ざつい書きかけ「やあ、伊作くん」
これ、お土産だよ。
そう言って、あんまりにもなんでもない顔をして風呂敷包みを渡してくるものだから、伊作もつられてなんでもないふうを繕って「ありがとうございます」と応えざるを得なかった。途端、にっと目元をほころばせる長身の男を見上げる。その目は黒檀より黒々として、伊作に必要以上の感情を読ませない。
「どうぞ、何もおもてなしできませんが」
とりあえず中へと通し、急ぎ茶の用意をする。今日は左近もいないので、伊作が全てをこなすしかないのだ。
「なんだか静かだね」
何かを探すように視線を巡らせながら言う雑渡に、伊作はそのわけを話して聞かせた。すなわち、今日は一、二年生たちが合同実習として校外に出かけているということだ。三年生と四年生はその補助役として配置されているという。教員の多くがそちらの引率に回ったおかげで、伊作たち上級生組の本日の午後授業は自習となっていた。合同実習に付いていった者もいれば自己研鑽に励む者もいる。伊作はそのどちらでもなく、実習に付き添って行った校医の新野に代わってこの部屋を預かっているというわけだ。
「そうか、時機が悪かったね。伏木蔵くんにも久しぶりに会いたかったんだけど」
「伏木蔵も残念がると思います」
傾きかけた日が医務室に入り込む。雑渡の言う通り、今日の学園は妙に静まりかえっていて、まるでこの世に二人きりになってしまったように感ぜられてしまう。
「そうかなあ」
「……そう、ですよ」
だからだろうか。決して喧しくなどないその声が、いつにも増して耳に響いて聞こえるのは。低く、柔らかく、どこか恐ろしいほどの甘さをまとった声は、伊作の耳を蜜のようにゆっくりと滑り降りて、心臓をじっとりと浸していく。そのまま奥へ奥へ、自分さえ知らない深いところまで入り込もうとするその感覚に、伊作は確かに覚えがあった。
「~~~ッ……!」
たまらなくなった伊作は、思わず雑渡から顔をそらして目を閉じる。ぞくぞくと身体中を這い上がっては弾ける、泡沫のような感覚が、伊作の意識を否応なしにあの夜へと連れて行く。
――『あの時』は、もっと近かった。もっと近くでこの声に侵された。
「伊作くん」
コト、と音がする。あれは茶飲みを置いた音。そのまま衣擦れの音がして、床がきしんで、雑渡が身を寄せてくるのを伊作は音で感ずる。こんなのは絶対にわざとだ。雑渡は普段、音どころか気配もさせずに動くことのできる男なのだから。音を立てるのは、だから、わざとだ。伊作が一人の時を見計らってやってきたのも、最初になんでもない振りをしてみせたのも、きっときっと全部そうなのだ。
すべては伊作におのれを意識させるため。
「ねえ、伊作くん」
耳元で囁かれて、ようやく観念した伊作は薄く目を開ける。思い出してしまった身体がもう暑くて熱くてたまらない。感冒にでもかかったみたいに呼吸が浅くなって、口が誘うように雑渡へ向けて開いてしまう。
「なにをおもいだしてるの?」
雑渡もまた吸い寄せられるように伊作へ唇を近づける。そのくせこちらが欲しがるものを簡単には寄越してくれない、そんないやらしい癖がこの男にはある。
「あなたのことです」
伊作の答えは雑渡のお気に召したようで、褒美のように軽い口づけが落とされる。すぐに舌を出してその先を強請れば、花から花へと巡る蝶のように戯れにその唇は頬へ、目尻へと移っていく。伊作が焦れったさに身もだえながらそのたくましい首に舌を這わせることで、ようやく伊作の望みは叶う。おとがいを持ち上げられて、深く深く口を吸われる。息もできないくらいに強い抱擁と共に。
からかうように引き寄せられて、かと思えば焦らすように遠ざけられて、しまいには夢中で求めさせられて――ああ、そうだ。
どろどろに甘やかされ、溶かされて、身も心も優しく開かれたあの夜もそうだった。
