家出少年は安息を知る「もう、いい加減にしてください!」
腹の底から出した言葉はその内容こそ普段と変わらないものだったが、声色は怒りに震えたものだった。
いつもと違う声を耳にして利狂が眉毛をピクリと動かす。力強く机を叩けば天外と溺は会話を止め、それぞれが眩に向き直った。
はぁ、と呼吸が荒くなる。目が赤くなっていないかを本当は気にかけるべきだったかもしれないが、そんな心の余裕も無くなるくらいに頭の中が乱れていた。真っ白というよりも灼熱のマグマに覆い尽くされ焼かれていくような心地だ。眩は自身の内側から湧き出る衝動と感情に任せるまま、鞄と携帯を掴むと外に飛び出す。
「くらむん」と、焦ったような溺の声が聞こえてきた。「やめなさい」という利狂の制止は果たして眩と溺、どちらに向けられたものだろう。「くらむん」、最後に聞こえた天外の声色は聞いたことがないくらいに寂しそうなものだったが、絆されてなるものかと強く、扉を閉める。
これは、生まれてはじめての家出だった。
* * * *
追いかけてくる人間がいないことに覚えたのは安堵と落胆の両方だった。どちらの方が大きいのかは分からない。周りに見知った顔がないことを確認し、後ろ髪引かれるような思いを断ち切って新幹線の最終便に飛び乗ったのは三十分ほどの前の話で、手にしたスマートフォンの充電は、寝るときに補充するつもりだったので少し心許ない。
行く宛は無いが、とにかく広島から出たい。自分の周りの人間から離れたい。そう思ったときに行動に移せるだけの土地勘があったことは良かったが、あとの問題は手持ちが満足にないことだろう。行きの電車賃はどうにかなったが、帰りは金をおろさないと足りそうにない。そもそも、宿泊費用も足りていない気がしてしまう。コンビニに立ち寄れば資金はどうにかなるとして、あとは泊まる場所だ。携帯を片手に調べたが、運悪くも本日は土曜日の夜。駅近郊のホテルはだいたいが埋まってしまっている。カプセルホテルの選択肢や更なる移動も視野にいれなければならないのかと眩が悩んだところで、スマートフォンが小さく揺れる。通知の正体が溺からのメッセージであることを確認して、中身も読まずに表示を消してしまった。
とても些細な事で腹を立ててしまったと、今更ながら気分が滅入る。激昂したのは確かだ。だがその理由を明確に答えられないくらいには、事の発端は日常の延長線上にあるようなあまりにもささやかなものだったのだ。
チャットアプリのトップ画面をじっと見つめる。携帯のバッテリーは一桁に差し掛かっている。このまま宿が見つからなかったらどうしようか――と悩んだところで。ふと、人の名前が目に付いた。
「……いや、いやいや」
飛び乗った新幹線の終点は博多だ。博多と言えば当然福岡の管轄で。それに縁のあるDAA福岡支部の面々の名前をついつい見つめてしまう。この人たちを頼ろうかという気持ちが少しだけ湧いてきて、それからすぐにそれはいけないと首を振った。また一つ、バッテリーの数字が減る。迷える時間も少なくて、このままだと冗談抜きで行く宛もなく彷徨うことになりかねない――。長い逡巡の後、観念したかのように眩は滅多に連絡を取らない人物とのチャット画面を開いた。それでもなお外聞を気にする面が拭えなくて喧嘩をしたとか家出に近いとかの事情は隠す精一杯の抵抗をしてしまう。
『夜分遅くにすみません。失礼ですが博多近辺で、今からでも宿泊可能な施設がないかご存知でしょうか。こちらも探しているのですが、なかなか見つからなくて』
ちなみに充電が少なくて返事がすぐにできないかもしれません。
そこまで送ったところで、画面が急に暗くなる。まだバッテリー残量が五パーセントはあったはずの電源が落ちたのだと理解したし、そこから先、どれだけ電源ボタンを長押ししてももう一度息を吹き返すことはない。「最悪だ……」と思わず声をあげる。
どちらにせよ、駅についたらコンビニにでも寄るつもりだった。手痛い出費だが電池式の充電器でも購入する他はないだろう。いっそ充電サービスでもしているカラオケ店やインターネットカフェなど、そういうところを探した方が安上がりだろうか。
ううん、と眩は唸る。その間にも眩を乗せた鉄の箱はどんどん本拠地を離れ、終点の地に近づいていた。今は悩んでいても仕方がない。運が良ければチャットの送り先――福岡支部HEADの天神コウが連絡に気付いて、何かしらを手配してくれているかもしれない。家出に他人を巻き込む事への罪悪感や落ち着かなさは残っていたが、物理的にも本日中に広島に帰る手段が無いのだから仕方がないと、眩は何度も自身に言い聞かせていた。
終点、博多、と告げる声が聞こえる。アナウンスが続くが、忘れ物を気にするだけの手荷物もない。とにかくまずは充電だと、新幹線から足を踏み出して改札に向かって進んでいく。
「え」
新幹線用の改札を抜けたところで肩を叩かれた。反射で見上げた人影の正体に、眩は思わず絶句した。
* * *
宿泊先を探していたのは確かだ。
眩は今現在スマートフォンが無事に充電されている姿を見つめている。落ちつきなく座布団代わりのクッションの上で膝を抱えて座っていたら「ん、」との合図と共にマグカップを差し出された。ホットミルク。確かに今晩は冷えたものの少し子供っぽい飲み物だ。
