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1180年、角弓の節────
「……もうそんな季節になるのか」
不意に鼻に届いた甘い香りに、ジェラルトは足を止める。大修道院にある木々に紛れている小さなオレンジ色の花をたくさんつけるそれを見つけると、最愛の人を嫌でも思い出してしまう。この香りに満たされる頃、彼女はいなくなってしまったが─────
「ジェラルト…? 何をしているんだ?」
背後から名を呼ばれ、振り返るまでもなく誰だかわかる。自分の最愛の人───妻であるシトリーが、自身の命と引き換えに産んだ息子であるベレトだった。彼女の命日が、ベレトの誕生日である。しかしジェラルトは、それを息子であるベレトには教えていない。それはそうだろう、ベレトには出生の事をこの二十年間隠してきたのだから。
ガルグ=マク大修道院のセイロス騎士団の団長として華々しい活躍をしていた頃、幼い子供だったシトリーと出会った。幼い頃から病弱な彼女は、大修道院の外へ出たことが無かった。だから暇さえあれば彼女の元へ赴き、たくさんの話をした。それを数年も続けていけば少女は女性へと変貌を遂げていた。
それに気づいたのは、シトリーから告白をされるまでだったが────
「……おう、ベレトか。なんだ、授業終わりか」
「ああ」
「お前ももう教師が板についてきたな。人生何が起こるかわからねぇな」
今年でベレトは二十一歳になる。しかし彼には、本当の歳を教えていない。しかし何の因果か、赤子のベレトを連れて大修道院を抜け出して来たのにまたこうして戻って来てしまった。命の恩人である大司教のレアは、シトリーが無事に子供を出産できる確率は低いと言った。そしてそれは、現実になってしまった。
『命を賭して、シトリーはこの赤子を産みました。彼女は立派な母です』
今も忘れられない、レアからの言葉。生まれたばかりのベレトは、赤子だとは思えないくらいに、無だった。泣きも笑いもしない。極めつけは心臓の鼓動を感じられないことだった。命の恩人に対する信頼は疑いに代わり、最愛の人の形見と共に大修道院から逃げた。セイロス騎士団が追ってくると思っていたがそれもなく、あっという間に赤子は大人になった。しかし幸せという日常は音も無く崩れ落ちる。
目の前にいるベレトは教本を抱えながら、なんだか疲れた様な顔をしている。傭兵として人とは関わりのない生き方をしていたのに、今は教師として貴族の子供相手に教鞭を執っているのだ。疲れていない方が可笑しいだろう。そして息子を見ていると、本当に自分に似なくて良かったと苦笑してしまう。
母親譲りの柔らかい髪は、暗緑色で瞳の色もそっくり受け継いでいる。忘れ形見とはまさにこの事を言うなと思えるほど、ベレトはジェラルトに似ずにシトリー譲りの綺麗な顔をしていた。男なのにやけに顔が綺麗な為か、幼い頃から男女問わずに色欲の目を向けられていたのだ。そういう輩は全てジェラルトが排除してきたが。
「…この花、いい香りだ」
「ああ、金木犀だな」
「初めて見る」
親子の会話としては口数が少ないがいつもの事だ。ベレトは目の前の木から香る匂いに目を細めている。それを見つめて、また亡き妻が重なる。生前、シトリーもこの金木犀の花が咲く度にこうやって香りを楽しみ、笑っていた。彼女もベレトと同様に感情の起伏が薄かったが、好きな花を見つめるときの視線は違かったものだ。懐かしい───そう思っている時だった。
「先生! ここにいたか」
「ディミトリ? どうかしたか?」
