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    shibari_

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    shibari_

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    Lacrimosa①〜⑤

    Lacrimosa箱から手慣れた動作で煙草を一本取り出す。
    口に咥えてライターに火をつけた。
    よく知っている銘柄だ。記憶の中で、いつも吸っていたもの。
    火をつけて吸い込んで、煙を勢いよく吐き出した。
    「うぇっ、まっず」
    そう言い捨てて咳き込む。
    百害あって一利無し。
    一体どうしてこんなものを死ぬほど吸っていたのか。不思議でたまらなかった。
    いつかは理解出来ると思っていたのに。

    ただ、匂いだけは落ち着くと感じた。


    講演は盛大な拍手で締めくくられた。
    スポットライトから身体を外し、ローは壇上から降りる。
    本日の格好はシンプルなシャツにジャケットを着用と普段から考えれば随分と大人しいものだった。
    それもそのはず。本日のローは海賊ではなく一医師としてこの場に来ているからだ。
    毒性に関連する学術集会での、異例の海賊による特別講演。それも感染症だと恐れられていた珀鉛病の新たな発表ということで物見遊山のような参加者も多かった。しかし一度講演が始まるとその内容に全員が真剣な顔つきになっていった。
    たった一時間の講演ではあったが、内容は目まぐるしいものだっただろう。
    最後の質疑応答に至っては会場マイクの前で順番待ちのような状態が起こってしまい、座長が時間だと言っても質問者が後を絶たなかったくらいだ。
    興奮冷めやらぬ様子の会場から一足先に抜け出したローはそのまま外へと歩き始める。ズルズルと
    残っていては引き止められてしまい落ち落ち帰ることも出来ない。まさか海賊を懇親会に誘うような猛者がいるとは思えないが用心に越したことはない。
    ローが再び過去の因縁と向き合ってから一年が経とうとしていた。
    妹との再会に始まり、珀鉛病の共同研究、そしてこうした啓発活動と今日まで目まぐるしい毎日であった。
    今回の講演は研究の途中段階の発表ではあったが珀鉛病の真実を広めるには良い機会となった。残念ながら共同研究者である麦わらの一味の船医は相変わらず船長の意向であちこち飛び回っているためここにはいない。共に立つことは叶わなかったが、その分十分に役目を果たしたつもりだった。
    会場を抜けると警備の海兵と目が合う。彼らは微動だにせず海賊であるローを見送っていた。
    珀鉛病の研究活動に限りローやチョッパーは海軍に行動を制限されることなく動くことが出来る。海軍がそう取り決め、ロー達もそれを受け入れた。
    元々海賊王、そして四皇の陣営に許可なく手を出す海兵は少ないが、明言されていることに意味がある。
    世界政府を敵に回しかねない行為だ。しかし今は世論が、民意が彼らの障壁となっている。暴力装置だけでは支配できない時代がそうさせた。海軍も道を分かとうとしているのだ。
    時代も変わったものだな、とローはふんと鼻を鳴らした。
    預けていた荷物も回収し、堅苦しいジャケットを脱ぐ。早々に衣服を着替えてしまえばどこからどう見ても海賊だった。
    最後に帽子を被り、隠していた武器を手に取ったところで背後から声がかかった。
    「ここにいたか、トラファルガー」
    よく知った気配にローはゆっくりと振り返る。
    「センゴク」
    そこにいたのは海軍大目付、センゴクだ。
    自分よりも幾分か高い位置にある顔を見上げ、ローは揶揄うように口元を釣り上げた。
    「なんだ、俺が悪さをしないか見張りに来たか?」
    「今更そんなことは心配しておらん。まあなに、顔を見にな」
    そう言われてローは思わず顔を顰める。
    互いに顔を見に来るような関係ではなかったはずだ。
    ただ一つの奇妙な縁だけが二人の間に横たわっている。
    もしその縁をセンゴクが特別なものだと思っているのなら、ローにはそこまでしてもらう義理は無かった。
    「そう嫌そうな顔をするな。老い先短い年寄りに優しくしようとは思わないのか」
    「殺しても死ななそうなやつにそんな心配してもな。わざわざこんな場所までご苦労なことだ」
    「なに、散歩みたいなものだ」
    何が散歩だ、と内心で呆れる。
    珀鉛病の件でロー達と海軍の間を取り持つ事になったのはセンゴクだ。
    随分と無茶をしたと聞く。たしかにサカズキや、もっと言えば世界政府側をよく黙らせたな、とも。
    つまりロー達が成果を出さなければ責任を問われるのはこの老体なのだ。
    そういう意味ではこれは視察なのだろうと当たりをつけ、苦労の多い老人に少しでも優しくしてやるかという気持ちも芽生える。
    「先程の講演も聞いていた。まあ専門的なところは私には分からなかったが、会場は大盛り上がりだったな」
    「当然だ、俺とトニー屋の研究だぞ。そこらのヤブと一緒にするな」
    まだまだ一年やそこらでは完全な研究成果を出せるところまでは来ていないものの、周囲を納得させられるだけの材料は揃えられている。これからの第一歩としても今日の講演は重要な役割だった。
    何よりもローの心の余裕が研究への自信に繋がっている。
    「あれからどうだ、妹は」
    その心の余裕の源である妹について問われ、ローは口を開いた。
    「寛解している。外見だけで言えばすっかり見違えた」
    「そうか、それはよかった」
    「そっちはどうなんだ。あの施設にいた他の患者は順調なのか?」
    「未だ難しい者もいる。生命の危機から脱したとはいえ、社会復帰まで出来ているのはわずかだ」
    「……そうか」
    一年前に見つけ出されたのはなにも妹だけでは無い。珀鉛病以外の、勝手に被検体にされた患者達は直ぐには治らない者もいた。今でもその患者達は海軍の医療施設と、そして麦わらの船医が共同で治療に当たっていた。時には外科的な処置でローが手を貸すこともあった。
    最後まで面倒を見ることが出来ない歯痒さと己の力量不足に閉口する。
    「だが約束した通り絶対に最後まで見捨てることは無い。それだけは安心してくれ」
    力強い声がローに届く。
    ローは何かを返そうとして、結局言葉が出てこなかった。
