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    shibari_

    @shibari_

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    POIPOI 29

    shibari_

    ☆quiet follow

    Lacrimosa⑨〜⑪

    Lacrimosa二人の音しか聞こえないその空間で相対する。
    ローも男も互いをじっと見つめていた。
    ローは渋面で、男は面白いものを見るかのような顔付きで。それが今の二人の立ち位置だった。
    先に口を開いたのは男だ。
    「音の強弱と特定の波長でβ-エンドルフィンやオキシトシンを増幅させるんだったか。俺も詳しくは説明できないんだが。ま、早い話が思考制御の類だな」
    はは、と笑い軽々しく言う。
    ローはこの街の状況に奥歯を噛み締めた。そしてそれを当然かのように言う男を見てふつふつと怒りが湧く。
    男の能力によって守られたこの空間はローにとって命綱に等しい。
    よりにもよってよく知っている能力。
    信じたくなかった現実。
    同じ顔で同じ能力を持っている男。
    「お前は誰だ」
    もう一度問う。今度ははっきりと聞こえるように。
    その声はこの空間の中でよく響いた。
    数瞬の間が空き男は答える。
    「もう分かっているくせに」
    男は目を細めて笑っていた。
    くつくつと声をあげて、かつての恩人が決してしないような表情を見せる。
    その男の答えにローは何も返せなかった。
    言葉にするのが怖かった。
    「そろそろ終わるか」
    男はぐるりと当たりを見渡たしながら能力を解く。
    途端にローの世界に音が戻ってくる。
    押し寄せる風の音や鳥の鳴き声に張り詰めていた息を吐き出した。
    もうあの不快な音楽も鐘の音も聞こえてこなかった。
    男の言葉が確かなら、この脳が捻れるような違和感も音による精神干渉によるものだろう。
    そんなものを何故使っているのか、最悪の想像が過ぎり肩を震わせる。
    男は思考制御、と言った。
    「どうする」
    男に問われて眉間に皺を寄せた。
    「何が」
    「教会の中、戻るか?」
    ローは黙り込んだ。
    そういえばシスターを置いて出てきてしまったのだ。
    まだ会話の途中だったなと思い出し、この男は一体どこから自分を見ていたのだろうか、と睨みながら頷く。
    ローの返事にへらりとしながら男は教会の扉を軽々と開けた。
    「ただいま、シスター」
    明るい声が響き渡る。
    男の身体の間から教会の奥を見ていたローは、膝を着いていたシスターの立ち上がる姿を見た。
    男の姿を確認したシスターは、ぱっと笑顔を咲かせる。
    「まあ、ロシーさん!おかえりなさい。わさわざ寄って頂いてありがとうございます」
    「少し留守にしちまったからな。これも仕事のうちさ」
    半分ほどの身長のシスターを見下ろしながら男は言葉を続けた。
    「特に変わってことはなかったか?今日の祈りの時間はもう終わったみたいだが」
    「今日は特に変わったことはなかったですよ。お祈りの時間も無事終わりましたし、街の皆さんからも特に何も」
    「そりゃ良かった」
    ああでも、とシスターは首を傾げた。
    「さっきロシーさんのお友達もここにいらっしゃっていて。……あら、どちらに行かれたのかしら。お祈りの時間までは一緒にいたのですが」
    「ああ。ここ、ここ」
    男が体をずらしてシスターの死角にいたローを見せる。
    ローはシスターと視線が合い、おずおずと挨拶した。
    男を挟んでシスターと対峙する。
    「ふふ、この街のお祈りはいかがでしたか。素敵でしょう?」
    そう問われてなんと返して良いか分からなかった。彼女のように笑顔にはなれない。
    ローにはただの不快な音楽で、しかしシスターにとっては脳内に刷り込まれた心の拠り所だ。
    あの曲の意味を知って、やっとこの街の不可解さに納得する。
    街の違和感も、重大な事件も、彼等にとっては一枚壁を隔てた出来事でしかない。
    それ自体を指摘すれば深刻だと理解出来ても、異変に気付かないように、あるいは気付いていてもそういうものだと無理やり思い込ませるように。
    何事もなく円滑に生活を行わせるために。
    あのお祈りの時間はそんな役目を担っているのだ。
    現にシスターの表情は先程と打って変わって晴れやかだった。先程の話なんて、もはや不安の種ですらないだろう。
    強引に捻じ曲げられた人の心に触れて、ローは自分自身の心にも傷を付けられたような気持ちでいた。
    シスターと男は世間話を続ける。
    「弟さんは無事にこちらに?」
    「ああ、そうなんだ。疲れてたみたいでさっき家で寝落ちてしまったんだ。落ち着いたら是非シスターにも挨拶させてくれ」
    「もちろん。他の子とも早く仲良くなれるといいですね」
    置いていかれた会話の端で腕を摩る。気を紛らわせるより他ない。
    やけに気に触る自分の呼吸の音に気を取られていると、シスターの視線がこちらへ向いた。
    「お友達さんはどのくらい滞在されるんですか?」
    ローはじっと男の出方を待つ。
