たとえば、週に一度来るガレットと酒が好きな客 注意書き
この話には宗教に関する描写があります。それらは複数の宗教を参考にした本作オリジナルのものであり、また、特定の宗教や宗教そのものを礼賛したり貶めたりする意図はありません。
そして、原作改変と捏造しかありません。
以上をご承知おきください。
1
俺が中央の国の王都にやって来たのは少し前のことだ。
街の中央には王族が政治を執り行うグランヴェル城があり、その周囲には城下町が広がっている。城を中心に住宅がひしめき合い、あちこちにマーケットや飲食店があり、住人は明るく誠実で、街角では挨拶や笑い声が響いていて活気がある。インフラも、快適に生活できるよう行き届いた整備がされており、適度に人と人の間に距離感があった。西の国のように派手ではないものの国は豊かで、道ゆく市民の表情にも余裕がある。国土の四方を他国に囲まれているため、隣国との関係がピリついているのだろうと予想していたのに、入国してみれば拍子抜けするほど平和だった。
それより何より一番驚いたのは、魔法使いに対する偏見がほとんどないことだ。地方はそうでもないのかもしれないが、少なくともこのあたりでは、表面上だけでなく人間と魔法使いが対等に暮らしている。魔法使いを避けるような雰囲気は全くなく、魔法使い自身も自らが魔法使いであることを隠そうともしない。いくつか飲食店に入った感触としても悪くなかったので、俺は、次の出店地域を中央の首都に即決した。
店が開店するまでの間、俺は他店のリサーチをすることにした。どんなメニューがよく提供されていて、客はどんな味付けを好むのか。同じような価格帯、顧客層の店に足を運び、目で舌で肌で確かめるのだ。何件か回ってみたところ、グローリーロブスターのグリルやオムレツ、ベーコン、ラクレットあたりが定番メニューのようだった。色々と実際に食べたが、このような味付けやメニューのレパートリーなら俺も十分やっていけるだろう。場所もよし、客もよし、食文化も問題なし。ところで、一つ不思議に思ったことがある。どこの店でも必ずガレットの取り扱いがあるのだ。しかも割と人気メニューらしく、店内で誰か一人は食べている。珍しい料理ではないがややボリュームがないため軽食のカテゴリであり、申し訳ないが俺としてはそれほど人気のあるメニューというイメージもなかった。だが俺が知らないだけで、中央の国はそういう食文化なのだろう。俺もガレットを店のメニューに加えることにした。
店の扉の吊り看板をcloseからopenに掛け替えて、今日も営業が始まる。
店は、大通りから一本入った路地裏に構えた。物件の条件はいくつかあったが、ひとつは、人通りの多すぎない場所にあることだった。賑やかな場所でやれば目についていいのかもしれないが、賃料が割高に思えるし、俺の好みではない。ふたつめは、住居が併設されているか、ないしはごく近所で借りられることだった。店が忙しくなってくると、家には寝に帰るだけになりがちで、あまり遠いと便利が悪い。仕事の後はすぐに家に帰ってのんびりしたい派だ。そして、今の物件は俺の希望通りであり、見つけた時は本当に嬉しかった。
今日の客入りもまあまあで、開店してから連日安定して席は埋まっていた。客の様子を見ていると、中央の国には誠実で公明正大な奴が多い。おつりが多ければ申し出るし、陽気ではないにしても挨拶や会話もそれなりにあった。俺もそんな気質は多少あるけれど、中央の奴らほどではない。
そういえば、少し前のことだ。裏路地だけに、店のごく近所で真っ昼間から絡まれている奴がいた。店の窓のガラス越しに、少し先でふたりの男がもめているのが見えた。店内まで聞こえてくるがなり声に最初は誰も反応しなかったが、なかなか声は止まない。ついに、開店当初から通ってくれている御婦人が「怖いわ」と小さな声を漏らした。他の客も落ち着かない様子で、何となく居た堪れなくなってくる。俺としては正直めんどくさくてしょうがなかったが、ふと揉めている奴らをどうにかしたら、誠実で公明正大な客からは人気を得られるかもしれないと思い付き、下心がむらむらと湧いてきた。
あそこの店主、頼もしくてかっけえよな。料理も美味いし。あの店には行った方がいいぜ。信頼できるいい店だぜ。料理も超美味いし。都にクチコミがじわっと広がるのを想像してしまうと、打算がめんどくささを上回った。俺は表へ出て、繰り広げられていた不毛な言い争いを適当に諌めることにした。蓋を開けてみれば、酔っ払いが通行人に絡んでいただけらしいのだが、いかんせん酔っ払いゆえに呂律が回っておらず、何を言っているのかがよくわからない。昼間からうるさいよ、あんた酔ってるよ、水でもやるから家に帰んな、と間に割って入ると、多少酔いが覚めたのかあっさりと退散していくではないか。だったら最初からもめんなよな、などと失礼極まりないことを思っていると、絡まれていた方の男は律儀に礼をしようとしてきたが、それはそれでめんどくさい。俺も仕事に追われているので「そこで店やってるから飯食いに来て。今は満席だから今度な」といい捨てて店に戻った。まあ、ぼちぼちの対応だったろう。客はささやかながら、拍手してくれた。
めんどくさいだけで、俺も多少腕に覚えはある。ちょっとやそっとの相手は怖くない。というか、手が出てしまって、後で俺が客に怖がられる方が怖かった。人に言えないことや後ろめたいこともたくさんしてきた俺にとって、この国の誠実さや明るさはやや居心地が悪いが、それゆえに料理の腕前を正当に評価してくれそうな期待もあった。だから、まだもう少しの間は、ここで普通に機嫌よく暮らしていたい。居づらくなったら勝手に出ていくからさ。
昼下がりのそれほど忙しくない時間帯のことだ。小さく息を吐いて、フライパンによく溶いた卵液を落とす。最後に漉し器で漉すのが滑らかなオムレツを作るコツだ。一手間が仕上がりを大きく変える。自慢のオムレツをテーブルに運んでいくと、入り口のドアベルが軽快な音を立てた。
「いらっしゃい」
「ガレットで」
客が誰だか気付いて驚いた。数日前にそこで絡まれていた男だったからだ。
「ほんとに来てくれたんだ?」
「当たり前だ」
出会い方が出会い方だけに、思わずタメ口になる。
「別に良かったのに。空いてる席どこでもどうぞ」
「どうも。いい店だな。先日はありがとう」
男は店の奥に歩を進めながら礼を口にしたが、言葉とは裏腹に態度は居丈高で、なんだか笑ってしまう。そういう奴は面白いので嫌いじゃない。
「どういたしまして。ガレットだったな?」
「ああ、頼む」
またガレットか。上着を脱ぎながら一番奥の席に着席する男の後ろ姿を見ながら思う。開店してみれば、驚くほどにガレットはよく注文された。他の地域でこんなに人気だったことはなく、中央の国の首都だけだ。どうしてこんなに人気なのか、理由が皆目見当つかない。だが、この男は今ガレットが食べたいのだ。俺は、とくべつ丁寧にガレットを焼いた。他の客のガレットで手を抜いているわけではないが、なんとなく。律儀にお礼をしにやってきてくれた男のために、見栄えは美しく、味は美味しくなるように。
「ありがとう」
俺が皿をサーブすると、男は先程と同じく、高姿勢に礼を言った。背筋を伸ばして椅子にかける男の風貌をちらと見る。シャツもボトムも黒尽くめで、椅子にかけてある上着も含めて上等な布地で作られているが、デザインがあまりに素っ気ない。装飾の類はほとんどなく、いっそ布が泣いている。だが、態度や振る舞いは自信に溢れているように見え、服装のシンプルさと合わせて想像すると、庶民から叩き上げの富裕層だろう。となると、普段はうちみたいな大衆向けの店には行かないのかもしれない。体はすらりとしているが筋肉質で、背丈は確か俺よりすこし大きかった。黒い短髪の下には意志の強そうな紫色の瞳がきらめいている。ああ、こいつはきっと根っからの中央の男なんだろうな、と俺は思った。今まで会話した人物の中でも、かなり中央の気質が強そうだ。いや、わざわざ礼をしに来るくらいだからそりゃそうか。
そして、男は魔法使いだった。何か魔法を使っているらしく、思わずうっとりしてしまうような繊細で優しく気品のある魔力が仄かに香っている。見た目は若いが、魔力の雰囲気から数百年は生きているようだ。
「ごゆっくり」
ガレットにはセットのサラダとスープとバケット、そして肉料理の前菜もサービスで少しつけた。中央のオーソドックスな味付けで。俺の料理がめちゃくちゃ美味かったって、ほうぼうで言ってくれよな。あ、でも、サービスしてくれるとは言うなよ。今日だけの特別なんだから。
そんなしょうもないことを考えながら皿を洗ったり次の料理を作っていると、男は食事を終えて席を立った。
「美味しかったよ、ありがとう」
男は微笑んだ。初めて笑顔を見たような気がする。
「そりゃどうも」
それ以上は特に会話もかわさず、たんたんと会計を済ませた。
俺は「また来てよ」なんて言わなかったし、義理で一度だけ来たのだろうと思っていた。だが、あれ以来男は週に一度、ガレットを食べに通ってきた。相変わらずお互いの態度はそっけないし、世間話すらしないが、ゆえに俺は内心喜んでいた。色々なことがままならず、後ろめたいことも山ほどしてきた俺の、自信のあるものといえば料理だけだ。この店が職場の近くにあるとか、雰囲気が好みであるとかそういう理由もあるのかもしれないが、今となっては特別なサービスもしていないのに頻繁に来て食事をしていくということは、味を好んでくれているはずだ。注文の時も料理を持って行った時もこれといって会話はないが、会計の時には必ず「美味しかった」と言ってくれる。俺は、料理の味を好きになってもらえるなら、それだけでよかった。
