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    パラロイパロのネロファウです。ハッピーなラブコメです。
    最後まで書けました。

    パラロイパロ【春】


     高度に発達した科学は魔法と区別がつかない。

    「先生」

     自殺防止のためほんの少ししか開かないフォルモーントラボの中でも超高層階の窓。職員用休憩室で早朝の冷えた空気を吸い込みながら、ファウストは窓の外から呼びかける声の主を見上げた。
     ホバリングする大型のエアバイクに跨りシンプルなTシャツとダメージジーンズに身を包んだ、人好きのする笑みを浮かべる青い髪のアシストロイド。その笑顔を見ただけでは人間なのか人造物なのかの見分けはつかない。
    「お疲れさん」
     エアバイクの少し耳に触る駆動音に、高くもなく低くもないまるい声が重なる。彼の型番だと、声データは録音だったか、合成だったか? ごく人間らしい声で紡がれる労りの言葉は、社交辞令といえどファウストの疲れた頭にじんわり染み入った。
    「ネロ。おはよう。夜勤明け?」
     いつもは警官の制服に身を包んでこの街の安全を平和を守っているが、私服であるところを見るとネロは帰宅途中なのだろう。
    「おはよう。そんなとこ。先生はまた徹夜?」
     ネロはエアバイクのハンドルにだらしくなくもたれ、愉快そうにファウストの目の下のくまを指差した。
    「徹夜じゃない。……さっき仮眠したから」
    「じゃあこれから」
    「また一日勤務だよ」
    「おいおい、体壊すぞ」
     ネロは驚いて顔を顰めた。青い髪がビル風にふわりと舞い、差し始めた太陽の光が透過してきらめくのを見てファウストは美しいと思った。眠気のせいか、一足早く暖かい昼間が来たような錯覚すら覚える。
    「何も言うな」
     ネロは搭載されたカルディアシステムのため、フォルモーントラボで修理や定期的なメンテナンスを行なっている。というか、フォルモーントラボでしか彼を取り扱うことはできない。ネロはアシストロイドであることを周囲に伏せているが、フォルモーントラボ産であるカルディアシステムの存在もまた社会に対して伏せられているからだ。
     ファウストはネロのメンテナンス担当エンジニアで、最初の頃は会話などほとんどなかった。しかし、回数を重ねる毎に少しずつ言葉を交わすようになり、今や雑談すら繰り広げる仲となっていた。

     カルディアシステムはアシストロイドの“心”だ。それは本当に人間の心のようなシステムであり、オーナーに命じられなくても自分の自由意志で行動をすることができる。そのおかげで、ネロはアシストロイドだということを隠し続けていられるし、単なるメンテナンス担当エンジニアのファウストを見かければ労りの気持ちから世間話だってする。途方もなく鮮明にズームできる金色の瞳で、窓辺に佇むファウストの疲れた顔を見つけて。

    「じゃあ、お疲れの先生にはこれあげる」
     ネロはバイクのハンドルに掛けていた小さな紙袋を手に取るとファウストに差し出した。ファウストはそれを受け取り、中を覗く。
    「何? あ……」
     いい匂い。かぐわしいコーヒーの香りがファウストの鼻先をくすぐった。
    「お気に入りのコーヒーショップなんだ」
    「はあ」
    「値段の割に美味いし、ハンドドリップも丁寧。それより何よりこんな時間から開いてる」
     ネロがちゃめっけたっぷりに首を傾げて笑った。空が白み始める午前五時すぎ。街には、目覚めた部分と未だ眠っている部分が混在している。ファウストはずれたメガネもそのままに、まじまじとネロの顔を見た。
    「あ……いや、もらったら悪いよ」
     そう言って一度受け取った紙袋を狭い窓から差し出す。
    「なんで?」
    「君が君のために買ったんだろう。家に帰って飲む予定なんじゃないのか」
     ネロは昔調理や家事をするアシストロイドだっただけあって、味覚も発達しているし嗜好品も嗜む。
    「ああ、ヂェンのTVショーでも見ながらな。でもそんなことはもうどうでもいいんだ。家にもコーヒーはある。あんたに飲んで欲しいんだよ」
     ファウストはなお何かを言おうとして口を開きかけたが、言葉より先に出た大あくびにかき消された。
    「ほらな。はは、先生、猫みてえ」
    「猫?」
    「じゃあな。先生はアシストロイドじゃないんだからたまには休みなよ」
     コーヒーを優しく室内の押し返すとネロはエアバイクのホバリングを解除し、ゆったりとした動きで窓から離れた。小さく手を振るネロに、ファウストが窓に背伸びをしてやや大きな声を出した。
    「ありがとう。君もお疲れ様!」
     ネロは嬉しそうに目を細めて柔和に微笑んだ。それは惚れ惚れするほど綺麗な微笑みで、空飛ぶスパゲッティモンスターと揶揄するにはいささか全てが美しすぎる、とファウストは思った。無駄がなく合理的に最適化されたプログラミングコードに、軽量化と耐久性を兼ね備えたボディパーツ。科学技術の結晶。文明の最高峰。幼い時からそうだった。何度も、数限りなく繰り返した。埋め立てられてもう存在しない不気味の谷の跡地を見つけるたび、生まれたての高揚感が胸を高鳴らせる。

     ファウストは、遠ざかっていくエアバイクの後ろ姿を見ながら、窓際でぼんやりとコーヒーを口に含んだ。ネロに渡されたコーヒーの味は確かにごくごく普通、中の中といったところだった。だけど、ネロが今さっきまでどうしてだかここにいたこと、頬にかかったエアバイクの生ぬるくクリーンな排気や、無駄のないこなれた運転技術などといったものの記憶を脳内で反芻していると、普通の味が実際よりも複雑に感じるような、そんな気がした。

     見下ろす街は春らしい薄紅色に包まれながら徐々に動き始める。

     魔法なんて存在しないこの世界で、人間は気が遠くなるほどの地道な試行を重ね、失敗したり成功したりしながらほんの少しずつ前に進んで来た。アシストロイドしかり、この都市しかり。

     冷めかけたコーヒーの最後の一口を飲み下し、ファウストは紙袋にプリントされているコーヒーショップの名前を胸ポケットから取り出した電子端末のマップアプリにピン留めすると、大きく伸びをしてからオフィスに向かって踵を返した。

     人類史にとっては取るに足らないかもしれないが、今日もほんの少しの前進や後退を重ねよう。
     こんな日は、なんだかいい日になりそうだ。



    【夏】



    「俺と飲みに行きませんか」
     初夏、メンテナンスの終了間際にネロが緊張した面持ちで何か言ったと思ったら、食事のお誘いだったのでファウストは思わずいつものしかめ面を崩して吹き出した。
    「君、なんだその顔」
    「え? いや、先生は嫌かと思ってさ」
    「嫌だけど」
    「嫌なんじゃん」
    「だって嫌だろう。店員とのコミュニケーションは緊張する」
    「店員とのコミュニケーション? それくらいアシストロイドの俺がやってやるよ。いや、断られるだろうとは思ってたから別にいいんだけど、酒好きだって言ってたろ? すげえ美味い日本酒を出してくれる店を見つけたから、よかったらって思っただけ」
    「む……」
     ファウストが少し興味を示したので、ここぞとばかりにネロはたたみかける。
    「甘口、辛口、すっきりしたやつもコクのあるやつと、たいてい飲みたいものがある。焼き物、煮物、刺身。洋風、和風にイタリアン。酒にあうフードもたくさんあって美味かったよ。全部がそこそこいい店。先生、いま腹減ってない?」
    「君なあ……」
     ファウストは眉間に皺を寄せ、腹に手を当ててひとり葛藤しているようだった。
    「そういやあの店、いけすがあってさ。捌きたての刺身、うまかったな。焼き魚もあって、座ってるといい匂いがするんだよ。塩加減がちょうど良くてうまい」
     ネロが思い出に浸るように顎を撫でると、ファウストがむずむずと口元を歪める。
    「いや、無理にとは言わねえよ。興味あるなら、店の場所教えとこうか?」
    「そんなのは……なあ……君、あと三十分だけ待てるか?」
     ファウストがじりじりと後退しながら悔しそうに言うのでネロは笑ってしまった。
    「ふふ、ゆっくりでいいよ。俺、明日は非番だし、先生が潰れたら家まで送ってやるから」
    「僕はいい歳した大人だぞ。潰れたりしない。ちょっとここで待ってろ」
     ファウストはメンテナンスルームから気持ち早足で出ていくと帰り支度を済ませて二十分ほどで帰ってきた。
    「ほんとにもういいの?」
    「日報出すだけだったから。僕も明日は休みだし……今日は腹ぺこなんだ」
     ファウストはそう言って、照れ隠しをするようにそっぽを向いた。

