天使の子 後編②完切られた電伝虫の前で皆呆然と立ち尽くす。
ルフィってば勝手ね、だとか。トラ男の体調は大丈夫かしら、だとか。大目付を前にしてよくやるよ、だとか。
全てを置いて、ナミは飄々と立っているペンギンを振り返る。
「……ねえ」
「俺からは何も言えませーん」
両手を上げてにこりと笑う。
そんなペンギンの顔をナミはムッとした表情で見つめた。
「聞きたければ本人に聞いてください」
電伝虫の向こう側で己の船長が倒れたというのに飄々としている男は頑なに首を振る。
それが出来たらどんなにいいだろうか。
薄々、全員が気付いていた。
珀鉛病、そしてフレバンス。その二つは死の外科医、トラファルガー・ローの逆鱗に触れるものであると。
それももしかしたら最も近いところで見てきた、当事者であるかもしれないと。
漏れ出た本音を聞いてしまった。医者としての言葉ではなく、ただのトラファルガー・ローとしての言葉を。
訳知り顔のセンゴクが言う『数奇な運命』とやらがもしそうだとしたら、こんな巡り合わせは無い。
ナミは唇を噛み締める。
己とて決して平凡とは言えない生い立ちだ。他人の事情にずかずかと入り込む資格はどこにもない。
好奇心だけで他人の人生に口出しするほど無神経な人間ではないつもりだ。
だからペンギンの言葉に納得した。それ以上の追求も出来なかった。予感を確信に変えることができなかった。
ただナミの中で一つだけ確認したいことがあったのだ。
──彼はあの少女の同胞なのでろうか。
一人、永い時を駆けた少女。
もはや家族も亡く、祖国もなく、天涯孤独を運命付られた子供にもし一人でも故郷の思い出を共にすることが出来る人物がいるなら、どれほど嬉しいだろうか。
彼は医者だ。そして少女の家族も医者だったという。
広い国の中で面識はなかったとしても縁はあったかもしれない。
当時のローはそれこそ十やそこらの少年だ。少女と歳も近い。
もしかしたら学び舎ですれ違っていたかもしれない。
どうやって彼が生き残ったのか、どうやってここまで生きてきたのか。どれほどの苦労があったか計り知れない。だが彼は自分の力で珀鉛病の治療さえも出来る力を身に付けた。それが答えなのだろう。
迫害の歴史を知り、まるで咎人のような扱いを受けてきただろうローが自ら名乗り出ることは出来なかったのかもしれない。
今の今まで胸に秘めていたものが溢れ出さなければ、きっと最後まで口を継ぐんでいたのだろう。
最後まで少女に自身の正体を明かさなかったかもしれない。
それを残酷だとは思えなかった。それが彼と、そして少女を蝕んできた世界なのだから。
ローが語って見せた世界はナミの想像が及ばないものだ。病気一つで国を滅ぼすことが出来る力があるなんて、ましてやそれを兵器にしようと考える人間がいることに恐怖を覚える。
そんな人間達がずっと少女をあの無機質な装置に閉じ込め続けてきたのだ。
おぞましさで身の毛がよだつ。悪意にまみれた手で少女を触っていたことが許せなかった。
「あー、すいません。一つ確認しときたいんですけど」
「……何よ」
思考の海に沈んでいたナミはペンギンの声に顔を上げる。
ナミのぶっきらぼうな声に特に気分を害した様子もなく、表情の読めない顔で彼は言う。
「海軍が来るって、結構俺たち大騒ぎしたでしょ?」
大目付がいるここでそれを言うのかと、彼の図太さに舌を巻く。
センゴクもどこか居心地が悪そうだ。最もこれに関してはお互い様だが。
「まあ、そうね」
「多分建物の中にも大分響いていると思うんですよね」
「……そうかもしれないわね?」
何が言いたいのか分からず、ナミは首を傾げる。
ペンギンはそこで初めて困ったように頭を掻いた。
「いやーあの子、怖がってないかなって」
あ、とナミは声を出した。
ドンドン、と何かがぶつかる音がする。
パチパチと何かが弾ける音がする。
『お外……お祭り……』
閉じたクローゼットの隙間からは赤い光が差し込んでいた。それがとても綺麗だったことをよく覚えている。
身体と同じくらい熱い空気が隙間から流れ込み、少女の小さな身体をごうごうと苦しめる。
お祭りってこんなに熱いものだっただろうか。こんなんではアイスクリームがすぐ溶けてしまう。
『おにいさま……』
木の壁を力無くガリガリと引っ掻いて、ラミは必死に息をした。
ここにいろとクローゼットに押し込められた。
治ったらお祭りに行こうと約束したのに、兄はいつまで経っても迎えに来ない。
ドンドンドンという音は未だ続いていた。今日は夜通しお祭りだろうか。フレバンスは大きい国だからお祭りも豪華だ。
いつも子供は早く寝なさいと両親に言われてしまう。
ラミは知っているのだ。大人は夜に起きて遊んでいてもいいのだと。子供たちが寝たあとは、大人はこっそり色んなことを楽しむのだと兄に教えてもらった。
ドンドンドンとお腹の底から響くような音がする。
ガタガタガタと誰かが走る音がする。
いつもはこんなに賑やかでは無い。
ドンドンドンと次第に音は近付いてくる。
ここは家族で住んでいる場所なのだから、家族以外が来るはずもない。
誰かの甲高い声も聞こえる。
なんだか怖くなって身体をギュッと縮こませた。
一人でいたってちっとも楽しくない。身体だってこんなにも苦しくて、息もできないくらい熱い。
おにいさま、どうして私一人なの。
『ラミ』
治ったら一緒にお祭り行こうって約束したのに。
なんでお兄さま。
早く戻ってきてよ、お兄さま。
ここ、怖いよ。お祭りよりも、兄さまが一緒にいてくれるだけでいいのに。
「ラミちゃん!」
はっと目を開けて身体を揺らす。
ぎゅうぎゅうに折りたたんだ身体は震えている。先程まで焼けそうなくらい熱かった肌はむしろ冷たいくらいに固まっていた。
冷や汗が背筋を伝っている。
怖い夢を見ていた気がする。よく思い出せないが、それはラミが覚えている自分の家での最後の記憶だった気がする。
あの後、自分は一体どうなったのだろうか。寝て起きたらここにいた。
少女はベッドの下に潜り込んで隠れていた。
ペンギンとナミは心配そうに屈んで覗き込んでいる。
張り詰めていた息を吐き出し、少女は口を開いた。
「……お兄さま、は」
少女の言葉に二人は顔を見合わせた。
海軍の来訪騒ぎに少女が不安に思っているのではと駆けつけたがどうやら正解だったらしい。
ペンギンは器用にベッドの下へと手を伸ばし、小さな身体を抱えてベッドの上に少女を降ろす。
少女の乱れた髪をナミが梳かして直す。可哀想に、不安から来る震えは止まっていない。
少女はずっと『海の戦士ソラ』の本を抱えていた。ベッドの下から出ても決して離そうとはしなかった。
騒ぎにはなったが決して大きな音がした訳でも、砲撃が来た訳でもない。
ただそれでも少女は身を縮込ませて必死に隠れていた。
「大丈夫?ラミちゃん、怖かったよね。もう大丈夫だからね」
ナミの問いに少女は曖昧に頷く。自分がどうしてこんな状況になっているかも上手く飲み込めていないようだった。
「……でもお兄様がここにいろって」
「ここに?」
ナミは不思議そうに聞き返した。少女の兄はここにはいない。知らない場所に、そこにいろとも言えない。
ペンギンはベッドの横に膝をついて少女に優しく問いかける。
「お兄さんはラミちゃんにどこにいろって言ったのかな」
「……クローゼットに、隠れてろって」
ナミははっと息を呑んだ。この部屋にクローゼットは無い。
だから少女のそれは過去の記憶だと当たりをつける。混濁して、現在と過去が混ざっているのだ。いや少女にとってはつい数日前の出来事か。
きっと当時、小さな兄は妹を守るためにクローゼットに隠した。
少女の兄は少女を大切にしまって守りきってみせてのだ。
「そっか、約束守れて偉いねラミちゃん」
ペンギンは少女の言葉を肯定する。
「約束……」
呆然と少女はその言葉を繰り返した。
キン、と耳の奥で耳鳴りがする。
ドンドンドンとありもしない空耳が聞こえてくる。
少女はそれを振り払うように首を横に振った。
「ラミちゃん?」
「私、約束って……」
本を胸に抱えて少女は必死に思い出そうと先程の夢の続きを頭の中で探す。
ドンドンドンと地響きが聞こえる。
誰かが走る音が聞こえてくる。
甲高い声が聞こえてくる。
声が、家族に似ていた気がした。
ラミは、自分はあの後どうしただろうか。
迎えに来ない兄をずっとクローゼットで待っていたのだろうか。
それとも、あの赤に向かって手を伸ばしたのだろうか。
どうしてここに一人で来てしまったのだろうか。
「ラミちゃん」
穏やかな声音で名前が呼ばれる。
ペンギンのマスコットが着いた帽子が目に入る。
少女が抱えていた本を持ってきた青年だと思い出した。
海の戦士、ソラ。兄が好きだった本。初めてラミが兄に読んで貰った本。本の読み方を教えてもらった本。
彼が持ってきてくれた本。ラミが知っている本よりとっても綺麗な本。
「……聞いてもいいですか」
少女は恐る恐る口を開く。
「何かな」
ペンギンは首を傾げる。
少女はずっと聞けなかったことを聞きたかった。
誰に聞けばいいか分からなかったことを。多分、聞いてはいけないと思っていたものを。
でも多分、聞いても教えてくれないだろうからずっと胸の中にしまっていたことを。
教えて貰えないから自分で考えればいい。
これは少女が必死に考えた質問だった。
「十、足す……十七は」
本を握りしめる。
「なんですか?」
「トラ男、本当に大丈夫なのか?」
簡易ベッドの脇でチョッパーが心配そうに見上げている。
崩れるようにして倒れたローはそのままあれよあれよとベッドへ連行された。
すぐさま氷枕を用意したシャチがローの頭の下に敷きながら答える。
「あー、大丈夫大丈夫。多分執刀の疲労に看病にって、弱り目に祟り目で感染しちまったんだと思うよ。うちは全員ワクチン打ってるからそんなに重症にならねえって」
「それならいいんだけど……」
先程の姿を思い出して、チョッパーは俯く。
ただならぬ剣幕だった。ルフィが止めなければ海軍相手に何を言い出していたか分からない。
初めて珀鉛病に対してローの本心を聞いた気がした。
ずっと冷静で、ずっと興味が薄いと思っていた。
研究したいと言ったチョッパーにもあまりいい顔はしていなかった。
だから珀鉛病に一生懸命なのは自分ばかりなのかと落ち込んでいたのに。
「……」
本当は誰よりも痛みを抱えていたのだ。なんて酷いと外野から騒いでいた自分たちよりもよほど苦しかったに違いない。
チョッパーは今の今までその事に気づけなかったことにやるせなさを感じた。
「なあ、トラ男」
