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    shibari_

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    shibari_

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    Lacrimosa⑥〜⑧

    Lacrimosa 「いやー、すみません弟が大変お世話になったみたいで。大したお礼も出来ませんが、是非食べてください!」
    よく見れば着ている白い服は軍服ではなかったし、相手は自分のことを全く知らないようだった。
    加えて何故かローは兄弟に連れられてお昼ご飯を食べに来ていた。
    円卓に座り次々出てくる料理を呆然と眺めている。
    にこやかに笑う男は、大皿料理が来る度に弟の小皿へとよそってやっていた。
    どこからどう見ても、頭のてっぺんからつま先までもが、『ドンキホーテ・ロシナンテ』にそっくりだった。
    「トラオさん、これ美味しいよ!」
    少年が肉を頬張りながらそう言う。
    「あ、ああ」
    少しだけ頬を引き攣らせて、ローはフォークで肉を掬い取る。
    上から数えた方が早い賞金首を目の前にして、兄弟はなんでもないように食事をしていた。
    隙を突いて料理をスキャンする。何もない、ただの料理だ。毒が仕掛けられている訳でも、幻覚作用のある薬が入っている訳でもない。現時点ではロー自身にも異常は無い。妄想状態の末に見たものでは無い。
    ならば目の前の光景は真実なのだ。
    男はソースを頬に付けた少年に、仕方がないなと布巾で拭き取ってやる。ついでに自分の頬にも付いていることに気付いているだろうか。
    かつて子供のローがコラソンと病院巡りをしている時も、コラソンはローをそうやって構いたがった。残念ながらローは頬に食べ物をつけるような可愛げのある子供ではなかったのでコラソンの気遣いは空回りすることになったが。
    「兄さん、僕途中で船を乗り遅れちゃってね。トラオさんがここまでの行き方を全部教えてくれて一緒に船に乗ってくれたんだよ」
    ローがぼんやりと考えているうちに少年と兄の会話は進んでいく。
    弟の言葉を聞いた男はへにょりと申し訳なさそうな顔をして頭を下げる。
    「本当に大変お世話になりまして。弟と再開出来たのも貴方のおかげです」
    「……まあ、通りがかりみたいなもんだからな。今度はちゃんと一人で船に乗る練習でもさせてから旅させろよ」
    「いやほんとに仰る通りで……俺が仕事にかまけていたせいで危うく弟が行方不明になる所でした」
    はは、と男は頭を搔く。
    男は『ロシェル』と名乗った。
    似ている語感に逸る気持ちをおくびにも出さず、ローは共に食卓に着いた。
    ローの顔を見て懐かしさを浮べることも、海賊としての側面を知ることもない、ただの男。
    本当に、ただの男だった。
    それがローの心に突き刺さる。知っている男の、知っている動作が、知っている声で他人の振りをされることに怒りを覚える。
    コラさん、なんで。
    記憶をなくしているのだろうか。どうして違う名前を名乗っているのだろうか。それとも十数年という長い年月でローの中に面影すら見出せなくなったのだろうか。
    いや違う。
    何を。
    ローは拳を握りしめる。
    なぜ目の前の彼が自分の知る『ドンキホーテ・ロシナンテ』だと決めつけて話を進めようとしているのか。
    いつの間にか自身を支配していた焦りを追い出す。
    ローの脳裏に彼の最期の姿が思い浮かんだ。
    ローのために実を手に入れようとボロボロになって、それでも最期の最期まで血だらけの顔で笑顔を絶やさなかった人。
    宝箱の向こう側で一人になってしまった人。
    ローが一人にしてしまった人。
    いつまでも心の奥にいる人。
    綺麗にしまい込んで、大切な思い出として愛したかった人。
    「トラオさん?」
    俯き黙り込むローに少年が声をかける。
    顔を上げると、似たような二つの顔が心配そうにこちらを見つめていた。
    「何か嫌いなものでもありましたか?」
    その顔を見て、なんでもないと首を振る。
    ローでも心が揺さぶられる。危険な傾向だ。
    本当に彼がドンキホーテ・ロシナンテだとでもいうのか。
    彼はもう過去の人だ。そのはずだ。
    実の兄の凶弾によって倒れ、その死に様を直接見たわけではないがローにかけられた実の能力は効果を失った。その死を悟って、真っ白な雪の中泣き叫んだことはローの心の中に深い傷として残っている。
    第一、もし彼がドンキホーテ・ロシナンテというのならばいささか若過ぎた。
    十数年前に既に二十半ばだった彼は、生きていれば既に四十を超えていてもおかしくない年頃だ。
    だが目の前の男はどこからどう見ても二十半ばにしか見えない。だからこそあの頃のドンキホーテ・ロシナンテに瓜二つだが、だからこそ本人であるとは断定出来なかった。