    「まあ、こいつ次第かな。好きなだけって感じ」
    男の言葉に、ローはシスターから見えないようじろりと睨みつけた。
    何が好きなだけだ。こいつは分かっていて言っている。
    「そうなんですね。滞在中はロシーさんの家に?」
    「ああ、そうなんだ。っと、彼はトラオ君って言うんだ。もう名乗っていたか?」
    「……いや」
    促されてシスターに目線を合わせる。
    律儀に偽名を紹介するところがまた鼻につく。
    「トラオさんとおっしゃるんですね。よろしくお願いします。すみません、申し遅れました。私の名前は、──」
    ああ、知っているとも。よく知っている。
    馴染み深い音を聞いて胸の奥が騒めく。
    そんなローの様子を知ってか知らずか、男はその長い腕をぐるりとローの肩へ回した。
    「しかも彼、優秀なお医者さんなんだ。何か困ったことがあったらシスターも相談するといい」
    薄々感じていたことだが、男はローの職業を知っていた。この分なら表立っての身分だって知っているのだろう。
    先の島では随分とすっとぼけた態度で接しやがって、と悪態をつく。
    それと同時に何を勝手なことを、と言おうとして先にシスターが口を開くのが見えた。
    「まあ、お医者さんなんですか!」
    シスターはぱちりと手を合わせて目を丸くしている。
    「ああ、まあ」
    海賊だと声高に紹介されるよりは良いかとぎこちなく頷いた。
    シスターに知られるなら医者の方がいい。幼い頃の夢を叶えたのだと、別に言いたいわけではないが。
    「シスターは今困っていることないのか?トラオ君、優秀なんだ」
    勝手なことを。いい加減離せと肩にある腕を振り払った。
    「おい、普段の体調はちゃんと主治医に相談するのが筋だ。……まあ、セカンドオピニオンくらいならやってやるが」
    つんけんどんとした物言いをしながら、ローはシスターの様子を伺う。
    シスターは困ったような顔をして二人を見た。
    「それは……ちょっと難しいですね」
    「難しい?」
    意外な返答にローは眉を顰める。
    シスターの悲しそうに伏せた目が震えた。
    「ええ、この街一番だった病院のご家族は現在行方不明ですから」
    目を見開く。
    一体何を。
    行方不明だと。誰が。
    「ああ、そうだったな。……悲しい事件だ。悪いなシスター、俺も方方に手を尽くしているんだが」
    「いえ、ロシーさんは頑張っていますよ。それに町医者の方々も頑張られていますし」
    二人が話している姿に、ローは呆然と口を開く。
    「行方不明って」
    「ええ。先程お話した行方不明者の中に、この街の大病院の一家全員が入っているんです」
    お医者さん夫婦に、可愛い二人のお子さんが。
    そう言うシスターを信じられないものを見るかのような目で見る。
    頭の中で情報を整理しようとして、どうにもならない感情に頭を掻きむしりたかった。
    この街の大病院。大病院というのならば、国一番の医者だった父親の病院に他ならない。
    その医者家族が行方不明だと。何故そんなことが。
    いや、違う。そんなはずはない。そもそも前提から違うのだ。
    ここはあのフレバンスでは無い。目の前にいるシスターだって本物なんかじゃない。
    だって父と母はあの日凶弾に倒れて、シスターや友人達も皆冷たい骸になって。
    同胞達の無惨な亡骸を見たでは無いか。自分はその冷たさを知っているではないか。
    いなくなった家族なんて、そもそもどこにも無い。
    ラミは十数年の時を経て自分の元へと帰ってきた。
    そして自分はここにいる。
    かわいい、二人の子供だと。そんなことが有り得るはずが無い。
    それなのにどうして自分は今こんなにも心が締め付けられているのだろうか。
    足を運ばなかったくせにどうして勝手に傷を負っているのだろうか。
    一目でも両親を見ることができるなんて期待でもしていたのか。そんな馬鹿な。
    ぽん、と背中を叩かれて意識を戻す。
    途端にシスターの声が耳に入ってきた。
    「──だからお医者様不足で、街の皆も中々病気の相談もできない状況なんです」
    「そ、うなのか」
    辛うじて返事が出来たのは、今も背を支えている男のおかげだろう。
    どういうつもりか知らないがローはそれを享受した。
    「シスター、もう日が暮れる。今日はゆっくり休んだ方がいい。祈りの時間も終わったんだし、な?」
    子供に言うかのように優しい声音で男はそう言った。
    幾分か表情を緩めたシスターがそれに頷く。
    「明日のお祈りの時間も、ぜひご参加くださいね。それからもし宜しければ街の皆さんのお話も聞いてあげてください」
    シスターはローに目線を合わせてそう言った。
    軽く会釈をして男とローは教会を出る。
    先程よりも赤い夕日が眩しい。
    男に能力をかけられたわけでもないのに、しばらく二人は無言だった。
    教会の広い敷地を、さくりさくりと踏みしめながら歩く。
    今度は先に口を開いたのはローだった。
    「……俺に、何をさせたいんだ」
    考えた末の言葉だった。
    今はもう確信している。この街のことも、ここの人々のことも。男のその姿形も。
    最初から自分は渦中の人間だった。
    目の前の男ははなからローをここに呼び寄せるつもりだったのだ。