    「君は最近どうなわけ」
     ネロの言っていた居酒屋の狭い個室席の中で舌鼓を打ちながら、ファウストはよく食べよく飲んだ。そして日々の業務に疲れすぎたせいなのか何なのか、したたかに酔っていた。
    「変わりなく、ぼちぼちだよ」
     ファウストの猫型アシストロイドは狭い個室の隅で丸まってスリープ状態、もとい眠っていた。
    「あの春の事件以来、何か変わったりしないの? その、例えばだけど、組織の中で冷遇されたりだとか」
     オーエンがフォルモーントラボから脱走し、連れ戻され、そしてカルディアシステムの存在が世に明かされた“事件”を指していた。事件のせいで、ネロはアシストロイドであることが職場に知られることになった。
    「いいや。拍子抜けするくらいに何も」
    「そうなのか? 君がベイン署長の所有物だから?」
    「それが、そうでもないんだよ」
     ネロは少し気まずそうに話し始めた。
    「いやさ、警察全体には俺含めて数人のアシストロイドがいたんだ。それで、そいつらを集めて特殊強化部隊を組織するのはどうかって話が持ち上がった」
    「強化部隊?」
    「そう。フィジカルもメンタルも人に比べれば強いからさ、危険度の高い捜査に当たるようなチームを作るって話」
    「はあ」
    「俺はもちろん志願したんだが、それをブラッドに止められた。口論になって、ブラッドの上司の前で大喧嘩だよ。それで、あいつ挙げ句の果てになんて言いやがったと思う? こいつはオーナーに逆らうアシストロイドだから判断を誤るかもしれない、命令に背くかもしれない、危険な任務なんてつとまらねえって」
     ネロは悔しそうに唇を噛んだ。
    「さんざんブラッドとやり合った後だったから上司も苦笑いだよ。そんなこんなでその話は立ち消え」
    「じゃあいいじゃない」
    「よくねえよ。能力があるんだから市民の役に立ちたい。と言うか、危険に直面した結果、ベイビー君やブラッドが傷つくのは見たくない。俺だったら多少傷ついたって直せるし、人よりは足も速いし頑丈だ。もしボディが損壊しても経費で落とせるだろうし、何か問題があるようには思えないだろ」
    「ベイン署長の親心だろう。大事にされてるんだよ」
    「まさか。そりゃぞんざいには扱われてねえけどさ」
     ネロはなお悔しそうに唇を歪め、ファウストはその弧を眺めていた。
    「僕もアシストロイドの特殊部隊だとか、そういうものには反対だな」
    「何でだよ」
     思わぬ反応だったのか、ネロはやや不服そうに尋ねる。
    「警察でアシストロイドがあたるべき任務といえば、ネゴシエーションあたりじゃないか。そりゃあ確かに警護モードはあるし、最悪人間の盾になる場面はあるのかもしれない。でも、そんな風にモノとして使い潰されるためのものじゃないっていうかさ」
     ファウストは手にしたグラスの中身をぐいっと呷って飲み干した。
    「君が気軽に直せると思っているボディが、どれだけの人の努力の元生み出されているのか知ってるの? 素材開発部、設計技師、金属加工職人、組立技師……途方もない人の手をへて君の大事な体はできてるんだけど」
    「はあ……」
    「君はモノであってモノではないと思わないか。君が自分を軽んじることは君を生み出した人間を軽んじることになる。人類の叡智を蹴っ飛ばしていいわけないだろう」
     ファウストはいつもとは違った怖い顔で、いつもの何倍も饒舌にペラペラと喋った。目などは完全に据わっていて、ネロはうげ、とうめく。
    「酔ってる?」
    「酔ってないけど」
     完全に酔ってるだろ。そう言うネロと、酔っていないと主張するファウストはしばし睨み合った。
    「それに、やっぱりアシストロイドは完璧じゃない」
     ファウストは視線を逸らし、ため息をついた。
    「完璧?」
    「システムがオンラインである以上、外部からのアクセスを受けるリスクを排除できない。そりゃ人間だって誘惑に負けることもあるわけだが、アシストロイドの謀反となると被害が大きくなりやすい。警察はアシストロイドのプロフェッショナルじゃないし、逆にラボは犯罪のプロフェッショナルじゃない。僕は万が一の事態から完全に君を守り切れないんだよ。君の組織の決定は感情論なんかじゃなくて、合理的なリスクヘッジなんだ」
    「ああ……」
     ネロも良く知っていた。数年前に起った、クラッキングによるアシストロイドの暴走事件。そして、これまでの話の断片を繋ぎ合わせるに、ファウストはアシストロイドやシステム全般のセキュリティも研究開発しているらしかった。専門家が言うのだから間違いない。ネロはファウストに言われると素直に納得できた。ような気がした。
    「そっか、先生がそういうならそうなのかな」
    「うん、そうだよ。だから命懸けとか、無茶はだめ。そもそも君は運動能力に特化した構成じゃないんだから」
     酔いのせいで呂律が怪しくなってきて、つんとしながらも舌足らずに嗜めてくるファウストを見るに、ネロは何ともむず痒い気持ちになった。
    「……わかった」
     ファウストは話したいことを話し切ったせいか、少しばかり眠気で瞳をとろんとさせて息を細く吐き出した。
    「ありがとうな」
     なおファウストから目を離せないままで、ネロは話を変えることにした。いつもの雑談で場を和ませて、ファウストを家まで送り届けて今日はお開きか。
    「うちのブラッドは乱暴だが、先生の上司は優しそうで羨ましいよ。この間もテレビに出てるのを見たよ。賢そうで俺にはちょっと近寄り難いけど、ファウストならうまくやれそうだ。できる人なんだろ?」
     職場の不満というのは、人間関係を原因とするものがほとんどである。上下関係があればなおさら、人間というものは傲慢になりやすい。どんな上司にも多少の不満はあるだろうと思い、ちょっとしたガス抜きのつもりでネロはファウストに水を向けてみた。
    「ああ。フィガロ……いや、ガルシア博士は天才だよ。しかも並みの天才じゃない。魔術師的な天才だ」
     ネロの期待を裏切り、ファウストはとろんとした瞳を見開いて言葉に力を込める。
    「フィルチ博士との共同研究とはいえカルディアシステムを作り出すなんて神に近しい所業だと思わないか? 普通の人間にできることじゃない」
     ネロが相槌を打ちあぐねていると、ファウストは構わず饒舌に喋った。
    「その研究センスたるや。些細なことでもいいから、もっと下々の者にご教授願いたいんだが、それはしてくださらない。彼が僕らに何を与えたところで、僕らは足元にも及ばないというのにさ」
     ファウストは心底不満げにこぼし、俯いた。俯いて、ため息をついて、また何かむにゃむにゃとしゃべったが聞き取れない。ネロは聞き返そうかと思ったが、この話を切り上げなければという嫌な予感が大きかったのでやめた。
    「ファウスト、飲みすぎだって。俺会計してくるからちょっと待ってて」
     早く帰らなければいけない気になって、ネロは席を立った。
    「僕だって、魔術師になりたいよ……」
     席に一人残されたファウストが一人そう呟くのが聞こえたような気がした。

     *

     ネロが個室に戻ると、案の定ファウストはぐっすりと眠っていた。肩を揺すって起こそうとするも、すやすやと寝息を立てるばかりで固く閉じた瞳は開かない。
    「せんせ、なあ、せんせ」
     しょうがないので肩を掴んでやや乱暴にがくがく揺さぶるも、ファウストはんん、だとかああ、だとか唸るだけで、結局自力で歩くことはできなかった。乗ってきたネロのエアバイクに二人乗りをするのは危険なので、ネロは携帯端末でタクシーを呼びファウストを腕に抱えて二人分のカバンを手にする。抱えあげるとファウストは少し目を覚ましたが、ネロの顔を見ると何も言わず目を閉じてしまった。

     タクシーは全自動運転の無人エアカーが派遣されてやってきた。ネロのエアバイクはクルーズコントロールで追尾させている。
     行き先はネロの家だった。おそらくファウストの持ち物を探せば個人番号がわかる何かがあり、警察権力を使えば自宅住所を割り出すのは簡単だろう。けれど、勝手に調べて知るのはなんとなく避けたい気がし、またファウストも明日は休みだと言っていたので自宅に連れて帰って問題ないだろうとネロは勝手に判断した。

    「せんせ、働きすぎだって」
     一番後ろまで倒した助手席で寝息を立てるファウストの貴重な睡眠時間を邪魔すると悪いので、車内の照明は最低限に落としてある。クーラーの冷気でほほを冷やしながら車内から窓の外をぼんやりと眺めると、ハイウェイ上でカラフルなネオンが尾を引いた。確かに、この車が命令に背き、あるいは害意をもって、ハイウェイの側壁や他の車両に激突するなどということになると恐ろしい。今ふたりが乗っているタクシーが標的にされる確率は低いだろうが、要人の乗った車や、貴重品を載せた車になればそうではないだろう。
     ファウストが言っていたのはそういう話で、警官のアシストロイドが誰かに乗っ取られることになれば社会的な大問題になることは必須だ。ネロは、誰かに乗っ取られ、自分が自分でなくなるのを想像した。こうやって飲みに行くことも、他愛もない雑談を交わすこともできず、最期は神の雷で物理的に破壊しつくされる。
     隣のシートに静かに横たわる柔らかい体と柔らかい命が壊れるところは特に絶対に見たくないな、とネロは身震いをした。

     ネロのアパートは築40年の二階建て、もちろんエレベーターはないがファウストを抱えたままでも特に問題はなかった。ネロの部屋に着いてもファウストは眠ったままで、人付き合いを拒むハイクラスにしては気を許している。
     ネロはファウストをベッドに寝かせ、衣服を少し緩めてやった。いつもきっちり締めているシャツの合わせから細い鎖骨と柔らかい肌が覗く。痩せた胸には背骨に沿ってなめらかな肌のくぼみが腹の方まで連なっていて、さらにこの白い肌の下には心臓だとか、胃だとか心だとか、そういう臓器がいっぱいにつまって、生まれ落ちてから死ぬまでたゆまず生のサイクルを回し続けるのだ。
     ネロは、ファウストの伏せられたまぶたを見つめていると、感情マップの様々なところが反応し、ゆるやかに昂りながらも意識がぼんやりするのを感じた。帰宅するとなったあたりからそうだ。なんとなくボディが発熱しているような気もする。
     今日はよくわからないことが多い。フィガロの話が出たときに何も返事ができなかったことや、抱き上げたファウストの匂いをメモリが重要情報の領域に記録したことなど。そもそも飲みに誘ったのはなぜか。気を抜くと、先程ファウストを抱えて歩いた夏の夜の蒸し暑い空気がリアルに脳裏をかすめ、君を夏の日にたとえようか? ……などという古代の詩までメモリの中から飛び出してくる始末で、いよいよ混乱してくる。

    「……故障か?」

     今日メンテナンスした時ファウストは何も言わなかったのに。独り言のようにつぶやくと、脚に何かがどんとぶつかった。足元を見ると、ファウストの所有する猫型のアシストロイドが頭突きをしている。飲み屋では個室の隅で丸まっていたが、移動中は鞄に入っていた。そして今、主人に近付く不逞の輩の気配を感じ鞄から這い出してきて、威嚇の体勢をとりながら小さく警告音を鳴らしている。メンテナンスでラボに通っているためネロと猫は顔見知りであり、仲は悪くなかったためネロは焦った。
    「ああ……悪い、あんたのオーナーをどうこうしようっていうつもりはないんだ。断じて。……多分」
     ネロは自問自答するように目をそらし、敵意がないことを知らせるためにファウストから距離をとって両手を上げる。それを見た猫は満足げに尻尾をふった。
    「それにしても、本物の猫みてえ」
     丸いフォルムに愛らしい仕草。前々から思っていたが、理屈抜きにかわいい。トコトコと歩く可愛らしい動きに目を奪われて、自らが故障かどうかという疑問はネロの頭から飛んでしまった。
    「ちょっと失礼……」
     ネロはそろりと手を伸ばすとしばし猫をなでまわした。猫も、拒絶することなく撫でられていた。

