Lacrimosa答えは今ここで出す必要はない。
男にそう言われて身体の緊張を解く。
「今日はもう遅いから、うちに来い」
ああそうか、彼の家もここにあるのか。
当たり前のことなのに抜けていた。
ここはローのフレバンスではない。
教会から街に、坂道を降りていく。
同胞達の記憶のとおりに再現されたであろう街はあの頃と同じ匂いがした。
知っている商店街、知っている喫茶店、知っている学校。
知っている病院。
明かりが一切灯っていない大きな病院の前を通り過ぎる。
不思議だった。
ここには自分達の記憶は無い。それでも瓜二つに再現された病院を見て感慨深く思う。
あのフレバンスの人々にとってこの病院はこんなにも記憶に残っていたんだなと、失うばかりだった人生で少しだけ取り返せた気がして、しかし決して故郷ではないこの場所を想う。
「懐かしいと思ったりするものか」
病院を通り過ぎてしばらくした頃、男がぽつりと問いかけた。
「……しないと言ったら嘘になるが、帰りたいとは思わないな」
先を行く男が顔だけ振り返る。
「はは、そうか」
くしゃりと笑った顔は、この男が見せた顔の中で一番真実に近いと思った。
もしかしたら怖かったのかもしれない。本物のフレバンスを知る数少ない人物がここをどう思っているのか、成り立ちを知って何を考えるのか。
ローの回答は男にとって満足の行くものだったらしい。
彼の家は街の中心から外れた場所にあった。
明かりがついていることに気づいた男が「あ」と声を上げる。
「もう起きちまったか〜」
そういえばあの少年は疲れて寝ていると言っていたんだったか。
この島に上陸したときからすっかり置いてきてしまっていたローは些か気まずい表情で家の中に入る。
「ただいまー、ルシオ!」
男の声が家の中に響く。ファミリータイプの一般的な間取りの家のように見受けられた。
どたどたどた、と足音がする。
「おっそーい!」
バン、と現れたのは寝癖を付けた少年だ。
腰に手を当ててぷんぷん怒っている。あまり怖くはない。
「トラオさん見つけたらすぐ帰ってくるって言ってたのに!もう夜だよ!」
すっかり暗い窓の外を指さした少年に男は申し訳なさそうに返した。
「いやあ、トラオ君ったら結構街の奥まで行っちゃっててなあ。見つけるのに時間がかかったんだ。遅くなって悪かったよ、ルシオ」
おい、とローは男を見た。時間がかかったのはそれだけではない。その内容が言えないにしてもなぜ自分だけの責任になるのだという不満を込めた目線を送ったが、代わりに今度は少年からの不満そうな目線がローを襲った。
「トラオさん」
むむむ、と眉を寄せる少年にローも思わず謝る。
「……遅くなって悪かったな」
「街が気になるのは分かるけど、一人だけずるいよ!僕だって観光したかった!」
「まあまあ、ルシオ。落ち着けって。どの道お前は今日疲れて寝てたんだから無理だったって。それにお前はこれからいくらでもこの街を見ることができるけど、トラオ君は立ち寄ってくれただけなんだから」
すみませんねえ、と男はへにょりと笑う。
すっかり兄の仮面を被って、先程の態度はどこへやら。随分としおらしい男を演じている。
「……僕もトラオさんと一緒に見て回りたかったな」
兄に宥められた少年は今度はしょぼんと肩を落としながら言う。
悪いことをしたなと、随分と懐かれたなと少年を見下ろす。その柔らかそうな髪の毛に手を伸ばした。
視界の端でわずかに男が警戒した様子を確認しながら、ローはその頭を撫でた。
妹よりは大きいが、髪の柔らかさはまだまだ子供のそれだ。
「……明日なら少しだけ時間がある」
「ってことは、今日はうちにお泊まり?」
「そうなるな」
「一緒に街に行ってくれる?」
「ああ」
ローはちらりと男を見た。
「……トラオ君にあまり迷惑をかけるんじゃないぞ。兄さんは明日仕事が残っているから、明るいうちにこの家に帰って来ること。守れるな?それからあんまり家から遠いとこには行かないこと。これはトラオ君といても、だ。それからちゃんと街の人には挨拶をすること」
「はーい!」
男は渋々といった態度をなるべく出さないように少年に言った。少年は顔を輝かせて返事をする。
どこの家族も妹や弟に弱いものか、と既視感を覚える関係にローは思わず口を引き結んだ。
一通り文句を言い終わったらしい弟は今度はお腹をおさえて兄へ訴えかける。
「兄さん、お腹すいた!」
「はいはい、今すぐ夕飯にしようか」
男は腕まくりをしてキッチンへと向かった。
──早朝、島の中まで霧が入り込んだ街並みを客間の窓からぼんやりと見つめる。
隠れ里にはさぞもってこいの立地だったんだろうな、とため息をついた。
なるべく音を立てずにリビングへ向かうと、すでに男がコーヒーを飲みながらダイニングテーブルに座っていた。
昨夜はこのテーブルで意外にも料理上手な男の手料理に舌鼓を打つことになり、人生とはよく分からないものだなと考えたりもした。
リビングはコーヒーマシンから漂う匂いが充満していて、どこにでもある朝の風景が広がっている。
「早いな。うちのベッドじゃよく眠れなかったか?」