薄目を開けて呼吸をするローにチョッパーは恐る恐る声をかける。
口を開いて言いかけて、チョッパーは言葉を変えた。
「身体良くなったら、もう一度ラミの診察をしてあげてほしいんだ」
目線が動く。口を薄く開けて、しかしローは何も応えなかった。
「おれが行っても、ナミ達が行ってもやっぱり寂しそうでさ。おれ、なにかしてやりたくて」
何も持っていない少女に何かを与えられる人間がいるのなら会わせてあげたかった。
もしかしたらローにとっては突き付けられたくない過去の象徴だとしても、その方がいいと思った。
お節介かもしれないが、後悔して欲しくなかった。
「きっと色んな人に会えば寂しくないからさ」
色々な言葉を飲み込んで、チョッパーはそう言う。蹄を擦り合わせて、笑いかける。
ローはそんな小さな医者をじっと横目で見ていた。
「ほら、先生はお仕事の時間ですよー。患者が待ってるぞ〜」
シャチがぽんと肩を叩き、チョッパーははっとする。
「そ、そうだな。今医者っておれしかいないんだった!トラ男、ゆっくり休んでくれっ。おれ、できる限り頑張るからさ」
わたわたとしてから、チョッパーは扉へと駆けていく。
部屋を出る直前、くるりと振り返った。
「トラ男」
なんだ、と声には出さずに口を動かす。
「ありがとな!」
まるで言い逃げのようにそれだけ言って去っていくトナカイ医の背中をぼんやりと見送りながら、ローはそっと額に手を当てた。
どいつもこいつもお人好しが過ぎる。
二人だけになった病室で完全に緊張を解いたローに、シャチは「お疲れ様です」と労いの言葉をかけた。
「んで、これでいいですよね。船長」
「……ああ」
チョッパーが早くこの場から出ていくように誘導したシャチは腰に手を当てて笑った。
「ペンギンが見たら呆れて怒りますよ〜。べポは泣くかも。俺でよかったですね」
「……」
「手術で身体が弱ってるところに接触しちゃいましたからね〜」
「……」
「当然ちゃ当然というか、無茶苦茶した代償というか。いつものローさんなら罹らないんでしょうけど、肝臓の手術してるからな〜。免疫力も体力も落ちてるし」
「おい」
怒られはしていないがちくちく言われるとは聞いていない。直接ズケズケと言ってこない分、なおタチが悪い。
このままではお小言が続きそうな気配がしてローはシャチを止めた。
なんだかんだ今まで言ってこなかっただけでシャチも物申したいことは沢山あったらしい。
母親(ペンギン)の次は兄貴かと呻く。
「こんな高熱に魘されたローさん看病も久々だし、ちょっとここらでゆっくりして下さいよ」
「……そんな悠長なこと言っている時間があればいいが」
ほう、と熱い息を吐く。
「実際結構やばいと思いますよ。普通に命に関わるんで反省してください。だって、今の状態で満足に能力使えるんですか?」
「……」
痛いところを突かれて黙り込む。
オペオペの実の能力は本人の体力次第だ。
加えて感情に任せて普段なら口に出さないようなことを漏らしてしまうあたり、今は能力の精密さも期待できない。
だがそうおちおち寝ていられない理由もあった。
「センゴクまでここに来た。……大事になるぞ」
「でしょうね。今頃あちらさん焦ってるだろうな〜」
「……段取りは?」
ローの言葉にシャチはニィと口元を釣り上げる。
ローが倒れてから数時間、なにも氷枕を用意していただけではない。
あちらへこちらへ、ローの手足となり駆け回っていたのだ。
「アイアイ、準備はしてますよ。麦わらの方の手が空いてるメンバーにも伝達済みです。戦力としてこれ以上のものはないでしょ」
ローの身体に布団を被せながら答える。
ぽんぽんと叩かれてしまい、それが「大人しくしてろよ」という意味を含んでいることに顔を顰めた。
「……せいぜいこき使ってやれ」
納得はしていないものの仕方がないと呻くようにそう言う。
「や〜ロロノアとかはもう遊撃手で放っておいた方が良さそうですけど」
「そのままどっか行くぞあいつ」
「三半規管イカれてんですかね、あいつ」
あんなに強いのにそんな弱点があるとは、と口をもごもごさせながら二人は首を捻った。
その夜、島に人知れず接近する影が複数。
気配を殺し、裏手の海から這い上がってくる。
テラテラと海水に塗れたウェットスーツが月明かりを反射していた。
波の音を味方につけて進む彼らは目標の建物を見つけて互いに頷き合う。
岩場を攀じり、草木を掻き分け、ついには島へと上陸した。
静かに、そして素早く終わらせなければならない。
今この島には海賊王と四皇の海賊団が停留しているのだ。まともな交戦をすれば勝ち目は無い。
しかし彼らの目的は海賊と戦うことではなかった。
目標達成のために息を潜めてその時を待つ。
その彼らの前方方向に、ぬらりと何かが立ち上がった。
刃の鈍い輝きが侵入者の眼前に現れる。
ざわりと空気が変わった。
「はあい、侵入者の皆さんこんばんわ」
この緊迫した空気とは裏腹に、男達の行く手を阻む守護者は呑気に手を振っている。
そして男達は近づくにつれ、その後ろにも、その後ろにも、そして自分達の後ろにも気配があることに気付いた。
三刀流男や、魚人族の男、白い揃いのツナギを来ている男達。
自分達の侵入は最初から見破られていたのだ。
「こっから先入らせる訳には行かないんだな〜」
いざという時の患者達の避難先としてサウザンド・サニー号とポーラータング号への移動経路を確保しに来ていた二人と、海軍の船には戻らなかったセンゴクは漏れ出た覇気の気配に顔を上げた。
「……本当に来た」
「海軍本部大目付がいるから表立っては来れないでしょうしね。トラ男くんの読みは当たりね」
物騒なことを言い出すものだと思っていたが、もし本当に世界政府規模でこの実験が主導されようとしているなら真実を知る自分達はさぞ邪魔者だろう。
「抑止力にすらなれんですまないな」
憂いた顔でセンゴクは彼方を見つめる。その先では今まさに戦いの火蓋が落とされたのだ。
裏手では海賊王を筆頭に敵を足止めしてくれている。この隙に手薄になった表から患者を連れ出そうという算段だ。
「私達の悪名の方が高かったってことでしょ」
ナミはなんでもないかのように言う。
まさか海賊に慰められるとは思わず、センゴクは目を丸くした。
「それに海軍がこの件に真っ向からぶつかったらいくらなんでも立場が危ういんじゃないかしら。大人しく人命救助だけに徹する方がいいわ。貴方にはこの件の後処理まで責任を持ってもらいたいもの」
ロビンもナミに続いてそう言った。センゴクはますます肩身が狭い。
これも新しい時代かと、世界政府との逆転した立場にため息をつく。
「まずは自力で動けない人から避難させましょう。それくらいは頼んでもいいわよね?」
「もちろんだ」
第一線を退いたとはいえ、仏のセンゴクの名は未だ衰えを知らない。
いい機会だとこき使うことに決めた二人はさっさと方針を決めてしまった。
まさか自分が海賊と共に行動する日が来ようとは、センゴクは感慨深く髭を撫でる。
「じゃあ私はラミちゃんを」
「そうね。お願い、ナミ。こっちはまかせて」
「ラミ?」
センゴクは思わず足を止めた。
「言ったでしょ、一人だけ本物の珀鉛病の子がいるって。トラ男……トラファルガー・ローがもう手術をしたから回復に向かっているけれど」
ローがあちらで倒れてから説明を引き継いだのはナミ達だ。難しい病気の話はペンギンを始めとしたハートの海賊団が引き受けたが、残りの面々で島の状況からコールドスリープされた子供の発見までの経緯を説明していた。
自分達の釈明でもあったし、告発でもあった。
「……そうか。いや、引き止めて悪かった」
何か言いたげな大目付を残し、気を取り直してナミは施設へと入っていく。
男達ほど戦えない自身でも、すぐそばで繰り広げられる戦いの激しさは感じ取ることができる。
ナミは天候棒を握りしめて施設を駆けた。
最悪の場合なんてことは考えたくないが、それでも万が一ということもある。己の船長を信頼している反面相手の卑怯さに怯えている。
それでも自分達の手の届く限りは守り抜きたかった。
夜半、生き物の声はしない。代わりに響いてくるのは武骨な戦闘音だけだ。つん、と鼻に届く火薬の匂いに眉を顰めた。
さぞ怯えているに違いないと歩を進める。海軍が来ただけでもあんなに怯えていたのだ。人手が足りずずっとそばにいてあげることが出来なかった。一刻も早く迎えに行ってあげなければならないと焦りを募らせる。
ここ数日歩き慣れた廊下を辿り、急げ急げと自分を奮い立たせた。
なんでこの施設こんなに広いのよ、と文句を言いながらふいに窓の外を見た。
何かが風を切る音がする。ひゅうと置き去りにされた音が後から追いかける。
炎の推進力で打ちあがったそれは、まっすぐこちらに向かってきていた。
「うそ」
次の瞬間、轟音が空気を切り裂いた。
===
上陸してきた侵入者を粗方叩き終わった海賊達はふう、と汗を拭った。
一人一人の練度は自分達に及ばないが、何分数が多かった。正式な戦闘訓練を受けている戦闘員を完全に無力化するのは骨が折れる。
海賊王は呑気に頭の後ろで腕を組み、剣士は酒を煽っていた。休憩にはまだ早い。真面目に敵の検分をしているのは魚人の操舵手とシャチくらいなものである。
ウェットスーツを着たまま完全に伸びている男達のマスクを一つ一つ剥がしていく。特徴のない顔つきだ。
「CPかのう」
「んーって言っても上の方の奴らじゃなさそうだけどな」
六式の練度もたかが知れていた。本気でこの島で海賊王と対峙しようと思うのなら、それこそCP0を投入してもよさそうなものを。
案外簡単に片付いてしまったことに首を捻りながら、男達の身体を端に寄せていく。
はて、海賊王の戦闘員たちを借りるほどのことではなかったか。気にしすぎだったのかもしれないし、こちらが過剰戦力だったことも否めない。
違和感を拭えないまま、大事な証拠として殺さなかった侵入者たち一人一人の腕を縛っていく。ついでに彼らがここまで背負ってきていた酸素ボンベも端に寄せ、さてどこに片づけようかと腰に手を当てた。
出来れば朝まで大人しく眠ってて欲しいものだが。
そう睥睨したところで、カチリという音が耳に届いた。
「あ?」
プシュウ、と音がして足元の酸素ボンベが中身を吐き出す。
シャチとジンベエは慌てて飛びのいて身構えた。
ツン、とよく知る匂いが鼻孔に届き、慌てて口と鼻を抑えた。
酸素なんかじゃない。
これは燃料が気化した匂いだ。
「ッ、おい誰も吸うな!離れろ!」
シャチの言葉と重なるようにして、遠くの海で砲撃の音がした。
黒い海に敵船の影はなかったはずなのに。潜水艦かと即座に当たりをつけ舌打ちをする。
