【FE覚醒】いとしき望んだ世界の子 一人ぼっちにはなりたくない。
それが、少女が口にした悲痛な叫びだ。
ぱちり、ぱちり。
数度、彼女はその大きな瞳の開閉を繰り返す。視界が一度黒に染まり、そして再び空を映せば、桃色の睫毛が揺れていった。
横たえていた体を起こし、周囲を見渡す。
広がる空は、青くはない。
新緑の生い茂る大地もどこにもない。
枯れ果て、痩せこけた、悲しい色をした世界。
それを視界に収めながら、少女は何を思うでもなく。ただ茫然とその場に佇み続けるのだ。
神竜ナーガの声を聞いた。
それは、遠いようで、つい先ほど彼女が経験したばかりの出来事である。湧き上がる数多くの屍兵と戦い続け、命からがら生き長らえることを日常としていた世界にやっと見出す事のできた光明。それは、神竜ナーガに対してやっとの思いで捧げる事のできた、覚醒の儀のことである。
『お前は、ここでルキナを守れ』
儀式を行うまでの道のりにおいて、そう言い残すと仲間たちと共にペレジアへと発って行った兄の後姿があった。彼女は今でもそれを容易に脳裏に描き、思い返す事ができる。
神竜の覚醒には五つの宝玉と炎の台座が必要不可欠だ。そう告げたのは少女とその兄が故郷とする大陸で祀られていた、神竜の巫女という存在だっただろう。
彼女の言葉が希望を掴むための布石になる。
戦士たちはそれを信じ、二人の少女をイーリス城へと残す事を決めてしまうと、屍兵が闊歩し、もはや人が住まう事ができなくなってしまっているペレジアの首都へと足を進めていったのだ。
『私、マークが羨ましいです』
覚醒の儀式を執り行う少女は、先代の聖王の娘だ。彼女には血を分けた兄弟も、同じ祖父母を持つ従弟もいたのだが。英雄王の血を色濃く継ぎ、イーリス王家に古くから伝わる宝剣ファルシオンを自在に操る事のできる王族は、世界で唯一ルキナという少女だけである。邪竜に対抗するための素質を父から色濃く継いだ彼女の姿は、神竜ナーガの子となるべき儀式を行うに最もふさわしい素質を抱いていたのだろう。
そんな王族である彼女と会話をする機会には、意外にもそれ程恵まれてはいなかった。少女―――マークにとってルキナという存在は、父親同士が半身とも言い合うような仲にあり、少女の兄と彼女の仲もそれなりには良好であったのだから、どちらかと言えば近しい距離にあったはずであるというのに関わらず、だ。
マークの兄は中々気難しい性格をしていたものであるのだが、王族であるという彼女に対する彼なりの敬意か、それともはたまた男女という垣根の中に芽生えた感情でも抱いていたのか。彼はとにかく、ルキナに対して甘かった。
その証拠に、イーリス城であれば屍兵の魔の手もさほどは伸びていないのだから、マークも本来ならば、より厳しい戦いが予測される軍勢の中にその名を連ねても良いはずであるというのに。わざわざ、その姫を守るためにこの場に残れと兄は告げるのだ。もしかしたら、それは妹を危険なところに連れていきたくはないという兄としての願いであるのかもしれないが。どうしても、マークはそれを素直に受け取る事ができなかった。
幼少の頃から兄を知る人間として、不器用な優しさを見せてくれる彼の事は大変好ましく思っていたのだが。そんな兄が彼女に取られてしまうような心地がしたとでもいうべきだろうか。とにかく、嫉妬に似た思いをマークがルキナに対して向けていたことは疑いようのない事実である。
楽観的で裏表のない明快な性格をしている。
そんな評価をマークが受ける事は多かったが、それはあくまで外観上の問題だ。実際はとても心が狭く、兄に依存をしてばかりの幼い少女であるという事を、彼女自身はよく自覚をしている。
そんな彼女に、羨ましいという言葉をルキナは突如として告げたのだ。両目の開閉を幾度か繰り返し、どうしてですかとマークは問う。彼女の敬語は、癖のようなものだ。流石に兄に対して砕けた物言いをする事は多々あれども、戦士達の中でもマークは群を抜いて年若く、周囲は年上ばかりであったのだから、それが染みついてしまうのも仕方のない事であったのだろう。
『貴方には、頼れるお兄さんがいるじゃないですか。だから、羨ましいなって』
『ルキナさんにも、御兄弟はいらっしゃるでしょう? ウードさんたちの事は、頼れないっていうんですか?』
『いえ、そういうわけじゃないんです。ただ……マークはジェロームを見送る時に、彼ならば大丈夫だって、そう信じた目で見送っていたように思ったので』
私は、妹ではなくて姉なのに、こうして彼らを送りだして、この場所に残らないといけないから。あの子たちが無事に帰ってくることができるのか、姉として心配で仕方ないんですよ。
苦笑を零すルキナの表情は、思ったよりも幾分か柔らかいものである。もっと、使命感だとか、責任だとか。そういったもので押しつぶされそうになった苦悶を浮かべているものではないかと。嫉妬と同時にマークが抱いていた心配事はどうやら杞憂であったらしい。
『……別に、私だって不安がないわけじゃないですよ。でも、兄さんが私に約束をしてくれたので、私はそれをただ信じているだけなんです』
『約束、ですか。ジェロームが、貴方に?』
『はい! 宝玉と炎の台座を手に、全員で帰ってくるから。お前はルキナをしっかりと守れ、と。そう言っていました。……意外かもしれませんが、兄さんって一回も、私との約束を破った事がないんですよ』
だから、私は兄さんの妹として、こうして良い子にルキナさんとお留守番をして、兄さん達の帰りを待つんです、と。努めて明るい口調で告げたマークの姿に、小さな笑い声をルキナは発した。
妹思いの、優しい人なんですね、と。ジェロームに対する認識をどこか改めたような言葉を彼女が口にしたのを耳にして、兄さんはいつも貴方に対して優しいのに、と。どこか不服な感情を抱きつつも肯定のために頭を縦に傾けた日が懐かしい。
その言葉の通りに少女たちの兄弟が宝玉と炎の台座をその手に翳し、イーリスの大地を再び踏みしめて再会の喜びを分かち合う事ができたのは、それから間もなくの話である。
ただ、五つの宝玉のうち緋炎と呼ばれた一つが失われていた状況で強行した覚醒の儀では完全な神竜の力を呼び起こす事は叶わず、巫女が告げた手段とは異なる算段で邪竜への対抗を試みる事になってしまった。それこそが、時空を渡った少年少女達にとっては過去に相当する世界の中で健在である両親たちと共に戦い、邪竜の復活を妨げる。ないしはその存在を完全な神竜の力の復活によって封印するという算段である。
迷いや覚悟を抱く猶予さえもが許されないままに、世界の命運を賭けた賽は投げられた。儀式によってナーガの子となった少女が下した決断は、目の前に掲げられた選択に対し、自分たちへと科せられた運命に、最後まで抗う意志を示したものだ。
光の渦。それこそが時空を超えるための門そのものだと神竜ナーガは語る。
人の子よ、と。各々の武器と親の形見を手に持ち、時空を超えた戦いへと今赴こうとしている戦士達に、彼女は言葉を紡いでいく。万能でも、万物を司るでもない存在が、不完全な力を用いて時空を超える禁忌を犯すのだ。決して、皆が同じ時代の同じ場所へと辿りつく保障はどこにもなく、到着する時代や場所にはどうしてもバラつきが生じてしまう。そんな忠告を耳にしたとしても、やはり彼らの決意は鈍らないままである。
一人、そしてまた一人と。過去の世界での再会を約束し合い、その足を光の渦の中へと進めていく。戦士たちの後姿を見送りながら、マークは父の遺品ともいえる戦術書を強く握りしめ、その存在を確認すると。一歩、光に向かって足を進めようとした。
その途端に、自身の髪に何かが掠めた気配を感じ取り、顔を上げて振り返った。まだ幼い双眸は、彼女の兄が大きく武骨な掌でもって自身の頭を撫でる光景を映し出す。思わず笑みを浮かばせつつ、鉄仮面に覆われているために一切の表情を見せてはくれない兄の名を言葉に発すれば、数少ない表情の変化を見せてくれる口元は小さな弧を描くのだ。
