ある喫茶店のはなし
思った通り喫茶店に彼の姿はなかった。
傘を畳み、いつものように珈琲を一杯注文して一息吐いた頃、ようやく雨の中を傘も差さずに疾走する青年が店前に現れる。
たちまち、店の奥が遅いだの何だの騒がしくなり、エプロンを着けた店員が一人増えた。
「すまんのう、寝坊しよった」
遅れた理由は簡潔に、青年は溜まった食器を片付け始める。ゆったりとした店内に鼻歌が混じり合った。
「おうワレ、今日も来とったんやな」
「……こんにちは」
雨のせいかすぐに客足も途絶え、テーブルを吹いて回っていた青年が近くを通った際、訊いてみた。
本当の事は言わないんですか? と。
遅刻の原因は寝坊とか適当な言い訳をしていたが本当は違う。
見とったんか、と声を潜める店員にええ、と頷き返し、
「道を歩いていた親子連れが車に轢かれそうになるのを救けて、その後、道に迷った老人を案内し、更に濡れた捨て犬に」
「あ〜…そや、水のお代わりいるか?」
「要りません。まあ見てたぼくが言うのも何ですが話が出来過ぎてて信じられませんよね」
「ワイもそう思ったわ……だから内緒な」
「構いませんけど……珈琲、お代わり頂けますか」
おう! と白い歯を見せて彼は元気よくカウンターへ戻って行った。
*
青年がバイトから上がる頃になってもまだ雨足は強く、傘が無い帰り道は濡れる事請け合いだ。こういう時は有り難く店の置き傘を使わせて貰おう。
お先にと青年はドアを開けた。
「坊やないか、偶然じゃな」
「傘、持ってたんですね」
何時間も前に帰った筈の少年に店の前で出迎えられ、目を丸くする。頭上に差した傘とは別にもう一本傘を持って、わざわざ店に寄ってくれた。と考えるのは青年の自惚れだろうか。
「ぼくはコンビニに出た帰りです。わざわざ店の前を通ったりしませんよ」
「ほー」
「何ですかその顔、ムカつきますね」
「まあええわ。のう、その傘入れてくれんか?」
傘持ってるじゃないですか、と少年が口を尖らせる中、強引に傘の柄を握った。
「ぼくの傘ですよ」
「なら入ればええじゃろ? さ、帰るで、坊」
「ジェイです」
「ワイはモーゼスや。よろしくなジェー坊」
強引な人ですね……と溜め息を零しつつ、ジェイはモーゼスの隣に並んだ。
2014.5