースブルーは南仏の海をそのまま閉じ込めたかのような眩しい色をしていた。もっと見ていたかったが、すぐに目も覚めるような美しいブロンドがひと束降りてきて隠してしまった。あぁ、その髪も──。
「俺は世界のお兄さんなわけ」
「さっきも聞いた。俺はお前を兄だと思ったことは一度もない」
いつも通りのやり取りのはずだった。しかし、今日のフランスは違った。
ごと、とチェイサーを乱暴にテーブルに置く。イギリスは彼の行動に少し驚いたが、すぐにパブの喧騒にかき消された。
「お前は、そうやって……ッ、俺は、俺はお前のこと、っ、どれだけ殴り合ったって、おれはおまえのこと、たったひとりの、いちばんさいしょの、」
しかしそこまで言って、フランスは目を伏せた。見たことのないほど寂しげな顔をしていた。
「俺だってお前のこと、ただの一度だって弟だと思ったことない!」
そして冒頭のセリフを言い放ったというわけだ。
言うつもりの無かった言葉を言ってしまったらしく、フランスは口を掌で抑えていた。そして海のような瞳をまるで迷子のように狼狽えさせた。
イギリスはといえばその一連の言動に震えるほどの喜びを感じていた。
──そうか、俺のこと弟だと思っていなかったんだな。
千年分の重荷が降りたような心地だった。
意味がわからないほど気分が良くなってきて、少しずつ心拍数が上がっていくのを感じた。口角は自然と不恰好に上がっていって、やがて笑い声が抑えられなくなった。
そんなイギリスを、フランスは信じられないというような顔で見た。
「おまえ、」
「なぁ、本当なんだよな?俺のこと弟として見てないんだな?言ったよな?」
「ッ、イギリス……?」
「フランシス、嬉しいよ。俺もそうなんだ。ずっと、ずっと、お前のこと……愛してた」
「は……………?」
少しずつパブの喧騒が耳から離れていく。世界にはまるで自分たちしかいないのではないかと錯覚するほどに。
「お前が俺の兄でありたいと思うなら、こんなこと言うつもりなんて無かった。でも、そうじゃなかったんだな」
積年の想いが、自分でも驚くほどに素直にするすると口から出てきて止まらない。
フランスに兄でいられると困るのだ。兄と弟は恋なんてしない。そこに確かに愛はあるがそれは家族愛であって、間違えても性愛であっていいはずがない。
さて、イギリスがこの世に生まれ落ちて一番最初に美しいと思ったものの話の続きをしよう。
もう一つはフランスだった。
気位が高そうな顔つき、すらりと伸びた体躯、鈴のような声、森の風に靡く絹糸のようなブロンド。
初めて会った時、絵で見る天使がそのまま自分の目の前にやってきたのかと思った。あるいは妖精か何かかと思った。
「アングルテール」
彼にそう名前を呼ばれた時、体中が燃えるように熱くなった。初恋だった。
美しいだけではなく、肥沃な土地や文化、財産、どれもこれもが魅力的だった。
我儘で、蝶のようにひらひらとどこかにいってしまうほど自由で、捕まえられなくて、それなのにずっとそばにいる。愛を得るために愛を振り撒くひと。
なぜこの男でないといけないのかと問い続けた時期もあったが、その度に国としての本能も人間としての本能が叫び続けるのだ。この美しい男が欲しいと。腕の中に落ちてきてはくれないかと、そうずっと願っていた。
「ちょっと、待ってアーサー。なんの話」
「お前が俺のこと弟として見てないって分かったから、ヤっていいって話だろ」
「うん、最低な要約ありがとう!いいわけあるか!!!」
その理論もよく分かんないし!とフランスは喚いておまけに自分の体を守るように抱きしめた。そういうことをされると益々興奮するからやめて欲しい。この男は自分の全てが、イギリスを煽ってしまうことにまるで気づいていない。
「兄弟はそんなことしない。でも俺たちは兄弟じゃない。なら答えは明白だ」
「何がだよ!飛躍しすぎだろ!?お兄さんビビりすぎて酔いも吹き飛んだわ!自分の発言も死にたいぐらい恥ずかしいし、お前の思考もやばいし……付き添ってやるから一緒にテムズ川に飛び込んで頭冷やそ!?」
「おいおい心中の誘いか?中々熱烈だな」
「違うから!照れるなこの酔っ払い眉毛!!!」
フランスはそう言って体を揺らした。乱暴な動作にテーブルの酒が揺れる。彼は席から立とうとしたが、酔いで上手く体が動かずに足がふらついた。彼はそのままぼすんとイギリスの膝に落ちてくる。驚いた表情をしたフランスの碧眼には自分しか映っていなかった。
いやはや本当に腕の中に落ちてくるとは。もしもこの世に神がいるならば、最大級の感謝を送りたい。
「フランシス……フランク……なぁ、」
「っ、お前、俺に弟扱いされたくないくせに卑怯な手を使うよね」
「なんだってする。お前が手に入るなら」
「俺、ものみたいに扱われるのは嫌い。でも大事にされないのは嫌。あと余所見なんてあり得ないから」
「それはこっちのセリフだ。いつだってお前の前を走り続けてやる」
「はぁ?いつまでパクス・ブリタニカ気取りなの坊ちゃん」
ほんと生意気に育ったな、フランスはそう続けてから黙った。そして一呼吸置いてから口を開く。
「……その何枚もある舌で、たんと味わえよ。その代わり吐き出したら許さない」
フランスは人差し指をイギリスの薄い唇に置いた。イギリスはその手を掴んで、指先にキスを落とす。
「出るぞ」
イギリスは性急にそう呟いて、フランスの腕を引いた。飲み食いした分よりも随分多い額をテーブルに叩きつけて、パブを出る。
イギリスに手を引かれてされるがままになっていたフランスは、歩く方向に対して困惑気味に尋ねてくる。
「おい、家と逆方向じゃないの。本当にテムズ川で心中する気じゃないだろうな」
「今日家には兄上たちが全員揃ってる。まあ、兄上たちの前で抱かれたいってんなら引き返してもいいが。それはそれで臨むところだ」
「うわー……お兄さんお前のこと振らなかったのもう後悔してるー……」
フランスはそう言い返してきたが、手を振るほどこうとはしなかった。
繋いだ手が熱い。
どうか夢ではありませんように。
イギリスは、たった今恋人になったばかりの男の手を引きながらそう思った。
完