まだ青い海 低い縁石で隔てられた車道を、オレンジ色の軽ワゴン車がすれ違いに走っていった。
平日の日中という時間帯のせいか、道を通る車は疎らだ。歩行者もほとんど見かけないのは、自家用車が主な交通手段となる地域ならではのことだろう。
車道の向こう側には低い堤防があり、その先は海が広がっている。まだ高い陽に照らされた波間は穏やかに青く、さざ波がきらきらと光を弾いていた。
車通りが間遠くなれば辺りに響くのは潮騒と、自分たちがアスファルトを踏む微かな足音ばかりだ。
ただふたり分の足音が、波音に重なり果てなく続いている。
道に揺らめく陽炎の先に小さな町が見え、炭治郎はほっと息を吐いた。道行きの始めに開けたペットボトルの水が尽きかけていたからだ。五月の陽射しは存外に容赦がない。
「そこの町まで、あと1.5kmといったところだな」
少し前を歩いていた男が、振り向きもせずそう告げた。
はい、と炭治郎は頷き、深く呼吸して気合いを入れ直した。そこはまだ終着点ではないが、一応の目的地ではあった。
古い型のセダンが、開け放った窓からオールディーズを響かせ走り抜けていった。レコード音源のひび割れた洋楽が、さっき行き過ぎたカーブの向こうへとフェイドアウトしていく。
目映いばかりの陽の下に、再び気詰まりな沈黙が落ちた。
「冨岡先生。あの、……すみませんでした」
黙したまま数歩先を行く道連れに、意を決して炭治郎は呼びかけた。炭治郎より歳も背も上の大人の男は、そこでようやくちらと炭治郎を振り向いた。
「財布のことなら、俺に謝る必要はない。お前に落ち度がなかったとはいわないが、少なくともお前の責任じゃない」
前方へ視線を戻し、男は硬い口調でそう告げる。そこで話を終わりにするわけにいかず、炭治郎は慌てて言葉を継いだ。
「それだけじゃなくて、その……写真のこととか」
それまで忙しく動き続けていた男の足が突然止まり、急な静止に対応しきれなかった炭治郎の足はその場でたたらを踏んだ。男の青みを帯びたうつくしい瞳が、ひたとこちらに向けられていた。
「俺がやめろと言えば、やめるのか」
「……いいえ」
「なら、謝るな」
炭治郎に再び背を向け、男はまた道を歩き始めた。スポーツバッグを肩にかけたその背に、汗がじっとりと滲んでいた。
ひとつに括られた黒髪の下から、陽に灼けない白いうなじがちらちらと覗く。前を見ればそればかりを目で追ってしまいそうで、炭治郎は目線を海に投げた。
海原は遥か水平線まで船影のひとつもなく、ただ茫洋と波うち続けている。
炭治郎たち二年生が修学旅行に出立したのは、年度が替わって間もない五月半ばだった。
高校生の修学旅行といえば秋が多いが、炭治郎が在学する私立キメツ学園高等部では例年ゴールデンウィークが終わってすぐの五月中旬が慣例となっている。気候もよく、なにより閑散期なので宿泊費などの旅行費用が安く済むからだ。
行先も東京の私立には珍しく国内、それも離島ではなく本州である。これらは経済的に余裕のない家庭の生徒でも修学旅行に参加できるようにとの学園側の配慮であり、片親がなく弟妹が多い炭治郎もその配慮の恩恵を受けた生徒の一人だった。
四泊五日の旅行先は、東京から新幹線で三時間程の距離にある地方都市だ。京都奈良から距離がありながらも歴史は古く、寺社や史跡が多く残る街である。
ここを基点に観光名所を巡りつつ、最後は隣県の景勝地まで足を延ばして新幹線で帰京する。それが当初の予定だった。
炭治郎の身に思わぬ事態が起こったのは、最終日である五日目の朝。最後の宿泊施設のホテルを出立する直前のことだった。
バスに預けるボストンバッグと手荷物用のリュックを携え、あとは集合場所のロビーに降りていくばかりといったところで炭治郎はふと違和感を覚えた。手荷物を入れた小型リュックが不自然に軽い。
着替えや土産物を入れる大きめのボストンバッグはホテルに着いてから何度か開け閉めしているが、考えてみればリュックの中は昨日から一度も見ていない。はっとしてリュックの前ポケットに手を置いてみれば空気の抜けた風船のようにぺしゃりと潰れて、炭治郎は愕然とした。
「伊之助、まずい。俺、財布をどこかに失くした」
「はああ」
青い顔で同室の嘴平伊之助に打ち明けると、伊之助は美しい顔を思い切り顰めて大声をあげた。
「なにやってんだよてめぇ、財布失くすとかバカかよ!」
探せ、と言われて再度ベッドの上の布団から洗面所の棚まで引っくり返して確かめる。だがそもそも炭治郎自身がリュックから出した記憶がないように、室内のどこにも財布は見当たらなかった。
「昨日この部屋に入ったときはあったのか? 炭治郎、いつも部屋に入ったあとレシートと残金のチェックしてるだろ」
「それが、昨日も今朝もリュックを開けてないんだ」
補助ベッドの下を探していた同室の不死川玄弥が、上げた頭を横に振ってから問うてくる。炭治郎はボストンバッグの中身を全て空けて再度検めていたが、結局そこにも財布はなかった。