    それもただ見せたかったわけではない。
    こんな手間をかけてローをここに呼んだ理由がある。
    「話が早いな」
    男はちらりと振り返って口の端を釣り上げる。
    絶対にコラさんがしない顔。
    「ついてこい」
    男はそう言って歩き始めた。
    意外なことに男はずんずんと教会の裏手に回っていく。
    ローは男の歩幅に追いつくために小走りで後ろをついていった。
    程なくして大きな鐘がぶら下がっている棟に辿り着く。あの煩いほど鳴っていた鐘はこれかと睨みつけるように見上げた。鐘は既にぴくりとも動かない。
    男はそのすぐ根元にしゃがみこみ、なにやら地面へと手を伸ばす。
    背中越しにその作業を観察する。
    するとずるり、と芝生の一角が剥がれた。擬態の下に出てきたのは鋼鉄の扉だ。
    ローは目を丸くして扉をまじまじと見る。秘密の地下への扉だ。
    男はちらりとローを見上げて、それからその重そうな扉を持ち上げた。
    狭い階段が下へ下へと伸びている。
    「……この下に行くのか」
    「ああ、怖いか?安心しろ、俺が先頭を歩く」
    その頼もしいのか煽りなのかよく分からない言葉に口をへの字に曲げながら、行くならさっさとしろと促す。覚悟はとうに決まっていた。
    湿気と、土埃の臭い、それから金属の匂いを感じながら二人は階段を降りていく。
    いつの間にか懐中電灯を手にした男が行く先を照らしているものの、ずっと続く階段に終わりは見えない。
    「随分潜るな」
    体感では建物の二階分くらいは降ったあたりでローは声をかける。
    「まあな、大掛かりなものを作る以上それなりの場所が必要だったらしいから」
    男の言葉はわざと核心に触れないものだった。知りたいことがあるのなら聞いてこいということなのだろう。
    「この先には何があるんだ」
    「この島の中心部、かな。さっきの音だったり、島の色々を制御している研究室だ」
    研究室という言葉に僅かに警戒したローに気付いたのか、男は半笑いで続けた。
    「安心しろ、もう誰もいない」
    「……何故」
    「一年前に皆逃げたから」
    今の言葉には少し棘があった。男から感じる初めての攻撃的な意思で、ローは少しだけ気圧される。
    一年前というのは嫌な符牒だ。ちょうど一年前、自分は何をしていただろうか。
    「聞きたいのはそこだけじゃないだろ?」
    男の背に鋭い視線を向け続けるローに男は笑う。
    刺さってるなあ、と頭を搔いた。
    「俺の事とか、上の住人の事とか」
    あんたの家族のこととか。
    思わず足を止める。
    ローが立ち止まったことに気付いて男も足を止めてローを見上げた。
    「気に触ったか?」
    「いいや」
    紅い瞳を見つめ返す。男の調子に飲まれてはいけない。
    「下に行けば分かる、そういうことなんだろ」
    「理解が早い事で」
    再び男は階段を降り始めた。
    「俺の正体にはもう当たりが付いてるんだろ?」
    世間話の延長のような感覚で男は後ろのローへと語りかける。
    ローはその広い背中へ先程の殺気立った視線を納め、小さく息を吐く。
    前例ならある。
    「……クローン、か?」
    「当たり」
    後ろ手に男はひらひらと手を振った。
    「ならあれは血統因子か」
    ナギナギの実の能力を扱ってみせたことへの理由に思い当たり眉を顰めた。
    かつてのセラフィムがそうだった。七武海の遺伝子から作られたそれらは、同じく七武海の血統因子によってその能力を模倣していた。
    目の前の男にセラフィムの特徴は無い。クローン体に血統因子を入れているのか、とローは納得した。
    「ま、そういうことだな。オリジナルには遠く及ばないそうだが、それでも十分使えるだろ?この島であの思考制御から逃れるにはうってつけの能力だ。まあだからここに配属されてんだけど」
    男は自嘲気味にそう言う。
    「お前がクローンなら、あの人達も……」
    ローはそう問いかけて口を噤んだ。
    点と点が線で結ばれる。
    そうか、だから。
    「行方不明者のクローンなんて、そもそもいないのか」
    「……」
    男からの返事は無い。だがローは確信していた。
    「そもそもあの時点フレバンス滅亡で遺体が回収出来なかった人間のクローンは作ることが出来ていない、違うか?」
    ローの畳み掛けるような問いに男は肩を竦める。両親は燃え盛る病院の中で息絶えた。その遺体がどうなったかなど想像に難くない。
    そして妹はローと同様に生きてプレバンスを出た。
    だからクローンが作られることは無かった。
    住人達の記憶の中からぼっかりと抜けた人々が、奇怪な行方不明事件として処理されているのだ。
    だが、とローは思案する。
    そこまで思い当たってもう一つ大きな壁にぶつかる。
    「何故ここの住人は当時のように暮らせている」
    彼らがクローンだと言うのならば姿形は同じくとも、中身は全くの別人のはずだ。
    目の前の男のように違う名前を持ち、違う人格を持つはずだ。
    だと言うのに彼らはまるであの時あの災禍が無かったそのままの時を過ごしているように見えた。
    もしフレバンスがあのまま珀鉛病にも犯されず、戦争も起こらなければ、今もあんな綺麗な街で暮らせていただろう。そんな夢すら見るくらいに。
