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    shibari_

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    文庫メーカー⑭〜⑰まとめ

    天使の子 後編①『お兄さま、本読んで!』
    小さな足音が近づいてくる。
    机に貼り付くくらい顔を近づけていたローはその声に顔を上げた。
    両手に本を抱えた少女はきらきらとした目で兄を見上げている。
    『……だめだ。まだ勉強が終わってない』
    解きかけの問題集へちらりと視線を向けて、ローは罪悪感に苛まれつつも断る。
    『えー!ちょっとだけいいでしょ!』
    てっきり大好きな兄に遊んでもらえると思っていた少女は頬を膨らませて抗議した。
    『お兄さまも好きな海の戦士ソラだよ!』
    妹は日に日に悪知恵がついて行くばかりで、あの手この手で兄の気を引こうとしてくる。
    この日も少女の作戦は巧妙だ。
    『……その手には乗らないぞ』
    一瞬揺らいだ心をぐっと持ち直した。
    少女の抱えている本はローも大好きな児童書、海の戦士ソラだ。子供達の間では絶大な人気を誇るそれは例に漏れずローも嗜んでいる。
    ゆっくりとではあるがやっと文字が読めるようになった妹は最近兄の真似をするようにこの本を熱心に読んでいた。たまに難しい文字や内容が来るとこうしてローに読んでくれとせがむのだ。そうすれば兄は仕方ないと読んで聞かせ、次第に二人で夢中になる。
    しかし今日こそはそうはいかないぞと心を鬼にした。読んでやりたい気持ちは山々だが、なんでもかんでも言うことを聞いてやるのは少女のためにはならない。
    『というか、ラミは今日の分の勉強は終わったのか?』
    そう言うと途端に少女の視線は泳いだ。
    『こら、遊ぶのは勉強が終わってからって母様も言っていただろ』
    『だって』
    『ラミ』
    『……はーい』
    兄の言っている言葉が正しいことを理解している少女は肩を落としてしょんぼりとする。
    楽しいことを優先してしまう気持ちは分かるが、自分のためにやらなくてはならないことは先に済ませなければならない。
    しかし俯く妹の小さな頭を見て、ローもさすがに可哀相になって声を掛けた。
    『ここで勉強をやっていいから、ドリルを持ってこい。分からないところはお兄さまが見てやる。そうしたら早く終わるだろ』
    今まで机に広げていた問題集を少し端に寄せて、妹が勉強できるスペースを作る。
    兄の言葉の意味を理解した少女はぱあ、と顔を輝かせた。
    『ほんとっ?終わったら本読んでくれる?』
    『ちゃんと終わったらな』
    『やったー!ドリル持ってくる!』
    今にも踊りだしそうな勢いで部屋を飛び出していった少女をはらはらと見守りながら、ローは再び戻ってくるまで問題集と向き合っていた。
    ほどなくして戻ってきた少女が抱えていたのは計算ドリルだ。まだ学校に通う年齢ではないが、早いうちから簡単な計算が出来るようにと両親から渡されているものだった。ローもラミくらいの年ごろにはこのぐらいの計算問題は難なく解いていたものだ。
    よいしょとローの隣に椅子を並べてドリルを解き始める。
    『私ね、もう十より大きい足し算できるんだよ!』
    『へえ、すごいな。ラミはさんすう得意だもんな』
    『うん!』
    『こんなに沢山の計算が出来るなんて、すごい頑張っているな』
    『そうでしょー!だって私もお父さまとお母さまみたいなお医者さんになりたいもん!』
    『はいはい、じゃあしっかりと勉強しないと』
    それでねえ、とおしゃべりが止まらない妹の鉛筆をどうにかこうにか急かしながら、ローは自分の勉強にも戻った。




