无限を食べたい小黑の話 つきり、と指先に走った痛みに、无限は密やかに眉根を寄せた。ここ数日で、慣れてしまった痛みだった。
適当に入った店で空腹を満たし、満足げに息を吐く久方ぶりの弟子の頬についた包子の欠片をとってやった後だ。視線の先では小黑が无限の手を取り、その指先を小さな口に含んでいる。まるで菓子でも食べているかのようにもぐもぐと一心に口を動かしている様はとても愛らしいのだが、如何せん口に含んでいるのが无限の指だ。甘噛みのようなもので傷はついていないのだが、歯が食い込む度にじわじわと鈍い痛みがある。
小黑のこの行動は、最近の无限の悩みの種だった。一番最初は確か、滞在先のホテルでだったように記憶している。シャワーを浴びて埃を落とし、さぁ寝ようかとベッドで横になっている无限の耳を小黑が齧ったのだ。その時の小黑が子猫の形をしていたものだから、まぁそんなこともあるだろうと流してそのまま寝てしまったのは、今思い返すと我ながら大雑把が過ぎたと反省している。何せ翌日、人の形をした小黑に腕を齧られてしまったのだから。
血が出るほど噛みはしない。痕もほとんど残らない。タイミングも規則性はなく、ホテルでくつろいでいる時もあれば、歩いている時もある。噛む場所も様々だ。どうしたものかとしばらく静観していたが、小黑の師として流石にこれ以上放っておくわけにもいかなかった。確認しておかなければならないことがある。
「小黑」
「なに?」
无限の指を放して首を傾げた小黑の顔を覗き込んだ。
「人を食べたいと思うか?」
「やだよマズそうだもん」
間髪入れずに返ってきた答えにまずはほっと胸を撫で下ろす。
妖精には人を喰らうものがいる。人間を喰らうことでしか命をつなげないものも、ただ楽しみのために喰らうものも、人間を喰らうことで力を得ようとするものもいる。小黑がそのどれでもないことは、无限にとっては幸いだった。
「では、なぜ私を噛むのだ?」
「え、と……」
なにやら言いにくそうに口を尖らせた小黑のまろい頬にじわりと朱が登る。話題の内容と小黑の表情のそぐわなさに、无限は数度瞬いた。
口を開いては閉じ、また開いては閉じを繰り返す小黑をじっと待っていると、何度目かちらりと无限を見上げた小黑が観念したように大きく息を吸い込んだ。勢いをつけたのだろう、そこそこの声量をもってまろび出た言葉は、意外なものだった。
「師父が、好きだから……っ!」
昼時の飯屋だ。店内に人は多く、小黑の言葉が聞こえたらしいご婦人やご尊老からの微笑ましげな視線を感じながら、无限はひとつ頷いた。
「私も小黑が好きだよ」
「う、あの、それでね」
「うん」
「師父といて、嬉しかったり、楽しかったりしたときに、なんか、お腹の辺りがそわそわして」
もっちりとした小さな手が、先程食べた麺や包子がみっちり詰まって膨らんだ腹をそっと撫でた。
「師父を食べちゃいたくなる」
「なるほど」
どうやらあれは小黑にとって最上級の愛情表現だったらしい。
会計を済ませ、小黑を伴って店を出る。人通りの多い道でも上手に歩けるようになった小黑と並んで歩きながら、无限は少し考えた。
小黑の噛み癖の理由はわかった。想像もしていなかった理由だったが、納得はした。ならばあとは自分がどうするかだ。
「小黑」
食べたばっかりだというのにガラス張りの向こうの軽食に気を取られていた小黑を呼ばわる。光を吸い込んで輝く目が无限を見上げた。
躊躇はほんの一瞬だった。
「私を、食べるか?」
「いいの⁉︎」
ぱっと破顔した小黑の髪が、陽光に透けてきらきらと煌めく。ぴんと力強くたった耳があまりに嬉しそうで、无限も思わず破顔した。
「ホテルに帰ったらな」
「やった!」
ぴょんと跳ねて軽やかな足取りで早く早くと前を行く小黑に、しっぽが出てるぞと声をかけた。
❇︎❇︎❇︎
「さて」
ベッドの上で胡座をかいた无限がひとつ頷けば、全身からわくわくをほとばしらせた小黑のしっぽがピンと立つ。緑の目もいつもより光っているような気がするし、瞳孔は開ききっている。喜びをこれでもかと全身で表現する小黑に、思わず笑みが溢れた。
「そんなに嬉しいか?」
「当たり前じゃん!」
そわそわと動く体にも気づいていない様子の小黑の頭を撫でる。そうして、ホテルまでの道中で考えていた通り、左手を小黒へと差し出した。