     *

     翌朝、死んだようにぐっすり眠っているメンテナンス担当エンジニアのことはネロも起こさず、猫を充電したり一緒に遊んだりしてだらだら過ごした。そして、昼頃になってファウストは寝室から飛び出してきて、焦った様子で謝る。
    「悪い……ベッド使っちゃって。君も非番の日なのに」
     ネロはテーブルに腰掛けてテレビのニュースから振り返りのんびり言った。
    「……飯、食う?」
    「えっ?」
    「もう昼だからさ。良かったら」
    「そ、そんな、泊めてもらっただけでも悪いのに」
     ファウストは落ち着かない様子で視線を彷徨わせた。
    「もう味噌汁作っちまったしさ、魚焼くだけだから」
    「買ってきてくれたのか?」
     アシストロイドは食料から栄養を取る必要はないから、料理や食事をする必要もない。食材は、ネロが猫の充電中に散歩がてら近所のスーパーまで行ってきたものだった。
    「まあ、暇だったからさ。余ったらもったいないし、食べて帰ってくれるとありがたいかな」
     ファウストは腹に手を当てると、恥ずかしそうに頬をかいた。
    「じゃあ、迷惑じゃなければ……」
    「うん。座って待っててよ」
    「手伝うよ」
     ネロは少し驚いた顔をしてから、また嬉しそうに微笑んだ。
    「じゃあ先生はおひたしと味噌汁皿に盛って。俺は魚焼くから。あ、皿は食器棚で、冷蔵庫に麦茶がある」
    「気を使わせて悪いな」
    「いいや。……たまに人に振るまいたくなるんだよ、昔の名残でさ」
    「ふうん」
     ファウストはてきぱきと食事の準備に取り掛かった。本日のランチは、炊きたてご飯と、ぶりの塩焼き、かつお節が散らされたほうれん草のお浸しに、豆腐の味噌汁。
    「いただきます」
     向かい合ってちゃぶ台に座ったファウストが手を合わせ、箸を手に取る。
    「どれも美味しい。特に味噌汁がしみるね」
     ファウストは目を細めて、じっくりと味わっているようだった。
    「昨日もそうだけど、こんなちゃんとしたご飯久しぶりに食べた。ありがとう」
    「ええ? 先生、ちょっと仕事頑張りすぎなんじゃね?」
    「そんなことないよ」
    「そうかな?」
     それ以上は答えず、ファウストはしきりに美味しいとつぶやきながら食事を口に運んだ。
    「良かったらまた作ってやるよ」
    「えっ……それは……」
     ファウストはやや険しい表情になら。
    「ああ、いや、これは労働とかじゃないから。疲れた友達のために得意な飯を作ってや……痛っ!」
     その瞬間、またしてもファウストの猫型アシストロイドが座布団にあぐらをかいたネロの腰に頭突きを喰らわせた。
    「ええ、何……?」
    「どうした?」
     猫のつるりとした体表面には毛は生えていないが、生えていたら間違いなく逆立っていた。しばらく威嚇の姿勢を取っていたが、ファウストが捕まえようと伸ばした手をするりとかわし、部屋の隅の床に行って丸まると寝転がった。
    「なんだったんだ」
    「さあ……」
     なんとなく空気が和み、ファウストも表情を和らげた。
    「まあ、また機会があったら頼むよ」
    「……いつでもいいよ」
    「……ありがとう」
     ファウストは眉を下げて微笑み、ネロは、中断されてもファウストが会話を続けてくれた嬉しさとほんの少しの恥ずかしさを感じた。
     そして静かに食事は再開された。エネルギー供給のために必要ないとしても、ネロも箸を動かし、ほうれん草のおひたしを口に運ぶ。

     アルコールがなくても、話が弾まなくても、気まずくならない。それはなんとなく心地のいい時間だった。

    【秋】

    「最近調子悪いんだよな。故障かな?」
     フォルモーントラボでファウストにあてがわれた専用のメンテナンスルーム。メンテナンスもそろそろ終わりに差し掛かったところで、メンテナンス台の上に腰掛けたネロが口を開いた。
     ファウストは機器をいじっていた手を止め、顔をあげて答える。
    「おい。早く帰りたいのに」
     ファウストが憮然として言うからネロは声を出して笑った。今日はこのあと二人で飲む予定だったからだ。
    「ふふ、じゃあまた次回でいいよ」
    「冗談だ。症状は?」
     ファウストが表情を緩めて問うた。
    「たまに体が熱くなって、頭脳回路の処理が圧迫されるというか、なんだかぼんやりした感じになるときがある」
    「ふうん。それはどんな時?」
    「それがよくわかんねえんだよ」
    「頻繁になる?」
    「毎日なってるような、なってないような」
    「結構多いじゃないか。システムにエラーが出てるのかな? スクリーニングしてみるからちょっと待って」
     そう言いながら、ファウストの顔がじわじわと曇っていくのを見て、ネロは後悔しはじめた。
    「……そういうことを起こしそうなエラーはない。……どうしてだろう」
     一瞬ファウストは眉間に手を当てて考える素振りをしたが、すぐに傍にあった通信機器で内線をかけた。
    「スノウ、いますか? ちょっと相談したいことがあって。来てもらえませんか」
     ファウストはモニタを見つめながらどんどん険しい表情になっていき、通信機器を置くと細く、自分を落ち着かせるように細く息を吐いた。
    「ええと……」
     ネロはのんびり構えていたのに、存外に大事になりそうな気配を感じてたじろいだ。
    「俺としては軽い雑談のつもりだったんだけど……」
    「どうしたんじゃ?」
     ネロが口を開いた途端に、スノウが一人で入室してきた。ファウストがたたみかけるように話し始める。
    「ネロの調子が悪いらしくて。たまに発熱や処理能力の圧迫を感じることがあるらしいんです」
    「それはそれは」
    「システムチェックをしてみたんですが特に問題が見当たらず困っていて」
     ネロはメンテナンス用のベッドに腰掛けて、うなじにコードで繋がれたまま、横目で自分のデータが映し出されたモニタを見つめる二人のやりとりを見守った。
    「ちょっとすまんの」
     スノウはモニタを自分の方に引き寄せ指先で触れ、画面を何度か切り替える。
    「うーむ……確かにシステムに問題はなさそうじゃ」
    「でしょう。何が原因なんでしょう」
     スノウは何も返さず、映し出されたシステム処理のログをじっと見つめていた。
    「どこかで表に現れないような問題が起こっているのかも。彼は警察官だし、三原則がらみのループ思考に陥っているのかもしれません」
    「おまえたち科学者は三原則が好きじゃの。カルディアシステムは三原則には縛られぬ」
    「そりゃあそうです。けれど、縛られる自由すら彼は手にしているといえませんか」
     落ち着かない様子でファウストはそわそわと自分の顎に触れた。
    「まあまあ、ファウストちゃん、落ち着いて」
     そう言いながら、スノウは何かに思い至った様子で、機械を操作して別の画面を映し出した。が、ファウストはそれには構わず喋り続ける。
    「三原則は横に置くとしても、何らかのループや矛盾で自己破壊を起こすのは避けたいですし、もし万が一社会のルールを破るような何かが起こりそうならそれはもっと避けたい。法に抵触しそうな時は僕が何とかしますから。通報だけはなさらないで」
     スノウをじっと見つめるファウストの声は切実に震え、やがて涙を滲ませそうな予感があった。重たい前髪がほとんどを覆い隠してもわかるほどに、ファウストはどんな激務の後にも見たことがないような、とても苦しそうな顔をしている。

    「ファウスト」

     ネロは、ファウストの辛そうな顔を見ると、居ても立ってもいられないくらい感情が揺さぶられてぐらぐらと視界が揺れるように感じた。今すぐ駆け寄りたいのに、うなじに繋がったコードがネロの邪魔をする。何もできないのがもどかしく、苦しい。ファウストのそばに行きたい。そばに行って肩に触れ、大丈夫だと言ってやりたかった。
     もういっそコードを引き抜こうとしたその時、ネロの胸元が淡く光を放った。感情の高ぶりによる、左胸の青白い光。
    「ん?」
    「え?」
     ファウストは気付いていないようだが、ネロとスノウはそれをしっかりと目撃した。スノウは手振りでネロがコードを抜かないように制止する。
    「ファウストちゃん、感情マップのログは見た?」
    「感情マップ? あ……見てません」
    「やはりか。そうかと思ってさっきから見ておったんじゃが……なんというか、ネロちゃんは単純に『ドキドキ』しとるだけじゃ」
    「ドキドキ?」
    「そうじゃ。ドキドキ。おそらくそういう感情に起因する反応じゃ。今確認した分では代表的なパターンにかなり合致しておる」
     そう言いながら、スノウは温度ログと感情マップのログ、参考資料を突き合わせてファウストに見せた。
    「"図5:ドキドキパターン。このパターンの出現に伴い体温の上昇や落ち着きのなさを認めることもあるが、一時的なものであれば異常ではない"」
    「自分で分からないとはネロちゃんも鈍いもんじゃ。じゃが、己の感情をラベリングしないのもカルディアシステムならではのことなのかもしれんの。世界は分けてもわからない、というじゃろう」
     きつねにつままれたような顔をするファウストの肩をスノウは軽く叩く。
    「そんなに心配せんでも大丈夫じゃ。我らにはお主らのおかげで日々精度の上がる自己修復機能もあるし、幾重にも安全機能がついておる」
     ファウストは曖昧に微笑み、その肩をスノウはバシバシと叩いた。
    「簡単には壊れん」
     念を押され、参ったとばかりにファウストも表情を和らげた。そしてスノウはファウストの作業着の裾を引くと、重要事項を告げる。
    「あ、そうそう。フィガロちゃんが呼んどったぞ。今度の社内プレゼンの件じゃて、内容を詰めたいとかなんとか」
    「ガルシア博士が? 直接?」
    「そうじゃ。我がもう少し遡ってネロちゃんのデータを見てみるから、その間に行ってきてはどうかの?」
    「はい……では、お願いします」
     ファウストはちらりとネロの方を見やり、システムエラーでないことがわかった安心感もあってか、スキップでもしそうな勢いで部屋を出ていった。その顔は今まで見たことがないくらいに輝いている。置いていかれては困るとばかりに、猫型アシストロイドもファウストを追って駆けていく。
    「ネロちゃん、光るな光るな」
    「……」
     メンテナンス台の上に座ったままのネロの胸はまたしても光っていた。スノウがからかうようにモニタを外部入力に切り替えると、ファウストの猫型アシストロイドの視界が映し出され、ファウストはガルシア博士と満面の笑みで会話している。
    「…………」
     ネロは渋い顔をし、さらに強く胸は光った。
    「えーっと……」
     スノウはなんとも言えない顔をして口を開いた。
    「共感性羞恥ってあるじゃろ」
     ネロは無言でスノウの顔を見ると、浮かべた最高に渋い顔をそっと両手で覆った。
    「お主らときたら。……しかし、ファウストちゃんを安心させてやりたいし、一応軽くデータ確認しても良い?」
    「…………お願いします」
     ネロは恥ずかしそうに顔を手で覆ったまま呻いた。