リビングに入ってきた時点でローの気配に気付いていた男がマグカップを掲げて挨拶をしてくる。
「自船以外では熟睡しない質なんだ。悪かったな」
「はは、さすがは天下の四皇様」
朝ご飯をどうぞ、と指を刺される。
キッチンには既に焼き上がったパンケーキが鎮座していた。絵本かとでも言うくらいに積み上げられている。好きなだけ取れということか。
そのメニューを見て微妙な顔をしているローに追い打ちをかけるように男は話しかける。
「そんなかわいいご飯は普段食べてないってか?ルシオに合わせたものだから許してくれ」
「……妹もよく好んで食べる。まさかここでも見るとはな」
「……そうか」
男はふっと笑ってコーヒを飲む。
「妹と暮らせるようになって良かったな」
食べる分だけパンケーキを乗せた皿をごとりと机の上に置く。その姿勢のまま、ローはしばし固まった。
男の表情は変わらない。世間話の延長でしかないのだろう。
「……あんたも、ここの研究員がいなくなったから弟を呼び寄せたのか」
「もちろんそりゃあな。だからあんたにはいろんな意味で感謝している。こんなことに巻き込んで申し訳ないともな」
「……」
「ま、手間賃としてあの男を持っていってくれたらいい」
それはローにとって何より代え難い対価だ。
素直に感謝を受け取れずに、ローはそっぽを向いて口を開いた。
「……感謝なら、麦わらの一味にしてくれ。俺は呼ばれたから関わったに過ぎない」
「じゃあ海賊王とそのお友達に感謝の乾杯」
こん、とコーヒーの入ったマグカップをローのマグカップにぶつけた。
「友達じゃない」
「恥ずかしがることじゃない。友達が沢山いるのは良いことじゃないか」
「なんだその保護者面は」
ローがそう言うと、男は少しだけ表情をこわばらせた。
「……はは、そうだったな。俺はお前の保護者じゃなかった」
「……」
気まずそうな物言いで返すものだから、ローも黙り込む。
それから数秒間何も話さない時間が続いて、ローは気を紛らわせるようにパンケーキにフォークを入れた。
冷めてしまっているがそれでもしっとりと分厚い生地だ。よく作るのだろうか。それとも弟のために練習したのだろうか。
コラソンがローにこんな料理を作ってくれたことは無かった。だから記憶からくるものではないだろう。
バターもシロップもかかっていないシンプルなものだったが、大人のローには丁度良かった。
「今日は仕事だと言っていたな」
パンケーキを半分食べたところでローはやっと男に話しかける。
「ああ。せっかく研究室に入れるようになったんだ、準備はしたいからな」
何をとは言わなかった。男もローも十分分かっている。
「あんたはルシオと約束したんだろ。一緒に観光してくればいい。こんな機会、二度とないだろうからな」
ただ、と男は続けた。
「夕方前までには、祈りの時間までには帰ってきてくれ。じゃないとあんたとルシオに能力をかけられないからな」
「……分かった」
ローは残りのパンケーキにも手を付けた。
帰ったら、自分も妹になにか作ってあげようか。二人の記憶に残っているものを。
ルシオの遅い起床を待って家を出た二人は、すっかり太陽が昇った街を散策していた。
ロシェルの弟だと名乗るルシオを皆笑顔で出迎える。
既に情報が出回っているのだろう、付き添いのローにも住人たちは親切だ。
危なっかしくも進む少年を補助しながらローは街を観る。
事情を知らなければ良い街だと素直に思えただろう。故郷を知らなければ賞賛すら出来ただろう。
人々の生活の営みはローや少年が混じっても揺るぎない。
「いつの間に仲良くなったのー?」
持たされたお小遣いでアイスクリームを買った少年は、危なっかしい手つきでそれを持ちながらローに問いかける。
「誰と」
「兄さんと!昨日の夜兄さん、トラオさんのこと『トラオ君』て呼んでたでしょ」
ぱちりと目を瞬かせた。よく見ている。
「……まあ、迷子で世話になったからな」
適当な言葉で誤魔化す。
確かに、最初はもっと他人行儀な距離感だったはずだ。出会ってから一日しか経っていない。
昨日の男とのやり取りを少年は知らないはずなのに、その僅かな差に気付いていた。
いや、気付かれるくらいに変わったのだ。
弟に気付かれてしまうくらい男は心を傾けていた。
同胞のためになりふり構わず行動した男と、同胞と再び相見えることになったロー。
情が湧いたのではない。互いの愛する者へと向けた情が心の壁を同じくしていた。
それが親近感として表れたのだろうか。
男にとってそれが非効率的なことはよく分かっているだろうに。
二人の大人の思惑なんて何一つ関係ない少年がきょとんとした顔でローを見上げていた。
「迷子になった僕を助けてくれたトラオさんが今度は迷子になるって、なんか面白いね」
「言ってろ」
「あ、でも兄さんは二番目だよ!トラオさんと先に友達になったのは僕!」
「なってない、どっちとも」
「えー!」
抗議する少年に、前をよく見ろと指摘する。転んでアイスを溢しかねない。
誰が友達だ、誰が。
この兄弟は些か他人に対しての要求が強いのではないか。