昨日はチェックインしてすぐ、頭痛でダウンした級長の代わりに点呼に回っていた。報告のついでに担任の煉獄と話し込み、戻った頃には夕食の時間で財布のことなどついぞ忘れていたのだ。
「昨日の午後、お寺の前で弟たちにお土産買うまでは間違いなくあったんだけど」
昨日最後の見学地は、戦国武将に縁があるという古刹だった。宿泊予定だったこのホテルからは徒歩で15分程の場所である。
山門前には十軒ほどの店がたち並んでおり、炭治郎はそこで弟妹にそれぞれキーホルダーや文房具などのちょっとした土産物を購入した。5つの小さな紙袋はビニールの手提げ袋に纏められ、購入したときのままにリュックの中に入っていた。
玄弥はそれを聞き、ふと眉を顰めた。
「俺、昨日あの辺で、お前の少し後ろを歩いてたんだよな。そうしたら左側の人混みからキャップかぶったおっさんがお前のすぐ後ろに入ってきてさ。それからすぐ右に出てったから、列を通り抜けたかったんだなってあまり気にしなかったんだけど」
「……気がつかなかったな……」
閑散期の観光地ではあるが、それなりに人出はあった。まして距離を空けない集団行動の中では、どうしても他者の気配に鈍くなる。
「財布スられてんじゃねーか」
ベッドに胡座をかいてどっかと座り込み、伊之助が呆れたように言う。紛失ではなく盗難の可能性に思い当たり、炭治郎の顔色はますます青くなった。
「まだ盗まれたって決まったわけじゃねえだろ! そういうことがあったって言っただけだからな俺」
「権太郎外側のポケットに財布しまうじゃねえか。近くの店で買い物したとき、そこに財布入れるの見られたんだろ。盗ってくれって頼んでるようなモンだぜそれ」
「気づいてたなら言えよお前!」
「はァ なんで俺がコイツにそんな世話焼かなきゃならねーんだよ!」
伊之助と玄弥が言い争いを始めるその脇で、炭治郎は頭を抱えへたりこんだ。どうしよう、という情けない呟きが我知らず口から洩れる。
そのとき何の前触れもなく、部屋のドアが勢いよく開いた。肩を怒らせて入ってきたのは体育教師の冨岡だった。
「何してる! 集合時間は過ぎてるぞ!」
担任クラスを持っていない冨岡が、集合場所に降りてこない炭治郎たちを追い立てに来たのだ。学園内のように竹刀を携えてこそいないが、状況によっては鉄拳制裁も辞さない構えである。
「とみおかせんせえ……」
剣呑な顔を突き合わせている伊之助と玄弥、鞄の中身を床に広げて半べそをかいている炭治郎の姿に何らかの事情を察してか、冨岡は声を鎮め「どうした」と三人に問いかけてきた。炭治郎が口を開くより先に伊之助が「鈍太郎財布盗まれたんだとよ」と答えた。
「そうなのか、竈門」
「盗まれたかどうか、はっきりしてるわけじゃないんですけど……」
炭治郎は次第をおおまかに説明した。冨岡は室内の様子を見渡してから、自分の腕時計をちらと確認した。
「竈門、荷物を詰め直せ。とにかく下に降りる。不死川と嘴平は先に行って悲鳴嶼先生に状況を説明しておけ」
伊之助と玄弥を先に遣り、冨岡は炭治郎の横でパッキングを手伝い始めた。
「先生、大丈夫です。俺ひとりでもすぐ終わります」
「お前のためにじゃない。待たせている他の生徒たちのためにやっている。……財布に入っていたのは現金だけか。カード類は」
「クレジットカードやキャッシュカードは持っていません。学生証は入ってました」
冨岡が雑に詰めた洗濯物の袋をこっそり詰め直しながら炭治郎は答えた。冨岡の詰め方だと荷物が入りきらなくなってしまうのが目に見えていたからだ。
「学生証が入っているなら、誰かが拾えば学園に報せがくるはずだ。もしこれが盗難で犯人に保持されていたとしても、高校生の学生証では大したことはできない。再発行もできるから心配しなくていい。他には」
「……高価なものとかは、ありません」
言い淀んだ末、炭治郎はそれだけ告げた。冨岡は一瞬だけ炭治郎に視線を流すと「そうか」と言って立ち上がった。
「見つかるかどうかは分からないが、警察に遺失届だけは出しておいた方がいいだろう。お前が別行動をとれるよう、他の先生方とも相談してみる」
「はい……」
ボストンバッグのファスナーを閉め、軽いままのリュックを背負って炭治郎は立ち上がった。見つかるかどうか分からない、という冨岡の言葉が、重く心に掛かっていた。
「先生。俺の財布、死んだ父が最後に俺に買ってくれたものなんです」
ホールで下降エレベーターを待っているうちにぽつりと告げると、冨岡は無言のまま瞠目した。
一階のロビーでは学年主任の悲鳴嶼と担任の煉獄だけが炭治郎を待っており、他の生徒や教員らは既にバスに乗り込み待機していた。出発時刻は既に10分過ぎている。
「竈門、事情は不死川たちから聞いた……。遺失届はオンラインでも出せるから、わざわざ警察署に赴く必要はない。このままバスに乗りなさい……」