    何度考えても仕方がないことだ。どうしてそれが今なのかと、なぜあの時同じ言葉をくれる人がどこにもいなかったのだと。
    全ては過ぎた事だった。そう己を納得させた。
    己とてその言葉を他人に掛けられる実力は無い。
    口を閉ざしてしまった海賊を優しげに見つめる老海兵はその肩に手を置く。
    「気を付けて帰りなさい」
    ローはぎゅっと拳を握った。
    「……海賊の帰路を心配してどうすんだよ」
    「はは、それもそうだな」
    ローは困ったように、途方に暮れた子供のような表情でそう言うしか無かった。
    センゴクと別れ、定期船が出ている港まで歩を進める。
    能力で他の島へ渡っても良かったが、予め決めていた自船との合流場所まではここから少々距離がある。
    体力温存と趣味の放浪も兼ねてたまにはゆっくり帰船するのも悪くはないと、ローは気ままに船の行き先を調べていた。
    最近は妹も心身ともに回復し、自立傾向にある。
    船員達もたまには船長のいない自由時間を過ごしたいだろう。
    そういう訳で帰船までには日数も猶予を持たせて伝えていた。
    さっそく一隻の船が港から出ていくところを見送りながら、さてどうしようかと考えを巡らせていると、ローの背後からなにやらドタバタと足音が聞こえてきた。
    「待って!行かないで!」
    子供の甲高い声が港に響き渡る。
    その子供は息を切らしながらおぼつかない足取りでこちらに向かって走ってきていた。
    ローの背後を通り過ぎ、船着場まで一直線に向かって行く。
    そのあまりの必死な様子に思わず振り返ったローは子供の足元への視線を向けて声をかけた。
    「あ、おい」
    転ぶぞ、と言いかけたところで子供の身体が地面から浮く。
    案の定道端にあった小石に躓いたらしい。
    言わんこっちゃない。思わず首根っこを掴んで、すんでのところで引き戻す。
    ローのお腹くらいまでしかない身長の子供は後ろにのけぞってからたたらを踏んだ。
    「わ、あ、ごめんなさい!」
    「そそっかしいな。よく見て歩、」
    転びそうになっていた子供の顔を見て、息が止まった。
    緩やかなウェーブを描く金髪は猫っ毛でふわふわと跳ねていて、少し重たい前髪は目の半分を隠している。
    前髪から覗く涼やかな瞳に、よく動く口元。ピエロメイクをすればさぞ似合っただろうに。
    顔つきの幼さのわりには大きい体躯に、手足は怪我だらけでガーゼが貼られている。
    そんな、かつての恩人を彷彿とさせる、しかしどう見ても小さな子供が立っていた。
    「お前」
    呆然と子供を下ろしやっとの思いで言葉を絞り出す。
    「はい?」
    きょとんとした顔の子供の、その赤い瞳がローをじっと見つめていた。
    「どうかしましたか?って、あー!」
    少年は海を見て叫んだ。
    視線の先にあるのは既に随分な距離に位置する定期船だ。
    「船、乗れなかった〜!」
    ガーン、と効果音が着きそうなくらい肩を落とす少年を見下ろす。
    どうやらあの定期船に乗るつもりだったらしい。そうだとしたら随分な遅刻だな、と呆れる。
    「か、かくなる上は!」
    「おい馬鹿何をするつもりだ!」
    港から身を乗り出そうとした子供を引き戻す。
    「泳いで追いつけばまだ間に合うかも!」
    「馬鹿言え、蒸気船に子供の力で追いつけるかっ。溺れ死ぬぞ!」
    浅瀬でもなんでもない海に飛び込もうとする子供に恐怖を覚える。
    船は少なく見積っても二キロは先を行っていた。
    いくらなんでも無謀過ぎる。
    「大人しく次の船を待て。一時間もすりゃ来るだろ」
    「でも、でもあの便に乗らないとその次の乗り換え便に間に合わないんです〜。次の乗り換え便は一日に一本しかないから……やっぱりあれに乗らないといけなかったのに」
    うっ、と目に涙を貯めて少年は船を見つめている。泣いたところで船をどうすることも出来ない。
    ローはため息をついて子供に声をかけた。
    「明日にしろ。明日はもっと早く家を出て船に乗るんだな」
    「そんなあ……」
    随分とドジなやつだな、とローは腕を組んで様子を見る。
    先程は少年の外見に衝撃を受けたが、今度は違う意味で衝撃的だ。
    「僕、明日まで行くところがないんです」
    がっくりと項垂れる少年に目を見開く。
    「ここに住んでるんじゃないのか」
    「はい、さっき別の船でここに着いて……宿を取っているのはもっと先の島で」
    少年の姿をまじまじと見た。どこにでも居そうな普通の服装に大きなリュックを背負っている。たしかに旅をしてきたと言われればそう見えるし、家出少年ですといわれたら納得も出来る。
    リュックを背負ったまま泳ごうとしていたのだろうか。
    「お前、親は?ここまで一人か」
    ローの問いに少年はおずおずと頷く。
    「その、僕……親はいなくて」
    このご時世、無い話ではない。現にローもこのぐらいの年で天涯孤独の身となったのを思い出し、あまり重くならないように軽く受け流す。
    「どっかから抜け出して来たんじゃないだろうな」
    家出少年を疑って聞いてみれば、少年はぶんぶんと首横に振った。
    孤児院から脱走、なんて話も無くはない。
    「兄さんのところに行きたいんです」
    ぱちりと目を瞬かせた。
    「兄がいるのか?」
    「はい」
    思わず思い浮かべたのは今はインペルダウンにいるであろうピンクのサングラス男だ。
    ローは頭の中で思い描いた男をかき消した。そうだとしたら年が離れすぎている。
    そもそも見た目が似ているだけでローが想像するような人物と縁があるわけではない。
    他人の空似。世界にはよく似ている人が三人はいるというではないか。
    まあ恩人もこのくらいのドジはやらかしそうではあるが。
    「実は兄さんと一緒に暮らせることになって、兄さんが住んでる町までこれから行くんです」
    その口ぶりは実に嬉しそうだった。肝心の船は逃しているが。
    「今までずっと離れてて、最近お仕事が落ち着いたからこっちに来ないかって言ってくれたんです」
    「……そりゃよかったな」
    随分と訳ありな口振りにローは口をへの字に曲げた。
    今しがた出会ったばかりの少年だ。ずけずけと問い質すのも趣味では無い。
    だが気になる。何から何までこの奇妙な少年を知りたくなる。ただの好奇心で、身勝手な投影だ。
    「なのに、僕、失敗しちゃって」