とあるランチタイムのことである。今日はもの凄く客が入って、あっちのテーブルからこっちのテーブルへ忙しなく行ったり来たりしなければならなかった。決まったランチメニューとはいえ、ハンバーグ、フライ、パスタ、ガレット、次から次へとひっきりなしに注文が入る。キャパオーバー寸前だった所に、アラカルトの客がレジでゴネ始めた。値段が高すぎるのだという。客はピーク前から店で飲んでいて、料理を一品ずつ複数注文していていた。『一個一個足してみいや、こんな金額にならへんやろ』というわけだ。だが、こちらに計算の間違いはない。というか、ほろ酔いの客はカマしてやろうという顔をしていた。そういう輩は顔を見ればわかるものである。ああ、めんどくせえ。とりあえずこのまま帰して、出禁にしよう。接客業をしていると、多かれ少なかれこういう変な客が混じってくる。それは避けようのないことだった。それから、中央の客はゴネる時も正面突破なのだと思うと、なんとなく微笑ましい気分になってしまう。店にあるものをくすねたり、異物が入っていたからタダにしろと騒ぐわけではなく、『計算が間違っている』。客の抗議のビックウェーブが収まるタイミングを見計らっていると、店のドアが開いたのが音でわかった。それに構わず客は見せつけるように代金に関する文句から社会に対する不満までをベラベラと捲し立てる。店内はしんと静まり返り、最悪の雰囲気だ。
「うるさい」
ドアを開けたのは例のガレットの男だった。
「金なら僕が払ってやるから出て行きなさい」
捲し立てていた客は、打って変わって、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。目を見開いて固まって、先程まで活発だったおしゃべりも止まってしまっている。
「早く帰って。ここにはもう二度と来るな。迷惑だ」
男は絡んでいた客の背中をぐいぐい押して、店の外に追い出した。先程までの元気はどこへやら、背中を押された客も大人しく店外へ出て行くではないか。
「あんた、なかなか大胆だな。ああいう客は俺が応対するからいいんだぜ。でも、出禁にしようと思ってたから助かったよ」
「いくらだ?」
「は?」
「さっきの客の。僕が払っておく」
目立つことをしたのが恥ずかしいのか、気まずそうに男は財布を出した。
「いやいや! そんなんダメだって。いらないよ」
「そういう訳には行かない。言葉には責任を持たなければ」
穏やかな口調だったが絶対にそうするという強い意志があって、なんだか俺が怒られたみたいにしゅんとなってしまった。そんなことを言われても困るのだ。食べていない物のお金をもらうなんて罪悪感がすごい。何も得ていないのに、金だけ払うなんて、そんなのどう考えてもおかしい。
「そんな顔をするな。わかった。今日は多めに食べるから……多めに請求して。いい?」
「無理しなくていいって」
「シェフのおすすめを頼む」
「ああ……わかったよ」
ガレットの男が唯一空いていたカウンター席に腰掛けるのを見届けると、ストップしていた時間が流れ始めたように耳にざわめきが飛び込んできた。こうしちゃいられない。今はランチタイムという戦場の真っ只中なのだ。出来事は時間にしてみればほんの10分くらいだったけれど、ガレットの男が味方をしてくれたことが俺を思いの外元気付けてくれた。慌ただしく忙しい時間に気圧されて、へこたれそうな俺に喝を入れてくれたように思えて頑張れる。
男はこの時初めてガレット以外のメニューを口にしたのだが、どの皿を食べても「美味しい」と言ってくれた。カウンターに座っているので、俺が横を通る度に呼び止めて「美味しい」と言った。最初は「口に合うか心配だったんだ」なんて軽口を返していたけれど、だんだん恥ずかしくてたまらなくなってきて、しまいには頬が熱くて「どうも」「あんがとな」くらいしか返せなかった。
男は本を読みながら、至極ゆっくり食事をした。男がいつもランチをしにやってくることと、真面目そうな雰囲気やシンプルな服装から、俺は男が官僚か、ないしは士業のお偉いさんではないかと予想していた。この近所は大きな会社や公官庁がいくつかあり、会社員らしき人々も休憩時間に来るので、そのうちの一人だろう。それにしても、今日の昼休憩はゆっくりしすぎなのではないだろうか。
「時間、いいの?」
「ああ、別に構わない。ゆっくりでいいよ」
最後のデザートのあたりで少し不安になって聞いてみたが、時間のことなどちっとも気にしていないようだった。融通のきく仕事なのだろうか?
その日から、少しずつガレットの男と距離が縮まってきたように思う。陣取る席はまた厨房から一番遠い奥の席に戻ったが、来るたびに声をかけていると、だんだん店の真ん中に移ってきて、しまいには毎回カウンターに座ってくれるようになった。話すことはこれといって内容のない世間話をほんの少しだが、男のしかめ面がだんだん和らいでいくのを見ると少し嬉しい気持ちになった。最初はガレットしか食べなかったけれど、それ以外のメニューも食べるようになり、「今日のシェフのおすすめは?」とメニュー表を見ながら何を頼むか決めるようになり。雑談で酒が好きだと言ったのでディナータイムに来るよう誘い、選りすぐりの美味い酒を飲ませた。
男の酒の好みは俺の趣味によくあった。本当に楽しんで酒を飲んでくれているのがわかるので、俺も嬉しかった。
男が店に来るようになって二ヶ月ほど経った頃だろうか。俺は思い切って、休みの日に新しいメニューの試作をするから、食べて意見をくれないかと誘ってみた。
店休日の昼過ぎのことだ。男は時間通りにやってきてドアベルを鳴らした。今日は黒尽くめではなかったが、やはり地味な服装だ。
「いらっしゃい。カウンター座って。色々あるから」
男は右手をあげて挨拶し、手土産を俺に手渡した。本当に律儀な奴。
試作品をひと通り説明して、二人であれこれ言いながら食べる。酒と合わせたくなったのでワインを開けると、男はするすると飲んだ。上品な仕草なのに、ワインがぐいぐい流し込まれていくのは見ていて気持ちいい。
「ずっと気になってたんだけどさ」
「何だ」
「あんたってこのへんの人だよな?」
「そうだ。生まれも育ちも中央の国だ」
「わかる。めちゃくちゃ中央ぽいもん。公務員とか? 何してる人?」
二人ともほろ酔いになったところで、俺は前々から気になっていたことを聞いてみた。
「この近くの教会に勤めているよ」
「へえ。牧師さんってこと?」
「まあそんな感じだな」
「わかるわ。なんかあんたってちょっと厳しいけど綺麗な感じがするもんな」
「……そうかな」
顔つきは精悍で背も高いし、体もそれなりに厚みがあって健康的だ。表情は固いが、そこが逆に信者からの信頼を生むのだろう。俺は宗教とは縁がなく、特に神も信じていないから予想でしかないが。
「ああ。はっきりものをいうから公正な感じがするよ。真面目だし、誠実だけど優しいしさ。あんたみたいな人に世の中にいてほしいなって思うもん」
それは交わした少ない雑談で感じていた。言動の端々に思いやりがあるし、嘘やお世辞は言わない男だった。
「それって褒めてるのか?」
「たぶん?」
俺は上機嫌でワイングラスを傾けると、彼も同じようにワインを飲み干した。
「名前は?」
男が尋ねてきた。
「言ってなかったか。ネロ。あんたは?」
「……メフィスト」
その名を口にするとき、男は諦めと不快が混じった表情を浮かべた。偽名なのだろう。わかりやすい男だと思った。この男が嘘を言うならそれなりの理由があるのだろうと不思議と納得出来たし、嘘をつかれても嫌な気持ちはしなかった。
「そっか。よろしくな」
「ああ、こちらこそ」
それから俺達はチーズフォンデュを提供する小さな器について議論をし、議論をしながらピンチョスを作り、飾りについても熱い討論を交わした。男は猫やうさぎの形がいいと言い、俺は素材をもっとレイヤードするべきだと言った。
「それにしても、こんなにしてもらっていいの」
気づけばワインは三本空いていた。飲みすぎだ。
「ああ、いいのいいの。俺が呼んだんだし」
「あの件があるから僕に親切にするんだろう。お人好しも大概に」
「あれはあんたが絡まれてた件とでチャラじゃん。ていうか、俺はお人好しじゃない」
「お人好しだ。めんどくさがりの人見知りのくせに、僕を助けてくれた」
「んーん」
俺はすっかりほろ酔いだった。
「違うよ」
「違わない」
男もほろ酔いだった。
「違う」
「違わないったら」
カウンターに並んで腰掛けているので、肘をついて横から男の顔をじっと見つめてやった。
「じゃあやっぱ違わないってことにしとく」
「なに?」
「このお人好しは、人見知りだからどきどきしながらあんたのこと口説いてんだよ」
そういうと、男はきょとんとした顔で俺を見つめ返した。
「僕を?」
「そう。……あはは、冗談だよ。まあ半分は本当だけど?」
「どっちだよ……」
男は戸惑ったように頬を掻く。思いの外初々しい反応だ。何百年も生きているだろうにこんな風に揶揄われるのが苦手なのか、それとも決まったパートナーがいるのか。けれど誘われて無防備にやって来るくらいだから俺に気を許しているのだろうし、ちょっとジャブ打ってみるくらいいいいだろ、と俺は思っていた。というのも、気付けばすっかり俺にとってこの男は気になる存在になっていて、顔を合わすことがあればその日は一日わけもなく心が弾む。けれど、客として接しているだけでは親密度は上がらない。オフタイムに呼んで、こんな一言も言えば、何か変化もあるだろうと思ったのだ。相手も意識するようになってくれれば万歳だし、ダメならこれで引いていくだろう。でも下心を出すのはこのくらいにして、今日の試食会を無駄にしないよう総括をしなければ。
「じゃあもうこれくらいにしとこう。味はどうだった?」
「あ、ああ……」
声をかけると、男はハッとしたように顔を上げた。
「……どれも美味しかった。だがこのグリルなんだが……この味付けなら、鳥より豚の方が好まれそうな気がする」
何となく言動に動揺が滲んでいる。先程の俺のジャブのせいだろうか。いつも仏頂面でいることが多く、厳しい雰囲気を纏っているので、可愛い反応だ。
「そっか。貴重な意見、ありがとな。まあよかったらまた店に来て」
俺が立ち上がると、男は不服そうな顔をした。何か言いたげだったけれど、口をむにゃむにゃさせただけで、結局何も言わず帰っていった。
男は翌週も店に来た。不服そうだったが、変わらずにカウンター席に座った。次の週も、その次も。俺は調子に乗って、来るたびに小さなサービスをし「あんたはこの味好きだった?」だなんてコメントを求めて、単なる客とは違う扱いであることを仄めかした。俺は笑うのは苦手だが目が合えば笑ってみたし、帰り際はまた来てよ、と他の客には聞こえないように言い添えたりした。男も満更ではなさそうに、甘んじて受け入れていた。俺はそれに気を良くして、何度か個人的に飲みにも行った。