     思えば、ひとめ見た時から、ネロにとってファウストは綺麗な人だった。ファウストの作業用サングラスがどれだけ分厚くても、そんなことは関係ない。
     滅多に笑わないどころか、表情の変化に乏しいハイクラス。口調や態度は冷たいが、その手つきや仕事内容にはアシストロイドへの深い愛情が感じられる。そして、ファウストは誰よりもネロを丁寧に優しく扱った。わかりにくいだけで、繊細で暖かい人に違いないと思って話しかけてみればその通りだった。少しずつ交わす言葉が増え、だんだんしかめ面以外の表情も見せてくれるようになると、懐かない猫がほんの少し懐いてくれたみたいでたまらなく嬉しかった。


    「サーモログで発熱した時刻を順に教えてくれるか」
     感情マップを見ながら幾度も時刻を尋ねるスノウに、ネロは淡々と答えていく。

     ファウストと一緒にいる時も多いが、ファウストのことを思い出していた時も多かった。


     ファウストとのほんの少しのやりとりは、宝物みたいにきらめいて、ネロを嬉しくさせる。少し打ち解ければ今度は笑わせたくて、笑ってくれたらなんだかたまらなく嬉しくて、気付いたらどんどん好きになっていた。好きなもののことはよく考えイメージするようになる。メンテナンスの時に体に触れる手つきだとか、酒を飲み干す仕草だとか、寝顔だとかを暇さえあれば反芻してしまう。その度に、その時のわけもない嬉しさを思い出してドキドキしてしまい、そして、ファウストのこと以外を考えられなくなる。

    (先生……)

     ファウストを腕に抱いて家に連れて帰った時のことを思い出す。また、いつか、ぎゅっと抱きしめてみたい。そして、たわいもないおしゃべりをしながら作った食事を一緒にとりたいし、美味しいね、とファウストが柔らかい言葉と柔らかい表情で微笑えんでくれたら、それだけで満たされる。二人でもう少しだけ、緩やかで優しい時間を過ごしたいと願ってしまっている。
     この手の衝動は攻撃性に直結しやすいから鈍く感じるように作られているのだろうか? 答えのない問いを思い浮かべながらネロは恥ずかしさに再び頬を染めた。


     これは全部、ファウストに恋をしているせいだ。



     *



    「解析の結果、ネロちゃんはだ〜い好きな相手がおって、その相手のことを考えている時なんかに発熱したり、処理落ち気味になったりしておるんじゃ」
     メンテナンスルームに戻ってきたファウストにスノウはこともなげに告げた。
    「……は? 大好きな相手?」
    「そう。感情マップを詳しく読むと、誰かに対する親愛だとか、友愛だとか、そういうわりかしポジティブな執着の感情とほぼ一致じゃった。ネロちゃんいわく発熱なんかの症状とタイムラインを突き合わせると矛盾はないらしいし、間違いないじゃろう。重大なエラーは何も起こっておらん。プライバシーの問題があるから、そういう感情があること以外は調べとらんが」
    「……感謝します」
     ファウストはほっと胸を撫で下ろしたようで、目を細めて微笑んだ。
    「まあ……そう言う訳なんだよ。しょうもないことで心配かけちまって悪かったな」
    「好きな相手か。カルディアシステムを搭載した君達ならありえるな。感情面を見落としてしまって悪かったね」
     そしてファウストは目を反らし、気まずそうにした。
    「見苦しいところを見せたのも、悪かった」
    「いいや、心配してくれて嬉しかったよ」
     ネロは本心からそう思った。ファウストも安心から柔らかい表情をしていたが、ハッと何かに気付いたようにネロに尋ねる。
    「あ、今日は予定通り僕と飲むの?」
    「ああ」
    「でも、僕と飲みに行くのは、その、好きな相手との関係には影響しない?」
    「しない。と、思うけど……なんで?」
    「いや……その、相手って、オーナーだったりしないの?」
    「ブラッド!?」
    「知れたら話がこじれるだろ」
     ネロは驚きのあまり咳き込み、スノウはついにニヤニヤと笑いだした。
    「ほお……なかなかじゃの」
    「ブラッドなわけねえよ、そりゃ恩は感じてるけど、あいつとはそういう関係じゃない」
    「あ、そう……。そうか、そりゃあ僕が知ってる相手なわけないか……同僚とか友達とか、君のこと、僕は何も知らないものな」
     ファウストはほんの少し寂しそうに視線を落とした。
    「え? あ、いや……ファウストの知らない相手じゃない」
    「そうなの?」
     ところが、ネロは先ほどフィガロと話していたファウストの嬉しそうな顔を思い出してしまった。自分と話しているとき、ファウストはあんなに嬉しそうな顔をするだろうか。ファウストは自分のことを、おそらくかなり懐に入れてくれている方だと思うが、心を許しているかというと、それには程遠い。
    「…………えっと」
     ネロはどうしたものかと困惑して、ファウストと、スノウと、メンテナンス台に乗り上げてきていたファウストの猫で順繰りに視線をさまよわせた。
    「ああ……不躾だったな。皆がいるのに言えるわけがない。すまなかった」
     ファウストは問い詰めたわけでもないのに、落ち着きなくずれてもいないサングラスの位置を直す。スノウと猫は顔を見合わせて首を傾げた。
    「じゃあファウストちゃんは最近好きな人とかいる? 恋バナ聞かせて?」
     そこで、興味津々に顔を輝かせたスノウがファウストの情報を引き出そうとする。
    「特に何もないですよ」
    「この間学会で知り合った女の子は? 熱心にメッセージくれとったじゃろ? あ、休憩室でよく一緒になる別の部の職員は? 食事に誘われてたじゃろ? あ、マンションの隣の住人がやけに食事を作りすぎて持ってくるって言っとらんかった?」
    「どこかで見てるんですか? ……全員めんどくさくならない程度にあしらってますよ。ああ、めんどくさい」
     辟易したようにファウストは言うが、ネロは開いた口が塞がらなかった。ファウストの良さに自分だけが気付いたような気持ちになっていたが、スノウの話によると全くそうではないらしい。というか、ファウストはかなりモテる方で、引く手あまたなのだ。
    「恋人は作らんの?」
    「今はそれどころじゃありません」
    「仕事?」
    「仕事です」
    「真面目なのはいいけどおぬしは仕事ばっかりでどうかと思うがの。どうじゃ? ここらで恋でも」
    「お断りですよ」
     言葉とは裏腹にファウストは柔らかく微笑んで、スノウの頭を撫でた。
    「ああそうじゃ、プレゼンの件は?」
    「つつがなく。問題なさそうです」
    「それはそれは」
     にこにこと子供らしい愛らしい笑顔で微笑むと、スノウはもう我は行くね、と手をひらひら振りながら退室して行った。


     今夜はファウストの家で宅飲みだった。二人で一緒にラボを出発してから帰りにスーパーに寄って食材を買い込み、ネロが夕食やつまみを作って酒を飲んで、酔っ払ったらそのまま就寝したっていい、抜かりなく堕落した計画だ。これはファウストが疲れすぎていて飲み屋で寝落ちることが数度繰り返された結果だった。
     ファウストの部屋はハイクラス単身者向けの高層マンションで、床面積はネロの家の3倍ほどあるかと思われた。ゆったりしたリビングに洗練された内装、手入れのしやすそうな洒落た水回り、部屋だって複数ある。

     しかし。
    「ファウストの家、意外と散らかってるな……」
     入室してから若干ファウストの様子を探ったのち、ネロが慎重に口を開いた。
    「いや、だからちょっと座って待ってろって、すぐ片付けるから」
    「親しみを感じていいけどな」
    「そうか……?」
     ファウストは恥ずかしそうに目を逸らして床に落ちているシャツを拾い上げ、奥の部屋に早足で引っ込んでいった。最初、ファウストが家に人を呼ぶことをためらっていた理由がわかってネロは微笑ましくなる。忙しくて部屋を片付ける暇もないのは仕方がない。
    「じゃあ俺は晩御飯作ってるから、ファウストは片付けってことで」
     ネロは私物に触れるのにはまだ少し気がひけて、自分の持ち場で頑張ることにした。
     散らかっていはいるがファウストの部屋は概ねものも多くなく、節度のある生活を送っているのが感じられた。そして猫が好きらしく、クッションカバーの肉球だとか、戸棚にしまったマグカップの縁の耳だとか、室内の所々に猫モチーフのアイテムが散りばめられている。ネロはファウストの生活と、嗜好に満たされた空間に招き入れられたことが嬉しくて、料理に集中していないと顔が綻んで勝手に笑ってしまいそうだった。ちょっとだらけた所を見せてくれたのもたまらなく嬉しい。部屋が散らかっているのなんてわかっていたはずで、それをネロになら見られてもいいと思ってくれたのだから。

     そんなわけで、月に一度のメンテナンスの後に一緒に食事をするのはもう二人の間で恒例になっていた。

     料理があらかた終わり、ファウストの方を見るとまだ部屋の片付けをしている。ネロは流石にそろそろ手伝ってやろうと思ったが、ふと床に寝転ぶファウストの猫型アシストロイドが目に入った。ネロも、実を言うと可愛いものは好きだ。猫だとか子供だとか、見ていると癒されるし、無条件に優しくしたくなる。
     猫は床に寝転んでオーナーの様子を観察しているようだったので、ネロはちょっと声をかけてから猫にそっと手を伸ばした。
    「お前のオーナーは働き者だな」
     背中を柔らかく撫でると、猫は気持ちよさそうに目を細めた。拒否されていないことがわかり、ネロは片付けを手伝う前に少しだけ猫と遊ぶことにした。撫でたり、獲物のように手を動かして気をひいたり。猫もそれなりに楽しんでいるようで、飽きずにネロと戯れていた。


