幸せな夢を断つ話 五「未、ちょっといい?」
思い出すのは昔の、といっても一年も経過していない時期の記憶。月待依宵に久々に再会した夜咲未は、中庭で彼女と対峙していた。
冬に入ってから会う機会が減っていたため、三ヵ月振りくらいだろうか。依宵は、痛々しい姿をしていた。指先には絆創膏、至るところにガーゼを当て、足にも腕にも頭にも包帯が巻かれていた。顔の半分が覆われていて、片目を見ることが出来ない。
一体どうして、何があったのかと、中庭に向かいながら彼女に聞いても、なにも答えてくれない。ただスカートを翻しながら、先を進む。
足を止めた。そこは、よく二人で昼御飯を食べていた場所だった。
「ねぇ未、お願いがあるの」
こちらに向き直る依宵の、口元のほくろが動く。片方しか見えない目で、少女は正面を見据えた。諦めの感情が映っている。
「もし、私が神に成ったら、貴女が私を殺してね」
燃えるように赤い世界。その中で、少女が一人佇んで笑う。赤いリボンの髪飾りが、世界の色に溶けていく。包帯は、血が滲んでいるのではないかと思うほど、赤く、茜く染め上げられていた。
「せんぱい、なに、を」
「夜咲未」
後輩の問いかけを遮り名を呼ぶその声は、静かでありながら、有無を言わさぬ圧を秘めていた。
「どうか君は、真っ当に生きて、人間として死んで」
それは、どういう意味だろう。貴女は、そうではないのだろうか。
「……お願いね」
悲哀と寂しさが入り交じった声音で、彼女は笑う。一瞬間を置いて、背を向けて駆け出した。後を追うが、すぐに見失う。
一体どういう意味だったのか。わからなかった。もしかしたら、わかりたくなかったのかもしれない。明日、依宵の元を訪ねてみようと思ったが、なんとなく嫌な予感が拭えない。
この一方的な約束が、彼女との最後の会話になると、その時は思わなかった。あの時、質問を返せていれば。諦めずに探し回っていたら。今になって考える。
月待依宵は、二月のあの日から忽然と姿を消してしまった。
彼女の姿を追って、肩の辺りまで髪を少し伸ばした。五社への入学が決まった妹に選んでもらった、くすんだ紫色のリボンを、ハーフアップにした髪に結ぶ。
見た目の形だけは、彼女に近づけた。
(神を弔うのが、あの人の信念だった)
であれば。
(僕は、この先も多くの屍の上に立つ。手を汚したことを無かったことにするつもりはない。葬ることに変わり無いのなら)
神を弔うという信念を引き継いで、これから戦うことが、きっと正しいのだと。
未は一人、決意した。
四月の五社。桜舞う校内は新入生で賑わっている。未はその様子を見ながら、どうか死者が少なくあればいいと願っていた。
「あ、あの!」
背後から、声がする。
「私のお姉ちゃん、月待依宵を知りませんか!」
あぁ、彼女も五社に来てしまったのかと、未は思った。その言葉だけで、相手が何者なのか、察しがついた。
「私、月待夏宵と言います!」
来年十二歳になるのだと、昨年依宵は言っていた。賢くて、飛び級しているから、来年妹が五社に来るようなら、彼女が卒業するまで共に暮らすのだと。嬉しそうに話してくれた。
今目の前には、依宵にそっくりな女の子。
(どうして、いなくなってしまったんですか。月待先輩)
貴女は今、どこに。
彼岸の向日葵。
夏休み明けの校内に出現した神。夏宵と二人で討伐に赴いた。現段階での情報を大雑把に確認していて助かったが、種が発芽するまで見えなかったのは予想外だ。そして、今までの出来事を思い出すまでに時間がかかったことが悔やまれる。
ここは恐らく、この神が見せている夢幻の世界。幸せな夢を見せて詠手を弱体化させて血を吸う、或いは舞手を絞め殺す、そういう特性を持っていると記載があったため間違いないだろう。この幻覚から抜け出す方法は、ひとつしかない。
──向日葵が見せる夢に出てくるのは、大切な故人である。
(理解はしていたし、その可能性があると、わかっていた)
ここは五社だから。日夜化け物と戦い、化け物に成る可能性を持つ、死と隣合わせの世界での行方不明と言うのは、つまり。
……それでも、認めることは難しかった。だからこそ囚われたのだろう。彼女がいた過去の記憶に浸ってしまったのだろう。
(僕は、弱いな)
弱いところが少しくらいあったっていいじゃない、隙がない人よりは親しみやすいよ、と彼女なら言うのだろうか。言っていた気がする。想像しただけで、少し口元が緩んでしまう。
未はわかっていた。こんな形になってしまったが、月待依宵は、既にこの世にいないという現実を、受け入れる時が来たのだと。
そして、今すべき行動も、理解していた。
目の前の依宵を、殺すことだ。