何度も一緒に過ごしているうちに、俺はすっかり誘惑する方からされる方になっていった。
気品のある仕草や酒の好み、穏やかな人柄、心地のいい話題が心地のいいテンポで幾重にも重ねられていく。彼の全てが俺の肌に合うと感じた。どうして俺の人生には今まで彼がいなかったのだろうと違和感を覚えるほどに。口説いている、だなどとよく言えたものだと呆れる。こんなの、俺の方が彼に夢中ではないか。
何度か飲みに行ってから、よければ家に来ないかと誘ってみた。男はびっくりしていた。が、来た。二度目なのにきちんと手土産を持ってきて、やっぱり律儀だと笑ってしまう。
その日も酒を楽しく飲んで、ああ、好きだな、と思った。
「ねえ、あんたのこと、好きだよ」
アルコールで温まった胸のうちを、俺はそっと吐き出した。別に酔いに任せて言ったわけではない。いまだにほんとうの名前も知らないこの男を、俺は心の底から好いていた。それに、自惚れかもしれないが最近は男も満更ではないという反応をするようになっていた。俺に会えば嬉しそうだったし、最初は言わなかった冗談も言った。これはいける。俺は確信を持って口にしたのである。
「……僕も」
男は恥ずかしそうに、ソファの上で大きいクッションを腕に抱き締めた。あ、可愛い。相応にゴツいから見た目は可愛くないんだが、仕草が。
「だけど」
彼の視線が不安そうに揺れた。
……だろうな。飲食店経営などという不安定な仕事をしている人間と付き合うのは不安だろう。
「お、俺、この店頑張るから。絶対潰さないようにやってく」
「……」
「俺はちゃらんぽらんだから不安にさせてるかもしんねえけど、あんたがいてくれるなら頑張ろうって思えるからさ」
「……いや」
男は意味がわからないという顔をしていた。そういう話じゃあないのだろうか。
「え?」
「そうじゃなくて。というか、おまえの仕事は全然不安じゃない」
「うん?」
「どっちかっていうと僕の仕事っていうか」
「あんたの?」
いつだったか、教会に勤めていると聞いたことを思い出した。
「あ、もしかして教会は恋愛N Gとか?」
「そういうこともないんだけど」
「遠方に異動する予定とか」
「それもないけど」
「うん?」
「あのな……おまえは魔法使いだろう。僕のこと、知らないか?」
「何のこと?」
眉間に皺を寄せて苦しげだが、俺にはなんのことだかさっぱりわからなかった。
「とぼけてる? ……わけじゃないんだよな。ええと、僕の顔は本当はこんなじゃなくて」
男は自分の顔を指さした。常に見た目を魔法で変えているらしいことはいつからか察していた。だからといって、何を言いたいか俺にはわからない。
《サティルクナート・ムルクリード》
呪文を唱えて、男は自身にかかった魔法を解いた。魔法のきらめきが弾けると、背丈は縮んで俺と同じくらいになり、顎下より少し長い綺麗なオリーブブラウンの巻毛が揺れる。瞳の色はそのままで、小造りで聡明そうな顔立ちだが、どこか愛らしい。
「わ……っ」
「知ってるだろ?」
目の前の男は、柄にもなく泣き出しそうに視線を揺らした。
体が小さくなったことによって声も少し高くなったような気がする。耳に響くテノールはこれっぽっちも重さがないのに、体の中心を掴んでぐらぐら揺さぶるようだった。俺は動揺で目が回りそうで思わず目頭を押さえる。
「へえ……あんたの顔って本当はこうなんだ」
「その……騙していて悪かったな。早く言いたかったんだが、言いづらくて」
「めちゃくちゃいいじゃん、顔の話してごめんだけど……めっちゃ好み。ど真ん中」
なんだか吐く息が湿っていく。変身を解いた姿は俺の頭の中が具現化したのかと思うほど、俺の好みそのものだった。そんな人がこの世にいるというだけで興奮してくる。
「は?」
「やば、めっちゃ好き。結婚して」
吊り目のきつそうな瞳に見つめられているとどきどきしてしまう。たまらない。
「あ、結婚とか急に気色悪かった? ごめん、言葉の綾。半分は本気だけど」
「おい。えっと、いや、この顔、見たことないのか?」
「ない。有名人? わかるわ」
こんだけ顔も性格もいい感じだったら好きになるよ。俺も大好きだもん。
「僕は、国教の大司教なんだが……」
「そういや教会に勤めてるって言ってたもんな。てことは、結構偉い人なんだ?」
「いや、聞いたことがないのか? 大司教ファウスト」
「誰?」
「……おまえ、正気か? 越してきて何ヶ月経つんだ」
「半年?」
「おまえの話だと八ヶ月だ。新聞は読まないか?」
「まあ一、二ヶ月に一回くらいは目を通してるよ……多分」
最近平和で社会情勢への不安を特に感じていなかったのと店が普通に繁盛して忙しかったのとで、そっち方面の情報収集はサボり気味だった。
「国王の演説や公的な集会に来たことは?」
「そういうハレの日って店が繁盛すんだよなあ」
「はあ……」
男はがっかりして肩を落とした。
「緊張して損した」
「ごめん、いやんなった? これからは新聞とか読むわ。社会への関心って大事だよな」
「いや、いいよ。……君はそのままでいて」
「いいの? えっと……名前」
「ファウストだ。ファウスト……覚えて」
しょうがない奴だ、と苦笑いしながらファウストは俺の耳元に囁いた。俺を咎めながらも許しを含んだ声色の刺激が強くて、体がびりびり痺れるみたいだ。
「僕はこの国ではちょっとだけ有名人なんだ。でも、それには構わず今まで通り接してくれると嬉しい。僕の事は、知らないままでいて」
あんたのことなら知りたいんだけど。……と言いそうになったが、ファウストは困惑と安堵がないまぜになった顔をしていたので口をつぐんだ。
そんなわけで俺と大司教サマ? はお付き合いをすることになった。
有名人ならあんまり外を出歩かない方がいいのかと思って家飲みデートをメインにしているが、話しても話しても話題は尽きなくて、物足りなさを感じることはなかった。それに、毎回俺が食事やツマミを作ってファウストの個人的な好みを少しずつ知っていくのが楽しかった。中央の味の好みもあるが、少し北の国の食文化にも親しんでいるように思えたので、指摘すると驚かれてしまった。
「よくわかったな。僕の師匠は北の生まれで、よく北の食事や酒を教えてもらうんだ」
「まあ俺も北の生まれなもんで」
「そうなのか! 君もフィガロ様みたいに恐ろしいの?」
恋人になったファウストは意外と表情がくるくる変わるし口調も柔らかく、見ていて飽きない。
「まさか。俺は優しいし、これといって何もできない魔法使いだよ」
「またまた。君がそれなりに実力があるのは知ってるぞ」
ファウストはワインをぐいと飲み干して機嫌よく笑った。
「なんで?」
「なんとなくわかる。それに僕より年上だろう。魔力の雰囲気でそう思うんだが、間違っている?」
「あってる」
「やっぱり」
ファウストはコロコロと笑った。
「なんとなく厳しい、北っぽい雰囲気があると思っていた。だから君が気になったのかもしれないな」
「照れるって……」
そう言ってこちらを見つめてくれるので、思わず抱き寄せた。
「でもさ……だから、っていうか、先に言っときたいんだけど。……俺の昔の仕事のこと」
「何?」
「あんまり素敵な仕事をしてたわけじゃないんだ。どっちかって言うと日陰よりの」
「日陰?」
「ああ……今は完全に足を洗ってカタギだけどな」
「結婚詐欺か?」
「ははは、まさか」
「なんだ? おまえは何をしてた?」
「盗賊。……俺、器用だからさ。まあ鍵開けとか集団の運営とか色々……やれば出来ちまって」
「……」
「ごめんなさい。今はきっぱりやめてる。ここが罪に厳しい国だってことも理解してるし」
俺が頭を下げて謝ると、ファウストはなんとも居心地の悪そうな顔をした。そりゃそうだろう。恋人の昔の悪事など知りたくもない。最初は言わないつもりでいたけれど、ファウストにはそういうことを白状させてしまう雰囲気があった。ファウストが俺に嘘をつかないように誠実に接してくれるから、俺も感化されたとでもいおうか。
「最後はいつ? なんでやめたの」
「二百年くらい前かな。やっぱ、嫌じゃんそういうの。俺は家がろくでもなくてさっさと出たけど、子どもは自力じゃ生きていけなくて。北の国じゃ奪い合いが常で、盗んだものがそもそも盗品だなんてざらだし、そういう奴らと盗ったり盗られたりしてるとだんだん感覚が麻痺してくるんだ。もちろん無いところからは取らねえよ。無くなったこともわからないような、あふれてるところからいただく。でも、そうじゃない時もあるし、一緒に組んでた奴とうまくいかなくなってきて、いやんなっちまってさ」
ファウストは腕を組んで俺の話に耳を傾けた。
「もうずっと辞めたかったんだけど、言っても聞いてもらえなくて。強硬な手段しかないのかなって思ってたところに、でかい魔物の討伐のヤマが来たんだ。それで、今だ、ってタイミングがあって。ミスったふりして相棒に魔物けしかけて、混乱に乗じて俺も死んだふりして抜けてきた。なんて言うとクールに上手く終わらせたみたいだけど、全然。怪我だらけで血まみれの命からがらで、死ぬかと思った。あいつはあんなんじゃ死なねえと思うけどな」
「……自分が死んだことにしたの」
ファウストは俺の話をじっと聞いていた。
「もう潮時だったよ」
「……」
「正直、どんなシノギよりあの時が一番緊張した。はは、軽蔑するか?」
俺が自嘲気味に笑うと、ファウストは困った顔をした。
「こんなに好きにさせてから言うな。情状酌量の余地あり、ということにしておこう」
ファウストは複雑そうな顔をして、小さく息を吐いた。
「それを言えば僕だって、何人も……いや、何百人も殺してる」
かなり意外な告白に俺は驚いた。
「あんたが?」
「そうだ。僕は革命戦争を戦ったからな。極力殺さないようにはしたけど、それでも君よりは多分多いよ。僕だって生きるためではあったが、あれは所詮単なる殺し合いだ」
兵士としてか。魔法使いなら重宝されただろう。ファウストはいつも正しい。正しいゆえに、刃を握ることになったのだろう。戦乱の世が過ぎ去っていて良かったと心底思った。
「そっか。あんたも苦労してんね」
