ありがとう。「……ここ?」
「ン」
「店から近いんだな」
「それに安い」
小さく笑って、セキュリティの甘い自宅の玄関を開ける。キョロキョロと辺りを見回している九井に、思わず恥ずかしさが勝って腕を引いた。
「そんなに見るなよ。オマエの家に比べたら貧相だろうけどよ……」
「いや、イヌピーらしくていいんじゃないか。なんていうか、素朴な感じ」
九井を室内に収め、それからすぐに鍵をかける。別にボロアパートなわけではない。共同経営者である龍宮寺の住まいのように雑居ビルなわけでもない。一般的な、普通のアパートだ。
白い壁に、控えめなインテリア。家具家電とローテーブルに積まれたバイク雑誌。それと、バイク整備のための本や、専門学校の資料。人を呼ぶ予定などなかったから散らかしっぱなしだった。九井には一言それを謝罪し、片付けようと手を伸ばす。
「へぇ……学校行くの? イヌピーが?」
「……まあ、整備士資格ねぇと、できること少ないし」
「やんちゃしてたイヌピーが違法かどうか気にしてんの、なんかウケる。しっかりカタギになってんじゃん」
立ちっぱなしだった九井を、ベッドに座らせる。持ってきた荷物は小さくも大きくもないスーツケースひとつ分だったから、適当に、そこらへ置いたままにさせた。
曰く、個人口座関係の諸々と多少の服。九井は今行き場がない。住んでた部屋はさっさと解約してしまったと言うし、九井のことを知っている人間に居場所がバレるわけにもいかない。乾の自宅がバレないかはわからないが、一人にしておくわけにはいかないと思った。
「ココも、そうなるんだ」
「そうなるって、なに」
「カタギに。悪いことで金稼がなくても、ココなら十分やっていけるだろ」
九井は、今まで追い求めていた乾の姉を忘れると言った。それが九井が裏稼業へ足を踏み入れた原動力であり、理由だったのだ。忘れるならばもう、必要以上に稼ぐ必要などない。人並みに仕事をして、人並みに稼いで生活する。
好きなことをするなら稼ぎが少なくとも日々は充実することを、乾は知っている。ならば九井も、これからなにかを見つければいいのだと。
「……オレに、悪いコト以外できると思ってるの」
「できるだろ。ココならできる」
乾は散らかしていた本を片付けるではなく、とりあえずひとまとめにしてテーブルに積み上げてから、キッチンへと向かった。冷蔵庫で冷えていたニリットルペットボトルの水を取り出して、それをテーブルへと運んだ。再びキッチンへ向かい、今度はコップをふたつ持ってテーブルへと戻る。
男の一人暮らしではソファーを置く必要性を感じずにいたが、誰かを呼ぶならあってもいいなと思った。しかし自分が地べたに座ればいいのだと気がついた瞬間に、やはりいらないなと自己完結した。
「……家主床に座らせて自分だけベッドってめっちゃ居心地悪いんですケド」
「ココは客だからな。気にするな」
「……うぅーん」
長く唸ったあと、九井はベッドを降りてラグの上に腰を下ろした。客なのに。乾はそんな九井に、よく今まで付け込まれなかったな、と苦笑いを浮かべた。いや、付け込まれていたのか。元々、黒龍に入ったときから。
静寂の中、互いの喉が鳴る音だけが聞こえる。同時にコップを置けば、どちらからともなく笑いが溢れた。乾は、九井の手にそっと触れた。冷えた手は水を飲んだ後、だからか。
その手を外させて、そっと握り込んだ。九井の黒目が揺れるのがわかる。
「オレは、……ココが好きだから」
「ま、マブじゃねーの」
「マブなのは大前提だろ、覆らねぇよ。それとは別の、オレの気持ちだ」
「……そう」
マブ、親友。そうして大切なのとは別に、乾はずっと、九井に恋慕を抱いていた。いつからのことかはまったくわからないが、気づいたときにはそうして、想っていた。
だからといってこの感情を押し付ける気もない。ただ、いざというときの頼りにしてもらえればそれでいい。先の抗争で自分がそうしたように、頼ってくれるならいくらでも手を貸してやる。そう、考えているだけ。
「……オレ、忘れるって言ったけどまだ、忘れきってなくて」
九井が吐いた言葉に主語はなかった。しかし乾にはわかる。それが彼女のことを指しているのだと。
「そんなすぐには忘れねぇだろ。それにオマエはそう言うが、忘れる必要はねぇよ、赤音だって重荷に思わなけりゃ、思い出の中で生きていたいだろうさ」
「……ん……、うん、そう、かもな……」
大切だった人を忘れる必要などない。ただ、いつまでもしがみついて前を向けないことが良くはないだけで。自分も、きっとそうだった。初代黒龍の、佐野真一郎の影を追うことばかりに執着するのはやめた。バイク屋をやっているのは、影を追うことと自分の趣味が合致しただけだ。
しかし、自分が言葉を返したせいで、九井の話を折ってしまったようにも思った。だから乾は、「えっと、それで」とぎこちなく話題を戻す。九井はそれを笑う。
「今度こそオマエに尽くすって言ったしな。その感情も、好意的に受け取れるよう頑張ってみようかなって」
「……ココ」
九井は、そう言うと乾が包んでいた手を返して指を絡めた。指先が手の甲を撫でる。まるで、なにかを誘うように。
「イヌピー、オレを忘れないでいてくれてありがと」
忘れるはずなかった。憧れの人を含めたとて、世界で一番大切な存在なのだから。乾は体を寄せた。体を伸ばして近づけて、そっと、触れる。溢れる吐息はどちらのものかもわからずに、しかしもっと触れたくなって、その身をかき抱いてくちびるを求めた。
あぐらをかいた足の上に乗りかかって上から、何度もそのくちびるを啄む。指を絡めた手はベッドに押し付けて、舌を突き出せば恐る恐る迎え入れてくれる。
頑張らせるのが早かったかもしれない。性急過ぎたかもしれない。だが、こんなものでは足りなかった。離れていたぶんも、もっともっと触れたくなる。人間は欲深いものだ。
「いぬ、ぴ……」
「ココ……好きだ……」
抱きしめれば、抱きしめ返してくれる。そうすることが当たり前かのように、ひどく落ち着く。
急がせたくない、だがあまり待てそうにもない。どちらの感情も本心で、思わず大きなため息をついてしまった。すると九井が笑って、髪を優しく、撫でてくれて。
「大丈夫、急がないって。無理だったらちゃんと言うし、他のことも、焦らねぇで考えるから」
九井はいつだって、乾のことをわかっていた。やっぱり、オレにはココがいなきゃ駄目だ。口にしなくても伝わるだろうが、きちんと口にして、それからもう一度その体を抱きしめ直した。
すべてが終わった今、きっと新しい未来が始まる。失ったものも多い。だからこそ、すべてを胸に抱えて生きていくのだと乾は一人、目を閉じて思う。
そのためにはまず、親友から。裏に手を染めた九井を、真っ当な世界に返してから。それが、彼に命を救われたものにできる、最大の恩返しだ。
「ココ、帰ってきてくれて、ありがとう」