『どうしたんですか?』
『……お前は、怖くないか?』
髪を優しくかきなでるばかりで、言葉を紡いでくれなかった彼に向かって怪訝そうに問いかければ。ようやくそんな言葉が彼の唇から零れてきてくれた。恐る恐るといった形で問いかけられたそれに対し、マークは、怖くはないですという即答を返す。
世界に対する救済が、成功するかしないかも分からないというのに、未知の時代へと足を踏み入れなければならない現実。不安があるかと問われれば、正直な話、不安だらけで仕方がない。それでも怖くはないと胸を張って言える理由を、彼女は胸を張って答える事ができるのだ。
『だって、兄さんが一緒にいてくれるんですから』
だから、私は大丈夫です。
真摯な瞳を向けながら言葉を告げる妹の姿。それは、兄の目にはどのような存在として映っているのだろうか。優しかった手付きが少し乱雑になったのは、妹に真っ直ぐな好意をぶつけられた兄がよく取ってしまう照れ隠しの術である事を、長年の付き合いで彼女は十分に理解をしている。ぼさぼさになった髪を気にかけることもなく、えへへと嬉しそうに笑うばかりだ。
父の姿を追いかけたマークとは対照的に、兄が追いかけたのは母の姿だ。もしかしたら、兄が母を追ったからこそ、妹は父を追いかける事を目標としたのかもしれない。
戦術書を何よりの宝と口にする彼女のように、ジェロームにも母から受け継いだ宝というべき物を幾つか所有している。一つは、彼の指にはもうすっかり小さくなってしまったために紐を通して装身具の類として肌身離さず所持している母の指輪。そしてその他には、母が幼少の頃に出会い、兄妹にとっては三人目の親のような存在でもある飛竜自身と、彼女のために誂えられた手綱の類がそれに当たる。
指輪の存在を確認すると、先程まではマークを撫でていた彼の手が、今度は飛竜の鱗を撫でた。ミネルヴァ、と。兄がその名を口にすれば、彼女は静かな嘶きを響かせる。仮面に覆われて見えないはずであるのに、兄の瞳がどこか寂しげな光を秘めてしまっているような気がして、不意にマークの表情には陰りが差した。
『……あの、兄さん。それでもですね、約束をしてくれませんか?』
『約束?』
『はい。過去の世界でも、再会を交わそうって。ナーガ様が危惧してらっしゃったみたいに、もし離れ離れの場所に辿りついても。違った時代に飛ばされてしまっても。それでも、また会おうって。約束してください』
そうしたら、私。何も怖くはありませんから。
紡がれたマークの言葉に、ジェロームが返すのは苦笑ばかりだ。
『なんだ、結局、怖かったんじゃないか』
揚げ足を取る彼の言葉に、マークが膨れっ面を呈するよりも先に。白く、小さな指先を兄の手が掠め取って行く。
『皆と合流できていれば話は別だが……、私が一人でいるとするのなら、きっと飛竜の谷で待っている』
だから、あまり道に迷いすぎるなよ、と。どこか茶化した言葉を告げながら、優しく手の平を握ってくれた。
彼の手を覆う布越しに、少し低い体温がしっかりと伝わってくるのを感じ取り、マークの表情にはどこか緊張が解けたような朗らかな笑みが浮かびあがる。兄とこうして手を繋ぐのは、一体何年ぶりの事なのだろう。幼い頃はよく、兄を慕った少女として、寂しがりやの少年という面影を色濃く残した兄として、それをしていたものであるのだが。ここ暫くは、そんな体験など経てはいなかった。
互いにその手を解くではなく、繋いだままに光の渦へと歩みを進めて、時空を超える門の中に身を投じる。
湧き上がる光と風に包まれ、小さな悲鳴を上げたと同時に互いの手の平は離れてしまう。それでも、約束があるのだから怖くはないと。それを言い聞かせ、光の赴くままにその身を委ねていたマークが薄く瞳を開いた時。それを機に、彼女の身には深い恐怖が襲いかかってくるのだった。
網膜が焼けるような眩い光の中、微かに映り込んだのは同じく光に包まれて遠い場所へとその身が運ばれていく兄達の姿だ。
彼らは皆、一様に同じような場所にいるというのに。少女の瞳に映る彼らの姿は、どんどん小さくなっていく。自分はもしかしたら置いて行かれているのではないだろうか、と不安を抱いた時。ぐんと、何かが背を掴み、力強くその姿を引っ張った。
ジェロームや、ルキナ。言葉を交わした記憶のある戦士たちの姿は、前へ、前へと進むのに。マークは一人、その出発地点に程近い所に取り残されてしまったままである。
恐る恐る背後を振り向けば、不気味な六つ目が笑っていた。
『……待って下さい、兄さん、皆!』
嫌です、私、一人ぼっちなんて!
あざ笑う瞳を振り切ろうと、悲痛な叫びを込めて叫ぶが、それが誰かの耳に届く事はおそらく叶わないのだろう。仮に、届いてくれたとしても。今更彼らがこの空間を逆行し、助けにきてくれる事はないはずだ。短すぎる腕を必死に伸ばしたところで、当然彼らの姿に届く事も有り得ない。
六つ目の視線から逃れるように、痛いとも、熱いとも、どちらとも取れる瞳をゆっくり瞑れば、乾いたそれに涙がゆっくりと染みわたっていくのを感じていった。
光に身を委ね、少しでも彼らの存在に近い場所へと辿りつく事。真っ暗闇になった視界の中、マークが唯一出来る事といえば、ただ静かにそれを祈り続けることだけである。
――眩しすぎる光景をようやく通り過ぎた後に彼女が瞳に映した光景は、あまりにも悲しく、辛い現実を反映したものであったのだった。
「……ジェローム、兄さん……?」
恐る恐る、マークは最愛の兄の名を紡ぐ。返事が降ってくることはなく、枯れた木々が風に揺れてざわめく音が鼓膜に響いた。
幼少の時―――両親が存命であった頃に、マークが胸に刻み込んだ記憶。
それはとてもおぼろげなものではあったものの、緑に囲まれ、青空の広がる、彼女達が生きてきた世界と比べて幾倍も長閑な風景を抱いたものであったはずなのだが。今、その瞳に映る景色は、自身の知るものと何ら変わりのない光景ばかりである。絶望に塗れ、滅びを間もなく迎えようとしてしまっている。そんな悲しい世界の姿だ。
「ここは……過去じゃ、ありません……よね?」
それが何であるかは分からなかったが、脳裏にこびりつくようにして残った六つ目の姿を思い出し、無意識に彼女の体は震えあがった。信じたくはない現実を受け入れるために、自身が置かれた状況に対する可能性の一つを口にする。
「ナーガ様の試みは、失敗した……という事でしょうか」
たった一人、自分だけがあの不気味な瞳の力で残されたのか。
それとも、同様に瞳に捉えられ、この時代に残された人は他にもいたのか。
はたまた不完全なナーガの力による時空の移動は失敗に終わり、全員が取り残されてしまったのかもしれない、と。
様々な憶測を描いていれば、突如として獣の咆哮が耳を劈き、思わずマークはその身を震わせた。
幸い兄を始めとした仲間とは離れてしまったものの、戦術書と魔道書、それから剣は彼女の手元に残されたままだ。それを確認すると立ち上がり、衣服についた砂埃を払う。もしもこの世界がマークの知る物と同じ場所であるというのならば。屍兵が何時地面から湧き上がり、その刃を彼女に向けるのか、戦術に関するあらゆる知恵を有したところで予測をする事が困難な世界であるはずなのだ。
そんな世界で、ただ茫然と立ち尽くす事が危険極まりない行動であることくらい、彼女は当の昔に知っていた。
「(兄さんは、飛竜の谷で待つと言っていました。だったら……兄さんもこの場所に渡っているのなら、きっとヴァルムに、飛竜の谷に……)」
目指すべきところは決まっている。
それならば、まずは自身がどこにいるのかを確かめて向かう方角を決める必要があるのだろう。西の大陸と東の大陸。渡るべき所は西に位置するヴァルム大陸であるのだが、今はどちらの大陸に身を置いているかすらもが分からない。