    「君の料理は本当に美味しいよ。全部がちょうどいい味付けっていうか」
     ファウストは杯を傾けながらネロの料理をぺろりと平げ、上品に箸をふるいつつもぐいぐいと酒を煽った。ファウストは意外と健啖家なのだとわかり、ネロは腹の底から這い上がってくる嬉しさを感じる。
    「そうだろ? 賢い頭が先生の味覚を学習してるから」
     アルコールを摂取して酔っ払いモードになったネロは自分のボディを軽く叩きながらヘラヘラと笑った。
    「本当に賢い。いい子だいい子だ」
     酔っ払ったファウストもまたいつもよりニコニコしながらネロの肩をよしよしと撫でた。
     二人ともほろ酔いで理性が緩んでいる。ファウストの猫は、ローテーブルにあぐらをかくネロとファウストの間に丸まって二人を眺めていた。ネロがすっかり馴染んだ仕草で猫の背をなでると、猫も満足げにネロの方を見つめる。
    「あのさ……この子のこと、好き?」
     ファウストが片手にグラスを持ち、とろんとした瞳で尋ねる。
    「好きだよ、かわいい」
    「だよなあ。本当にかわいい子だと思うよ。人懐っこいし、でも必要以上に干渉してこない。ちなみに外側は市販のものだけど、動きはいくつか僕のオリジナルなんだ。猫の動画を見て、リアルになるよう工夫した」
     ファウストはちょっと得意げに胸を張った。ネロは、ファウストが笑いかけてくれるだけで視覚エフェクトをかけているわけでもないのにとてつもない量のキラキラとした輝きが振り撒かれているように感じることが不思議でたまらない。
    「猫が好き?」
    「もちろん。しぶしぶ動物型を選びましたって顔をして周りには内緒にしているけど」
     そう言いながら照れくさそうに笑う。多分、オリジナルアクションを仕込んでいる時点で周りにはバレバレだろうが、皆先生を優しく見守っているんだろうとネロは微笑ましい気持ちになった。
    「そっか。俺も、実は子供だとか小さな動物は結構好きなんだ。多分それはこの世であんたしか知らないけど」
     ネロが言うとファウストは目を丸くした。
    「どうして?」
    「ブラッドとかカインとか、周りの奴らはそんなもんに興味ないから話す機会がない。猫好きとお知り合いになれて嬉しいよ」
     ネロが恥ずかしさを誤魔化すように笑うと、ファウストは嬉しそうだった。
    「そうか。何度も聞くけど、うちの子、かわいい?」
    「めちゃくちゃかわいい。つい構っちまう」
    「ふふ、君を夢中にさせられて光栄だよ」
    「こちらこそ」
     すると、ファウストはふと何かを考え込んだ。
    「もしかして」
    「ん?」
     ファウストがハッと顔を上げた。

    「君が大好きな相手って、僕の猫?」

    「………………ん?」

    「この子なら僕の知ってる相手でもあるし。可愛いものが好きって内緒にしてるからあの場では言えなかったんだろう?」

     ファウストは良い事を思いついたとばかりに、顔を輝かせた。

    (なんでそうなるんだよ!? 猫にドキドキはしねえよ……)

     混乱したネロの頭脳回路は、これが失恋なのかどうか結論を出しあぐねていた。
     まず、ファウストはプライバシーを理由に、ネロの感情マップを最初以外は見ようとしなかった。だから、ネロの感情が恋であるとは知らないのである。
     そして、スノウとファウストのやりとりも思い出される。とにかくファウストはモテる。そりゃそうだ。こんなに綺麗で優しく、真面目で思慮深い、かわいげの塊みたいな人が好かれないわけがない。ファウスト自身は恋はお断りと言っていたが、どこでどんな理想の相手と行き合ってしまうかわからない。それは巡り合わせの問題で、抵抗しようとしてもできない奔流のようなものだ。
     今の所、ネロがファウストと顔を合わせるのはメンテナンスの時だけであり、月一回のメンテナンスの後に食事に行くだけでは二人の仲は進展しないと思われた。もう奔流に飲み込まれてしまっているネロとしては、ファウストとの関係は可及的速やかにどうにかしていくべきだろう。

     とはいえ問題はある。ファウストはネロを恋愛対象としてみてくれるのだろうか。アシストロイドが社会に浸透していてファウストがアシストロイドの研究者であるといっても、ネロが生物と無生物のあいだに位置する存在であることは間違いない。最初から相手にされないのであれば、無用に傷付きたくない気持ちもあった。出方を見極めるためにも、もう少しお互いのことを知る必要があり、ネロは一緒にいる理由が何か欲しい。

     したがって、ネロは若干の罪悪感を感じながらも、頭脳回路が弾き出した精一杯合理的な答えを口にする。
    「まあ……そういうことにしておこうかな? 可愛いからずっと見ていたくなるよ」
     可愛いからずっと見てたくなるのは飼い主の方なのだが、今はまだ口にするには早すぎる。
    「先生さえ良ければたまになでに来させてもらいたいくらいだよ。こいつ以外に猫を知らないから。だめかな」
    「ふうん?」
     ファウストは悪戯っぽくネロを見つめると、嬉しそうに笑った。
    「いいに決まってる。いつでも会いに来て。この子も君に構われて嬉しそうだし、歓迎するよ」
    「本当に? 嬉しい」
     胸につかえるものがないではないが、とんとん拍子にメンテナンス以外で会う口実を手に入れ、ネロは内心踊り出したいような気分だった。
    「あ……でも」
     しかし、急にファウストは申し訳なさそうに眉毛をへの字に曲げる。
    「しばらく仕事で忙しいから来てくれても僕は構ってあげられない。お茶くらいは出すけど。……やっぱりダメだね」
     ファウストが少し悔しそうにするわけも、だからやっぱりダメになるわけもわからず、ネロは少し不思議に感じた。
    「ていうか、先生は俺が気軽に遊びに来るのは迷惑じゃねえの? 恋人とか、そういう人が本当はいるんだろ?」
     ネロが尋ねると、ファウストはきっぱりと突っぱねる。
    「いない。僕は色恋沙汰にうつつを抜かしてる場合じゃないから」
    「厳しいな」
    「今は仕事を頑張りたい。冬に大事なプレゼンがあるから、まずはそれをしっかりやり遂げたいんだ」
     初めてのプレゼンでもないのに、ファウストの眼差しは真剣そのものだった。
    「ガルシア博士は?」
     それはネロの最大の疑問だった。ファウストはガルシア博士に特別な感情を懐いているように見えたから。
    「ガルシア博士? 君は可愛いことを言うんだね」
     ファウストはおかしそうに笑う。
    「そりゃ心から尊敬してるし憧れの人ではあるけど、それは別に恋愛感情じゃない。ていうか、あの人はもうちょっと人の目を見た方がいいよね」
    「辛辣」
    「僕はエネルギー強くてたまに辛いらしいから?」
    「あっちも辛辣」
     わかる。なんとなくだけど。
     ガルシア博士はTVにしばしば引っ張り出されるくらい外見も知性もずば抜けたものがある。それゆえに、普段から注目の的になるのだろう。あまりに多くの期待のこもった眼差しを向けられるのも息苦しいのかもしれない。

    「先生は本当に仕事が大事なんだな。楽しくやってんの?」
     ネロは別の方向から水を向ける。
     ファウストは誰が見てもワーカホリックだった。ノルマだとかポストだとかそういう類の重圧が重くのしかかってファウストを仕事に向かわせているのではないかとかねがねネロは心配していた。いくら仕事が上手く行って成功を収めても、青酸カリに浸したりんごを齧る羽目になっては元も子もない。しかし、それを裏切るようにファウストはパッと顔を輝かせる。
    「楽しいよ」
    「そうなんだ?」
     ネロは意外な言葉に呆気にとられた。
    「うん。子供の頃から、科学者になるのが夢だった。学生の時にガルシア博士の講演を見てどれだけ感動したか。僕がフォルモーントラボに入った理由の半分くらいだよ」
    「ガルシア博士以外は?」
    「自由な社風が気に入った。事業内容にも興味を持てたし、分野もこれまでの研究内容に合致してた。いい同僚に出会えそうだったし、給料もよかったから」
    「なるほどな。夢を叶えたなんてすごいじゃねえか。……ちょっとその働き方は体が心配になるけど」
    「科学者は誰しもちょっぴりどうかしているのさ。富と名声が欲しいだけの者だっているだろうが、僕みたいな平凡な奴はたいてい科学に魅せられて、短い生涯を惜しみなく捧げるんだ」
     自分が所属しているラボや科学界への愛着を示すような、混じり気のない笑みをファウストは浮かべた。
    「まだ元素周期表が全部は埋まっていなかった時代、各国の研究室がどれほど熾烈にやり合ったか。スパイや不正が横行した時代だってある。皆、誰も見たことのない景色を自分が初めて見たいんだ。世界の真実を誰よりも先に知りたいと希い、できないことを命にかけても可能にしたいと焦がれてる」
    「先生も?」
    「もちろん。それに」
     急に、ファウストは物憂げにしゅんと視線を落とした。言いにくげにためらったのち、恐る恐る、ファウストは口を開く。
    「……僕は一度大きな失敗をしている。残りの人生を全部捧げたって取り返せないかもしれない失敗さ」
    「先生……」
     思った以上に身の上話をしてくれたことに、ネロはなんともいえない嬉しさを感じるとともに、それに少しの申し訳なさも感じた。
    「ああ、でももう落ち込んでるばかりじゃない。だからこそ僕がやるんだって、今なら言える」
    「そっか。……でも本当に無理はすんなよ。何かあったら猫が悲しむ」

     猫。
     ファウストはあんなに猫のことが好きなのに、猫には名前がなかった。

    「そうだな」
     ファウストは薄く泣き笑いのような表情を浮かべながら小さく首を振った。
    「じゃあ猫を撫でさせてくれたら、前にも言ってたけどファウストには今日みたいに飯を作ってやるよ。俺は人に料理作ってやんのが喜びだから。猫も触れるしちょうどいいだろ?」
    「それはさ……」
     ファウストは何かを言おうとしたが、途中で口をつぐんだ。
    「先生は俺の体をメンテナンスしてくれるんだから、ちょっとくらい俺が先生の体を面倒みたっておあいこじゃん」
     ネロが機嫌よく笑うと、ファウストは恥ずかしそうに眼鏡をいじった。
    「先生が仕事にどんだけ命かけてるかもわかったし、そういうことなら応援したいんだよ。お節介かも知んないけどさ」
     ネロが顔を覗き込むと、ファウストもつられて柔らかく微笑んだ。
    「じゃあ、まあ……本当にいつでも来てくれていい。構ってあげられないけど」
    「うん。お構いなく」


     *


     それから、ネロは頻繁にファウストの家へ猫をなでに来た。ファウストは基本的に部屋に引きこもって仕事をしていたが、壁を通じて聞こえる、ネロが夕方のリビングで猫と過ごしている物音はファウストの生活にすっかり溶け込んでしまった。もはや休みの合わない休日はファウストをどことなく寂しくさせるほどだ。

     ネロは警官という仕事柄、休みも勤務時間も不規則だ。
    「俺がアシストロイドでよかった。36時間勤務の後だって、先生に飯作ってやれるから」
     勤務中に仮眠時間はあるものの、忙しなく動き回れば生身の体ならば疲労がたまる。長時間勤務明けのネロが楽しそうに鍋を振って炒めるパラパラの炒飯に甘えきっている、とファウストは思った。そう思いながら、パラパラの炒飯をありがたく食べた。

