回転 野田昊からメッセージが届いていることに気づいたのは、大学の昼休みのことだった。
〈週末の予定は?〉
学内のベンチに腰かけてサンドイッチを齧りながら、秦风はその短いメッセージを見つめる。
相手が他の誰かであれば、まず「なぜ?」とその目的を探ろうとしただろう。本を読んだりゲームをしたりして過ごす穏やかな休日を、面倒なことで邪魔をされたくはない。
けれど、野田からの連絡なら、それが何であっても良いなと秦风は思った。抱えている事件についての意見交換だとか、調べものの依頼だとか、あるいはゲームの誘いだとか。そのどれでも秦风は退屈せず、きっと楽しい週末を過ごすことが出来る。
〈何もないよ〉
簡潔にメッセージを返す。期待に胸が弾んでいた。
野田とは頻繁に直接連絡を取るわけではない。けれど、クライマスターのランキングを見れば野田の名前はいつでもぴたりと秦风の名前と並んでいるから、その存在を常に感じられる。野田はSNSに写真付きの投稿することも多く、秦风がそこにコメントを残すこともあった。そんな緩やかな交流が、東京で一緒に事件を解決して以降続いている。
クライマスターを確認すると、野田の最終ログインはちょうどメッセージが届いた午前中が最後のようだった。続いてSNSを開くと、これまたほぼ同時刻に写真付きの投稿が上がっていた。
カメラに向かってウィンクをしている。背景には澄んだ青空と東京の街が写っていた。夕焼けみたいな色をした花柄のシャツを着ていて、それがよく似合っている。
初めて会った頃はどこか妖艶な雰囲気を漂わせる、食えないナルシスト男という印象だったが、東京での一件を通してその見方は変わっていった。
自分の庭だと豪語する東京で、実に彼はのびのびと楽しそうで、からりと笑っていた。自信に満ちて誇らしげな態度も優雅で品が良く、驕るところはない。理解力、発想力、観察力に優れていて物の考え方が鋭く、秦风は彼に助けられた。
野田のことを信頼しているし、好んでいる。そして、野田も秦风のことを同じように思っている。そんな確信があった。
〈make somebody's day〉
投稿のコメント欄に英文が添えられていて、秦风はそれにLikeのボタンを押した。
昼休みの間に、野田からの返信はなかった。
午後の授業中、秦风は教授の話を聞き流して、静かに野田のことを考えていた。
自分の目に映った野田の記憶を再生する。それは、実は東京から北京へ帰って今日まで習慣のように行っていることで、癖のついてしまった本のページを開くみたいに容易かった。
一番繰り返して思い出すのは、野田の実家で服を借りた時のことだ。広いウォークインクローゼットにずらりと並んだ派手な衣装の中から、秦风は何とかまだシンプルに思える襟元に花と蝶の刺繍が施された白いシャツを探し出した。そして、いくつかあったネクタイのうちの最も地味なダークブルーのものを選んで巻いていると、「あ、ダメだよ」と野田が寄ってきた。
するりと秦风の首からネクタイを引き抜いて、「そのシャツにはこれを合わせるんだ」とピンク地に花柄の生地の一本を持ち上げる。
「派手すぎる」
「そんなことないよ、ほら」
眉根を寄せる秦风にいたずらっぽく微笑んで、野田は秦风の首の後ろに手を回した。しゅる、と布の擦れる音がいやに大きく聞こえた。野田のつけているパルファンの、温かくてスパイシーな甘い匂いが濃くなる。
全く荒れのない指が器用に動いてタイを結んでいくのを見ていた。それから、すぐ目の前にある美しく整えられた髪の流れ、伏せられた睫毛の一本一本、血色の良い唇まで。
野田はお金持ちなのに他人のネクタイを結ぶことに慣れているんだ、とぼんやりと思った。秦风は誰かにネクタイを結んでもらうのは初めてだった。
「弟が小さい頃にやってあげていたんだ」
秦风の思考を読んだかのように言いながら、最後にきゅっと締まり具合を調節して、野田は満足げに笑った。「うん、かっこいい」と結び目のあたりをぽんぽんと優しく叩いた顔は本当に嬉しそうだった。どうにも言葉に詰まってお礼を言うのにすら吃ったのに、それにも野田は目尻を柔らかく下げた。
その時のことを思い出すと、秦风の胸には甘い痛みが走る。
何度かそれを繰り返して、授業やゲームの最中に集中力を欠いたり思考がまとまらなかったり、自分が自分の思い通りにならない目の回るような感覚に、ある日これが恋というものなのかと納得した。
