春の夢 春まだ浅く、苫屋の粗末な壁や板目からは冷たい夜の寒気が忍び込む。禰󠄀豆子は寒さを凌ぐため掻巻の上に藁をうず高くかき集めて、中で小さく丸まった。まだ五つになったばかりの禰󠄀豆子にとって夜は物寂しく、恐ろしい。うまく朝まで目覚めなければいいが、手足の冷えや首筋に吹き込む寒風に目が覚めてしまうと、もう眠れない。下手をすれば部屋の暗がりに怯えながら、まんじりともせず朝を迎える羽目になる。
物心ついた頃から禰󠄀豆子は、優しい兄の炭治郎と二人暮らしであった。父の消息はしれず、母は幼い頃に亡くなったらしい。
炭治郎は日の出前から起き出して山で木を切り、それを炭に焼いて近くの里で売り歩く。大人でも大変な仕事を、兄は昔からひとりでやってきた。
普段は布団を並べて寝ているので、夜中に目覚めた時は兄の布団に潜り込んで温めてもらえるが、三週間に一度の炭焼き作業に入るとそうはいかない。
炭焼きは火加減が命だ。炭焼き窯の様子を確認しながら、三日三晩付きっきりで火の番をする。そんな訳で兄が炭焼き作業に入ると、禰󠄀豆子は一人で恐ろしい夜と対峙せねばならなかった。
あまりに怖い時は仏壇にある、母の形見の仏像を抱いて寝るが、金箔の貼られた像は身震いするほど冷たくて、やっぱり兄の温かい懐が恋しくなる。
だが我儘を言うことは出来なかった。禰󠄀豆子の為に必死で働いている兄の事を思えば、一人で寝るのが怖いなどと甘ったれた事は言えない。
その夜もあまりの寒さに目が覚めて、禰󠄀豆子は寝床で耳を澄ました。静かだ。夏の夜ならば虫の声や梟、鹿や猪達が鳴く声に慰められるが、真冬の夜は物音一つしない。積もった雪が全ての音を飲み込み、耳が塞がれたような沈黙が降りている。
「お兄ちゃん……」
藁と敷布で作った敷布団の上でちんまりと丸まり、悴む手に息を吹きかける。ジンジンと指先が痛んだ。
「……?」
ふと静寂の彼方から、雪をキュッ、キュッと踏みしめて歩く音が聞こえてくる。音の感じからすると、四つ足の獣だ。足音が軽いので、テンやキツネのような小型の生き物だろう。禰󠄀豆子が藁から首を出して様子を伺うと、その足音はだんだんと近付いて、家の戸の前でピタリと止まった。
息を殺して入り口を注視していると、カタリと音がして戸が細く開く。途端にひゅうと風が吹きこんで来て禰󠄀豆子は首を竦めた。すると再びカタリと音がして、戸が閉まる。
「えっ?」
禰󠄀豆子は驚いて上体を起こし、闇を透かして戸口を見た。
「あっ……!」
そこには淡く光る小さな獣が、ちょこんと前足を揃えて座っていた。ふっくらとした身体には所々、雪が光っている。それをぶるるっと身体を振って払い、四つ足のふくふくした獣は土間から板床に上がった。爪が固い板に当たり、チャッチャッと軽い足音をたてる。丸いお餅のような獣は、ほのかに光を帯びた狸だった。まん丸でつぶらな瞳、半円を描く耳、もっちりとした輪郭にゆらゆら揺れる太いしっぽ。体のどこもかしこも柔らかく丸みを帯びて実に可愛らしい。勝手に入って来た得体の知れない狸だというのに、禰󠄀豆子はおもわず小さく歓声をあげた。
「かわいい!」
「クゥ?」
まだ子供の狸なのだろうか、あざとく小首を傾げて鼻先をスンスンと鳴らす。ずいぶん人に慣れているようだ。禰󠄀豆子が恐る恐る手を差し出すと、子狸はその指先をふんふんと嗅いでから、すりっと頭を押し付けてくる。自分から撫でられに来た格好だ。
「たぬきさん、おいで……」
もっと触ってみたくなった禰󠄀豆子は、そっと呼んでみる。狸は言葉が分かるのか、てちてちと軽い足音をたてて枕元に寄ってきた。
「キュゥゥン……」
狸は禰󠄀豆子の寝床に入りたそうに、じっと彼女を見上げる。禰󠄀豆子が掻巻の襟元を持ち上げると、小狸は嬉しそうにするりと中へ入り、隣に丸まった。
「触ってもいい?」
「キュゥン……」