「はは、そうだな。……まあ、いけないことだと思って足を洗ったならいいんじゃないか? 北の国は厳しいのだし。なんだか理由も君らしいよ」
「そうかな」
「で、料理がうまかったから料理人になった?」
「そう。料理だけはな」
「更生してるじゃないか」
ファウストは面白そうに笑った。なんと言われても後ろめたさは変わらないが、俺の選択を認めてくれたことに少し嬉しい気持ちになる。聞きたくないことだったろうに。
「ありがとう。ふらふら料理屋やってたから、あんたにも出会えたしな」
隣のほっぺにそっとキスをした。ファウストは目を丸くしてびっくりしていたが、すぐに恥ずかしそうに小さな声で言った。
「そこでいいのか?」
「あ〜……いいの?」
言葉なく頷いて小さくくちびるを指さしたので、今度はくちびるに。触れるだけのキスなのに、ファウストは頬を桃色に染めていた。
(かわい……)
人殺しの経験はあっても、こっち方面の経験はあまりないらしくて微笑ましくなってしまう。うるむ紫の瞳がいじらしくて、俺はまた彼を抱きしめた。
ファウストは店に来る時は魔法で姿を変えているが、二人の時間には本来の姿に戻っていた。ゆるゆる巻いた髪や俺より薄い体が目の前にあるとどきどきしてしまう。俺には素顔を見せていいと思ってくれているのも嬉しい。まあ、俺は変装する前のファウストのことは何も知らないのだが。
「ねえ、ネロ」
「ん」
「今度どこかへ出かけようよ」
「デートってこと?」
「ああ。そういうことになるな」
ファウストは恥ずかしげもなく肯定した。それから、「デート」と飴玉を口の中で転がすようにもう一度その恥ずかしい単語を口にした。
「いつも以上に強めに変装して行くことにはなるけど、君と街も歩いてみたい」
俺は二つ返事で了承した。
***
「待った?」
その日、待ち合わせ場所に現れたファウストは、本当に誰だかわからなかった。
髪型はいつもと違って肩まである金髪だし、背丈だけはかろうじて本人のままらしいがさらに華奢で、顔立ちも目の色すら違った。何より、魔力の匂いがまるで別人だ。いわく、お師匠様に細工してもらったのだという。いつもの変装は見た目が同じだし、知り合いには魔力の匂いでバレるからなのだそうだ。やっぱり大司教様は社会的に重要な立場にいるので、俺のようなどこの馬の骨とも知れない一般市民とつるんでいるというのはあまりよろしくないことなのだろう。それについては当然のことだと思う。逆に、ファウストの立場に合わせたお付き合いに我慢ができなければ、付き合うだけお互いに不幸だ。
我慢。
こんなものは屁でもない。それだけ、繋いだ手の温みは、めぐる血は、得難い。喋るリズム、歩く歩幅、こんなに俺の言葉に耳を傾けてくれて、一緒にいて穏やかでいられる相手が見つかるとは思っていなかった。離してなるものかと俺は背筋を伸ばした。
「今来たとこ」
普通に二十分くらい前に来たが、誤差の範囲内である。
「嘘だ。僕も二十分くらい前に来たんだけど」
「は?」
「おまえは既にここにいた」
「ちょっと……」
恥ずかしくて、思わずファウストを睨む。
「可愛い奴」
ファウストが機嫌良さそうににっこり笑ったので恥ずかしい気持ちは全部忘れた。ああ、可愛い。たまんねえ。顔はいつもと違っても、本来の顔が思い出されてこちらもご機嫌になってしまう。
落ち合った俺たちはレストランで食事をすることにした。俺の店からはかなり離れた場所にある店で、ファウストが同僚から聞いてくれた。デートの時まで申し訳ないが、休みの日は調査や研究だ。最近話題の店とのことで、開店前から既に行列が出来ていて人気の程がうかがえる。会えていない間にあったことを話していると、待ち時間もまた楽しい。
その次は散歩がてら小売店を冷やかした。衣料品店でファウストが猫柄の靴下を大量に購入したのには驚いた。聞けば、ファウストの服や日用品は、基本的に教会から支給されるものなのだそうだ。その中に猫柄の靴下が入っていることは絶対になく、多少のリクエストは聞いてもらえるが申し出るのは恥ずかしいからしないらしい。
「猫、好きなんだ?」
「いや別に?」
「あはは、隠さなくていいぜ。意外だけど可愛い。あんたらしいよ。戻って俺も一足買おうかな。お揃いにすれば恥ずかしくないんじゃん?」
俺がいうとファウストは紙袋から二足も取り出して俺に渡してくれた。
「毎日履きなさい」
「ありがたく頂戴いたします」
俺が頭を下げて戯けると、ファウストは心底楽しそうに笑った。
「僕が住んでいるのは寮のような所なんだが、ネズミとりの猫を飼っていて、たまに撫でるんだ」
衣服が支給されるなら住居も支給されるということか。教会の近くに食堂つきの宿舎でもあるのだろうか?
「へえ。猫飼ってるのいいな。癒される?」
「ああ。人間に媚を売らないところがいいよ。馴染めば懐くし」
それから広い公園を散策したり、アイスクリームを食べたり、市内を一望できる展望台で街を眺めたり、たくさんおしゃべりをしながらのんびりと時間を過ごした。今までで、一日の中で一番たくさん喋ったのではないだろうか。お互いの口からでた言葉が少しずつ体の中に降り積もっていって、腹の中がいっぱいになって、なのに雲のようにふわふわと軽く心地いい。まさに、恋がここにある。
日が暮れてきたので二人で俺の家に帰った。ファウストと一緒なら、侘しい一人暮らしの家も楽しい。ファウストがジャケットを脱いで、我が物顔ですっかり決まった場所にハンガーで吊るすのが微笑ましい。指を鳴らせば見た目は本物のファウストに戻る。
「ん、おかえり」
そう言ってからキスをした。すっかりキスには慣れつつあるのだが。
「やっぱ変な感じする」
ファウストの体から香る魔力の匂いが、知らない誰かのままだったからだ。
「すまないな」
「それ、元に戻してもいい? ちょっと落ち着かねえ」
「え……ああ……」
ファウストは一瞬逡巡したのちに「構わないよ」と微笑んだ。
《アドノディス・オムニス》
パチン、と指を鳴らしてファウストの体にかけられた魔法を解く。それは服のようにファウストの体を薄く覆っていた。これによって、魔力の匂いを変え、他の魔法使いに気づかれないように隠蔽をしているのだ。
パチン。
もう一度指を鳴らす。繊細に、丹念に編み上げられた魔法は幾重にもかけられていた。息を飲むような熟練の技術であり、ファウストが師匠にとても愛されているのがありありとわかる。愛の印を外してしまうのは惜しいような気もしたが、俺にとってもファウストを隠されたようで違和感が大きく、どうしても落ち着かないので、申し訳ないと思いながら外させてもらった。
魔法は四重に重ねられていて、ボタンを外して服を脱がせるように、一枚一枚俺はそれを取っ払っていった。
「ん……」
終わった時、ファウストはソファの背もたれに体を預けてぐったりしていた。息も乱れているし、顔も赤い。
「だいじょぶ……?」
「大丈夫。君達の魔力が混じって、少し酔っただけだ」
顔近づけて見てみると目も潤んでいて煽情的だ。わ、やば……。
「あんたのお師匠さん、すげえな。こんな高度な魔法をかけてくれるなんて、あんたは愛されてるよ」
「そうだろう。ずっと僕の師匠でいてくれるのが不思議なくらいだ。強くて素晴らしい魔法使いさ」
俺が言うと、ファウストは赤い顔のまま嬉しそうに笑った。ファウストにそういう相手がいて良かった。
「ん」
俺はファウストを引き寄せるとキスをした。ファウストからも俺の体に腕を回してくれて、ぎゅっと抱き合う。ああ、腕の中にいるのはいつものファウストだ。
「君のことも好きだよ」
「あ……」
ファウストの言葉はいつも真っすぐで、俺は少しまごついてしまう。
「お、俺も好き……」
嬉しすぎて。
「ありがとう」
その声色が蕩けそうに甘くて、たまらなくファウストが愛おしくなった。
「俺、あんたのこと、ほんとに好き……めっちゃ好き……なんか、きゅんきゅんする……」
「きゅんって何だ?」
ファウストは不思議そうだ。真面目だから知らないのかもしれない。もしかして、まさか、俺が初めての……? などと思うとまたテンションが上がってしまう。
「胸がきゅんってすんだよ。……好き」
俺の『好き』の発作にくすくす笑いながら、ファウストは「受け取りなさい」といってひざまづいて俺の手の甲にキスをした。さすがに様になっていて、「頂戴いたします」と返したが、くちづけながらこちらを上目遣いで見つめてくるので頭がくらくらした。
その後は二人で仲良く料理をし、食べて飲んだ。恋ってなんて素敵なんだろう。好きな人が隣にいるだけで生活が明るくなり、思わず微笑んでしまう。この年になって、人生いいことも悪いこともあって、なのに自分がまだこんなにみずみずしくて、爽やかで、明るい恋が誰かとできるなんて思っていなかった。それはひとえにファウストが明るくて柔らかいひとだからだ。二人して機嫌が良くなって、するするとグラスを重ねた。
ファウストはいつも以上ににこにこと笑っていて、しまいにはテーブルに座りながらゆらゆらと船を漕ぎ出した。
「泊まってく?」
「いや、帰らなきゃ、門限が……」
ファウストの宿舎には門限があるらしい。防犯の都合上二十四時間出入り可能はやはり難しいのだろう。こんなに酔っているなら送って行った方がいいのかもしれないが、そういえばまだファウストの家を知らない……などととりとめもなく考えていると、ファウストはテーブルに突っ伏して眠ってしまった。眠りが深くなる前に起こしてやらないとと思ったが、色々な所へ連れ回して疲れさせてしまったのかもしれず、少し躊躇してしまう。椅子から転げ落ちたら大変なので、抱き抱えてソファに運んだ。
「むにゃ……」
ファウストは寝息まで可愛い。くうくうと控えめな呼吸音にぎゅっと心臓が締め付けられる。
(はあ……めっちゃ可愛い……)
こんなに好みの顔と性格の人がこの世にいていいのだろうか? 不思議に思いながら俺はファウストの顔を見つめた。ちょっとほっぺを突くと、寝ているのに手を振り払われた。敏感だ。
寝ているファウストを突いたり眺めたりしてにやにやしていると、部屋のドアがノックされた。
「え……?」
最初は何かの聞き間違いかと思った。けれど、たっぷり間を開けて、もう一度ノックされる。
「嘘だろ……」