悲鳴嶼に促され、煉獄を見れば「大変だったな」と肩を叩かれた。
「だが警察に届を出しておけば、東京に戻っても見つかり次第連絡が来るはずだ。旅行中の金銭的な問題は俺たちでカバーしよう。君は心配せずに残りの予定を楽しむといい!」
「はい……」
インターネットで遺失届が出せるなら、バスの中でもどこでもできる。だから皆と共に修学旅行を最後まで続けるのが最善なのだと、炭治郎も分かっている。
それでも不注意で失くしたものを自分の足で探すこともなく、いずれ見つかるかもしれないという運に委ねてこの地を去ることが、炭治郎にはどうしても躊躇われてならなかった。他でもない、もうこの世にない父が贈ってくれた財布なのだ。
だが現実問題として、その財布を失くした炭治郎は現在完全なる一文無しである。財布を失くした場所に戻って少しの時間だけでも探してから帰りたい、などという我儘が言えるはずもない。担任の煉獄や学年主任の悲鳴嶼にも迷惑をかけることになる。
諦める他はないのだと自分に言い聞かせ、炭治郎はバスに向かうべく足元に置いたボストンバッグを肩に掛けた。
「竈門はここに残って、念の為昨日財布を失くした場所で探させます。届も近くの交番で出させます」
背後にいた冨岡が突然口を開いた。炭治郎は驚いて冨岡を振り仰ぎ、煉獄と悲鳴嶼も同様に冨岡に視線を向けた。
「所持品に責任を持つべきではあるかもしれないが、それは高校生活一度の修学旅行を中断してまでしなければならないことだろうか、冨岡先生」
煉獄が冨岡から炭治郎を庇うように前に立った。炭治郎は咄嗟に「違うんです」と煉獄に訴えた。
「失くしてしまった財布は、死んだ父が俺にくれたものなんです。冨岡先生にはさっきそのことを話したから、俺のためにそう考えてくれたんです」
冨岡はいつも通りの無表情で煉獄と炭治郎を見つめている。そこからは否定も肯定も窺うことができない。
「そうなのか、冨岡」
「……竈門が、失くした財布は父親に最後に買ってもらったものだと俺に話したのは、事実です」
悲鳴嶼に質され、冨岡はそれだけを答えた。そうか、と悲鳴嶼は頷いた。
「だが事情があったとしても、ひとりで別行動をとらせるわけにはいかないだろう」
「竈門には、俺が付き添います」
炭治郎は再度驚き冨岡をまじまじと見た。冨岡は変わりなく静謐な顔のままだった。
「今日はもう最終日です。生徒たちが羽目を外すこともそうないでしょう。クラス担任でもない俺が外れても、問題ないはずです」
炭治郎にとって、冨岡の提言は願ったり叶ったりだ。だが同時に、冨岡には自分の我儘で負担をかけることにもなる。
受けていいのか戸惑っていると、横にいた煉獄がずいと前へ出た。
「俺からも頼む。彼の心残りを是非存分に晴らしてやってもらいたい!」
「煉獄先生……」
「すまない、竈門少年。俺はクラスの皆を最後まで引率する責任があるから付き添ってやれない。だが冨岡が付いていてくれるなら安心だ!」
煉獄の大きな手のひらで頭をぽんと叩かれ、炭治郎は思わず滲んできた涙を手の甲でぐいと拭った。ここにはこんなにも、自分のことを考えてくれるおとなたちがいる。
「……そういうことなら、竈門のことは冨岡に一任しよう。ただし、状況は逐一報告するように。何かあれば必ず私か学園の方に連絡しなさい」
「分かりました」
万一に備えて炭治郎も煉獄の携帯番号を控え、それからロビーを出て行く彼等を見送った。バスは少し離れた場所に停車しているのか、エントランスから車影を見ることはなかった。
「行くぞ」
冨岡は自分のスポーツバッグを肩に掛けた。炭治郎が持っているボストンバッグと大きさはそれほど変わらないが、かなり年季の入ったバッグだった。
まだ二十代半ばの冨岡の年齢からすると、もしかすれば彼が中高生の頃から使っていたものかもしれない。そのくたびれたバッグばかりが知る過去の冨岡に、炭治郎はふと思いを馳せた。
「ぼんやりするな」
その冨岡に叱責されて炭治郎は我に返る。そして歩き出している冨岡の背を慌てて追った。
最寄りの交番は、昨日訪ねた門前通りの入口の角にあった。次第を聞いた巡査は拾得物のデータベースをコンピュータで確認し「該当の財布は届いていないようです」と気の毒そうに炭治郎に告げた。
「そうですか……」
落胆はしたが、想定していた状況だった。
「確実にそう言えるわけではないですが、お話を聞くと窃盗の可能性が高いですね。ここ数年スリの被害が多いんですよ。我々も気をつけて巡回しているんですが」
人の好さそうな中年の巡査は、炭治郎が書いた遺失届を確認しながらそう言った。それは炭治郎にというよりむしろ、保護監督者として同行している冨岡に向けての言葉であるようだった。
「ただその手の窃盗なら、財布そのものは出てくることが多いですよ。残念ながらお金は戻りませんが」