狸は小さく鳴いて、鼻先で禰󠄀豆子の顎や頬の辺りをちょんちょんとつつく。禰󠄀豆子はそっと手を伸ばして狸の頭を撫で、首筋や背中を摩った。ふわふわの毛は、撫でると驚くほど滑らかで気持ちいい。最初はただ撫ぜるだけだったが、次第に大胆になった禰󠄀豆子は、思い切って狸を胸元に抱き寄せた。ぽかぽかと温かな体温が心地よく、禰󠄀豆子は嬉しそうに狸を背後から人形でも抱くように抱きしめる。そして顎の下をこしょこしょと擽る頭の毛に、鼻を埋めた。干し草のような陽光をたっぷり浴びた優しい香り。それから焚き火をした時に漂う、香ばしい焦げた匂い。
「お兄ちゃん……」
思わず出た呟きに、腕の中の狸がビクッと身体を震わせた。丸くてお饅頭のような手の先をもにもにと動かして、何か慌てているように見える。
「あ、驚かせちゃってごめんね。狸さんの匂い、お兄ちゃんの匂いと似てるから思い出しちゃって」
言葉が分かるのか、狸はホッとしたように身体を弛緩させて、それからキュウと小さく鳴いた。そして慰めるように首を後ろに巡らせて、ツンと上向いた鼻先を禰󠄀豆子の頬に擦り付ける。寂しい禰󠄀豆子を慰めてくれているのだろうか。優しい気性の狸らしい。
「お兄ちゃんはね、私のために頑張ってるの。だから私もね、寂しいけどがまんする。狸さん、一緒に居てくれてありがと……」
腕の中の小狸はまるで小さな太陽だ。ほかほかと温かく、禰󠄀豆子の冷えた小さな手足に血を巡らせてくれる。突然やってきた得体のしれない狸なのに、何故か最初からちっとも怖いと思わなかった。兄に似た匂いと温もりが、心を和ませるのだろうか。あれほど長く冷たい夜が、ぽかぽかとした小狸の温もりに溶けて、静かに眠りの帳が降りてくる。
「ありがと……」
禰󠄀豆子はすっかり重くなった瞼を閉じた。薄れゆく意識の中で、小狸が寝床を抜けて去っていく足音を聞いたような気がした。
目が覚めると、部屋の中には麦粥の良い匂いが漂っていた。土間の方を見ると、煮炊き釜の所に立っている兄の背が見える。
「お兄ちゃん……?」
「おはよう禰󠄀豆子」
「おはよ……いつ帰ってきたの?」
目を擦りながら寝床を抜け出し、土間に降りて突っかけを履く。兄は水瓶から柄杓で桶に水を入れて手拭いを濯ぎ、禰󠄀豆子に絞って渡した。
「顔を拭いたら、ご飯にしよう。さっき帰ってきたばかりだ。一人でお留守番、偉かったな!」
そう言って禰󠄀豆子の頭をやさしく撫でる。フッと香ばしい匂いがして、一緒に寝ていた小狸を思い出した。
「あっ……!」
「ん? どうしたんだ?」
「わたし、一人だった?」
「…………ああ。誰かいたのか?」
振り返って寝床を見たが、小狸の姿はない。夢だったのだろうか。いや、あの温もりは夢じゃない。兄に似た匂いの温かな丸い体。あのふかふかの毛皮も、揺れていた尻尾も全て夢じゃ無いはずだ。
「にこにこしているけど、何かいい事があったのか?」
「うん、ちょっとね。ちょっと嬉しいことがあったの」
禰󠄀豆子は不思議そうな顔でこちらを見る兄に、詳しい事は告げずに微笑んだ。兄に昨夜の事を話したら、もう子狸が来ないような気がして、禰󠄀豆子はその後もずっと黙っていた。
あれから兄の炭治郎が炭焼きで居ない夜は、禰󠄀豆子の枕元を小狸が訪れるようになった。寂しさを我慢して眠る夜はなくなり、禰󠄀豆子は温かでふわふわな狸を抱きしめて眠るのが楽しみになった。
八つになると禰󠄀豆子は兄の炭焼きを手伝う為に、共に仮小屋で過ごすようになった。ひとりで眠る夜は無くなり、いつしか小さくて温かな小狸の事をすっかり忘れてしまった。
******
兄と二人、山奥で暮らす静かな暮らし。
炭焼きをしながら栗や木の実を拾ったり、野草や花を摘む生活は、ささやかな幸せに満ちていた。
