たった三文字の一悶着 ほぼ書庫と化した自室に用意されたささやかなソファとテーブル。安いコーヒーと菓子を広げれば手軽な休息セットのできあがり。どこからともなくやってきた彼女はついさっきまで喧しく囀っていたが今は夢の中。こうも無防備に眠るものなのか。今俺の膝を陣取っている猫の方がよほど警戒心が強いだろう。
単純に無防備さは『相手による』のだろうと思うが、それはそれで腹が立つ。いくら俺がこいつの趣味嗜好性癖に刺さらないのだとしても、目の前で眠って安全かどうかくらいは考えてほしいものだ。
「すー……」
「……間抜け面」
まぁ、考えた上でこうなのだろう。安全圏内、オールグリーン。実際、日常的に目の前でこうも無防備に眠りこける彼女の髪の毛、爪の一本たりとも触れたことがない。撫でをせがんでくる猫に応えてやりながら、ため息をつく。猫であればこんな風に触れるのは造作もない。ごろごろと喉を鳴らして機嫌が良さそうな様を見ながら、懐かれているのは分かっていても人と動物ではこうも違うかと思う。
人の部屋で勝手に本格的に眠るつもりなのか、ほどかれた彼女の髪留めが無造作に目の前のテーブルに置かれている。信用も、過ぎれば毒だ。
よせばいいのについ手に取ってしまった髪留めを持て余し、毛足の長い猫の毛を束ねてみる。
「り……」
ああそうだ。多分そうとう疲れて血迷っているのだ。
「りつか」
普段は呼べもしない彼女の名前を猫に向かって小さく発声する。彼女が眠っていれば、気がついていなければ、何てことのない文字の羅列。本当に些細なことだと言うのに脈打つ音がうるさい。たかが、名前くらい何だ、簡単だろう。彼女は呼び方一つ変えたくらいで嫌な顔をしたりしない。それをこんな風にコソコソと。
「重症だな」
中身は外見とは違って随分と歳を重ねたくせして、別に経験値を稼いだわけでもない。たかが名前一つでこんな状態では、先は思いやられるばかり。まして相手があんな様子では。まだ夢の中だろう彼女の様子を見るために顔を上げる。
「っ……!」
彼女はあまり嘘やごまかしにはあまり向いていない。ましてや狸寝入りだなんてものには特に。眠っている彼女の顔を見た回数など見飽きそうなくらいだ。別に見飽きてはいないがそう、本当に眠っているのか判別できるほどには。
一体、いつから?
いつからだろうと俺には都合が悪い。
勢いよく立ち上がった俺に驚いて猫が一目散にソファを離れる。さっきまで甘えていたのが嘘のようにこちらには見向きもしない。
「起きているんだろう、マスター」
「ぐー……」
この下手くそな演技に誰がひっかかるんだ。
「マスター」
「すー……」
意地でも寝たフリを通す気か。
「……マスター」
「……名前で呼ばないと起きない」
馬鹿が、そんなものもう起きているのと同じだろうが!
「…………立香」
「なに? アンデルセン」
「はぁ……さっきまでのことは忘れろ。こんな休日にぼんやり惰眠を貪ったりするからおかしなことになるんだ」
「別にいつも名前で呼んだって良いのに。もうマスターじゃないんだから……」
そんなのが手軽にできたのなら、俺は英霊になどなっていない!
寝起きの身体で伸びをして、部屋を出ようとする彼女は存外気まぐれで自由だ。猫に似ている。あくびをしながらドアノブを握って、それからピタリと動きを止め。
「……わたしは名前で呼ばれた方が、嬉しいのに」
バタン、勢いよくドアが閉まる。返事は求めていないときた。これまた勝手が過ぎる。
「今更、名前で呼べと言うのか」
大体よく考えてから発言しろ。人の部屋で無防備に寝るわ、名前で呼ばれた方が嬉しいだの言い出すわ、これではまるで。…………。
「は」
いい加減にしろ、いくらなんでもそれは都合が良すぎる。あいつのコミュニケーション能力の無駄な高さから言って深い意味などあるわけがない。だと言うのにまた結局考えに沈んで、今日も原稿は進みそうにない。
ともかくそんなこんなでマスターが名前で呼ばないと返事をしないなどという厄介な状況になったのはもう一週間の前のことだった。