    「残念だったな」
    「ちゃんと兄さんから乗る船も教えてもらったのに」
    そう言って少年はごそごそとリュックから紙を取りだした。
    上から覗き込めば、それは目的地までの道程が書かれた手紙のようだった。
    乗る船の時刻から、経由する島の名前、ホテルの場所。それらが事細かく書かれている。これを書いたのは随分几帳面な人間のようだ。
    ただ残念ながら、正直この少年が一人で熟すには難しい内容に思えた。
    何を思って少年一人に旅路を行かせたのだろうか。
    「ここまで迎えに来て貰えないのか」
    「兄さん、仕事が忙しいらしくて……。だから僕が一人で頑張って行くよって言ったのに」
    「……」
    「ふぇ……」
    「ああ、泣くな泣くな!」
    涙を大切な手紙の上の零し始めた少年を慌てて宥める。この上道程まで分からなくなったのでは少年はこの大海原で迷子になってしまうこと間違いなしだ。
    「兄の連絡先は分かるか?」
    少年は首を振る。
    「連絡先を知らずによく行こうと思ったな。ちょっとその紙見せてみろ」
    少年から手紙を受け取ったローはもう一度初めから道程を読み直した。
    今はちょうど半分の道のりらしい。残りは船を二つ乗り継いで、島に宿泊して終わりだ。この島が目的地だろうか。
    どこにも連絡先らしきものが書かれていないことに首を傾げる。もちろん兄の住所らしきものも。
    「ここがお前の兄が住んでいる場所か?」
    「ここは兄さんとの待ち合わせ場所です。ここから兄さんの住んでいるところまで一緒に行くんです」
    「つまり、この島まではどうあっても辿り着かなきゃ行けないのか」
    傍から聞けばいい加減な話である。
    しかしつい最近妹と暮らすことになったローには、兄と暮らすことをこんなにも嬉しそうに語る少年に水を差すことは出来なかった。
    少年の顔を見てローはしばし考える。
    ちょっと待ってろ、と言ってローは手紙を持ったまま近くの時刻表を見た。
    半泣きの少年は怪訝な様子で見上げている。
    「……まあ、行けなくはないか」
    「?」
    ローは胸元からペンを取り出すと、手紙にさらさらと書き加えた。
    その手紙を少年へと戻す。そしてとん、と紙を人差し指で叩いた。
    「いいか、今から三十分後に来る別の島行きの船に乗るんだ」
    「え、でも」
    「まあ聞け。その島には乗ってすぐに着く。そしたらこの紙に書いてある通りに船に乗り継げ」
    新たに書き加えられた行程を見て少年は「わっ」と言葉を漏らした。
    「少し遠回りだが、今日の夜にはお前の行きたかった島に辿り着けるはずだ。船に乗る余分な金はあるか?」
    少年はこくこくと頷いた。
    「ならいい。今度はちゃんと船に乗れよ。これを逃したら今度こそ今日は宿無しになるぞ」
    ローの言葉に少年は顔を青くした。
    「ど、どうしよう。僕ちゃんと乗れるかな」
    「まあいざとなりゃ船の乗組員に紙を見せて聞け。悪いようにはされないだろ」
    こんな子供だ、ちゃんと聞けば大人も無下にはしまい。
    問題はそれでも失敗しそうなこの少年だが。
    さてどうしたものかと頭を悩ませていると、土埃を巻き上げるくらいの風が二人の間に吹き付ける。
    ローは思わず飛ばされそうになった帽子を抑えた。
    ローの視界にひらりと紙が舞う。
    「あ、おい!チッ」
    薄い半透明の膜が辺りを覆う。タクト、と唱えてその紙を引き寄せた。
    「え、うぇっ!?」
    突然目の前で見せられた摩訶不思議な現象に少年は目を白黒させる。
    「お前は手紙一つちゃんと持っていられないのか」
    少年の手から飛ばされた手紙をそのまま半開きの少年のリュックに突っ込む。
    心配した矢先にこうだ。
    ローは再び時刻表と航路の図を見た。ローが本来乗ろうとしていた船は一時間後のものだ。少年とは行き先が違う。
    だがしかし目的の場所までに多少経由地を変えるくらいなら問題なさそうなのも事実だ。
    片手で顔を覆ってしばし考える。
    少年は黙り込んでしまった大人にどうしていいか分からずおろおろしていた。
    ここで少年を放り出して自分の船に戻るのは簡単だ。ただの旅の途中に出会ったそそっかしい少年が思い出に変わるだけで、向こうだってたまたま居合わせた大人のことなど気にも留めないだろう。
    だが数日後に思い出して、ああそんなやつもいたなで終わらせることができるかといえば、それも難しそうだった。
    海賊が一般人に何をと思うかもしれないが、恩人によく似た見た目の少年が路頭に迷うところ見るのも忍びない。これは完全なる私情だ。
    これも何かの縁だと言い聞かせれば、自分の行動理由に納得できそうだった。
    「……お前の目的地の島は、俺の目的地の道中にある」
    「えっと、……?」
    少年は難しい顔をしている大人に恐る恐る聞き返した。
    「そこまでは、お前が船を間違えないか見ててやる」
    「い、いいんですか?」
    「むしろこのまま放っておいたらお前、次の島でも同じことしそうだからな」
    「あ、あ、ありがとうございます!おじさん、優しいんですね!」
    「おじ……」
    絶句した。
    そうか、このくらいの子供からすればもうおじさんなのか。
    同じ年代の仲間達に囲まれているとついつい自分が歳を取っていることを忘れてしまう。
    心臓にぐっさり刺さった棘を抜きながら、ローは気を取り直して少年を見た。
    そういえばここまでこんなに話しておいて一番大事なことを聞きそびれている。
    少年も不思議そうにローを見つめていた。
    「そういえば、おじさんは誰ですか」
    それはこちらの台詞である。
    『それで、一日二日合流までに遅くなるって?』
    電伝虫の向こう側からハートの海賊団の母(ペンギン)の呆れた声が聞こえてくる。
    「……ああ、放っておくのも寝覚めが悪いからな。道すがら保護者へ押し付けてくるだけだ、時間もかからない」
    『まあ、俺たちはあんたの放浪癖に慣れてるんで別に良いですけど。弁明する先、俺らじゃないんじゃないですか』
    ぐ、と言葉を詰まらせる。
    その間受話器の向こう側ではペンギンが受話器を遠ざけてなにやら話していた。
    『えー!お兄さま帰ってこないの!』
    電伝虫越しに聞こえてくる妹の声に、胃をきゅっと絞られた気分だった。
    途端に近くなる妹の気配に、受話器の持ち主が変わったことを悟る。