いつかお嫁に行っても、なるべくこの山の近くの集落がいい。生母の眠る墓や、優しい兄の側にずっと居たい。そう切に願っていた彼女の日々は、十一になった年に急展開を迎えた。
年頃になった禰󠄀豆子の為に晴れ着をしつらえようと、兄と二人で少し大きな町へ出掛けた日のこと。
目元涼やかな若武者が兄と禰󠄀豆子を呼び止めた。都から来たらしい上品な身なりの男は冨岡義勇と名乗り、彼は二人を呼び止めた理由を語り始めた。
冨岡は主君より命を受け、十年前の戦乱の折に行方知れずとなった主君の愛妻と、一粒種の幼い姫君を探しているのだという。
兄は話を聞くとひどく真剣な面持ちになり、それ以上の詳しい話は場所を変えましょう……と言って、冨岡を二人の苫屋に案内した。
炭治郎は家に着くと板間にある小さな仏壇から黄金の本尊を、柳行李から赤児のおくるみを出して冨岡に広げて見せた。おくるみは上等な絹で織られており、裾に「禰󠄀豆子」と筆書きされていた。
「これは俺が禰󠄀豆子を見つけた時に、着ていたおくるみです」
「お兄ちゃん⁉︎」
「ごめん、禰󠄀豆子。今まで黙っててごめん」
兄の思いがけない言葉に、禰󠄀豆子は悲鳴のような声をあげた。いったい、何を謝るというのだろう。何故、そんなに哀しげな目でこちらを見るのか。
「お兄ちゃん……どういうこと……?」
「ごめん。俺はお前の本当の兄ちゃんじゃないんだ。森で倒れていた綺麗な女の人が、しっかり胸に抱いていたややこが、禰󠄀豆子……お前だった」
「えっ……?」
「お前の母さんは大事にお前を抱えたまま、亡くなっていたんだ。そのままではややこが死んでしまうと思ったから、俺が代わりに育てようとお前を拾った」
兄の赤みを帯びた、ガラス玉のような瞳が揺れている。そんなの嘘だ、真っ赤な嘘だ。そう思うのに言葉が出ない。何故なら禰󠄀豆子は誰よりも知っている——炭治郎はとびきり正直者で嘘がつけない。嘘を吐こうとすれば、あからさまに可笑しな顔つきになるのだ。目の前の兄は苦しそうな表情で、禰󠄀豆子を真っ直ぐに見つめている。その表情が、これは嘘ではないのだと雄弁に物語っていた。
「冨岡様は、都のやんごとなき方のお遣いと存じます。どうぞ禰󠄀豆子を、本当の家族の元へ連れて行って下さい。こんな鄙びた山奥に置いておくような娘じゃありません。どうか禰󠄀豆子に相応しい場所へ、どうか……!」
「お兄ちゃん! なに言ってるの⁈ 私は何処にもいかないよ! お兄ちゃんと一緒に、ずっとここにいる!」
「禰󠄀豆子!」
「……炭治郎、と言ったか」
冨岡は海のように深く澄んだ瞳で、炭治郎をじっと見つめた。長く旅を続けているのだろう、旅笠も草鞋もくたびれているが、身なりも立ち居振る舞いも洗練された都人だ。彼はにこりともせず真顔で、しかし意外に優しい声で言った。
「我が主の探しておられる姫君の名は禰󠄀豆子だ。面差しも奥方様を彷彿とさせる。何よりこのおくるみと、仏像が証明してくれるだろう。良ければ炭治郎、姫君を見つけた時の話を、御前で話してはくれまいか」
「それは……」
「姫もたった一人で此処を離れるのは心細かろう。兄と慕うお前が側に付いていれば安心だ」
「…………」
炭治郎は困ったような顔をして、禰󠄀豆子に顔を向ける。泣き出しそうな禰󠄀豆子の顔を見て、炭治郎は小さく息をついて頷いた。
「分かりました。では支度をしますので冨岡様は一旦、里へお戻り下さい。必ず、禰󠄀豆子を連れていきますので」
「承知した。藤屋という旅籠に居る。明日の朝には出立したい。来れるか」
「はい、必ず。日の出過ぎには」
かくして禰󠄀豆子は兄の炭治郎と冨岡と共に、花の都に帰郷したのであった。意にそまぬ帰郷ゆえに、籠の中では殆ど泣きっぱなしだったが、都に入るとあまりの町の美しさに驚き、涙を忘れて興奮した。
