ごめんね/ありがとう3
夜中の2時。
出来る限り音を立てないように気をつけて鍵を開けた。
金属の擦れる音が微かに響いたが、その後に待っていたのはしん…という文字が見えそうな静寂。
寝室の前を通り過ぎ、リビングに荷物を置いて浴室へと向かった。
シャワーを浴び、髪は乾かさずにそのまま寝室へと向かう。朝、寝癖になるかもしれないが、大きな事件がひと段落つき、5日ぶりの帰宅、どうせ明日は休みだ。
とにかく早く会いたくてたまらなかった。
4
寝室を開けると、布団の端に小さなふくらみが見えた。
規則的に上下するその山を見て、ようやく強張っていた身体が緩んだ気がした。
掛け布団の端を持ち上げ、そっと滑り込んだ。
ベッドの端、ぴたっと壁に張り付くようにして縮こまって眠っている少女。
起こしてしまうだろうか…と、少し迷ったが、それでもいいかと思い直し、身体の下に手を差し込み、そっとこちらに抱き寄せた。
5
その動きで、やはり目が覚めてしまったのだろう、うっすらと開いた目から、暗がりの中でも光るエメラルドが見えた。
「あ…帰ったのね…」
「ああ、ただいま。『志保さん』」
かつての名前をわざと呼んで、額に口付けた。
まだ半分夢の中なのだろう、ふにゃ…と緩んだ笑顔を見せてくれる。
「おかえりなさい…おねえちゃ…」
降谷が数日家を開けた時だけの、恒例の出来事だった。
6
そのまま、すうすうと寝息を立てる哀をぎゅっと抱きしめた。
組織が壊滅し、トリプルフェイスの仮面を外した2人が、なんやかんやあって一緒に暮らすことになってから数ヶ月経った。
7
(きっかけは雨の日だった。
1人だと眠れないと遠慮がちに俯く哀を抱きしめて眠った日から、ただの同居人だった2人の距離感に変化が生じた。
日を重ねるに連れて、雨の日限定だったそれは毎日のこととなり、いつしか夜は抱き合って眠ることが当たり前になっていた。
腕の中で眠る小さな命が、彼にとってどれだけかけがえのないものか、彼女は知らないだろう。
降谷が仕事で数日家を空けている時は、当然だが哀は1人で眠っていた。
可能な限りメールや電話で連絡は取るようにしているが、その時は特に変わった様子は感じられなかった。
異変に気づいたのは、夜中に着替えを取りに一時帰宅した時のこと。
深夜に女性の部屋を覗くのはいかがなものかと思いつつ、ひと目でいいから元気な姿を見ておきたかった。
8
起こさないようそっとドアを開けて、ベッドの傍に立つ。
穏やかな呼吸で眠りについている哀の姿を見て、ほっとして部屋を出ようと思った時。
暗がりの中、頬が涙で濡れていることに気付き、思わず手が伸びてしまった。
指先から伝わる、しっとりとした冷たい感触。
僅かな震えに気づいたのか、うっすらと目を開けて、哀は呟いた。
「おかえりなさい…おねえちゃん」
)
9
彼女の姉、宮野明美は志保と2人で組織を抜けるために悪事に手を染めたが、その後ジンの手にかかり帰らぬ人となった。
最後に見たのは、いつも通りの笑顔だったそうだ。
その時の傷がまだ深く残っているのだろう。降谷に見せないように気を付けていたようだが、哀は1人で待つのを怖がっていた。
そんな彼女の心の弱い部分につけ込み、離れられないように縛りつけたのは降谷だ。
どう頑張っても、彼女を待たせることしかできないのに…
10
「君を待たせない男として、一番相応しくない人間なのに…」
(手放せなくて、ごめんね)
11
朝になり、自然と目が覚めた。昨夜は久々にお姉ちゃんの夢を見た気がする…
それはまるで、吉兆のようだった。
なぜなら、姉の夢を見た日の朝はいつも。
いつもと違い、隣が温かい。
目を開けると、褐色の肌と朝日を透かしてキラキラ光る金色が目に入った。
熟睡しているようで、密かにお気に入りのサファイアはまだ見えない。
12
すうすうと寝息を立てる様子を見て、自然と頬が綻んだ。
目元の隈が深く刻まれている。今回もハードワークをこなしてきたのだろう。
でも、怪我はしていない。
「よかった…」
思わず漏れた声が聞こえてしまったのか、パチリと降谷の目が開いた。
「!!」
「あ、おはよ、哀さん」
13
「ごめんなさい、起こしてしまったわね」
「いや、よく眠れたから…大丈夫だよ」
「それに、早く会いたかったし」
「な、」
「待っててくれて、ありがとう」
「…!!」
14
哀はくるっと体を反転させて降谷から背を向けたが、耳元が真っ赤に染まっているのが見える。
むくむくと悪戯心が湧いてくる。
「あ、ちょっと!」
哀のシャツの裾から手を差し入れるとすぐに手が飛んできた。
15
「あなたね…こんな身体触っても楽しくないでしょ…」
「そんなことないよ。どんな姿でも、君は君でしかない」
「なんか真っ当なこと言ってるように聞こえるけど、知らない人から見たら、まだ小学生なのよ私。気をつけてよね」
「安心して、ここでしかしないから」
「…ほんと…バカね…」
16
「哀さん、今日の予定は?」
「知らないみたいだけど、今日は日曜よ。特に用事もないわ。あなたは?」
「僕も今日は休み…」
腕に閉じ込めた小さな温もりが心地よく、まぶたがまた重くなってきた。
「だったらもう少し寝ましょ」
「うん…哀さん、」
「うん?」
「待っててくれて…ありがとう…ごめんね」
17
「……」
「私の方こそ…帰ってきてくれて、ありがとう」