     後片付けを終えたネロが、足元にトコトコと歩み寄ってきた猫を屈んで撫でた。最初はぎこちなくネロに接していた猫も、最近ではすっかり懐いて、手に頭を押し付けたりしてじゃれて甘えている。
    「ね、プレゼンが終わったら、三人でどこかにでかけない?」
     食後、ソファに座ってくつろぎながらファウストが声をかけた。
    「ああ、いいな。是非。どこか行きたいところはある?」
    「いいや、君の用事に付き合いたい。しばらく僕にあわせてもらうことになってしまってるから」
    「俺の用事?」
    「うん。何かしたいこと。例えば買い物にいきたいとか、ないのか?」
    「ある」
     ファウストとデートに行きたい場所は色々あった。ネロの頭脳回路のマルチタスク機能は有能で、目に入る景色、店先の商品や広告から、ありとあらゆる情報を検索し、ファウストとのデータプランを練ってくれる。人間で言えば妄想と言うのかもしれないが。
    「色々ありすぎるから考えとくよ」
    「うん、頼んだぞ」
     二人は微笑み合い、そしてネロはまた猫に手を伸ばした。猫は待っていましたと言わんばかりにネロの手にじゃれつき、腹をみせる。ネロと猫が遊ぶ様子のなんと平和で牧歌的なことか。ファウストはほのぼのとした二人を見るたびに、こういう微笑ましい時間が失われてほしくないと気を引き締めるのだった。

    「なんだか猫がもう一匹増えたみたいだな」
    「俺が猫?」
    「うん。よその子なのに、ふらっとやってくるのが特にね」
     自分も猫を撫でようと立ち上がって寄ってきたファウストをネロは見上げた。
    「飼ってくれてもいいよ」
     ネロは含みのある笑みを浮かべ、にゃお、と小さく鳴いた。
    「きみなあ」
    「ダメ?」
     ファウストがなんと返すべきか口ごもっていると、足元にいた猫がトコトコと歩きだし、急にファウストの背後から足元に体当たりをした。
    「うわっ!?」
     不意打ちに驚いたファウストは普段からの運動不足がたたって、ネロの方に倒れ込む。
    「わ、せんせ……っ」
     ファウストは最初踏ん張って止まろうとしたが、重力は無情である。ネロははなから避けることもなく、そつのない動きでファウストを抱きとめたが、勢いは止まらず二人はごろんと後ろに転がり抱き合うかたちで折り重なった。

    (痛……くはないんだけどさ……)

     ネロの首筋にかかる湿った吐息や、重なり合った体の重みが鮮烈で、ネロの胸にぶわっとどうしようもない何かがせり上がってくる。このまま時間が止まればいいのにとすら思い、体を起こさなければいけないのに少しも動けない。
     ひとまず顔を上げると、ファウストの顔が近くにあってネロはさらにドキドキする。ない心臓が早鐘のように打って、息が上がって、たまらない気持ちになる。
    「う、心臓に悪い……」
    「本当にな。君、大丈夫か? これくらい大丈夫だと思うけど、どこかおかしくなってない?」
    「なってない」
     ネロは激しくときめいてどうにかなりそうだが、それはファウストが知らせてほしい異常ではないと先日学習した。
    「先生は? 頭打ったりしてない?」
    「大丈夫だよ、君が受け止めてくれたから。ありがとう」
    「いいや、当然のことっていうか……でも、どういたしまして?」
     目を見合わせるが、ふたりとも顔を赤くして照れてしまう。気まずい。お互いなんとなく離れがたいのが伝わって、さらにどうしたらいいのかわからない。

     こういうことは、その後、頻発した。

     ファウストとネロの物理的な距離が近づけば猫はファウストを後ろから押した。そのたび、ネロはむぎゅ、とファウストを抱きとめたし、ファウストはされるがままに抱きしめられ、二人して照れまくった。
     かと思えば、ネロが夜からやってきたのでお泊りになった夜、猫はリビングに聞こえてくる物音からファウストが寝付けないらしいことを察すると、ネロにホットミルクを入れるように指図した。また、ファウストの仕事が立て込んでゼリー飲料やインスタント食品しか摂取しない日々が続けば、『ファウスト タイヘン スグニ コイ』と、片言のショートメッセージでネロの都合になど構わず呼び出してくる。

     ファウストに食事を作るとき、検索したレシピを読み上げて手伝ってくれる猫を見ながらネロは思うのだ。猫もまたオーナーのファウストのことが大切で、健康でいてほしくて、でも、仕事は応援したいのだろうと。
     猫にとってネロは、ファウストにしてあげたかったことを代わりにしてくれる手なのかもしれなかった。料理などの機能はついていないので、具体的にしてやりたいと思っていたかどうかはわからないが、労りたいという気持ちは確かに感じる。ファウストにとっては猫型が最適なのだろうが、猫としては歯がゆい場面もあったのかもしれない。
     愉快なドキドキハプニングはおまけか、ないしはネロのご機嫌を取るためだろう。

     とはいえ猫の真意はわからない。なにぶん言葉を交わす機会は呼び出し時の片言のメッセージだけで、猫からの一方的なものだったから。だから、これは全部ネロの想像である。


     すっかり寒くなってきた休日の夕方である。
     バスタブを洗っていたファウストにめがけて猫が栓をひねってをシャワーをひっかけた。
    「ひゃっ!?」
     シャワーが予め温められた温水であったことが微笑ましいが、ファウストはそれには気付かなかった。ファウストの気の抜けた叫び声を聞きつけたネロがやってくる。
    「おいおい、オーナーにそんな風にしてやるなって」
     猫に声をかけると、猫はふざけたように近付いたネロにもシャワーをかける。こうなるとこれは単なるいつものアレ。しょうもない茶番、ネロファウドキドキラッキーハプニングである。 
    「ちょっと早いがお前さんも洗ってやろうか?」
     しかし、ネロが誘うと、猫はかぶりを振って立ち去ってしまった。
    「ふられちまったな」
     そんなネロと猫のやりとりを見つめるファウストは、少し傷付いた顔をしていた。
    「ファウスト? どうした?」
    「ん……いいや、何でもないよ」
     なんでもないといいながらファウストは所在なさげにバスタブで立ち尽くし、ネロが洗面台からバスタオルを取ってきて渡しても目も合わせず生返事で立ち去り自室にこもってしまった。その後の食事でも口数少なく表情は硬く、何かがあったのは明らかなのに、何があったかは決して明かさなかった。


     *


     その日を境に、ファウストと急に会えなくなってしまった。

     ネロが連絡をしても「忙しいから、今はちょっとごめんね」と断られてしまい、それはこのところ連続で続いていた。相変わらず、猫からは会いに来いと連絡がくるものの、当のオーナーが断るのだからどうしようもない。
     会えたと思えば、駅前のカフェでちょっとお茶をする程度だった。

     気持ちとしては長い時間会わないでいたような気がしたが、カレンダーを見ると実際のところは10日くらいだったことにネロは苦笑した。誰かを求める気持ちというのは中毒症状みたいに厄介だ。
     カフェのカウンターで横に並んで腰掛けていてもファウストは難しい顔をしていて、口数が少ない。親しくなかったころに戻ってしまったみたいで胸が痛かった。
    「ファウスト、元気ない? いつも徹夜明けでも楽しそうに研究の話してんのに」
    「ん、まあね……もうプレゼン準備も大詰めだから。論文は提出したんだが……」
     ファウストが手を伸ばしたコーヒーを、自分が注文して手をつけていないホットミルクと入れ替えながら、ネロは気遣わしげにファウストを見つめる。いつもなら、じっと表情や仕草を見つめれば大体概ねの感情を予測することができる。ファウストは比較的感情が体に現れやすいタイプで、ネロはそういうところも好ましく、可愛らしく感じていた。しかし、今日は感情が今ひとつ読み取れなかった。
    「……ねえ、うちの猫のことは好き?」
     猫が丸まって入っているであろう鞄に手をやりながらファウストが思い詰めたように言う。
    「……なあ、本当に大丈夫か?」
     あまりに硬い声をほぐしたくなって、ネロが労るように横に並んだファウストの目の下の隈にそっと触れる。切長の瞳の輪郭を遠巻きに優しくなぞった。それで隈が消えるわけではないけれど、そこにあると知っていると伝えるように。
    「先生、寝てる?」
     ネロは極力優しい声を出したつもりだったが、ファウストは目を見開き、怒りのような、悲しみのような表情を浮かべた。
    「ネロ……」

    (失敗した)

     ネロは驚き失望した。きっと自分が体に触れてもファウストは怒らないだろうと思った傲慢さと、きっとファウストは笑ってくれると思った自惚れに。
    「あ、いや……今日はもう帰るよ」
     ファウストは気まずそうに、カバンを持つ。
    「ホットミルク、ありがとう。嬉しかった」
     そう言ってほとんど手を付けていなかったホットミルクを半分くらいまで飲み干すと、ためらいがちにテーブルに置き、足早に立ち去っていった。

     ネロは困惑して、ファウストの姿が見えなくなってもしばらくその場から動くことが出来なかった。




    【冬】


     冬の夜。ネロはエアバイクを走らせ夜の街をパトロールしていた。不審者や酔っ払いの喧嘩を見つけたら止めなければならないが、一人きりになることができる、比較的心が休まる業務だった。

     ファウストと連絡が取れなくなって2週間ほどが経過していた。連絡をしなくてはと思うものの、なんの返事も返ってこないことがわかっていると連絡をすることに躊躇してしまう。エアバイクを運転しながら、ファウストのことを考える。この間、会えるかと思って定期メンテナンスに出向いたが、ついに忙しさを理由に別のエンジニアをあてがわれてしまった。こうなると全く顔を合わせる機会がない。
     このまま疎遠になってしまうのだろうか。今まで、それほど悪い関係ではなかったと思っていたのに。
     カフェでファウストの体に触れなければ、関係は悪くならなかったのだろうか。
     考えても考えても、ファウストの気持ちはわからなかった。
     運転はいい気分転換になるが、今日は余計なことまで考えてしまう。
     考え事に耽ってぼんやりしていると、起きろといわんばかりにノイズ混じりの呼び出し音がなる。