    記憶の連続性。だからまるで本人と再び再会した感覚に陥っていた。
    どういうわけか彼らは当時の人格のまま、当時の記憶のままその続きの人生を歩んでいるのだ。
    ただ一つ、祈りの時間を除いては。
    「……それが、フレバンスが選ばれた理由だよ」
    今度は男が足を止める。
    ローがはっと顔を上げると、少し広い空間にたどり着いていた。
    金属製の壁でぐるりと覆われた空間は、隙間ひとつない行き止まりだ。
    どういうことだ、と男を睨みつけると壁に手を当てていた男が口を開いた。
    「この向こう側が研究室なんだが、本当はスイッチさえあれば扉が開く仕組みでな」
    「見たところそんなものはないようだが」
    それどころかつるりとした壁はどこが扉なのかも分からない。男が指し示していなければ向こう側に空間があるなどとも思わなかっただろう。
    こんこん、と男は壁を叩いた。
    「あんたの能力で向こう側に連れて行ってくれないか」
    男はなんてことないかのように言う。
    「……俺の能力も、当然知っているか」
    ぱちん、と下手くそなウインクが返された。そんなことをされてもサービスはしない。
    「まさかこれが俺を連れてきたかった理由か?」
    「いやいや、まさか。これだけじゃないさ。まあこれが第一関門ではあるが」
    男を横目にローは能力を展開する。スキャンをすれば確かに向こう側に広い空間を確認できた。
    落ちている埃とでも位置を交換してやるか、と手をくるりと回しかける。
    シャンブルズ、そうローが口にした横で男は口を開いた。
    「さっきの続きだが。なんでフレバンスが再び作られたのか。そして何故それがフレバンスだったのか。その理由だ」
    周りの景色がぐるりと変わる中で男は話続ける。
    二人は壁を乗り越え、暗い研究室の中に立っていた。
    その薄暗い研究室で二人を出迎えたのは、青白い光。それがいくつも、いくつも、いくつも、いくつも、いくつも、いくつも。
    幾つも。
    とんでもない広さの部屋の中で、その光に囲まれてローは閉口する。
    いや、その光が一体何なのかをまだ理解していなかった。
    明暗に慣れてきた目がそれを捉えてローは潰れたようなか細い声が出た。
    光ではない。
    「あったはずだ、過去に一度だけ」
    男の声がぐわんと耳に響く。
    音が伝わって、中耳がキリキリと痛むような錯覚に陥る。
    自分の手を爪が食い込むまで握りしめた。そうでなければ、耐えられそうになかった。

    「良質な脳みそが大量に手に入る日が」

    大量の脳みそが。
    いくつもの水槽に入れられた彼らが。
    ローと男を出迎えた。
    それがフレバンスが選ばれた理由。
    ローは愕然として、それから恐る恐る男を見る。
    この男は今、一体どんな顔をしているのだろうと。
    男の顔は平時のそれと変わらなかった。
    なんでもないように部屋を見つめ、その瞳に沢山のものを映している。ここにこれがあることなんて一つも可笑しいと思っていない顔で。
    初めて男が自分とは別の生き物に見えた。
    「一応お前に選択権があると思ってな。同胞のことは同胞が決めた方がいい」
    男の言葉を無視して、ローは問う。
    「なんだ、これは」
    「ん?ああ、分かるだろ」
    ローは一番近くにあった水槽に近づく。
    その水槽に入っているそれは小さく、ローは水槽に印字された文字を見つけて瞠目した。
    【Avel Hein. Age 6.】
    名前と年齢、それはこの脳の持ち主だと容易に想像出来た。
    「フレバンスの国民の、脳なのか」
    見ず知らずの、しかしかつて同じ空間にいた同胞。
    「そうだな。当時回収できた綺麗なものは全部ここにあるぞ」
    「……生きているのか」
    意味の無いことを聞いたのは分かっている。
    「はは、それは無いだろ。医者のあんたから見て、脳みそだけの存在は生きてるって言うのか?そもそも死体から取り出した脳みそだしな」
    ローは奥歯を噛む。
    「……まさか、そこから記憶の複製を?」
    信じられないようなものを見る目で男を見つめた。
    男はうっすらと笑っていた。
    記憶の複製だなんてそんなこと、一体どうやって。
    いいやそれよりもだ。
    「なんのために」
    拳を握り締める。
    大量の脳みそが手に入ったって、人間の記憶を複製したって。
    同じ人間のクローンを作ったとして。
    そんなこと、なんのために。
    全ての疑問の根源はそこに集約される。
    それを知りたくてローはここまで来た。
    どうしていつまでも自分達を苦しめるのか教えて欲しくてここまで辿り着いた。
    ああそれから、と男は部屋の奥を指差す。
    「あんたが一番会いたいやつは、この奥にいるぞ」
    一番会いたいやつ。
    その瞬間脳裏に過ぎったのはフレバンスとは縁もゆかりも無い男の顔だ。
    へたくそな笑顔で、自分に愛していると言った男の顔。
    考えるより先に足が動く。
    能力を使うことも忘れて水槽の間を走る。
    いくつもの同胞の脳みそを追い越して奥へと急ぐ。
    後ろから「気をつけろよー」と呑気な声が掛かった。