    まさか不老でもあるまいし、とその秘術が使える当の本人が笑い飛ばした。だから今も大暴れせずに同じ卓で食事をてきている。それがローの、皮一枚の心の防衛線だった。
    『兄さま!』
    一つだけ、心当たりがないわけではない。
    かつて生き別れた時の、そのままの姿で再会した妹を思い出し、いいやと首を振る。
    そんなわけがない。
    幾つもの奇跡が重なった末に妹は生き延びることが出来た。
    決して幸福なだけでは無かったが、悲劇だけではなかったと言える。
    針に糸を通すように、一つ一つのピースがハマったから、ローは妹の元へとたどり着いたのだ。
    その奇跡をもう一度信じないわけではない。だがもう祈るだけの子供ではなくなってしまった。
    他人の空似か、ローの知らないところで何かの企てが起こっているのか。
    最初は少年と出会ったこと自体偶然だと思っていた。
    今は二人が自分の前に現れたのには何か意味があるのでは、と疑っている。
    自分が知らない、あの人の何かがあったのではないかと。
    今なら分かる。恩人の出自と、置かれた立場と。
    自分には想像も及ばない世界があったのだと理解してる。
    だから事情が変わった。
    当初の目的が追われば母船と合流するはずだったが、ここで終わりにする訳には行かなかった。
    ローは注意深く二人を見つめる。
    たとえどこにでもいそうな微笑ましい家族にしか見えなくても、彼らが本当に何もかも無関係であると証明できない限り引き下がれない。
    ただの他人の空似ですと言われた時の寂しさと、関係があるとわかった時の恐ろしさと、どちらも想像しながら料理を口に運ぶ。
    どちらでもいい。
    どちらであっても失望するし、どちらであっても後悔する。
    なら、知ることの利を選ぶしかない。
    「……、……てことで。だから、是非うちに寄っていきませんか」
    「は?」
    いつの間にか進んでいた話に口をぽかんと開ける。
    二対の瞳がキラキラとこちらを見つめていた。
    考えに没頭しているうちに肝心な話を聞き逃してしまったらしい。言葉の端から察するに、お礼も兼ねて家に招待されているのだろう。
    「家はここじゃないんだろう?」
    ローはそのまま思ったことを口に出す。
    「ええ、ここの港から一時間ほど船で行った所にある小さな島です。この海霧海域にある島の一つなんですが、いい島ですよ。私、そこで警備の仕事をしているんです」
    男は自分が暮らす島を穏やかな顔で紹介した。
    「定期船もなくて個人で行き来するしかないから滅多に外から人も来ないような閉鎖的な島なんですけど、綺麗な景色でいい場所ですよ。ぜひ弟をここまで連れてきてくれたお礼をさせてください。もちろんトラオさんの予定がまだ大丈夫ならなんですが……。往復の足は私が責任を持って勤めますよ」
    本来だったら着いていくはずもない。成り行きで助けて、お礼に民家に上がるなど海賊を生業としているローには忌避すべき事だった。
    だが今は事情が違う。
    もしかしたら彼の領域内に飛び込めば何か掴めるのではないかと思った。
    海の深くに身を潜めている己の船員達に心の中で謝罪する。もう少しだけ時間が欲しいと。
    「トラオさん!僕が暮らす街を見てってよ!」
    横から弟も援護射撃とばかりに身を乗り出してローを誘う。
    ローが逡巡したのは数秒の事だった。向こうから誘われたのならば乗り込んで行っても怪しまれることも無いだろう。むしろこれに飛びつかなければ今後好機は巡ってこない。
    ローは表向きは仕方がなさそうに頷いた。
    少年はぴょんぴょんと飛び跳ねる。
    「やったー!トラオさん、ありがとう!」
    「こら、食事中はちゃんと座りなさい。すみません、トラオさん」
    弟をなだめた男はローに申し訳なさそうに頭を下げた。
    「ルシーもこの通り、トラオさんに来ていただければ新しい土地でもやって行けると思いますので。是非うちの島を見ていってくださいね。長閑で綺麗で穏やかで、きっと気に入ります」
    「随分褒めるな」
    「いやあ、住めば都っていうか。今から行けばちょうど太陽が傾き始めて西日が街に入るんですよ。それが綺麗で、赴任した日に興奮したもんです」
    目を細めてふふ、と笑う男にローは虚をつかれたような顔をする。
    恩人はローにそんな表情を見せたことがなかったから、この人こんな顔もできるんだな、としみじみと感じた。本人とは限らないが。
    そうと決まれば、と急いで料理を食べ終えて三人は港に向かう。
    そこにはここまで彼が乗ってきたという小さな帆船が停まっていた。昨日は無かった船だ。手入れが行き届いており、少人数の航行ならば問題ないように思えた。普段からこの船によく乗っているのだろう。
    公営的な船を覗いて他人が舵を取る船に乗るのは久しぶりだ。
    帆船の先には永久指針が取り付けられている。