雑渡が伊作のもとを訪れる時のたいていがそうであるように、あの日も望月であった。満月の夜は忍者にとっては骨休めの日だ。いくら足音を盗み、息を殺して動いても、さやかな月影が忍ぶ者達の動きを全て露わにしてしまうためである。手練れであればあるほどこんな夜に仕事はしない。そんな逢瀬を続けてきたものだから、月の満ち欠けにすっかり別の意味を見いだしてしまった伊作は同室の少年に「なよ竹」とからかわれながら学園を後にしたのだった。
どこで会うかは雑渡次第だが、結び文によって示されるのは多くの場合ここであった。学園とタソガレドキ領とのちょうど合間にある、もうずいぶん昔に滅んだ廃城。草木深く茂る中に眠るように建つ城であるが、調度品などはほとんどが取り払われていたものの、作り自体はさすがにしっかりとしている。大廊下などはきしむことなく伊作の歩みを受け容れてくれるし――今もそうだ。
「んぅ……ん、」
どんどん直接的になる触れ合いがもたらす熱を逃そうと蹴る伊作のつま先に、磨かれた床はびくともしない。
初めは軽い口づけだけで終わる逢瀬であった。いくら伊作のことを気にかけてくれているとはいえ、雑渡はタソガレドキ忍軍や保健委員達から絶対的な人気を誇る男である。同じ空間にはいても、いつだって誰かしらが彼の傍にいるようなありさまだったから、二人きりになった時、伊作は雑渡と話したいことがいくらでもあった。火傷痕の様子やそれによる体調の変化は何を置いても気になるところではあったし、そうでなくとも聞き上手で話し上手な雑渡との話は伊作を夢中にさせた。何しろ雑渡と伊作では、持っている知識の量が圧倒的に違う。経験とそこから得た見識の幅が違う。そんな雑渡から一つのことをじっくりと掘り下げて語るのを聞くのは学園での授業とはまた違う楽しさを伊作にもたらしたし、逆に伊作が持つ医療的知識が雑渡の役に立つのはなんとも嬉しかった。だから気がつけば空がしらじらと明けていた、なんてことも起こりえたのだ。それが何度か繰り返されて、ようやく伊作は自分がいかにも子どもっぽい考えで、恋人同士の夜を無為に過ごしていたことに気づいた。雑渡は何も言わず、いつも楽しそうに伊作の傍にいてはくれたが、それだけで終わるはずがないのだ。薬草鍋をかき混ぜながらそのことに気がついて呆然とした伊作は、次の逢瀬の時、会うなり雑渡に尋ねた。
『雑渡さんは僕をどうしたいですか?』
契り方は、座学ではあるものの知っていた。委員会柄人体の構造に詳しい伊作であるから、それを行う前にどういった準備が必要であるかもすぐに察しがついた。こういうものは通常年上が導くものだということも分かっていたし、雑渡が望むのであれば伊作に否やはなかった。それでも尋ねたのは、雑渡がここまで伊作に何も求めなかったことを不思議に思ったからだ。もしかしたらそういった繋がり自体を伊作には求めていない、という可能性だって無いわけではない。それを見誤って、この何にも代えがたい時間を失うのが伊作は嫌であった。
『どうと言われても、ねえ。君はどうしたいの?』
雑渡はいつものように感情を読ませぬ表情で伊作の問いかけを受け止め、そうして返答を避けて投げ返した。けれども、それにひるむようなやわな性格をしている伊作ではない。
『望んでいいのなら……』
雑渡はこうした私的な場面において、伊作が望まぬことは決してしない。だからここで退けば雑渡はそれを許すだろうし、その後深い交わりを全く求めないのに違いなかった。それはそれで悪いことではないのだろうが、若い伊作からすればそんなのはあまりに勿体なく思われた。雑渡の側に何も差し障りがないのであれば、伊作はこの年上の男が欲しかった。二回り近くも年が上で、大火傷から奇跡的に生き延びて、今でもいくさ場の――しかも最前線に立つのが彼だ。そう思えば、もう迷う時間も惜しい。
『僕は、あなたにどうにでもされたい』
大きな手を取って打ち明けた赤裸々な請いに返されたのは、骨も折れよとばかりの抱擁と、咥内を探る口づけと、『君を抱きたい』の一言であった。
以来、逢瀬は優しく伊作の心を満たすだけのものではなく、熱と切なさを抗いようもなく植え付けるものへと変化した。