皆唖然と空を見上げている。白い煙の尾を引っ提げて、巨大な砲弾が打ちあがった。
気化した燃料に着火でもすればどうなるかだなんて想像にかたくない。
道理で弱い敵ばかり送り込んでくるはずだ。
「うっそだろ」
ぽつりと思わず溢した横で、海賊王が駆け抜けた。
「ルフィ!」
「麦わら!」
希望の声が彼の背中を後押しする。ゴムの彼ならば砲弾は敵ではない。
砲弾が島に着弾する前に受け止めようと、ルフィは建物をよじ登り天辺へと駆けあがった。
海賊王が見上げる夜空には落下を始めた砲弾がよく見通せた。
間一髪、これならば問題なく受け止められるだろうと誰もが胸を撫で下ろした。
「んへ?」
海賊王は目を見開く。
彼らを嘲笑うかのように、海賊王の目の前で砲弾は四方へ弾け飛んだ。
建物を揺らす衝撃に、ローはぼんやりと目を見開いた。
熱が最高潮にまで上がった身体は驚く程に重い。
ゆっくりと身体を起こすと、薄い酸素の中で深呼吸をした。
息苦しいのはなにも体調不良からくるものだけでは無い。
扉の隙間から揺らめく赤い光に忌々しげに舌打ちをする。
「燃やせれば奴らの勝ちってことか」
過剰戦力にも程がある面々が揃っていて太刀打ちできなかったとは思えない。ならば元から狙いは建物を燃やす事だったのだろう。
いっそ思い切りのいい切り捨て戦術に鼻で笑う。
毛布を身体から剥ぎ取り、崩れ落ちるようにベッドから降りる。
布を口に当ててから部屋の外へと出たローはその惨状に目を見張った。
床を走る炎はごうごうと音を立てる。割れた窓ガラスからは炎が酸素を欲しているかのようにびゅうびゅうと空気が入り込む。高温で軋む壁に、溶けたプラスチックがどろりと流れていた。
これを浄化の炎だと思っているのなら、思い上がりも甚だしい。
人の欲望に薪を焚べただけの大層な意味もないくせに。
病院や研究施設は元々防火素材で出来ている。だというのにここまで勢いよく燃える光景に頭が痛い。
「……焼夷弾でも打ってきたか」
そう呟いて、熱に喉を焼かれて肺の底から噎せた。
噎せて、噎せて、嘔吐いて、ついには胃液まで出るのではないかというくらい胃を痙攣させて口元を拭う。
絶不調もいいところ。撃ち込まれるまで呑気に眠りこけていた自分が腹立たしい。しかし現状この状態を受け入れるより他なかった。
息を整え、能力ではなく見聞色の覇気で周囲を探る。
隔離区域の患者の部屋はここからそう遠くない。患者の気配がまだそこにあることにため息をつき、重い足を進める。
先んじて避難をさせなかったのは、彼らが体のいい的になることを防ぐためだった。そうでなくとも先に行動を起こせば相手に気付かれてしまう。
戦力に過信して相手が捨て身の作戦を取ってくる可能性を読み違えていた。否、大きくなり過ぎた自分達の価値にあぐらをかいた結果か。
口の中に溜まった胃液を吐き捨てて笑う。
思えば最初から何もかも上手く行かなかった。
珀鉛病の患者が発見されたと連絡を貰った時も。
それが死に別れたはずの妹だったと知った時も。
妹に自分の肝臓をやった時も。
再び珀鉛病の名前で同胞の誇りが穢されようとした時も。
それを解決する手段を持っているはずの自分が、諦観と恐怖で判断を鈍らせた時も。
薄いガラスが心臓を覆っている。自分の鼓動の音がまるで他人のものかのように一枚隔てて聞こえてくる。
ただ悲しかった。みんな不幸になってしまえと願っていたあの頃の自分を思い出しては憐れんでいた。
諦めて忘れて、そんな自分に出来ることなど何もないと思っていたのだ。
これは中途半端な覚悟で怒りの炎を呼び起こそうとした罰なのか。これがお前の忘れていた執念の炎だと罪を突きつけられているのか。
まだ火の手がそこまで侵入してきていない通路の先、患者達がいる部屋の扉を体当りをするようにこじ開ける。
小さな悲鳴が上がった部屋を見渡すと、意識のある患者たちが一つに固まって縮こまっていた。
慌てて点滴を抜いたのだろう。床やベッド、シーツに鮮血が飛び散っている。それでも痛みより恐怖が勝って彼らは必死に身を寄せあっていた。
つい数時間前までぐったりと寝ていた患者達が自力で建物の外に逃げ出せるとは思えない。燃焼剤によって火が衰える気配もない建物を素人が突っ切れるとも思えなかった。
ふらふらの状態で入ってきたローに、それでも患者達は縋るような目を向ける。自分達を救ってくれるかもしれない救世主に喜びの涙すら浮かべている。
ローは患者の数を端から数えた。
この騒ぎでも未だ懇々と眠り続けている患者もいる。部屋の隅で頭を抱えて隠れている患者もいた。
ベッドに寝ていた顔と部屋の中にいる患者を照らし合わせながら、一番奥まで数えてため息をつく。
一人足りない。
それはローが一番初めに接触した患者であり、最も回復が早かった患者でもあった。印象に残っていたためすぐに気が付いた。
「おい、……ここにいた患者は」
すぐ近くにいた患者にベッドを指差し確認する。半泣きの患者は首を横に振った。
もう一度部屋全体を見回して、重い身体を折り曲げてベッドの下まで覗く。それでもあの患者はどこにもいなかった。
思わず舌打ちが出る。
予想しうる最悪のシナリオは、彼がこの騒動の中パニックになって部屋を飛び出した可能性だ。無秩序に飛び出したであろう患者を捕捉するのは今のローにとって至難の業だ。ただでさえ燃え盛る炎が人の気配を簡単に掻き消す。
背後の扉を出て探しに行くか迷って、ローは奥歯を噛み締めた。
そんな体力はどこにも無い。なんだったらこの場にいる全員を、そして自身も無事に外に出られるかどうかも怪しい。
それでもここまで来たのは医者としての責任から来るものだ。
悪魔の実の能力をここまで温存してきたのは、一度であれば全員を連れて外へと飛び出せると思ったから。そのあとの自分がどうなるかは検討もつかなかったが、外に出れば自分の信頼する船員達がいる。その目算もあってここまで来た。
判断は一瞬だった。
ローは目の前にいる命とどこにいるかも分からない命を天秤にかけて、断腸の思いで前者を選択した。
息を整え、精神を研ぎ澄ます。
数秒にも満たないの能力展開で最小限の労力に抑えて自分達と外の物体を入れ替えるつもりだ。
「ROOM」
声が震えた。こんなにも頼りない掛け声は初めてではないだろうか。
患者達が己の置かれた状況を理解する前に適当な小石と入れ替える。
途端に新鮮な空気と頬を撫でる冷たい冷気がローを襲った。
受け身もろくに取れずに地面に転がり出る。患者達がどうなっているか気にする余裕もない。
「船長!」
自身に気づいたペンギンの声が耳に届く。
久々の肉声に感動する間もなく、ローは後ろを振り返った。
夜空に星がひとつも見えないくらい煌々と、あるいは波の音を遮るくらい轟々と、建物が音を立てて燃え上がる。
息が止まりそうだった。全身の毛が逆立つ。
この光景をローは知っている。
あの時見上げた病院(自分の家)も、こんな風に炎に巻かれていた。
ローはその建物から視線が外せなかった。隣でペンギンが何を話しかけていようとも耳に入ってこなかった。
喉からせり上る悲鳴にも似た唸り声が出る前に、違う方角から聞こえてきた叫声に硬直の呪縛から解ける。
「ダメよ、ナミ!危険だわっ」
「でも!」
視線を向けると麦わらの一味の航海士が今にも飛び出していこうとしている。
その身体を必死に押さえつけているのは同じく一味の考古学者だ。
二人とも傷だらけの中、必死に叫んでいる。
ナミの口がよく知る音を形作る。
まるでそこだけ時間の流れが遅くなったのではないかと錯覚するくらいはっきりと見えた。
「ラミちゃんがまだ中にッ!」
血が沸騰する。咄嗟に炎を見上げる。
十七年前の悪夢が蘇った。
「あ」
肺が空気を押し出して、声帯が勝手に鳴った。
あの時涙を流して世界を呪うことしか出来なかった少年は、はたしていまもそのままなのだろうか。
いいや、そんなことはない。
もう二度とあの炎に妹を奪われてなるものかと。
「ローさんッ」
異変に気づいたペンギンが止める間もなく能力を広げる。
脳味噌がぐちゃぐちゃになるくらいの激痛が走る中、ローは力を振り絞ってくるりと手を翻した。
ドンドンドンと音がする。
ガタガタガタと誰かが走る音がする。
誰かの甲高い声が聞えた気がした。
緊張で呼吸が早くなる。恐怖で手が強張った。
少女は必死に手を伸ばして一冊の本を胸元に抱える。
『ラミ、ちょっとの間我慢してくれ』
そう言って兄はクローゼットの扉を閉めた。部屋を真っ暗にして、静かにするように言った。
閉ざされたクローゼットの中からでもお祭りの音はよく聞こえた。だけどどうしてだろうか、ちっとも楽しそうではない。
ずっと兄を待っていた。痛む身体を抑えて、早く、早くと祈っていた。熱でぼんやりとする身体は今にも眠りに落ちそうだ。
ドンドンドンと音がする。
花火の音にしては鋭い。
ガタガタガタと走る音がする。
患者たちの足音にしては荒すぎる。
誰かの声が聞こえて、はて、それはよく知っている人物の声ではなかろうかと自問自答した。
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ。恐怖を紛らせようと扉に手をかけた。
このまま誰も迎えに来てくれないのではないかと、兄はどこだろうと顔を出してしまったのだ。兄との約束を破ったことに後ろめたさを覚えながらも、押し寄せる恐怖は小さい身体に押し込められなかった。
遠くから声が聞こえてくる。
『二名、駆除完了』
くじょ、と言葉を繰り返す。分からない。知らない人達の声だった。
声は段々と近づいてきて、ラミのすぐ側まで来ていた。
こんなところまで間違えて入って来てしまったのだろうか。
『おい。女を一人、生きて確保しろって指令が降りてきているぞ』
『女を?おいおい、もっと早く言ってくれよ。そうすりゃさっきので事足りたのによ』
『言っても仕方がない。まだ探したら見つかるかもしれないぞ』
『これだから上は分かっていない。何でもかんでも簡単に言ってくれる』
思わず口を手で抑える。
全身白い服を着ていた。顔も手の先も足も全てすっぽり同じ服。ゴーグルをつけていて表情は分からない。
壁にギュッと身体を寄せて、不審者をやり過ごそうと隠れる。
彼らは迷い込んで入ってきた患者などではない。
『何に使うんだ?わざわざ女なんて指定してきて』
『さあな、でも病院の中ならまだ綺麗なのがいんだろ』
怖い話をしていることは理解していた。彼らがフレバンスの人間でないことも。