「お金は……お金も大事ですけど、それよりも大切な財布なんです。財布だけでも出てきてほしくて」
項垂れた炭治郎を慰めるためか、巡査は少し屈んで穏やかに視線を合わせた。
「お父さんの形見なら、それは大切なものですよね。我々も巡回の際に注意して探してみますから、気落ちしないで」
「はい……。ありがとうございます。よろしくお願いします」
炭治郎は巡査に深々と頭を下げた。炭治郎の後ろで冨岡も小さく頭を下げた気配がした。
交番の戸口で巡査に見送られ、炭治郎は冨岡と共に門前通りへと足を踏み入れた。まだ午前九時と早めの時間で開いていない店もちらほらあったが、参詣者の姿は既にそこかしこに見られた。
炭治郎が昨日訪ねた土産物屋は、幸いにもちょうど店を開けたところだった。だが訊ねてもやはり財布を拾って保管しているということはなく、炭治郎は肩を落とした。
そこから炭治郎と冨岡は、宿泊ホテルまでの経路を辿り周囲を丹念に探した。ホテルまでの距離が近いため、昨日もバスを使わず徒歩で移動していたのだ。
だが植え込みの陰や側溝の中までも覗いてみても、やはり見慣れた自分の財布を見つけることはできなかった。
「どうする。もう一度戻って探してみるか」
ホテルのエントランス前で冨岡に確認され、炭治郎は首を横に振った。五月半ばの陽射しに晒されながら歩いたせいで、ふたりともがうっすらと汗ばんでいた。
「いいえ。俺たちがこれだけ探して見つからないんですから、きっと俺たちの目では見つからない場所にあるか、誰かが持っているんだと思います。遺失届も出しましたし、あとは出てきてくれるのを待ちます。冨岡先生、一緒に探して下さって本当にありがとうございました」
「そうか」
冨岡は溜息ひとつ吐き、ジャケットの内ポケットからスマホを取り出して通話を始めた。その様子を見ながら炭治郎も密かに溜息を吐いた。―――もしこれで無事財布が見つかっていれば。彼と財布を探索したこの時間は、この上ない思い出になっただろうに。
やがて通話を切り、冨岡は炭治郎に向き直った。
「皆もう最初の見学先に着いているそうだ。いまからそちらに向かっても間に合わないから、俺たちは電車で向かって昼過ぎに合流すると伝えた。そこからは予定通り、皆と見学に参加できる」
「じゃあ、歴史博物館には間に合いますね」
生徒たちを乗せたバスはこの後休憩を取りながら県をまたぎ、昼食後に現地の博物館へ向かうことになっている。博物館の見学を終えた後は、いよいよ最後の訪問地となる海岸だ。
景勝地として名高い場所であるが、見学の狙いはその海岸の特殊な地質構造にある。とはいえ生徒たちにとって理Ⅰの教科書に記載されている地質形状の確認など二の次三の次であり、楽しみはそこから眺められるという美しい夕日と観光地でのショッピングだ。
海沿いのその場所ならばきっと、弟妹が喜ぶようなお土産をもうひとつずつくらい買ってやれただろうに。そう思うと財布を失くした自分の迂闊さが一層悔やまれたが、かといってどうすることもできなかった。
「駅までは徒歩で20分だ。行くぞ」
「はい!」
スマホで最寄り駅へのルートを検索していた冨岡が、それをポケットにしまって炭治郎を促した。気落ちを見せないようあえて大声で応じ、炭治郎も彼の後ろについて歩き出した。
本意の行程ではなかったにせよ、生活も文化も異なる知らない町を歩くのは面白かった。気候に合わせた民家の造りやローカルな店舗を眺めるうちに20分は瞬く間に過ぎゆき、辿り着いたのは奥行きのない平屋の駅舎だった。
カーテンを引かれた窓口の隣にある自販機で冨岡が切符を二枚買い、一枚を炭治郎に手渡した。
「電車代すみません。帰ったら必ずお返ししますから」
「経費に関しては、学園で理事会と相談して決める。それまでは考えなくていい」
冨岡は素っ気なく言い、待合のベンチに腰を下ろした。
「でも、少なくともいまは先生がお金を出してくださってます」
「お前は生徒で、俺は教師で保護監督者だ。お前が財布を失くしたなら、俺が出すのは当然のことだ」
淡々と、だがはっきりと言い切られ、炭治郎はそれ以上を言うことができずただ冨岡の隣に座った。
無人の改札の上に貼られた時刻表を確認すれば、目的地方面に向かう電車が来るのはおよそ30分後であることが分かる。そのせいか、駅舎にもプラットホームにも人影はなかった。
「……冨岡先生は、どうして俺に付きあって財布を探そうとしてくださったんですか。悲鳴嶼先生が言われたみたいに、遺失届はネットで出して皆と一緒に行動する方が、先生にとってもずっと楽だったはずなのに」
冨岡はちらりと炭治郎に視線を投げた。彼の青みを帯びた瞳が光を弾き、炭治郎は澄んだ水で満たされた深い淵が陽に照らされて眩く輝く様を思った。
「そうした方がいいだろうと、思った」
冨岡の声は、凪いだ水面のように静かだった。だが炭治郎はそこに、教師の顔の奥にある彼の心を垣間見た気がした。