こんな夜遅くに訪ねてくるなんて誰だろう。強盗じゃないといいのだが。部屋のチェーンを確認してから俺がドアを開けると、知らない男がにこやかに微笑みながら立っていた。
「やあ、うちの子が世話になってるみたいだけど、今何時か知ってる? 知らないみたいだから迎えにきたんだけど」
青い髪の大柄な男だ。衣服は上等で清潔。表情は柔らかいが、かなり怒っている。
「誰……?」
「誰? 俺を知らない?」
マジで誰? 口ぶりからすると、ファウストの関係者か。ということは多分、やんごとなき立場のお方のはずである。
「お初にお目にかかります。誰ですか?」
「おいおい、丁寧にしゃべっても流石に不敬だぞ。ファウスト様の師匠のフィガロ様だよ。たまにファウストと一緒に礼拝にいるんだけど、ほんとに見たことない?」
ああ、そういえばファウストから聞いたわ。師匠のフィガロね。うん。はじめて見た。
俺が誤魔化すように笑みを浮かべると、フィガロは「お前、マジかよ」と言わんばかりの軽蔑の視線を投げかけながら、俺の家のドアを魔法で外して中に入ってきた。
「ドア!」
「ドアチェーンなんてかけるからさ」
俺の制止を無視してフィガロはずんずんと家の中に入ってくる。
「あんた、ちょっと!」
「おーい、ファウスト? 寝ちゃったの? フィガロ様がお迎えに来たよ」
フィガロはソファで寝入っているファウストに近づいた。
「ていうかお前……」
そして次はこっちに睨めつけるような視線を投げてよこした。
「こんなの、許されないよ」
「……え?」
「お前、許されないだろう、こんなのは!」
フィガロは額に青筋を浮かべて、こちらを睨んでいる。
「す、すみません……どうかされましたか……?」
俺は何かいけないことをしただろうか。全く記憶にない。とはいえ先方が怒っているので俺はとりあえず謝った。
「俺の目隠しの魔法が解いてある……。うちの子酔わせてどうにかしようとしてただろ!」
「し、してません!」
どうにかしようとしていたか、していなかったかでいえば、正直な所は五分五分であった。無垢な彼をゆっくり可愛がってナメクジのような速度で先に進んでいくのも、いきなり快感の坩堝に嵌めて溺れていくのを眺めるのも、両方とも楽しいに決まっているからだ。ファウストの反応次第だった。
「嘘をつけ!」
「や、何も! 何もするつもりなんてないんで! ほんとですって!」
急に雲行きが怪しくなってきた。
「別に俺は強盗とかじゃねえから。これまで何度か飲んだことがあって……」
「大司教と?」
「は? いや、そうだけど……」
「信じられないな」
フィガロはキモめの虫を見るような目で俺を見た。ところで、フィガロが強大な魔法使いであることは前に立たれれば即わかる。ファウストの居所を探し当てるなど雑作もないことだったろう。だが、なぜ今日ここに来たのかがわからない。ファウストは立派な爺である。ちょっと前に四百歳になったらしい。爺が爺を探しにくる必要、あるか? 俺にはわからねえ。大人の男だぞ。ほっといても勝手に帰ってくるだろ。だから、ファウストが俺との関係をこの男に言っていなかったらしいことは別に不思議ではない。とりあえず、本人が寝ているので恋人であることは伏せておくべきだろう。フィガロがファウストに対してかなり過保護であることはよくわかった。
(小熊は可愛くても、親熊がやべえパターンか……)
まあ、あるよな。あるある。溺愛されるというのは幸せなことだ。まあ、本人のためにならないことも多々あるが。
目隠しの魔法を解いたことをきっかけに、フィガロの殺気で場の空気がどんどん冷えていくのが肌でわかった。やばい。この先、一挙手一頭足が俺の生死を分ける。俺も命は惜しいので、今日の所は早く帰ってもらおう。俺はファウストの肩を揺すった。
「ファウスト、そろそろ起きなって。迎えが来てるぞ」
「『ファウスト、起きなって』!? 敬称や尊敬語はどこにいったんだ? 君は目上の者を敬うということを知らないのか?」
フィガロが野次ってくるのが最高に気まずい。揺さぶるとファウストはすぐに目を覚ました。
「ん……ネロ……?」
その声は甘えきっていて、ややもすると抱きついてきそうだったのでさっと一歩後ずさって距離をとる。フィガロはこちらをナイフのように鋭い視線でじろじろと見ていて冷や汗が出た。
「おはよう、すまない、寝てしまった」
俺の緊張を一向に解さず、ファウストは伸びをした。小さなあくびをひとつ、手を口に当てるのが品良くて見惚れてしまう。ファウストは顔を上げて、来訪者の存在に気づいたらしい。飛び上がって驚いた。
「フィガロ様!?」
「もう。何時だと思ってるの? 最近遅いよ。君の身に何かあったらと思うと心配でいてもたってもいられなくて」
「すみません、フィガロ様……しかし、こんな場所までフィガロ様はお出にならなくても……」
「いい子だから、今日はもう帰ろう? ね?」
フィガロはファウストに優しく微笑みかけた。先ほど俺に対してキレ散らかしていたのとは別人のようだ。こいつ、食えないな。まあ、社会に深く食い込んで地位を築いている魔法使いなんて皆そうだが。
「ネロ、すまない。また今度会おうね」
ファウストが恥ずかしそうに俺に微笑む後ろで、フィガロは顔を青くして目を見開いていた。俺のことを、賊か、或いは今夜の相手を探してファウストを連れ込んだ奴だと本気で思っていたらしい。失礼な……。かなり腹が立ったが、これだけ圧倒的な魔力の差を感じるとどうにもできない。じとっとした視線で見つめる程度にしておいた。
そこからファウストはぱったりと来なくなってしまった。
もうひと月ほどにになるだろうか。フィガロが来訪した直後は怒りで頭に血が上っていて、見知らぬ誰かに邪魔される筋合いなどないと思っていた。けれど、時間が経つにつれて、だんだんとファウストはそういう立場のやんごとなき人物なのかもしれないと俺は思いはじめていた。
昼下がりの空いた時間帯は客も少なく、手がすいた俺はカウンター席でぼんやりしていた。最近、ファウストのことを考えてぼんやりすることが多い。失われてしまった愛おしい人のことは、いくら想っても想いが尽きることはない。
会計に席を立った魔法使いの客が声をかけてきた。たまに話しかけてくる客で、俺が魔法使いだということも知っている。
「最近大司教様、来ないね」
「大司教様? ファウストのこと?」
「ファウストて。あんた内気そうに見えて意外と馴れ馴れしいしいな」
魔法使いはおかしそうに苦笑いしているが、俺は目の前の相手がどうしてファウストのことを知っているのかわからず狼狽してしまった。
「よくお忍びで来られてた。あんたと仲良くしてたから寂しいね」
「……知ってたの?」
「ああ、魔法使いなら誰でも、魔力の匂いでわかる。でも、プライベートの時間も必要だろ。だから皆なにも言わないんだ。あんたも当然知ってると思ってたんだが、知らなかったのか?」
やっぱりファウストは有名人だったのだ。俺は内心ひどく動揺した。
「……ああ。馴れ馴れしくしたから振られちまったかな」
「そんなことはないよ。今はお祭りの準備でお忙しいだけだ」
「お祭りの準備? なんだそれ」
祭。ファウストからも何も聞かなかった。というか、今思えばファウストは自分の仕事の話について、忙しいとかその程度のことは言っても、具体的な内容は何も言わなかったことに気がついた。
「あんたは他所からきたから知らないか。毎年王都では建国記念日に祭があるんだよ」
「盛大な祭なのか?」
「国で一番盛大な祭りだ。ファウスト様はほぼ主役だし、おそらく毎年事前準備がかなりあるんだよ。年に一度の特別な期間だから」
「ん? 待って? 国で一番盛大な祭の主役ってどういうこと?」
「あんた、本当に何も知らないんだな」
「ああ、俺は何も知らないらしいな。大司教ってなんなの?」
「大司教って何なの? 子供でも聞かないよ」
舌に勢いが乗ってきた魔法使いは、調子に乗って俺の言葉を繰り返した。ムカつく。が、話が気になる。聞けるならばファウストについて聞いてしまわなければ。
「ファウスト様はアレク・グランヴェルの唯一無二の親友で、革命戦争を共に戦った建国の英雄だろう。いわばこの国の守り神みたいなものさ。アレク様が在位のうちは軍を率いてぶいぶいいわせていらっしゃったらしいが、アレク様の崩御とともに立場を退かれた」
「それで教会にのんびり天下ったってわけ?」
「いや、最初は生まれ故郷に戻って、村唯一の教師兼牧師を慎ましくやってたらしい。だが、やっぱり建国のカリスマはすごい。そこでありとあらゆる人の人生を導き、本人は特にそんなつもりはなかったらしいが村興しに成功し、周囲の街も巻き込んで地域経済さえ活発にした。教会においては英雄だろうと一般の爺だろうと扱いは同じだが、ファウスト様が普通に信心深かったこともあって、次第に重用されるようになり、教会内部でお呼びがかかって王都に戻った。国の中枢に返り咲いた時、長年のファンは涙を流して喜んだとか」
「はあ……?」
「小学校からやり直しな?」
「うるせえよ。……で?」
「今や国教の大司教様だ。大司教は王都に何人かいる司教のリーダー。司教は各地区の教会を束ねてるから、王都の教会のリーダーってことになるな。ファウスト様は魔法使いだから祝福の魔法が使えるし、見た目も所作も経歴もパッと華があるから、教会の代表として人前に出る感じになってる。というか、ファウスト様が出れば信者の皆がめちゃくちゃ喜ぶ」
ファウストが充分すぎるほどの実力者であるとともに、おそらく国民全員が所属している宗教でアイドル的に祭り上げられているらしいことを察した。わからなくはない。あんなにツンケンしているくせに近くによると優しくて、強くて、美しくて、正しくて……。誰だってファウストの人となりを知ればめろめろになる。
「ちなみに、あんたがどう思ったかは知らないけど、宗教っても市民の間では結構マイルドだよ。礼拝にちゃんと通ってる敬虔な信者もいるけど、そうでもない奴も多い。でも、皆がなんとなく神様はいて、世界を見守ってくれてるっぽいって思ってて、見えないものに運気アゲて欲しくてノリでお守り買ったりする。自分が神を信じないって決めたら信じなくていいけど、信じようと信じまいと、教会の祝福は今この瞬間にも無条件に全ての者に降り注いでいるんだよ。心の拠り所っていうのかもな。フィジカル面は王家が政治で整えて、メンタル面は教会は無限の祝福でフロアを煽ってる感じ。わかる?」
