green 平日の午後三時。昼食には遅く、終業後には早いこの時間だが、今日の静は後者だ。
(……体が固まってる)
イレギュラな案件で、日が昇る前の早朝からずっとパソコンと向かい合っていたせいで、目も肩も重く、軽く伸びをしただけで体のそこかしこからパキパキと音が鳴る。
仕事中に絶えずコーヒーを飲んでいたからで、起床時間の割に眠気はない。作業の片手間にシリアルバーを齧っていたお陰で空腹感もないが、窓の外に目を向ければ抜けるような青さに澄み切った空で、昼寝をするのもこのまま引きこもるのも勿体なく感じる。
(腹は空いてないけど……外、出るか)
ふう、と息を吐くと机に両手をついて立ち上がり、もう一度グッと伸びをしてから身支度を整えるべく動き始めた。
◆
「あ……」
「節見さん。お疲れ様です」
一階に降りると、丁度玄関を出て来た弥代に出くわす。何と挨拶するのが適切か一瞬迷った静だが、彼女からの声掛けに「おつかれ」と返す。
(いつもと何か違う……?)
向かい合わせに立った弥代に違和を感じた、その理由はすぐに解消された。
(ああ、なるほど)
こちらを見上げる弥代の頭が、いつもより低い位置にあるから――たった数センチの違いに違和感を覚えるほど、彼女の存在が自分の日常に溶け込んでいるのが意外だと思いながらちらりと目線を走らせれば、違うのはヒールの高さだけではない。普段、仕事で会う時とは違う系統の服装なのにも気付き、つい疑問が口をついて出た。
「……今日、休みなの」
「はい。Aporiaが設備点検の日なのと、差し迫った案件をどの部署も抱えていないとのことで、急遽休みになったんです。節見さんは、これから打ち合わせとかですか」
弥代とは異なり、静の服装は普段の仕事中と変わらない。外出するからと部屋着から着替えたのが、却って休みらしく見えなくなったみたいだ。
「いや、俺は仕事が終わったとこ」
静の言葉を聞いた弥代がほんの少し首を傾げたのを見て、言葉を継いだ。
「……朝早くから作業だったんだよ」
「ああ、なるほど……。それは、お疲れ様です……」
「ん」
先程とは違う感情が含まれた「お疲れ様」に、口角を上げて頷き返す。
「……」
「……」
そこで会話が途切れたので、当初の予定通りに出掛けようとした静が動くより先に「あの」と遠慮がちな声が届いた。
「節見さん、この辺りのお店とか地理って、詳しかったりしますか」
◆
弥代が引っ越しをして来てから、季節がひとつ終わりを告げようとしている。転居早々に依頼とイベントが立て続けにあったせいで出勤日は寮と職場の往復、休日は荷物の荷解きや片付けで過ぎていき、この辺りの土地勘がないまま今に至るらしい。
渋谷駅に程近い立地の寮なので買い物には不便しなかったのが幸か不幸か――弥代曰く「コンビニとスーパーと駅と区役所の場所はわかります」と――最低限の範囲で生活をしていたと今初めて知らされた。
「病院とか交番とかの場所調べとくのは、引っ越しの基本でしょ」
「……いざとなれば地図アプリで何とかなるかな、と」
「まあ、それもそうか。……それで、何を知りたいの」
事務的な声で尋ねると、彼女の表情がほんの少しだけ変わる。
(安堵と……何だ……)
含まれる感情を汲み取ろうとする静に、弥代が事務的な声で答える。
「ごみごみしていない、比較的静かな場所って何処かご存知でしょうか。渋谷に詳しくないので、パッと思い浮かぶのが代々木公園くらいしか……」
「公園は幾つかあるけど……そうじゃない方がいいってこと」
「そうですね……雨の日とか天気の悪い時に、屋根があると助かります」
「……」
弥代の言わんとしていることは伝わった。もし穴場のカフェなどの飲食店を知りたいのなら、静よりももっと適任者が居るし、彼女もそうするだろう。決して人当たりが良くも、人との関わり合いが好きでもない静に尋ねたからには「そういう」場所を知っていると当たりをつけてのことだ。
(心当たりがない訳じゃない)
今から赴こうとしていた場所が、まさに該当する。
(……弥代なら、面倒くさいことにはならないか)
思慮深く、口数が多くない彼女なら――ふと思いついた言葉を口にしたのは、全くの気まぐれからだった。
「今から行くけど」
「……え」
「二十分くらい歩くのが構わないなら」
「それは……はい、構わないです」