「そうした方、というのは」
更に訊ねると、冨岡は言葉を探すかのように言い淀む。
彼は教師なだけあって指導の弁舌は立つが、それ以上のことを器用に受け答えできるタイプではない。だがそうとわかっていても、炭治郎は冨岡らしくないお節介染みた行動の意味を問うてみたかった。
もしかすればそこに、自分のひそかに期待するものがあるのではないか。そんな下心があった。
「……お前の財布が無事に出てきてくれればいいと思う。だがもしそうならなかった場合、探す努力もしなかったことはきっと長くお前の傷になる。修学旅行でそんな思いを残させたくなかった」
それだけを一息で言い切り、冨岡はふうと息を吐いた。
「これでいいか」
「はい。……本当に、ありがとうございます」
まさに炭治郎が気にかけていたことを、彼はちゃんと汲んでくれていたのだ。
きっと炭治郎に限らず、他の生徒が同様の状況になれば冨岡は同じことをするだろう。彼の厳しい態度の裏には、驚くほど細やかな優しさがある。
冨岡の心の内にある思い遣りを目の当たりにできた。それだけで充分に炭治郎は満たされた心地になった。自分の望んでいたものが、そこになかったとしても。
それから間もなく、どこか近い場所から踏切の警報音が聞こえた。「電車が来る」と言って冨岡はベンチから立ち上がり、炭治郎も彼に続いてホームへと出た。
右手からホームに入ってきた二両編成の電車は、どこか古錆びた緑灰色だった。この駅で乗り降りする乗客は他になく、電車は炭治郎と冨岡を乗せるとすぐにドアを閉めて再び走り出した。
車内の座席は都心ではまず見ないボックスシート型で、炭治郎たちが乗った車両にはふたりばかりの乗客が思い思いの場所に座っているだけだった。冨岡は躊躇いなく端のボックス席へと向かい、頭上の網棚にボストンバッグを放り上げて座席に腰を下ろした。炭治郎も彼に倣って荷物を上げ、冨岡の向かい側に座った。
「目的地まではどのくらいかかるんですか」
「ほぼ二時間で着く」
冨岡は自分の腕時計をちらと見て「到着は大体13時だ」と言い添えた。
「博物館は駅から近い場所にあるから、見学予定時刻の14時には充分間に合う。昼食は到着後にどこかで買って済ませることになると思うが構わないか」
「もちろんです」
昼食代もまた冨岡に頼らねばならないのは心苦しいが、かといって自分は要らないなどと意地を張ったところで叱責されるのが関の山だ。
帰ったらちゃんとお金を返そう。その分のお礼もしよう。炭治郎はそう決めて情けなさに沈む心を宥めた。いまは彼に頼る他ないのだ。
電車は規則的な音をたてながら住宅地を抜け、やがて海岸線に沿って走り始めた。海原の彼方まで照らす陽の光が車窓からも射し込み、向かい合っている若い教師の姿を白く浮かび上がらせていた。
窓辺に肘をついて海を見るその横顔は凛としてうつくしく、炭治郎は少しの間海よりも彼に目を取られていた。
「なんだ」
視線に気づいたのか、冨岡が窓から炭治郎の方へ視線を流す。炭治郎は慌てて彼から目を引き剥がし窓の方へ向き直った。
「いえあの……先生、海、きれいですね!」
「……ああ」
とってつけたような誤魔化しに返事もないかと思ったが、冨岡からは静かな声が返ってきた。滅多に聴くことのない彼の穏やかな声に引き込まれ、炭治郎の視線は再び冨岡に釘付けになった。
彼の薄く小さなくちびる。伏せられた睫毛の濃さ。その奥にある、深い青の瞳。
冨岡とふたりきりの、小さなボックスシート。
高鳴っていく心臓をこらえるようにして、炭治郎はまた彼から目を逸らし海を必死に見つめた。
―――なんだろう。先生とこうしているの、初めてじゃないような気がする。
いつかどこかで、こうしてふたりきりで旅をしたことがある。なぜかふとそんな気がしたのだ。それも今回のようにたった数時間のことではなく、もっと長く、もっと遠くへと。
ただふたり、行きつくところまで。そんな果ての見えない旅を。
ああ、そうか。ふっと腑に落ちるものがあった。
俺はこのひとと、長い旅路をどこまでも一緒に往きたいんだ。
彼か自分か、どちらかの生命が終えるその時まで。
当たり前に可愛い女の子が好きだと思っていた小中学校時代、クラスメイトにも素敵な女の子はいたけれど、炭治郎はどうしても彼女たちに友人以上の好意を持つことができなかった。熱心に告白してくれた子に絆され交際の真似事をしてみたこともあったが、結局は向こうから炭治郎を見限って離れていった。
冨岡を初めて見たのは、やがて迎えた高校入学の日のことだった。
式に居並ぶ学園関係者たちの中ではごく目立たない隅の方にいながら、濃紺のスーツを身に着けた彼の佇まいは誰よりも端正だった。その涼やかで清廉な姿に、炭治郎は一瞬で目を奪われた。
