それはとてもささやかな
「たとえばの話だけど」
長い足と並んで歩く足。夕焼けに続く影は長い。
「もし、俺の最期にお前がいたらさ」
「いたら?」
「あだ名で呼んでくれない? いつもみたいに仁(じん)って」
「……随分とささやかな頼みだな」
「そうかもな。でもそれしか思い付かないんだよな……最期に友達が傍にいて、お前が呼び始めたあだ名で締め括る人生、これ以上うれしいことってある?」
いいんじゃないか。と無口な影が口を開くとお喋りな影はうれしそうに声を弾ませる。
「それで君が満足するなら」
「うん、じゃあまた明日な」
「ああ」
何でもない会話だった。
逢魔ヶ時を過ぎ、夜気をはらんだ校舎は冷たく闇を纏う。暗く冷たいリノリウムの床に沈んだ白い影――壊れた人の形を眺め下ろし、彼は誘いをその耳へと落とした。人の形をした人でないもの、怪異へと変ずるための常套句を。
人ならざる者に蹂躙された人は名前も何も思い出すことなく、逢魔ヶ時に消え行く。這いつくばった体はもう人に遠く、その肉体はやがて指し示された通り祭りのむこうへ歩み始めるのだろう。
どうかした? と振り向いた鬼の怪異の薄笑いをすり抜け、立ち会った人の最期に片膝を突いた。
「さみしい……」
「名前を覚えているか?」
「…………名前……分から、ない」
「このままだと君は怪異になってしまう、完全な怪異になるともう人には戻れない。外へ帰りたいならその前に思い出せ」
「……」
「無駄だって。お前も分かってるくせに」
白い塊は逡巡し、頭を振ってからその目を閉じる。しゃがみ込んだ狐の怪異の足元で人としての最期の意識を手放した。一名様ご案内、と茶化した鬼の一言を咎めるでもなく膝を伸ばし、見下ろす彼と肩を並べた。
「名前ってそんなに大切?」
「人を人たらしめる証だろう。逢魔ヶ時の世界に堕ちないための大事な免罪符だ」
「免罪符ね。ここにいたらすぐ忘れちゃうのにな」
「この世界は人にはあやふや過ぎるんだろう。だからすぐに飲まれる」
床に伏せていた肉体がゆらりと立ち上がる。鬼の指がすっと持ち上がる。
「廊下を曲がったらすぐに祭りの参道だ」
最後の道案内に頷いて、ふらふらと人影は歩き出す。
「はい、完了~。外に帰してやれなくて残念だったな?」
「残念とかそういうのじゃない。俺が勝手にしているだけだ」
迷子にはなるべく帰ってほしいがどうこう出来るとは思っていない。現にこうして力は及ばない。それに落胆することがないのは記憶が続かない怪異だからこそ。見つけたら声をかけて出口へ導くだけ。
最期には名前を呼んで――頭に残る誰かの声に従って、今日も名前を尋ねる。
「……鬼」
「ん、何?」
「……何でもない。呼んだだけだ」
「そう」
思い付きの呼び掛けに応じるのは左手に絡み付く指先。忘れてもその都度浮かび上がる誰かの意志。
見知らぬ誰かは最期に大事な名前を呼んでもらえたのだろうか。
2016.4