ローの心に土足で踏み入るどころかジタバタと暴れる兄弟に、どこか諦めたような感情を抱いた。
「……他にどこが見たいとかないのか」
少年の足元をはらはらと見つめながら、ローはまだ少しある自由時間の確認をする。
祈りの時間までには帰ってこいと言っていた。ならばもう少しだけこの街を見る猶予は残されていた。
「近所の人に挨拶したでしょー。美味しそうなカフェを発見したでしょー。あとは、……」
指折りで数えて、少年はぱっと顔を上げた。
「本とかいっぱいあるところが見たいな」
「それなら図書館か……?」
好奇心旺盛な、興味が尽きない少年らしいリクエストだった。
そういえばローはかつての故郷で本を読む時どうしていただろうかと思い出す。
大抵のものは実家に揃っていたから、本を何処かに読みに行くという機会は少なかった。
それでも家にあるもの以外を読みたかった時はどうしていただろうか。子供が行けるような場所は限られていた気がする。
「図書館と本屋は聞いてみないと分からないな」
もちろんその存在は知っているが、知らないふりをして答える。
「そうだよねえ。誰か知ってるかなあ」
少年はきょろきょろと辺りを見渡した。
まさかその辺の人間に突撃して聞くつもりか。ローには無い積極性だ。
しかしその場合少年がそこらかしこで聞いて回るのを自分は後ろで見ていないといけないのだろうか。
そこでふと思い出す。
そういえば家以外で本を読む機会はあった。
なぜ今まで思い出せなかったのか、それとも無意識に避けていたのか。
「……教会はどうだ」
「教会?」
少年が不思議そうな顔をする。
「昨日教会に行ったんだ。優しそうなシスターがいて、……子供もよく集るらしい。本も沢山置いてあったぞ」
実際にここの教会を見たわけではない。かつての記憶がローに教えてくれた。
子ども達がよく集る場所で、シスターはよく絵本を読み聞かせてくれた。
それだけではなく、誰でも本に触れ合えるように色々な本を読ませてくれたのも覚えている。家にはないような本で、自分も妹もつい夢中になったものだった。
「図鑑とか海の本ってあった?」
「……あるんじゃないか」
動物図鑑や植物図鑑をよく見ていた覚えがある。家にあったものはすぐ断面図が出てきてしまうから、教会の図鑑は妹と一緒に見るには丁度良かった。子供向けのコラムなんかもあったりして、変な雑学ばかり覚えたものだ。
「子供って、僕みたいな歳でも行っていいの?」
「お前なんてまだ全然子供だろ」
本と、それから同世代の子供と。間違いなく少年の興味を引くものだったのだろう。その表情に好奇心と不安を見え隠れさせる。
この少年とて普通の環境で育ったわけでもあるまい。今まで周囲で友達が作れる環境でもなく、自由もさほど無かったことだろう。
この子どもの今後の就学予定云々は置いておくとして、同世代の子どもたちが集まる場所に顔を出しておくことは重要に思えた。
「行ってみるか」
柄にもなくそう提案する。少年がもし気後れでもするようなら止めればいい。
しかしそんな懸念とは正反対に、少年は輝かんばかりの笑顔で大きく頷いた。
「行ってみたい!」
「そうか」
ローももう一度だけあのシスターに会いたかった。
丘を登り手慣れた様子で教会の扉を開ける。
昼間だからか、教会の外では街の子供達がボール遊びやおままごとをして遊んでいた。
見慣れない客人であるローとルシオに時折不思議そうな視線を送りながら自分達の遊びに戻っていく。そんな子供達の姿をルシオも興味津々で見ていた。
その子供達をローも視界の端に入れていた。
もし今あの子供達を見たら、当時の記憶を思い出すだろうか。顔をたら知っている奴はいるだろうか。
あの時シスターの横で倒れていた子供達なのだろうか。
興味と恐怖と、天秤にかけて思わず自分に呆れた。
確認しに行く勇気もない時点でどちらに傾いているかなど明白だ。
「まあようこそ、トラオさん。昨日ぶりですね。昨日はロシーさんのお家に泊まったんですか?」
昨日と同じように教会の奥からシスターが現れる。
昨日より顔色は随分良い。
「……ああ。今日は主役を連れて散策だ」
ローはそう言って、自分の影に隠れていた少年を前に出す。
その姿を目にしたシスターは「まあ!」と嬉しそうに手を合わせた。
どこからどう見てもあの男との血縁を感じさせる外見に、一目で少年の正体が分かったのだろう。
「もしかして貴方がルシオ君?」
「こんにちは、ルシオです。いつも兄さんがお世話になっています」
誰に仕込まれたのやら、少年は上手に挨拶をする。
「まだこいつの兄貴が一緒に見て回れないから俺でも分かる場所に連れてきた。ここなら同じくらいの子供もいるだろうと思ってな」
そんなローの言い訳じみた言葉にもシスターはにこやかに返す。
「そうなんですね。ようこそ、ルシオ君。ここはいつでも来て良い場所だから、よかったらこれからも好きな時に来てね」
「ありがとうございます!」
シスターは少しだけ屈んで少年に視線を合わせる。
「ルシオ君は何をして遊ぶのが好きなのかしら」
ボール遊び?鬼ごっこ?それともおままごと?