    それをじっと見つめていたローに気付いたのか、男は「深い霧の中でもこれがあれば島にたどり着けるんです。ここいらじゃ必需品ですよ」と笑った。
    確かに、一寸先も霧と言っても過言では無い海域で無事に移動するためには必要な知恵なのかもしれない。
    大した荷物もない三人はその船にすぐ乗り込む。
    手慣れた様子で船を操る男の背をじっと見つめながら、時々周囲の海に興奮したように話しかけてくる少年を躱す。
    そういえば小さい頃はこんな船で二人で旅をしたものだ、と思い出した。あの頃はコラソンと二人なんてたまったもんじゃないと思っていたが、もっとよく見ておけば良かったなと思った。
    かけがえのない日常だなんて、いつも後から気付くものだ。
    生ぬるい雲霧に巻かれながら、時々途切れる霧の間から差し込む太陽に目を細め、しばらく経つと海流が変化したことに気付く。島が近付いてきたのだ。
    少年の話にあれやこれやと反応してやり、笑いながら会話に入ってくる男の相手をしていたらいつの間にか一時間ほど経っていたらしい。
    座っていただけだというのに少々疲れたローはふっ、と息をついた。
    器用に接岸した男が船を括り付けるためのロープを取り出す。ボラードに縄を引っ掛けるのを見届け、ローは船から陸地へ上がった。
    島への一歩目を踏み出した時、僅かな違和感に眉を顰める。思わず鳥肌の立った腕を抱えた。
    後ろを振り返る。兄弟はまだ船を港のボラードに括り付けて、荷卸をしている最中だ。
    感じた違和感を言葉に出来ず首を傾げる。
    あるいはローだけがそれを異物だと思っているのか。
    そして港に向かって降りてくる風の匂いを吸い込み、ローはその懐かしさ(・・・・)に息を呑んだ。
    工業的な、それが湿った空気に撫でられた時のあの独特の匂い。
    足が自ずと風上に向かう。
    「あ、トラオさん!?」
    背後からの少年の制止の声にも振り返らずに、ローは進んだ。
    男が何かを言っているような気がした。

    港から離れていくにつれ薄霧が晴れていく。
    砂利道が舗装された道に変わっていく。
    白亜の石・・・・が敷き詰められた道は太陽の光を跳ね返して眩しい。
    靴裏に跳ね返る懐かしい感触に呆然とした。
    光に包まれ、目を細めながら進む。
    人の声が聞こえてきた。
    子供たちが遊ぶ声が声が聞こえる。
    人を呼び込む商いの声が聞こえる。
    井戸端会議らしき主婦たちの声が聞こえる。

    教会の鐘の音が聞こえる。
    その音に驚いた鳥達が一斉に飛び立つ。
    覚えのある光景に息を飲む。

    ここは、ここは。

    声に出してはいけないと言葉を飲み込む。
    言葉にしたら、それが本当になってしまう気がしたからだ。
    美しい白い街を眼前に、ローは街の入口で立ち尽くす。
    綺麗なアーチ状の向こう側にあるその街並みはどこか懐かしい。
    薄れた記憶を思い起こす。
    同胞の死体に紛れて街を出てから十数年。もう故郷にいた時間よりも海賊になってからの方が長くなってしまった。
    それでも記憶の奥底から語りかけてくる光景に臓腑を絞られるような思いで息を吐く。
    ──そんなはずはない。
    自問自答する。
    あの街は焼け落ちた。国境には柵が張り巡らされ、今は誰一人足を踏み入ることのない忌み地になっている。
    自分の中で美化された記憶がこの街の景色と重なっただけだ。ここはきっと少し似ているだけの、ただのどこかの街だ。
    それにここは北の海ではなく偉大なる航路の島に過ぎないのだ。
    だから、あの街なわけがない。
    そんなはずはない。
    立ち尽くすローの目の前を子供達が横切る。遊んでいる最中だろうか。
    子供達は大通りのど真ん中にいる異邦人を見て不思議そうな顔をしていた。
    住人達も突然現れたローの姿に気付いたのか、井戸端会議でコソコソと声を潜めるように何かを言い合い、道行く人間は失礼にならない程度にちらりと一瞥して去っていく。
    ローをここに連れてきた男は、ここには滅多に外から人が来ないと言っていた。
    だから異物であるローへと珍しいものを見るような目をしているのだ。
    その奇異の視線に耐えられず、ローは思わずすぐ横の道へと体を隠す。
    建物で太陽が遮られ、少し薄暗い道だ。だがそれでも真っ白な素材で出来た街は嫌味なくらい美しい。
    『ロー、走っちゃだめよ』
    はっ、と顔を上げる。
    記憶の中の街と景色が重なって、一つの記憶を思い出す。
    母はよくこの道を通って買い物に行っていた。
    たまに着いて行くとローの好きなご飯のリクエストを聞いてくれたから、ローは母と出掛けるのが好きだった。
    母の幻影を追ってローはゆっくりと道の奥を見た。
    この先には商店があって、近くにはアイスクリーム屋もあったはずだ。
    よく知っている場所だった。
    ゆっくりと足を進める。
    記憶の通りに見覚えのある道を進む。
    十数年ぶりだというのに忘れてはいなかった。
    それが不思議だった。