    「ラミ……」
    『お兄さま、船に戻ってくるの遅くなるの?』
    「ああ、すまない。ちょっと迷子の子供を送り届けなきゃいけなくてな。少しだけ帰るのが遅くなる」
    『……そっかあ』
    兄の帰りを今か今かと待っていたであろう妹に申し訳なく思う。
    だからローは誠心誠意を尽くしてラミへと謝罪した。
    「悪かった。なるべく早く帰れるようにするから、帰ったら一緒にアイスクリームを食べよう」
    受話器の向こう側から笑い声が聞こえる。
    『皆がいるから大丈夫だよ。お兄さまお仕事大変だったし、ゆっくりしてきてもいいんだよ』
    年相応に無邪気な所はあるが、それでも大人を困らせることはない。気が遣える妹である。
    ここ数ヶ月、兄が根を詰めて仕事をしていたのを見ていたからだろう。今日やっと束の間の休息を得た兄に労いの言葉をかける。
    とはいえ精神的には大分落ち着いてきたが、まだまだ兄が居ない環境は不安のはずだ。この講演のために数日間船を明けるのにも慎重に調整を重ねてきた。
    それでも明るく振る舞う妹にローは感謝をするしかない。
    『大丈夫、お勉強して待ってるよ。分からないところはペンギン君に聞くね』
    俺無理だよ~、と後ろから聞こえてきた。
    くすりと笑う。上手くやれているらしい。
    ハートの海賊団に来て慣れない環境の中、自分の立ち位置を自分で決めることが出来ている。
    妹の成長が喜ばしくもあり、兄との開いてしまった差を一生懸命埋めようとする姿に焦燥感を覚えることもある。
    それだけラミや、そしてロー自身も大きな変化を感じていた。
    「楽しそうだな」
    『うん!それに今日はイッカクちゃんとパジャマパーティの約束してるの!この前の島でお兄さまに買ってもらったパジャマ着るんだよ!』
    「あんまり夜更かしするなよ」
    『ガールズトークは夜が本番なのに、お兄さま分かってないなあ』
    ローは肩を竦めた。
    「何かあったら直ぐに周りの大人に言うんだぞ。万が一の時には俺の電伝虫にも掛けていいからな」
    『はーい。気をつけて帰ってきてね』
    「ああ」
    兄の返事を聞いて、それから少し間を置いてラミは口を開く。
    『……お家に帰れないのは寂しいもんね』
    ぽつりとこぼした言葉にローは目を瞬かせた。
    返す言葉を探しているうちにラミは言葉を続けた。
    『お兄さま、ちゃんと送ってあげてね』
    「……ああ」
    迷子の子供に思うところがあるらしい。すんなりと納得したのは自分の境遇と重ねたからなのか。
    そんな妹のためにも、一刻も早く迷子の子供を送り届けなければと心に決めた。
    『あとちゃんとご飯も食べてね。遅くまで仕事してないでしっかりとベッドで寝てね。それから』
    「分かった。もういい分かった」
    成長の仕方には大分偏ったものが見られるが。
    きゃらきゃらと笑う妹は『じゃあ、ペンギン君に代わるね』と受話器から離れていった。
    『はーい、代わりましたよ。もういいんです?』
    「ああ。ラミのことも含めて、あとは頼む」
    『アイアイ、キャプテン。あんたも健康には気をつけて』
    話す相手が変わっても焼かれる世話にローは口をへの字に曲げた。
    医者であるローには釈迦に説法だが、世話焼きからしたら関係ないのかもしれない。
    気を取り直してローは船長らしく指示を出す。
    「船の準備は終わっているのか?」
    『もちろん、もう島を経ってます。コーティングは無事に終わりました。既に潜航中です』
    「そうか」
    ローは頷いた。
    ローが学会に経つ数日前、ハートの海賊団は新世界のとある島を訪れていた。そこはシャボンディ諸島と同じようにコーティングが出来る職人がいる数少ない島だ。
    ハートの海賊団の母船は潜水艦とはいえ、深海帯への航行には危険が伴う。
    万一に備えてコーティングをしてはどうかと言ったのは我らがハートの航海士である。一度は母船を失った彼等にとって、選択肢を多く持つことは悪くない。ローはそれを承諾し、信頼出来るコーティング師に依頼を出した。
    コーティング完了前にローは学会へと旅立ってしまったが、それも無事完了したらしい。
    「俺が帰るまでは」
    『分かってますって。緊急事態以外浮上しません。代わりに早く帰ってきてくださいよ』
    「ああ」
    今回の学会出席によって船長が母船にいないという事実は誰もが知るところであった。
    この機会に乗じてハートの海賊団を襲う輩が出てこないとも限らない。もちろん残された船員だけで敵戦を沈めることは造作もないが、船には一般人であるラミも乗っている。わざわざ争いを起こすこともあるまいと、ローが戻るまではできる限り潜水する手筈になっている。
    ローの到着が遅れる分だけ彼らは海に潜り続けることになることへ申し訳なさを感じつつも、放っておけば大変なことになりそうな子供を一人残していくわけにもいかず、ローは頭を抱えていた。
    母船との連絡を終了させ、天井を仰ぐ。
    ため息を着きながら視線を下ろせば、少し遠くの欄干にもたれ掛かる少年が目に入った。
    現在二人は定期船に乗船していた。
    あれからすぐに来た定期船のタラップを早速踏み外した少年に肝を冷やしながら、何とか予定通りの行程を進んている。
    少年は海風に金髪をたなびかせ、海をじっと見つめていた。好奇心が強いのだろう。目にするもの全てに意識を向けて、輝かんばかりの笑顔で観察している。
    これでは船も逃すわけだな、ときょろきょろしている少年を見ながら笑った。
    電伝虫を懐にしまい、ローは少年へと近づく。
    「おい坊主、落ちるなよ」
    欄干に身を乗り出している少年の首根っこを掴んで引き戻す。
    少年は「わ!」と声を上げて振り返った。
    「もー、僕の名前はルシオだってさっき言ったでしょ!坊主じゃありません!」
    頬を膨らませて抗議する少年に肩をすくめる。
    「呼びにくかったらルシーでもいいですよ!」
    「そっちの方が呼び辛いだろ」
    互いに名乗らないまま同行することを決めてしまった二人は、あの後港で自己紹介をするという珍妙なことをしていた。
    ルシオ、と名乗った少年に胸を撫で下ろす。まさか名前までは被っているはずがないと思っていたが、実際に違う名前を耳にして幾分か精神的負担が減った。
    見れば見るほど少年はかつての恩人に似ている。もちろん歳も違うし、背格好も違う。だが他人の空似とは思えないほどに面影を感じていた。