シスターは教会の外で遊ぶ子供達を見てそう言った。
「教会に皆遊びに来るの?」
「そうね、もちろんお祈りに来る子もいるし、学校の宿題をやりに来る子も。それからああやって好きなことをして遊びに来る子もいるのよ」
色々なことをしに来ていいの、シスターはそう言った。
「僕、本を読むのが好きだなあ」
「そうなの。良かったわ、教会には沢山の本があるのよ。ルシオ君が読みたい本はあるかしら」
シスターはそう言って二人を教会の脇にある小部屋に連れて行ってくれた。
懐かしい。紙の匂いがする部屋に足を踏み入れてローは目を細めた。
そうだった。この部屋に大きな本棚があって、子供には少し背の高い机と椅子があるのだ。
薄手のカーテンが引かれた部屋は静かに本を読むのに最適だった。
よく再現されている。
うわあ、と少年は歓喜の声を上げた。
図書館とは比べ物にならないくらい小さい場所だが、どこか秘密基地めいた部屋は少年の好奇心をきっと満足させたことだろう。
「これ、全部読んでいいの?」
「ええ、大切に扱ってくれるなら大歓迎よ。ここの本はね、この街の人達が持ち寄ってくれたものなの」
小さい子供が読めるようなものから、壮大な物語の本まで。それから分厚い聖書なんかも並んだりしていて、統一感の無い本棚だった。
それが好きだった。
細部まで見事に再現された本棚を感慨深く見る。今のローは一番上にある本のタイトルも読むことが出来た。
ここにはこんな本が置いてあったのか。
少年はぐるりと本を見渡す。背表紙の文字を一つずつ読んでは目を輝かせていた。
「あ、これ!」
少年は声を上げて一つの本を抜き出した。
動植物の図鑑で、少し小難しい内容も載った本だ。
ローにも見覚えのある本だった。こんなものまで。
「これ、海の生き物も載ってるよね?」
「そうだな。海だけじゃなくて、色んな場所に生息している動物の話が載っていると思うが」
海が好きな少年らしい選択だ。
さっそくその場でぱらぱら開いて読み始めてしまった。
おい読み終わるまでは待たないぞ、とローは声をかけた。
「そう、その本が気になるの」
その小さなつぶやきにローはシスターへと視線を向ける。
シスターはどこか懐かしむような目で少年と本を見ていた。
少年も本をめくる手を止めてシスターを見上げる。
「よく、その本を読みに来てくれた子がいたのよ」
その言葉にまさかなと笑う。
ローは瞼の裏に浮かぶあの頃の記憶を思い返していた。
懐かしい記憶だ。もう擦切れるほど前で、色んな記憶に上書きされてしまったその隙間からローはシスターの顔を思い出す。
──またその本を読んでいるの?
なんて、少しだけ呆れた顔をして様子を見に来てくれたシスターと、今のシスターの姿が重なった気がした。
重なってしまった。
「貴方よりは少し幼かったけど、貴方みたいに本が好きでね。妹さんを連れてよくこの教会に来てくれて」
そうか。
「年の割にそんな難しそうな図鑑を読んで、楽しそうだったわ」
ローはゆっくりと目を瞑る。
貴女がこの本を覚えていたのか。
「その子、もういないの?」
シスターの口ぶりから察した少年がおずおずと尋ねる。
シスターはゆっくりと頷いた。
「……きっと貴方とロー君は仲良くなれたと想うわ」
その晩。
少年が寝静まった後、リビングにいた男の元にローは静かに歩み寄る。
ローが来ることを予想していたのだろう。
寝巻きにも着替えず、男はいつでも動ける格好で待ち構えていた。
そんな男にローは絞り出すような声で伝える。
「どうか、眠らせてやって欲しい」
ただ一言、主語もないような不確かな言葉だった。
だがそれだけで良かった。きっと思いは伝わっただろうから。
「……そうか」
手伝うよ、と男は言った。
街の住民が眠る中、二人の男が全てを終わらせる。
機械音も聞こえなくなり静かになった研究室でローは同胞達の亡骸を見つめていた。
どこか広い土地はあるかと男に問う。
「……ここに上陸した港とは真反対の場所に手を付けていない土地がある。街の住民達も行かないような場所だ。どうだ」
「……ああ」
スイッチを切る瞬間の永遠にも似たあの時間は、もう二度と味わいたくは無い。
沈黙した水槽の中の脳は底に沈んでいる。
彼らをここに置いていくには、どうも寂しすぎた。
街を全て覆うくらいすっぽりと能力を展開する。
男が言う土地に当たりをつけて同胞達の亡骸と共に飛ぼうとした。
視界の端で巨躯が床に横たわっている。
それに気付いた男は、ああ、と口を開いた。
「コールドスリープから出してもすぐには目覚めない。埋葬して戻ってくるまでどっかにいく心配はないさ」
「……そうか」
「ま、あんたの方がそこら辺はよく知っているか」
装置から出した時の冷たい感覚を思い出す。
本当に生きているのか不安だった。もし期待していた分だけ裏切られたら。本当はただ死んだ後の身体を保存していてだけだったら。
しかし微かに聞こえてくる息遣いに、ローは男に隠れて泣きそうになった。
男が指定した土地は確かに、そういう目的にはうってつけのだだ広い場所だった。邪魔になるような草木もない、少し雑草の生えた僻地。
埋葬自体は能力を使えばさほど時間が掛かるものではない。
誰にも掘り起こせないくらい深く土を持ち上げて、その穴に同胞達を横たえる。
なるべく皆近くに、離れ離れにならないように。十数年も一人きりであんな冷たい水槽に入っていたのだ。眠るときくらい一緒にさせてやりたかった。
男がどこからか持ってきた大きい白い布を被せていく。
丁寧に、はみ出ないように重ね合わせて。