    もしこのまま進んだら、自分はどこに辿り着いてしまうのだろうか。
    母とよく通った道を戻るのならばその終着点は一つしかない。
    あり得ないものを想像して途端に足が竦む。
    こんなに綺麗な街なのに、焼け落ちた生家を思い出して奥歯を噛みしめる。
    もしも、もしもここがかつての故郷と全く同じ街並みなら、それを確かめる事が恐ろしかった。
    憎たらしいまでに美しい建物の壁に身体を預けて、ローは天を仰ぐ。
    白い建物の隙間から青空が覗いている。白と青のコントラストに目を細めた。
    「……なんだ、ここは」
    自分のものとは思えない、酷くガラガラな声に驚いた。
    ローが消えた後の大通りからは変わらず街の喧騒が聞こえてくる。
    自分以外で構成された、自分の故郷にそっくりな街。
    自分の知らないはずの場所で、自分の知らない時間が流れている街。
    炎に沈んだはずの、誰からも忘れられたはずの街。
    夢を見ているのかと思った。
    もう夢にすら見ない光景だった。
    あるいは自分の中で失くしてしまった光景だったか。
    得体の知れない恐怖に身を締め付けられ、言葉にできない嫌悪が渦巻く。
    目に映る全てのものが、これは現実だと訴えかけていた。
    吐き気をぐっと堪え心を落ち着かせる。
    ふいに人の気配がした。
    「あら、あなたどこから来た人?」
    ローは声のする方へと視線を向ける。
    民家の軒先で女性がこちらを見ていた。買い物袋を持っているからこれからどこかへ出かけるのだろう。
    初めてこの島の住民に話しかけられて、ローはすぐに声が出なかった。
    何かを言わなくてはならない。相手に警戒されないように、この場をやり過ごせるように。
    しかし何も考えずに口を開けば余計なことを口走りそうで、ローは沈黙を選ぶしか無かった。
    本当はここはどこなんだと叫びたかった。
    どうして失われたはずの街と同じ場所があるのかと問いただしたかった。
    お前達は誰なんだと責めたかった。
    だというのに金縛りにあったかのように口が動かない。
    せめてもと女性の目を見る。
    『あらロー君、お母さんのお手伝い?偉いわね』
    ローは己の目を疑った。
    記憶の中で、目の前の女性と全く同じ姿の女性が自分にそう言っていた。
    当時は下から見上げていたが間違いない。
    かつての故郷でもこの場所にこの女性はいた。
    母と買い物に行く道すがらよく挨拶をしていた女性だ。
    まさか、そんなはずはない。
    そんなの、もっと有り得ない。
    模した街があるだけならまだしも、同じ人間(・・・・)がいるなど。
    黙り込むローに気分を害した様子もなく、女性はローの顔をまじまじと見ると「ああ!」と声を上げた。
    「もしかして、ロシーさんが連れてくるって言ってた弟さん?」
    息を呑んだ。
    ロシー。その愛称はかつての恩人のものだ。
    いや違う。あの男、ロシェルと名乗った男のものだと直ぐに思い直す。
    自分をここに連れてきたあの男は奇しくもかの恩人と同じ愛称を持つらしい。
    「あらでも弟さんってもっと小さいって聞いていたけれど」
    女性は顔に手を当てて首を傾げている。
    こんな強面の男を捕まえて、警戒心のかけらもない。
    ローは何とか震える口を開いて言葉を返す。
    「……その弟のルシオの、さらに連れだ。いまあの兄弟は港で船を繋いでいる」
    「まあそうなの。じゃあロシーさん、ちゃんと弟さんを連れて帰って来れたのね。良かったわ、あの人少し抜けているところがあるから心配していたんだけど」
    「……ああ」
    女性はローの様子にちっとも気にせず、嬉しそうに話している。
    それだけあのロシェルという男はこの街に馴染んでいるのだろう。見ず知らずのローへの警戒を解くくらいには。
    「外からお客様が来るなんて何年ぶりかしら。ここ最近めっきり外との交流が無いから新鮮ね」
    「……あいつは、ロシェルはここに来て長いのか?」
    「ロシーさん?ええ、あの人がここに赴任してからもう三年くらいかしら。いい人よ、困っている人がいたら放っておけない人で。うちの街でもとびっきり愛された駐在さんなの」
    今日は明るいニュースがあっていいわね、と女性は笑う。
    どこか話の通じない女性だった。
    「あなたもここに住むの?」
    そう問われて、ぎょっとしながらもローは答える。
    「……いいや、あの兄弟に招待されただけだ。住むわけじゃない」
    「あらそうなの、残念ね。じゃあ滞在中は沢山色んなところを見てくださいね」
    ふふふ、と女性は笑った。
    かつてと寸分違わない笑顔で、大人になったローに語りかける。
    「ようこそフレバンスヘ」
    綺麗な街よ、と女性は嬉しそうに言った。
    知っている。嫌という程に。


    ほとんど逃げるかのように坂道を駆け上がる。
    人が居ないほうへ、ずっとずっと奥へ。