    どうやら一瞬気を失っていたらしい。
    机に突っ伏していたローはゆっくりと顔を上げた。今鏡を見たらきっと顔に跡が付いているだろう。
    随分と懐かしい夢を見た。あれはラミが珀鉛病を発症するほんの数週間前のことだ。一緒に勉強をした最後の記憶。
    ラミは小さいころから聡明で溌剌としていた。やんちゃで手が付けられなかったとも言う。頭が良かったから何をやらせても上達が早かった。
    珀鉛病が発症してからも、大人でも気絶するほどの身体の痛みをずっと耐えていた。
    とても忍耐強い子だった。
    その忍耐強さがこうして十数年の時を越えて命を繋げることになったのだろう。
    意識が無くとも身体は戦っている。時間を止めていても苦しい瞬間だけが繰り返される。
    一人で戦い抜いた己の妹は誰よりも強い。
    ローはそれが誇らしかった。
    だというのに、対する自分はどうだろうか。
    「……」
    一人になった研究室でため息をつく。
    とぼとぼと去ってくチョッパーの背を思い出しながら、ローは眉間のシワを揉みほぐした。
    罪悪感が無かったかと言えば嘘になる。自身の八つ当たりに巻き込まれた彼に申し訳なさも感じている。
    だが長年抑圧された身体は自然と拒絶していた。あの優しいトナカイ医がこの巨大な影に押しつぶされるところを見たくはなかった。
    情けないと怒られるだろうか。意気地なしと呆れられるだろうか。親不孝者と罵られるだろうか。
    想像の中の両親は自身になにも語りかけてこない。夢にでも出てきてくれればいいものを。
    父の無念を晴らさない自分はとんだ裏切者だろうな、と自嘲する。
    かさりと手元の資料を掻き分ける。隔離が始まってから二日以上が経過し、この施設の奥の探索も進んでいた。
    幸いなことにあれ以来患者が出てくることもなく、今のところ誰一人として命を落としていない。医師による適切な診断と処置が功を奏したのだろう。今頃チョッパーが戻ったあちらも様々な治療が開始されている頃だった。
    ローの手元にある資料には様々な疾患の研究データが記されている。
    中には病気だけではなく種族的な遺伝子の掛け合わせのような実験も行われていた。まさにこの施設に来た当初見た患者達の背景だ。
    生物兵器を作りたかったのだろう。
    ウィルスや毒物で相手を殺すものから、本当に兵器として運用できる生き物まで、様々な検討がされていたのだろうことが分かる。
    しかしその中でも珀鉛病だけは全体のコンセプトから外れているように見受けられた。
    戦争中にラミを攫い、そして今になって珀鉛病もどきを作り出している。
    この施設は世界政府が運営していた。パンクハザードのそれとは毛色が違う。
    麦わらのルフィが海賊王になり世界情勢も大きく変わってしまった。
    世界政府は昔ほどの力は無く、人民からの信望もない。
    こういった施設はそれこそ、世情が変わってからは海軍に次々の摘発されていた。この施設は麦わらの一味が上陸するまで随分と上手く隠れていたのだろう。運が悪い事だ。
    逆に考えれば、今の世界政府に生物兵器のような直接的な武器は必要ない。そんなものを使えば今度こそ信用は地に落ち、世界政府の存在意義も揺らいでしまう。
    彼らに残された道は太平の世を乱さず、公平で秩序ある組織に生まれ変わることだ。
    ──だからこその珀鉛病なのだろうか。
    ローは頭が痛くなり背もたれに身を任せた。疲れが身体に来ているらしい。
    暫く目を瞑っているとまるで地鳴りのように騒がしい足音が近づいてくる。このどんよりと静かな施設の中でそんな騒がしい人間は一人しかいない。
    「腹減ったー!メシ!」
    ローが根城にしている研究室の扉をドン、と開け放ったのはこんな時でも元気百倍な海賊王だった。
    大きな声が頭に響く。
    「残念だが黒足屋はあっちだ、麦わら屋」
    くるりと椅子を回転させて、ローは入ってきた青年を見る。いかにもそこらへんを走り回ってきましたと言わんばかりの風体にため息をついた。
    はなから彼にマスクを付けさせることは諦めているが、それにしたってこの状況下で動き回れる精神には感服していた。
    「えぇー!まだメシの時間じゃないのか?」
    「メシの時間も何も、三時間前に昼飯食ったばっかだろ」
    「じゃあおやつの時間だろ!」
    「おまえらどんなスケジュールで生活してんだ」
    一瞬だけ同船していた間も確かにおやつの時間があった気がするなと呆れた。日に五回ほど食事を用意していた麦わらのコックに敬服する。
    この隔離された奥地へは日に三度、サンジの弁当が届けられていた。それだってルフィの分の弁当は最初から他人の何倍もの大きさがあったというのに、それでも数時間と持たないのだから本当に恐ろしい。
    非常食の類もある程度確保しているが、目の前の海賊王に見せようものなら一瞬で食い尽くしてしまうだろう。
    ぐう、とお腹を摩る若き海賊王にやれやれと首を振った。
    「第一、ロロノア屋と海峡屋はどうした。まさかあの迷子野郎を一人で解き放ってないだろうな。間違ってもあっちのエリアに行かれたら困るんだが」
    「んー、なんかジンベエと釣りしてたぞ。大丈夫だろ」
    「まあ、それならいいが」
    病的なまでに方向音痴な剣士を思い浮かべ、海峡のジンベエに止められている姿を想像する。そのぐらいの静止でなんとかなれば良いが不安要素はまだ残っていた。
    「そんなにお腹すいたのならそれこそ一緒に魚でも釣ってくりゃいいだろ。そこらへんで焼いて食べてろ」
    「そうするかー」
    「塩ならいくらでもあるからな」
    ほらもう行け、と手で追い払う素振りをして、少しして首を傾げる。
    「……釣りなんて出来る場所なんてあったか?」
    聞き流してしまっていたが、彼らは施設の探検に出かけていたはずである。間違っても海や川へ遊びに行ったわけではない。
    あまりにも自然体でそう言うものだから気付くのに遅れてしまった。
    「おう、俺が壊しちまった壁の一番奥を抜けたら施設の外に出たからな!なんかいい感じの船着き場があったぞ。ジンベエも魚が沢山集まってきてるって言ってた!」
    思わずルフィの顔をまじまじと見る。
    「船着き場」
    「おう!」
    「見つけたのか?俺達が入ってきた港じゃなくて?」
    おう、と元気よく返事が返ってくる。
    「船もなーんもなかったけどな!」
    ローは暫く黙り込んで、それから脱力した。
    なんでこう、能天気な奴らが散歩感覚でそんな重要な場所を見つけるのだ。
    ローの言わんとすることが顔に出ていたのか、ルフィはニシシと笑った。
    「お前が冒険してろって言ったんだろ~」
    確かに言ったけども、とローは口を不機嫌そうに歪める。
    「なあ、ここにいた奴らがどうやって逃げていったか覚えてるか」
    「どうやって逃げたか~?」
    明後日の方向を見て考え始める海賊王に、これは駄目だなとあっさりと見切りをつける。それどころではなかったのだろう。
    「あいつら逃げていくときにここを自分達でめちゃめちゃにしようとしてたから、それ止めてたらいつの間にかいなくなってたんだよな」
    案の定予想通りの答えが帰ってくる。証拠隠滅を図ろうとしたのだ。海賊王に見つかるとは運の無い奴らだと憐れむ。
    「じゃあこの島からどうやって逃げていったか見ていないんだな」
    「おう!」
    「そんな自信満々に言うことでもないが、それならまあいい」
    表の大きい港にサウザンド・サニー号があったのならそちらに逃げたとは考えにくい。隠れて小さなボートで逃げた可能性も、この近海の状況を見るにあまり現実味は無い。
    そんなにあっさり姿を見失うということは元々どこかにすぐ逃げられる船を隠していたのだろう。
    そしてそれらしい場所の候補がその裏にあるという船着き場というわけだ。
    「……」
    ますますローの考えの裏付けが取れて行く。あまり嬉しくはない。
    考え込んでいたローの眉間がぶに、と押された。
    見ればルフィがローの皺が寄りまくった眉間を伸ばそうとしている。
    「おい、やめろ」
    「あんまり難しい顔してっとその顔になっちまうぞ」
    「うるさい。お前はいつも能天気だからそんな顔してるのか?」
    指を手で払って睨みつける。
    早く魚でもなんでも釣りに行ってこいと身体を押しのける。
    「トラ男、お前もちょっと休んだほうがいいぞ!」
    そう言って笑いながらあっさりと研究室から出て行った海賊王にやれやれと疲れたように肩を落とした。
    額に当てた手は熱かった。