「どうも……すみません」
「気にすんな、それ飲んで少し落ち着け」
落ち着けも何も、既に思考はある程度熱を冷ました後で、眩の頭の中にあるのは後悔ばかりになっている。
あまりに短絡的な行動に出た。それで周囲を巻き込んだ。塞ぎ込む眩に「そうやって思い悩むのを止めろって言ってんだよ」とぶっきらぼうな声が降りかかる。
「すみません」
「謝るな。……はぁ、なんだってまたこういうのを俺に押しつけるんだ、コウの奴……」
頬杖を付く男の名は杁敦豪。福岡支部の重鎮の一人で、かなりの古株らしいという話だけ眩は聞いている。博多についた眩を出迎えたのはこの大男で『入れ違いは避けられたな』と安心した表情を浮かべたと思ったらあれやこれやと駐車場まで連れて行かれ、気が付いたら車に同席していた。
彼といえばバイクの印象があるが今日は車なのかと問いかければ『相手がどんな格好してるかわからねぇのにバイクに乗せられるか』との至極真っ当な答えが返ってくる。少なくとも敦豪が言うとおり、眩の服装はバイク乗りに適さないだろう。
改札口で遭遇し、車に押し込められたあたりで薄々察してはいたが、コウが眩からの連絡を受けて真っ先に出した案というのが『この男の家を宿に使え』というものだったようだ。返事に既読が付かないので充電が切れたと判断した上で、文面からして移動中だろうからこれから到着する新幹線へ間に合う時間に駅につけるか。またそこで出会えなかった場合はおそらく近場のコンビニあたりに行くだろうから、そこで相手と落ち合うようにと、細々としているようで実に大雑把な指示を受けたらしい。
「ま、俺たちのヘッドの直々の頼みだ。嫌とは言えねぇ」
と、自身もマグカップを手にして中身を呷る。その後にぽつりと「家出か」と呟かれたものだから眩の背筋がぎくりと凍った。
「図星か? まぁそうだろうな」
旅行にしちゃ荷物が少ない。予備電源も持っていないのは迂闊すぎる。そもそもお前みたいなタイプの男は、宿泊先から何まで調べてから発つタイプだろうに不自然すぎるくらいに行き当たりばったりだ、と。ぐさぐさと刺さる言葉を何の遠慮もなく発してくる。「だからコウも適当なホテル見繕うんじゃなくて、俺を寄越したんだ。こういうガキを一人にしたら碌なことが起きねぇ」とトドメのように言い放たれ、半ば自棄のような癇癪を起して「どうせ、そうですよ」と唇を尖らせた。そのまま返ってきたのは「まぁいいんじゃないか」という説教ではなく許容の言葉だったことには驚いた。
「広島本部は曲者ぞろいだからな、たまには振りまわす側に回ってもバチは当たらねぇだろ。ガキなんだし、年上相手に我儘いったり甘えたりする方法も覚えとけ」
「ガキガキってさっきから連呼してますが、ガキってほどの歳じゃあないんですけど」
「つっても俺よりずいぶんと若……そういやお前、二十歳越えてっか」
「丁度二十歳です」
あぶねぇ、とわざとらしい話の反らし方を受けた。何がですかと眩が乗れば「ブランデー入れたんだよ」と返ってくる。どうやらホットミルクの隠し味のようだ。子供っぽいと悪態吐いたが、意外と大人の飲み物だったらしい。
恐る恐る口をつける。独特の香りこそは感じたが、それほど量は入っていないらしい。カップは熱いが中身はそれほどでもないようで、こく、と喉を動かした。
「お前猫舌か」
「……悪いですか」
「いいや、大事に育てられてんだなと思っただけだ」
そんなにお行儀がよけりゃあ、まともな喧嘩もしたことねぇか。
小馬鹿にしたような笑みも含めた声色だったが、先ほどと比べて腹は立たない。D4会議で顔を合わせるくらいで今日までまともに会話をしたこともなかった男を相手に、何を喋ればいいのか悩んで――逆に、何を話しても許されるような心地にもなって――眩は押し黙る。
ぽつり。意を決した眩の口から出てきたのは、第二の故郷への望郷だった。
「俺が、家を飛び出した時に」
「ああ」
「溺さんが俺を呼んでくれて。少し嬉しくて。利狂さんが俺を引き留めなかったことが悔しかったです」
「そうか」
「天外さんの……あんな声は、できれば二度と聞きたくないなと思いました」
「帰りたいか」
「……わりと」
「じゃ、明日になったらちゃんと謝っとけ。喧嘩は謝罪までがセットだろ」
「そう、ですね」
空っぽになったマグカップを敦豪の手が回収していく。その流れで、大きな手の平が頭の上に乗せられた。
「素直なのはいいことだ。頑張れよ」
「……はい」
突然の行動には驚いたが、髪を触られたことへの嫌悪はなかった。このあたたかな感覚は何だろうと考えて、すぐに実兄との幼き日のやりとりを思い出す。ぼんやりとした様子の眩を見て、敦豪が心配したように声をかけてきたものだから。素直にそのことを話せば、非常に複雑そうな、面倒くさそうな表情を浮かべられた。
「お前、それ沖縄のあいつの……本人の前で言うなよ。色々と厄介な予感がするし、兄っていうのも面倒な生き物なんだ。……多分な」
わざとらしく頭を抱えだした敦豪の姿に、眩は笑い、胸を撫でおろした。
ようやく心に余裕ができた心地がする。今夜は、ゆっくりと眠れそうだった。