    見たくないものを避けるために足を動かす。
    生家がある場所からなるべく遠ざかろうと明後日の方向へ突き進む。
    次第に建物は少なくなり、小高い丘を登るにつれ街の景色も見渡せるようになった。
    それを見ようともせず、ローは視線を前にだけ向ける。
    次第に足も疲れ、一つの建物が見えてきたところで足を止めた。
    「……」
    少しだけ乱れた息を整えて、ローはその建物を諦観の境地で見つめる。
    子供の頃は首が痛くなるくらい見上げた建物。
    一際白い壁に美しいステンドグラスは、よく妹が嬉しそうに見ていた。
    そんな妹の手を引いてミサに参加するのがローの日常だった。
    堅牢な作りの教会は、ローの記憶に違わず存在している。
    来るはずではなかった。
    それでも幼少期の記憶がそうさせたのだろう。
    ローにとってここは自分の家の次に思い入れがある場所だった。
    それすらも記憶の通りの場所に存在していて、この奇妙で不気味な街に得体の知れない恐怖を感じる。
    ローは建物へと一歩進んで扉に手を当てた。
    見ることができるし、感じることも出来る。ここに確かに存在しているのだと、はっきりと理解出来た。
    子供の頃一人で開けるには重かった扉は、大人のローによって簡単に開かれる。
    少しだけ錆びた蝶番が擦れる音と、重い扉の軋む音が教会の中によく響いた。
    真っ直ぐと奥まで伸びた聖堂へと恐る恐る足を踏み入れる。
    ちょうど太陽が西に傾き始めて、窓から光が差し込んできている。
    埃っぽい臭いと、石膏の香り、それから何かの香草の匂いが混ざり合った匂い。その空気を吸い込んで、嗅覚に結びついた当時の光景を思い起こす。
    皆がミサの時に座っていた長椅子、立派なパイプオルガン、神父様が立っていた説教台、シスターがよく飴を配ってくれた窓際。
    記憶の通りに並ぶそれらに、思わず息をするのも忘れる。
    十数年経っても存外思い出せるものだ、とローは感心していた。
    自分の中ではもう過去にしてしまったものだとばかり思っていたが、薄情ではなかったらしい。
    過去の記憶に懐かしみ、目的も忘れて教会の中を見渡す。
    今だけはただ遠い故郷の思い出に浸りたかった。
    こつりと、奥から靴音が聞こえてくる。
    ローは音の方向へと視線を向けた。一人分の気配がする。
    はは、と乾いた息が溢れた。
    「貴方もお祈りに?」
    柱の影からゆっくりと出てきたのは柔和な表情をした聖職者の女性だ。
    ああ、と。ローは思わず拳を握りしめた。
    そうか、貴女もいるのか。
    「……シスター」
    つん、と鼻奥が痛む。
    視線の差に気づいて、ローは小さくため息をついた。
    すっかり背は追い越してしまった。こうして見ると彼女は小柄だったのだろうなと思う。その小さな身体で街の子供達を連れてなんとか生き延びようとしていた、優しくて憐れな人。
    こちらへと歩いてくるシスターはローの顔を見ると目を丸くした。
    「あら、街の方ではありませんね」
    先程街で出会った女性とは違い少し不安げな表情を浮かべるシスターに、ローは咄嗟に用意していた答えを言う。
    「ロシェルの連れだ」
    「まあ、そうなんですか。そういえば今日は弟さんを連れてくるって仰っていましたね」
    「……ああ」
    あの兄弟の話は街中に知れ渡っているらしい。そのおかげで怪しまれずにいる。
    「ロシーさん、お友達も連れてきてくださったんですね」
    「別に友達じゃ……」
    そう言いかけてにこにこと笑うシスターに言葉をまらせる。
    ここで下手に否定をすれば怪しまれる。都合よく解釈してもらえるならそれに越したことはない。
    それでも騙しているような気がして顔を背けた。
    「……お祈りを、してもいいか」
    ぽつりと言葉を落とす。
    「まあ、どうぞ。是非」
    シスターに指し示されるままに長椅子に腰掛ける。
    ローの身長には少しだけ窮屈で、前の椅子に膝が着きそうになって少し可笑しかった。昔は地面に足すら付かなかったのに。
    自分の成長と、時を止めてしまった街に見えない溝を感じた。
    十数年ぶりに手を組み、静かに祈る。
    祈る言葉は無かった。ただ目を瞑り、ローは郷愁の念だけを想った。
    気を使ってかシスターはその間ローに背を向けていた。
    そう長くもない祈りを終えて、ローは息を吐き出す。
    「慣れていらっしゃるんですね」
    シスターはローの仕草を見てそう言った。
    「……小さい頃、こんな教会に家族と来ていたんだ」
    「そうなんですね。故郷にも教会が?」
    「ああ。……あんたみたいなシスターもいた。同い年くらいの子供は皆シスターに世話になっていた」
    「そうなんですか、素敵ですね。うちの教会にもよく子供達が来てくれるんですよ」
    「そうか」
    知っている、とは言えなかった。きっとそうなのだろうな、と想像する。変わらず彼女は飴をあげているのだろうか。