    「ラミ、元気だったか!」
    ひょっこりと病室に顔を出したチョッパーはにこやかに声をかける。
    本を読んでいた少女は「わ」と驚いたように目を丸くした。
    目が覚めてからまだ一度しか会っておらず、すぐに隔離体勢に入っていたためこれで顔を合わせるのは二回目なのだ。
    「トナカイさん……本当にお話してる」
    少女は驚いたように口に手を当て呟いた。前回会ったときはまだ意識もおぼろげでチョッパーのこともよく覚えていなかったのだろう。エッエッエ、とチョッパーは笑う。
    診察の時間だぞ、と聴診器を片手にそう言うと少女は「よろしくお願いします」と行儀よく挨拶した。
    簡単に問診しながら聴診器で胸の音を聞いていく。
    「お薬はちゃんと飲めているか?」
    「……うん。にがいけど」
    「苦い薬は良く効くんだぞ!飲めてえらいな!」
    「お父さまと同じこと言ってる」
    少女の言葉にチョッパーはぱちりと目を瞬かせた。
    ロビンから聞いた話では両親共に医者だったらしい。こうした診察に子供ながらにして抵抗感が薄いのも家庭環境からくるものだろうと納得する。
    「エッエッ、お父さんもラミに苦い薬を出してたのか?」
    「風邪ひいちゃったときにお父さんが頑張って飲みなさいっていつもくれたの。お母さまが作ったゼリーに混ぜて飲んでたよ」
    「ゼリー!いいな、サンジに作って貰えるように頼もう」
    「いちご味!いちご味がいい!」
    チョッパーの提案に目を輝かせる。
    アイスも一つ食べられるくらいに食欲は出てきたという。この分なら普通の食事を取れるようになるまで早いだろう。
    「肌はまだ痛いか?保湿剤も沢山作ったから、ナミやロビンに言ったら塗ってもらえるぞ」
    「痛いのが消えるお薬飲んでるから大丈夫だよ。お薬もひとりで塗れるよ」
    「そっかあ、ラミは偉いなあ」
    初めて会った時よりも口数が増えた。自発的に行動する元気も出てきている。
    ナミやロビン、それから色々な人と関わっていい刺激になったのだ。
    うんうん、と頷いて診察を終えたチョッパーは安心させるようににっこりと笑う。
    「安心してくれ。この病気は絶対に治る。少しずつだけど、頑張って治療していこう」
    少女はチョッパーの言葉に小さく頷き、しかし己の手を見ながら落ち込んだ。
    「全部真っ白になっちゃった」
    きっと本当の姿とはかけ離れた色だろう。
    白い病院着と相まって全身真っ白な少女のその小さな手を握り、チョッパーは安心させるように語りかける。
    「そうだな。でもこれは珀鉛が肌に出てきてしまってるんだ。もう手術で原因となるものは取り除いたから、あとは皮膚が新しくなればちゃんと元の色に戻るぞ!髪の毛だって次に新しく生えてくるものは元の色だ」
    そう言ってから、チョッパーは少し難しかったかなと言い直す。
    「珀鉛病って中毒だから、身体の中にある悪いものを取り除けば治るんだ」
    だから大丈夫だぞと続ける。
    そんなチョッパーの言葉に少女は大きな丸い目をぱちりと瞬かせた。
    「またお父さまと同じこと言ってる!」
    「え?」
    その口から出てきたのは予想外の言葉で。
    少女の声にチョッパーは口をぽかんと開ける。
    「白鉛病は中毒だって、お父様もそう言ってたよ」
    少女の純粋な目がチョッパーを見つめる。
    「お兄さまが、きっとお父さまが治してくれるからって教えてくれたの。肌は生まれ変わるものだから、私の身体もきっとよくなるよって」
    かつて家族がかけてくれた言葉と同じものを言われたと嬉しそうにチョッパーに伝える
    「ふたりともおんなじこと言ってた!」
    チョッパーはその言葉に固まってしまっていた。上手く言葉が返せない。
    医者である父が言っていた。兄も治ると信じていた。
    こんな小さな少女が珀鉛病が中毒だと知っている。そう、知っているのだ。
    フレバンスの国民だったラミは珀鉛病が中毒であるのだと知っていた。
    ならばなぜフレバンスは。
    少女を不安がらせないように笑顔で病室から出る。
    部屋を出たチョッパーは、そのまま一直線に走った。