ベレトを呼ぶ声に振り向くとロイヤルブルーの外套を揺らす金糸に目を瞬かせる。本当に王子様はこんなにかっこいいやつなのかとジェラルトが苦笑したくなる人物は、ベレトが受け持つ学級の級長だった。ディミトリ=アレクサンドル=ブレーダッド───フォドラは北のファーガス神聖王国の王子である。
かつての自分の故郷とはいえ、もう何百年も前の話だがと記憶をかき消すと、ベレトは「じゃあ、また」と言って去って行った。どうやら急ぎの呼び出しでもあるみたいだ。ベレトがいなくなり、ディミトリと二人っきりになってしまったが彼はその場から動こうとしない。仕方がないからジェラルトが立ち去ろうとした時だった。
「ジェラルト殿も、花が好きなのですか?」
唐突にディミトリに声を掛けられ、思わず驚く。しかし目の前の王太子殿下は特に顔色をうかがうと彼は茶化すとかそういう様子ではなく、気になったから聞いたという感じだ。ジェラルトはディミトリに「そうだな」と前置きをする。
「俺よりも、死んだ妻がな」
「…それは……、失礼しました」
「良いんだよ。もう二十年以上も前の話だ」
王族という割には、この王子はどこかそれとは違う。自分が偉い立場の人間なのにそれを主張せず、ただ民衆の為に生きているような人間だ。これは将来苦労するなとジェラルトは思うと、ディミトリは金木犀の木を見つめながら「この花は、金木犀ですか?」と問い掛けるのに彼は頷いた。
「この花が咲く頃になると、どうしてもアイツを思い出しちまうんだよ」
「…そうなのですね」
「この香りを、もうすぐ生まれるベレトにもって言っていたからな」
「え……?」
つい、余計な事を話してしまった。ディミトリの言葉に、ジェラルトはしまったと思うが時既に遅し。ベレトには生まれた日が、女神と同じ日だと嘘をついていたのだ。だから今節───角弓の節ではない。
「先生は…、本当は今節が誕生日なのですか?」
「………それはお前には言えねぇよ。人は誰しも、墓場まで持っていかなきゃならねぇ秘密があるんだからな」
真っ直ぐに此方を見つめる空色の瞳に逃げる様にそう言えば、賢い息子の教え子はそれ以上は踏み込んで来ない。大修道院に来てしまったが運の月とはまさにこの事だろう。次期にベレトにもばれてしまうかもしれない。らしくもなく溜め息をつくと、まだ背後にはディミトリがいた。未だに此方を射抜く様な視線に、ジェラルトは「(まさかな…)」と心がざわめき立つのを見ぬふりをする。
「ジェラルト殿。先程の話は聞かなかった事にしておきます」
「そうしてくれると助かるね」
どこまでも肝の据わった物言いをする王子に、年甲斐もなく口が荒れそうになる。平常心と念仏のように唱えながら金糸の王子を見やると、彼は口元に笑みを携えていた。ベレトの個人的な話が聞けたから嬉しいのだろうか?───そう思いながらも、この級長は先程のやり取り同様、ベレトをやけに気に入ってる風だった。
「そういや、ベレトはどうだ? 初めて会った時から無表情でおっかなかっただろう?」
「え…、そうですね。確かに、先生は表情がわかりにくいですから」
好奇心が頭を擡げる。何の気無しに目の前の級長に問い掛けてみれば、彼は驚きながらも様々な事を教えてくれた。最近は笑顔を見せてくれるようになったとか、実は大食いなのには驚いた、剣術だけではなく他の武器も使いこなせるし、最近は信仰や理学も取得していてとにかくすごいのだとべた褒めである。自分の息子の事ながらこんなに褒めてくれるとは思わなかったが、それを雄弁に語る彼の眼差しにもまた遠い日の記憶が重なる。
「そうか。なんとかなってるなら、まぁ安心だな」
「ジェラルト殿は、最近は騎士団でお忙しいと伺っております。来節の鷲獅子戦にも参加出来無いのだとか…」