客は攣りそうな手の形を作って、Hey,broとばかりに頭上で振った。
「わかる」
「ファウスト様はいつも祈り、幸運を与えてくださる。礼拝があれば、信者一人一人に言葉と祝福の魔法をくださる。災害があれば、慰問に駆けつけて支援し、励ましてくださる。道に迷う者がいれば親身になって話を聞いてくださる。いつだって前に出て人の目にさらされて、なのにこれっぽっちもボロが出ない。それに、俺達魔法使いって意外と繊細だろう。役目とはいえ、他者に寄り添って心を使うのも、魔法を使うのもしんどい時があると思うんだが、そんな気配は少しも感じさせない。浮世離れした聖人って感じだよ。だから、俺達はあの人を心から尊敬し、尊き人だと思う。ひと目見ただけで幸せだと思う」
客は恥ずかしそうに、けれど力を込めて言った。
「そうなんだ」
「そうなんだとはなんだっ!」
「や、よくわかったよ。すげえ偉大な方なんだな」
「そうだぞ。お断りされるらしいが、死んだら石を食べてほしいくらいだ」
「は⁉︎ ファウストに?」
意外な願いに俺は驚いた。魔法使いは真顔なので本気のようだが、なんだかありえないことだと思った。どこか遠くの面識もない魔法使いに石を食べて欲しいだなんて、考えたこともない。
「あの方がいたから、こうやって俺たちはここで魔法使いだって隠しもせず家に住めるし、仕事ができるんだよ。他の国から来たなら意味がわかるだろ?」
確か、この魔法使いは省庁に勤めていると言っていた。俺が過去にいた国は、どこも人間と魔法使いの間にはっきりと線が引かれていた。だが、少なくとも中央の王都では、それぞれの違いは認めても立ち入り禁止の境界線はない。
「だからお前さんも敬え。もっと丁重におもてなししろ」
「はいはい」
ファウストは俺が思っている以上に……というか、ものすごい有名人であり、それを知らないのは俺だけだったのだ。国民にとってファウストは浮世離れした聖人かもしれないが、俺にとっては毎週店に来る客で、ガレットと酒が好きで、可愛らしい恋人、というだけだ。知らなかったファウストの一面を知ると、どうしようもなく気分が沈んでしまった。そんな立場の奴と俺みたいな野良犬は絶対に釣り合わない。きっと本人の望む人付き合いが出来ないこともあるだろう。フィガロが引き離したい気持ちも痛いほどわかるし、見つかってしまった以上、もう会えないのかもしれなかった。
俺は気も漫ろになりながら、客のお代をカルトンから受け取った。
2
アレク・グランヴェルが死んでしまってから、体のどこかが欠けたように感じている。
あれから時間が止まっているみたいだ。アレクが死んでからは喪に服すつもりで二人の生まれ故郷に帰ったが、思わぬ流れで王都に戻ることになってしまった。
中央の都は多分この世で一番、人間にとっても魔法使いにとっても暮らしやすい都市なのではないだろうか。アレクと僕が奔走した甲斐あって、魔法使いと人間が協力しあって分け隔てなく暮らせるようになった。手前味噌ながら、僕はこの都を誇りに思っていた。しかし、一度訪れた平和がどこかで壊されないとは限らない。アレクの死後、魔法使いを迫害する為政者が現れる可能性はあった。それは魔法使いの間で前々から危惧されていたことで、大司教にならないかと僕に声がかかった時は、初代国王の死後二回目の世代交代のタイミングだった。そろそろアレクが築き上げた均衡が崩れ初めてもおかしくない。王家一族としても、今後どの程度要職に魔法使いを置くか決めあぐねている雰囲気もあった。魔法使いの地位を落とさないように僕が何かできるなら、応じてみてもいいのかもしれないと思った。
それと引き換えに、唯一無二の彼のことを時間とともに忘れていくことは許されなくなった。再び城に住むようになって僕は後悔した。いまだに、城内にいる気がする。あの頃と同じように廊下の角を曲がってくるようにさえ思える。歳をとって足が悪くなったから、右足を少し引きずるような歩き方で。僕の中では何一つ終わりになっていないのに、周りにとってアレクは過去の人になって、偉人として祀り上げられていく。それを直に肌で感じるのは辛かった。しかし、引き受けてしまったものは仕方がなく、またある意味、僕がここにいることそのものがアレクに対する祈りであるともいえた。何かやらかさないようにだけ気をつけて、この地位を引き継ぐ相手が見つかればさっさと引き継いでどこか遠くへ引っ越そう。日々の業務は真面目にやらねばならないし、引き継ぐ相手の見極めはしっかりやる必要があるが、とにかくそんな感じで行こう。割とやる気のないまま僕は大司教になった。
はじめてみれば仕事自体はそれほど苦ではなかった。人に会うことも、祝福を与えることも、日々のお勤めもそれなりに楽しい。どちらかというと、それ以外の社交が辛かった。どこまでいっても僕は政治が得意でない。そのうち僕という人物よりも、建国の英雄だった大司教という立場が一人歩きして、僕と接しているのに、僕ではない誰かを見つめている者が多くなった。軍にいた時とは比べ物にならず、これといって何の権力もない僕に取り入ろうという気持ちがわからなかったが、フィガロ様によると、なんの権力もないからこそ取り入りたいのだそうだ。僕の信者にそのまま支持されれば、自分に権力が集まる。ニコニコしながら近づいてきて、仲良くなったと思ったら、最後は「公式に私を支持してもらえませんか?」とくる。そんなのが連続したために僕はだんだん疲れてきて、人付き合いそのものを億劫に感じるようになった。好かれても嫌われても、それは僕が僕だからではなく、大司教だからその感情を抱くのだとしか思えなくなった。役目とはそういうもので、僕の身を守ってくれることもあるが、孤独を深めることもあるのである。フィガロ様とレノがその辺りも含めて手助けをしてくれているが、ずっと子守をさせるのも忍びない。二人のように上手くできない自分にもうんざりしてしまった。
色々なことを諦めていたなかで、偶然出会ったのがネロだった。もう誰かと親しくなることなんてできないと思っていたし、もう誰かを好きになんてなりたくないと思っていた。なのに、ネロは僕を口説いた。僕が大司教だとか、何をしてきただとかを知りもしないのに、そこにいて欲しいと言った。記号的に扱われがちな僕を、愛情を注ぐ一個人として好みだと言ってくれたのも嬉しい。僕がいつのまにかどこかで落として失い、存在していたことすら忘れていたような何かを、呼び止めて手渡してくれたような気がした。
「はい、これお願いね。司教集会の連絡事項」
「はい」
「明日の赤ちゃんリスト」
「はい」
「個人的な謁見の依頼も一件。良質な豆の育て方について大発見をしたから聞いてほしいって牧師がいるみたい」
「それは僕じゃなくてもいいでしょう。むしろ農業部の方が……」
「ダメ。君に直接褒めて欲しいんだって」
「はあ……?」
「あとこれ、サインしといて。信者へのファンサ。ごめん、断りきれなくていっぱいあるんだけど……」
「フィガロ様……」
朝。グランヴェル城の自室から教会の執務室に出勤してきた僕に、フィガロ様が預かってきてくださった依頼者リストの束やら何やらはあまりに分厚かった。
ネロの家にフィガロ様が来た日から数日と間を開けず、建国記念の祝祭の準備期間がはじまった。この一ヶ月半ほどの祝祭の準備期間は一年で一番忙しい時期で、僕は朝から晩まで仕事に追われることになる。朝晩のお祈りや会議への出席、各所への訪問といった通常業務の他に、この期間だけの追加業務が乗ってくる。午前中は赤ちゃんの健やかな健康を祈念する儀式を行う。この時期は僕が担当者を務めるため、教会は赤ん坊とその保護者ですし詰めになる。赤ん坊は無条件にかわいい。アーサーが小さい時も可愛かった。ちぎりパンみたいな手足やふくふくのほっぺはついつつきたくなるのでたまにつつく。そんな無体を働いても親には大体喜ばれるのでこの仕事は僕も好きである。そして、午後はお守りに祝福の魔法をかける仕事。お守りは仕立て屋に特別に作ってもらっている。つやのある布に青い鳥の刺繍が入った可愛らしくも品のある一品で、グランヴェル城近くの教会の窓口にて販売中である。また、こちらが用意したもの以外に、持ち込み品に魔法をかけてほしいという依頼もくるので、それもまとめてこなしていく。さらに、祭での講話で話す内容も考えなければならない。今年何を話すかはまだ考えていない。
フィガロ様は今は教会付属の診療所の医師をやっていて、窓口の職員と仲がいいのでたまに取り次ぎをしてくださったりする。というのは口実で、僕の様子を見にきてくれているのだ。そもそも、僕を追って軍から教会に移って来てくださった。お師匠様にはいつまでも頭が上がらない。
「……いつもより多くありませんか」
「そんなことないよ」
「そんなことあります」
僕でなくてもできる内容も結構あり、受付から多めにもらって来たのだろうかと勘繰ってしまった。ただでさえ忙しいのに、いつもより多めに仕事を回して、僕がふらふらと遊びに行かないようにしているのだろうか。僕とフィガロ様の間になんとも言えない気まずい沈黙が満ちる。
「ネロのことですが」
「……」
「反対されているのですよね。どうして」
フィガロ様は僕の交際に反対されている。この間、ネロの家に迎えに来てくださった帰り道に物凄く怒られた。何か気に障ったのだろうか。あれ以来、フィガロ様は時に何か言いたげな、そして時に申し訳なさそうな顔をしていた。全部、僕がそうさせているのだ。
「どうもこうもないよ。ダメに決まってる」
「僕はもう一人前の大人です。自分のことは自分で決められますし、彼はフィガロ様が心配しなければいけないような人物ではありません」
僕が返すとフィガロ様は苦笑いした。
「彼は素敵かもしれないけど、一般の市民と君のような立場のある人がお付き合いをするっていうのがどういうことかわかっているの? あの男だけが君を独り占めするなんておかしいと思わない? 皆君のことを慕っている。ずるいじゃないか」
「……」
ずるい。そうなのだろうか。それに、皆が好きなのは僕ではなくて、建国の英雄の友人ではないか?