静謐な雰囲気とは裏腹に、体育教師である彼は厳しかった。校則を守らない生徒には容赦ない怒号を浴びせ、父の形見のピアスを外さない炭治郎もまた毎日のように叱責された。だが生徒たちが『血も涙もない鬼の生徒指導』と称して冨岡を敬遠する中でも、炭治郎は不思議なほど彼の心根の優しさを信じていた。
叱られている時でさえも、冨岡の近くでその声を聞いているのが嬉しかった。彼の一挙一動を目で追わずにいられなかった。学校で会えた日も会えない日も、気づけば冨岡のことばかり考えていた。
その時にはどうしようもなく、炭治郎は彼に恋をしていた。
だが彼は同性であり、教師だ。両親の作った家庭を理想として生きてきた炭治郎には、これまでこの想いの行き先を思い描くことができなかった。
―――決まった形にならなくたっていいんだ。俺はこのひとと一緒に生きていきたい。それだけなんだ。
せっかくふたりきりのこの時、彼にこの想いを告げられたらどんなにいいだろうか。陽に白い頬を晒し海を眺める冨岡の、その秀麗な横顔に目を向けながら炭治郎は思う。
教師であり同性である冨岡に、この想いが通じることはきっとない。それを炭治郎は分かっていた。
それでもいつか、この気持ちを告げることだけは許してほしかった。その日をもってこの恋に別れを告げることになろうとも、彼にこの想いを知ってほしかった。
冨岡がふっと炭治郎の方へと振り向き、僅かに眉根を寄せた。まさか気持ちを悟られたのかと、炭治郎は身体を強ばらせた。
「大丈夫か」
「……えっ」
「顔が赤い」
他ならぬ冨岡に指摘され、炭治郎は咄嗟に両手で顔を覆った。好きな相手の顔を見てその人のことを考えている内に、すっかり頭に血が昇ってしまったのだ。
「あああ違うんですこれは、その」
「すまない」
冨岡がなぜか小さく詫びた。思いもよらない謝罪の言葉に驚き、炭治郎は顔を上げた。
「あれだけ歩いた後なのだから、どこかで飲み物を購入してから乗車すべきだった。俺のミスだ。……頭痛や吐き気はないか」
「いえ! 熱中症ではないです本当に!」
慌てて手を振り違うと訴えても、冨岡はやはり心配そうに炭治郎を見つめてくる。憂いを帯びた深い色の瞳が、真っ直ぐ炭治郎だけに向けられている。
すっと冨岡が左手を上げ、炭治郎に向けて伸ばした。彼が何をしようとしているのか分からず、炭治郎は暫しぽかんとそれを見ていた。
すらりと長く、だが女性のそれとは異なり筋張った指。その指の付け根にある、硬く凝った剣胼胝。竹刀を持つ男の、しなやかで広い手のひら。
その指が頬にかかる髪に触れた途端、炭治郎は全身の血液が一瞬にして沸き立ったように感じられた。
高熱が出た時のように目の前がチカチカして、身動ぎはおろか声を出すこともできなかった。呼吸は極端に浅くなり、肺に酸素を取り込むことすらできていない気がした。
「熱は」
静かな声とともに、冨岡の指が額にかかる。その見た目から想像するのより少し高い体温が、光と同じやわらかさで肌に触れた。
だが自失する暇もなくその時、炭治郎の制服の内ポケットから着信音が鳴り響いた。冨岡は伸ばしていた手を反射的な動きで引き、炭治郎は慌ててポケットからスマホを取り出した。
画面に表示された番号は登録されているものではなく、市外局番も炭治郎が住んでいる東京の03ではない。戸惑っていると冨岡が番号をちらと見て「出てみろ」と指示した。
『こちらは竈門炭治郎さんの電話番号でお間違いないですか』
聞こえてきたのは事務的で落ち着いた男性の声だった。まだ早打ったままの鼓動を宥めながら、少し上擦った声で炭治郎ははいと答えた。
『〇〇市警察です。本日××寺前交番で財布の遺失届を出されたと思うのですが、該当する財布がこちらに届いていますのでご確認をお願いします』
「えっ、見つかったんですか!」
炭治郎の大声に、冨岡も目を見開き顔を上げた。確かめるようなその表情に炭治郎は頷いてみせる。出てこないかもしれないと思っていたものが、まさかこんなにもすぐに見つかるとは。
「あの、どうすればいいですか」
『ご自宅が東京とのことなので、いま電話で確認していただいて後日郵送する形でも構いません。送料は着払いになりますが』
「後で送ってもらう……。そういうこともできるんですね」
本音を言えば、もちろんすぐにも引き取って一緒に東京へ帰りたかった。亡き父の思いがこもった、他ならぬ大切な財布なのだから。
だがここで戻れば、また予定が崩れ冨岡に更なる負担をかけてしまう。それなら手元に戻るのが先になった方がいいと思い切り「ではそうしてください」と言いかけると、冨岡がそれを遮った。
「場所を確認しろ。市の警察署でいいのか」
「え、でも……」
「早く訊け」
授業中モタモタしている生徒にするのと同じ調子で体育教師が急き立てる。条件反射でハイと応じて電話口に問うと、警察官であろう通話相手は『〇〇市警察署でお預かりしています』と答えた。
「これから向かうと伝えろ。戻るぞ」
有無を言わせないその口調に、炭治郎は戸惑いながらも再度頷く他なかった。