宛ても無い道のりを、ただ只管に歩き続ける事。
自身が選択をできるこれからの行動は、目下のところそれしか見つからない。どうやら現実は自身が思うよりも険しい物であるらしい、と。悲観に暮れる暇さえ抱けないままに、彼女は見果てぬ地平線に向かってその重たい足取りを向け始めるのだった。
* * *
「……あれ、ここって……。」
なんとも虫の好い話ではあるのだが。自身の瞳に映る光景に、幾度かマークは瞳の開閉を繰り返す。
彷徨い続けた足が見つけた街道は、枯れ果てた木々と獣の死骸で荒らされてはいたものの、それを彼女がよく知る道であると直感的に思わせたのだ。
自身を信じて歩みを進めれば、廃墟の間から未だ荘厳な外観を保ったままである城の姿が見える。石畳に囲まれたその場所を彼女が見誤る事は、恐らく有り得ない事だ。
長らく戦いの拠点と定め、神竜ナーガの覚醒の儀を行うために虹の降る山へ向かう際に発った居城、イーリス城。それが見える場所へと、ようやく彼女は戻ってくる事ができた。
少し寂れた城下町には、人の姿が見受けられる。思わず安堵の息を吐いたのは、久方ぶりに人の姿を見られたからだろう。情報の収集も兼ねて彼らの会話に耳を欹てれば、その言葉は屍兵の存在に関する陰気な話題で持ち切りだ。
ここもいずれは屍兵に襲われてしまうというのならば、早く城の中に退避をした方がいいのだろうか。古来の英雄王の名を借りた剣士は、今もどこかで闘っているのだろうか。人々の不安が更なる不安を呼び、英雄に縋る思いを綴った言葉ばかりが至る所で語られている。
英雄王の名を借りた剣士。それは恐らくルキナの事であるのだろう。
彼女が両親から授かった名は確かにルキナであったのだが、世界を救う希望の象徴として、マルスという名を願掛けとして抱きながら剣を振るう事を彼女は選択していたはずだ。それならば、やはりこの世界はマークが生まれ育った時代そのものであるのかもしれない。
可能性を抱いた彼女は深い溜息を吐くのと同時に、城の姿をじっと見つめる。時間が遡っても、進んでもいないというのならば、誰か見知った顔が城の中にはあるのかもしれない。兄の姿も例外ではなく、そこに居るのかもしれない、と。それに向かって、淡い希望を抱くのだ。
ヴァルム大陸へと向かうのは、イーリス城で彼らの行方を確認した後でも十分だ。それを自身に言い聞かせると、その歩みを城へと向け始める。
その最中、突如として薄暗い日の光がより一層色を落とし、闇が周囲を包み込んだ。厚い雲が見えた記憶はなかったのだけれども、と。不思議に思いながらも空を仰ぎ見た後に、映り込む景色に驚愕し、それから歓喜の声を彼女はあげる。
「ジェローム兄さん!」
漆黒の鱗を纏った飛竜と、それを操り大空を舞う騎士の姿。
少女の唯一の家族で、強く焦がれた存在達は空を駆け、大地に向かって陰を落としていった。彼女の声が聞こえなかったのだろうか。竜騎士は、地表に向かって一瞥を向ける事すらしてくれない。それでもその存在を確認できたことは、マークにとってはあまりにも十分すぎる幸福だ。
嬉々とした表情を隠すでもなく、その飛竜が頭を向ける場所。すなわちイーリス城へと向けて、彼女は疲労も忘れて走りだす。
兄との再会を果たせるという喜びばかりが、今の彼女の原動力と成り得ていた。
神竜ナーガの試みは、結局のところどのような形でマークや世界に働きかけたのだろうか。
明確な答えを知らない彼女には、遠くに見える兄の姿が長らく共に支え合い続けた人そのものであるのか、それとも少しだけ時間を遡った先の彼であるのかさえ分からない。しかし、それは彼女にとってさして重要な事であるようには思えなかった。
兄がそこにいて、自身を妹として認めてくれて。共に居る事が、戦う事が叶うのならば、それだけでよいのだ。
家族という温もりと、居場所を与えてくれるその存在が傍にある事。それこそがマークの望みであって、どんな絶望に対しても折れる事のない心を持てた理由で、力そのものであったのだから。
「兄さん……、兄さん!」
城の門を潜り抜け、幾度も彼の姿を呼ぶ。
人々の目には、少女の姿が奇異なものにでも映ったのか。多くの視線が彼女へと向けられる事になったが、マークがそれを気にする素振りは無い。
イーリス城の勝手なら、知り尽くしているつもりだ。ルキナの父が空けてしまったと噂話で耳にした城壁の穴を潜り抜け、極力最短の道を通るように努めながら、恐らくジェロームがミネルヴァを繋ぐために向かうであろう獣舎に向かって駆け抜ける。
飛竜の嘶きが、耳に届いた。
それだけで少女の口元には深い笑みが浮かんでしまう。
辿りついた獣舎の中に、飛竜の鱗を撫で、どこか穏やかな表情を浮かべている青年の影が見えてくる。それこそが長らくマークが会いたいと願い続けた存在そのものだ。
兄さん、と。彼女が呼んだ声に対して、彼の瞳がマークに向けられる事はない。今回も、声に気が付いてくれなかったのだろうか。怪訝に思い、足を進ませる。飛竜が少女の気配を感じ取ると、僅かに身じろぐようにして首を擡げた。
「……兄さん!」
彼へと近づき、もう一度その存在を呼びながら。その身をめがけて思い切り飛びつき、両の腕を彼の体に向かって回す。会いたかった、と。どこか震える声色を含ませてマークは思わず感極まり、それを零してしまうのだが。それに対して青年は、驚きこそは表情に浮かべていても言葉を発する事はしてくれない。妹の名を口にする事も、桃色の髪を優しく撫でる事も。再会を喜ぶ声も、苦労をねぎらう言葉の全てを彼は紡いでくれはしない。
それどころか、彼の唇がたっぷりの沈黙を挟んだ後に告げた言葉は、マークが望んだものとは全くかけ離れた、彼女にとって想像のしがたい現実を伝えるものだった。
「……誰だ、お前は……」
抑揚のない冷たい声。妹という存在に向かって、困惑と怪訝を隠そうともせずに、ジェロームはそれを向けてくる。
仮面に隠された瞳ではあったが、自身に向けたそれは鋭く、僅かな敵意でさえも含ませている事に気が付いて、マークは思わず竦みあがってしまうのだ。
「え……あはは、冗談キツいですよ、ジェローム兄さん。可愛い妹の顔、忘れてしまったんですか?」
両手の指先を、頬に向かって押し当てて、笑みを浮かべた。
努めて明るく、普段の調子と何ら変わりのない姿で振舞おうとしたのは、そうでもしないと冗談にしてはずいぶんと残酷なその言葉に、ぼろぼろと双眸から涙を零し、みっともなく泣きだしてしまうだろうという事が分かっているからだ。
告げられた言葉の衝撃に、今すぐにでも嗚咽を漏らしたい心地を必死に堪え、彼に向かって問いかける。
敵意こそは薄れていても、依然としてジェロームの視線の冷たさは変わらないままだった。
やっとの思いで見つけた兄の姿は、妹を孤独から解放してくれるはずであった彼の存在は、言葉の刃でもって逆に恐怖と絶望のどん底へと彼女の姿を突き落すのだ。
「私のこと、知っていますよね……?」
問いかけた言葉は、半ばジェロームに対してマークが乞い、縋るようなものだ。嘘でもいいから、知っていると言ってほしい。それを願わずにはいられなかったが、仮面の男は沈黙を貫き通すばかりである。
妹の存在が、忘却の彼方にある世界。ナーガの力で降り立った場所は、自身が生まれ、育ち、旅立った場所とは良く似て非なる場所であるらしい。彼女はようやく自身が招かれた世界の現状の片鱗を理解すると、絶望の淵へと暮れてしまう。
「……貴方は、ジェロームさんですよね。私、マークって言います。貴方の、妹です。……私のこと、知りませんか。知らないんですか?」
「マーク……? ……確かに、私はジェロームだが……妹がいたなんて記憶は一切ない」
頭でも打って、記憶が混濁しているんじゃないか?