    「と、とら、トラ男!」
    転がり込むように隔離された区域の研究室へと入った。
    戻ったはずのチョッパーが突然訪ねてきたことにローは眉を顰めて出迎える。
    「トニー屋、どうした。あっちで何かあったのか?」
    唯一人ではなくウィルスの保有者にならないチョッパーは自由に区画を出入りできる。だから何か用事があるのならば戻ってきても可笑しくないが、あまりの慌てように緊急事態かと作業の手を止める。
    わたわたと焦るチョッパーは途切れ途切れに言葉を発した。
    「トラ男っ。は、はく、白鉛病は感染症じゃないって、っ」
    「そうだな。お前がそう言ったな」
    「ちが、ちがくて」
    一際大きく息を吸って、震える声で吐き出す。
    「ラミが、そう言ったんだ」
    びくりと肩を揺らした。
    ローの視線がゆっくりと下を向く。
    「ラミは知ってたんだ。あんな小さな子が、知ってたんだぞ」
    このトナカイ医が何を言いたいのか、ローには分かっていた。
    それはつまり、フレバンスには珀鉛病を中毒だと知っていた人達がいるということだ。
    「なんで、じゃあ珀鉛病は感染症って。だってそれなら戦争なんてしなくて良かったのに」
    チョッパーは混乱のままにローへと答えを求める。
    どうか自分のこの心を落ち着かせてほしいと友に意見を求める。
    しかしその友はいとも簡単に残酷な声で答えを告げた。
    「握りつぶされたんだろう」
    チョッパーはごくりと喉を鳴らした。
    薄々分かっていただろうに、とローは肩を竦めた。
    心優しいトナカイの医者は震える手で口元を抑える。
    「都合が悪いことはすべて、最初から無かったことにしてしまえば簡単だからな」
    存外冷静に語れるものだ、と自嘲した。
    心底憎悪して、心底軽蔑して、心底呆れていた。
    かつての子供だった己が心の中に立っているはずなのに。
    「治療の有益性とか、フレバンスの経済的利益とか、そんなものよりも無くしてしまった方が金も掛からなくて世間体も良かった。戦争をすれば潤う国もあって、都合のいい国もあった。今まで見て見ぬふりをしてきた珀鉛の有害性を自分達のせいにされたくなかった。あの小さな白い街はそうやって犠牲になったんだ」
    優しい声でまるで諭すように言う。
    「だから国民が中毒だと知っていてもなかったことにしてしまった。そんなことが出来るやつらは限られている。そうだろ?」
    世界政府がそうだと決めた。分かっていてやっている国の上層部もきっとあった。黒を白に、白を黒にする力を持っていた。
    「分かっただろ、トニー屋。なんでこの問題が今なお複雑かと」
    何故ローが自分を止めたのか、チョッパーは理解する。どうしてかつてフレバンスの人々が押しつぶされたかを理解する。
    ローは初めからそれが分かっていたのかと、一人で抱えていた事実に胸が詰まる。
    「おれ、おれは……」
    やるせない気持ちに悲しさと怒りが沸いた。
    こんなことを許してしまった世界に失望を禁じ得ない。
    なぜ自分は何も出来ないのだろうかと自問自答する。
    隠し切れない悔しさを浮かべるチョッパーに、本当に良い奴だな、とローは目を細めた。
    こんな医者ばかりならフレバンスだって今頃は。
    そう考えて自分で否定する。そんな簡単な話ではなかった。底なし沼に沈んでいく国を救える者は誰一人としていなかった。
    沈黙が降りる研究室で時間だけが過ぎていく。
    ローは資料に目を向け、そういえばと頼んでいた仕事を聞く。
    「……ところで名簿の件はどうなった?」
    チョッパーははっとローを見上げる。
    「その、ある程度は終わったんだけど」
    もにょもにょと言い辛そうにしている。理由は分かっていた。
    「いない奴でもいたか?」
    「そ、そうなんだ!一応もう一度患者一人一人を確認し直しているんだ。だけどどうしても何人か足りなくて。もしかしたらまだどこかにいるのかな」
    「いいや、多分もう出てこないぞ」
    え、とチョッパーは驚いたように目を見開く。
    「連れていかれたな」
    「連れていかれたって、どこに?」
    チョッパーの疑問にローは口を噤む。
    このいたいけなトナカイに真実を告げるには、本来であればもっと時間が必要だった。
    またも降りる沈黙に、今度こそ互いに言葉が出てこなかった。
    そんな静寂の中、ふと二人は耳に届く喧騒を嗅ぎ取った。
    外が騒がしい。
    二人は顔を見合せ、建物の外へと意識を向けた。
    何人かが叫んでいる声がする。ハートの海賊団だけではなく、自分の仲間の声も混じっている。
    ビリビリと肌に伝わる緊張感。見聞色を持っていないチョッパーでも空気が変わったことが分かる。
    「おれ、外を見てくる」
    「……ああ」
    ローの返事を待たずして、チョッパーは研究室の外へ飛び出た。
    勝手知ったる施設の中を抜け、隔離区域から通常の区域へ、そこから入口へ、そして表の港へと顔を出す。
    まず初めに目に着くのは我らがサウザンド・サニー号、そして隣にはハートの海賊団の船が停泊している。快晴の空に二つの船の色彩が眩しく映る。
    太陽を手で遮りながら、チョッパーは仲間達はどこかときょろきょろ見回した。
    彼らは港の見晴らしのいい台の上に乗っていた。
    各々望遠鏡や色んな道具を持って大海原を見つめている。
    誰かが叫んだ。

    「海軍が来たぞーッ!」




    「はーい、具合はいかがですか」
    シャチは簡単に布だけで仕切られたベッドを見回る。
    隔離区域の一部を改造して作られた簡単な病室は件の偽珀鉛病患者達のものだった。
    感染対策と定期的なワクチン接種をしているハートの海賊団の船員が主に看病のため出入りしていた。
    目線だけで返事をする患者が多い中で、最初にローへと助けを求めた男性患者は回復の兆しを見せていた。
    「身体、……軽くなった気がします」
    「そりゃ良かった!点滴入れてるから大分楽でしょ。熱も……んー、熱はまだちょっと高いなあ」
    脇に挟んでいた体温計を回収し、思うようにいかない数値に苦笑する。
    ちょっと長期戦になるかなあ、なんて考えていると不安そうな男の声がシャチへ向けられる。
    「あの……本当に治るんですか」
    患者の前で不安そうな顔をするなと口を酸っぱくして言われた過去を思い出し、いけないいけないと笑顔を作る。
    「治る治る!うちの船長を誰だと思ってんの」
    そう言ってから、海賊だとはさすがに言えないな、と思い直して言い換える。
    「うちの先生はそんじゃそこらの医者と違うぜ。それにここにはこの新世界でも名医と名高い二人の医者が揃ってるから、どーんと構えてろって。今はちょーっと病気をこじらせたみたいな状態だから、きちっと薬飲んで養生してりゃすぐ良くなるって」
    「はは、……それは、すごいですね」
    苦しいだろうに、汗ばむ顔で患者は薄く微笑む。
    珀鉛病ではないと患者達には丁寧に説明していた。ウィルス性の病気だと、皮膚の病気とはまた違うのだと言い聞かせていた。
    しかし肺炎にまで悪化してしまった病態で患者がすんなりと受け入れてくれるはずも無く、回復することだけが今の彼らにとって縋るべきものであった。
    シャチは汗を拭ってやりながら安心できるようにと顔を真直ぐと見る。
    「今は眠ることがお仕事だから、ゆっくり休んでな。また少ししたら先生が診察に来るよ」
    うとうととし始めた患者にふとんをかけ直す。
    「熱が下がればあとはどんどん良くなるから」
    「はい……」
    目を細めた男はシャチを見て頷いた。
    じゃあ何かあれば呼んでなー、と手を振りシャチは次の患者の元へ向かおうとした。
    「……天使」
    カーテンの向こう側へ消えようとしていたシャチは、男の声に足を止める。
    「へ?」
    後ろを振り返ると寝ぼけ眼な男性がまるでうわ言のように呟く。胸元を掻きむしり、苦しそうに言葉を絞り出す。
    「お前達は『天使』だって、……」
    随分な単語に眉を潜めた。
    「それ、どういうことだ?」
    ゆっくりと、務めて穏やかに聞き返す。
    「分からないです……なんか、急に思い出して。でも多分、俺達が寝込んでいる間に誰かがそう言ってたような気がします。苦しくて、お水を欲しいって言ったのに……」
    返されたその言葉が恨めしくて、きっと男性は頭の片隅でずっと覚えていたのだろう。
    病人を、それに男性を捕まえて言うような台詞ではない。
    それにこの病状の彼らにかける言葉として適切とも思えなかった。
    隠し切れない悔しさと思い起こされた苦しみで力の入る手を、シャチはそっと解く。
    そのシャチの手を男は掴んで心配そうに問いかけた。
    「俺達の中でも最初に罹ったやつらが何人か連れていかれて……、そうだ、あいつら戻ってきたんですか……?」
    「……そうだな、今頃治療を受けているよ」
    ここの患者の名簿を発見したのはシャチだ。それをローに渡した時、彼が苦い顔をしたのをよく覚えている。
    彼には今回の件の背景が既に見えているのだろう。だからシャチも、名簿に載っていた患者の行く末には嫌な予感を覚えていた。
    どうして彼ばかりが背負う羽目になるのだろうかと腹立たしい。ペンギンではないが、シャチだって方々に一言申してやらねば気が済まなかった。一番は一人で背負い込もうとする我らが船長にだが。
    もう克服したはずの病気なのに、まるで今でも彼に巣食っているみたいではないか。
    「そう、ですか……良かった」
    シャチの返事に納得した様子の男は枕に沈みながら目を閉じる。まだこうして話をするだけでも体力を消費してしまうのだ。
    今度こそ患者が眠りにつこうとした時、壁を隔てたこちらにまで届く叫び声が聞こえてきた。
    シャチは思わず腰を浮かせて意識を外に向ける。
    肌に纏わりつく空気が変わった。
    剣呑な雰囲気に患者もぱちりと目を覚ます。