いつもなら点いている廊下の電気は全て消えていて、しかし代わりに赤い光が辺りを照らしていた。熱い、熱い。熱気が肌を撫でる。
部外者である彼らは患者では無い。お祭りに参加しに来た外国人でもない。
だって彼らの足元には赤い色が。抱えられた鈍い光を放つ銃器が。
父から教えてもらった。怪我をした時は赤い血が出るんだよって。沢山血を流すと人は死んでしまうんだよって。兄と一緒に教えてもらった。兄はもう少し難しい勉強をしていたけれど、それでも同じように覚えようと必死に聞いていたのだ。
怪我をしているのは彼等では無い。
『子供?』
びくりと肩を揺らす。
恐る恐る視線を上に向けると、二対のゴーグルと視線がかち合った。
お互いに凍りついたように見つめ合う。
見つかってしまった。
『どうする?』
『……まあ、若い分には文句ないだろ』
見つかってしまった。見つかってしまった。
息を呑んだ。後ろへと一歩後退る。
振り返って走り出そうとして、首根っこを掴まれた。
『離して!』
身体が宙に浮いて、バタバタと藻掻く。
本を落とすまいと身体を丸めて腕に力を入れた。
『おい、大人しくしろ』
『火の手が回ってきた。さっさと出るぞ。あとは建物ごと焼ければ仕事も減るだろ』
『ああそうだな。たく、余計なもんは離せ、この』
大人の力で本が剥ぎ取られる。無造作投げられた本は火の中に消えた。
本がゆっくりと燃えていく。
『やだ!お兄さまっ』
少女は必死に手を伸ばした。
それは自分と兄を繋ぐ──。
はっと顔を上げる。汗で貼り付いた前髪が煩わしい。
夢から覚めたにしては似たような光景に顔を顰めた。
突然爆発音が聞こえた。ベッドが大きく揺れて、窓ガラスにも罅が入った。
熱い空気が押し寄せてきて、少女は思わず本を小脇に抱えベッドを降りた。
逃げなくてはいけないと脳裏で警笛が鳴る。咄嗟に掴んだ本を抱えて、裸足のままに部屋を飛び出したのだ。
しばらく放心して白昼夢でも見ていたらしい。
飛び出してきた廊下で右へ左へ視線を彷徨わせる。少女にとってここは知らない場所だ。だが一所に留まってはならないと本能から足を進める。
「お兄さま……」
約束を破ったのは自分だった。
クローゼットに隠れていろと言われたのに、ラミはその扉を開けてしまった。
大切にしていた本も奪われて捨てられてしまった。
今だってそう。沢山あった本の中からたった一冊だけ抱えて走っている。少女の体格ではそれが精一杯だったからだ。
お祭りの音ではなかった。あれは誰かの悲鳴だった。
夢の中の記憶がラミに訴えかける。
男達に連れていかれた後の記憶は無い。目が覚めた時、最初に写った人物はあの優しそうな女性とトナカイの医者だった。
だから少女はずっと、自分はどこかの病院で治療を受けていたのだと思っていたのだ。何故か。
だって自分の家が病院なのに。自分の父が国一番の医者なのに。皆同じ病気に罹っていたのに。
何故自分はここにいるのだろうと思わない日は無かった。でも周りの人達は皆優しかったから、ラミは言い出せなかった。
本を抱きしめる。
遠くから破裂音が聞こえてくる。それはあの日聞いた音とよく似ていた。
なるべく火の手がない場所を選んで、ひたひたと廊下を駆け抜ける。
またあの怖い手に捕まりたくなかった。兄に迎えに来て欲しかった。
外に続く扉を懸命に探す。少女が出入りできる高さに窓があるならそこから外に出ても良かった。
身体が熱い。あの時と違って肌も痛くなければ苦しくもない。だが炎に熱せられた空気がいとも簡単に少女の体力を奪っていく。
はっ、はっ、と息をしながら少女は廊下の角を曲がった。
「あ」
ぱちりと目を瞬かせた。廊下の端と端、向かい合って顔を合わせる。
向こう側には唖然としている男性がいた。
ラミは息を整えながら、その男性をじっと見つめた。
肌は所々白かった。顔は赤く、目は涙で潤んでいる。
ラミと同じく息を切らして、いかにも逃げてきましたという出で立ちだ。
「は、珀鉛病患者……俺たちの他にも」
男の震えた声がよく聞こえる。
ラミは自分を見下ろした。目の前の男性よりもよほど真っ白な自分を見てぎゅっと眉を寄せる。
それでも自分と同じ珀鉛病患者ならばここから一緒に逃げ出さなくてはならないと手を伸ばし一歩近づいた。
「あのっ」
バン、と大きな音が鳴って身体を縮こませる。
建物の外から聞こえてきた重低音に二人は息を呑んだ。
今のはただの爆発音では無い。悪意を持った、自分達を害そうとする音だ。
いやだ、とか細い声が聞こえてくる。男の声だ。
ラミは外していた視線を男に戻した。
先程まで赤く染めていた顔は紙のように白い。瞳孔は緊張のせいか大きく開いている。引き攣った息遣いが男が感じている恐怖を物語っていた。
男は恐ろしいものを見るような目でラミに向かって叫ぶ。
「いやだ、殺されたくない!」
男はくるりと背を向けて走り出した。
それが後先考えた行動だとはとても思えず、ラミは思わずその背後に声をかける。
「待って!だめだよ、そっちは!」
炎の気配が濃厚になる。赤い光がラミの目に飛び込んでくる。
かつて経験した光景に飛び込んでいく男に手を伸ばし、ラミは思わずその背を追いかけた。
「待って!」
少女が男を追いかけている同時刻、外では別の戦いが始まっていた。
「海水でもいい!もっと水を持ってこい!」
「トラ男が連れて来てくれた患者はこっちに!」
「誰か、救急セット追加で船から持ってきてくれ!」
「おい、お湯沸かせ!火種ならそこらにある!」
麦わらの一味にハートの海賊団ともはや陣営関係なく入り交じりあっちへこっちへ駆け回る。
大半の患者は事前の入念な準備で建物から救い出せている。突然の事態に動転している者がほとんどだが、戦力としての麦わらの一味、医療面でのハートの海賊団とそれぞれの強みを生かしていた。
本来は隔離されていなければならない患者もこうなってしまえば意味はない。人命優先と次々に奥に運び、ナミはふと顔を上げた。
「ルフィ!」
実に数日ぶりの己の船長の姿に歓喜の声を上げる。他にも隔離されていた仲間達の姿が遠くに見えた。
煤を頬に付けた海賊王は全てを安心させるような笑顔でナミに話しかける。
「シンニューしてきたやつらは全員倒したぞ!」
その頼もしい発言にこんな状況だというのに自然と笑みが漏れる。
「そう、ありがとう」
「そっちは大丈夫か?」
「ええ、今他の皆は鎮火を最優先に動いているわ。私達は動けない人たちの手当」
ごうごうと燃える建物に二人揃って視線を向ける
火の手はついに全体に回っていた。
フランキーを筆頭として力のある男手は周囲の海水を汲んでは建物へと掛けている。センゴクなどは能力を使ってこちらへ迫りくる火の手を払っていた。
「ルフィ、聞いて」
炎に照らされた横顔へナミは声をかける。
「トラ男とラミちゃんがまだ中に」
建物をじっと見ていたルフィの目がわずかに見開かれる。視線は建物に向けられたままだった。
「ラミちゃんを探しにトラ男が戻ったの。でも明らかに本調子じゃなかったと思う。今はまだ火の手が回り切っていない場所から見聞色が使える人たちで気配を探しているわ」
それが今できる精一杯の努力だ。懸命な消火活動も直ぐに結果が出るものでは無い。
元はと言えばナミがもっと早く向かっていればラミを救出できていたのだ。
突然の爆発で割れた窓から命からがら抜け出したナミはラミのところへ終ぞ辿り着くことが出来なかった。
あの時無理をしてでも突き進んでいれば今頃もっと事態は収束していたかもしれない。そう思えば思うほど後悔が募り、唇を噛みしめて俯く。
この炎の勢いだ。ローの状態も芳しくはない。万が一のことがあったらどうしようと、それでも作業の手を止めないのはそれが今のナミにとって心の拠り所だからだ。
ナミの頭に大きい手が乗る。
思わず顔を上げたナミの顔に今度は麦わら帽子が乗せられた。
塞がれた視界に驚く。
「わっ、ちょっとルフィ!」
「持っててくれ!」
慌てて顔から麦わら帽子を外したナミは、既に目の前から己の船長が消えていることに気付いた。
辺りを見渡せど姿はない。
「持っててくれって、ちょっと、まさか」
男の背を追って懸命に走る。
「危ないよ!一緒に逃げようよ!」
必死の声かけも男の耳には届いていないようだった。
心なしか火の手も強まっているように感じる。早く捕まえて一緒に逃げなくては。焦る気持ちを抑えて少女は走る。
自分の家の病院にも似た雰囲気の廊下を走りながら、少女はかつての記憶を思い起こしていた。
病院に来ている患者が間違えてラミたちの居住区域に繋がる場所に迷い込むことがたまにあった。そういう者達は知らない場所に不安そうにして自力で戻ることが難しい場合が多い。その度に少女はよくこっそりと病院の方まで送ってあげていた。
病院にいる患者さん達は皆病気で気持ちも弱くなってしまっていることがあるんだよ、とは父の言葉だった。
だからそういった患者を見つける度に少女は「大丈夫だよ」と優しく声をかけるのだ。
だから早く患者さん(あの男の人)を安心させなければ。今は不安でどうしようもなくて、帰り方が分からないだけなのだから。その一心で自身も病み上がりの身体で走る。
男と少女の体格差は倍以上あった。歩幅はさらに差があるだろう。しかしパニックになり覚束ない足取りの男に追いつくことはそう難しいことではない。
火の手で道も途絶えていき、ついにはどこにも進めなくなって飛び込んだ部屋で男は隅に蹲り震えていた。
やっと追いついた、と少女は胸を撫で下ろす。
乱れる息を整えて、大切な本を抱え直して少女はその背に声をかけた。
「一緒に逃げよ!さっき窓ガラスがない場所見つけたから、飛び越えれば出られるよ」
少女に声を掛けられた男はびくりと震えて恐る恐る振り返る。
「む、無理だ」
「なんで?どこか怪我しちゃった?」
あれだけ建物を走り回ることが出来たのだ。男の体格ならば窓枠くらい簡単に飛び越えられる。
しかし男の怯えきった声は少女が予想だにしなかった回答を音にする。
「きっと外に出たら殺される。銃声がしたんだぞ。海軍も、き、来てるって」
確かに海軍が来たという声は少女にも聞こえていた。それでもそのすぐ後にあの優しい女性がもう大丈夫よと笑っていたから、彼らが自分達に害を成すために来たのではないと分かっていた。
ましてや殺されるだなんて。
「海軍さんはほきゅうで来てるって、他の人達が言ってたよ。それに建物が燃えてるから外に出ないと」
少女は男を落ち着かせるようにゆっくりと説明した。
今の状況では火事で死んでしまう可能性の方が高い。まだ少女たちがいる場所は煙も少なく、火を避ければ十分に逃げることが出来た。