「まぁな。折角のグロンダーズでの模擬戦だから見ておきたかったんだがな。やたら仕事を押し付けられるから、たまったもんじゃねぇ」
おっと、今のも秘密な───そうディミトリに言い聞かせれば彼は苦笑しながらも頷いた。そしてそろそろ戻らないといけない刻限になっているのではないかと漸く気づく。金糸の王子を見ると確かに自分が若かった頃の国王の面影がいくつか見えるかもしれないと気づく。
「まぁ、ベレトが無茶してたら教えてくれ。アイツも顔色変えねぇで平気で仕事してるからな」
「…承知しました。私からも、よく見ておきます」
「ふ、頼もしいねぇ」
亡き妻も身体が弱い癖に、顔には出さないから外に連れ出して熱を出すなんてしょっちゅうだった────懐かしい思い出に口元に笑みが溢れてしまう。目の前の王子は「良ければ私とも手合わせをお願いします」と言って去って行った。
自分とは違い、きらきらと輝いて見える彼からは血の匂いを感じる。先程の「人には秘密がある」と言っておきながら、彼もそうなのだろう。しかし芯の通った人間なのは間違いがない。あれが未来の王と聞くと、彼は優し過ぎるなとジェラルトは苦笑した。
✽✽✽
1187年、角弓の節─────
「先生、今日は一段とはりきっていらっしゃいますわね」
大司教の執務室────大きな執務机にたくさんの書類や書簡を広げながらベレトは声のした方に視線を向ける。そこには、大司教補佐たるセテスの愛娘のフレンがいた。彼女は「お茶の準備が出来てますわ」とベレトに休憩をしないかと声を掛けてくれたのだ。ベレトは今の今まで集中し過ぎたと視線を上げると、太陽の光が眩しい。
「すまない。朝からずっとここに座りっぱなしだったから、気づかなかった」
「構いませんわ。今日は国王陛下もいらっしゃいますし、早目にお仕事も終わらせなくてはなりませんもんね」
来客用のテーブルにフレンと一緒に茶器や菓子を並べながらベレトが謝ると、彼女は穏やかな笑みを携えながら首を振る。今日は昼過ぎに国王陛下であり、ベレトの教え子であるディミトリが大修道院に来る日だ。その為、ベレトは必死になって詰まれた書類を捌いている。その理由は、来るディミトリと二人っきりの時間を確保する為だからだ。
「今回はゆっくり過ごせると良いですわね」
「それは、まぁそうなのだが…。ディミトリも忙しい身だし……」
「まっ! それを言うなら先生もですわよ。来節からはまた大修道院を離れたお務めも有りますし、お二人の会える時間が少なくなってしまうのではないかと私とっても心配しておりますのよ?」
フレンの押しの強さに、彼女は時々ベレトの姉の様な錯覚をする。ベレトは苦笑しながらも彼女に礼を言い、確かに来節からはもっと忙しくなるかもしれないと考えている時だった。
「ベレト。国王陛下が到着したそうだ」
「ふふっ。予定よりお早いご到着で、良かったですわね」
大司教補佐であるセテスが部屋に入って来るなりそう告げるのに、ベレトも頬を緩める。フレンの言葉に頷くと椅子から立ち上がった。
✽✽✽
毎回、再会する度に別れの時と同じ様に胸が苦しいと思う───そう思いながらベレトは早る気持ちを抑えきれずに、想い人の元へと足を急がせる。こうしてディミトリと手紙ではなく顔を合わせるのは何節ぶりだろうか。確か春頃だった様な気がする。そう思いながら正門へと足を向けた時だった。
「先生…! わざわざ出迎えに来てくれたのか?」
「っ、ディミトリ…」
王国が誇る青獅子の騎士団を引き連れた先頭にディミトリはいた。政務用の装束を身に纏い、長い金糸を結い上げた姿はとても凛々しい。ベレトより先にディミトリに見つかってしまい、何だか出鼻を挫かれたと苦笑していると力強い腕が身体に巻き付く。