本当は、彼らの眠る場所はここではないのだと思う。故郷から随分と離れた土地で誰にも気付かれないような場所に弔うことが正解だとは思っていない。
ただもう全員が限界だった。
持ち上げた土を上に被せればすぐ終わる。
ローはそれが見えなくなる限界まで土を降ろして動きを止めた。
急に怒りが溢れてきた。憎しみも、悲しみも。自分の無力感も。
ここに連れてこられて、こんなあり得ない話を受け入れざるを得なくて、同胞を悼む時間すらなく決断をして。
やっとローは全ての感情と向き合うことが出来た。
悔しくて悔しくて、頬を涙が伝う。
同胞は決してこんな辱めを受けるようなことなんて無かった。因果応報だと、天からの罰だと、そんな馬鹿な話があるわけがない。
世界の犠牲のために尊厳を歪められ、今度は独善的な考えで利用された。
そして最後はローの手によって完全なる終わりを迎えようとしている。
巡り巡った最後の行く末をまさか同胞によって決められるなど、彼らは許してくれるだろうか。
その返事は一生得られない。
ローは無情にも、傍若にも、己の権能を行使するしかないのだ。裁く権利など本来は無いはずローが。
──主よ。
宛のない、もう意味もない、中身もない祈りを口にする。
元通りに整地して、ローはその場に蹲っていた。
もう彼らを見ることは二度と無い。
大して能力を使っていないのに、生命の一滴まで絞り出したような、そんな気分だった。
「なあ、こんなの使うか」
後ろから男の声がして振り返る。
そういえば静かだったからすっかり意識の外に追いやられていた。てっきりローに気を使って席を外したのかと思っていたが、「手伝う」という宣言通りなにか作業をしていたらしい。
男の手には腕の太さくらいある二本の丸太を交差させ器用に縄で固定されたものが握られていた。
「大したもんでもないし、本物に比べたらちゃっちいかもだけど。無いよりましだろ」
その墓標をローへと渡す。
「……良いのか」
ローは墓標を手にしながら男の真意を問うた。わざわざこんな誰も来ないような場所を選んだのに。
「俺は別に何もかも消し去ってくれなんて頼んでいるわけじゃない」
生きている俺達に必要なものもあるだろ。
男はそう言った。ローに遠慮したわけでもない。彼は誰よりもその生命の重さを理解しているだろうから。
墓標を地に深く刺す。
男二人がかりで地中に埋められたそれはびくともしないくらい頑丈に固定された。
これで本当に全てが終わった。
ローは同胞を見送り、男は先達を弔った。
祈りは埋葬の時間よりも長かった。
たった一時間にも満たない作業だったのにうっすらとかいた汗が身体を冷やす。
「もしここに誰かが来てこれを見つける日が来るなら」
男がぽつりと言う。
ローは墓標から視線を逸らさずにその言葉を待った。
「それは俺達がこの呪いのような呪縛から解き放たれた時なんだろうか」
独り言に近い問いだ。正解なんて求めていないのだろう。
それでもローは口を開いた。
「……覚悟しろよ。そういうのはすぐに抜け出せるもんじゃない」
「先達の有り難い言葉だな」
「そうだな」
少なくとも、ローの枷はまだ解けそうに無かった。
二人は無言で研究室まで戻ってきた。
出てきた時とそのままの状態で横たわっている恩人の姿を見てほっと胸をなでおろした。
これで終わりではない。
義務感で突き動かされてきた身体に最後の仕事だと言い聞かせる。
彼の傍らに片膝を着いて手首を握った。大分体温は戻ってきている。脈拍も正常だ。
呼吸はもう正常な律動を刻んでいた。
そう時間も経たずに意識が覚醒するだろう。
「もう行け、トラファルガー・ロー」
恩人と瓜二つな声で男は言った。
男に本当の名前を呼ばれるのはこれが初めてだった。
「帰りまで勝手だな」
ここまで半ば無理やり連れてきて、ローを利用して、そして手土産を握らせた途端帰れと来た。
本当に勝手なやつだとローは半笑いで男を見ていた。本物にいられたら困るという態度は最後の最後まで崩れないらしい。
もとより恩人を装置から出した時点でこの島にいられる時間は残り僅かだと思っていた。
「ルシオが見たらまだ帰らないでくれっって騒ぎ出すに決まっている。今のうちにそいつを連れてとっとと島から出ろ。来た時と同じ場所に船を用意してあるから好きに使え。同じ顔は……この島では二人だけで十分だろ」
少年の名前を出されて、ロー自身も少し驚いた。
このままこの島を出ればあの少年と再び会うことは難しい。べそべそと泣き虫な少年の顔が容易に想像できた。
懐かれているとは思っていた。存外、自分も心を許していたことに驚く。
微妙な顔をしているローに男は首を傾げた。
「なんだ、絆されたか」
「そうだとそっちが困るんじゃないのか、兄貴は」
ローにそう言い返されて男は目を丸くする。
やっとの思いで弟を取り返せたと思っているのだろう。試練があっても二人なら乗り越えられると信じているのだろう。
自分の手元から無くなるはずがないなんて、そう考えているのかもしれない。
まさかそんな都合よく行くものか。
現在進行形で妹に振り回されている兄は、これから弟に振り回されるであろう兄に先輩として忠告してやる。
「……二度と会えないなんて思っているのは案外あんただけかもしれないぞ」
今までの仕返しとばかりにローは男を誂う。
「何?」
「子供の方が環境への適応能力は高い。あんな好奇心旺盛なやつ、一処に留め置けるかどうか」
そのうち立派な学者にでもなって、この島一番の大物になって。
「この広い海の何処かでもう一度会うこともあるだろうよ」