それでも男は少女の言葉を素直に捉えなかったようだ。震える声で会話にもならない独り言をぶつぶつと呟く。
「俺、俺もう家に帰れないんだ。だって俺が帰ったら皆感染って珀鉛病になる。そんなの駄目だ、そんなことになれば俺たちの島は」
少女はぱちりと目を瞬かせた。
男の肌は所々白い。珀鉛病患者だった。自分と同じだ。ならば珀鉛病は他人に感染するものではない。
外の人はそう勘違いしているけれど、お父さまやお兄さまはそう言っていた。
「もう俺は二度と家族に会えない。いやだ、死にたくない……」
啜り泣くように情けない声で男は言葉をこぼした。大粒の涙が頬を伝う。
「珀鉛病は治るよ」
少女は思わずそう答えた。
それが彼女の中での真実だからだ。
珀鉛病は治る。あんなに苦しかった身体は元のように走れるまで回復し、刺すように痛かった肌は今では少し痒いくらいだ。
珀鉛病は中毒だ。父がそう言い、兄も肯定した。
そして少女の珀鉛病は既に治療が成功している。
だからこの男の人も外に出てちゃんと治療を受ければ治ると、少女は心からそう思って答えた。
「嘘だ!じゃあ、じゃあなんでこんなことになってる!本当に治るなら、なんで攻撃されてるんだ!」
少女は口を噤む。その答えは今持ち合わせていない。
何故こんなことになっているかだなんて、少女だって知りたかった。
突然爆発して、突然建物が燃え始めた。怖い音も沢山聞こえてくる。それがどうしてかなんて分からない。
少女だって泣きたいくらい怖い。どうしてあのお姉さんや、トナカイのお医者さんや、それから自分を手術してくれたあの医者が助けに来てくれないのか不思議でたまらない。
それでも自分の力でここから逃げ出そうと踏み出したのだ。
「珀鉛病はお医者さんが治してくれるよ。私、手術して珀鉛病が治ったんだよ。ここから出たらきっとお兄さんも先生が治してくれる。トラ男先生ってすごい先生が……」
だから早くこんな場所から逃げ出そうよと続けようとした言葉に男の声が重なる。
「治るわけが無い、致死率百パーセントの病だって……。そんなこと、だって」
男は少女を上から下まで見て顔を歪めた。
自分よりも進行している少女の姿は、男にとって自分の未来の姿だ。
初めて少女を見た時から怯えていた。
恐怖の象徴で、死の象徴だった。
その死の天使が男の目の前に立っている。
「珀鉛病は感染ったりしないよ。だって珀鉛病は」
ラミが男に真実を言う前に男はヒステリックに声を上げた。
「だって、だからフレバンスは滅んだんだろ!」
炎の音にも掻き消されない大声で、泣き叫ぶように、吐き捨てるようにも一つの真実が突きつけられる。
少女は目を見開いて、口を開いて何かを言おうとして、それからああと項垂れた。
そうだ。そんなこと、とっくに。
あれはお祭りの音ではなかった。
あれは患者達の足音ではなかった。
あれは、両親の悲鳴だった。
少女は約束を破った。
だからここにいる。
覚悟をしていたことが現実として突きつけられる。
気付いてしまった事実の、突然の答え合わせ。いつかは向かい合わねばならなかった答え合わせ。
こぼれそうになった涙を拭った少女は、ラミは本をぎゅうと抱きしめて恐る恐る口を開いた。
「大丈夫だよ」
炎に包まれた部屋の中でまるでそこだけが時間が切り取られたように静かだった。
大丈夫だよ。そう繰り返す。安心させるように繰り返す。
男の心に届くように繰り返す。
「私もお兄さんと同じ病気だから、そばにいってもいい?」
抱え込んだ腕の隙間からラミを見る男は返事をしない。
だがラミは了承を得たとばかりにそばに駆け寄った。
「大丈夫だよ。外に出たらきっと皆が助けてくれる。きっとみんな私たちが外に出てこなくて心配してるよ」
「そんなことない、……きっと俺達が焼け死んだ方が喜ぶやつが多いに決まってる」
「そんなことないよ。だって、お兄さんは家族のところに帰りたいんでしょ」
家族という言葉に男は顔を上げた。
「かえりたい」
泣きながら頷く。
ようやくそれらしい答えが帰ってきたことにラミは安堵した。
「じゃあ、家族が待ってるよ」
「……でも、でも」
ラミは本を抱え直して男に問いかけた。
「お兄さんのおうちはどんなところにあるの?」
困惑する男をよそに言葉を続ける。
「暖かいところ?寒いところ?どこの海にあるの?どんな色の街なの?」
そしてラミは目を瞑って、自分の記憶を思い出しながら語り始めた。
「フレバンスはねえ、きれいな街なんだよ」
燃えているから熱いのか。
それとも自分の身体が熱いからそう感じるのか。
ローには最早判断出来なかった。
限界を超えた能力の行使が身体を蝕む。
もう胃液しか出ない身体は水分さえ受け付けない。それでも引き摺るように一歩、また一歩足を進める。
この熱さは、あの時逃げた自分が経験したものだ。
肉の焼ける臭いも、脂が混ざって重たくなった空気の澱みも、炎を目の前にしてかつての記憶が引きずり出される。
硝煙の匂いも、煙で何も見えなくなった夜空も、もう二度と話すことはない同胞達の骸も。
煙を吸わないように身を屈めながら、違うと首を横に振った。
そんな匂いも澱みもこの場には無い。自分が、仲間が、そして麦わらの一味が多くの患者を救出した。
だからあの時とは違う。燃え盛るフレバンスとは。焼け落ちる病院とは。クローゼットで一人待っていた妹とは。
滲んだ汗を乱雑に拭う。
「ラミ……」
この体たらくで舞い戻って、一体どうするつもりだったのだろうか。
自分でも分からない。数十分前の冷静な自分は命の天秤を勝手に決めたはずだった。
目算も勝算も無くただ衝動のままに動いている。責任も何かもかなぐり捨てて、ただ会いたいと手を伸ばしている。
会いたかった。
ただ妹に会いたかった。
あの日病院に置いてきてしまった妹に会いたかった。
あんな最後を、もう一度貰えた天からの思し召しだと思った再会を、自分の意地だけで捻じ曲げてきた全てを、何もかも無駄にしたくはなかった。
もし怒っているというのならどんな罵詈雑言を言われようと構わない。どうして置いてったのと言われたら喜んで頬を差し出そう。
最初からそうすれば良かった。勇気がなかった、たったそれだけ。
残り滓のような申し訳程度の見聞色に導かれ、ローはゆっくりと足を動かしていた。
気配は二つ。逃げ遅れた患者と妹。
それは奇しくもローが天秤に掛けた命で、少女が天秤にすら乗せなかった命だ。
炎の中でも聞こえてくる妹の声にようやく安堵を覚える。良かった、生きていた。
もう少しだった。もう少しで妹の元に。
「フレバンスはねえ、きれいな街なんだよ」
その言葉が耳に届き、ローは息を呑んだ。
こんな火なんてちっとも平気だとばかりに強がっている声はローのよく知るものだった。
あともう少し、あと一歩踏み出せばというところでローは立ち尽くした。足が地面に縫い付けられたように動かない。
「珀鉛って金属で建物が作られてて、真っ白なんだよ。珀鉛って知ってる?フレバンスのしゅようさんぎょうなんだって」
隣にいる男に話しかけているのだろう。
返事は息を吸う音よりも小さい。
それにも関わらず妹は話続ける。
「学校の授業で、他の国は違う色だけどフレバンスでは全部白いんだよって習ったの。お兄さんのお家の屋根は何色だったの?赤?林檎の色?すごいねえ。私の家は病院だから真っ白!」
妹の話にそういえばそうだった、と思い出す。
珀鉛だけは沢山取れるからと、色んなところに使われていた。
当然ローの生家も珀鉛で塗装されていた。珀鉛で外装を補強すると雨にも風にも強くなり建物の寿命が伸びるのだ。
セメントに混ぜても珀鉛は頑丈だと評判だった。
だからどこもかしこも白かった。太陽に反射して目を焼くくらい、美しい街だった。
後にそれが塵肺を引き起こす原因物質になると気付いたのは大人になってからだけれども。
それでも珀鉛で出来た街がフレバンスだった。
「お祭りがね、いつもたくさんの人が集まってて、音楽が聞こえてくるの」
教会で沢山練習した歌を歌った。
露店のおじさんは少しだけ大きくアイスクリームを作ってくれる。
珀鉛の甘味料で出来た綿あめはそんじょそこらの品とは訳が違う。
「花火も沢山上がるんだよ。えんしょくはんのー?で真っ白な花火が作れるの。だから夜になると白い花がたくさん咲くんだよ」
妹が話すたびに、ローはその情景がありありと目に浮かんだ。
それは忘れていた記憶だった。
炎に焼かれて崩れ去った忌み地の記憶の向こう側、かつて幸せに暮らしていた頃の思い出を呼び起こす。
フレバンスは白くて、まるで童話の中から出てきたような国だった。
聖歌隊が賛美歌を歌い、シスターが祈る美しい街だった。
父が勉強を教えてくれて、母が美味しいご飯を作ってくれて、妹が遊ぼうと強請る。そんな、どこにでもあるかけがえのない場所だった。
手が震える。
ローが思い浮かべていた故郷はあの炎に包まれた戦場で、同胞の死体に囲まれた荷車で、白い肌を化け物だと罵る人間達の怯えた眼だった。
珀鉛を憎むことは出来ない。例え自分たちの肌を白くした原因だったとしてもそれがフレバンスの誇りだからだ。
誰にも憚ることなく自慢の国だと語る妹を羨む。
戦渦を見ることなく生き延びた妹の中には、まだあの頃の美しい記憶が存在しているのだ。
大切に大切にしまいこんだ妹が崩れ落ちた街を見ることなく生きてきた。
それがどうしようもなく嬉しかった。
少女の隣にいた男もついには啜り泣くように声を上げる。その気持ちがよく分かる。
少女の美しい記憶が、男達に望郷心を思い起こさせるのだ。
泣きじゃくる男に、少女は繰り返し「大丈夫だよ」と優しく言う。
「大丈夫。病気が全部治ったら赤い屋根のおうちに帰れるよ。家族がおにいさんの帰りを待ってるよ」
少女にはもう帰る家などないのに、それでも気丈に男を励ます。
「珀鉛病は中毒だから治せるってお父さまが言ってたから」
そうだ。父はそう言っていた。
自分達兄妹はそんな父を見て育った。
「大丈夫だよ。……きっとすごいお医者さんが治してくれる」
自分の病気を治して恩人に感謝し、世界に絶望した。
きっとそのすごい医者は父の称号のものだった。
だが父がもうそれを叶えられないというのならば。
美しい街を誰も覚えていないというのならば。
「きっと、お兄さまが治してくれる」
自分達しか出来る人間はいないのだ。
炎に焼かれミシリと天井が鳴る。ついには上の階まで火の手が回り、天井を焼いたのだ。
ひびが入り、欠片が降り注ぐ。
少女は悲鳴を上げて本を抱きしめた。
「ッ、ラミ!」
硬直していた身体が動く。後先考えずに目の前に飛び出した。