流石に、自分を知らないかと、私は貴方の妹だと、必死に訴える少女の姿が可哀想にでも思えてきたのか。鋭く睨みつけるような視線をゆっくりと逸らして溜息を吐くと、そんな言葉を投げかけてはくれたのだが。彼が語った真実は彼女の胸へと深く突き刺さり、頭の中に幾度も木霊し続ける。
嘘ですよね、と。もう一度、震える声で問いを投げかける。しかし、それを肯定してくれる言葉が目の前の青年から発される事はない。俯き、地面を見遣る視界が大きく歪んで石畳の床に小さな水滴を零して行くが、少女も青年も、それ以上の言葉を発しようとはしないままだ。
「あの、ジェローム?」
「……どうした?」
「いえ、貴方の飛竜の姿が見えたので、こちらに居るのかなと思いまして。……その、取り込み中、でしたか?」
マークから見れば背後から。ジェロームにとっては少女の姿よりももっと先から、突如として凛とした女性の声が響き渡ってくる。
兄であって、兄ではない。そんな男は彼女の声を聞き届け、少女の姿へと交互に視線を向けながら、どこか困じたような素振りを見せるのだった。
言葉を発した女性の姿をマークが直接確認することはできなかったが、その声を耳にすれば容易にその正体に対する合点がいくものだ。マークの事を妹だと口にして、守る対象としてその視野に収めてくれたような彼との関係は、この世界には存在していないというのに。奇しくも彼女が嫉妬を抱いていた存在との関係は、彼女に対して優しい声色を向ける彼の姿は、あの世界と同じく映しだされたままである。
「(私だけが、切り離された世界……?)」
ジェロームと、ミネルヴァと、ルキナ。六つの瞳が、マークを捉えた。
どくんと、一度だけ強く高鳴った鼓動はその身を揺らし、思わず耐えるようにして強く唇を噛みしめた。
「あの、貴方は……? どうか、なさったのですか?」
体調が悪いのでしたら、シスターの所に案内しますよ、と。女性は獣舎へと足を踏み入れ、マークの姿に近づくと、彼女に向かって語りかける。肩へと置かれた手の平を、自身の力の入らないそれでもって払いのけると、か細い声で大丈夫ですと言葉を紡いだ。
当然、そんなマークの姿と声を目の当たりにして、心優しい女性が簡単に納得を示すはずがないとは知っていたのだが。
その姿から逃げるように、踵を返すと獣舎の入口へと、少しふらついた足取りを進めていく。
「突然ごめんなさい、ジェロームさん……。それから、ルキナさんも。ご心配をおかけしました。少し、頭を冷やしてきますね。ジェロームさんが仰ったとおりに、ちょっと記憶がぐちゃぐちゃになっているのかもしれませんし……」
失礼します、と。一礼をすると、マークは再び城の廊下を歩み出す。そんな彼女の姿を、呆然とした瞳で見送ったジェロームとルキナは、互いに顔を見合わせる。
お知り合いでしたか、と。ルキナがジェロームに対して問い掛ければ、ジェロームはすぐさま否定を呈する。
同様の質問を彼が返せば、ルキナも全く同じ答えを紡いだ。どうして自分たちの名を知っていたのか。桃色の髪の少女が口にした名と、必死な形相。それを二人は思い浮かべ、記憶を辿ることを試みるが、やはり合致した存在とめぐり合う事はできないままだ。
暫くの間、どこか腑に落ちないその問題を抱え続けてはいたものの、彼らはいつまでもそれを引きずり続けるわけにもいかなかった。
猛威を振るう屍兵との戦いに明け暮れる日々。それは、彼らの心の中に種を撒いた少女の存在を徐々に蝕み消し去りはじめ、気が付けば再び忘却の彼方へとその姿を追いやってしまっていたのだが。マークにとっては悲運な事にも、彼らはそれに全く気が付きはしないままであったのだった。
* * *
「(私の、居場所……)」
ゆらりと揺れ動く不安定な心のままに、彼女は世界の至る所を見て回った。
どんな絶望を描いた世界より、この世界の理は少女の心を深く傷つける。ほんの少しでも気を休めてしまえば頭の中へと兄の言葉が残響した。そうして彼女の肩が落とされる事を、暫くの間繰り返し続けてしまっていたのだ。
渇望していたはずの希望に満ち溢れた未来。それと引き換えに、今のように兄に忘れられた世界で生き長らえなければならないというのならば、すぐさま彼女はそんな未来は不要なものだと口にしてしまうはずだ。兄の存在こそが、彼女にとっての生きる理由であったのだ、それは仕方のない事であるのだろう。
自分の居場所が失われた世界を歩けと言われるくらいなら、滅びを眼前にした世界で彼の隣で朽ち果てたい、だなんて。彼に対する深い依存を露わにした思考を浮かばせる彼女は、自身が対面している状況を未だに完全に受け入れる事ができないままである。
「(私の居場所なら。ここに、ありました)」
両の腕で抱きしめた自身の得物。それはいつかの世界で笑みを浮かべていた時のような一振りの剣や魔術書ではなく、兄が好んで手にしていたような大振りの斧だ。
自身の両足で大地を踏みしめ、屍兵と戦っていた頃の自分と今のそれを比べてしまえば、とても似ても似つかない。
飛竜に跨り、武器を振るう自身の姿。これは兄の見様見真似ではあったのだが、母から継いだ素質のお陰か然程の違和感は覚えないままに振舞う事ができていた。
こうして新たな力を手に入れた彼女には、その力を向けるべき対象が生まれていた。それは本来ならば憎むべき対象であった屍兵でも、邪竜ギムレーという存在でもなく、彼女にとってかつては守るべき対象であり、そして仲間であったはずの戦士たちだ。
「(……ここにしか、なかったんです)」
笑う事ができなくなった。
無理やりに形作ろうとした弧を描いた口元は、すぐに歪んで嗚咽を零す。どんな絶望にも屈する事なく煌めきを秘めていた瞳には、差し込んだ陰が晴れないままだ。
少女は、兄に忘れられた世界で、父との再会を果たしたのだった。
死んだと思っていたはずの父との対面を心から喜ぶ事が出来なかったのは、その存在が彼女の思い描いた人物像とは大きく掛け離れてしまったものであったからかもしれない。
人々の信頼をその身に集めた稀代の天才軍師と名高い男は、二人の息子と娘には優しいが妻には頭が上がらない、ごく一般的な父親としての姿を抱いていたはずである。軍師と父親、この他にも人間味の強い顔を多く所持していた彼の中には邪竜としての一面があり、そして今はそれが前面に押し出されている状態にあるなんて、誰が想像出来たのだろう。
一度心の拠り所を無くした少女は、今再び自分の存在を紛れもない家族であると口にしてくれた邪竜に対して、幼少の頃の思い出に縋りつきながらも絶対の忠誠を誓う道を選択してしまっていたのだった。
それが、兄と交わした約束を無為にする愚かしい道である事も、友人たちの誰しもが望まない悲しい道である事も知っている。それでも彼女が折れようとはしなかったのは、この世界が彼女という存在を切り離したように、彼女もまた世界の全てを自身の記憶から切り離そうと試みようとしたからだろうか。
優しい家族も、友達も。彼らがもういないからこそ、今の居場所を守るために。ただ必死に、戦うのだと。それを自身に言い聞かせて、武器を握る腕に力を秘めていた。