間もなく車内アナウンスが次の停車駅を告げた。電車がその速度を落とす前に冨岡が立ち上がり、網棚からふたり分の荷物を下ろした。
戻りの電車がその駅に来るのは40分後だったので、タイムロスを気にした冨岡がタクシーを呼んだ。警察署へ着いたのは正午を少し回った頃だった。
受付で指示されたカウンターを訪ね名前と用件を告げると、内勤の制服を着た若い男性の係官がクリップボード片手に炭治郎に椅子を勧めた。
「お連れの方もどうぞおかけください。―――ご家族の方ですか?」
「いえ、引率の教員です。修学旅行中なので」
冨岡は椅子を断りそのまま炭治郎の背後に立っていた。係官は冨岡の言葉を聞いて何かもの言いたげな顔をしたが、結局は何も言わず自らも炭治郎の前に座った。
「ではまずお名前と生年月日、連絡先をこちらにご記入ください。……はい、これで大丈夫です。竈門炭治郎さんですね。紛失されたものはこちらで間違いありませんか」
係官はなぜか少し躊躇う素振りでカウンターの下からトレイを出して上に置いた。そこに並べられたものを見るなり、炭治郎は係官がなぜそんな様子を見せたのかを悟った。
トレイの左上に失くした財布。その下に学生証。現金は小銭も含めてひとつもない。
右隣には修学旅行中に出費した分のレシートが5枚並べられている。レシートの下には近所のスーパーのポイントカードと、父が生きていた頃に家族で撮った写真。
そしてその左隣には、本人に了承を得ず撮ったことがアングルから分かる冨岡の写真が置かれていた。
去年の体育祭、クラスメイトとスマホで写真を撮り合っていた時に、偶々背後を通った冨岡がファインダーの中に入ってきた。良くないこととは知りつつも、炭治郎は友人らを写した後にそっと一枚だけ冨岡を撮った。
もちろん人目に触れることがないよう、写真は財布の奥の目立たないポケットにひそませていた。財布が見つかったと連絡を受けた時も、中のものは財布に入れたままで戻ってくるものとばかり思い込んでいた。こんなところで本人の目に晒すことになるくらいなら郵送で受け取ったのにと、今更後悔したところでどうにもならない。
この写真を目にしていたから、係官も冨岡に家族かと訊いたのだろう。背後を振り向き当の冨岡の顔を見ることなどとてもできず、炭治郎は硬直したままだらだらと冷や汗を流していた。
「……現金は入っていませんでしたか」
写真のことには一切言及せず、いつも通りの淡々とした口調で冨岡が訊いた。はい、と係官は答えた。
「門前通り近くにお住まいの方が届けて下さったのですが、ご自宅前の側溝に現金が入っていない状態で投げ込まれていたそうです。ああそうだ、そちらからは謝礼も辞退されると申し出がありましたのでこれもお伝えしておきます」
「では、やはりスリに遭ったということでしょうか」
「現時点ではその可能性が高いですね。いずれにせよ金銭が抜き取られていますから、盗難届を出してください。印鑑と身分証明書が必要になりますので、いまお持ちでなければお住まいの地域の警察署でも受理しますよ」
「わかりました。……竈門。……竈門!!」
「はいっ!」
背後から大音量で怒声を浴びせかけられ、炭治郎は条件反射的に跳ね上がった。
「お前が当事者だろう。ぼうっとしてないで話を聴け、馬鹿者!」
授業中に生徒をどやしつけるようなルーティンめいた叱責ではなく、写真に気を取られて反応もせずにいた炭治郎への本気の怒号だった。はっとして顔を上げれば係官の男性が苦笑いしていて、炭治郎は「すみません!」と大慌てで謝った。
「いえいえ。旅行先で現金を盗まれたりしたら、大人だって冷静じゃいられませんよ。先生もどうか、あまりお叱りにならないであげてください」
炭治郎の動揺の原因がそこにないことをおそらくは察していながら、係官は上手く話を逸らし炭治郎を庇ってくれる。炭治郎はありがたく思うと同時に、上の空でいた自分を恥じた。
「……悲鳴嶼先生に状況報告をしてくる。きちんと話を聴いて、財布に中身をしまっておけ」
冨岡はそれだけ言ってロビーの方へ歩いていった。彼の前で写真を財布にしまうのは気が引けていたので、この間にと炭治郎は急いで並べられたものを財布に入れた。
「では、こちらに受け取りのサインをお願いします。盗難届のことは大丈夫ですか?」
炭治郎は差し出された書類に署名し、訊かれたことにははいと答えた。正直内容は耳を半ば素通りしていたが、思い返せばどうにか頭に入っている。
「では、これで手続きは終わりです。こんなことになって大変だったと思いますが、せっかくの修学旅行ですからあとはどうか楽しく過ごしてくださいね」
係官は立ち上がり、炭治郎に見送りの言葉を述べた。炭治郎も感謝の意を込めて深々と会釈を返した。
「ありがとうございます。でもこのあとは隣県の歴史博物館と〇〇海岸に行って、そこから新幹線で帰るだけなんです」