足は動けなくなるから不可。利き手である右手はもちろん却下だ。左手も、親指と人差し指はものの操作がし難くなるから避けたい。小指はないと力がうまく入れられない。となると、選択肢は自ずと限られてくる。
「この指なら食べていいよ」
ちゃんと手は洗ってあるし、念の為にタオルも多めに用意してある。消毒液も包帯も血止めの薬も増血剤も霊域にあったはずだ。
大切なものを捧げ持つようにそっと无限の手を掴んだ小黑が、ちらりと見上げてくるのに頷いてやる。嬉しそうに蕩けた瞳が撓み、頬が朱に染まっている様はとても愛らしい。今から食べようとしているのが无限の指でなければ、どこにでもいる子供の姿だ。
そっと无限の指を口内に迎え入れた小黑は、味わうようにちろりと指先を舐めた。ざらりとした薄い舌が指先を撫で、指の腹を押す。一度口から指を抜いた小黑が、唾液で光る指をうっとりと眺める。実に楽しそうだ。
あ、と大きく開けた口からちらりと覗いた真珠のような小さな歯が、やんわりと指に食い込んできたところで、无限は大事なことを言い忘れていたことに気づいた。
「小黑」
「ふぁひ?」
あぐあぐと強目の甘噛みを繰り返す小黑が首を傾げる。お楽しみのところを邪魔して悪いとは思うが、これだけは言っておかなければ。
「私の他にどれだけ好きな人ができても、食べたらいけない」
「ふん?」
「人間は基本的に一度失った体は戻らないから、」
愛情表現とはいえ傷つけてはいけない、と続けることはできなかった。
「ぷぁっ」
珍妙な声と共と共に、指に加わっていた圧と痛みが消える。落っこちないか心配になるほどに目を丸くした小黑が、ゆっくりと无限の指を口から出した。わずかに赤が混じった唾液が口端から一筋垂れる。先程までのうきうきした空気は一転、无限を見上げる瞳には恐怖が滲み出ていた。
「小黑?」
「ば、」
ついさっきまでご機嫌にゆらゆらと揺れていたしっぽが、ぼっと膨らむ。
「ばっかじゃないの⁉︎」
全力で罵られた。
「戻んないの⁉︎」
「戻らない……待て、小黑、もしかして」
この小黑の反応は、もしかして、もしかするのだろうか。
无限はどうやら己がやらかしてしまったらしいことを悟った。小黑は妖精で、无限は一応人間だ。姿形がいくら似通っていても、その成り立ちも性質も全く違う。お互いの認識にずれがあることは当然のはずなのに、失認していたのは明らかに无限の失態だ。
果たして、小黑は目に涙を溜めながら力一杯叫んだ。
「戻るんだと思ってた!」
残念だが、いくら人よりは妖精に近いとはいえ、さすがに无限も失った指は生やせない。
「ばか! ばか!」
べしっべしっと小黑のしっぽがシーツを強く打つ。相当ご立腹の弟子に、无限は静かに慌てた。
「僕が指食べちゃったら師父がちょっとなくなっちゃうじゃんか!」
「小黑……」
「なにあっさり指差し出してんの!」
「いや、だからなくなってもあまり支障がなさそうなところを選んでだな、」
「どおりで食べにくいところ出してくると思った‼︎」
食べにくかったらしい。
「なくなるのはだめ‼︎」
まさしく毛を逆立てた猫のような小黑にしこたま怒られて、无限はそっと頭を垂れた。どうやら自分は、小黑から最上級の愛情表現をもらえたことに浮かれていたようだ。思考が短絡的になっていたと、今ならわかる。
「すまなかった」
「反省して!」
「した」
「僕も噛んでごめんなさい!」
がばっと頭を下げた小黑が、无限の手をそっと取る。
「うぅ、血が出てるし痕ついちゃった……」
「これくらいならすぐに治る。そもそも私の所為なんだから、気にしなくていい」
耳を下げ、しょぼくれた小黑のふわふわの頭を何度も撫でる。今回は失敗してしまったが、愛情を伝える手段はたくさんある。数多ある中で、自分と相手にしっくりくるものが見つかればそれが一番いいのだ。
やがてしゅるりと形を変えて子猫の姿になった小黑が懐へと潜り込んできたのをそっと抱きしめる。ことことと胸元で鼓動を刻むあたたかな体がもぞりと動いて、无限を見上げた。
「師父……食べさせてくれてありがと」
「うん」
頬を寄せる。日向の匂いのする愛おしい子猫は、もう絶対やらないでね!としっぽで无限の指先をべしっと叩いた。