籠の御簾を少し上げて、壮麗な屋敷の建ち並ぶ大通りを盗み見る。今まで山と麓の里、そして十里ばかり離れた少し大きな町しか知らない禰󠄀豆子にとって、都は眩いばかりに素晴らしい場所だった。
禰󠄀豆子の父である貴人は、たいそう大きな屋敷を構えていた。禰󠄀豆子はそこで身を清められ、美しい着物を纏って髪を整えると、輝くように美しい姫となった。
「ああ……やっぱり、禰󠄀豆子は綺麗だなあ。俺はついにお前に、綺麗な着物の一枚も買ってやれなかった」
「お兄ちゃん……」
申し訳なさそうに眉尻を下げて、炭治郎は寂しそうに笑う。炭治郎自身も身なりを整え、若草色の直垂に黒袴を穿いた姿は、そのまま小姓でも勤められそうな初々しさがある。
「お前の本当の居場所は、やっぱりここだったんだな」
「そんな事ないよ! 私のお家はお兄ちゃんと暮らした、あの家だけだもの!」
「こんな立派なお屋敷があるのに、そんな事を言っちゃダメだ」
「でも……!」
「姫様、御前にお越し下さい」
襖の外から声がかかり、部屋の隅に控えていた女中達がサッと禰󠄀豆子の側に集まる。
「はい……」
禰󠄀豆子は名残惜しげに兄に視線を残しつつ、着物の裾を捌く女中達と共に部屋を出た。
初めて会う父は長年の心労が祟り、側付きの者が支えねば座って居られないほどひどく弱っていたが、禰󠄀豆子の顔を一目みるなりどっと涙を溢れさせた。近侍の者も上臈、女官達の中にも涙を流している者が数多おり、禰󠄀豆子の面差しに亡き母の面影を見ているのを感じる。父は衰えた手を伸ばして禰󠄀豆子を近くに呼びよせ、涙ながらに言った。
「そなたを迎えるまで十年……さぞや辛い思いをさせてしまっただろう……不甲斐ない父を許してくれるか……」
「父上……」
震える手を握り締めた瞬間、驚くほど自然に父上という言葉が出た。これが肉親の不可思議というものか。生まれて初めて会った相手であるのに、握った手のから伝わる情に禰󠄀豆子もほとほとと涙をこぼす。
いまや部屋に詰めかけた一族郎党、家来までも涙を流して親子の再会を見守っていた。
そして後から部屋に案内された炭治郎は、御前に座ると床に額を擦り付けるようにして平伏した。
「竈門炭治郎と申します。この度はお目通り叶いまして、恐悦至極にございます」
まだ年の頃は十二、三か、白桃の如き頬の愛らしい少年である。一同は禰󠄀豆子を連れてきた彼の話を聞こうと、熱心に耳をそば立てた。
夜明け前の暗い森を、ややこの泣き声を頼りにひた走ったあの日のこと。見つけた時にはすでに事切れていた、禰󠄀豆子の母の最期の様子。そして禰󠄀豆子と共に暮らした十年の暮らしをすっかり語り聴かせると、一同は感涙に咽び、嗚咽も憚らず泣き出す者もいた。
禰󠄀豆子の父は傍らの禰󠄀豆子の肩を大切そうに撫で摩り、「そなたは御仏のお導き下さった、御使いの童子に違いない。金子でも玉でも欲しいだけ望みを言うが良い」と尋ねる。しかし炭治郎は透き通るような儚げな笑みを浮かべて静かに首を振った。耳元の花札のような飾りが、カラカラと音を立てる。
「いいえ、お金も財宝もいりません。禰󠄀豆子との十年は、俺が望んだ事です。本物の家族に禰󠄀豆子をお返しできた、それだけでもう俺は十分です」
「なんと無欲な! それではせめて、この屋敷で暮らしてはくれまいか。そなたはまだ幼い。この屋敷におれば、衣食住に困る事はない。学びたければ漢詩でも和歌でも教えよう。どうか娘の為にもずっと我が家へ留まり、幼き日の娘の話を聞かせてはくれまいか」
「…………」
炭治郎は申し訳なさそうに俯き、暫く黙り込んだ。禰󠄀豆子は不安そうに兄を見つめる。何故、兄はすぐに返事をしないのだろうか。綺麗なお屋敷も、美味しい食べ物も、贅沢な着物や簪も、兄が側に居てくれないならば、ちっとも嬉しくない。
「お兄ちゃん……?」
「少し……考えさせて頂けますでしょうか」
炭治郎は穏やかに微笑み、再び丁寧に頭を下げた。