    歳は十三歳で、自分の幼少期と比べると随分大きいなと感心する。しかし中身は年相応の少年だ。
    「トラオさんだっておじさんって呼ばれるの嫌なんでしょ」
    「……」
    「ほらー」
    眉を顰めたローを見て少年はにやりと笑った。
    トラファルガー・ローの名前はあまりにも有名すぎる。少年が海賊の手配書を見たことがあるかはさておき、外で本名を連呼されては叶わない。そこで不本意ながらほぼ唯一他人から付けられた愛称である「トラ男」を名乗っていた。
    疑うことを知らない少年はそれから「トラオさん」とローのことを親しげに呼んでいる。おじさん呼びが不本意であることは筒抜けのようだ。
    今のローはトレードマークである帽子を外し、一般人が畏怖する鬼哭は能力でバラバラにして鞄にしまっていた。
    鬼哭には嫌がられてしまったが、自分一人ならいざ知らず大太刀を持ったままでは少年と行動することはできない。
    そういうわけで少年の気が逸れた隙を付いて身なりを整えたわけだが、持ち物が消えたローを見ても何も言ってこないので天然なのか鈍感なのか、それともはなから気にしていないのか、よく分からない少年だった。
    「おい、そろそろ次の島が見えてきたぞ。降りる準備はしておけよ」
    「はーい!」
    目的地の島に近付くにつれ、海霧が深くなる。
    海域が変わったな、と目を細めた。暖かな空気が海にぶつかり、視界を塞ぐ程の霧を発生させているのだ。
    定期船は永久指針を目標に動いているとはいえ、船乗りでもなければぞっとする光景だなと一人海を眺めていた。
    その傍らでは興奮が抑えきれない少年が目を輝かせて外を見ている。
    「普通こんなに視界が悪けりゃ怖がるもんだが」
    「何か言った?」
    「いや」
    少年はきょとんとした顔でロー見上げている。
    どちらかと言えば知的好奇心が強い性質なのだろう。特に外の環境というものに強い興味を惹かれるようだ。
    興味があるものに集中するあまりそそっかしいところもあるが、根本的にドジというわけではなさそうだった。
    あの人はもっと意味不明なところで色々やらかす人だった。
    違いを見つける度に安堵している己に大人気ないなと思いながら、澄まし顔で少年を見下ろした。
    霧で互いの顔は半分位しか見えない。
    それでも浮かび上がる赤い瞳に目を細め、ローは口を開いた。
    「海が好きなのか」
    少年が身を乗り出さんばかりに眺めていた先はいつも海だ。
    この行程の中でももっぱら甲板にいるものだから、その背中を眺めていたらあっという間に時間が経っていた。
    今更ながら自己紹介以外の会話に興じる。
    ローの問いかけに少年は「んー」と宙を見た。
    「トラオさんは人間って、どこから来たと思う?」
    「問いかけに問いかけで返すな」
    「いいからいいから」
    この場合母親からというのは求めている答えではないだろうな、と言葉を返す。
    「進化の過程で言うのならば、元は海から来たんだろう」
    「そう!」
    正解を口にしたローに少年は嬉しそうに言葉を続ける。
    「人間も、ううん、それだけじゃなくて今陸にいる生物のほとんどは海から来たって言われてるんだって。僕達ってうんと昔は魚だったって考えると、今この下に泳いでいる魚達が実は親戚だったりしてって面白いと思わない?」
    「そりゃ随分と遠縁の親戚だな」
    数十億年単位の壮大な話に思わず笑う。
    「それだけじゃなくて、今この海にいる海王類の進化だったり、人魚と僕たちが一体どこで分岐したのかだったり。海ってまだ僕達の知らないことが沢山ある場所なんだ」
    「だから海が好きなのか」
    もう一度同じ問いかけをする。
    少年は興奮冷めやらぬ表情をぐっと抑え、はにかんで頷いた。
    「うん。好きってのとはちょっと違うけど、ずっと海に出てみたかったんだ」
    少年は欄干に手をかけ、海の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
    海霧に飲み込まれた甲板の空気は少し重い。
    「それでこの大冒険か。よく兄貴は海に出ることを許したな」
    辿り着けるかも分からない旅路に送り出すのは中々勇気がいっただろう。
    そう言うと、少年は微妙な顔をした。
    「……今までいた場所にはもう居られなくなっちゃったから」
    「兄貴の仕事が落ち着いたから行くんじゃないのか」
    ローは目を丸くする。
    「それもあるけど、一番は施設が無くなっちゃうからで……」
    施設、という言葉に眉を潜める。やはり養護施設か何かの出身なのかと納得した。両親もいないならそれも妥当か。
    「兄さんは僕より先に外に出て、海を渡って仕事をしてるすごい人なんだ。僕はずっと施設の中にいることしか出来なかったから」
    だから外海への興味が尽きないのか。
    箱入り少年のつぶやきに息をつく。
    小さな世界にいた少年が意を決して旅に出たことも、それを兄が止めなかったことも、少しだけ分かる気がした。
    ローが初めて海を渡った時は、それは酷いものだったが、だからといってただ憎しみや恨みだけがあったわけではない。かつて絵本で、図鑑で、両親からの話で聞いていた外の世界は本物だった。
    海の戦士ソラは物語だったが、ソラがいた海は本物だった。
    身に覚えのある好奇心に納得する。
    「お前の兄貴は何をしているやつなんだ?」
    そんな兄を誇らしげに語る少年に、つい気になって問いかける。
    ローと少年は目的地まで連れて行ったらすぐにでも別れる間柄だ。本来であれば相手に立ち入ることさえ憚られる。今の身の上の零れ話でさえ一時の旅路には過ぎたものだというのに、つかの間の世間話に花を咲かせる。
    「んーと、たしか駐在さん?って言ってたかな」
    んぐ、と思わず唾を飲み込んだ。
    噎せるローに慌てた少年は「大丈夫?」と言いながら手を伸ばして背中を摩る。
    なんとか咳を止めたローは少年をまじまじと見下ろした。
    「……駐在だって?」
    「そう!街の治安維持?をしているんだって」
    満面の笑みを湛える少年に悪気は無い。
    ローの本名も知らず、身分も知らず、ただの旅をする医者だと思っているのだ。
    この首に数十億の札がかかっているとは万に一つも思うまい。
    隣にいるのが凶悪だと言われている海賊の一人だとは想像すらできないだろう。
    「つまりお前の兄貴は海兵か?」