遠い視野に映る人影を、彼女の記憶は知っていた。桟橋を落とした男の名も、彼に向かって怒号を発する男の性格も。崖を挟み、宝玉を手にして東に向かって駆け抜ける男の抱えた悩みだって、彼と共に荒野を走るタグエルの口癖だって、何もかも。
彼らが生きるために必死であるように、彼女もまた必死に闘ってきたというのに。
現実は、どうしてこうも強い風当たりを全く弱めてはくれないのだろうか。
『お前も……似ているんだよ。俺の、すごく大事な人に』
屍兵の軍を率いてその刃を振りおろし、たった四人の戦士たちの命を奪う事なんて、簡単なことであったはずなのに。
突如として彼らの味方として現れた異界の軍勢は、彼女の邪魔をした上で、そんな言葉を言い残すと一冊の書を託したのだ。マークの事を放っておけないと告げた彼の傍らには、桃の髪をした少女の姿と、漆黒の鎧を纏った青年の姿が寄り添っているのが見えてしまう。それを認めた邪竜の下僕は自暴自棄を通り越し、ただ只管に泣き通したい心地へと久方ぶりに強く駆られていくのだった。
「(ああ、もう、私には。やっぱり。どこにも居場所がないままなんだ)」
あの娘は、誰なのだろう。
明快な表情を浮かばせて、彼を慕う少女の姿は、いつかの記憶の自分にそっくりだ。
あの子のように、なれたのならば。兄と共に、居られたのならば。こうして何かを気負う事なく、ただ隣に立てたのならば。それだけで、自分は幸せであったというのに。それを願った彼女の掌には、もう何も残されてはいないのだ。
宝物であった戦術書の数が一つ増えた。たったそれだけで、彼女の中の決意には疑いようのない迷いが生じてしまい、とうとう戦う事を放棄する選択をしてしまう。
配下にあった屍兵の殆どを失い、殺すはずであった男たちの全てを取り逃がし、宝玉をイーリス国へと持ち帰らせようとしてしまっている悲惨な失態が邪竜の耳に伝わり、咎を受ける覚悟はできていても、それを下す価値もない出来そこないだとして見放され、再びたった一人の世界で生きる事になるかもしれないという可能性に対する覚悟というものはこの期に及んでも抱けていない。
それに怯えた彼女は逃げるようにして世界を彷徨い、邪竜の許を訪ねる事すらできなかった。
「(どこにも行けない、戻れない)」
一体どこで選択を誤ってしまったのだろう。少女の胸には後悔が渦巻いてばかりである。
神竜ナーガの言葉に従わなければよかったのだろうか、兄という存在に甘え過ぎていたのがそもそもの問題であったというのだろうか。ぐるぐると、考えを重ねているうちに時間ばかりが経過をしていく。
会おうと言う決断さえ下す事ができたのならば、伝えられた転移の術を用いればすぐさまマークは邪竜の許へと向かう事ができるのだ。それならば当然逆も然りで、邪竜が何かをマークに告げる気であるのならば、当の昔にその処分を行っているに違いない。
「(ギムレー様は……父さんは、何も語らない。私に姿を見せてくれない。その存在を必要としているのは、私ばっかりだったんだ)」
飛竜の背を借り、空を飛びながら。時折、嗚咽を彼女は零す。使役する飛竜はギムレーの配下にマークが属した際に、彼から賜ったものである。性別は、オスであるようだから、彼と口にするのが正しいのだろう。
多くの兵や騎獣が魂の抜けた体を借りた異形の存在であった中、彼女とその飛竜だけは自身の体に自身の魂をしかと宿していて、異形の中では異質といえる存在であったのだが。こうして短くも時を同じくした相棒同士、それなりの情と信頼関係が、何時の間にか互いの間には芽生えていた。
マークを案ずるかのような嘶きが、震わせた彼の喉から響き渡る。マークにはかつて家族である飛竜がいたのだが、彼女の言葉を理解する事ができないと兄に向かってしばしば文句を吐き出していた幼少の日々が懐かしく、切ない心地を抱きながらも彼の言葉に答えるのだ。
「……大丈夫です、私は、大丈夫ですから。安心してくださいね」
マークの返事が、意に介さなかったのだろうか。不満気な鳴き声を彼は漏らすと、突如としてその巨体を翻し、風を切る方角を変えてしまう。慌てて手綱を握りしめる力を込めなおし、振り落とされないようにと彼の身に必死にしがみついた少女は大きな悲鳴を上げたのだが、彼女の体が自身から離れていない事を確認するや否や、その飛竜は翼をはためかせ、騎乗者の命令も聞かずに空を、風を、猛スピードで切り始める。
怖いと、止まれと、幾度も叫ぶマークの声に構う様子は微塵も見えない。
目まぐるしく変わる景色に覚えたのは恐怖ばかりで、思わず強く瞳を瞑ってしまっていたのだが。次第に体に染みわたる風の冷たさが和らいできたのを感じ取り、再びその双眸を開く事を試みる。
開いた双眸に見えた景色は、イーリス城の上空で、闇が晴れる瞬間そのものだ。空を覆い尽した赤い瞳が一つひとつ閉じられて行き、やがて屍兵と同じように黒い靄と砂塵を巻き起こしながらゆっくりと姿を消して行く。
何が起こっているのか。
呆然と、それが分からないままにマークは眼前の光景を眺めてしまっていたのだが、竜の頭蓋骨の姿が靄の中に見えたのと同時にはっとその正体に気が付くのだ。
「とう、さ……」
邪竜が滅んだ。
ギムレーが再び千年の永き眠りに就いた。
この世界の宝玉は、マークが居た世界とは違って、その全ての数を揃えていたのだろうか。マークが逃がした四人の戦士たちの他に、兄を含めた七人の戦士―――きっと、今では英雄と言うべきだろう人々は、無事に宝玉と炎の台座を手にこの地へ戻り、そうして神竜ナーガを今再び蘇らせ、未来を文字通り切り拓いていったのだろう。
「(……あれ? でも、儀式は虹の降る山じゃないと行えないんじゃ……)」
人々の歓声が、至る所から溢れてくる。イーリス城の庭を目掛けて勝手に高度を下げ、地に降り立った飛竜に向かって態々文句を呈する事はもうしない。その代わりに、そんな疑問を胸に浮かばせると彼女は思わず首を傾げるのだ。
庭から見上げた景色に、ジェロームとミネルヴァが寄り添い立つ姿が見える。張りつめていた表情が一気に緩み、柔らかな笑みを浮かべた瞬間を遠い場所から確認していれば、背後から突如として声が掛けられる。
「……ねぇ、貴方?」
振り向けば、緑の髪を一つに束ねたマムクートの女性の姿が瞳に映りこむ。マークにとって、一方的に見知った存在だ。彼女は思わずその名ではなく、巫女様というヴァルム大陸で祀られていた彼女に対する尊称を口に浮かべていった。
髪と同じ新緑の色をした瞳。巫女はそれをじっと少女に向ける。
人形の瞳を思わせる綺麗な水晶体に見つめられて魅入ると同時に、体には不思議な緊張が走るのだ。
「貴方は……そう、あの英雄たちと同じ存在なのね」
「英雄……? 同じ?」
「たったいまギムレーを打ち滅ぼした、生まれたばかりの英雄のことではないわ。異界から訪れた、世界を救う手助けをしてくれた英雄よ。貴方は、知らない?」
貴方にとってとても身近な人達も、その中にはいたと思うのだけれども、と。彼女が告げた言葉にマークの瞳が大きく揺れた。
神竜の巫女であるチキが口にした英雄に関しては、心当たりが十分にある。異界から来た人間と、確かに彼女は対峙をしたのだから。
友軍として出会ったのではなく、敵という悲しい出会いを果たしてしまったその軍の―――とある家族の姿を思い浮かべる。
胸が、強く軋んでいった。
