機密保持特別契約「失礼いたします。夕餉の支度が整いましたよ」
「もうそんな時間か……ありがとう、お嬢さん」
「いえ……冷める前にいらしてくださいな」
地方の権力者とも言える藤丸家は今、一人の書生を受け入れている。すっと背筋を伸ばすと父の身長など悠々と超えてしまうような長身、細くて浮世離れした体格。少し話せば穏やかで知性があるとすぐに分かる、頭の良いお方だ。
学生として勉学に励むだけではなく、書生として家の雑務を手伝ってくれている。それがここに居候する条件なのだから、仕事のようなものではある。けれど、物腰は丁寧なのにどこかよそよそしい彼の態度はとっつきづらくて、同じ家で過ごしているのに何だか息が詰まる。
「ふう……もう長くこの家にいるのに、話しかけづらいなぁ」
綺麗な人だと思う。けれどその態度は真冬の水のように冷たいような気がしてしまう。ひどい言葉をかけられたことはないけれど、『お嬢さん』だなんてわたしを呼ぶその声はとても冷ややかだ。学問にも通じておらず、世間知らずの娘だと思われているのではないだろうか。それでも同じ家で暮らすのは、家族のようなものだ。少しは仲良くなりたい。仲良くなるためには同じ時間を共有するのが一番だろう。あちらにその気がないのであれば、こちらから時間を作ればいい。
「ご挨拶に来たお客様から流行りの洋菓子をいただいたのです。一緒にいただきませんか?」
「……僕のようなものに、そんな気遣いは必要ない」
そういいながらも、わたしが手に持っている綺麗な箱をちらりと眺めている。良かった。甘いものは、好きみたいだ。
「お土産をくれた方は地方を出歩いているお方で、あまり父や母とは折り合いが良くないのです。ですから、いただきものは内密に処分してしまいます。それだと、数が余ってしまいますから」
「余りが出るのなら、君が食べなさい。甘いものが好きなのだろう?」
「……わたしだけで食べてしまっては、見つかってしまった時にわたし一人で怒られなくてはならないでしょう?」
「!」
こんな軽口で彼と話したことはない。けれどこちらの方が、仲良くなれるかもしれないと思ったのだ。
「お嬢さん、君は僕が思っているよりもよほど……世間知らずではないようだね」
「想像だけではいけませんよ。実態は直接確かめなくては。学問でも、同じでしょう?」
にっこりと笑って彼を見る。初めてこんな風にまともなお話ができた。そのままついでとばかりに上等な玉露を持ち出し、小さなお茶会を開く。ぽつり、ぽつりと洋菓子を食べながらお話をして、少しだけこの人を知ったような気がした。
それから少しだけ打ち解けて、わたし達は一緒に縁側でお話をしたり、お茶の時間を設けることができるようになったのだ。書生とその家の娘として、平凡な仲を築けると思っていた。
「何? 寝坊した授業の内容を教えてくれ、だと? 馬鹿め、誰がそんなことをするか。自らの堕落の結果を俺に拭わせようとは……大体、俺は間借りをしている身分だ! お前のような油虫以下の存在を家に上げて! お里が知れるなどと思われたらどうしてくれる!」
庭に出て、お気に入りの花を愛でていた時だった。門の方から突き刺さるような罵詈雑言が聞こえる。この声はまさか、あの人だろうか。普段は柔らかな言葉遣いをされるのに、このように過激な言葉を使うだなんて。
「そんなことを言わないでくれよ! 君が一番授業の内容を上手く人に教えられるだろう? ……それに、君の今の住まいには麗しい御令嬢がいるときいた。楽しみのない苦しい学生の身分で、普段は人より良い思いをしているのだから、少しくらいは人に分けないと」
(う……麗しい御令嬢!?)