海を好きだと語った少年を思い浮かべる。あんな短い船の旅で何度海に落ちかけたのやら。
あの少年のことを思うと、不思議とこれが永遠の別れでは無い気がした。もちろんこの男とも。
それはきっと彼らの姿がよく知るものだからだけではない。数奇な縁で結ばれた糸がまた三人を翻弄することもあるかもしれない。
向こうは二度と会いたくはない相手かもしれないけれど、いつかはただと知り合いぐらいでどこかですれ違うかもしれない。
そんななんでもない世界が良かった。
自分よりも随分大柄な男の体を引きずるようにして担いだローは、研究室の外へと続く階段へと足を掛ける。
男が付いてくる様子はない。
ここで完全にお別れをするつもりなのだ。
ローは、最後に何か言っておくことはあったかと脳内を探した。
人間達を見送る男へと振り返る。
そういえば、彼が吸っているところは一度も見なかった。染み付いた懐かしい匂いは傍らの人からしかしない。
「……あんたは別人だよ」
男はローの言葉をじっと聞いていた。
ここを守ろうと必死に奔走してきた男への別れの言葉として、ローは自分の思いを伝える。
「俺の知ってる人はドジで、すぐそこらで転ぶし、タバコを付けりゃ服ごと燃やす。お人好しな、大切な恩人だ」
あんたは違う。全くの別人だ。
否定の言葉だというのに、男にとってはそれが何より欲しい言葉だった。
同じ肉体を持ち、同じ記憶を持っていても、目の前の青年にとってはまったく違う二人の人間だった。
そんな青年から見てそれだけ違うところがあるのだとしたら、男の思いも報われるだろう。
癇癪で、怒りでこの街ごと薙ぎ払うことだって出来たはずだ。かの四皇にそんな手段に出られたら男は止める術がない。
それでもこの危険な賭けに出たのは仲間の命を救うため、それから。
もしかしたら確認したかったのかもしれない。
ドンキホーテ・ロシナンテと同じ姿をした哀れな子羊が、全く違う人間だということを。
男は静かに頷いた。
「はは、そりゃ、俺とは全然違うな」
ローの前で一度もタバコを吸わなかった男はくしゃりと笑った。
早く行けと、男はローへしっしっと手を降る。
これ以上はもう何もいらない。
「あんたにも見せてやりたかった」
最後の最後、既に姿も見えないローの声が聞こえてくる。
なんだ、と耳を済ました。
「俺のフレバンスの方が綺麗だってな」
最後に言うのがそれなのかよ。それとも散々振り回したから意趣返しなのか。
その挑戦状を男は笑い飛ばした。
「馬鹿言え、俺たちのフレバンスの方が何倍も綺麗に決まっている」
もうすぐ夜が明ける。
辺りが視認できるくらいにほの明るくなってきた。
住民が起き出してくる前に二人だけで島を脱出しなければならない。
能力を併用しつつ巨大な身体をなんとか港まで運ぶ。
肩に伸し掛かる重さの主張が激しくて、どうしようもなく嬉しかった。
昔は自分が軽々と抱えられていたが、成長しても恩人を軽々とは持ち上げられなかった。少しだけ悔しい。
やっとの思いで船の前までたどり着き、ローは用意されたであろう船をまじまじと見る。
「あんの男……」
やりやがったな、と頬を引きつらせた。
もはや怒りを通り越して笑いしか出てこない。
ドフラミンゴの船から二人で旅立った、あの時の船と瓜二つの小船がぷかぷかと浮いていた。
ローが使うことを見越してわざわざ用意したのだろう。
最後の最後で盛大な送り出しをしてくれるものだと、今頃笑っているに違いない男を想像する。
そっと恩人の身体を船に横たわらせて、自分も反対側へ乗り込んだ。
十数年前初めて二人でこの船に乗り込んだ時はそこまで狭くはなかった。
今は恩人の伸びた足が船の端に腰掛けたローの足元へとくっつきそうだった。
十数年の歳月を一入に感じる。
二人で乗っても問題は無いが、能力者二人だけの航行は些か不安だった。
もし起きて持ち前のドジを発揮されたら二人とも海の藻屑になりかねない。
一応救命胴衣を恩人の身体に巻き付けて転がす。この巨躯に見合う胴衣が積まれていたあたり、あの男もそれを予想したのだろうか。
「……」
しばらく船の上でじっと観察する。
ぐるぐる巻きにされて、問答無用で連れ去られて、結局あの小船で色んなところを回ったんだったか。
あの時とは逆だった。
ここまで来るのに随分と時間がかかってしまったように思う。
貴方がいない間、随分と色々なことがあったのだ。
貴方の愛を知って、貴方がくれた心を海賊団に掲げて、貴方の本懐を遂げて、ついには貴方よりも年上になってしまった。
しばらく目を瞑ってから、ローは立ち上がった。
船を港につなぎ止めていたロープを解く。長いその足でローは船を押し出した。
船はゆっくりと岸から離れていく。
自分の手で帆を操るのは久々だ。案外忘れていない。丁度あの頃こうした技術を習っていた。
どうせ大人になれないなんて生意気なことを言っていた自分が倍以上の年齢になっていると知ったら、さぞ驚くだろうなと思った。
後ろを振り返る。
誰の姿も見当たらない。
船が島を離れるにつれ霧が視界を塞ぐ。
ローはその島の端が見えなくなるまで、ずっと見ていた。
港から少し離れた場所で隠れるようにして船を見送った男は、やっと肩の荷を降りた気分でため息をついた。
たった二日間の、いや、随分長い道のりだった。
「はは、あいつ船を見て驚いたかな」
最後に彼の驚いた顔を見られなくて残念だった。
あの船はなかなか良くできていたのではないだろうか。
ロー本人は意趣返しかと勘違いしていたが、男にとってはささやかなお礼のつもりだったのだ。
男はその船が霧に飲み込まれていくまでずっと見ていた。