    ローは足を止めることなく進み続ける。
    部屋の最奥。
    それを目の前にして、ローはようやく足を止めた。
    乱れた息を整えてまっすぐにそれを見つめる。
    地面から天井まで使ったその巨大な装置をローはよく知っていた。
    一年前、麦わらの一味が妹ラミを発見した時に彼女が入っていたという装置。
    コールドスリープ。冷凍装置。生きたまま人間を保存する機械。
    妹が入っていた装置より大きいそれは、中にいる人物を考えれば妥当な大きさだった。
    伝わってくる冷気へと一歩、また一歩と歩を進めた。
    凍ったガラス窓の結露を拭くと見知った顔が現れる。
    暗闇の中、装置の中から照らされたその人の顔は昔とちっとも変わっていなかった。
    柔らかな金髪に、同じ色で縁取られた睫毛。きっとその目が開いたら、紅玉がこちらを見つめ返すだろう。すっかりメイクが剥がれていて男前な顔だった。
    装置に額をつけて呟く。
    「こらさん」
    十数年の時を超えて、ローは愛する恩人と再会した。


    互いに無言で街を眺めている。
    夜と昼の境目。あと十分もしないで日が落ちるだろう。
    あの後、内側から研究室を掌握したらしい男がローを地上まで連れ出した。
    ローはされるがままに教会の裏手まで戻ってきた。
    少し風が冷たくなってきて、ふるりと震えた。
    「……落ち着いたか」
    男は耳馴染みの良い声でローを慮る。
    「助かったよ。あんたの力が無ければ俺はずっとあの部屋には入れなかったからな。もう扉も壊したし、これからはいつでも入れる」
    「……そうか」
    放心していた。
    何が本当で、何が現実で、どこから自分は騙されているのか。
    今のローには判断が付かなかった。
    いっそ全てが嘘だと言われた方が信じられる。
    もう会えないと思っていた人との再会はこれで二度目。
    一度目は妹で、二度目は心をくれた大好きな人。
    こんな奇跡があっていいのだろうか。これは自分が見ている夢なのではないだろうか。
    そう思えて仕方なかった。
    それとも、奇跡ではなく種も仕掛けもあるのだろうか。
    「どこから話せばいいかな」
    男の声に顔を上げる。
    夜の気配が漂い始めた薄暗い街は美しかった。今日は早くに月が昇るらしく、遠くに小さく見えていた。
    「最初から」
    ローはぼそりと呟く。
    「最初から全部だ」
    不健康そうな隈を浮かべた目でじっと男を見つめた。
    ふっ、と男が表情を緩める。
    「……一見話が飛んだように思えるかもしれないが。セラフィムの強さって何だと思う」
    本当に唐突な話題転換に胡乱げな表情をしながらも、ローは素直に口を開く。
    男がそれを必要だと思うのなら、今はじっとその話を聞くことがローに出来ることだ。
    「強靭な肉体、血統因子による能力の模倣、従順さ、替えが聞くところ」
    ローはそう言いながら指折りで数えて、ろくな特徴ではないなと鼻で笑った。
    よくもまあこんなのを相手にしてあの麦わらの一味は無事でいられたものだ。
    「はは、そうだよな。ほんと、ベガパンクは天才だよ」
    男は口元を歪める。
    「元々強い奴のクローンを作って、そいつを兵士にしようっていう構想自体は昔からあった。それを実現させるだけの才能はベガパンクにしか無かったが、そのおこぼれに与って色んな研究者が研究を進めてきたんだ」
    クローン体がクローンについて語る。
    本人からしても皮肉な話だろう。
    「なあもしセラフィムに足りないものがあるって言ったら、なんだと思う?」
    ぽん、と投げられた質問はローにとって簡単に答えが出せるものでもなかった。
    ただでさえ世界政府の最強の兵器として君臨した数々の敵を屠ってきた。あれが完成形と言われてもおかしくはない。
    男は答えを言う。
    「経験だよ」
    ローは横にいる男へ視線を向ける。
    「セラフィムに足りないのはオリジナルが蓄えた膨大な戦いの記憶だ。肉体強化や能力強化とは違う、積み上げられた記憶はいくら血統因子でオリジナルの本能を植え付けられたセラフィムでも追いつけない」
    もしもS-ホークにこれまでの強大な敵と戦った鷹の目ミホークの経験が付与出来たら、もしもS-スネークにもっと能力を効率的に掛けられるボア・ハンコックの技量が伝授出来たら。
    過去の記憶に基づく経験則は人を強くする。
    血統因子によって『体験』こそ身に付けても、判断力は本物よりも劣るだろう。
    「そのセラフィムに戦士としての経験を与えられるとしたら、史上最強の兵器ができる。そう思わないか?」
    男の言葉にローは首を振った。
    「思わないな」
    にべもない言葉に男は肩を竦める。
    ローは続きを口にする。
    「記憶を付与すればそれだけ自我が芽生える。あんな癖の強いヤツら、扱い切れるはずがない。兵器としては致命的だろ」
    「同じ七武海だったあんたが言うのは説得力があるな」
    まあでもあんたもそこは同じ考えなんだな、と男は呟き、ローは訝しげな顔をした。
    「何がだ」
    「記憶を付与すれば自我が芽生える」
    「……」
    「まっさらなクローン体に、これまでの赤子からいちばん新しい記憶を植え付けたらさ」
    ──それって本人と何が違うと思う?