能力の展開は間に合わない。強度も精確な範囲指定も、能力の行使も。
堪らず炎と妹の間に身体を滑り込ませる。
少女の驚いた表情と向かい合った。
ゆっくりと視線が合う。二対の金の目が互いだけを映している。
ラミと、それから患者の男に覆い被さるようにして腕を広げた。
少女は息を飲む。
そしてそのまま燃えた瓦礫は三人に降り注ぎ──。
「生きてるかー!トラ男ー!ラミ子ー!」
瞬き一つの間に瓦礫が吹き飛ぶ。
衝撃であたりの炎まで一瞬掻き消えた。
三人の上に降り注ごうとしていたもう瓦礫はどこにも無い。それどころか建物の影も形もなかった。
見上げた空は月が輝いて、そんなはずは無いと馬鹿みたいに声が出た。さっきまで屋根も壁もあったのに。
何が起こったか分からずに、随分間抜けな表情で声がするほうへと視線を向ける。
見れば腕をぶんぶん回して快活に笑う男が立っていた。
ローとラミは互いに抱き合いながら、暴風のような海賊王の登場を呆然と見つめた。
目が覚める。
布の間から青空が見えて、少女は目を瞬かせた。
骨組みに布をかぶせただけの簡素なテントの中、地面に敷き詰められた毛布の上に横たわっていた。
首を回して周りを見ると、他にも何人もの患者が同じように寝かされている。
脇には海の戦士ソラの本が置かれていた。良かった、今度は取られていない。
ゆっくりと起き上がりしょぼしょぼする目を擦る。
しばらく呆けた後にぽつりと呟いた。
「お外だ」
辺りにはまだ焦げた臭いが漂っており、作業をしている人々の声があちらこちらから聞こえてくる。
まだ日が昇ってからさほど時間が経っていないのか、気温の上がりきっていない湿った空気が肌を撫でる。
本を大事に抱えた少女はそっとテントの布を捲った。
流れる雰囲気は穏やかだ。これならば平気だろうとテントを出た。
大人達が作業をしている間を隙間を縫うようにして歩く。
皆一瞬ラミの姿を見て驚愕したような表情をするが、すぐに何事も無かったかのように作業に戻っていった。
見たことの無い大人達ばかりで少女は困惑した。同じ服を来ている人が沢山。
少女はそんな大人たちの服に着いている「MA、RI、NE」の文字を一つ一つ辿りながら読んだ。
海軍だ、と手で口を覆った。どうしよう、と辺りを見回す。
いつも自分の病室に来てくれていた女性達や、トナカイのお医者さん、かっこいいコックさん、それから。
多分彼らは海軍では無い。もしや海軍が来た代わりに彼らがこの地から去っていってしまったのでは無いかと慌てる。
辺りをうろうろ、きょろきょろと駆け回る少女に大人たちは横目で見ながら内心ではらはらしていた。
「あっ、ラミちゃん!」
知っている声に呼ばれ、少女はビタリとその場で止まる。
前方にようやく見知った姿を見付け、ラミは安堵した。
「良かった!」
オレンジ色の髪をした女性、ナミに正面からがばりと抱きしめられ「わっ」と驚く。
「ごめんね、迎えに行けなくて。怖い思いも、痛い思いもさせてごめんね」
今までこんなに近くに来たことがなかった女性からぎゅうきゅうと抱きしめられて、少女は恥ずかしげに俯いた。
「あの、だ、大丈夫です。どこも痛くないし、えっと」
「ナミ、離してあげたら。ラミちゃん苦しそうよ」
そんな二人を見下ろしながら、ロビンは笑う。
しかしそれでもナミの抱擁は終わらない。あわあわと周りを見渡しながらどうしたものかと考える。
周りは様々な喧騒で溢れていた。
少女が見たこともないような大きい男性が二人、言い争いをしている。
「おい海賊!この大きいガラクタを早く片付けんか!」
「オウオウ何おう!俺様のこのスゥパァな発明品、海水汲み取り機ミズホエールがなかったら今頃消火出来なかったじゃねーか!」
「だからといってこのままにされては困るぞ!こいつの後片付けはせんからな!自分たちで解体しろ!」
片方は海軍で、片方はなんだろう。海パンの男に見える。少女は自分の目が可笑しくなったのではないかと疑った。
そのすぐ横ではアイスを作ってくれたコックさんがなにやら緑色の頭の人と喧嘩していた。
なぜだか聞こえてくるバイオリンの音を辿ると、なんと人体模型が動いているではないか。一体どういうことかと凝視する。
「ふふ、賑やかでしょう。私達の仲間なの」
見上げると可笑しそうに笑うロビンと目が合う。
おずおずと頷くと、さらに笑った。
そんな中、未だに少女にくっついて離れなかったナミががばりと顔を上げて少女の目を真っ直ぐに見る。
「ごめんね、ラミちゃん。私達、貴方に嘘をついてた」
「嘘?」
突然の申し出に目を瞬かせる。
非常に言い辛そうに、眉にぎゅっと皺を寄せてナミは言った。
「私達、海賊なの」
少女は目を丸くする。海賊、かいぞく。それはよく新聞にも乗るあの海賊のことだろうか。
ぽかんと口を開けてナミやロビンを見る。
予想外の言葉だった。
「船乗りだなんて騙して、本当のことが言えなくてごめんなさい。ラミちゃんを怖がらせると思って今の今まで言えなかった。本当に、ごめんなさい」
「……お姉さんたちが私を攫ったの?」
思わずそう聞く。
「違う!それだけは違うわ」
「ラミちゃんをここに連れてきたのはね、また別の悪い人なの」
助け舟を出すようにロビンが言葉を添えた。
ラミの中で海賊と言えば、色々な国で悪いことをしたり、船を襲ったり、それこそ海軍と戦っていたり。そんな姿が直ぐに思い浮かぶ。
でも彼女達は違った。少女をずっと励ましてくれたし、何かあれば飛んで来てくれた。
何が食べたいと尋ねてくれたし、ラミが退屈しないようにと本も持ってきてくれた。
悪い人たちではないと分かっている。むしろこんな綺麗な人達が海賊だなんて、と少しうっとりしてしまった。今も昔も戦う女性はかっこいいのだ。
少女が何も言わないでいると、さらに歯切れの悪い口調でナミが続ける。
「それからねほんとは、ほんとはね……フレバンスは」
ああ、と少女は理解した。
やはり彼女達は優しい人達だった。ずっと真実を知っていて、少女のためを思って今の今まで黙っていたのだ。
喉まで出かかった真実を言えないでいるナミの手をそっと握る。
「大丈夫だよ。知ってるよ」
え、とナミは声を漏らした。
ロビンも驚いた表情で少女を見る。
「もう無いんだよね。どこにも」
少女の表情は凪いでいた。とても祖国を失った、もうどこにも帰る場所がない子供の顔では無かった。
少女はゆっくりと頭を下げる。
「ありがとうございます。私を助けてくれて」
理不尽と言ってもいいのに、どうしてと泣き叫んでもいいのに、嘘つきと罵ってもいいのに。
「お姉さんたちは悪い人なんかじゃないよ。全然、怖くなんかない。私、ずっと怖くなんかなかったよ」
ナミは溢れる涙を拭いながら、少女の白い頬に手を添えた。
「ごめんね。ほんとに、こんなことになってから、どうして教えてあげなかったんだろうってずっと後悔してた。本当に無事に出てきてくれて良かった」
自分をこんなにも心配してくれる大人のどこが悪い人なのだろうかと少女が笑う。
海軍がいてもこんなにも笑顔で満ち溢れている。
別の悪い人、だなんて言外に自分達も悪い人だと言ったロビンはにこやかに付け加える。
「そうね。本当に無事でよかった。ラミちゃん、二日も寝てたから」
衝撃で耳を疑った。
「ふ、二日」
海賊だとかそんなことよりもそちらに驚いた。
「きっと脱出のショックや色んな事が重なって疲れちゃったのよ。ルフィ、うちの船長があんな無茶苦茶やったせいよね」
「あら、でも恰好良かったわよね。まあまさか更に建物を吹き飛ばすだなんて思わなかったけど」
「物語の世界なら王子様よね。助け出された三人とも気絶してたけど」
散々な物言いである。
どうりで火事が起こった直後にしては皆穏やかに作業していると思った。
なんと知らない間にそんなに寝てしまっていたとは、少女は人体の不思議にまじまじと感じ入っていた。
この後十六年以上寝ていたことを知りさらに驚くことになるのだが、この時の少女には知る由もないことだった。
しかしそこで少女ははたと気付いた。
意識を失う前、自分は誰といただだろうか。
「あ、あの、トラ男先生ってひとも、海賊なんですか」
恐る恐る尋ねる。これだけは聞いておかねばなるまい。
あらまあと顔を見合わせた女性陣はにんまりと答えた。
「そうよー!あの怖い顔に偽りなし!海賊よ」
「あらナミ、それじゃあトラ男君可哀想だわ。彼、とっても優しいお医者様なのよ」
ぴしゃん、と雷に打たれたような衝撃が走った。
海賊。海賊。海賊。
大変だ、海賊。
自分達が海賊だと告げたときよりも方針している少女に女性陣も目を丸くした。
「あの、その、と、トラ男先生って今どこにいるんですか」
おっかなびっくり、少女は問いかける。
その質問にナミはさっと表情を変えた。
「あのね、ラミちゃん。もう一つ言わなきゃいけないことがあるの」
「……?」
首を傾げる少女に海賊達は申し訳なさそうに言う。
「私達海賊はね、あと少しでこの島を離れなきゃいけないの」
え、と驚きの声を上げた。
「周りに海兵が沢山いるでしょう。本当は私達、一緒の場所にいることができないの。今回は特別に皆が無事に過ごせるように一緒に頑張りましょうねって約束したからここに居ることができるの」
でももうそれも限界なのだと語る。
少女が寝ていた二日という時間は海賊に残された時間でもあった。
「だから、ここからは海軍のお仕事になるわ。絶対に皆の治療を最後まで診て、絶対に皆のことを守ってくれると約束した。私達はそれを信じることにした」
少女の両手を握りながら言葉を続ける。
「……ラミちゃんのことも、絶対に悪いようにはしないって海軍のえらーい人が言ってくれたから。だから、安心してね」
最後まで一緒にいることができなくてごめんねと謝る。
本当はナミたちだって離れたくなかった。こんな事態になってまだまだ治療を必要としている人達も大勢いて。
だが海賊の力だけではもうどうにもできないところまで来てしまっていた。
責任を取ると言い出したのは仏のセンゴクだ。
彼はこの島に自分達の部下を上陸させ、海賊達と共に患者へ従事することを良しとした。これは異例なことだ。賞金首を目の前にして同じ仕事をして、同じ釜の飯を食うなど。
その覚悟を海賊達が認めたからこそ、この後のことまで任せる決意をしたのだ。
「私達は明日この島を離れる。だからラミちゃん、今のうちに不安なことは何でも言って。出来る限り、最後まで私達ができることをするわ」
「……私、帰る家がないけど、どうなりますか」
少女は問う。今の今まで考えないようにしてきた現実に向き合い、震えながら聞く。