「……同じじゃないです。だって、私……」
「ギムレーに呼ばれて、この世界に迷い込んできてしまったのね。でも、大丈夫。この世界の絶望は、もう希望に塗り替えられたから。貴方は、安心して元居た……あの英雄たちが生きる世界に、帰りなさい。そして、自身の世界を救いなさい」
「……神竜ナーガ様の力がないのに、ですか。」
「ナーガの力なら、ここにあるわ。ナーガは滅び、一度消えて……そして、魂のみとなった私が、新たなナーガとして生まれたの」
神竜ナーガの存在が、その力がこんなにも近くにある。
伝えられた事実を受け取ると、信じられないと口にして、思わずマークは息をのんだ。
あれほどまでに強く、会いたいと思っていた人がいる。再び会うための手段が目の前に置かれ、マークの答えを待っている。それでも、兄の姿と仲間の姿、良く似て非なる存在に向かって武器を向けた自身を思えばその足は竦んでしまうのだ。
今更、彼らの許に戻って、戦う理由が自身にあるのか。
そして、それは許されるのか。
マークはそれを悩み続けた。
可能ならば帰りたいとも、今度こそ自身を妹だと認めてくれる男の許へ戻りたいとも思うのだ。
しかし、自分の行くべき所からやってきたという英雄たちの中には、彼らの姿には確かに自分という存在があって、それが彼女の決断を鈍らせる。
「……でも、私、行けません。帰れません。だって、私は皆さんを殺そうしたんですから。自分の居場所が欲しいって、自分の事ばっかり考えて絶望に加担した人間が。どうして今更英雄たちの中に混ざる事ができるんでしょう」
「貴方は、幸せになりたくて、行動を起こそうとしていたんでしょう?」
「……そうですよ、幸せになりたかった。世界だって、救いたかった。だけれども……私がこの世界で幸せになるためには、私の事を家族だって、仲間だって認めてくれる人たちと一緒にいるためには……皆に向かって、武器を向けるしかなかったんですよ! そんな私があの世界に……、私がもう存在していて、自分の居場所がないかもしれない世界に戻って……同じ選択をしてしまうことが、怖いんです、嫌なんです。皆に、私を否定されるのが。また、一人ぼっちになる事が……ッ!」
大粒の涙がマークの双眸からぼろぼろと零れ、流れ落ちる。
だったら、もう、何も夢を見なくてもいい。見たくない。
両目を手で覆い隠し、その場に膝から崩れ落ちると、脇目も振らずに嗚咽を零した。
彼女の姿をじっと見下ろし続けてはいたものの、チキは多くの言葉を語らなかった。
堪えるでもなく吐き出される彼女の声は、悲痛な色を秘めている。じっと、桃の髪を見つめていた彼女の瞳が不意に上げられ、庭に至る通路に視線が向けられた。
重々しい鎧の音を微かに響かせながら歩いてくる男の姿。
それを認めると、彼女は薄く唇を開く。
「……大丈夫。世界は、貴方が思うよりずっと優しくて、綺麗な姿をしているものよ」
独り言のように彼女が呟くと同時に、庭先に彼女とマーク以外の声が響き渡ってくる。神竜の巫女、と。それを口にした男はすぐに、今は神竜そのものだったかと自身の発言を訂正したのだが。呼びかけられたチキはというと、苦笑を浮かばせチキでも良いのに、と彼に向かって告げるのだった。
「ねぇ、私、お邪魔になるかしら」
「……そうだな。居ても構わないが、少し退屈になるかもしれんな」
彼女と会話をする声を、自身の吐き洩らす音の中から聞き届け、マークは徐々にそれを潜めようと尽力をするのだが。中々、吐き出された自分の悲しみは、声は落ち着きを見せてくれない。
本当は顔を上げ、直ぐ傍に立っているだろう男に向かって、言葉を投げかけたくて仕方がないというのに、だ。
ジェローム兄さん。
心中で、マークは懲りずに彼の名を紡いでいく。兄と呼ばれ、怪訝な顔をした彼の表情を思いだし、余計に気分が落ち込むのと同時に、零す泣き声が大きくなった。
そんな彼女の頭に、ふわりと何かが触れてくる。微かに暖かな温度を秘めたその正体を、マークはよく知っていた。
彼女が世界から切り離される前にも少しだけ触れる事のできた、もう感じることを諦めてさえいた、最愛の兄の掌だ。
「なんです、か」
「……よく泣く女だな」
あまり、泣き顔が似合わない。ジェロームがそんな文句を零したのは、涙を抑えた手の平を僅かに動かして、マークが自身の瞳を彼の眼前に晒した直後の事である。
座り込み、泣きじゃくっていた少女と視線を合わせるように屈んだ彼は、苦笑と共に彼女の頭を優しく撫で続ける。
瞳を覆い隠す仮面を失ったその表情は、いつかの再会とは違ってとても穏やかなものであって、余計に彼女の涙腺を緩ませた。
髪を撫でた掌が離れていく感覚。それがとても物寂しくて、思わず彼に縋りつこうとしたのだが。彼は自分の兄ではないと、必死に言い聞かせてその衝動を押しとどめたつもりである。
それにも関らず彼女の体が、その頭が、彼の胸に縋りつくようにして寄せられたのは、決して彼女の意志と行動によるものではない。
ジェロームの腕が、彼女を包んで。そうして静かに抱きしめてくれていたのだ。
思わず彼女は自身の顔を覆っていた腕を下ろし、代わりに彼の体にそれを回す。
わんわんと泣きだした彼女の姿に嫌な顔を浮かべる事すらもせず、少女をあやすようにして彼の掌はその背を撫でていくのだった。
「マーク、だったな?」
「……覚えていて、くれたんですね。」
ようやく嗚咽が落ち着いた頃を見計らって、ジェロームが彼女に向かって問いを投げかける。
肯定の代わりに、どこか安堵を含めた息を吐き洩らしながらそれをマークが呟けば、いきなり自分を兄だと呼んだ人間の事を簡単に忘れられるわけがない、と。尤もな事を告げてきた。
それにしても、その人間の存在を力強く否定していたはずの彼の姿はどこへ行ってしまったというのだろう。
マークを見つめる瞳には確かに慈愛が秘められていて、彼女が望んでいた兄の姿と兄ではない彼の姿を思わず強く重ねてしまう。そうして更に、家族に許された呼称で彼を呼びたいという強い欲求に駆られる事を抑える事ができなかったのだ。
「俺に、家族が。妹がいたら。確かに、こんな奴かもしれないな」
俺の代わりに良く泣いて、良く笑う。感情の起伏が激しくて、騒がしくて落ち着きこそはないけれども、どうにも嫌いになれそうにはない。
呟かれ、紡がれた言葉の一つひとつを耳に打ち入れながら、どうして、と。マークは彼へと疑問をぶつけてしまう。この世界で初めて出会った時の彼の対応と、彼女の存在を認めてくれているかのような今の言葉は、彼女の中で繋がってくれはしないのだ。
「……俄かには信じられない事かもしれないが。自分の知らない世界の、過去という時代からやってきた人間に会ったんだ」
ああ、それは、彼らの事だと。彼の告白に対し、彼女は本来ならば自分が渡るはずであった世界の姿を思い浮かべると、そのまま語り続ける彼の言葉に耳を傾ける。
「彼らを見ていたら、お前のことを思い出した。……世界の中には、俺がお前の兄で、こうして慕われていた世界もあったんじゃないかと。そんな可能性を抱くようになってしまってな。……そうしたら、お前の姿が見えたものだから。こうして、会って話をしたいと。そう思ったんだ」