    思わぬ問いに答えられなかった。
    喉が張り付く。口は強ばって動かない。
    ローは男自身をもう一度よく見た。恩人の姿で知ったような口をきく彼の姿をもう一度。
    「少なくとも奴らはそう考えた」
    クローンで作った瓜二つの身体に、その身体の持ち主の記憶を植え付ければ、そこには同じ人格が宿るのではないか。
    「実際にはセラフィムへの実験ではなかったからな。セラフィムはベガパンクの領域だ。そのおこぼれで実験できてた奴らが他にできることがあるとしたら量産ができて、そこそこ使えて、制御もしやすい。そんな個体の制作しかない。もちろんうまく行けば鼻高々とそれをセラフィムに転用する気はあったんだろうけど」
    結果はお察しだよな、と笑った。
    男は語る。
    はじめは成長したクローン体にオリジナルの記憶を植え付けた。ある程度育ってしまった脳と記憶が適合せずに失敗した。
    これではいけないと次にまっさらな状態のクローンへオリジナルの記憶を植え付けた。これには無事自我が芽生えたが単一個体では再現性を立証できなかった。
    もっと大量のデータが必要だった。大量に複製しても誰にも文句を言われない人間たちが必要だった。
    「そこでちょうど目をつけたのがフレバンスだった」
    その名前が出てきて、瞠目する。
    「あの戦争はフレバンスが滅びるまで終わらない。それは皆分かっていた」
    世界から見捨てられた国、フレバンス。
    「感染症に犯された遺体の行方を世間は気にしたりなんかしないだろ」
    死んでなお呪いから開放されない同胞達。その痛ましさに両手を組んで握りしめる。
    「膨大な量の良質な脳みそを手に入れられる絶好の機会を得たんだ」
    そうやって研究員達はフレバンスの戦禍に介入し、見事それを手に入れた。
    遺体からDNAを採取し、対応する脳の記憶を抽出する。
    出来上がったクローン体へ時間をかけて記憶を定着させ、全員が同じ時間軸の記憶になるように調節したうえでフレバンスを模した街に解き放ったのだ。
    男は淡々と語る。
    「多少辻褄が合うように記憶はいじったけど、微々たるもんさ。彼らはあのとき死んでいったオリジナルの続きとしてあそこにいる。街を模したのは、同じような街に住まわせて、人格の崩壊がないかどうか、問題なく活動できるかどうかを見るため」
    「そんなことが可能なのか。今までの話は所詮机上の空論だろう」
    「オペオペの実の能力者が言うのならそうなんだろうな」
    しかし成功かどうかは別の話として、実際にこの実験は今も目の前で行われていた。
    「そのための思考制御だ」
    祈りの時間だと、一斉に祈る住民達を思い出す。
    「セラフィム然り、クローン兵器然り、命令を聞かない兵器に意味なんてない。自我ばかり強くて、制御もできない個体は必要ないからな」
    セラフィムは命令系統を植え付けられているが、それは最低限の自我で存在しているからに過ぎない。
    「ここでの思考制御実験も実践へ投入するための練習さ。奴らにとっちゃ一石二鳥、二つの実験が同時並行でできる良い機会だった」
    それゆえに彼ら住人はこの状況へ違和感を持たない。気付いてもどうでもいいものだと片隅に追いやられてしまう。
    感情を麻痺させて幸せな方に、穏やかな日常のために祈る。
    「じゃあなんでお前は……」
    「なんでフレバンスの国民では無い俺が作られたかって?」
    この国唯一に異端者。
    ドンキホーテ・ロシナンテのクローンである彼は眉を落とす。
    「まあほら、最終目的は兵器への転用だからな。一般人ばっか作っていたって仕方がない」
    嘆息して言葉を続ける。
    「次は能力者、てなるのは当然だろ」
    表立って能力者を集めて実験をすれば自ずと情報は外に漏れる。
    とてもじゃないが海軍や世界政府の中から能力者を徴収して協力させることはできない。
    インペルダウンにいる海賊たちのクローンという話も当初は出たが、それにしたって人目に付く。
    箝口令を敷いたとしても人の口に戸は立てられない。
    新しい兵器はまずその情報を知られる事自体が命取りだ。
    だから誰からも気にされない能力者の身体が必要だった。
    そこでまさか都合よく手に入ったのが、ナギナギの実の能力者の身体だった。
    「俺のオリジナルは本当に頑丈でな。ああ、あんたは知っているか」
    かつて兄の凶弾によって倒れた男は深い雪の中で静かに最期を待っていた。そしてその身体は遺体として海軍に回収されたはずだった。
    「雪に埋もれていたっていうのがみそだったな。それから身体が大きかったから失血死を免れたことも大きい」
    「蘇生が可能だったということか?」