「……海軍が保有している孤児院か、ちゃんと運営されている養育施設になると思う。色々調べてくれている人もいてね、ラミちゃんが好きなところを選べるように手配もしてるの」
そうですか、と物分かり良く返事をする。
ここで駄々を捏ねてはいけない。駄々を捏ねたところで誰も叶えてくれるわけではない。彼女達を困らせてしまうだけだと口を噤みかけて、少女は一番気になっていることを問いかけた。
「あの人は、……トラ男先生も明日行っちゃうの?」
それはきっと少女に唯一残された心の拠り所だ。
自分は一人知らない場所に行く。ではあの人は。あの人は自分のことをどう思っているのだろうか。
気になって仕方がなかった。
だってそれなら、どうして私のことを皆知らないのだろうか。
まるで他人事のように語る皆に違和感を覚える。ただ教えて貰えていないだけかと思っていた。
でも違う。彼女達は本当に知らないのだ。
彼は、兄は自分のことを一言も言っていないのだ。どうして。まさか忘れてしまったとでも。
いいやそんなはずはない。あんな立派な医者になって、自分の手術も成功させて。まさかどうして。
「トラ男達は私達より先に出るわ。ここに居た悪い人たちを追いかけるためにもうすぐ出発するの」
大変だ。
驚愕に本を取り落としそうになる。
大変だ、置いていかれてしまう。いいやもしかしたら最初から自分を一緒に連れて行く気はなかったのかもしれない。だから最初から誰にも。
違う。兄はそんな人ではなかった。自分に何も言わずにどこかに行くなど。せめてさよならも言わないなんてそんなこと。
ラミは口に手を当てた。
間違えたのは自分だ。約束を破ったのも自分だ。
どうしようと焦りが出る。きっと自分が悪いことをしてしまったから、だから何も言わずに行ってしまうのだろうか。
自分はまだ、ありがとうも、さよならも言えていないのに。
「ラミちゃん?」
様子を伺うナミへと視線を向け、そしてラミは突如としてナミを振り払い走り出した。
「ラミちゃん!」
どこにそんな力があるのかというくらい素早い足取りで大人達の足元を駆け抜ける。
ナミの大声に気付いた他の海賊達もなんだなんだと事態に気付いた。
「ラミ!?」
トナカイの医者が驚いて聴診器を取り落とす。
「うおっ」
「ラミちゃんっ?」
緑色の男性とコックの横を通り抜ける。
「ヨホ」
「オウ、どうした!」
人体模型とメカ男の間を走り抜ける。
ついでに鼻の長い男と魚人族の大きな股の間を潜り抜けてラミは走った。頭が誰かの股に当たった気もしたが、背後から唸る声もした気がしたが、ラミは走った。
正直場所は分からない。自分がどこへ向かって走っているか皆目見当もつかなかった。
だけどとにかく探さなければ、その一心で走り続けた。
そのラミの視界を大きな影が覆う。
わぷ、とぶつかった身体はぼよよんと伸びた。
「る、ルフィ!ラミちゃんを止めて!病み上がりなのに!」
遠くで女性の声がする。何事かと駆けつけた他の海賊達の気配もする。
捕まる前に早くいかなければ。踵を返して走りだそうとした少女の身体をその影はひょいと持ち上げた。
「んあ?ラミ子か!目が覚めたんだなー」
よくよく顔を見ると、それは少女達をあの火の中から救いだした男だった。
あの時被っていなかった大きな麦わら帽子を被り、少女にニッと笑いかける。
「あ、あの」
がっしりと掴まれた身体は動かない。
後ろからは女性達が追いついてくる気配がする。
急に走り出した少女に驚いただろう。病気の身体で突然動くなと怒られるかもしれない。
でも少女には時間がなかった。いつ行ってしまうかもわからない彼らに追いつくには、こんなところでぐずぐずしている場合ではないのだ。
「あの、私行きたいところがあるんです!お願いします、降ろしてください!」
少女は叫んだ。
自分より大きな男に抱えられた恐怖はあったが、それよりも優先すべきことがあった。
焦る少女の言葉と、後ろから追いついてくる仲間を見比べた海賊王はふうんと頷く。
それからよいしょ、と少女を抱えなおしてこう言った。
「よし、走るか!」
少女を抱えた海賊王は、行先も聞かずに走り出した。
ぎゃー、あんた馬鹿!だとか。
止まれ~!だとか。
後は何故か悶絶したような声だとか。
そんなもの全部ひっくるめて関係ないと快活に笑う男は、少女を片手に駆け抜ける。
あまりの速さに身体が置いていかれてしまうのではないかと心配したくらいだ。
太陽の光に焼かれながら海が一望できる港まで駆け抜けた二人は、青い海にコントラストが良く映える黄色い潜水艦の前までやってきた。
そこには先ほどの海軍とも、少女が知っている海賊達とも違う、白いツナギを着た人達がなにやら作業をしていた。
「とうちゃーく!」
その言葉に彼らは一斉にこちらを見る。
おいあれって、いやいやまさか。なんでここに。
騒めきが聞こえて来て少女はびくりと肩を揺らした。
彼らは自分をじっと見ている。それもそのはずだ。こんな真っ白な人間、他にはいないだろう。
すう、と男は身体が膨れるくらい息を吸う。
「とーらー男―!もう元気になったかー!」
鼓膜がぐわんと揺れるほど大きな声で叫んだ。
なんなら少し船が揺れた。
一番近くにいた少女がその音波攻撃に目を回していると、船の上でガチャリと音がする。
「うるせえ、麦わら屋!こっちは病み上がりだった言ってんだろ!静かにできねえのか!」
そう言って青筋を浮かべて飛び出してきたのは頭にふわふわの帽子を乗せた青年だ。
あの帽子は、と少女は目を丸くした。形はともかく柄は見覚えがあり過ぎる。
「お、もう元気そうだな!そっち行っていいか」
「は?おい待て、麦わら屋!止まれ!」
突然やってきた海賊王に怒鳴り、そしてその腕に抱えられた少女を見つけて表情を一変させる。
止まれと言われた海賊王は珍しくその場で急ブレーキをかけて立ち止まった。
静止のために船の欄干に身を乗り出していたローは安堵のため息をつく。
「なんだよトラ男、そっちに行っちゃだめなのか?」
「それじゃあ感染対策で離れてた意味が無いだろ」
もごもごとローは反論する。
突然来た海賊王と自船の船長のやり取りに、周りはなんだなんだと見守るばかりだ。
言い訳にしては弱い言葉にルフィもラミも顔を見合わせる。
「何言ってんだ。今更だろ?」
そう言われてローは口をむぐぐとへの字に曲げた。
その通り、すべて今更だ。ローのそれはただの屁理屈でしかない。
ん、と海賊王は抱えていた少女をローにも見えるように高々と掲げる。わあ、と少女は足をぶらぶらさせた。
「こいつがトラ男に言いたいことあるってんで連れてきた!」
その頃にはようやく追いついた他の面々が後ろで息を切らしていた。
海賊王が少女を掲げ、上から四皇が見下ろしている光景は恐ろしくへんてこだ。
なにやってんだルフィ〜!とは先程まで悶絶していた男の台詞だ。
「おい、待て何をやっている。俺が下に降りるから、絶対に落すなよ麦わら屋ッ」
これ以上突拍子もないことをされては堪らないと、ローは適当な物と自分を入れ替えて港に降り立った。
船の側では船員達が心配そうに船長を見守る。
強張った顔で降りてきたローに向かい合うように、ルフィは少女を地面へ降ろした。
「わっ、とっと……」
「ん!ラミ子、言いたいことがあるなら言ってやれ!そのために来たんだろ」
ぐらりと揺れる身体を必死に支え、ここまで抱えてきた本を抱きしめる。
ちょっとルフィ女の子には優しくしなさいよ、と後ろから追加で野次が飛んだ。
どうやら少女がここまで一生懸命走ってきたのはローに会いたかったからだと知り、海賊達はそっと胸を撫で下ろす。
おそらくは同郷である彼らがこのまま何もなく別れてしまうことに思うところはあったのだ。
ハラハラなのか、ドキドキなのか。大人達が見守る中、一歩前へ進み出た少女は口を開く。
「あのっ、もう行っちゃうって聞きました!だから、言いたいことがあって……」
「……なんだ」
恐る恐る返ってきた返事に少女の口元が震える。
本当は確信を突いて言いたいことが沢山あるのに、彼を目の前にした途端に臆病になる。
赤の他人にはあんなに強気に出られたのに、本番は上手くいかない。
緊張する少女に海賊たちは心の中で頑張れ!とエールを送った。
「あの、私の手術してくれたお礼、まだ言ってなくて。ありがとうございました。私元気になりました」
「……そうか」
ぶっきらぼうな返事に少女はめげない。
「それから、本!この本、ありがとうございました!私の大好きな本で、何度も読みました!海の戦士ソラ、先生も好きだって聞いて」
「別にいい」
「でも、でも持ってこれたのがこれだけで。残りは全部……ごめんなさい」
「仕方がないことだ。……その本も気に入ったのならやる」
「それに、助けに……来てくれました。私、寝ちゃったからちゃんとありがとうって言えてなくて」
「建物吹き飛ばして俺達を連れ出したのは後ろの麦わら屋だ。お礼ならそっちに言え」
「……ごめんなさい」
言葉が続かない。ごめんなさいと口にする声には涙が滲んでいた。
もっと優しくしなさいよとナミ達から視線が飛ぶ。
「ごめんなさい」
目から零れる涙は止まらない。ちゃんと言いたいのに、しゃくりを上げる喉も抑えられなかった。
こんなことを言いに来たのではないのに。最後に言ってやらなきゃいけないのに。
ごめんなさいとうわ言のように言う少女に皆どうしていいか分からなかった。ローの不器用さもまた彼らは知っているからだ。
その肩をぽんと誰かが抑える。
ここまで連れてきてくれた太陽のような男がラミのすぐ後ろで何も言わずにじっと立っていた。
その途端、背筋に一本芯が通ったように感じた。
言わなければ、ここまで来た意味がない。これが最後になるならば後悔したくはない。
ラミは止まらない涙を乱雑に拭って顔を上げる。
「ごめんなさい。私が約束破ったから、……間違えちゃったから、怒ってる?」
目の前の海賊ははっと顔を上げた。
他の海賊達は怪訝な顔をする。
「何を」
「あの日、約束を破ったから、私がクローゼットから出たから」
ざわりと周囲の空気が変わった。
少女が言い出そうとしている言葉の続きを皆が待っている。
「ごめんなさい」
再び少女は謝罪の言葉を口にした。
間違えてごめんなさいと頭を下げる。
ゆっくりと顔を上げる少女からローは視線を外すことが出来なかった。
「ごめんなさい」
ただ一言呼ばせて欲しい。それだけで良かった。
「おとうさまって呼んでごめんなさい……気付けなくて、ごめんなさい」
うそ、とどこからか声がした。
誰だって信じられない。そんな奇跡が起こるなど、誰だって。