「はぁ…。会いたかったよ、せんせい…」
「ぅ……、ディミトリ……」
ベレトの身体を力いっぱい抱き締めるディミトリに、顔が熱くなる。熱烈な抱擁に嬉しい気持ちが綯交ぜになりながらも、そっと離れると見つめ合う。甘い空気に晒され、ベレトの唇に視線がいく。大司教として身なりには十分気をつけているのだろう。薄く施された化粧のせいか、いつもより艷やかな唇にディミトリが花の蜜に誘われるか如く、自然な流れで彼の唇に自分の唇を重ね合わせようとした────
「待て待て…。流石に…、ここでは駄目だ」
ぺちりと顔にベレトの手のひらがぶつかる。正門にはディミトリの引き連れた騎士団や商人や巡礼者など多くの人々でごった返していた。中には二人のやり取りを見ていた者もいるのか、振り返った瞬間に数人が勢い良く目を逸らしている。流石にディミトリも顔を真っ赤にさせながら「す、すまない…先生」と謝ってくる。ベレトはディミトリの金糸を撫でながら「二人っきりになれるまで我慢な」と言うのを甘んじて受け入れる。
「さっ、早速で悪いのだが、どこか部屋を借りられないか? 旧帝国領の諸侯から、援助物資の件で早急に片をつけなくてはならなくて」
「大丈夫だよ。すぐに用意をさせるから」
ディミトリと連れ立って正門をくぐり、大司教の執務室まで歩く。ベレトは大司教補佐のセテスと言葉を交わすと、すぐに空いている会議室を用意してもらえた。ディミトリは今からその会合に行くので、一先ず別れることになった。
ベレトは残った仕事を片付けながら、ディミトリが戻って来る時間を過ごした。しかし会合が終わったくらいではすぐにディミトリと二人っきりになれる訳ではないが───待つのもなんだか心苦しいなと思いながら大司教の執務室を離れてふらふら歩いていると 、ふと部屋の一室の扉が開いた。どこか諸侯の者だろうか。恰幅のいい男性とその娘の様な親子に、ベレトは思わず視線が合ってしまった。
「おお、猊下! 此方にいらっしゃったのですか」
「…ご機嫌よう。申し訳ありませんが、貴方は?」
「これはこれは、失礼致しました。私は旧帝国領の───という者です。今回は陛下に救援物資の件でお目通りしたのです」
その帝国貴族の名に覚えがあるベレトは「そうでしたか。ご苦労様です」と大司教補佐の訓練の賜物である笑顔で男に応える。しかし何故こんな男がわざわざ国王であるディミトリと話をしていたんだと不思議に思うも、それはすぐにわかる。
「終戦から間もなく半年が経とうとしていますが、陛下には色っぽいお話が全くありませんね」
「え?」
「ですから、王妃のお話ですよ! 猊下も陛下の元担任なら、さぞご心配でしょう?」
思ってもいなかった言葉にベレトは目を見開く。そして男は一歩後ろにいる娘を振り返りながら「うちの娘をどうですかと思って、一緒に連れて来たのですが…上手くかわされてしまいましてねぇ」と話すのにベレトは上手く応えられなかった。男はどうやら自分の娘をディミトリの伴侶にと紹介をしてきたのだろう。ちらりと見やれば、栗色の髪が素敵で恥ずかしそうに微笑む優しげな雰囲気の女性だ。しかしディミトリが何故、后を娶らないのか知るベレトは何も言い返せない。
「そうだ! 猊下からも陛下に言い聞かせて下さいませんか? 世継ぎが出来れば国も安泰だし、何より猊下も嬉しいでしょう。ですから───」
「申し訳ありませんが、その話はなかった事にして下さい」
自分でも驚く程に冷たい声が出ていた。ベレトは男に頭を下げながら「貴方の陛下を思う気持ちは、とても有り難いです」と前置きをしながら、冷静になれと自分に言い聞かせながら言葉を紡ぐ。
