名前を呼んで、ただそれだけ「場地さん。誕生日おめでとうございます」
今日も、横たわる彼に向かって話しかける。ちゃんと息もしているし、心臓も動いているのがバカな俺でもわかるモニターが知らせてくれている。もし何か異常があれば、すぐに先生が飛んでくることも。それを知らずに最初の頃は、ちょっと場地さんの呼吸音が聞こえなくなっただけで病室を飛び出しおっかない看護師さんに怒られた。
「急に寒くなりましたね。仕舞うタイミング無くて、扇風機とこたつ一緒に出てますよ」
狭い部屋がもっと狭くなったけれど、寒さには変えられない。衣替えも済ませていないから、ニットとTシャツが並んでいるのも仕方がないと目を瞑っている。
「しかも明日は雨らしいっス。寒い時の雨って、なんでこんなに嫌なんでしょうね」
窓際にある花瓶を手に取り、ベッドの近くにある手洗い場で水を入れる。俺が毎年持ってくると知っているから、場地さんのお母さんはその前日に花瓶を開けてくれている知ったのは、お見舞いに来て三年目のこの日だった。
「うん、今日も綺麗」
花なんていらねぇとか言われそうだけど、これは俺の自己満だから許して欲しい。年に一度、花瓶が溢れるほどの花を飾ると決めたあの日から十年経つのかと思うと感慨深いものもある。
場地さんが奇跡的に一命を取り留めて、もう十年。自分の腹にナイフを刺し、担ぎ込まれた病院でずっと場地さんは目を覚ますことなく入院している。いわゆる、昏睡状態らしい。このまま目が覚めないかもしれない、何年後かにふっと覚めるかもしれない。それは誰にもわからないと聞かされた時、医者の胸ぐらを掴みそうになったのを止めたのは場地さんのお母さんが泣いている姿を見たからだ。あの日からずっと、場地さんはたくさんの管に繋がれながら、眠ったまま生きている。
「今日、やっとオープン出来ました。しばらくは一虎くんと一緒に頑張ります」
中学を卒業して、高校に進学して、専門も卒業して。数年間は勉強のためだと高校時代からバイトしていた店に就職した。いつか絶対自分の店を持つという目標は、きっとあと数十年後だろうなと思っていたところに、知り合いのペットショップのオーナーが高齢を理由に辞めるから後を継がないかと言われ、飛びついた。内装は少しいじり、店名は新しくして年少から出てきた一虎くんを捕まえて、やっと今日オープン出来た。絶対この日にオープンしたかったから、この三ヶ月ほどは寝る暇もなかったけれど。
「場地さんのエプロンも作りました、いつか着てくださいね」
バックヤードのロッカーも、三つ用意した。一つは俺のでもう一つは一虎くん。後の一つはもちろん場地さんの。その中に、店名の入ったお揃いのエプロンもひっそり入れてある。今はそれしか入っていないけれど、きっと色々なものを入れて忘れて一ヶ月ぐらいでぐちゃぐちゃになるんだろうな。
「一緒に働くの、楽しみだなぁ」
俺が勝手に想像しているだけだから、許して欲しい。お前の下で働きたくねぇとか、もっとカッケー店じゃないとやる気でないとか、なんでもいい。言って欲しい、聞かせて欲しい。場地さんの声が聞きたい。
「……もう、思い出せないんですよ」
ぎゅっと拳を握る。あの頃毎日にように握っていた拳。自分の想いと感情を全て閉じ込めて、何度も何度も握ったそれを今は誰かにぶつけることなど無くなった。時々一虎くんがサボっている時に軽く殴るけど。
「場地さんの声、思い出せない自分が情けない」
あんなに好きだったのに。「千冬」って呼ばれるのが、本当に嬉しかったのに。それなのに俺のバカな頭はその声を忘れてしまった。思い出として再生される声が、本当に場地さんの声なのかどうかも疑うぐらいに。
「あっ、すみません……こんな話聞きたくないっスよね」
出来るだけ場地さんの前では明るい話題を話そうといつも心掛けていたのに、ついネジが緩んでしまった。頭を下げて詫びて、今日はもう帰ろうと持ってきていたトートバックを手にする。次に来れるのはいつになるだろうか。オープン初日なのに途中で抜け出してきたので、一虎くんも怒っているだろうからしばらく先になるかもしれない。
「お、俺帰りますね! また」
来ます、と言いかけて喉の奥で言葉が止まった。場地さんが、目を開けている。夢か幻だろうと袖で目を擦りまた見るが、何も変わっていない。それどころか、ゆっくりと首を動かしこちらを見た場地さんと目が合った。
「ち、ふゆ?」
掠れた声は何年も聞いていなかったはずなのに、それが場地さんのものだとすぐにわかる。俺の名前を呼んでくれた。俺が忘れかけていた声で、俺の名前を。
「ば、じさんっ、場地さん!」
トートバックを投げ捨て、ベッドに駆け寄る。足がうまく動かず躓いて、ベッドに額をぶつけたけどお構いなしに顔をあげると、場地さんはハハッと笑った。
「何、してんだよ、ダセェな」