    今は静かですけれど、とシスターは教会を見渡した。
    幼少期、教会は子供達の遊び場だった。教会の外には何もない敷地が広がっていて、子供だけでも遊んで良い場所だったからだ。
    それに街の人間もなにかと教会に顔を出すことが多かったように思う。シスターは話を聞くのが上手かったし、子供にも優しく、何より綺麗な人だったから街の人気者だったのだ。
    シスターの顔を横目で見ながら、ローは深く深呼吸をする。
    信じられない思いが胸に渦巻いていた。だから視線を合わせられなかった。自分だけが見ている幻だと言われた方がよほど納得できる。
    だが残念ながらこれは現実だ。彼女の息遣いが 彼女が生きた人間であることを証明している。彼女と話している自分が、彼女を一人の人間だと認めていた。
    そんなローのぶっきらぼうな態度を気にした様子もなく、シスターは穏やかに話続ける。
    「ロシーさんが弟さんを連れてきてくださったなら、また教会も明るくなりますね」
    「少し抜けたところのある子供だ。手を焼くかもな」
    ローがそう言えば、さらに「ふふふ」と笑った。
    「新しい方が来るなんて滅多にありませんから、こんな明るい知らせはありませんよ」
    その内容に既視感を覚えたローは視線を上げる。
    「……さっき別の住人も言っていたな。観光客とかは来ないのか。こんな綺麗な街なら噂になるだろう」
    「え?ええ、ここしばらくは外から人が来ることはあまり……」
    シスターは目を丸くする。
    そんなシスターにローは畳み掛けるように問いかけた。
    「何故だ?」
    霧に囲まれた立地とはいえ、すぐ隣の島には定期船が通っている。永久指針さえあればあの男のように行き来することは可能なはずだ。個人で行き来するしかないからこそ出入りが少ないと男も言っていたが、それでも誰も訪れないなんてことは無いだろう。
    かつてのフレバンスは毎日お祭り騒ぎのように賑やかで、白い街を一目見ようと観光客も多かったように思える。
    それも戦争が始まる前までの話だが。
    「こんなに綺麗な街なら名所になりそうなもんだが」
    珀鉛病の気配すら感じない、美しい肌を持つシスターは困惑した表情を浮かべた。
    「ええっと……何故、……でしょうね?」
    それはローに何か誤魔化そうという様子では無かった。ローの不躾な態度に気を悪くした様子でも無い。
    それは本気で分からないと思っている人間の顔だった。
    ローがなぜそんな所に食いつくのかも、どうして島がこの状態なのかも、彼女には分からない。
    ローはもちろんここが本物のフレバンスだとは思っていなかった。ここがなぜ存在しているかもわからない。目の前にいるシスターが本当に自分の知っている彼女なのかも知るすべはない。
    でももしかしたら彼女に話を聞いていけば、ここが存在している理由も分かるかもしれない。
    そんな思いでローは口を開く。
    「全く人の出入りが無いわけじゃないだろう?交易船とか商人の船とか、外の人間が見れば噂になって観光客が来ても可笑しくはない」
    誰かが目撃すれば噂にならないはずは無い街だ。
    もちろん美しい街という理由ではない。かつて滅んだフレバンスの街がここにあるぞと、誰かが騒ぎ立てればあっという間に情報が出回るはずだ。
    しかしローは長い間この広大な海を旅していて、誰からもそんな話を聞いたことは無かった。
    ある意味世界によって消された街だ。見つかればゴシップ記事にでもされて騒がれるに違いない。
    この街が一日二日で出来たような場所では無いことは見て取れた。
    長い間、誰からの目も浴びずに人々が生活するなど不可能に近い。
    今の今までローの元へこの場所の話が届かなかったことに疑問を覚える。
    「ええ、……多分お仕事の方は出入りしていると思うんですけど……」
    シスターは顔に手を当てて首を傾げていた。
    自信のない口ぶりだ。
    「えっと、すみません。私街の皆さんのお仕事は詳しく知らなくて」
    そしてついに出た言葉は諦めに近い何かだった。
    ローは眉を顰める。
    それは可笑しな話だろう。
    人が出入りしているかどうかくらい、彼女にだって分かるはずだ。シスターにだって生活があって街の人と交流をしているのだから。
    それにこの島の住民だって島から全く出ずに生活することは不可能だ。
    なぜならばここには珀鉛が採れるような産業はないはずなのだから。だから別の産業で島を成り立たせなければ生活は立ち行かない。見たところ困窮している様子もないから、何かしらの手段で生活ができているのだ。
    そうでなくては不可能なのだ、なにもかも。
    珀鉛なくしては成り立たないはずのフレバンスがこんな形で存在していること自体が。
    今になってローの目の前に現れた街自体が。
    渋面を作るローにシスターは慌てる。
    「すみません。どうしちゃったのかしら、私。言われてみれば、不思議ですね」
    シスターは眉を顰めて難しい顔をしていた。自分でも何故答えられないのか分かっていない様子で