    「海軍が来たぞーッ!」

    予期していないわけではなかった。こんないかにも事件を起こした後でよくもまあ海軍の介入無しに過ごせていたと思っていたところだった。そうでなくとも海賊王の周りは問題が絶えない。
    しかしことタイミングにおいては最悪の極みであった。何も今来なくても、と内心で舌打ちをしたい気持ちを抑える。
    男の顔がみるみると強ばった。
    「あー、大丈夫。補給かなんかだよ。他にも沢山患者いるから」
    な、と宥めて、シャチは笑うしか無かった。
    ちくしょう、恨むぞ海軍。今は猫の手も借りたいところなのだから。




    海賊達が緊張した面持ちで海を睨みつける中、沖合で停泊した海軍の船から一隻の子船が放たれた。
    人影は一人分。それから謎の動物が一匹。
    その影が誰であるか気付いた面々は口をあんぐり開けていた。
    「交戦の意思はない」
    そう言って両手を上げながら子船から降りてきたのはなんと海軍大目付、仏のセンゴクだった。
    あまりのビッグネームにチョッパーもナミも腰を抜かしそうになる。その二人を守るようにしてロビンやブルックが一歩前に出た。
    最悪なことに今は互いの船長がすぐに出てこられる場所にいない。麦わらの一味に至っては他に主戦力二名までもが向こう側にいる。
    残りの戦力として今ここにいる全員と仏のセンゴクでいい勝負だろう。仮に勝てたとしても消耗は免れない。
    「あら、あんなに大きな艦でやってきてそれは説得力がないんじゃないかしら」
    ロビンは腕を組み、なるべく付け入る隙を与えぬよう仁王立ちをしている。
    センゴクは目の前の悪魔の子を見つめ返して答える。
    「海賊王と四皇を同時に相手をするほど馬鹿ではない。だからこの老いぼれの首一つで済むよう一人で来た」
    正確には一人と一ゴリラだが。この動物は一体、という視線が集中する。
    ロビンは咳払いをし、センゴクを問い詰めた。
    「ではどうしてここに?その海賊王と四皇が一つの島に集まっているからここに来たのではないのかしら。ここがどんな場所か、あなた達はよく知っているでしょうしね」
    ロビンの嫌味な言葉に一切動じずにセンゴクは口を開く。
    「ここが世界政府の研究施設であることはよく知っている。どんなことをしていたかも、……ここに来るまでにおおむね予想がついている」
    「あら、知ってて見逃していたのでは?」
    センゴクは首を横に振った。
    少なくとも海軍の表で扱っていた案件ではないのだろう。
    「世界政府のやる事なす事、全て唯々諾々と従っているわけではない。我々はこの件を関知していなかった。そして賛同をするつもりもない」
    「口ではどうとでも言えると思うけど」
    二人の視線がかち合う。
    これ以上は互いに平行線になることはよく分かっていた。
    どう足掻いても海賊と海軍は相容れない。今この瞬間に戦艦の砲台が火を噴いていないことが奇跡なのだ。
    その指令を止めているであろう目の前の人物へとロビンは再度問いかける。
    「では改めて用件を聞こうかしら。この施設の人達の敵討ちってわけではなさそうだもの」
    企みを問われたのならば事の次第を説かねばならない。
    出て行けというのならば対立しなくてはならない。
    もし施設の破壊を咎められたのなら全力で抗わなくてはならない。
    彼らの後ろには非戦闘民が、そしてさらに後ろでは病魔に苦しむ人々がたくさんいる。
    たとえいくら罪状を上乗せされようとも一歩も引かない姿勢の海賊たちにセンゴクはため息をついて口を開いた。
    「麦わらのルフィと……それからトラファルガー・ローと話がしたい」
    途端に剣呑さが増す。
    たしかにこの状況での話し合いに船長の不在を突かれても可笑しくない。
    しかし自分達の長を名指しで出せと言われて、はいそうですかと素直には受け取ることもできなかった。
    相手はかつての仇敵であり、ここにいる面々にとっては直接的な面識はなくとも因縁浅からぬ相手だ。
    張りつめた空気の中、全員がセンゴクの次の言葉を待っている。
    「用件は、……珀鉛病に関してと言えば分かる」
    全員が息を呑んだ。
    「そう、よくご存知ね」
    てっきりこの島から逃げ出した施設職員によって海軍にこの場所の居所が知れたと思っていた。そして麦わらの一味に加え四皇の船まであればよからぬ企みをしていると思われ海軍としても動かざるを得ないと。
    海軍が自らその病気の名前を口にしたことに多少なりとも驚きがあったことも事実だ。
    かつて感染症と恐れられ、感染源駆除の名目で一つの国が滅んでいる。
    過去の海軍にも因縁深い話を切り出した大目付にどういうつもりだと目で訴えかける。
    「昨日、ある一隻の輸送船が難破しているところを発見された。既に乗組員はおらず、海軍がその船の調査に当たった」
    突然切り口の変わった内容に首を傾げる。
    センゴクは一度言葉を切ると、深呼吸をして言葉を続けた。