「陛下は好いた者と添い遂げたいと…、戦時中から申しておりました。彼の意見を尊重してあげるべきだと、私は考えています」
「…猊下。それは貴方の妄言だ」
「………え……?」
男の言葉に、ベレトは頭を殴られた様な衝動が走る。男はベレトを見つめながら「貴方と陛下が“そういう関係”だからでしょう?」と言うのに、言葉が詰まる。反論が出来なかった。しかしここで言い返さないと、何も変わらない───ベレトが意を決して、口を開こうとした時だった。
「よくご存知でいらっしゃいますね。まぁ、本当の事ですが」
「へ、陛下…!?」
「私には、過去も未来もこの人しか考えられません。それに貴方のお嬢様はまだ若い。こんな男には、勿体無いですよ」
✽✽✽
「……っ、せんせい…。いい加減、機嫌を直してくれ」
夕刻の大聖堂には、ディミトリとベレトしかいない。ベレトはふらふらとした足取りで大聖堂を出ると、橋の方に歩いて行ってしまう。ディミトリはその背中を追いかけると、彼は欄干に手を付きながら橋の下を眺めていた。
「俺が悪かった。軽率だったよ、まさか会合で縁談相手を連れてくるなんて思わなかったから…」
「……………。」
「だが、ちゃんと断ったんだ。自分には、既に証を交換した伴侶となるべき方がちゃんといます、と」
ディミトリの言葉に、ベレトは己の首筋から落ちる銀の鎖を手に取る。そこにはディミトリから贈られた婚約指輪があった。終戦後、ディミトリから「俺の伴侶になって欲しいんだ…先生…」という言葉と共に、ディミトリから贈られた指輪は、ベレトの為に誂えられた一点物で左の薬指にはまったのだ。それを今、薬指にはめる事が叶わないのは、成すべき事が果たせてない為であって────
「やはり法改正を急がせねばならないな。いや、それなど待たずに婚約の発表を───」
「…俺ではやはり、ディミトリに不釣り合いなんだよ」
「………は……?」
ひゅぅっ…激しい風が舞い上がり、ディミトリの髪が忙しなく揺れる。それを煩わしく思う暇すらなく、ベレトの言葉を反復する。ディミトリが振り返ったベレトを見つめると、彼は涙を流していた。ベレトの泣き顔など数える程しか見た事がなかったディミトリは、慌ててその手を伸ばすも逃げられる。
「国の繁栄の為にも、やはり世継ぎは必要だよ。俺は男だから、子供など産めないし…」
「せんせい…! それは関係ないとあれ程…!!」
「良いんだ。俺が、男だから悪かったんだ。ディミトリを好きになっただけでも迷惑なのに、お前の伴侶だなんて図々しいにも程が───」
「ベレト。それ以上…、言いたいことはあるか?」
怒気を孕んだディミトリの声に、ベレトの身体がびくつく。本気でディミトリが怒っている事がわかるその声音に、一瞬は怯えるがベレトの怒りもおさまらない。こみ上げて来る負の感情に耐え切れずに、首元に掛けてあった銀のチェーンを取ると勢い良く橋桁に向かって投げ飛ばす。一瞬の出来事に、ディミトリは声すら出なかった。
「…俺ではない人と、フォドラの為に未来を掴んでくれ」
ベレトはそう声を振り絞ると、ディミトリの横をすり抜ける。自分のした行動に、理性がなくなるとこんな事をするのだなとどこか他人事のように考えていた。
✽✽✽
「あら? 先生、ディミトリさんは?」
「知らないが」
夕餉の用意が出来たとベレトを呼ぶフレンに、視線を書簡から移さずにそう応えれば「ま。先生のところにもいないのですの?」という声が返ってくる。ベレトは書き連ねた文字を目で追いながら「ドゥドゥーと一緒にいるだろう」と言えば、「いえ。師匠も知らないと仰ってましたから、先生の所だと思いまして」と返され、やっと手が止まる。
