君と肩を並べて
とにかく初対面が悪かった。向こうにしてみれば異界に連れ込もうとしたこっちが悪者で、彼が哀れな被害者に他ならない。それは変えようがない事実だからいいが、良い印象なんか与えようがなかった。
ただでさえ借りもあるし、あれが後を引いて、ただでさえ当たりの強い向かい風が一向に弱まらない。
それに加えて俺の呼び方が一番気に召さないようでまともな返事をもらったことがない。
「どうして見かける度に睨み合ってるんだ」
「睨み合ってないって。俺はちゃんとこんにちは、おにーさんって挨拶してるし」
「お前の兄になった覚えはない」
「ほらな」
「仁。兄さんも勝ち誇ったように胸反らしてないで挨拶くらいして」
板挟みになってる新は見るからにため息が増えた。
向かい合わせたテーブルの上で手付かずの紅茶が冷えていく。新が淹れたものならさっさと飲んで世辞の一つも口にするが、俺が淹れた茶には梃子でも触れない。
逢坂兄は実に頑なだ。似た者兄弟だと思う。
二人で住むアパートでたまにこうして三人で飯を囲むが、隣り合わせに座ったまま俺も兄も顔を合わせない。いくら新がお願いしようと嗜めようと首を縦に振らない始氏はどうあっても持論を曲げない。
「弟と共に異界に逃げようとした遠藤仁を許す気はない」
とのこと。異界行きは未遂に終わり、警備帽の先輩が逢坂始に戻った後も険悪過ぎる仲に、とうに和解は諦めている。
「おにーさん、帰ったの?」
「帰った。母さんは外泊許さないから」
お袋さんの偏愛も変わってないらしい。新と二人で暮らしてる時よりずっとマシになったと聞いてたけど、これじゃ兄が人身御供になっただけじゃないか? そうさせたのは俺だけど。
高校を卒業したら同棲しないかと持ちかけ、それに応じてくれた新と現在アパートで二人暮らし中。離れて暮らす弟が心配な兄はちょくちょく顔を覗かせ、三人で険悪にテーブルを囲むそんな日々は疲れもするが楽しかったりもする。どれだけ嫌われてもこっちは嫌う理由ないし、家族で賑わう食卓の方が何だかんだ楽しいものだから。
「疲れたか」
「全然。俺、嫌われるの慣れてるから平気。それよりお前の方が疲れるんじゃない? いつも板挟みにして悪いな」
「別に苦じゃない」
「そっか、よかった」
後ろから抱きついた彼の首筋からは風呂上がりの石けんの匂いが漂う。湿った黒髪に顔を埋めて頂に口づけると、先に風呂。と無表情に新の目がバスルームを指し示している。
「じゃ風呂でやろ?」
「今出て来たばっかり……こら手をはなせ、仁」
腕にスッポリ収まる体をズルズルと引っ張って、バスルームの戸を開いた。
それで決まった? と卒業式を待ってきっちり仁は答えをねだってきた。高校二年から一年が過ぎ、彼の願いを反故にする理由はいくらでも積み上がっていて、関係を崩すのは簡単だった。帰ってきた兄の存在が拍車をかけ、断るくらいなら別れてしまった方がいいとさえ迷った。兄さんも仁も一人には出来ない。どちらかを切り捨てるならそれは……
「俺は」
「待って。先にこれ今月分な。まだ全然足りないけどちゃんと全額返すから。始さんにも伝えて」
封筒を受け取って頷く。彼は始兄さんに借りがあった。
去年の文化祭前日の金曜日、彼は祭りのむこうへ行こうとして新の手を引いた。冷たい手だった。いつの間にこんなに冷えきっていたのだろう。
どうしても一緒に行きたいと譲らない。歪な家庭の中で暮らすには限界を迎えていた仁にとどめを差したのは高校生活の存続だった。
拠り所にしていた高校にいられなくなる、その恐怖と絶望は新には計り知れない闇があるのだろう。元凶の父親を屠っても使い込まれた金は戻らない、それならもう戻る必要なんかない。予定通りむこうへ行ってしまえば何も後悔なんか残らない。