    「中からは肌がところどころ白く病変した死体が見つかった」

    「!」
    ロビンは思わず振り返りチョッパーを見る。
    「それって」
    「十数年現れていなかった珀鉛病患者の出どころを探るために近隣の島や海流の流れ、それから航路を辿ってこの島にたどり着いた。我々はお前達がいたからこの島に来たわけではない。むしろなぜこんなにもお前たちが渦中にばかり登場するのか驚いている」
    トラブルの星の元に生まれた船長がいるのだから仕方がないと思うロビンの横で、チョッパーは先ほどのローとの会話を思い起こしていた。
    合わない名簿と、連れていかれたという言葉。
    肌の白い死体。
    もう戻ってこないかのような口ぶりはこの結末を予期していたものだ。
    「そんな」
    「チョッパー……」
    逃げた職員の船には既に乗せられていた患者達がいた。職員達にすら見捨てられた彼らは船で孤独にもその生を終えてしまった。
    その事に気付いてあげられなかったという事実がチョッパーの胸を締め付ける。
    チョッパーの背を撫でながら、ロビンは言葉を続けた。
    「……だとしたらなおさら腑に落ちないわ。貴方は何故この島に上陸したの」
    世間での通説を言外に匂わせる。
    珀鉛病の発生源を辿ったのなら、彼らが取る道は対話ではなく十数年前のやり直しだ。
    それどころかあえて直接的接触してきた意図を問う。
    「ここをフレバンスの再来にしたくはない」
    ぎゅっと眉を寄せたセンゴクから出てきた言葉はそれだった。
    「まだその死体の発見情報は一部で止められている。幸いなことに事情を知っている将校が発見し、私に直接連絡してきたのだ」
    その場にいた誰もが顔を見合わせる。嫌な予感が背筋を駆け抜ける。然しもの彼らも気付く物言いだった。
    だってそれではまるで最初から珀鉛病は。
    誰もが訝し気な様にセンゴクはその答えを告げた。
    「知っている。珀鉛病は、……感染症ではない」
    ああ、と空を仰いだ。
    薄々感じていて違和感のピースが嵌っていく。
    ロビンは誰よりも世界政府のやり方を良く知っていた。
    「そう、……そんなことだろうとは思ったわ」
    ロビンの側で震える毛玉をそっと抱きしめた。