    、彼女自身の困惑にも拍車をかけているのだろう。
    不安からか視線は定まっていない。
    少し問い詰めすぎたか、とローは反省する。大の男にあれこれ聞かれてただでさえ圧迫感を感じただろう。
    「いや、いきなり来てこんなことを聞いて悪かったな。忙しいだろうに」
    「いいえ。ここは誰であっても来て良い場所ですから」
    シスターは戸惑いながらさらに言葉を続ける。
    「ロシーさんが弟を連れてくるって仰っていたから、私浮かれていたのかしら。最近は悪いニュースも多くて、街の人も気落ちしていたのに。こんな……」
    「悪いニュース?」
    そういえばあの兄弟がこの島に来ることは「明るいニュース」だと言っていたなと思い出す。ただの喜びでそう言った表現をしているのかと思っていたが、それだけ何かがあったらしい。
    ローの疑問にシスターは答える。
    「ええ、ここ最近街では行方不明事件が起きているんです」
    「行方不明事件?」
    意外な言葉に思わず窓の外を見る。
    ここに来るまでローがこの街で過ごした時間は一瞬だったが、そんな凶悪事件が起きているような雰囲気は微塵も感じられなかった。
    唯一道中話した女性は能天気なもので、外から来た人間であるローににこやかに世間話をしてきたくらいだ。
    シスターは痛ましい事件を思い出したのか胸を抑える。
    「ええ。小さな子供からお年寄りの方まで、この街で決して少なくない方々が行方不明になっているんです」
    「何か事件に巻き込まれたのか?」
    「事件かどうかも分からなくて。ある日突然いなくなってしまったんです」
    「何?」
    シスターが言うには、原因も何もかも分かっていないのだという。
    誰かが攫ったのか、事故にあって消えてしまったのか、それとも自らの足でどこかに消えているのか。
    ある日を境に、誰からも見つからなくなってしまうという。
    「行方不明の人達に共通点もなくって、皆不安でいっぱいなんです」
    良くもまあそんな事があったというのに、島外の人間であるローになんの警戒心も抱かないものだと感心する。
    どのくらいの人数が消えたのかと問い、返ってきた答えに驚く。
    それは行方不明事件で片付けるのはいささか人数が多すぎる程であった。
    通常一人二人消えた時点でもう少し大騒ぎしても良いだろうに、かなり多くの人間が街から姿を消していた。
    ならばこんなに平然としている住民達に対しても不自然だった。
    「島の外に出たとか?」
    ローは他の可能性も探してシスターに聞く。
    「いえ、そんなことは。……それも分かりませんね」
    「調査をしているやつがいるんだろう?ただの一人も見つかったやつもいないのか?」
    「ええ、それはロシーさんが」
    出てきたのはあの男の名前だった。
    思わず息を飲む。
    この街で唯一、過去に存在しなかった存在。
    今の街の人々から名前が出るくらいには街の一部になっている男。
    かつての恩人と瓜二つの姿をしている男。
    「残念ながら今日まで誰一人見つかっていません。ロシーさんも頑張ってくださっているんですけど……」
    ローの中であの男への疑念と謎は積もるばかりであった。
    「あの男はここに来てから長いのか?」
    「ええ、ロシーさんがいらっしゃってもう何年かしら。困った時はロシーさん、なんてこの街じゃ皆の口癖ですよ」
    その名前を話すときのシスターは先ほどの暗い表情から一転して笑顔になる。
    それだけあの男はこの島の住民の心に根付いた存在なのだ。たかだか一駐在員なのにもかかわらず、こんなに重要な事件を疑いなく任されるほどに。
    立ち位置を見誤ってはいけない。解く順番を考えなければ。
    この街のことと、あの男のことと。全てを知るためにここに来たのだ。
    「……そんな事件があったんじゃ街も静かになりそうなもんだが、そうでもなさそうだな」
    窓の向こう側の街を横目に、ローはシスターの様子を伺う。
    「ええ、落ち込むこともありますけれどロシーさんも頑張ってくださってますし、私達も前を向かなくてはなりませんから」
    「……本当に、良い街だな」
    能天気さとは違う。目を背けているのか。否、それも違った。
    不幸という感情への麻痺なのか、あるいは。
    「そうでしょう。フレバンスは本当に素敵な街なんです」
    それに、とシスターは続けた。
    「皆、心は一つですから」
    かちりと目が合った。
    彼女の目が真直ぐにローへと向く。
    まるで水晶のような、無垢な目にローの姿が反射していた。
    思わずたじろいて息を止める。
    一瞬ぽっかりと穴が空いたように、彼女の心は空虚に見えた。
    「今日もそろそろですね」
    シスターは顔を上げどこかを見つめる。
    何が、と問う前にジジ……、と何かが動く気配がして口を閉じた。
    途端に教会の外の鐘が鈍い音を立てて鳴り始める。