    「そのままなら無理だっただろうな。海軍じゃ生き返らせることはできなかった」
    見ただろ、あの装置を。
    そう言われてローは思い出す。恩人の命の時を止める冷凍装置。
    「フレバンスで脳を保管するにあたって奴らは専用の装置を開発していた。肉体を新鮮に、長く保管する技術だ。どうやらそのフレバンスで急遽生きた人間も保存する必要が出てきて改良を加えられたのがあのコールドスリープ装置だった。その技術があったからオリジナルはそこに突っ込まれて治療されながら今の今まで生き永らえることが出来たんだ」
    兄様と、己の呼ぶ声を思い出す。
    フレバンスで、その思惑のために生かされた命は妹のことだ。
    妹の命を救い、そしてそれが恩人の命をも救っていた。
    妹が生き残らなければ、恩人も生き残ることはなかった。
    数奇な運命に驚きを隠せない。
    その理由は決して許されるものではないが、その思惑が二つの命を救ったということはローにとって大きな意味を持つ。
    驚愕と困惑と嬉しさと。それ故に何も言うことができないロー
    に男はふっと口元を緩める。
    「それで俺達は作られたんだ。能力を付与されて、身体も調整し、能力者の兵士を作る足がかりにした。まあ実際に海兵を元にしたクローンを兵器として運用するには、海軍の士気にも関わってくるから表立っての使用はできないけど」
    そこで男に充てがわれたのがこの島の監視と運営補助だった。
    研究員の手足として、実験の意図を理解した上で島の住民の一人として入り込んでいったのだという。
    能力も相まって、彼は長い間重宝された。
    「俺という異物を入れたときの環境への変化も図りたかったんだろうな。おかげで思考制御の実験だけは随分進んでたよ」
    そうして彼は住民の信頼も、そして研究員からの信用も勝ち取っていった。
    その一連の諦観にも似た言葉にローは理解した。
    彼もまた記憶を。だからこんなにも。
    「あんたにとっては皮肉だよな。滅んだはずの故郷に、見知った男の姿まであるんだから」
    「……あの子供は、お前の弟じゃないんだな。同じクローンか」
    「そうだ。成長促進剤の有無で見た目は結構違うかもしれないけど、本当はそんなに年の差はないんだ」
    面白いだろ、と男は笑った。
    下手したらこの男はローよりも年下の、ただの子供だったのかもしれない。
    記憶と肉体年齢に引き摺られ、老成した思考で物事を見ている。
    「ルシオはまっさらだ。あいつには能力も記憶も何も無い。ただ元となったオリジナルがいるってだけの、あいつは一人の人間だ」
    「なぜだ。お前と同じように能力者を複製する目的で作られたんだろう」
    「いやいや、そればかりじゃないさ。同じのを作ったって実験にはならないだろ」
    生まれてから何も手を加えられないまま彼は育てられた。
    一人の人間として成長過程を観察され、発生した人格を比較される。
    「魂が先か、肉体が先か、なんて言うけど。この場合だと記憶が先か、肉体が先かって話になるのか?クローン体の成長自体奴らにとっては必要な情報だからな」
    本当に普通の子供なんだ、と男は眩しそうに笑った。
    自分達が決して手に入れる事ができない、ただ一人の光。
    そんな弟をこの島に呼び寄せた男にローは問いかける。
    「……俺に何をさせたいんだ」
    研究室を見せて、この島や人々の生い立ちを説明して。
    そんなことのためにローを連れてきたのではないことくらい理解している。
    先ほどは第一関門だと言っていた。つまり、まだローにさせたい仕事があるのだ。
    「……約一年前、研究員達は一斉に逃げ出した。理由はあんたならよく分かっているな?」
    目を細める。
    約一年前の一連の騒動は昨日の事のように覚えている。世界政府の実験場であったとある島に麦わらの一味が上陸し、そして妹が発見された。
    そしてその島から逃げ出した研究員達を捕まえたのは他ならないロー自身だ。
    それと時を同じくして、この島の研究員達も逃げたのだろう。次は自分達だと思ったに違いない。
    「おかげで俺は晴れて自由の身さ。誰に縛られることなく生きることができている」
    各地での一斉摘発のお陰で研究員達は徐々に追い込まれていっている。この島には二度と戻ってくることはないだろう。
    「今日俺が研究室に入るまで一切この島に手は加えられなかった。俺だけじゃあの研究室に入れる権限が無かったからな」
    助かったよ、などと感謝をされたがローは素直に受け取れなかった。
    「ああいう連中がこういったときによく考えるのは保身と隠蔽だ。万が一自分たちが研究を手放さなくてはならなくなった場合、自動でそうなるように用意周到に仕込んでおくもんだ」
    太陽は完全に沈んでいた。あちらこちらの家で明かりが灯る。