それを告げながら自身を抱きしめる彼の姿に。もう一度涙を堪えろと言うのは無理な話だ。
兄さん、と。思わず言葉を漏らしてしまったが、彼はもう怪訝な表情を浮かべはしない。
代わりに抱きしめた腕はそのままに、マーク、と。優しい声が彼女の名を紡ぐのだ。
「……兄さん、ジェローム兄さん、兄さん……!! 私、わたし……ごめんなさい、あなたに、貴方達に……!」
貴方達の夢や希望を裏切るような、許されない事をしました。
折角、こうして向きあってくれたのに、幻滅されても仕方のない過ちを犯しました。
彼女がそれを懺悔するより早く、ジェロームの言葉が彼女のそれを遮ってしまう。
お前がどうやってこの世界で生きていたかは知らないが、心から強く思う事があるのだと。それを告げた上で続けられた、「生きていてくれて良かった」だなんて言葉の優しさに、再び声を漏らす事が難しくなってしまう。
泣かせたいわけじゃないんだがな、と。相も変わらずジェロームは苦笑を浮かべるばかりで、指先でマークの零す涙を拭うのだ。いつまでも子供のように泣きはらす彼女の姿に、目が腫れる、声が枯れる、みっともない姿だと言いながら。だから、笑えと。笑ってくれと。そう訴える言葉が見え隠れして、必死に唇を噛みしめようと試みては、失敗をしてばかりであったのだった。
* * *
「……神竜ナーガ。貴方は、こいつを元の世界に送り届けてくれるのか?」
「ええ、その話をしていたわ。この子がそれを望めば、いつでも」
「……そうか。マーク、お前は。元の世界に帰るのか?」
ずっと迷いを抱いていて、自分の意志に乗っ取った答えを紡ぐ事の出来なかった問いを、彼はマークに向かって投げかける。
帰りたくないと、また一人になるのが怖いのだと。それを必死に訴えていた彼女の心は激情の後、反動のように落ち着きを見せ始めていた。
「……はい、帰ります。私、この世界に対して……謝っても、謝りきれないような事、してしまいましたから。折角、兄さんが私の事を妹だって認めてくれたのに……ごめんなさい」
「それは別に構わないが……。そこで、やっと笑われると。少し心持ちは微妙だな」
「あはは、そうですね。……ごめんなさい、ジェローム兄さん」
だから笑うんじゃない、と。先程までとは全く違った訴えを口にしながら、ジェロームの肘がマークを小突く。
マークにとっては懐かしいやり取りでも、目の前に立つ彼にとっては初めての妹との触れ合いであるはずだというのに。どこの世界でも、彼は妹に対してとても優しく、温かな人間であるのだという事を、思わず再認識させられてしまう。
「あのですね……。私、最初は兄さんに存在を否定されて、父さんには見捨てられて、母さんが死んでしまっていた一人ぼっちのこの世界の事が、大嫌いでした」
それでも、今はこの世界が好きかもしれません。小さな笑みを浮かべて告げる彼女に、それは世界じゃなくて、兄が好きなだけじゃないか、と。呆れた物言いで返される。それに否定をする術はマークの中には存在していなくて、そうかもしれませんね、と。誤魔化すでもなく笑ってしまう。
「あの、ジェローム兄さん。お願いがあるんです」
「何だ? 叶えるかどうかは別だが、言ってみるだけ言ってみろ」
「はい、そうしますね。……もしも私が元の世界に戻って。何らかの理由で、本当の兄さんに会えなくなったら。また、一人ぼっちになってしまったら」
その時は、貴方の事を本当の兄さんだと思って。また甘えても、良いでしょうか。
不安げな瞳を僅かに上げて、彼の表情をそっと窺う。仕方がないとでも言いたげな表情を彼女に向けて、ジェロームは直ぐに答えてくれた。お前がこちらに来るのなら、いつでもお前を迎えよう。その言葉を耳にし、胸に刻んで。綻んだ表情で、彼の掌をそっと掴む。約束をしてくれますか、と。小さく彼女が呟けば、聞きなれた文句を返してくれるのだ。
「……ああ。約束しよう。私は、一度交わした約束は破らない」
知っている。
それならばもう、何かを恐れる事はない。
彼に謝辞の言葉を告げて、頭をふかぶかと下げながら。久方ぶりに得る事のできた安堵を抱き、彼女は改めて神竜ナーガとなったチキの姿と向かい合うのだ。
「もう、いいの?」
「はい。お待たせしてしまって、すみません」
私、もう迷いません。
彼女に向かい、それを告げたマークの瞳。強い意志の宿った輝きを取り戻した水晶を見たチキの表情は満足気だ。
マークの掌には、一振りの斧。そしてその傍らには飛竜の姿が寄り添っている。竜騎士としての兄を倣った彼女の出で立ちに、ジェロームは中々様になっているじゃないかという感想を漏らす。照れくさげな笑みを浮かべた彼女が抱いたその武器は、マークが自身の友人たちに向けた凶器と同じではない。兄妹の約束の証にしたいと、目の前にいる彼へとねだった末に譲り受けた、ジェロームが邪龍との戦いの際に握りしめ続けていた斧である。
ありがとうございます。そう幾度も言葉を告げながら、じきに彼女の姿は光に包まれて消えていく。
元の時空に戻った彼女は、導かれるはずであった世界で自身の道を進んでいくのだと。彼女を今度こそ送り届けた事を確認した神竜ナーガである彼女は、残された男にそれを語り、それから僅かに表情を曇らせた。
「……ねえ、貴方は……。もし、今のやり取りをあの子が忘れてしまったとしたら、その記憶を消してしまった私の事を、憎むかしら」
「藪から棒に、何なんだ?」
「お節介だなとは思ったし、貴方達にも悪いと思ったの。だけれども……この世界であの子が為した事は、とても悲しい事だったから。私、あの子に幸せになってほしくて。今の貴方達の会話も含めて、全部の記憶を奪ったの」
「……そうか」
怒らないのね。
不思議そうに呟かれた言葉に、僅かに彼は視線を伏せる。
「……貴方が、マークの事を考えてそれを執り行ったというのならば、俺が文句を言うべきではない」
そう告げたジェロームの姿は、まさに一人の妹を大事にしていた兄の姿そのものだ。案外、随分と板についている兄っぷりというものに、思わずチキは笑みを零してしまうのだ。
兄妹って、いいものね。チキの言葉に対し、ジェロームは唇を横一文字に噤んでしまう。そんな彼の反応に対して彼女は妙齢の外観には不相応である少女のような仕草と共に苦笑を呈しながら、妹に対しては饒舌なのに私には結構冷たいのね、と。言葉を返さない彼の姿へと小さな苦言を漏らすのだった。
「貴方、本当に妹が居たみたいに見えたわ。とっても優しい、素敵なお兄ちゃん。貴方には本当に妹がいなかったの?」
「……ああ。妹は、いなかった」
ただ、弟がいたという話は聞いている。
その口ぶりから察する限り、きっとその弟の事を彼は覚えていないのだろう。物心付くよりも前に家族が死に絶え、たった一人残される。そんな悲運な境遇がさして珍しくもなかったような世界に、彼は今まで生きていたのだ。
「……不思議なものだな。生き別れた弟の事なんて、すっかり忘れてしまっていたというのに。あいつに会って、思い出せた」
「貴方、やっぱりマークの事になると饒舌だわ」
「……」
「ふふ、機嫌を悪くしないで。話なら、戻すから。……弟がいたのなら、そんなにお兄ちゃんっぽいのも納得できるわ」
ねぇ、貴方さえ良ければ。その名前を教えてくれない?