「でもお前と離れるのは嫌だから一緒に連れてってもいいだろ? 一緒に行くよな、新」
迷ってしまった。あまりに泣きそうな顔で君が繰り返すから。一緒に行くと頷いて、鳥居のむこうに駆け出せたらよかったのか。
でも足は動かない、かと言って握った手も離せない。彼が走り出してしまったらもう止められない。どうしようもなく八方塞がりだ。
「お前たちやめろ、それ以上進むな」
現れた先輩に二人共引きずられ事なきを得た。この時のいざこざを未だに兄さんは根に持っていて仁を許せないらしい。
祭りの終わった後が本当の始まりだった。異界行きを阻止しても学費の問題は何も解決していない。屠った父親は何とか命を取り留めていたがそれを理由に仁は家を追い出されて、行く当てすらなくなっていた。
「何とかするから、決して一人で行かないと約束してくれ」
文化祭はまたやってくる。彼が行方をくらまさないよう頑張るしかない。
彼の家族に頭を下げ、頼み込んでようやくアパートを借りる目処が付く。学費は生活費を切り詰めた分と貯金を崩して何とか工面して肩代わりし、足りない分はバイトで賄おうとしたが兄さんに止められた。結局兄さんにも手助けしてもらった。
「お前さ、何でここまでしてくれるの?」
赤の他人なのにと彼の目が語っていた。時々自宅に招いては食卓を一緒に囲むことが彼の為になったのかは分からない。時折寂しい目をする仁を放っておけなかった。
もしくは。
「俺が、そうしたいから」
「そっか。……味噌汁おかわりしていい?」
放っておけないじゃなく、引き留めて安心を買ってるだけかもしれない。もう二度と目の前からいなくならないように。
心配で仕方なかった、それは向こうも同じだったらしい。よく思いつめた顔してた、とは後に仁が言った言葉だ。
三年に上がった新は受験の準備で人の生活を気にするどころじゃなくなった。月一で謎の振り込みがあったりして、仁は仁で自力でやりくりしていたらしい。色々忙しかったが甲斐あって、二人共卒業まできっちりと在籍出来た。
就職を選んだ仁と卒業証書の筒を手に向かい合う。
これだけ頑張ったのだからもう報われたっていいだろう。
「君の職場はアパートから距離があるだろう」
「あーうん、寮があるからそこ入ろうかなって」
「ずっと?」
「いずれは出るよ」
「そうか。俺も家を出ようかな……アパートとかいいかもしれない」
「やめとけ。アパート暮らしきついぞ、大体あの厳格な兄貴が許さないだろ」
「いざとなったら泣き落としでも何でも使う。何だかんだ言って兄さんは俺に甘いから」
「……お前の大学って俺のアパートから近いよな」
「そうだな。君のアパートから通えたら近くて助かる」
「ふうん、じゃあ俺もアパートに残ろ。ちょっとの距離だし何とかなるだろ」
「いいのか」
うん、と手を繋いで指と指を絡める。同棲成立だなと仁が微笑った。
まだ肌寒い三月、ようやく一心地つけた気がした。
「そんなに気になること? 仁も兄さんも無事戻ってこれたんだから俺はそれでいいと思う」
「よくない。お前はもう少し危機感を持て、少しは他人を恨むことを覚えてもいい」
「無茶苦茶言ってんなあ」
「恨むって……こればっかりは同意出来ないよ兄さん」
「無茶苦茶だけどそれだけお前のこと心配だったんだろ、兄ちゃんの味方してやれば?」
「それは、とてもよく分かってるが……仁、君はそれでいいのか」
「お前に兄さんと言われる筋合いはない。とにかく同居なんか許さんからな」
「同棲っすよ、おにーさん」
「黙れ」
何度話しても締めくくりは同じ。諦めなければその内上手く行くだろう。上手く行かないならちょっと狡い手を使うとしよう。
そろそろ同じ部屋で君と肩を並べたいし。
「待たせてばかりも悪いからな」
2015.10