「そうか! ならばまずは宴じゃ! 祝いの支度をせい!」
主人のひと声で屋敷中の者がワッと湧き立ち、大喜びでご馳走や酒樽が運ばれてくる。その賑やかな様子を、兄は目を細めてニコニコと眺めていた。
誰もが笑顔に満ちて浮き足立つ中、禰󠄀豆子はただ一人、一抹の不安を感じて兄の横顔を眺める。その真意は汲み取れないが、硬い決意を胸に秘めている事は容易に想像がついた。
おそらく兄は——自分を置いて去ろうとしている。
それが何故なのか分からないが、禰󠄀豆子は拭い切れない暗い予感に震えた。
その夜のこと。盛大な宴は夜更けまで続いたが、まだ幼い禰󠄀豆子と炭治郎はたらふくご馳走を食べ、それぞれ寝所を与えられて床に就いた。
長旅の疲れですぐに眠れると思っていたのに、何故か目が冴えて眠れない。禰󠄀豆子は真新しい、い草の香りのする畳敷にふわふわの敷布を敷いた寝床で、寝付けずに何度も寝返りを打った。
柔らかくいい匂いのする寝具、一本木を使った艶のある柱や節目も美しい壁、見事な襖絵も欄間の透かし彫りも素晴らしい。こんな立派な部屋で高級な寝具にくるまれて眠るなんて、却って落ち着かない。
ほんの数日前までは兄と二人、苫屋の板敷に藁を集めて作った寝床で寝ていたのだ。世界が違いすぎて、落ち着かないのも無理はないだろう。
禰󠄀豆子は寝床の中で目を閉じて一日を思い返した。
初対面にも関わらず温かく接してくれた父や一族の人々、そして十年も自分を探し続けてくれた冨岡や家来達の事を思うと、自分はここで暮らすべきなのだと分かる。だがやはり、兄と離れるのは寂しい。今までこの世にたった二人の兄妹と思い、助け合ってきた兄と別れたくない。
なぜ兄は一緒に暮らそうという父の提案に、乗り気では無いのだろうか。これまで鞘に入った豆のように、片時も離れず暮らしてきたのに。
切ない想いに涙が出そうになった時、カタリ……と音がして、小さく襖の間口が開いた。
「あ……!」
それは、いつかの日に現れた小狸だった。
丸っこいふわふわの体でトコトコと禰󠄀豆子の元へ歩み寄り、つぶらな瞳でこちらを見上げる。
「たぬきさん! おいで……」
手を伸べて寝床に招くと、柔らかく温かな体がさっと禰󠄀豆子の傍に入ってくる。その小さくふわふわした体を抱きしめると、心底ホッとした。
「久しぶりだね。お前、どうやってここまで来たの?」
フキュウ……と小さく鼻を鳴らして、小狸は禰󠄀豆子の顎の下に額を擦り付ける。
(やっぱり、お兄ちゃんの匂い……)
この狸はやっぱり兄と同じ匂いがする。まさか兄がこっそり飼っているタヌキなのだろうか。それにしても不思議なのは、あれから何年も経つのに、体の大きさがまったく変わらない事だ。普通の狸なら一年もあれば成獣するのに、この子は出会った時のまま小さな子供の狸だ。まさか大きくならない、特別な狸なのだろうか。
「不思議な子……」
その毛並みは撫でると艶々と心地よく、赤みがかっている。ぽかぽかと心地よい温もりに誘われて、あっという間に目蓋が重くなってきた。意識がぼんやりと溶けていく。
(やっと眠くなってきた……)
いつかの夜のように穏やかな温もりを抱えながら、優しい眠りの淵に沈みゆく禰󠄀豆子の頭を誰かがそっと撫でた。
(お兄ちゃん……? 違う……これは……)
髪を撫でているのは、しっとりした肉球の小さな手だ。腕の中の狸が起き上がり、人間のように禰󠄀豆子の頭を撫でているのだ。
「ごめんな、禰󠄀豆子。いつかこんな日が来ると覚悟していたけど……やっぱり辛いなぁ」
パタパタと雨が降る音がする。いや、雨じゃない。熱いこの雫は——涙だ。涙が寝具に落ちる音だ。
「俺みたいなのが側にいたらダメだ。もし正体がバレたら、お前に迷惑がかかってしまう。……だから、ごめん……ごめんなぁ」
(お兄ちゃんの声……なに……? 迷惑ってなに? 何を言ってるの?)