視界が歪む。なんでだよ、ちゃんと場地さんのこと見たいのに。何度も何度も涙を拭い、場地さん場地さんとバカのように繰り返し呼ぶ。そんな俺をウザがることなく、場地さんは頷いたり小さく返事をしてくれる。
「そ、そうだ、ナースコール押さないと!」
擦りすぎたせいで痛くなった目で、触ったこともないナースコールを探す。確か枕元にあったはずだと手を伸ばすと、手首をがしりと掴まれる。誰の手かなんて分かりきっている。
「千冬」
先ほどよりもはっきりと聞こえてきた。俺の憧れでありずっと大好きな、場地さんの声だ。
「起きるの遅くなって悪りぃ。毎年、祝ってくれてありがとな」
一度止まったはずの涙が、また溢れる。この十年伝え続けて、それがちゃんと届いていた。こんなに嬉しいことはない。
「場地さんっ」
彼の手をぎゅっと握る。筋力は落ちているけれど、俺の知っている大好きな手だ。
「お帰りなさい、お誕生日おめでとうございます!」
いつかまた彼の声を忘れ不安になる日が来ても、この手の温もりも彼の笑顔も俺は一生忘れないだろう。また再会出来た喜びに浸りながら、医者と看護師が駆けつけるまで場地さんの手を握り締めながら溢れる涙でベッドを濡らした。
洗濯を終えたエプロンをそれぞれのロッカーに仕舞うのが、いつの間にか俺の仕事になっていた。一応プライベートな空間だから勝手に開けてもいいのだろうか、と思ったのは最初の頃だけ。一虎くんも場地さんも、見られて困るようなものを入れていないから勝手に開けている。
場地さんのロッカーは、ほぼ何も入っていない。俺のイメージとかけ離れたそれをいつも通り開けると、何やら紙袋が入っていた。家で見かけたことのない袋だ。さっき近所に住む爺さんの家にキャットフードを届けていたから、その時に何か貰ったのだろうか。
「なぁ千冬ぅ、来週お迎えの」
バインダーを手に持ってバックヤードに顔を出した場地さんがこちらを見ると、ものすごいスピードで近寄りロッカーの前に立ちはだかる。
「見たか」
「三鷹?」
首を傾げて問い返す。すると場地さんは後ろ手で器用にロッカーを閉めた。三鷹じゃなくて見たかって言ったのか。
「見ましたけど、誰から貰ったんっスよね」
貰い物をロッカーに入れておくのは普通のことだ。お菓子とか、家に持って帰ることもある。普段ならそんなもの隠さないはずなのにどこかおかしい。
「ハッ、もしかして……お客さんからの誕プレっスか」
今日が場地さんの誕生日なのは、この店の常連なら誰もが知っている。ついでにこの店の一周年でもあり、それに合わせたフェアもしているからいつもよりお客さんは多い。場地さんが働き始めてまだ数ヶ月だけど、通りががりの高校生や先代の店からの常連にも人気で何度かヤキモチを焼いたこともある。それを全部受け止めてお前だけだ、と言ってくれる場地さんは本当にかっこよくて何度も惚れ直した。
「……ちげぇ」
「へ?」
「貰い物じゃねぇって」
閉めたはずのロッカーを今度は勢いよく開ける。ちょっと歪んだ扉を見てギョッとしていると、先ほど見た袋を差し出された。
「……お前に」
「俺に?」
目を逸らしながら頷く場地さんは、早く受け取れとばかりにぐいぐい俺に押し付けてくるので仕方なく受け取る。中には、袋のサイズに似合わない青いリボンが巻かれた小さな箱が入っている。
「こ、これって」
サイズ的にも、アレだろう。少女漫画やドラマで見たことがある。指輪が入っている箱だ。
「この店も、その、一年だろ。だから何か形に残る物っていうのか、その……」
ゆっくりと手を伸ばし、箱を取り出す。
「こんな、今日は場地さんの誕生日なのに」
場地さんへのプレゼントはもちろん用意してあるけれど、それは家に帰ってからと思っていた。それなのに先に俺が貰うなんて。
「いいから、開けろよ」
今にも泣きそうなのをグッと我慢して、恐る恐るリボンを取り箱を開ける。予想通りパカっと開いたそこに入っていたのは、予想に反した黒い猫。
「……ペケJ?」
「だろ! 店で見た時ペケJにしか見えなくてよぉ。エプロンに付けろよ」
興奮した様子の場地さんに対して、期待していた俺は何だか笑えてきた。もちろん、黒猫のブローチはすごく嬉しい。見せびらかすようにエプロンに付けよう。
「ありがとうございます場地さん! 嬉しいっス!」
早速ブローチをエプロンに付けると、場地さんも満足そうに笑ってくれた。その笑顔だけで、指輪以上に価値があるものを貰えた気がする。
こうして場地さんが居て、彼の夢を叶えることが出来て。それ以上に望むものなど何もない、と言えば嘘になるけれど十分すぎる幸福がこの手の中にある。こんな幸せは普通じゃないんだと噛み締めながら、今日も生きていく。場地さんと、一緒に。
「用意してあるんだから早く渡せよ」
一部始終を見ていたらしい一虎くんがボソリと呟いたが、二人でブローチのどこがペケJに似ているのかを話していたので、全く気付かなかった。