敵わぬひと杏寿郎は珍しくも狼狽していた。
それは月の美しい夜の事。
目の前には二組の布団の敷かれた座敷に座る男が一人。口元に優しい微笑みを湛え、こちらに手を差し伸べているのだった。
「こっちにおいで」
冷や汗をかきながら杏寿郎は心の中で悲鳴を上げた。
ああ父上、それだけはご容赦ください!
事の発端は父煉獄槇寿郎が夜道で鬼と相対したことに始まる。
例え引退し酒浸りの日々を送ろうとも流石は元柱とあって、易々とこれを滅したのだった。しかしあろう事か帰る道すがら足を滑らせ頭を強かに打ち付け、蝶屋敷に運び込まれてしまったのだ。
幸い命に別状はなく、意識も回復した槇寿郎は穏やかな様子で万事が問題なく片付いたかに思われた。しかし病室に駆け込んだ息子達の顔を見た瞬間に事態は急変する。
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