優しく穏やかな兄の声が、すぐ側で聞こえる。何か話しているけれど、眠くてよく分からない。眠気に抗おうとするが、旅の疲れがどっと押し寄せて目を開けていられなかった。
「幸せにおなり、禰󠄀豆子」
(……お兄ちゃん?)
朦朧とした意識の中で懸命に薄く目を開けば、小さな小狸が短い手足で人間のように立っていた。耳には兄と同じお日さまが描かれた耳飾り。兄がよく着ていたような緑と黒の市松模様の小袖を着て、腰のあたりを帯で締めている。そのずんぐりとした体つきが愛らしくて、禰󠄀豆子は思わずふふっと微笑んだ。
「寝ている時の顔は、小さい頃と変わらないなぁ」
不思議な夢だ。兄が小狸姿で、禰󠄀豆子の側で涙を浮かべて笑っている。禰󠄀豆子は小狸に手を伸ばそうとして——そのまま優しい眠りに引き込まれた。
翌朝、目が覚めると屋敷の中が騒然としていた。身支度を整える間も、お付きの侍女は何かを隠すかのようにぎこちない笑みで矢鱈と話し掛けてくる。
禰󠄀豆子は確信めいたものを抱いたまま、兄の泊まっている部屋を訪れた。そこには冨岡義勇と、数名の侍女が居て、部屋の中を改めていた。
「禰󠄀豆子様……!」
侍女達が青い顔で寄ってくる。
ああ、やはりそうだと禰󠄀豆子は悟った。
「兄は……行ってしまったんですね」
「申し訳ございません。昨日は一晩中宴が続いて屋敷の者も皆、起きていたのですが……いつの間にか居なくなっておりまして。今、辺りを数人で探していますが……」
「見つけるのは難しいでしょう。兄は、昔から足が早かったですから」
禰󠄀豆子がそう答えると、冨岡は手にしていた幾つかの書状から一つを取り出して、禰󠄀豆子に差し出した。深い湖のような青い瞳が、静かにこちらを見つめている。無表情だが、禰󠄀豆子を心から心配しているようだ。
「炭治郎からの、置き手紙です」
「ありがとうございます……」
兄はどこで学んだのか、上手に字を書いた。禰󠄀豆子にも教えてくれたし、筆豆で良く日記や手紙を書いていた。禰󠄀豆子が手紙を貰うのは、初めてだったが。
畳まれた手紙を開き、兄の筆跡を見た瞬間、堪え切れずに涙がぼたぼたと溢れた。
(お兄ちゃん……!)
兄は行ってしまったのだ。もう逢えない。
手紙を見た瞬間、はっきりと実感して涙が止まらなくなった。
「禰󠄀豆子さま……!」
侍女達が集まり、涙に暮れる禰󠄀豆子を優しく守るように抱きしめてくれる。自分の居場所は、ここなのだ。兄とはもう、一緒に居られないのだ。
禰󠄀豆子の脳裏に、昨夜の夢の名残が甦る。
兄の姿をした可愛い小狸が、山道を生き生きと駆けていく姿が浮かぶ。どこまでも、どこまでも。
夢みたいな話だ。誰も信じてはくれないだろう。
だが禰󠄀豆子はあの小狸が、本当に兄だったのだと信じている。あの温もりもふわふわの手触りも、淡い春の夢ではなかったと信じている。
(お兄ちゃん……!)
夢の名残を洗い流すかのように、涙は流れ続けた。
(了)