    『ーーーーネロ』

     ベイン署長の声だ。

    「なんだよ」

    『今どこにいる?』

    「5区。今日も平和そのものだよ」

    『じゃあ今すぐ2区へ向かえ。1課からの要請だ』

    「何かあったのか?」

    『今日取り締まるって息巻いてた窃盗団に逃げられて、必死に追いかけてるんだとよ。間抜けどもだよな。もうでけえ顔出来ないよう一発かましてきてやれ』

    「はいはい、了解」

    『詳細は1課の奴から説明がある。じゃあ頼んだぞ』

     無線が切れたので、交差点でUターンをする。
     今は静かにパトロールをするよりも、少し騒がしい方がいいかもしれない。時計を見ると4時を少し回ったところだった。忙しい夜明けになりそうだった。


     *


     “会いたい“

     携帯端末のメッセージ作成画面をつけては消し、消してはつける。ここ2週間くらい、送信できないままずっとこの画面と睨めっこをしている。

     もうすっかり寒くなってきた。ネロはどうしているかな。風邪でも引いていないといいが……いや、アシストロイドは風邪なんて引かない。

     オフィスに出勤するにはまだ少し早い時間。ラボの休憩室の長椅子に横になりながら、徹夜後の仮眠から目覚めた目を擦りつつ少し前のあの日のことをファウストは思い出していた。ネロが遊びに来て、二人して猫にシャワーを浴びせられたあの日のことである。

     夕方になったので、休憩がてら料理中のネロに声をかけて、今夜のメニューや研究の進み具合について少し話をした。それから、風呂の準備をしようと風呂に来たのだが、ネロと一緒に料理をしていた猫は当然オーナーについてくるのでネロと引き離す形になってしまった。猫はちょっとそわそわしていて、なんとなくネロを気にしているようだ。
     風呂場を掃除していると、何も指示をしていないのに、作業を眺めていた猫は唐突に、しかしはっきりとした意思を持ってファウストにシャワーをかけた。

     もしかして。もしかして、猫もネロのことを大好きになってしまったのではないか?
     そして、ネロと楽しくおしゃべりをし、あまつさえネロと引き離したファウストにやきもちを焼いているのではないか?
     その後ネロにもシャワーをかけていたけれど、ネロは特に怒ることもなく笑っていた。二人にとってはじゃれ合いの延長なのだ。

     もしかして、ファウストが仕事をしてふたりをほったらかしている間に二人の関係は深まっていて、ネロと猫は相思相愛なのではないか?

     そう思うと、ファウストは二人を微笑ましく見守ることはできなくなってしまった。猫とネロを引き合わせたのは他ならぬファウストで、当初の希望通りネロも猫はとても仲良くなり、すっかり二人の関係は出来上がっている。
     ファウストもまたネロに惹かれているけれど、そこに、後からのこのこと自分が割り込むことなど出来はしない。
     ファウストは悩んだ。猫に友達ができるのは喜ばしいことのはずなのに、二人を見ていると嫉妬をしてしまう。考えれば考えるほど、心が千切れそうだった。

     ファウストは大きなため息をつくとテレビ放送をつけた。お気に入りのテレビプログラムを見つけてじっと画面に見入ったのも束の間、ニュース速報が入る。

     “市街地で発砲事件発生 警官一人が負傷した模様 市民にけが人はなし“

     物騒なご時勢になったものである。などと呑気に構えていると、先ほど胸ポケットにしまった携帯端末が震えた。

     オフィスからの呼び出しだ。


     *


     フォルモーントラボのロビーに下りて行くと、警官服姿のネロが立っていた。
    「まだビジネスアワーじゃないだろう。変な時間に呼び出すな。僕は『ミミクリーズ』を観るのに忙しいんだ」
    「なんだそりゃ。TV?」
     ネロは不思議そうに首を傾げた。
    「ああ。今日はきれいなフラクタル構造がたくさん出てくる回だった……じゃなくて」
     そう言いながら、ファウストは目を釣り上げる。大きく息を吸い込むと元気に怒鳴った。
    「どういうことなんだよ! それ!」
     ネロの、ひしゃげてずたずたになった腕を指さす。
    「動かなくなっちまって困ってんだ。これじゃ勤務もできなくて」
     外装面は銃弾を受けた部分の人工皮膚が無惨にも焼け焦げていて、そこを中心に周囲がひしゃげて破壊されている。内部の配線が切れ、軸が折れているのが痛々しい。もう少しで貫通しそうな惨状だ。
    「無茶はするなって言ったろう!」
    「言った」
    「聞いてなかったのか!?」
    「聞いてた」
    「じゃあ!」
    「ファウスト……ちょっと声おっきいかも」
     ネロが申し訳なさそうに伝えると、ファウストははっと我に返る。
    「とりあえずオフィスに行こう。パーツ交換で直ると思うから」

     *

    「いやさあ。俺はのんびりと夜のパトロール中だったわけだよ。それが、明け方になって一課の奴らが追ってる窃盗団が散り散りになって逃げてるからって応援を要請されてさ」
    「はあ」
     機材のセッティングをしながらファウストは渋い顔をして、ネロの話に耳を傾けた。
    「行ってみたら、犯人に鉢合わせしちまって。俺、性能良すぎねえ?」
     ネロが苦笑いすると、ファウストは困った顔をした。
    「追ってるうちに犯人が何発か発砲したんだけど、弾数が決まってるタイプの銃だったから出し切らせちまえと思ってさ。まあギリギリ貫通しなくてよかったよ。後ろの奴に当たったら大変だからな」
     後ろの奴。それは人間だ。ネロの意図を察したらしく、ファウストは何も言わなかった。
    「俺を人間だと思ったんだろうな。撃たれても向かっていくから驚いてた。その時の顔ったらなかったよ。画像データあるから、見る?」
     ファウストのしかめ面を笑わせようとしてネロはおどけた。
    「……後でね。怒鳴って悪かったよ」
    「構わねえよ」
     ネロはファウストの顔をじっと見つめると、首を少しかしげて許しを請うように尋ねた。
    「俺はよくやったろ?」
    「……警官としては」
     ネロが困ったように、けれど甘えるような眼差しで見つめると、ファウストはしょうがないと言わんばかりにネロの頭を「いい子いい子」と撫でた。

    「一回落とすよ。色々なチェックからはじめる。あ、腕パーツはどうする? 大体なんでもラボに在庫があるけど」
    「どれでもいい。ボディに適合するそんなに高くないやつなら。請求はシティポリスへ」
    「わかった。目玉が飛び出るような額を請求して、ネロを二度と出動させたくないと思わせてやろう」
    「それは勘弁。俺が飢え死んじまう」
    「あ、これなんてどう? ちょっと腕が太くなるけどサイコガンが撃てるタイプがあるぞ。パイソンなんとかかんとかっていう……」
    「え!? いや、いい。そういうのは大丈夫。サイコガン撃ったらそれは賊じゃね?」
    「そう? 警察は銃持ってるんだから一緒だろう。あ、ガトリングがくっついてるタイプもある。古めかしいデザインだな」
     在庫リストを見ながらファウストは無茶苦茶な提案をしてくる。
    「猫に似合いそうだけどな。ていうかガトリング付けたら料理ができないけど?」
    「それはダメだ。じゃあ普通のにしとく」
     久々のゆるい掛け合いにファウストが嬉しそうに笑った。修理のセッティングを完了すると、ファウストはネロの手を握ってそっと電源を落とす。

     ネロが次に目を開けると、両腕にピカピカで綺麗な新品がくっついていた。
    「ありがとな」
    「ちょっと上級グレードのやつにしといた。重さは同じだけど強度が高いんだ。もっと細かく繊細に作業ができるし、この素材ならハンドガン程度の弾なら貫通しないと思う」
    「ありがとな」
    「システムにも問題はなさそうだった。よかった、本当に」
     ファウストが柔らかく微笑んだので、ネロはまた心配させてしまったことがわかり、申し訳のない気持ちになってきた。しかし、アシストロイドが体の心配をされると言うのはなんとも面映い。
    「はあ……後はちょっとだけファイルの確認……ん?」
     モニタを眺めていたファウストが何かを見つけたようだ。
    「こんなところに何だろう? ジャンクファイルか?」
     ネロの、重要情報の領域に見たことのないフォルダが発生していた。そこは、仕事の情報をまとめたフォルダもあるような場所で、システムや、ごく重要な情報を置いておく領域だった。フォルダ名は「新しいフォルダ」であり、内容を類推することが出来ない。なんとなく引っかかるものがあって、ファウストが開いてみると。
    「あれ? え……? 何だこれ」
    「ん? ……あっ……………やべ……」
     ファウストが謎のフォルダの中身を見たことに気付いたネロはサッと顔色を変えた。
    「開けたのか!?」
    「うん? 僕の写真……?」
     ファウストは不思議そうに画面をスワイプした。どこまでスクロールしてもファウストの画像サムネイルが続いているはずだ。
     そこは、ネロが頻繁に見返す、『ファウストベストショット集』のフォルダだったのである。可愛い顔や嬉しかった時の光景が写真や短い動画、音声として記録されていて、それもかなり大量に入っている。
     ネロはそのフォルダを、いつもはファウストに見つからないようにメンテナンスのたびに別の場所にうつしていた。だが、今日ばかりは腕が動かないことや久々にファウストに会う緊張ですっかり忘れてしまった。そして、あんなフォルダ名ならば見つかっても中身までは見られないだろうという予想も大外れであった。
     ネロが気まずそうにファウストを見やると、ファウストはフォルダの中身をしげしげと見ている。可愛い顔だけでなく、ちょっと際どいアングルの画像もあったはずで、猛烈に気まずい。
    「う………………」
    「えっと……これってさ……」
     ファウストが恥ずかしそうに顔をあげる。
    「あんたのことが好き」
     ネロは、ファウストが口を開く前に本心を口にすることにした。なんだかんだで恋は先手必勝である。恋愛指南のウェブサイトにはそう書いてあった。
    「えっ……君はうちの猫が好きなんじゃ……」
    「は? ああ……」
     確かに言った。ファウストがまだ真面目にそれを信じているとは思わなかったが。
    「好きだ。好きだけど、猫は猫仲間っていうか単なる友達で、ファウストに対する好きとは違う。ファウストのは……なんていうか……もっとすごいやつで……」
     ネロが頬を染めて必死に言葉を探しているのを見て、ファウストもなんとなく察したらしい。
    「あ……でも、うちの猫は?」
    「いや、だから……」
    「うちの猫も、君のことが好きだと思う。だから、そんな……僕が横恋慕するなんてできないよ」
    「え? ……そういうことになってんの?」
     ファウストは泣きそうな顔をしているが、ネロは、猫がネロとファウストの恋愛を後押ししていると感じていたので何がなんだかわからず困惑した。
    「猫がそう言った?」
    「ううん」
    「じゃあ、なんでそう思った?」
    「だって、君が一緒にいるときだけ僕に対して攻撃的だろう。押したり、シャワーかけて濡らしたりとかさ。きっとやきもちだよ」
     やきもち。猫によるネロファウドキドキハプニングは完全に裏目に出ていたらしい。
     二人が猫の方を振り返ると、猫は困ったように尻尾を降っている。
    「そうじゃないのか? 僕に気を遣わなくていいから、言ってみて」
     ネロも、確かに猫の気持ちを確かめたことはない。なんと言うのか知りたくて、二人でじっと注目すると猫は困った様子だったが、しぶしぶといった様子で口を開いた。