    静かになった研究室で独り言つ。
    「……だから天使の子、か」
    渋面を作って机に資料を投げる。
    表紙の演題に一言、『天使の子』と書かれた資料はこの施設でローが発見した計画書だ。
    物理法則に従って机の上に散乱したそれらは虫食いのように黒く塗りつぶされていて中身は分からない。意図的に外部の者が見ることが出来ないようにされている。
    気味の悪い名前だと、こんな場所で使うには相応しくない単語だと不審に思い端に追いやっていた資料だった。
    第一中身も読めない資料を気にするよりも目の前の患者の治療に専念する方がずっと良い。
    だが人工的に偽装された珀鉛病の患者の診察を進めていくうちにふと、もしやと思ったのだ。
    天使と言えば連想されるのは『白』だ。まさかそんな馬鹿なと脳裏に過ぎった妄想を否定する。
    この計画書が何を示していた物だったのか。見せかけだけの病気、名簿の不一致、連れ出されたと思しき患者達、ピースを当て嵌める度に馬鹿げた話の辻褄が合う。
    シャチが聞いたという患者の言葉が決定打となった。
    どの口が彼らに天使などと言えたものか。
    かつて悪鬼の如く駆除を声高に叫ばれた存在が、都合の良い時だけ天使だと綺麗な言葉で利用される。
    そこにいるのは病で弱った人間であるのだと誰もが抜けている。どちらだろうとただの道具で、ただの象徴で、紙一枚隔てた向こう側の登場人物としか思っていない。
    そんなふざけた事があってたまるものかと、何処にも吐き捨てられない思いがローの中で沈んでいく。
    外の騒ぎが収束し、いくらか時間が経った頃。
    電伝虫を抱えたチョッパーが恐る恐る研究室のドアを開けて入ってきた。後ろからはひょっこりと麦わら帽子も覗き込んでいる。
    「海軍か」
    海軍でよく使われる種類の電伝虫に視線をやり、ため息とともに呟く。
    そろそろやってくる頃合いだと思っていたのだ。
    「……ルフィとトラ男に話があるらしい」
    意気消沈しているチョッパーはそれでもこれが己がすべき事だと電伝虫を差し出す。
    ズカズカと入ってきた海賊王はドスンと床に座りローを見上げている。
    自分から主導して会話をするつもりが一切ないルフィに呆れながら、ローは保留になっていた受話器を取った。
    「こちら、ハートの海賊団船長、トラファルガー・ローだ」
    受話器の向こう側からは掠れたような雑音が聞こえる。
    深く息を吸う音とともに、ローにとっても関係の深い人物の声が聞こえてきた。
    『海軍本部、センゴクだ』
    ローは一度目を瞑ってから返事をする。
    「……随分なビッグネームだな。まさかあんたが来るとは」
    『いいや、これ以上の適任は居まい。予測できなかったわけではないだろう』
    攻撃もせず争いごともなく上陸してきたということは、珀鉛病の真実を知っている者がここに来たということだ。
    その権限を持っている者の中でこの場に適している人物の候補には当然かの大目付は入っていた。
    互いの心にいるただ一人のために繋がっていた縁が、まさか再びこんな場所で相まみえるとは。不思議なこともあるものだなと電伝虫を見つめる。
    『この施設の破壊はお前達が?』
    「いいや、主に麦わら屋たちだ。ここに居る奴らは尻尾を撒いて逃げたらしいぞ。なんだ、罪状に上乗せでもするか?」
    『いいや、ただの確認だ』
    冗談には乗ってこない堅物に肩を竦め、ローは話を続けた。
    「用件を聞こう。まさかこんな辺鄙な島にただ視察で来たんじゃないんだろう?」
    『視察で来ておったら今頃大砲の一つでも打ち込んでいる』
    「そりいい。物々しい雰囲気がこちらまで伝わってきゃたぞ。大方戦艦で来たんだろうが、もう少し隠密行動を心がけてほしいものだな」
    おかげで患者が怯えているという報告が上がってきている。正義の海軍が民間人に恐れられるというのは世も末だなと笑った。
    センゴクはローの皮肉を流し本題へと入る。
    『ここから航路を北に、一日進んだ場所で難破船を発見した。……中からは珀鉛病の患者と思しき死体が複数見つかった。航路からその船がこの島から出発したものだということは分かっている』
    そうか、と返事をする。
    先に聞いていただろうチョッパーは依然として俯いており、隣にいる海賊王の表情は分からなかった。
    『驚かないのか』
    「ここの患者の何人かが連れ出されていることと、この施設からの逃走経路は判明していたからな。むしろあんた達がここに来て想像が確信に変わった」
    四皇や海賊王が集まってきている事を察知して乗り込んでくるのならもっと早い段階で駆けつけていたはずだ。
    触らぬ神に祟りなしと無視を決め込んだ矢先にこんな事態に遭遇してしまったのだろう。
    「……その遺体はどうした」
    救えなかった命がせめて安らかでありますようにと祈る。
    『事情を知るものが埋葬をすることになっている』
    「……そうか。身元が確認できるよう名簿の写しは渡そう」
    彼らはフレバンスとはなんの所縁もない人々で、きっと眠るべき場所はそれぞれあるはずだった。
    『お前達が看病している患者達を診た。……ここは悍ましい場所だな』
    「悍ましいのはこんな場所を作り上げた奴らだろ」
    『その通りだ。私の立場から言えることではないが、……お前達に破壊されて良かったと思っている』
    海賊達に向けられた言葉は、かつてマリンフォードで勇ましく正義の指揮を執っていた仏のセンゴクからは想像もつかないものだ。
    麦わらの一味も、そしてハートの海賊団もセンゴクの一言一句を聞き漏らさぬよう次の言葉を待っていた。
    『我々はこの施設で何が起こっていたかの調査と、できれば民間人の保護をしたい。それが我々がここに来た理由だ』
    チョッパーの目線がローへと突き刺さる。
    正直なところ断る理由はなかった。いずれは自分達の手から離れることになる患者達が自力で自分達の家に帰れるなら良し。そうでなければ保護が必要だからだ。その役割を海軍が担うというのならば大方の問題は片付く。海軍への信用問題に関してはまた別の話だが、ローはセンゴクという男を信じてもいいと思っている。
    返事をしないロー達に焦るでもなく、センゴクは静かに溢した。
    『……お前も数奇な運命だな』
    ローは眉をぴくりと上げる。
    それがかつての災厄に再び相対することになったローへの言葉だとすぐに分かった。
    事情を知らないものが聞いても一見して何の話か分からない。
    『まさか今この時代に珀鉛病の患者が出てくるとは』
    痛ましい面持ちでそう続けるセンゴクに、そういえばとローは口を開いた。
    「ああ、センゴク。あんたは色々知っているから部下に指示していないと思うが、なんの感染対策も無しに患者に接触しているならそいつは自宅待機にしておいた方がいいぞ」
    『何?』
    センゴクによく似た電伝虫の顔が厳しい表情になる。
    『待て、どういうことだ』
    「遺体からでもウィルスに感染するケースはある。船なんて密室空間で作業に当たったのなら尚更な」
    『待て、トラファルガー。どういうことだ、珀鉛病はそんなこと』
    あるはずがないと、みなまで言おうとした言葉を切る。お前が一番よく知っているはずだろうと言外に言われ、ローは冷ややかに笑った。
    どうやら人造珀鉛病の件はまだ聞いてないらしい。
    「珀鉛がまともに手に入らないのに、本当に珀鉛病を再現できるはずがないだろ」
    ローはそう言って、これまでの経緯を語る。この施設が一体何をしていたのか、この人造珀鉛病の正体は何なのか、船で連れていかれた彼らがなぜ死んだのかを説明する。
    そして何故、ロー達がこの施設の奥で隔離生活を送っているのかも。
    『なぜ、そんなことを』
    呆然とした声が電伝虫から聞こえてきた。
    わざわざ別の病気の名前を偽って発症させるなんて理解できないという気持ちが伝わってくる。
    そうだろうとも。
    誰も理解できまい。
    あの国にいて、戦禍に巻き込まれ、そして迫害の対象となった当人だけが馬鹿げた考えを肯定できる。
    「何故?はは、面白いな。たしかに、理解できないよな」
    全員が聞いているというのに、ローの口ぶりは軽快だった。
    それが嫌に不気味で、皆心配そうにローの様子を伺う。
    「この研究所は病気の兵器転用を目的とした軍事施設だ。だから理由なんてそんなの、兵器転用のために決まっているだろ」
    『だが、珀鉛病は』
    「感染しないな」
    センゴクの言葉を奪って話を続ける。
    「実際には感染しない。本物の珀鉛病なら、患者がいない今脅威にすらならないはずだった。だって滅ぼされたんだからな。他の疾患のような直接的な戦力にはならないし、珀鉛をまともに入手出来ても患者に投与するにはコストに見合う成果は得られないだろうしな」
    医者らしくない発言だった。
    こんな風に病気を道具として扱うような発言は普段のローからは考えられない。
    まるで天から降ってきたようにすらすらと言葉が出てくる。
    「でも、一つだけ利用価値があるだろう」
    チョッパーとルフィがローを見上げた。
    電伝虫の目がローをじっと見つめる。向こう側で、見えない幾人もがローを見ている。
    全員がローの次の言葉を待っていた。
    ローは口元を釣り上げて応えた。