「そ。なら、来たいなら来れば」
「ええと……では、遠慮なく」
そんなやりとりをした二十分後。二人が到着したのは、小ぢんまりとした植物園だった。
「それじゃ、後は適当に」
「……ありがとうございます」
連れて来たのだから自分の役目は果たしたと、軽く手を上げて別行動をする静に、弥代が頭を下げたのが視界の端に入ったのだった。
◆
ここが目的地ではあるが、静の本来の目的は「歩くこと」。強行部の業務中、何かあった時に一番有効な護身は「逃げること」。逃げるためには瞬発力も体力も持久力もそれなりに必要だ。しかし、雑多な渋谷の街は、ただ歩くには向いていない。向いていないからこそ、何かしら理由をつけて徒歩で外出する――その行き先が、今日は植物園だった。
(風の音と、その風で葉が擦れる音……やっぱりいいな、ここは)
人と関わるよりも、植物に囲まれていたいと改めて思う。繁忙期に足の踏み場もないほど通販で買い物をする悪癖を自覚しているから、自室に置いているのはエアープランツばかりだ。しかし、こうして人の手にかけられた大小様々な植物の間を歩いていると、あれもこれも自分でも育てたくなってくる。
(城瀬に頼まれてる店のグリーン、そろそろ考えないとか)
店の規模ならある程度の大きさがあっても問題ないし、手入れの人手も時間も充分だ。どんなものが良いだろうと、見晴らしの良いところから階下を眺めれば、弥代がぽつんと佇んでいるのが見えた。
(……わかりやすいようで、わかんない奴だよな)
人のことを言えないけれど、弥代は表情から感情を読み取りづらい。意図的なポーカーフェイスではないのと、常識や礼節は持ち合わせているのに何処か「壊れて」いる空気が混じっているように思える。
(あの経歴からどうして、この人格形成に至ったんだ)
良く言えば謙虚、悪く言えば消極的な彼女の思考は、Aporiaの他のメンバーには居ないタイプだ。それが今後、依頼の数をこなしていくうちに悪い方向に作用しないかと懸念を抱く。もし強行部のメンバーに悪影響があると静が判断したならば、その時は全力で排除するまでだが――。
(当面は深入りするなって話だし、今はまだ様子見……だな)
目線の先に居る弥代は、遠目からでも肩の力が抜けているのがわかるから、それなりにリラックスしているようだ。植物好きには悪い人間は居ないなどという甘い考えを持っている訳ではないが、今後も内輪での混乱なく平穏で閑寂な職場であればとは願う。
「……」
無音のため息をついた静は、取り留めのない思考を断ち切るように目を閉じる。それから、ゆっくり瞼を上げると視線を弥代には向けず、鮮やかな緑を見上げた。
視界いっぱいに広がる彩が眩しい。いつもは涼しい静の瞳が、柔和な色を湛える。
そうして目を細め、穏やかな表情になった静を見た階下の弥代が、初めて見るその表情に驚き目を瞠るのには気付かないまま、柔らかい光を浴びる草木をぼんやりと眺め続けた。
◆
不意に、誰かの目が自分に注がれているのを感じた静は、当てもなく彷徨わせていた眼差しを周囲に走らせると、弥代が瞬きを忘れてこちらを見上げていた。
「……」
「……」
言葉なく見つめ合うと、先に目を逸らしたのは弥代の方で。でも、そのまま立ちすくむでも立ち去るでもなく、こちらに足を運ぶものだから、矢張り彼女は読めないと面白く感じる。
「何か気になった」
「……節見さんの表情が、少々」
隣に来た弥代に尋ねると、決まり悪そうな顔をしつつも疑問には答えてくれる。
「それ、いい意味で、それとも悪い意味で」
「いい意味で、です。とてもくつろいだ顔をされていたので、植物がお好きなのかな、と」
「そう。……植物は、好きだ」
小さく「そうなんですね」と相槌を打つと、それきり彼女は黙った。二人とも口を開かず、かと言ってその場から動きもしない。自分は沈黙を気にしないけれど、いつかのしりとりの時みたいに居心地悪い思いをしているのではないか――そう思って横目で見てみれば、弥代の顔は予想に反して深い落ち付きを見せている。
(……弥代がいいなら、いいか)
静寂を愛する男は、それを甘んじて受け入れる。
こんな風に、一緒に居るのに思い思いに思考を巡らせ寛ぐ時間も、いつか彼女の存在とおなじように日常になるのだろうか――ちらりと脳裏をかすめたそれは、白い炎のような光の中に溶けていった。