外ではわたし、そんな風に思われてるんだ。そんな風に少し照れながら、けれどあの人と話している見知らぬ学生の身勝手さときたら。夜遅くまで月の光に照らされながら学問に励んでいるあの人の努力を、ただ吸い取ろうとしているのだ。そればかりか、この場に父がいれば発狂したのではないかと思うほどの言動。これはさすがに、この家の娘として追い返してやらなくては。
「はっ、馬鹿馬鹿しい。俺がやっているのは慈善事業ではない。家の雑務を受ける代わりに、住居と学問の補助をしてもらう。それが書生というものだ! そもそもお前をこの家に入れては、俺が旦那様に追い出される。……一応は、お嬢さんの身の安全を守る警護も、俺の仕事だ」
(何それ、聞いてない!)
わたしの身近な男という男を威嚇して歩いているような父が、この人にわたしの警護を任せたりしているなんて。でも、そんな嘘偽りを言う利点は彼にないだろう。
「お嬢さんに余計なちょっかいを出されては困る。……大人しく帰れ」
「仕方がない。今日のところは出直すとしよう」
あの無礼な学生はそう吐き捨てると、諦めて帰ったようだった。
「まったく、これだから昨今の学生は、だなんて言われるんだ。身の振り方を考えてほしいものだな! ……まぁ放って置いてもあいつの御眼鏡に適うような男とは、到底思えないが」
こっそり自分の部屋へ戻る予定だった。けれど、彼のこんなおしゃべりの仕方はとても珍しくて。わたしを守ってくれているらしい彼の秘密が、もう少し知りたくなったのだ。
「あいつ、というのはわたしのことですか?」
「っ! ……お嬢さん、今は生花の稽古の時間ではなかったかな?」
「今日は大屋敷で法事があるでしょう。お花がご入用でお忙しい時は、いらっしゃらないのよ。わたしのお稽古など、絶対必要なことじゃありませんからね」
「なるほど」
「……つまんない。もう、さっきみたいなおしゃべりの仕方はしないの?」
「ーー良いところのお嬢さんが、そんなだらしのない言葉を使うものではない。改めなさい」
「今は貴方しか聞いていないでしょ? 普段の言葉遣いは窮屈なの。息抜きも上手くないと、麗しい御令嬢なんてやってられないよ」
「…………。お嬢さん、僕から一つ質問を。先程の男と僕の会話を一体いつから?」
「『油虫以下の存在を家に上げてお里が知れるなどと思われたらどうしてくれる!』……ふふ、貴方からそんなお言葉が出るなんて、ちょっと新鮮でした」
「はぁ。つまり……最初から聞き耳を立てていたと」
「聞き耳だなんて! 庭にまで聞こえるような声でお話する方が悪いんじゃない! でも、少し安心しました」
「安心?」
「はい。わたし、貴方は丁寧で、何でもそつなくこなせるけれど……どこか冷たい人なのかと思ってました。でも、今の貴方とは仲良くできると思うの。父がいない時なら、さっきのようにおしゃべりしてほしい」
「はぁ……そんなこと、旦那様に知られれば僕がどうなるか、想像もつかないのか」
「わたしが今日のことを包み隠さず父に言ってしまったら、とは考えないの?」
「……存外、今回も性格が悪いな。淑やかに生まれ直したものだと思っていたが」
「失礼でしょ! ……生まれ直すって、何のことですか?」
「お嬢さんにはもう関係のないことだ。 ……いいだろう、言い出したのはそちらだ。後で不敬だ縛り首だと騒がれても困るぞ。僕が今日あの男と何を喋っていたかは、」
「僕、じゃなくて俺、でしょう?」
「いちいち細かいぞ! とにかくだ。俺がここでしていたことを一切旦那様にも奥様にも公言しないこと!」
「うん、分かった。お約束いたしましょう」
そっと小指を差し出す。お約束をするときは、このようにするのですよと使用人から聞いたのだ。
それからわたしよりもずっとずっと大きい手を心底嫌そうに、それでもまっすぐ差し出す彼を見る。
一瞬、ひりつくように目の前がブレて霞んだような気がした。
なぜかその瞬間、彼はもっと身長が低かったような気がしたのだけれど……こんなに背丈の高い方に、どうしてそんなことを思ってしまったのだろう。
ーーこうして藤丸家のお嬢さんである立香と、その家の書生は密約を交わして密やかに交流を始めたのだった。