最後に空港で「再見」と手を振って見送ってくれた笑顔を思い出す。「次はいつ会える?」と聞きたかった。聞けばよかった。今日、メッセージの返信があったら聞いてみようか。
ぐるぐると考えているうちに、授業はいつの間にか全て終わっていた。
授業が終わってすぐに携帯端末を確認して、秦风は少しだけ落胆した。
クライマスターへのログインもSNSの更新もないので、何か事件の捜査中か、もしかしたら野田の家の仕事中なのかもしれない。週末に何の予定もない学生の秦风と違って、野田は社交界にも身を置く大人なのである。
自分から連絡してきたくせに、と子供じみた恨み言が浮かんで、頭を軽く振る。まったく、自分らしくない。
帰路に着くためにキャンパスを出ると、夕暮れが近づいていた。
夏が終わって、一気に日が傾くのが早くなったのを感じる。空の端が朱色にうっすらと染まり、西の雲は明るく光っていた。
もうすぐ街の灯りがともり始める。行き交う人々や建物のシルエットが曖昧に溶けていく。ゆっくりと夜が近づいてくる。
その時、ポケットで携帯端末が震えた。
秦风がはっとして慌ててディスプレイを見ると、ビデオチャットの着信だった。「野田昊」と名前が表示されている。
ほとんど震えそうな指で応答ボタンを押すと、画面が切り替わって野田の姿が映る。
「你好、秦风。すぐ出てくれたね」
野田の少しアクセントに癖のある北京語を聴くのは、懐かしい気さえした。心臓の音が速くなるのを、どうしたら止められるのだろう。
「ひ、久しぶり」
「一ヶ月と少しかな。元気そうで良かった」
リラックスした様子で野田は柔らかく微笑む。
「そっちも。それで、急に、どうしたの?」
「君の顔を見たくなって」
さらりと伝えられて、秦风は一瞬言葉を失う。真意を伺うように、画面越しの野田の顔をじっと見つめる。野田は、少し眉を下げた。
「それじゃ、おかしいかな?」
「いや、別に、おかしくは」
ないと思う、と続ければ嬉し気に頷く。野田は外にいるらしく、背景にはオレンジとピンクを混ぜたような空が広がっている。
「それで、週末……」
「野田」
秦风は上擦った声で、野田の言葉を遮った。落ち着き始めていた鼓動が早鐘を打ち始める。
「今、今、どこにいるの?」
「え?」
「迎えに、行く。行くから、早く言って。だって……だって、君は北京にいるよね?」
野田が目を丸くした。その顔を見て、自分が試されたわけではなかったのだと知る。
「今、この世界で、一番美しい夕焼けを見られるのは、ここだけだ。野田、一緒に見よう」
「バレないように、建物を映さないようにしたのに」
「甘かったね」
「音声通話だけにすれば良かったなぁ」
野田はすぐに秦风のいた場所から程近い駅名を答えた。秦风は最短ルートで走ってそこへ向かって、二人は合流した。
どうして分かったのと少し悔し気に聞いた野田に、東京はもう夜のはずだろと秦风は口の端を上げた。
「君は冷静だね」
そうでもない、と思ったが黙っていた。今は二人で並んで北京の夕焼けを眺めている。
今日の北京は空気が綺麗だ。紅と金に染まった空は薄紫へとグラデーションして東側の夜へと繋がっている。金星がうっすらと光り始めるのが見える。
「綺麗だね」
「うん」
秦风は隣にいる野田を盗み見た。穏やかな横顔は、唇にゆるく弧を描いて、沈んでいく夕陽を見つめている。瞳がきらきらとして綺麗だった。東京で一緒に花火を見たことを思い出す。あの時もこんな顔をしていた。
涼風が吹き抜ける。夜はもう肌寒くなる季節だ。そっと体を寄せてみると、肩がぶつかった。
野田の目が秦风を見て、優しく垂れる。目尻の皺を撫でたいなとずっと思っている。
「もう沈むね。あっと言う間だ」
「だからこそ美しいんだろう」
距離が近づいたからか、囁くような声だった。
「日が沈んだあとの時間も僕は好きだよ」
手の甲同士が触れ合って、どちらからともなく指が絡ませた。夕闇に溶けてしまって、きっと誰も見ていない。
「あ、野田……この後、僕、僕の、部屋に来る?」
言葉に詰まってしまうけれど、気にならない。野田はそれを指摘してきたことも笑ったこともないから。
「モーニングコーヒーを淹れてあげるよ」
野田のウィンクは、小さな蝶の羽ばたきのようだった。