「俺の所には来ていないが…」
「そうなのですの? うーん…御夕餉の時間なのに、困りましたわね」
フレンの言葉に、ベレトは先程の出来事を思い出して顔を顰める。数時間前にディミトリと言い争う様に────いや、あれはベレトの一方的な八つ当たりだろう。時間が経ってから漸く冷静になってきたが、ディミトリに酷い物言いをしてしまったとベレトは気づく。しかしどこにもいないとは何故なのだろうか。
「先生。私はディミトリさんを探してきますから、御夕餉に行って来てくださいまし」
「え? あ…、あぁ…」
フレンは大司教の執務室から出て行く背中を見送り、ベレトは息を吐く。夕刻を過ぎ、あたりも暗くなってしまっている。こんな時間に何処へ行ってしまったのか。ベレトは椅子から立ち上がり、暗くなった外を窓から見やりながらぼんやり考える。そっと窓を開け放つと、残暑が通り過ぎた涼しい風がベレトの頬を撫でる。
「……もう夏も終わった、か」
終戦から一年が経った。ベレトが大司教になって、そろそろ一年が経つ。この一年で何が出来たのだろうかと考える度に、決まってディミトリの顔が過ぎる。戦後も変わらずにずっと隣を歩いてきたせいか、こうして彼と仲違いをすると、 漸く自分が仕出かした事を冷静に理解して来て───
「先生…! 本当に陛下の居場所を知らないのか…!?」
「ドゥドゥー…?」
「お前と最後に話をしているのを見たのが最後なんだ…。それから何処へ行くとも告げずに行方がわからなくて……」
執務室に現れたドゥドゥーの言葉で、ベレトは「(まさか)」と顔色を変える。首筋に感じるそれに触れながら「すまない、ちゃんと俺が見つけてくるから」と言い残し、背後の声を無視して部屋を飛び出した。
✽✽✽
角弓の節に入ってもう半ばを過ぎ、夏の暑さは幾分やわらいできた。それは夜になると顕著で、しかも標高があるガルグ=マクとなれば尚更だ。ベレトは厩舎にいる自分の飛竜を撫でると「すまないな。近場なんだが、手を貸してくれないか?」と行って連れ出す。普段はツィリルが世話をしてくれる愛竜はベレトの姿を見るなり喜んで応えてくれた。
「(まさかとは思うが……、万が一があるから)」
飛竜に跨り、ガルグ=マクの麓に流れる川辺りへと向かう。ベレトが思い付くディミトリの居場所がそこであったからだ。暗がりで目を凝らしながら、ベレトは川を下る。もしかしたらあの橋の真下かもしれないと飛竜に指示を出すと、直ぐに探し人は見つかった。ベレトは川沿いに飛竜を着地させると、一目散に駆け出す。
「ディミトリ! そんな所にいたら風邪を引くぞ! 今すぐこっちに来なさい!!」
水の流れる川に立つ人物にベレトは必死に呼び掛ける。長い外套が川岸に投げ捨てられるのを横目に、いくら呼び掛けても反応を示さない人物────ディミトリに、ベレトは構わずに川に足を踏み入れる。膝下程度の深さだが、数日前の雨のせいで水量がいくらか増していた。ベレトは腰を折り、川の底を探るディミトリの手を引き寄せる。
「こんな夜に危ないだろう。それに本当に風邪を引いてしまう」
「っ……、先生がいけないのだろう。いくら俺が意気地無しでも、指輪を投げ捨てるなんて……」
ディミトリの言葉にベレトは息を呑む。ずっと川底を手で探っていたのだろう、冷たい手のひらを両手で包みながら「本当にな」と苦笑する。これはディミトリのせいなどではなく、不甲斐ない自分自身への罰だ。ベレトはディミトリの髪を撫でながら「悪かった」と謝る。
「投げ捨ててなんかいないよ。そんな度胸、俺にはない」