    荘厳だった。どこまでも広がる街で家という命が光っている。
    ローの知らない街。彼らの街。
    「この島はもうすぐリセットされる」
    冷たい空気に言葉が乗る。
    「埋め込まれた自壊プログラムが働いて、島も、住民も、お前の同胞も、お前の恩人も。全て無くなる」
    ローは思わず腰を浮かせた。
    熱り立つローを、男はどうどうと宥めた。
    「……馬みたいに扱うな」
    「はは、悪かったよ。ちょっと落ち着け。今すぐどうこうって話じゃないんだ。あいつらがいなくなってまだ丸一年は経っていない。あと少しの猶予がある」
    ちょうど一年で作動する仕組みなのだろうと話の流れで当たりをつける。
    自分の知らない場所で作られた故郷なんて、最初は困惑や嫌悪や、良い感情でなかったことは確かだ。
    だがたった数時間とはいえ、ローはここで生きている人たちを見てしまった。
    なくなってしまえなんて、思えない。
    「お前はどうしたいんだ」
    男の真意を問う。
    ローに何をさせたいのか。男がどうしてこんなことをしたのか。
    それ故にローにどんな行動を求めているのか。
    男は静かに話始める。
    「俺はな、こんな生まれでもこの島を愛している。誰かの複製でしかない俺達の楽園は複製で作られたここしかない。どこにも行けない俺達の終の棲家なんだ」
    男の眼前に広がる街こそが男の人生であった。
    「……リセットをなくすのはそんなに難しい話じゃない。一つは、俺の手で研究室を動かし続け運営していくこと。思考制御を続けて、今までと同じように、だが本来の意味なんてどこにもない生活を続けていくこと」
    自分が誰かの人生の続きであると気づかずに、自分であるために誤魔化し続けて生きていく。
    そうであれと望んだ人間などもうどこにもいないのに、そんな虚しいことはない。
    「もう一つは、全部壊してしまうって案。そもそもあの研究室のすべてを落としてしまえばそんな自壊プログラムはなくなるからな。何もかも壊して、ほんとうの意味でここを俺達の場所にする」
    どちらかといえばこちらが男の本当の望みなのだろう。
    言葉に篭める力が違った。
    「思考制御出来なくなれば彼らの生活はどうなる」
    それがあるからこそ、彼らはこの状況下でも暮らすことが出来ているのだ。
    研究室の崩壊は、この大きな実験場の崩壊を意味する。
    「どうなるもなにも、いずれ気付くさ。自分が本当はどういう存在なのか。……俺がそうだったように」
    男は語気を強めて続ける。
    「本当に、記憶を植え付けて自我を発生させて。それが元の人物と同一だと思うか?自分がそうなることもできないくせに、人間オリジナルの安易な考えだと思わないか」
    その原初側オリジナルであるローに訴えかける。
    「自分が他の誰でもない自分であると、別の存在であると気付かないとでも思っているのか。記憶のその先を一歩歩みだした瞬間から、俺達は全くの別人だ」
    今は思考を制御されている彼らも理解する時が来る。
    いつかは別人として歩み出さねばならない時が必ず来る。
    「混乱が起こるだろうよ。争いだって沢山起こるはずだ。でもそれを可哀想だと思えるのはオリジナルだけだ。俺はそうは思わない。自分の意思を勝ち取ることこそ意義がある。それを支えられることができるのは俺だけだ」
    だから彼は研究室を破壊しようとしているのだ。
    そしてそのためにローをここまで呼び寄せた。
    「機械を壊してしまえば、もう一つ維持できなくなるものが存在する」
    「……脳か」
    「そ。あれは研究室自体と一蓮托生だ」
    『一応お前に選択権があると思ってな。同胞のことは同胞が決めた方がいい』
    研究室での男の言葉を思い出す。
    「勝手にあれこれ決めるのは性に合わない。あんたに一応お伺いを立てておこうと思って」
    「それで俺が嫌だといったらどうするつもりだ」
    「俺の想定だと八割は同意してくれると踏んでいるんだが。残りの二割を選ばれたら俺も出方を考えるかな」
    途端に対立の意思を見せた男にローはため息をつく。
    全て男のシナリオ通りなのだろう。
    「研究室を破壊するということはあのコールドスリープ装置も機能を失うのか」
    「ああ。中身には興味ないから、あんたで引き取ってくれると助かる」
    「……」
    仮にも自分の元となった人間への温度感ではないなと男を見た。
    視線の意図を理解して男は応える。
    「いつまでも本物がいたんじゃ、俺達は俺達になれないからな」
    ローは何も言えなかった。
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