    「ネロ スキ」

    「えっ!?」
    「ほら……やっぱり」
     焦るネロと、悲しげな顔をするファウスト。

    「ファウスト スキ ダカラ スキ」

    「ん……? どういうこと?」
    「説明下手か?」
     そういえば、ファウストの猫は人見知りで滅多に言葉を発することはない。送ってくるメッセージも常に短く片言だったが、話す言葉も片言とは。
    「僕の友達だから好きになったってこと?」
    「チガウ」
     ファウストに見守られながら、猫はゆっくり言葉を紡いだ。
    「ネロ ハ コブン」
    「子分?」
    「子分」
    (そんなふうに思っていたとは……)
     ネロは子分。そう言われるとネロもなんとなく色んなことが腑におちた。猫だから。猫はネロのことを群れの一員と認め、弟みたいに思っていたのかもしれない。ちょっぴり偉そうな呼び出しのショートメッセージも、そう思ってみれば可愛らしく思えてくる。
    「ネロ ハ フツウ スキ」
    「普通か」
    「だろうな」
     ネロは予想とそう違わない返答にほっと胸を撫で下ろした。
    「ファウスト ハ ダイスキ」
     猫はファウストの顔を見上げて繰り返し、ゆっくりとまばたきをした。
    「ファウスト ダイスキ」
     ファウストは言葉に詰まった。その間に猫はトコトコとファウストに歩み寄り、ファウストの手にじゃれつく。
    「プレゼン オワッタ ダッコ シテ」
    「きみ……」
     ファウストが手を広げると、猫は小さくメンテナンス台を蹴ってファウストの腕の中に収まった。
    「僕もきみが大好き」
     ファウストが震える声で答え、ぎゅうと抱きしめると猫は嬉しそうに尾っぽを降る。しばしファウストと猫はくっついて、撫でたり見つめあったりしてスキンシップを取った。
     ファウストは猫をただ、きみと呼んだ。
     ファウストのためだけにこの世に生まれてきたアシストロイド。
     きみ。その呼びかけは、猫への深い愛情や自分自身へ課したものからくる厳しさ、そして猫の向こう側にある何がしかに対する祈りのようなものなどの含みを全てひっくるめたものなのかもしれなかった。
    「じゃああれはなんだったんだよ……」
     猫を抱きしめながら、返事を期待しない口調でファウストが呟く。すると、意外なことにしばらくの間をおいてから返答があった。

    「ファウスト ダッコ スキ」

    「え…………」
     アシストロイドは人類の友である。オーナーに指示されなくても、オーナーの要望を的確に察知して叶える。それは、オーナーの幸せを願っているから。
    「なんだったんだろうな?」
     訳がわからないという顔をしながらネロがファウストに声をかけるも、ファウストは顔を真っ赤にして無言で猫を抱きしめるばかりだった。
    「ああ……じゃあ、僕がネロと深い仲になってもいいか?」
    「ファウスト……!」
     ファウストが猫に問いかけると、ネロが慌てふためいた。照れ臭そうにファウストは顔をあげる。
    「僕も君のこと、好きだよ」
     ファウストは恥ずかしさのあまり猫で顔を隠してしまった。
    「ファウスト……」
    「きみの好きな相手が僕だったらいいのにってずっと思ってた。仕事が忙しいのにダメな職員だよな」
    「ダメじゃない」
     ダメじゃないよ、とネロがなだめると、ネロの甘えた声に誘われてファウストがちょっとだけ顔を出す。ふふふ、とはにかむ顔がやっぱりキラキラきらめいてたまらなく可愛い。告白してくれたあたりからの動画と写真も絶対保存しておこう。そんな二人を見て、猫はちょっぴり面倒くさそうだ。

    「オマエラ ハヤク チュー シロ」
    「「なんて!?!?」」



     ラボには人の気配が増えてきた。今日が始まる気配を感じながら、もう少しだけ、二人でメンテナンス台にもたれておしゃべりを続ける。
    「一応聞いとくけど、最近連絡くれなかったのってさ」
    「君等が仲睦まじくしてるのを見るのが辛くて……勝手な理由でごめんね」
    「いいや、そういうことならいいんだ。俺がいけないことをしてしまったのかと」
    「君は何も悪くない」
    「そっか。なら良かったよ。嫌われていたらどうしようかと思った」
     ネロが笑うと、ファウストは真剣に申し訳なさそうに再度謝った。
    「ごめんね」
    「いいから」
     今度はネロがファウストの頭を撫でる番だった。
    「ていうかさ、プレゼン終わったんだ? どうだった?」
    「それが、なかなか良かったよ。色んな人に褒められた」

     数日前、社内プレゼンは大盛況で終了していた。ファウストにかなりの助力をしたうえでガルシア博士は『よく頑張ったね』と珍しく褒めたし、会社の重役たちも軒並みファウストの研究結果に顔を綻ばせていた。時間はかかるだろうが、ゆくゆくはファウストの研究成果はフォルモーントラボの製品に生かされることになるだろう。他社よりも一歩進んだセキュリティシステム。外部からのアクセスや情報の流出を防ぎ、アシストロイドの柔らかい盾となるもの。少しすればすぐに他社に追い抜かれてしまいそうな取るに足らない弱い魔法を積み上げて、行けるところまで行きたい。もう一緒にはいられないあいつのためにも、今一緒にいる彼らのためにも。一つを終えて、ファウストはまた次へ向かうのだ。

    「そりゃよかったな」
     ネロが顔を綻ばせると、ファウストはネロの手を取って指と指を絡ませた。
    「ありがとう。ことあるごとに君たちがリビングでじゃれてたのを思い出してさ、なんか頑張れたんだ。そりゃ何もなくたって頑張るけど、気持ちを強く持てたよ。鋼鉄にモリブデンを添加したみたいっていうか」
    「その例え、わかんない」
     ネロが困ったように、空いた方の手で頬を掻いたが、ファウストは明るく笑っていた。
    「わからなくていい。僕の自己満足だから。とにかく、ネロも、猫もありがとう」
     猫は言葉を発しない代わりに、ぎゅうとファウストに強くしがみついた。
    「どういたしまして。今度お疲れ様会しよう」
    「ええ? そこはデートでしょ」
     ファウストとデート。だって恋人なのだから。嬉しさでネロの胸元が青白くキラリと光る。
    「ふふ、君、本当に可愛いね」
    「う、うるさいな。デートな。わかった。飯がよければなんでも作るし、行きたいところがあれば付き合う」
     ネロが言うと、ファウストはしばし考えて顔をほころばせる。
    「じゃあ君の行ってみたいところに連れて行って」
     そして、じっとネロの瞳の奥を覗き込む。
    「僕が一人じゃ行かないようなところがいい。それこそ、君が行ったことのない所でもいい」
     ファウストはゆるく繋いだ手を掲げて揺らした。
    「それで、君のことをもっと教えて」


     ***


     ……このように、カルディア・システムが世界に広く普及したのは堅固なセキュリティシステムとセットだったわけだけど、そのセキュリティシステムの生みの親こそ、このフォルモーントシティアカデミーの卒業生である、ラウィーニア博士だったの。ガルシア博士の先行研究を引き継いで、それを商業利用できるレベルに押し上げた訳だから我々は感謝しなきゃいけないわね。これは肝いりで始まった研究で、多くの人の期待を背負って仕事をした博士は本当に立派よ。私なら臆病風に吹かれそうだもの。ちなみに、博士は顔は怖いけれど、猫好きの努力家だったそうよ。どうしてだかわからないけど、英雄って呼ばれるのは嫌がってたみたい。今度、没後30年の記念式典があるから、皆も是非とも参加してちょうだい。市立図書館の蔵書には、かの有名なラウィーニアシステムで賞を受賞したときの論文も収められているから、興味のある人はこの機会に論文というものに触れてみてもいいと思うわ。博士本人が市長に頼まれて寄贈してくださったものらしいから、貴重なものであることは間違いないわ。当時の市長はアシストロイドが好きで、フォルモーントラボ出身だったの。ラウィーニア博士に師事したこともあるそうよ。市長の若い時の写真、見たことある? ……あら、ベルが鳴っちゃった。では、今日はここまで。


     気だるい午後の気だるい授業。抑揚が乏しく、技巧もへったくれもない教師の語りにクラスメイトの半数は居眠りをしている。

     自分だってそうだった。60分前までは。

     どこから生まれるのかわからない衝動に駆り立てられて、学校が終わってから自転車を飛ばして図書館に行ってみた。予想通り、自分の他にラウィーニア博士の論文を閲覧しにきたクラスメイトはいない。透き通ったマナプレートみたいなごく薄い論文冊子を見つけ、電子ページを捲る。専門的すぎてほとんど何が書いてあるかはわからないが、わかる部分があると踊り出したいくらい嬉しかった。素人目にも、膨大なデータ収集と試行を繰り返していることがわかる。ラウィーニアシステムは緻密で繊細な研究の賜だ。読み進めるうちに、滲んできた掌の汗で冊子が滑る。もっと知りたい。これを理解できるようになりたい。こんな切実な欲求を感じたのは生まれて初めてだった。

     ファウスト・ラウィーニア博士。フォルモーントシティの英雄と呼ばれ、この街では誰しもが知る知の巨人だ。

     興奮冷めやらぬまま論文は結論に達した。更にページを捲っていくと、膨大な参考文献の次に謝辞が載っている。


    『いつも的確なアドバイスをくださったガルシア博士、飽きずに議論に付き合って下さった同僚の皆様、フォルモーントラボのスタッフの皆様、研究を金銭面でサポートしてくださったハート財団、そして、僕の心身を支えてくれた我が家の愛しい猫達に厚く御礼を申し上げ、心より感謝の意を表します。』




     おしまい



     ***参考資料などの紹介***

     サム・キーン「スプーンと元素周期表」
     福岡伸一先生の書籍……あまりに好きでタイトルねじ込みました
     いくつかのウェブページ(Wikipedia「ロボット三原則」他)

     偉大なる先人達の功績に、畏敬の念を込めて。
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