「しかし、あの時…!」
「……ほら」
「え……」
ベレトは首元に落ちる銀のチェーンをディミトリに見せる。そこに通された翡翠の宝石のついた指輪を見て、ディミトリは息を吐くと、ベレトの身体を抱き締めた。ばしゃ、水が弾ける音が響く。
「っ~…本当にお前は……。生きた心地がしなかったんだぞ…!」
「だから本当に悪かったって…」
「誓いの証なのにそれをいとも簡単に投げ捨てるなんて、肝が冷えたどころの話ではない…!!」
がくがくとディミトリに揺さぶられ、ベレトは顔を青くしながら「ごめん、ごめんってディミトリ」と必死に謝る。しかし目の前の彼はひとつだけの青から涙を溢しながら「本当になくなってなくてよかった…」と言うと、ベレトの首元に落ちる指輪を愛おしそうに撫でた。
先程の言い争いの最中で、ベレトがかっとなって指輪を橋の下に投げ捨てたのだ。しかしベレトはそれを既でやめたので、こうしてちゃんと彼の手の中にあるが、ディミトリは投げ捨てられたと思いこうしてずっと探していたのだろう。こんなに暗くなるまで、ひとりで。ディミトリの向ける変わらぬ愛情にベレトは苦笑する。
「もう、一年が経ってしまった」
「え?」
「終戦から一年だ。少しずつではあるが、フォドラは平穏を取り戻しつつある」
ベレトの言葉に、ディミトリは目を瞬かせる。ベレトはディミトリの手を引いたまま、「この一年で、お前は何人の女性と添い遂げられる機会があっただろうか」と言う。その言葉に、ディミトリは苦笑した。
「…信念を貫けと教えてくれたのは、先生だろう?」
「それは、そうだが…」
「それならそれで、良いじゃないか。そして起きてしまった戦争から、俺達勝者は学ばなくてはならない」
────それは手にかけた義姉、エーデルガルトが果たせなかった覇道を如何にして自分達が実現させていくか。彼女のやり方を間違えとし、立ち塞がった自分達にはそれを正しいと思える方向性で実現せねばならないのではないか? 彼女自身が持たざる者だと嘲笑っていたが、その者達へ手を差し伸べる事をしてはいけないのか? それでは、また歴史は繰り返してしまうのではないか。
ディミトリの言葉に、ベレトは息を呑む。フォドラの国の安寧と発展をさせるべく国王とそれを支える大司教。そんな立場の二人だからこそ、改革を行っていくべき事も確かだ。時代が変われば、それに合わせて少しずつ変革をし、常に良好な状態を保つ。その骨組みを、自分達で作っていこうとディミトリは国王に就任した時から語っていたのをベレトは思い出す。
「だから、先生。お前は俺の隣を歩いてもらわねば困る。王と大司教としてでもあるが、伴侶として…好いた相手と添い遂げたいと願う俺の気持ちを無碍にするのか?」
ディミトリの真っ直ぐな言葉に、ベレトはそれ以上何も言えなかった。ディミトリの首に手を伸ばし、彼を抱き締めながら「じゃあ、約束しろ」と訴える。
「もう、俺の前で他の女の人と会うの禁止…」
「承知した」
「縁談も、もうしない」
「ああ」
「あ、あと……! これ、ちゃんとしたい…!!」
「え?」
そう言いながらベレトは指輪をディミトリに見せる。正式に婚約を公表していない為か、こっそりと身に着けていた誓いの証にディミトリは頬を綻ばせる。そしてベレトの指にそれをはめさせながら「従おう。もう、お前を悲しませるのは懲り懲りだ」と笑った。
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「……やはり夜に川に入ると冷えるな」
「全くだ。早く湯浴みを済ませないと」