    「病気だから仕方ないって国を滅ぼした免罪符が」

    誰もが息を飲む。
    一つも反応が返ってこない空間でローは話し続けた。
    「だってそうだろう?珀鉛病は感染する。そう信じられてきて、感染源駆除の名目で世界はフレバンスの虐殺行為に目を瞑ったんだ。だから世界は二度目も受け入れざるを得ない。一度目だけ許容して二度目を拒否するなんて許されない」
    その冷たい声がまるでナイフのように心を切り付けている。
    「一人でも珀鉛病患者がその国に存在すれば大義名分が出来る。諸国に非難されることなくその地域を殲滅することが出来る。だからあえて本物の珀鉛病ではなく、違うウィルスを使ったんだ。感染力が強くて簡単に広がりやすいものをな。肌の色なんて後でどうとでもなる。……肝心なのは一番初めの発症者が『珀鉛病』の外見をしていること」
    なんでもないように話しているのに、ずっと身体が引き裂かれそうだった。
    「恐怖は病気よりもずっと早く広がるだろうよ。一人、最初に送り込めばいい。状況が進展したら、更にもう一人、もう一人、もう一人。分かりやすい『象徴』を送り込めばいい。かつて白い肌というだけで迫害してきた民衆がいたように、簡単に騙せる。そうやって珀鉛病に感染した国は完成するんだ」
    肝心なのはそれらしい事だ。
    誰も真実を研究しな。かつてそうした医者は無惨にも殺された。
    人々は恐怖するだろう。いつか自分達の国にまで感染が広がれば、駆除の対象とみなされかねないと。
    そうして感染が広がる前に大元の国を早々に消毒することを仕方ないと受け入れるのだ。
    仕方がないと、自分たちは悪くないのだと蓋をするのだ。
    「自分達にとって都合の悪い存在に、自分達の名前に泥を塗ることなく正義を振りかざせるんだ。こんな便利な病気はないだろ」
    思うままに力を振りかざす天竜人の時代は終わり、世界政府には建前と本音を使い分ける必要が出てきた。そんな中でこんなにも都合のいい兵器は他にないだろう。
    今自分がどんな顔をしているか、ローには分からなかった。
    「大した生物兵器だな」
    鼻で笑う声が電伝虫を介してセンゴクや他の面々にも伝わる。
    「ここから連れ出された人間たちは、『出荷』されようとしてたんだよ。運の悪いことに、麦わら屋がここを壊しちまったから無計画にも飛び出した。だから損な中途半端なことになったんだろ」
    言葉の端に思わず笑いが出る。心底軽蔑して嘲笑う。
    「奴ら、珀鉛病を本物の感染症にするつもりだったんだ」
    返す言葉は無かった。
    時が止まったように身動ぎの音すら聞こえてこない。
    ローの荒い息遣いが静寂の中で響いていた。
    「……トラ男、そこまで分かってて」
    意を決して口を開いたチョッパーは、ローの顔を見て言葉を止めた。
    ローの酷く悲しげな、それとも怒りか、憎悪か、未だかつて見たことのない表情に言葉が出てこない。
    『……トラファルガー・ロー。それならお前はどうするつもりだ』
    センゴクは感情を抑えたような声で問いかける。
    「どう、どは」
    先程とは打って変わって無機質な声音のローは緩慢な動作で電伝虫を見た。
    『その話が本当であれば、それは今後世界にとってとてつもない脅威になるに違いない。このままでは珀鉛病は再び悪用されてしまう。それも真実とは違った最悪の形で』
    電伝虫の向こう側でセンゴクは硬い表情のまま続ける。
    『この施設を潰して、患者達を治して、外に連れ出された患者達も残念な結果となった今、喫緊の問題はなくなったのかもしれない。だがいずれは同じことを考え出す輩が出てくるはずだ。もしくは、既にここだけの話ではないのかもしれない』
    その可能性に行き着き、周りで聞いていた面々は顔色を変える。
    それに、万が一遺体となって発見された人々よりも前に既に『出荷』されていたとしたら手遅れだ。
    再現性なら他の場所でも十分実現出来る。
    あとは実験と、その検証のみ。
    それを食い止められるのはここにいる面々にしか出来ない事だった。
    「不思議なことを言う」
    だというのに、ローの答えは皆が期待していたものではなかった。
    「完全な珀鉛病なんてもうどこにもないのに。いつまでも利用するためだけの亡霊として名前を付けておいて、俺に、どうするかだと」
    張り詰めて張り詰めて、揺れないようにしていた心が溢れ出す。
    傍で見ていた者には、彼の中でゆっくりと何かが崩れていくように見えていた。
    「皆俺に何を期待している。珀鉛病の根治か?それとも真実の流布か?そんなもの、もう何もかも遅いと言うのに。そんなもの、あの時叶っていればすべて……」
    「トラ男?」
    その場にいた人間は違和感に気付いた。
    他人事のように語っていた口調がすべて彼自身のことのように。
    その怒りも、恨みも、悲しみも、まるで彼が本当に経験したかのような。
    「全部握りつぶしたのはお前達だろう」
    誰にも吐き出さなかった怨讐が彼の中からどろりと伝った。
    「静かに眠っていた者たちを呼び起こして騒ぎ立てた奴らのためにまたフレバンスを汚せと。真実を証明してもあの炎はもう消えやしないのに」
    どうしてと拳を握りしめる。
    ローにだって最善は分かっている。かつての悲劇を繰り返さないためには珀鉛病の真実を公表することが一番だと頭では分かっている。
    ただどうしても、もう取り返しのつかない祖国の同胞たちの無念が、ロー自身の無念が己の視界を妨げるのだ。
    「いまさら、すべて」
    「トラ男」
    机に打付ける手を掴まれる。
    酷く熱い自身の腕と、ひんやりとした彼の体温が境界線を作る。
    ローの腕を掴みあげたルフィは、電伝虫から彼を引き剥がした。
    「なにを」
    「お前、顔が真っ赤だぞ」
    ぺたりと額に手を置かれ、その冷たさに思わず目を瞑る。
    冷たいのは彼の手では無い。ローの身体が熱いのだ。
    「船長!」
    慌てて背後に控えていたシャチが駆け寄る。
    毒気が抜かれて、途端に身体にも力が入らなくなった。
    自覚をした途端、体調不良が身体を襲う。
    最悪だ、とローはぼんやりとするなら舌打ちをした。
    感染対策はしていた。しかし今のローは普段の状態より免疫力や体力が落ちているのだ。
    「じーさん!悪いけど、トラ男風邪引いちまったみたいだから切るな!」
    『は?おい、ちょっと待たんか、麦わ』
    ぶつんと通話を切る。
    トラ男早く寝ろよ〜、とルフィは笑う。
    あまりにも呆気ない幕引きに、皆唖然と海賊王を見るしか無かった。
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