小さな笑みが、ジェロームの口元には浮かびあがる。貴方が知っている名前だと、そんな前置きの意味をチキが理解するよりも前に、彼の唇がその名を紡いだ。
「……マーク、だ」
運命とは、本当に、不思議なものだ。空を仰ぎ、紡いだ名前は空に届く前に消えてしまう。澄み渡った青の景色を、彼女も自身の世界で見る事が叶えば良いのに、と。兄として、願う心は抑えることができなかった。
* * *
ぱちり、ぱちり。彼女は数度、その大きな瞳の開閉を繰り返す。
視界が一度黒に染まり、そして再び天井を映す度に、やはり桃色の睫毛は揺れるのだ。
横たえていた体を起き上がらせると周囲を見渡す。
広がる青空も、新緑の生い茂る大地もどこにもないが、綺麗な水が張り巡らされたその場所は、まるで神殿を思わせるものであるという事だけは理解ができた。
枯れ果て、痩せこけた、悲しい色をした世界。それとは無縁な場所に自身が立っていた事に思わず安堵を覚えたのだが、はて、それはどうしてだろうか。
少女が自身の考えについて僅かな懐疑を抱いてしまえば、それはあっという間に彼女の中で膨れ上がって行ってしまう。
自身の名と、父の名前は覚えている。
翼を畳み、彼女の傍で佇んでくれていた飛竜の駆り方も、その隣に落ちていた斧の握り方も、何故か二冊も所持していた父による添削の施された戦術書の読み方も、その知識も知っている。
逆にいえばそれ以外の事柄については全て忘れ去っていたことに気が付いてしまったのだ。
「(……私、一体何をしにここに来たんでしょう)」
何か、大切な事を忘れてしまっている。そんな予感に駆られてしまい、記憶を辿る事を試みても微かな頭の痛みを覚えるばかりで中々先には進まない。
静かな焦りに駆られる最中、彼女は不意に弾かれたように瞳を見開き、そうして自身の背後を振り返った。
嫌な、予感が身に染みたのだ。固唾を飲み、石畳に転がっていた斧を手に取ると、颯爽と飛竜の背を借りて狭い室内にその身を浮かす。間もなくして視界の片隅には、人間とも化物とも取れるような外観をした異形の存在が映り込み、マークは思わずその表情を顰めてしまうのだ。
とても友好的な関係を結べるとは思えない相手の姿は、地を這うような呻き声と共に彼女の元へとにじり寄り、手にした武器を躊躇無く振るおうとしているようだ。
「……頑張るのよ、マーク。私だって、父さんみたいに上手く戦うの……!」
自身を鼓舞した言葉を発し、握った手綱を思い切り引き寄せる。飛竜の嘶きが響き渡れば、それに呼応するかのように何処か遠くの階段から鎧が織り成す足音と、馬や竜の嘶きが微かに聞こえてきた。
自分は、運に恵まれている。そんな事を思ったのは、階上から現れた援軍が自身の対峙するような紅の瞳をした異形ではなく、ただの生身の人間である事を認め、そして自身の父を知る一人の男に出会ってからの話である。
クロムと名乗った総大将の立ち会いの元にマークが目にした父の姿は、記憶に残るものより年若く、そして穏やかな瞳をしていた。
自分が未来から来た存在で、この時代に自身は生まれていない。にわかには信じられないような話を耳に打ち入れながらも静かに納得を示したのは、父が嘘を告げるわけがないという彼に対して寄せていた絶対の信頼によるものに違いないだろう。
物の序でだと、それを口にしながらルフレは一人の女性をその傍らに呼ぶ。マークと同じ桃の色をした長髪の女性は、彼女に向かってにこやかな笑みを携えていた。その微笑みは、彼女の記憶の中にはほんの僅かにも残っていないが、母性を思わせる表情には、不思議と懐かしさと温かさの二つを覚えてしまう。
想像通りに、その女性の事を自身の妻だと、そしてマークにとっての母親であるのだとルフレは彼女を紹介すると、セルジュと名乗った母親は記憶を失った娘に対して親交の証の握手を求めるのだ。
柔らかな雰囲気とは裏腹に、思いのほか堅い手の平に彼女は瞳を見開いてしまう。同性の目から見ても魅力に満ち溢れた母もまた、一人の戦士であるのだと。それを認識せずにはいられなかった。
「それからもう一人、お前に紹介したい奴がいるんだが……」
どこか困り顔を浮かべながら、天幕の外へとルフレは自身の目線を向ける。何か、問題があるのだろうか。きょとんとした表情をマークが浮かべていれば、少し気難しい奴でな、と。苦笑と共にそんな言葉が降ってきた。
「お前には、兄がいるんだよ。そいつもこの軍にはいるんだが、ちょっと色々事情があってな。中々話をしてくれないんだ」
一応、ルキナを伝手に頼んだから、マークの話は行っているはずなんだが、と。それをルフレが口にしたのと同時に、天幕の外からは声が掛る。
「おい、入っても良いのか?」
「あぁ、ジェローム! 来てくれたんだな」
勿論、入ってくれよ、と。天幕の垂れ布を押し上げて、外に立つ男を招く父の姿をじっと見ながら。マークはその名を反芻する。兄であるというのだから、それは自分が幾度も口にしていた名前であるはずなのに、それに関する記憶は一切呼び起こされないままである事がなんとも悔しく、もどかしい。
僅かに彼女がその表情を顰めるのと同時に、ルフレの姿をどこか鬱陶しげに押し避けながらも天幕の中へと兄である男が入ってくる。黒衣を纏った長身の男は、掻き上げた髪を後ろに流して固めているのも中々に特徴的であったのだが。それ以上に、その白い肌によく映える黒衣と同じ漆黒をした鉄の仮面を目元に携えていたのが印象的で。彼の姿を見るや否や、不思議な感情が彼女の中には立ち込めるのだ。
「(なんでしょう、これ。懐かしい? うれしい? ううん、それとはまた違うような……)」
「マーク。記憶を失っていると聞いたが……私の事は、分かるか?」
身をかがませ、彼の掌が額に触れる。ごめんなさいという謝辞を告げて、思いだせなかった母の姿と同じように、その双眸に大きく彼の姿を映しだして記憶を辿る事を試みようと思ったのに。
彼の姿がみるみるうちに歪んで行くのを疑問に思えば、輪郭の歪んだ彼の姿が僅かに驚いたような表情の機変を見せていた。
「……おい、何故、泣く」
「え……? あれ、私。なんで……?」
貴方の事を、知らないはずなのに。思い出せないはずなのに。
瞬きの度に長い睫毛から零れる涙を、手袋に覆われた指先で彼は優しく拭ってくれた。その優しい仕草に対して張りつめる想いの正体を手繰れば、『怖かった、切なかった』という今の彼女にとっては不可思議なものへと行きついてしまう。
突如として涙を零し始めた彼女の姿に、彼女の両親も兄も、大層驚いた様子を見せていたものの。ジェロームは苦笑を浮かべるや否や、彼女の頭を撫ではじめるのだ。
「おい……泣きやめ。お前が泣くと、落ち着かない。それに……」
あまり、泣き顔は似合わない。
その言葉が、どこかで、誰かから告げられたものと同じであったような気がして仕方がない。
勝手に徐々に歪んで行く唇を噛みしめようと、決壊しようとしている涙腺を押し留めようと、必死に彼女は試みるのだが中々うまくはいかないものだ。
彼女の姿を暫くの間、見つめると。仕方がないとでも言いたげに、深い溜息をジェロームは零す。そして、ぐっと彼女に向かって腕を伸ばすと、その身を強く抱きしめる。
「……っ、う……。あ、あぁ……!!」
その途端に零れてしまった嗚咽が、再び自身の中だけに留まるためには暫くの時間が必要になってしまいそうだ。彼の逞しい腕の中で、子供のように泣きじゃくり始めた自分を黙したまま抱きしめてくれる兄の温度に、優しさに。記憶は何も残っていなくても、確かにマークは思うのだ。
いとしいひとに、またあえたのだと。
その幸福を只管に、噛みしめようと本能がただ訴えるまま。彼女は涙を零し続け、存分に彼の優しさを享受する事を今は選択するのであった。
(いとしき望んだ世界の子)