厩舎に飛竜を繋ぎ直し、流石のディミトリも身体を震わせている。ベレトは彼の手を引きながら、早くドゥドゥーに知らせてディミトリを湯浴みさせなくてはと考えている時だった。
「……金木犀の香りだ」
「え? ああ、もう咲いたんだな」
ふわりと甘い香りにベレトはディミトリの視線の先を見つめると、オレンジ色の小さな花をつけた木が目に止まる。それを二人で見つめていると「先生」とディミトリが口火を切る。
「学生時代にジェラルト殿が言っていたんだ。先生の母君は生まれた先生にこの金木犀の香りを…と」
「…ディミトリ、まさか」
「先生は、今節が誕生日なのだろう…? ジェラルト殿は誤魔化していたが…まぁ、気付いたんだ」
ディミトリの言葉に、ベレトは視線を逸らす。しかし真っ直ぐに見つめてくる瞳に逃げ切れず「…そうだ」と頷いた。
「俺も教師時代…ジェラルトの日記を見るまで知らなかったんだ。しかし日記から読み取れるのは、角弓の節、20の日にはすでに俺は生まれていた。だから、ジェラルトが教えてくれた誕生日は偽りのものだと知った」
そう苦笑するベレトに、ディミトリは彼の手を引き寄せて笑う。ふわりと甘い香りが漂う。金木犀を見つめる彼の亡き父の、その花と香りの先に見据えるそれを理解してディミトリは目頭が熱くなる。ディミトリが学生時代に金木犀の思い出を語るジェラルトに、まさかベレトの出生と関わるとは思ってもいなかった。
ディミトリはその手を引き寄せると「では、これは伴侶である俺と先生の秘密だな…?」と言えば、ベレトは苦笑しながら「まぁ…そういう事になるのかな?」と返される。
「それなら何か祝の品を用意すればよかったな。すまない、気が利かなくて」
「別に構わないよ。前にも誕生祝いをもらったし」
「それは本当の誕生日ではないだろう。そうだな、何が良いだろうか」
必死に考え始めるディミトリに、ベレトは彼の手を引きながら「ほら、早く湯浴みに行くぞ。本当に風邪を引いてしまう」と言う。こういうときは昔の教え子の感覚が残らないベレトに、ディミトリは「せんせい…」と眉間に皺を寄せる。
「俺だけが祝いが赦された日なのだから、何か贈らせてくれても…」
「……だから、これで十分だ」
そう言いながら自身の左薬指をディミトリに見せ、ベレトが気恥ずかしそうに笑う。暗がりでもわかる翡翠の宝石の輝きが、ベレトの瞳の色と同じ光を放つ。その意味をディミトリが理解するも、まだ納得がいかないのか渋い顔をされてしまう。ベレトは彼の手を引っ張りながら「では…、」と続ける。
「俺の手を放さないでくれ。離ればなれも駄目だ。お前が俺と別れたくなったら、絶対に許さない」
「せ、せんせい…? 急に過激になったな…?」
「…別に。お前の本気の気持ちに応えただけだが? 嫌か?」
その言葉にディミトリは勢い良く首を横に振る。こういうときのベレトは潔く、まさに男前なのである。彼の言葉にディミトリも愛されていると思いながら自分より小さな身体を抱き締めた。
「もう幸せ過ぎて、泣きそう……」
「いや、もう泣いているぞ。あと冷たい。俺まで風邪を引く」
照れ隠しの様に捲し立てるベレトに、ディミトリは彼の手を引き寄せる。逃さないとばかりに捕えられ、ベレトが目を見開くと覆い被さる影。冷たいと思っていた身体に火が点くのはあっという間だった。その熱を燻らせながら、甘い香りを放つ花にベレトは忘れられない日になるなと苦笑した。
────案の定、大司教がいなくなって鬼の形相をしている補佐と国王陛下の従者にこってり灸を据えられる事になろうとは、思ってもいない二人であった。
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