    眉間を揉みながらローは恐る恐る聞く。
    「……そうかも?」
    はっきりしない物言いに頭を抱える。
    「知らねえのか」
    「うーん、兄さんとそういう話しないからなあ。しばらくお手紙だけのやり取りだったし」
    その言葉にローは口をへの字に曲げた。
    何も海兵とかち合うのがまずいわけではない。そもそも交戦許可なしに海軍が自分達に戦闘を仕掛けてくることもなければ、一介の海兵に負けることもない。大騒ぎされることは目に見えているが、それもローが直ぐに立ち去れば何も問題は無い。
    だが少年の言葉でローの中で燻っていた疑念が強くなる。
    正直に言うと兄の話は聞いているだけで怪しい。兄の存在自体を疑っているわけでは無いが、手紙一つでここまで呼び出され連絡先はおろか兄の職業さえ曖昧となると。
    少年のつむじを見ながらローは思案した。
    騙されているのか、それとも弟に輪をかけて兄が適当なのか。
    目的地に着いたところで来るのが本当の兄かどうかも確証がない。
    しかしこんな幼気な少年を騙しても何か利があるとは思えなかった。
    出来れば本当に兄であってほしい。妹がいる身として、兄の名を騙る偽物が居ないことを願っていた。
    少年に今の自分の考えを伝えるか否か迷っている。
    初めて見る外海に興奮し、兄との再会に胸を踊らせる少年に疑念をぶつけるのは気が引ける。
    「……」
    感情移入し過ぎなことは重々承知だ。
    最初は言い訳じみたことを言いながら目的地までの同行を申し入れ、今は少年の目的が遂行できるよう見届けようとしている。
    らしくないと思った。そもそも関わらないことが正解だったとも。
    しかしローは今の現状に納得している。
    自己満足だ。少々見捨てられない面影を見ているだけ。本来の目的地に行くのも、少年が兄と再会するのを確認するのも大した差では無い。
    本当に海兵で、ただの兄であればすぐに姿を消せば良いだけ。
    それでこの奇妙な旅路も終わりを迎える。
    深く沈むローの思考をすくい上げるかのように、少年が口を開く。
    「トラオさんには兄弟いるの?」
    伏していた視線を持ち上げてローは答えた。
    「……妹が一人な。お前より小さい」
    「僕より小さいの!てことは僕と兄さんより歳が離れてるの?」
    「……まあ、そうなるかもな」
    そちらの兄が何歳かは知らないけども。しかしローとラミほどは離れていないだろう。
    本来は片手の数ほども違わないはずだった。今じゃ下手すれば親子に間違われる見た目だ。
    「へえ。一緒に暮らしてる?」
    「ああ」
    「いいなあ」
    「お前もこれからそうなるんだろ」
    自分で言って、しまったな、と思い直す。
    本物の兄が来るかどうかも怪しいと思っている自分が何を適当なことを。
    「まあ、そうなんだけど」
    少年の不安そうな声音に、おや、と首を傾げる。
    ローの反応に気付いた少年は困ったように笑いながら話を続けた。
    「兄さんの所に行くのは楽しみだけど、僕達ずっと離れてたから……上手くやって行けるのかなって、ちょっと不安になってしちゃって」
    目的地が近づくにつれ兄との再会が現実味を帯びてきたのだろう。天真爛漫に兄の元へ猛進しているだけかと思っていたが、少年は少年で悩ましいこともあるらしい。
    少年への認識を改める。
    「……俺も一緒に暮らし始めたのは最近だ」
    ローの言葉に少年は目を丸くした。
    「そうなの?」
    「色々あって離れ離れだったんだ」
    ローは万感の思いでそう呟いた。
    今は母船に居る妹を脳裏に思い浮かべる。
    二度と会うことはないと、死んだとしても地獄と天国では会いようがないなと思っていた妹と再び共にいることはまるで奇跡のようだった。想像もつかないような未来で、苦しんできたかつての自分に教えてやりたいくらいだった。
    少年はおずおずと問いかける。
    「お兄さんは、……突然妹や弟と暮らすってどう思う?」
    少年は怖々と、そして興味津々を隠せない様子だった。
    ローは目を細める。
    心配なのは少年側ではなく、もう自立しているという兄側の認識か。
    自分だけが嬉しいと思っているのではないかと心配なのだ。
    そう思うのも無理は無い。ロー自身もまた妹に様々な気苦労をかけて一緒にいる。
    「俺はもう一度一緒にいることができて良かったと思っている」
    少年はローの言葉をじっと聞いていた。
    「こんな不安定な時代に、家族と一緒にいるってのは簡単な話じゃない。俺もお前と同じようにもう両親はいない。妹も……最近まではどこにいるのかも分からなかった」
    生きていたのかどうかすらも、あの日まで知らなかった。薄情な兄と罵られても仕方がない。
    「……そうなの?」
    「まあ、だから色んなことが重なって一緒に暮らすことが出来ている」
    ローは欄干の上で腕を組んで海を見つめた。
    数メートル先すら霧で見えない。
    少年のローだけが同じものを見ていた。
    「兄貴が一緒に暮らしたいって言っているなら、何も心配することはないだろ。せいぜいわがままでも言って振り回してやれ。好きな食べ物をねだってもいいし、行きたい場所でもなんでも言ってやれ」
    きっと少年の兄だって、今の今まで一人にしてしまったことを悔いているのかもしれない。
    今ローが抱いている気持ちと同じように。
    「トラオさんも妹に振り回されてるの?」
    なんて思っていたら痛いところをつかれてしまった。
    ローは肩を竦める。
    「振り回されっぱなしだよ」
    今頃あっちはパジャマパーティだ。



    霧の街、と呼ばれる島に降り立つ。
    たしかにそう言われるだけあって町の外縁部はうっすらと霧に覆われていた。
    海霧がこれだけ陸に流れ込んで来るのも珍しい。
    海流の影響なのか、それとも風向きの影響なのか。
    後ろを振り返ると既に次の目的地へと出発した定期船は半分も見えなかった。
    不便そうな島だな、と思うと同時に興味深くも感じていた。
    久々に放浪していた時の感覚を思い出し口元を緩める。
    さすがに街中にまでは入り込んでいないものの、随分と不便な海域だなと当たりを見渡した。
    「トラオさん、こっちに地図があるよ!」
    船を降りた途端港を走り出した少年の背を追う。
    こんな場所を少年の最終目的地に設定したことは不思議に思えてならない。