トラファルガー・ローも島を振り返って気にしていたが、男のいる場所にはついぞ気づかなかっただろう。
船には霧を抜けた更に先の島の永久指針を放り込んでおいた。またどこかで会うかもしれないなんて豪語していたが、霧に囲まれたこの島に永久指針無しでたどり着くことは不可能だ。
ふん、と鼻を鳴らす。
『おいコラソン!この!』
『話せよ、聞いてんのかコラソン!』
『……コラさん』
体験した訳でもない記憶が勝手に流れる。
あの小さかった子供があんなに大きくなって。病気も克服して、今じゃあんな頑丈そうな男になった。
いやいやいや、と男は首を振った。
何を感傷に浸っているのだ。これは自分のものでは無い。偽物の記憶に何をそんなに想うことがあるのだろうか。
男は沈黙した。
自分が姿を見せた時、きっと酷く驚くだろうなと思っていた。
だが弟を迎えに行った時、初めてその姿を見て驚いたのは男も同じだった。
手配書でしか見たことがなかった、成長した後の姿。写真で見るよりはもう少し優しそうな目つき。
男の中ではずっとずっと小さな子どもだったから。病に倒れて弱音を吐きながら己の人生と引き換えに世界へと怒りを向けた少年だったから。己に心をくれた男のために、その兄に鉾を向けた青年だったから。
ずっと勝手に知っていた。
初めて記憶を得てからこれが自分のものではないと気付くまで。それから気づいた後も、ずっと心の片隅にあった少年の一人だった。
彼を愛おしく思っていたのは本物の感情だが、隣人だと思っていたのは男の感情だ。
彼が海賊として台頭して初めて出た手配書を当時こっそりと持っていた。それから金額が上がるたびに新しいものを。研究には不要なものだった。だが男はずっとそれを持っていた。
あいにくもう一人の心の隣人はずっと七武海で手配書なんて出ないものだから、もっぱら顔を突き合わせるのはトラファルガー・ローだけだった。
ぽりぽりと頭を搔く。
「ルシオもいつかはあんなに大きくなるのかね」
それが男が決めた、ローとの心の距離だった。
これでその影を追うのは最後だ。もう手配書も必要が無い。
弟も来た事だし、彼の正体に気づく前に捨てなければ。
懐から潰れたタバコの箱を取り出す。
慣れた手つきで一本取り出し、火を付けた。
これももう最後にしよう。
「うぇ、やっぱまず……」
煙を吸い込んで、顔をしかめた。
まるで揺りかごのようだった。
ずっとただ冷たい氷の中で怯えながら閉じ込められていた気がする。
窮屈で身動きが取れなくて、でも意識だけはぼんやりとし続けて。
そんな夢を見ていたのだろうか。
ゆらゆらと浅く揺れる振動にゆっくりと目を開ける。
空が見えた。
随分と長く寝ていた気がする。
瞼は貼り付いたように重たくて、おまけに身体はがたがただった。
ああ、このよく知っている揺れに身を任せてもう一度眠りについても良いだろうか。
ゆらゆら、ぐらぐらと、下から浮かされるようなそんな揺れ。
──自分は慣れているからいいけど、普通の人間はこの揺れに酔っちまうんだよなあ。
なんて、そこまで思い当たって違和感に気づいた。
がばりと身体を起こして周囲を確認する。
どうやら自分は小さな船に乗っているようだった。
周囲はまだ薄暗い。空気の匂いでなんとなく夜明けなのかと当たりをつけた。
霧に包まれていて、ただ海の上にいることは分かった。
周囲の状況確認を終えて、目の前に視線を戻す。誰かがいるのは分かっていた。
自分がいる場所とは反対側の船の端に一人の男が座っている。
彼はじっと海を見つめていた。彫刻のように堀の深い横顔が印象的だった。
ロシナンテはぽかんと口を開けた。
「……あんた誰だ?」
ロシナンテが起き上がっていることには当然気付いているだろうに。
ゆっくりとこちらに視線を向けて、青年はふっと笑う。
「誰だと思う?」
え、ここで問題?
ロシナンテは困惑した。
少しでも暴れたら転覆しそうな小船に大の男が二人。変な状況だった。
なぜ自分はこんな場所で寝ていたのだろうか。なぜ自分はこの男と一緒の船に乗っているのだろうか。
冷静にこの状況を理解しようと自分の置かれた現状を振り返る。
頭が激しく傷んだ。記憶の断裂が激しい。自分は何をやっていた。ここに至るまでに一体どうやって。
深呼吸をした。ひやりとした空気を吸い込んで思い出す。
冷たい弾丸が身体を通り過ぎる。そんな幻影を見てロシナンテは息を飲んだ。
「なんで」
男を見る。
「なんで」
男は何も返さない。
「なんで」
自分は死んだはずだった。
いや、正確に言えば意識を失う前の最後の記憶では、自分は兄の凶弾によって倒れていた。
血が抜けて身体が冷えていく感覚を覚えている。まるで麻酔にかかったように意識が朦朧としていたのを覚えている。少しづつ思考が奪われて、ああ、このままなにもかも無くなってしまうんだろうなと思ったことを覚えている。
これが死の感覚かと、襲い来る恐怖と兄への情と、それから最後の力を振り絞ってあの愛すべきクソガキが逃げられるように祈り続けた。
だから、自分は死んだのだと思っていた。死んだ後にそんなことを思えるだなんて知らなかったけど。
「ここって死後の世界ってやつか?」
緊張で冷えた手先で船底をひっかきながら、ロシナンテは船の中で座り直した。
長考した末に出たそんな言葉に、向かいに座る青年は思わず吹き出す。
「はは、そりゃいい。じゃあなんだ、ここはあの世へ渡る川の上か?落ちて本当に死ぬなよ」
死神みたいに黒い服に見を包んだ青年は笑う。
それがどう見ても死んでいる人間には見えなくて、青年の言葉に首をかしげた。