「ごめんなさいっ、お兄さま……っ」
言い切って、我慢できずに声を上げて泣き出す少女をローは呆然と見ていた。外野の視線などもう視界から消えていた。
その呼び名を、声音を忘れていた。十数年の時を経て、ローの中に息を吹き返す。
その場にいた海賊達はそんな馬鹿なと、突然の真実に開いた口が塞がらない。
一番信じられないのはローの方だ。妹の記憶の中の自分はこんなやさぐれた海賊然とした男ではなかったはずだ。こんなぶっきらぼうでひねくれて、こんな大きな大人の男ではなかったはずである。ただ一言否定の言葉を口にして目の前から逃げるような男ではなかったはずである。
どうやって気付いたかは定かでは無い。だが妹は昔から聡明だった。
「……ラミ」
震える声で名前を呼ぶ。
わんわんと泣く妹にかける言葉が浮かばなかった。
誰もが二人を見守っている。余計な言葉一つ挟まずに、たった今再会したばかりの兄妹の行く末を案じている。
ローは、喉から迫り上がる気持ちを掻きむしり、言葉にした。
「違う」
謝る必要なんてどこにもなかった。妹の言葉を都合良く使い避けてきたのは自分の方だ。
違う、そんなことを言う必要なんてない。ただ一人自分の足で生き延びた妹にこんなことを言ってもらう資格なんて無い。
「違う。お前に怒ったことなんて一度もない」
片膝を着いて目線を合わせる。
「お前は、お前は誰よりも勇敢な人間だ」
鬼哭を丁寧に横たえ両手を開けた。
火事の中で自分だけ逃げずに立ち向かった。ローが助けられなかった患者を救おうとした。
あの日フレバンスに取り残されても一人で生き抜いた。
ただそれだけを伝えたかった。
「こんな、逃げてばかりの俺よりずっとお前は強い子だ」
真っ直ぐ見つめる妹の顔は亡き母によく似ていた。その意志の強さも。
この星で一等一番の、自慢の。
「お前を一人にして生きてきた俺の方こそ兄を名乗る資格なんてない。こんな、どうしようもない大人になった俺なんかの」
ローの言葉にラミはぶんぶんと首を横に振る。
「そんなことないよ、だってお兄さま、私のこと治してくれたんでしょ」
今はまだどこもかしこも白い肌を、そして白いまつ毛を震わせてラミは必死に兄へと思いの丈をぶつける。
「お父さまとお母さまと同じ、お医者さんになったんでしょ」
自分を卑下する兄へ誇らしいと伝える。
夢にまで見た憧れの、両親と同じ医者になった兄を尊敬している。
どんなに見た目が変わろうとも、時が経とうとも変わらない根っこの部分を信じている。
だからラミは怖かった。不安で仕方がなかった。
本当は物分かり良く兄を見送りたくなんてなかった。
どうして自分だけが子供のままなのか、どうして自分だけに力がないのか、どうして自分は兄の側にいることができないのか。
どうして引き留める力がないのか。
「私だけ、わたしだけ置いていかれちゃった」
ぼろりと一際大きな涙が零れて、ローはついに少女に駆け寄った。
「違う。誰もお前を置いていったりしない」
夢の中で拭えなかった涙をようやく拭う。
ローの手の上に溢れる涙に奥歯を噛み締める。
「もう二度とあの暗い場所に置いていったりしない」
おにいさま、と小さい手がローの手を掴んだ。
「俺は今からお前を、そして同胞を穢した奴らを追いかける。必ず見つけ出す。見つけ出して、裁きを受けさせる。……だが、それには連れて行けない」
「さよならじゃ、ないの」
「……ああ、そうだ。ここでお別れじゃない」
祈るように少女の両手を握りしめた。
あの日クローゼットにしまい込んだ、最後に見た妹の表情が上書きされる。
ベッドに眠ったままの珀鉛病の妹はもうどこにもいない。
光る涙を湛えた美しく勇敢な妹を見据えた。
「全部が終わったら……必ず迎えに来る。今度は絶対に」
力を与えられ、自由を与えられ、妹に前を向く意志を貰った。崩れ落ちる病院の前で泣くだけの少年ももうどこにもいない。
「だから、またお兄さまと一緒にいてくれるか」
少女は言葉もなく頷いた。またぼろりと涙が溢れて、ローは思わず笑う。
「遅くなって悪かった。ずっと、お前に名乗ってやれなくてすまなかった」
随分と遠回りをした。
抱えなくて良いいざこざも、衝突した方が良かったわだかまりも、きっと全部彼らには必要なことだった。
「お前は、トラファルガー・ラミだ。たった一人であのフレバンスから生き延びた、俺の自慢の妹だ」
ついにはそう言った兄の言葉に、少女は崩れ落ちるように抱き着いた。
十数年の隙間を埋めるかのように抱き着いた。堪らずわんわんと泣く妹を抱きしめた。
皆それをじっと、遠くから見守っていた。
涙が枯れて、声も枯れて、あらあらまあまあと周囲は思わず微笑んだ。
「トニー屋」
その兄妹の感動の再会の最中、突然声を掛けられたトナカイ医はびょんと飛び跳ねた。
まだぐすぐすと泣いている妹を抱えたまま、ローは能力を展開する。
次の瞬間、その手に握られていたのは紙の束だった。
手招きをされ恐る恐る近づいたチョッパーは渡された紙束とローを見比べて不思議そうな顔をした。
「これは俺が書いた症例報告だ。内容は、ラミと……当時の俺の手術記録。能力も使ってるし、大して珀鉛病のことは書けていないが足しにして欲しい」
ぎょっとして思わず紙束を取り落としそうになる。欲しい欲しいと思ってはいたが、こんな大切な物を突然渡されるなんて思ってもみなかった。
「俺も奴らの始末が終わったらできる限り研究を手伝う。ドクター・チョッパー。共同研究者として、お前と一緒にやらせてほしい。これはそのための誠意だ」
「どうして」
その言葉には紙束を渡してきた意味と、珀鉛病の研究にあまりいい顔をしてこなかったかつての彼の考えに対する疑問も含まれている。
掘り返されたくない過去の傷だったはずのそれをどうして自分に渡すのだろうか。
ましてや共同研究者の申し入れなど。チョッパーにとっては願ってもないことだが、それでもローの心境の変化を不思議に思い顔を上げる。
妹を片腕に抱えた男は穏やかな顔をしていた。
ここ数日の張りつめた、疲れた表情から解放された、本来はこんな表情をする男なのかと気付かされる顔だった。
トラ男、と思わず名前を呼ぶ。
ローは妹をちらりと見て、それから小さな医者に「気が変わったんだ」と言った。
「俺達の故郷が美しかったと、誰かに知って欲しくなった」
ただそれだけだ、とローは言葉を続ける。
憑き物が落ちたようにそう言うローに、チョッパーはそれ以上何も言わなかった。
渡された資料を胸に抱えて、うん、と頷く。
「……教えてくれ、トラ男。フレバンスがどんなところだったか。もちろん、ラミも」
かつてのフレバンスがどんなにすばらしい場所だったかを。二人が生きてきた国がどんなに綺麗な場所だったかを。
街の人々の話も、学校の話も、仲が良かった友達の話も、大好きな家族の話も。
「教えてくれ、フレバンスの話を」
もう禁忌ではない思い出の話をもっと知りたかった。
はらはらどきどき、感動の再会を見守っていた海賊達がやっと気を抜いた時分、新たな波乱がやってきた。
「トラファルガー」
海賊達の間に一瞬緊張が走る。武器を構える音がする。覇気の気配が滲み出す。
人の波が割れて、その間を悠々と歩いてくる大男がいた。
「……センゴク」
名前を呼んで、ローは自分の部下達に武装を解くように命じた。
出迎えるにしては不格好だが、ローは妹を抱えたままその大男と向き合う。
少女を抱える海賊を目にして、センゴクは一瞬目を細めた。似たような顔が並んだものである。
「そろそろ出立だと聞いた。間に合ってよかった」
「……まさかと思うが見送りに来たとか言わないよな?海軍のあんたが」
丸腰に正義を羽織っているとはいえ簡素な恰好。場所か違えばその辺を散歩しているおじいさんのような出で立ちにローはおっかなびっくり聞き返す。
そのまさかだと返されて、今度はその場にいた全員が目を剥いた。
「渡すものがあってな」
「渡すもの?海楼石の手錠か?」
「そんなわけあるか。いや、もちろん次に会った時はその手に手錠をかけることは吝かではないが。今朝の便で取り寄せていたものがやっときたのだ。お前が出ていく前で良かった」
ほれ、とこれまた古めかしい紙の束が渡される。
保存状態があまり良くないのだろう。
思わず手に取ったローの手の中でカサカサと音を立てる。
なんだか数分前に見た光景だなと、紙束を渡した側であるローはこの紙束の正体を聞くためにセンゴクを見上げた。
「これは、かつてトラファルガー医師が、お前達の両親が集めた千にも及ぶ珀鉛病の自験例。その論文だ」
愕然とした。
突然の名前にセンゴクの顔を凝視する。
今、彼は何と言っただろうか。
「あの日燃やされるはずだったその書類は、焼け残った金庫の中に入っていた。金庫を戦利品として持ち帰った物からそれを預かり、それからはずっと日の目を見ずに倉庫の奥へと仕舞われていた。この書類の存在を知っていたのは、当時すでに海軍大将であった私と、一部の人間だけだ」
書類に目を落とす。
一枚目には題名が。この題の名付け方の癖は、父のものだった。
父が中毒だと、感染症ではないと証明した唯一の論文。
「ずっと渡すべきだと思っていた。私の力だけでは表に出せば握りつぶされてしまう。だから、いつか然るべきものの手に渡るまでとずっと保管していた」
震える手で一枚一枚捲る。
二度と見ることは無いと思っていた、握りつぶされたはずの両親の意志がそこにあった。
「これを、お前達で役立ててほしい。これにまだお前達の両親の心が残っているうちに、どうか引き継いでほしい」
お兄さま、トラ男。
側で見ていた二人が声を掛ける。
「それから裏を。きっとお前達宛てのメッセージだ」
センゴクに言われた通り紙束をひっくり返して、覗き込んでいた二人は紙の端の書かれた文字を見た。
Dear my angel.
右上がりの少し癖の強い字。文字の端が掠れていて、あの頃急いでそれを書いたのだろうと推察する。
顔料に珀鉛を練り込まれたそれは少し薄い、しかし輪郭のはっきりした色合いだ。
「お父さまの字だ!」
ラミが指さす。
その指先にぽつりと水滴が落ちた。
少女は顔を上げる。
「お兄さま」
ローは泣いていた。声も上げずに、悲しそうな顔もしていないのに。
目から涙が溢れていた。頬を伝い顎の先から落ちた滴が紙を濡らしていた。
失ったと思った全てがまた手のひらに戻ってきた気がした。
「……ああ」
十数年前の苦しかった故郷の記憶も、思い出しては虚しかった家族との記憶も。
こんなにも自分を構成しているものだった。
なんと白くて儚い。
「そうだな、懐かしい字だ」