    出入りも不便そうな島だ。なにもこんな場所を待ち合わせ場所に選ばなくてもいいだろうに、と内心で腐す。それともここから近い場所が居住地なのだろうか。
    偉大なる航路はまだまだ未知の場所も多い。この周辺は全く行き来したことがない場所だった。
    ローは興味深そうに地図を覗き込む。
    「今日はこの島に泊まるんだろ」
    「そう!明日の朝に兄さんが迎えに来てくれるって手紙に書いてあった」
    「となるとこの先の街のホテルか」
    手紙に書いてあったホテルの名前は街の名前を冠したものだった。
    ここからホテルまでの道のりは子供一人で向かう分には問題ないように思える。
    ローは地図を見て、少年を見下ろし、そして背後の港を見た。
    「……」
    港は閑散としている。
    分かっていたことだが、後続の船は無い。
    それもそのはずで、少年が今日中に到着できるよう調整した結果、今度は自分の目的地までの船が無くなってしまったのだ。ローが乗りたい船はもう明日にならないと来ない。
    そうであるならばローも今日の寝床を調達しなければならなかった。
    ローはため息をつきたい気持ちを抑え、少年へ声を掛ける。
    「おい、街まで行くぞ」
    「!」
    少年の顔がぱっと明るくなる。あともう少しだけ二人の旅路は続くのだ。
    港からさほど離れていない街は観光業が盛んな訳では無いのか商売気もない普通の街だった。
    日も暮れて街灯に照らされた街並みに望郷の念にかられる。実際には似ても似つかない外観だが、何の変哲もない道を穏やかに歩くだなんて海賊になってからは早々無いものだった。
    これまでの人生が重荷だと思ったことはない。
    しかし海賊でも医者でもなく、家族のためでもなく、自分のためでもなく。初めて出会った少年を前にしてどこか肩の力を抜いていた。
    「あ、あれかなトラオさん!」
    少年が指差す先には一際高い建物がある。
    看板のHOTELの文字にローは頷いた。どうやらまともそうなホテルで、ローは安堵した。
    一人で先に駆けて行こうとする少年を制してローはホテルの入口を潜った。
    可もなく不可もなく。フロントやロビーの規模を見る限りそこそこの値段で旅人を泊める安宿だ。
    放浪している最中にこの手のホテルはよく利用していた。フロントスタッフも常駐しているし、子供一人で泊まるには最低限安全と言えるだろう。
    フロントの前で少年に目配せをする。
    暗に一人で出来るか、と問いかけられた少年は少々緊張した面持ちで頷いた。
    子供にはいささか高いカウンターに爪先立ちで捕まりながら、少年は口を開く。
    「こんにちは!今日から一泊で予約しているルシオです!」
    カウンターにいたのは若い女性だった。あらあらふふふ、と少し顔の赤い少年に微笑む。
    初めて一人でお使いをしにきた子供にでも見えるのだろう。
    「はい、予約を確認しました。本日から一泊のルシオさんですね。先に清算は済んでいますので、このままお部屋にご案内できますよ」
    女性はカウンターから少しだけ頭が出ている少年にも見やすいように書類と鍵を見せる。
    わあ、と顔を上記させた少年は鍵を受け取った。
    そんな少年に、女性は丁寧に分かりやすく説明する。
    「部屋は奥の階段を上って二階です。鍵に書いてる番号と同じ部屋を使って下さいね。明日はホテルを出るときにここに鍵を返しに来てチェックアウトです。できるかな?」
    「ありがとうございます。頑張ります!」
    鍵を手に取った少年は「おお」とそれを目の前に掲げた。さながら伝説の剣を手にした勇者のような面持ちだ。
    無邪気な少年に女性は微笑む。その女性の視線が少年からローへと移り、何かを言われたわけでもなくつい言い訳を先に口にした。
    「……付き添いみたいなもんだ」
    子供が一人泊まる予定のところに、後ろで似ても似つかない大人がいたら不審にも思うだろう。
    そう思っての弁明だったが、なんだかそれも違う気がして顔を顰める。
    無邪気な少年と強面の青年という摩訶不思議な組み合わせに、しかしフロントの女性はプロの姿勢を崩さず笑顔を絶やさなかった。ますますローは口をへの字に曲げた。
    大体、言い訳をしてもこの後言う言葉は決まっているのだ。
    「……今夜もう一部屋空いているか」
    こつん、とカウンターを指で叩きながらローは女性へ問いかける。
    その言葉に少年が横からローを見上げた。
    じっと見つめられ続けて、ローはふっと目線を逸らした。
    「……もう今日は遅いからな。定期船も終わっているし、俺もここに泊まるしかない」
    「ってことは、一緒にお泊りできるってこと?」
    「一緒に、って部屋は別だぞ。まあ空いていたらだが」
    そう言うローの目の前で、女性はすっと記入用紙と鍵を差し出した。
    「同じ階のお隣をご用意いたします。必要事項の記入と、それから前払いにご協力ください」
    仕事が早い。ローは思わず鍵と女性を見比べてしまった。
    明らかに血縁関係のない男が子供と隣部屋に泊まってもいいのかとも思うが、少年側に警戒心がないことを良く分かっているのだろう。知人かなにかに思われているのだ。今日会ったばかりの、たった数時間の付き合いだと言ったら女性は驚くに違いない。自分も驚いているところなのだから。
    二人分の視線を躱しながらさっさと宿泊代を支払い、偽名を記入したローはカウンターから鍵を取った。
    ごゆっくりお過ごしください、と頭を下げる女性を尻目に少年と二階への階段を上っていく。なんだかその視線が生ぬるくて、さっさと部屋に行きたかったのだ。
    手の中の鍵がちゃりんと鳴った。
    思えば今日は朝から学会に参加し、なんだかんだと迷子の案内を務め、こんな知らない土地で一泊するはめになっている。なんと長い一日だっただろうか。
    ローは肩にどっと疲れが乗った気がして首をぐるりと回す。背骨と首の歪みからか生木を割るような音が体内から聞こえてきた。
    目の前を歩く少年は体力があるのか疲労の色は見えない。初めての旅だというのに存外頑丈なものだ。
    このまま明日の朝、少年を兄の求へと届けたらローの仕事は終わりだ。
    恩人によく似た少年に妙な縁を感じてここまで着いてきてしまったが、明日を最後にもう会うことは無いと思うと不思議な気持ちだった。
    この広い海での奇妙な巡り合わせをローはどこか望郷の念にも似た気持ちでいた。昔からの隣人のような、知っていた仲のような。