「ずるいとは思いません。何の規則にも抵触していませんし、誰かと愛を交わすことがいけないことでしょうか?」
「愛だなんてね……」
フィガロ様は複雑そうな顔をした。
「愛はすぐに壊れてしまうよ。君は君にとりいってくる政治家に辟易しているだろう。君がすげなくしたり、利用する価値があまりないと思うと手のひらを返す」
「はい」
「彼らは辛抱強い方だと俺は思うよ。利害関係がないならなおさら、簡単に人は人間関係を手放す。世の人々がどれだけくだらない理由でくっついたり離れたりするのか知らないのか」
「知りません」
「君の社会的立場を聞いてお友達は何て言ってた?」
「『誰?』と言ってました」
「だよね。俺が行った時もそうだった。あいつはまだことの重大さがわかってないんだ。そして、君が重要な人物だと知ったら去っていくよ。なんか、めんどくさいのは勘弁って感じで、軽薄そうだったろ」
「軽薄」
「去っていくだけならまだしも、調子に乗り始めるかも。俺、VIPと付き合ってるんだぜって。そういうのって見てらんないよ、しんどいよ」
「……」
確かにそうなったらしんどいが、ネロはそういうタイプではない。多分。
「君の顔とか地位とか、上っ面しか見てないんだ」
「顔? 顔は確かに可愛いと言われました」
「そう……え、言われたの⁉︎」
「すごく好みど真ん中だ、結婚して欲しいと……」
「けけけ結婚⁉︎」
フィガロ様はめまいを起こしてよろめいた。びっくりして背中に手を添えて支える。
「大丈夫ですか?」
「ダメだ。俺はダメかもしれない。いや、と、とにかく、ダメだ。気軽に結婚とかいう奴は軽薄だから別れちゃいなさい。きみにはフィガロ様やレノがいる。それでいいじゃないか」
フィガロ様の反応が知りたくて言ってみたが、思いの外激しい反応が返ってきてびっくりした。そして、今の一言がフィガロ様の本音であるらしいこともわかった。昔から、話の初めから本音までの距離が遠い方だ。それがまたお可愛らしくもあるのだが。
「お二人のことは大好きですよ」
「だろ? ああ、俺も君のことが好きだからこんな話をするのさ。だからまあ、とにかく、務めをしっかり果たしなさい」
ネロのことは好きだが、フィガロ様のことも好きだ。僕が押しかけて弟子入りした時から、今に至るまでずっと優しく見守り指導してくださっている。アレクと中央の国を治めていた時も、故郷にひとり戻った時すらも。これまでさんざんお世話になったフィガロ様に反対されるようなことはしない方がいいのではないかという気持ちもある。恩を仇で返すなどあるまじきことだ。けれど、ネロと心から満ち足りた時間を過ごしたのも本当のことで、なかったことになどしたくなかった。ネロとの関係を中途半端なままにはしておけない。けれど、でも……迷っているうちに、時間は過ぎていく。
一日すぎ、二日すぎ、一週間すぎ、僕は焦りを感じはじめていた。なぜか今年は祈祷の依頼が桁違いに多い。あまりの多さにフィガロ様も『本当に嫌がらせとかそんなんじゃないから』と苦笑していた。例年はここまで多くはない。だから準備期間に入ったとしても、ネロとは以前と同じペースで会えるだろうと思っていた。だがそれは叶わず、こなすだけで精一杯な仕事量のせいで毎日が過密スケジュールだった。なぜかお守りが飛ぶように売れて、決して安価ではないはずの持ち込み品への祝福の依頼も異常に多い。これだけやっていればいいならいいが、司教会議や信者の話を聞くこと、教会や病院、貧救院への訪問などの通常業務もなくならない。教会としても年に一度の書き入れ時なので、断ることなく全て僕に回してくる。どこかで祈祷の受付を中止した方がいいのだろうが、持ち込まれた指輪やぬいぐるみを見ていると、個人の祈りが見えるようで断りづらい。もしも限界になったら…………そんなことは考えたくもない。おそらく今どこかで僕と同じく忙殺されている、お守りに刺繍をする針子への深いシンパシーを感じながら、僕も走り続ける。
時間的にも体力的にも余裕などないのに、疲れて考えることは、ネロのことだった。カレンダーを見てみれば、もう一ヶ月以上も会えていない。ちょっと顔を見に行きたいのに、あっという間に仕事が立て込んで叶わない。少し前までは、誰かに会えないことなどたいしたことではないと思っていた。会いに行きたい誰かなんてもうずっといなかったから。それに、祝祭さえ終われば僕は元の生活に戻る。……というのは重々承知しているのだが、どうにも煮詰まって、顔を一目見たくなってしまう。しかも、ネロには僕の居所を言っていないので、僕から会いに行かなければネロには会えない。実はグランヴェル城に住んでいて、その隣に建っている王都で一番大きな教会に勤めている、と言う機会はあったが、大仰に受け取られたら嫌でなんとなく言えないままだった。嘘を言ったわけではないが、そんなことすら伝えられないなど、なんと儚い関係なのかと今更ながら落ち込んでしまう。仕事のこともほとんど何も言っていないので、ネロは僕が繁忙期であることも知らない。僕が急に来なくなってどう思うだろうか。僕の気持ちがなくなってしまった、或いはこの間あんな別れ方をしたから、交際を強く反対され、言われるがままに終わりにしたと思うかもしれない。周囲の強い反対を知れば、優しいネロは身を引いてしまいそうな気もする。そんな不安も湧いてきて、輪をかけて焦りが募った。
翌朝、起きると雨が降っていた。僕の自室の窓からは市街を一望できる。窓ガラスの向こうでは、降り注ぐ雨の雫が世界に淡い膜を張っている。
『雨の日ってさ、なんかしんどいんだよな。頭が重いっていうか、気が滅入る』
以前ネロが言っていたのを思い出した。いつもの申し訳なさそうな控え目な笑顔が目に浮かんでくる。彼のことが好きだ。しみじみそう思った。一緒にいた時間はまだ長くないけれど、それは濃密で、僕の中にしっかり根を下ろしている。遠く別々の場所で過ごしていても、ふとした瞬間に思い出した思い出が僕の心を温める。
起きたばかりだというのに、僕は疲れていた。
少しだけ、出られないだろうか。今仕事を止めると後に響く。けれど、もうどうにもたまらなかった。睡眠時間を削ってもいいから、ほんの少し彼に会いたい。この間戸惑わせたことも謝りたい。もう大切な相手を失いたくなかった。
僕はそっと自室のベッドを抜け出した。適当にガウンを羽織って、人目につかない裏口へ急いで足を進める。廊下を右へ左へ曲がると出入り口のドアが見えた。が。
「結界だ」
フィガロ様の魔法がかかっている。僕が逃げ出したらすぐにわかるということか。あれ以来僕があまりに多忙だったのでネロの話は出ていなかったが、まだしっかり反対していて、会いにいくのを阻止しようとしているのだ。……結構なことをするじゃないか。
「フィガロ様……」
ちょっとやりすぎである。こんな風に邪魔をされると反抗的な気分にもなる。どうしても外に出て、ネロに会いたい。
「申し訳ありません。失礼します!」
僕は指を鳴らして封印を破った。ドアを開けた瞬間、箒を出して猛スピードで飛び出す。フィガロ様には絶対に追いつかれない自信があった。手荒なことをされない自信も。
「ファウスト!」
師匠が城の窓から顔を出して叫んでいた。流石に早い。それもそうか。そうでなければ封印魔法の意味がない。
「戻れ!」
いやです。そう言うのも嫌だった。箒で雨空を駆けると雨のしずくが頬を打つ。しばらく一目散に飛んで、気付いたときにからだはびしょ濡れだった。切羽詰まるとこんな当たり前のことすら忘れてしまうのだと、自分の愚かさにため息が出る。
恋い焦がれた場所に着いてみると、ネロの店の前には『close』の札がかかっていた。そういえば、今日は定休日か。では、住居の方にいるだろう。まだ朝早いので、寝ているかもしれない。
けれど、勝手に鍵を開けて家に入ってみると、誰もいなかった。
それほど広くない家の中をくまなく歩き回ってみたが、もぬけの殻だ。どうして? と尋ねたいのに、当の本人は家にいない。こんな朝早くからどこに行ったのだろうか。もしかしたら、昨日の晩からいないのかもしれない。なんとも言えず寂しい気持ちが湧いてくる。昨日の晩、どこかに飲みに行って朝帰り、とか? 浮気しているとも思わないが、どこかで誰かと楽しい夜を過ごしたのかもしれない。
それに思い至って、僕は一人だけ取り残されたような心細い気持ちになった。僕の世界は狭くて、たまにネロの店に行くのが楽しみだけれど、ネロはそうではない。ネロは人付き合いが活発な方ではないとはいえ、たくさん楽しいことを知っている。もし僕がいなくなっても、僕が抜けた後の空白は別の何かがどんどん埋めていくのだろう。ネロは魅力的だから、一人でいれば、きっと惹きつけられる者が放っておかない。なのに、僕は惹かれる相手ができても、朝まで一緒に過ごすことすら出来ない。たまたま眠ってしまってわかったが、遅くなるとフィガロ様が連れ戻しにくるだなんて。自分が、どれだけ囲われた場所にいるのか今更ながら自覚した。それはずっとうっすら目を背けていたことで、僕はアレクがいなくなってから自暴自棄になっていたのかもしれない。色々なことが制限され、立場に縛られていても何も思っていなかった。もしかしたら、そんな僕はネロにとって、ひどくつまらない相手かもしれなくて。
ちょっと涙が出そうになった。部屋の中はしんと静まりかえっていて、静けさに押し潰されそうだ。悲しい。雨が降っていて、ことさらに気が滅入る。ああ、これはきっときみと同じ。
『仕事が落ち着いたらまた来る。君に会いたい』
僕は、テーブルの上に書き置きを残して部屋を後にした。会いに行ってみれば、たまたま不在で会えなかった。ただそれだけのことなのに、僕はひどく落胆した。仕事に戻ろう。こんな時は仕事に打ち込んで何も考えないのが一番いい。
城に戻ると体はすっかり冷え切っていた。
気分を変えたくて温かい風呂に身を浸しても、心の冷たさは変わらなかった。長い間会いに行かなかったから、もう飽きられているのかもしれない……そんな暗い考えが浮かんでは消えていく。風呂の水面に浮かぶ自分の顔には、疲労が滲んでいた。
あの後何食わぬ顔で教会に行き、赤ちゃんを祝福してほんの少し癒されてから、午後からは執務室に篭りっきりで仕事をこなした。フィガロ様が尋ねてこなかったことだけが幸いだ。こんな気持ちで祝福の魔法を使い続けるのは少し辛かったが、理由はどうあれ僕を求めてくれる誰かのためだと思えば気が紛れる。僕は、意外なほどに打ちひしがれていた。かけがえのないものをうまく大事にすることができず、大切にてのひらで囲っているつもりなのに、どんどん指の間から溢れ落ちていくように思えた。欲しいものなんて、そう多くはないのに。
仕事が終わらないまま夜になったので自室に戻った。教会に届けられた信者からのファンレターでも読んで元気を出そうと封書を読んでいると、部屋のドアがノックされた。こんな時間に誰だろう。まだ日付は変わっていないが、仕事の連絡だとめんどくさい。執務室から自室に引っ込んできたのだから、そっとしておいて欲しいものだ。それともフィガロ様だろうか。昼間の話だとしたら、これも気が進まない。もう、十分僕はへこたれていて、これ以上話したくないのだ。