「俺、生きているのか」
「そうだな。俺にはそう見えるが」
「な、なんで。どうして」
「……さあ」
男の返事にロシナンテは混乱した。
それならばますますこの状況は分からない。
自分が生きているのだとしたら、なぜこの青年と二人きりで船に乗っているのだ。
そもそも、自分が生きているならば彼は。
「ロー、そうだ、ロー。なあ、あんた、小さい男の子を見なかったか!このぐらいの身長で、動物の斑模様みたいな帽子を被ってて、あと」
白斑が特徴的な男の子。その言葉が言えずにロシナンテは口を閉じた。
ミニオン島から自分が生きて出たのだとすれば、少年との約束を果たさなければならない。
いやそれよりも前にローはドフラミンゴから無事逃れることはできたのだろうか。
自分は気を失ってしまったからその時に能力は解けてしまっているに違いない。
もしドフラミンゴの手中に落ちていたら、ロシナンテの悲願が果たされることは二度と無かった。
途端に警戒心が芽生える。
見ず知らずの青年と同じ船に乗っているという状況自体を怪しく思う。
未だに正体が掴めない青年と一つの空間を共有している事は自分に取って必ずしも良いこととは思えない。
「あんた、……あんたは、ドフラミンゴの仲間か?」
警戒の色を滲ませてそう問いかける。
「驚いたり疑ったり、忙しいな」
「違うのか?」
恐る恐る様子を伺うと、青年は足を組み直して返事を返した。
「少なくともあんたを害する意思は無いよ」
なんだそれは。
先ほどの問題への答えを言うつもりは無いらしい。
もしかして正体を当てない限り名乗るつもりはないのだろうか。
うーん、と首を捻る。
本人の言葉通り、彼からは敵対の意思は感じられなかった。ただそこに座ってこちらを見ているだけだ。
それどころかどちらかといえばロシナンテの一挙手一投足を見守っているような目つきだ。
なんだか馬鹿馬鹿しくなって、ロシナンテも警戒するのは止めた。
代わりに彼から出題された問題を解こうと居住まいを正す。
誰だと想う、そう聞いてきた彼の表情を思い出す。
こんな問いかけをするということは、自分はこの青年を知っているのだろうか。
青年はまるで鼻歌でも歌うかのような上機嫌さでロシナンテを見ている。
ドンキホーテファミリーでこんな青年を見かけたことがない。これでも幹部の席に座っていたから、大抵の構成員の顔は見てきた。
それでいてこんなに仕事ができそうな男が無名だったとは思えない。だが該当者はいない。
だからファミリーの人間からは除外した。
次に生家を思い出した。すぐに除外した。
それなら自分の人生の大半を形作った海軍だろうかと遠い記憶を呼び起こす。
少なくとも見習い時代や尉官時代にこんな奴は周りにいなかった。義父の周辺にももちろん。
というかどう見ても海兵には見えない。むしろその逆だ。
よく見れば傍らには彼の背にも届きそうな大太刀が鎮座している。こんな特徴的な武器を使うやつが身の回りにいたらさすがに覚えている。
体つきは服の上から見ても分かる通り、無駄なく引き締まっていた。
その振る舞いから相当できる奴だと分かる。
ついでにタトゥーでびっしりの腕が見えて、ぎょっとした。
もしかして、DEATHって入ってる?
もしかして、もしかしなくても、彼って海賊?
ロシナンテは慌てた。自分は海兵だ。海賊とこんな距離で座っていて良いわけがない。あの大太刀からして、彼の間合いはこの船全体だ。
もし自分のことがまだ海兵だとばれていなくてただ興味もなく置かれているだけなら良いが、敵対する理由ができてしまったらこの上なくまずい。
人物当てゲームの前に命がけのゲームになることを想像してしまい、ロシナンテは青年から視線を逸らした。
足元に彼の荷物らしき鞄が置かれている。その鞄の上ががばりと空いており、無造作に置かれた彼の帽子が半分ほど見えていた。
動物の斑模様のようなキャスケット帽。
ロシナンテにも良く見覚えのある柄だ。少々形は違うが、こんな模様を好んで被る人間をロシナンテは一人しか知らなかった。
世界は広いものだ。こんな帽子を被る人間が二人もいるなんて。
ロシナンテはもう一度青年をよく見た。
年齢は自分とそう変わらないだろう。
少しだけ日に焼けた小麦肌に、夜を思わせる黒髪。意思が強そうというか、生意気そうというか、普通にしていても睨んでいると勘違いされそうな鋭い眼光。
その彼に想像で帽子を被せる。
よく似合っていた。
帽子の隙間から覗く眼光はなんだか見覚えのあるものだ。
そんなロシナンテの視線に気づいたのか、青年は鞄から帽子を手に取りおもむろに頭に乗せる。
ロシナンテの想像通りの姿だ。
特筆して一つあげるとすれば、見覚えがあるなんてもんじゃなかった。
その月色の目がロシナンテを見つめている。
その目に込められた思いを受け取って、ロシナンテの口から無意識に言葉が滑り落ちた。
「ロー?」
口に出して愕然とする。
今自分は彼になんと呼びかけた。
ありえないことだ。
だって彼とあの子では決定的に違う部分があるでは無いか。
その大人びた彼の表情を見て、ロシナンテは息を止めた。
くしゃりと、今にも泣きそうな顔だった。
あんなにすました顔をしていたのに、今の今まで堪えきれなかった感情が噴出したかのように、彼は肩を震わせていた。
その肩に思わず手を伸ばす。
どうか泣き止んでくれと、悲しまなくていいと伝えたくてロシナンテは青年の傍に寄った。
ロシナンテは確信していた。
だって今も昔も、彼が涙を流す姿は変わらなかったから。
「大正解。おかえり、コラさん」