    重ねてはいけないいくつものことを振り払い、ローはため息をついた。
    隣同士の扉の前で二人は同時にドアノブに手を掛ける。
    さっさと部屋に入ろうとしたローに、少年は横から声を掛けた。
    「明日の朝、僕がちゃんと兄さんと会えるか見ててくれる?」
    少年にとってこれはまだゴールではない。ちゃんと迎えに来る兄に再会できて初めてこの旅は終わるのだ。
    甘えられているのだろうな、と思う。親切にここまで連れてきてくれて、兄と似たような年ごろで、妹がいる男で。どこか自身の兄と重ねているのだ。
    それかドジな自分自身を心配しているか。どっちもか、とローは薄く笑った。
    「……だったらさっさと寝て、明日寝坊するな。あと部屋にはすぐに鍵をかけろよ」
    がちゃん、と扉を閉めて。おやすみと聞こえた気がしたが、そこからは一人だった。
    ──朝、鳥の鳴き声で目を覚ます。
    簡素なベッドから身を起こすと、丁度朝日が昇りかけている時分であった。
    締め切った日除けを少し開けて外の様子を伺う。朝靄が掛かっている道には人っ子一人いない。
    少し早く目を覚まし過ぎたな、と思いつつも二度寝をする気にもなれずそのままベッドから降りた。
    少し水圧の弱いシャワーを浴びて意識をはっきりとさせる。
    バスタオルで頭を拭きながら部屋へと戻ったローは、サイドボードに置いてある握り飯をじっと見つめた。
    昨夜部屋に入った後、ふと思い立って外に出た。このホテルの周辺で朝からご飯が食べられるような場所があるとも思えず、まだ夜の店が開いているうちに食料を調達しようと思ったのだ。
    適当な握り飯をいくつか買って帰ってきたローはすっかり静かな少年の部屋の前を通って、再び自室へと戻った。それが昨夜の出来事。
    その握り飯を一つ手に取ると、ローは少し湿ったままの髪で廊下に出る。
    隣の部屋の扉を軽くノックした。
    待つこと数十秒。まだ起きていないか、と肩を竦めて自室の方へ足を向けると扉の向こう側で人の動く気配がした。
    鍵が開く音と、ドアノブがゆっくりと回る様子にローは呆れた顔で出迎えた。
    「……寝癖がすごいことになっているぞ」
    まだ眠い目を擦りながら扉を開けた少年の髪の毛は芸術的なまでにあちこち飛び跳ねている。
    元々くせ毛で猫っ毛なのだ。
    「んー、トラオさんおはよー……起こしてくれてありがとー」
    その寝癖前回の少年はぼうっとしながらもローに挨拶をする。
    「ん、ほら朝飯だ。これ食ったら顔洗って髪の毛もどうにかしてこい」
    「あーい。ありがとうございます」
    もしょもしょとローの手から握り飯を受け取る。
    心配になったローは思わず髪の毛を撫でつけた。
    「二度寝するなよ。もう起こしてやらないからな」
    「がんばります」
    少しだけ収まった寝癖と共に大きなあくびをした少年は再び部屋の中へ戻っていった。
    大丈夫だろうかと眉間に皺を寄せたが、自分もまだ身支度の途中であることを思い出し部屋に戻る。
    時折隣の部屋から薄い壁越しにどったんばったん聞こえてくるが、二度寝をしていないならそれでいいかと納得した。
    一時間後、ようやく隣の部屋の騒音も収まった頃合いでローも荷物をまとめて廊下に出る。
    ローが部屋から出る気配を感じ取ったのか、少年も慌てて廊下に転げ出てきた。
    「二度寝!しなかった!」
    「そりゃよかったな。……後ろの寝癖直ってないぞ」
    「え!」
    少年は手で頭を押さえる。
    あれだけどったんばったんやっていたのになぜ寝癖が直っていないんだと呆れた。
    「部屋に忘れ物は?」
    「確認した!」
    「本当か?」
    「……もう一回見てきます」
    ちらりと扉を振り返り自信がなくなった少年は再度部屋の中に戻っていった。
    「今度こそ大丈夫!」
    さっきは背負っていなかったリュックを背負って出てきた少年に、ローは頭を抱えた。全く大丈夫ではない。
    下へと降りる階段へ向かいながら、ローは口を開いた。
    「んで、お前の兄とはどこで合流だ」
    「朝にホテルまで迎えに来てくれるって手紙には書いてあったよ」
    「……じゃあもう来てるんじゃないか?」
    ホテルのチェックアウトギリギリの時間に出てきた二人は思わず顔を見合わせる。
    既に朝日が昇って数時間は経つ。朝迎えに来ると書いてあったのなら、すれ違わないように向こうもそれなりの時間には来ているだろう。
    「そ、そうかも」
    そう思い至って慌てたように階段を駆け下りる少年に、転ぶなよ、と声をかけた。
    待たせている分には問題ないだろう。万が一来ていなかった時のことを考える方が頭が痛い。
    あの手紙の雑さを考えれば有り得ないこともない話にぞっとしながら、ローは階段を降り切った。
    「──」
    少年の背を追うようにして視線をロビーに向けて、息を止める。

    「ルシオ」

    透き通るようなテノールが耳に届く。
    己の名前を呼ばれた少年はぱっと顔を上げて嬉しそうに駆け出した。
    その光景を視界に入れ、ローはその場から一歩も動けなかった。
    喉が張り付いて言葉も出なかった。
    その男は、ローよりも随分と高い長身に、少年とよく似た金髪の癖毛、深い紅玉の瞳に、白い制服がよく似合っていた。

    『ロー』

    忘れかけていた声が語りかけてくる。
    かつてのピエロを脳裏に思い浮かべた。もしかしたらピエロメイクの下はこうだったのかもしれないと思い描いていた姿が目の前にある。
    似ているなんて陳腐な言葉では片付けられなかった。
    頭のてっぺんからつま先まで、全くもって瓜二つ。
    その事実を認識する度にローの意識は沈んで行った。
    自分の呼吸の音だけがうるさく響いている。
    忘れるなと、思い出せと、解き明かせと脳が警告する。
    「兄さん!」
    両手を広げて待つ男の元に、少年は一目散に駆け寄った。
    すっぽりと腕に納まった少年をぎゅっと抱き締めた男は、その視線をゆっくりと起こす。
    かつての記憶と重なる。
    微笑む笑顔に目眩がする。
    薄く開けられた口から己の名が呼ばれるような気がして、恐怖で先に言葉が出る。

    「誰だ、お前」

    かつての恩人、ドンキホーテ・ロシナンテと瓜二つな人間はにこりと笑いかけた。





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