ココンコンコン。コンコン、ココン。
ノックの音が冗談みたいにリズミカルに鳴った。いや本当に誰? こんなふざけた叩き方で僕の部屋をノックする奴なんていない。新人のお世話係が何か勘違いでもしているのだろうか。気安さを演出して面白い奴と思われようとするのって、実際全然面白くないからな。注意するのもめんどくさいが、フィガロ様よりはマシかもしれなかった。
億劫に感じながら、部屋のドアを開ける。すると。
「こんばんは。……盗みに来たぜ」
そこには、恥ずかしそうにはにかみ笑いをするネロがいた。僕は心底びっくりした。どうやって入った? ここは国王一族も住まうグランヴェル城の中なんだが⁉︎
「は⁉︎ おま……」
「でかいでかい声がでかいって」
ネロは慌てて僕の口を押さえ、部屋の中に押し入った。後ろ手でドアを閉め、手元も見ずに器用に鍵をかける。
「盗みはもうしなかったんじゃないのか」
「あ、そうだった。忘れてたわ」
「は?」
「いや、緊急事態かなって。……嫌いになった?」
「……まさか」
だいそれた事をしているはずなのに、僕が嫌になったかどうかを気にしている彼が愛おしくなってしまう。
どこに住んでいるかは言わなかったし、僕は書き置きに「また来る」と書いたのに、ネロは僕の気持ちに応えてくれた。考えうる限り最高に無茶をして駆けつけてくれた。僕は、ずっと苦しかった。もしかしたら二人の関係はどんどん冷えて終わってしまうのかもしれない、僕だけが恋に身を焦がしているのかもしれないと、心細くてたまらなかった。だが、城に不法侵入までしてネロは来た。だったらきっと僕だけが想っているということはない。暗い気持ちはどこかへ行ってしまって、会えた喜びが勝る。
「……もっと好きになってしまって、困ってる」
「はは、そりゃあ甲斐があったな」
ネロはいつもと同じように、少し申し訳なさそうに笑った。僕の好きな笑い方だ。
「それにしても、どうやって入った?」
僕が城に住んでいることは大抵の人が知っていると思うので、誰かに聞けばすぐにわかる。だが、ここは国の中枢部だ。外にも中にも兵隊がそれなりの数いて、警備しているはずなんだが。
「城のコックですって顔して入った。コック帽かぶってたら楽勝だったぜ」
「嘘だ」
「嘘だけど、別に乱暴なことはしてないから。……そんなことより、書き置きありがとな。めちゃくちゃ会いたかった。いなくてごめん」
そう言ってネロは僕を抱きしめた。僕もネロに腕を回す。少し涙が出そうになって、言葉が詰まった。
「朝、なにしてた?」
「漁船に乗ってた」
「……釣りか?」
「美味い魚の仕入れ先見つけて、褒めたら獲るとこ見に来いってほとんど無理矢理連れてかれて。朝の三時集合だぜ。信じられる? 帰ってきたらあんたの書き置きがあって泣きそうになった。断って家で寝てりゃ会えたのに」
「仕事は大事にしなさい」
「まあな。てか、大丈夫か? 最近忙しいんだよな?」
「うん、建国記念日の前だから。でも、いつもなら普通に会いにいけるはずだったんだ。今年はやけに祈祷が多くて……」
「ああ、客捕まえてあんたのこと聞いたよ。巷では、大司教様の幸運のお守りが大流行してるらしいぜ」
「……なぜ?」
「あやかりたいからだろ」
「あやかる? 何に」
「あんたに?」
「……え?」
「ちょっとした噂が流れてる。それも大した噂じゃないんだが、大司教様が最近やけにご機嫌らしいって。ご機嫌の原因は猫じゃねえか、恋人じゃねえか、銀河麦の豊作じゃねえか、なんて説は色々あるんだが、ともかく機嫌のいい魔法使いにかけられた祝福の魔法はいいもんだし、それが大司教様なら最高に決まってるって感じでお茶の間には伝わってるみたいで」
「……」
「人間と魔法使いの仲が良いからこんな話が広がるんだろうな。大司教様のハッピーにあやかろうって、老いも若きも、女男問わず大はしゃぎで教会の窓口に殺到してるらしい」
「なんだそれは……」
へなへなと膝の力が抜けた。身から出た錆だったとは。確かに最近の僕は多少浮ついていたかもしれない。
「まあそれはいいじゃん。散歩でも行こうぜ」
「え?」
ネロが僕の手を引いた。部屋の窓を開けると、箒を出す。
「前乗って」
ネロに引き寄せられて、箒に乗せられる。
「新鮮な空気吸ったほうが良いよ。顔が疲れてる」
「ネロ……」
ネロは横に座った僕の背中に手を当てながら、グランヴェル城の上空へふわりと舞い上がった。空気は澄んでいて、小さな肺から吐きだされた息が大気に散っていく。弧を描くようにしばらく飛んでいると、ちらりとフィガロ様の部屋の窓に立っている人物が見えた。
「もうお師匠様には見つかったな。……あ」
「ん?」
「最近、猫触ってる?」
「いいや」
誰かが猫を屋根の上に出したのだろうか。ネロは城の屋根の上に猫が丸まっているのを見つけ、すぐ側に降り立った。
「どうぞ?」
ネロは近くの屋根に腰掛けるとけだるく微笑んだ。僕は久しぶりの猫との邂逅に和んだ。最近、こういう時間は確かに取れていなかった。ネロの顔も見られたし、屋根の上に座っているとゆっくり心がほどけていく。見下ろす夜の街は光に溢れていた。それは生活の営みの灯火で、その中には魔法使いも人間もいて、一つの場にひしめき合って暮らしている。僕はそれがずっと続いて欲しいと思っていて、それはアレクと僕の願いで。僕もその光をともすのに、多少は役に立てているのかもしれない。などと、猫を撫でながらとりとめのないことを考えた。
「そろそろ戻ろうぜ」
「ああ」
ネロはまた僕を箒に乗せ、グランヴェル城の上空で大きく円を描いた。それから、部屋に戻るのかと思いきや、ゆるゆると箒の先を天に向けて上昇する。体が重力に引かれるので、魔法を使って落ちないようにした。
「諦めたほうがいいのはわかってる」
僕らは月の境界をなぞるように、円を描きながら上へ昇っていた。ネロの青い髪が風にたなびき、散らばる。
「でも、無理なんだよな」
箒に向かい合って跨ったネロは、また恥ずかしそうにはにかんで笑った。
「あんたの抱えてるでっかいもんのこと、俺は何も言えないけどさ」
箒は緩やかに上りつめて、真っ逆さまになりながら頂点を超えた。
「あんたが何者だろうと、あんたのことが好きだよ」
箒は半円を描いて降りていく。僕らの背景では城壁や街や星空や猫がどんどん移り変わって過ぎ去っていった。
「ネロ……」
箒はゆっくりとしたスピードで部屋の窓から中に戻った。
「ま、そういうわけだから。仕事が落ち着いたら店に来てよ。よければあんたのお師匠様も一緒に」
ネロは微笑んで僕の両手を握った。
「あんたが皆に愛されてるのも、大変な付き合いになるのもわかった。けど、でも……俺なんかで良ければ仲良くしてよ」
そして片膝をつくと、騎士みたいに僕の手の甲にキスをした。
「なんかで良ければって何だ。僕が好きな人のことをそんな風に言うな」
僕が涙ぐんで言葉尻に噛み付くと、ちょっと驚いたみたいだっだけれど、ネロは立ち上がって微笑んだ。
「ああ。ありがとう。それだけで十分だ。……そろそろお師匠様が怒鳴り込んできそうだから、じゃあな」
「うん。また会いに行くね。絶対、行くから!」
「待ってる! 会えて嬉しかった!」
ネロは箒に跨ると勢いをつけて窓から外に去っていった。もう忍び込んだことには気づかれているから、隠すこともなく堂々と出ていくのが好ましいと思った。愛おしい。胸の中が暖かくて、大事で大事でたまらなくて、でもどこか切なくて、これが俗にいう『きゅん』というやつなのかもしれない。
僕は、明日からもまた頑張ろうと決めて、鮮烈で、ふわふわしていて、いつまでも胸の中を優しく満たしてくれる今日の出来事を抱きしめながらベッドに入った。
***
「フィガロ様、もう諦めては?」
「うっ……うう……」
フィガロの部屋では、フィガロがレノックスにもたれかかって、嗚咽を漏らしていた。
「ねえなんなの? ちょっと箒で飛んで、猫撫でさせただけで帰っていったよ? たった十分やそこらのために城に強行突入なんてする? まともじゃないよ……」
「いい奴じゃないですか」
「怖くない? もっとさ、久しぶりに会ったんだからやることがあるじゃん」
「ありませんよ。同じ状況なら俺だってそうします」
レノックスは、わざと軽蔑のこもった視線でフィガロを見つめた。
「俺もわかってる……わかってるんだよ、もういいお年頃なんだって。でもさ……急すぎるよ。ずっと俺たちにべったりだったのに、そんな」
「そういうものですよ。むしろ親離れが遅すぎます。もうファウスト様も立派な爺ですよ」
「でもあの子に限って、って思うじゃない」
「俺は思いません」
「うう……どうしよ、たくさん意地悪しちゃった。怒ってるかな」
「怒ってるでしょうね」
「許してくれるかな」
「許してくださいます」
レノックスはフィガロの肩を抱きながら、穏やかに微笑んだ。
「長い付き合いなんですから。ファウスト様がフィガロ様を許さなかったことがありますか?」
フィガロは自身の無限の叡智を持って、愛おしい弟子との数百年のやりとりを全て思い出した。
「……ないな」
「だから大丈夫。……素直に、心から謝れば」
「険があるなあ」
「俺も少しだけ意地悪してみました」
「レノ……」
レノックスはフィガロに不器用なウィンクをした。
エピローグ
「もしも、僕が裏切られなかったら、か」
「きっとずっと中央の国にいて、幸せに暮らしてたんだろうなっていう想像。あんたはいい奴だからさ、ひねくれることもなく、呪い屋になるなんて考えることもなく、いい感じに素敵な人生歩んでたろうなって」
「…………」
「や、だって、なんであんたにそんなことすんだよっていう憤りはあるじゃん。あんたは本当に誠実で真面目なのに。だからたまに考えるんだよ」
「……そうか。何だか少し意外だ。君がそんな風に思うなんて」
「……ああ、ごめん、そんな想像してもしゃあないよな。俺があれこれ言っていい話じゃなかった。気を悪くしたなら謝るよ」
「いいや、してないよ」
僕は笑いながら首を横に振った。
「でも、そうだとして、二人とも賢者の魔法使いに選ばれて出会ったら……」
「出会ったら?」
「中央と北の魔法使いのままだとしたら、お互いこんな風に惹かれあうことはないんじゃないか、とは思う」
「そうかな?」
「違う? それとも、いつでもどこででも、僕らは出会えれば恋に落ちる?」
「え……そう言われると照れちまうけどさ」
そしてネロはベッドで隣に寝ている僕を抱きしめた。否定はしないらしい。
「でも辛い思いとかして欲しくねえし」
だんだんこちらも恥ずかしくなってきて、何も言い返せず体に腕を回して抱き返した。ネロの匂いが好きだ。優しくまるい、けれどどこか激しい匂いがする。魔法舎の自室では、夜が深まるにつれてネロの体温と僕の体温がゆっくり混じり合っていく。
僕はファウスト・ラウィーニア。東の国の魔法使いで、呪い屋をやっている。