    ローは思わず外を見た。
    「何だ……?」
    腹の底から響くように、地を這うようにローの元へと音が届く。
    「お祈りの時間です」
    その言葉に慌ててシスターへと視線を戻す。
    「街の皆で一緒に祈る時間なんです」
    彼女は両手を組み、茫洋とした顔でローを見つめ返していた。
    「この街にこれ以上の不幸が起こらないように、悪いことなんて全部無くしてしまえるように」
    シスターの言葉に共鳴するように鐘は鳴り続ける。
    「どうか、この街のために一緒に祈ってくださいませんか。」
    「一緒に祈るって」
    この場には自分以外誰もいないではないか、その言葉が出てこなかった。
    この場の異様な雰囲気に呑まれたのだ。
    シスターはローの困惑をよそにその場で膝を着き祈り始める。
    ローがこれ以上何を言っても彼女が答えをくれるとは思えなかった。
    鍾の音が身体の中で木霊する。
    いつまで経ってもその鐘が鳴り止むことはなかった。
    ローは眼前で必死に祈るシスターを見下ろす。
    声をかけることも出来ず、祈りを共にすることも出来ず、その場で立ち尽くした。
    異変はそれだけに留まらなかった。
    空気が震える音がして、次いでパイプオルガンの音が聞こえてきた。
    驚いてローは後ずさる。
    演奏者は誰もいない。それどころか実際には教会のパイプオルガンが鳴っているわけではないようだった。なぜならばその音は教会の外からも聞こえてくるのだから。
    街のあちらこちらに設置されたスピーカーから一斉に同じ音色が流れている。
    その事に気づいたローは堪らず教会の外へと飛び出した。
    赤い夕日に照らされた街は音に支配されていた。
    身体を震わせ、息を吐く。
    何の曲か分からない。かつて故郷にいた頃にも耳にしたことがない曲だ。
    聖歌の類か、慣れ親しんだ音階の気配を感じて、しかし聞いたことのない曲に眉を顰めた。
    自分の知るフレバンスにこんな習慣は存在しなかった。
    丘から見下ろすようにして街を見て、ローは目を見開く。
    ──街の人間がそこかしこで膝を着いて祈っていた。
    大人も、子供も、お年寄りも、男だろうと女だろうと。
    白い石畳に膝を着き必死に祈っている。
    無数の身体が、頭が、目が、この教会に祈りを捧げていた。
    「……何だ、これは」
    その異様な光景に呆然と立ち尽くす。
    圧巻だった。ただひたすらに何かに祈る人間達の姿は一種の芸術とさえ思えた。
    そして理解の範疇を超えた得体の知れない恐怖が襲う。
    プレバンスには人々の生活に信仰が浸透していた。
    子供から大人まで、教会というものは学校や職場に行くのと同様心の垣根が無い場所であった。
    しかしそれは自らに与えられたものへの感謝や、人生への恵みを祈る、そんな豊かな場所だった。
    こんな、まるで何かを信仰するような、ひたすら盲目に祈ることはない。
    一歩、二歩、後退る。
    聞こえてくる音色は奇妙だった。ローはその曲に神経を集中させる。
    和音の一つひたすら踏み外したような、それすらも一つの曲として成立させたような。不協和音すらも正しいと思わせるような。
    すっと聞いていたいとは思わない曲だ。
    迫り上がる気持ち悪さに口に手を当てる。
    身体の芯が揺さぶられている様だった。何故住民達は平然としているのだろうか。
    その曲が重なって、重なって、重なって。一つの曲になっていく。
    脳内でぐわんと一際大きく反響した。
    手を離して吐き出してしまった方が楽だという気持ちと、一線を越えてはならないという矜持が拮抗していた。
    ここで越えてしまったら、何もかも終わってしまう気がした。
    吐き気を我慢して、噴出した怒りで蓋をする。
    そもそもこんな場所に失われたはずの街があるのも、死んだはずの人々の姿があるのも。
    恩人かも分からない男がいるのも。あの少年に出会ったのも。
    自分の知らない何かに侵食されている今も。
    何もかもがおかしかった。
    だが、そう思う自分がまるで責められているように感じた。
    怒りも不満も疑念も抱くことすら罪のような、──。







    「『カーム』」








    音が消えた。
    ローの中の不協和音がほどけていく。
    全てが無音の世界で、地を踏み締める音だけが聞こえてくる。
    「あまりこの音を聞かない方がいい」
    テノールの柔らかい声が耳に届いた。
    身体が震える。
    ローは恐る恐る後ろを振り返った。

    赤い夕日がよく映える。
    金の癖毛が無音の風に揺らされて、紅玉の瞳がこちらを見ていた。
    その男の表情を見て、ローは確信した。
    こいつは誰だ。
    こいつは誰だ。
    こいつは、だれだ。

    「お前は、誰だ」
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