当初の予定よりかなり遅れてしまったものの、現地に着いてから博物館で皆と合流するまでには元々時間の余裕があった。電車の運行時刻によっては多少遅れてしまうかもしれないが、それでも二時間ある見学時間中には間に合うはずだ。
「えっ、もしかしてそちらへ電車で向かわれるんですか?」
係官は何故か驚いたような声をあげた。ちょうど冨岡がスマホを内ポケットにしまいながら戻ってきた。
「はい、その予定ですけど……」
「ここの最寄り駅からそちら方面の二駅先まで、現在運休になってますよ」
「ええっ」
だが確かについさっき、炭治郎たちはその電車でもう少し先の駅まで行ったのだ。言われたことがにわかに信じがたく、炭治郎は思わず確かめるように冨岡を振り向いた。冨岡もさすがに啞然とした顔をしていた。
「急な架線トラブルだそうです。一時間ほど前にこちらにも報告がありまして。修復が終わり次第運行再開になると思いますが、それがいつになるかはこちらではなんとも……」
一時間前ということは、炭治郎たちがその区間を行き過ぎてからすぐに運行が止まったのだ。タクシーを使ったから知らずにここまで戻れたものの、電車で引き返していればそこで足留めされていたはずである。
「代行輸送はありますか。それか路線バスは」
「そちら方面への路線バスはないんです。代行輸送も出ていません。夕方までに復旧しなければ、もしかしたら代行バスが出るかもしれませんが」
冨岡の問いかけに、係官は申し訳なさそうな面持ちでそう答えた。そうですか、と冨岡は小さく言って息を吐いた。
「電車が動いている駅までは、またタクシーで行くか」
「そう……ですね……」
すぐにタクシーと電車を乗り継いでいけば、博物館での見学時間はほとんど取れないだろうがとにかく合流はできる。そうすれば後は皆と一緒に観光バスに乗り込めばいい。
冨岡にはまた金銭面で負担をかけてしまうが、ともかくもそこまで行けば彼も炭治郎の監督責任から解放される。すみません、お願いしますと頭を下げかけたところで、「あるいは」と冨岡の声がした。
「あるいは、その駅まで歩いていくか」
思わぬことを冨岡が言い出したので、炭治郎は思わず「えっ」と声をあげた。
「いやいや、先生。お住まいの東京とは各駅間の距離が違いますから。ここからですと多分7、8kmはありますよ」
係官が慌ててそう諭したが、冨岡はそれに構わず腕組みし炭治郎を見据えた。
「このまま博物館へ向かっても、見学できる時間はあまりない。だが海岸の最寄り駅は博物館の三つ手前だ。真っ直ぐそちらへ向かえば、その距離を歩いても時間の余裕ができる。幸い天気もいい。―――どうする。お前の修学旅行だ。お前が決めろ」
呆気にとられている係官に、炭治郎は「体育の先生なんです」と囁いた。係官は「はあ……」と呆れたような声を漏らした。
どうするべきだろうかと炭治郎は考える。時間はあまりない。
タクシーに乗ってしまえば、確かに炭治郎にとっても冨岡にとっても体力的な負担は少ない。ただし乗車代はかかってしまう。最終的に炭治郎、つまり竈門家が負担することになるのはやむを得ないとしても、そもそも旅行の所持金を残して帰るつもりだったほどなのでそれなりに痛手になる。
徒歩で行けばタクシー代はかからないが、冨岡にはその分労力を使わせることになってしまう。それに何よりも。
―――先生は、俺とふたりで歩くのが嫌じゃないんだろうか。
冨岡を盗撮しその写真を隠し持っていたことは、もう言い逃れのしようもない。それも女子生徒ではなく男子生徒からだ。律儀な教師であるからこの場で炭治郎を見捨てるような真似はしないにせよ、内心では気色悪く思うのが当然だろう。
狭いタクシーの車内は確かに気づまりだが、その分時間は短い。さっきもう少し先の駅からここまでタクシーで来た時間を考えれば、電車が出ている駅まではおそらく15分から20分で済む。一方徒歩ならば野外である分少しは距離を保てるものの、一時間以上炭治郎とふたりきりで歩き続けなければならない。
「せ、先生は……どちらがいいですか」
散々迷った挙句に頼ったのは、結局冨岡本人の判断だった。冨岡は眇めた目を炭治郎に向けた。
「お前が決めろと言ったはずだが」
「はい……」
タクシーで行きましょう、そう言うしかない。炭治郎はそう決心して口を開く。冨岡がこちらをじっと見据え、炭治郎の決断を待っている。
「……歩いて、いきます」
だが声を出すまで言うべき言葉は定まっていたはずなのに、口から出てきたのは真逆の方だった。自分でもなぜそう言ってしまったのか分からず、炭治郎は驚愕で目を見開いた。
「分かった。では行くぞ」
炭治郎の動揺に構わず、冨岡はあっさりと頷き出発を促した。炭治郎は慌てて振り向き、遺失物引き取りの対応をしてくれていた係官に丁寧に礼を述べた。
「どうぞお気になさらず。お財布だけでも見つかってよかったですね。先生、道は分かりますか。……そうですね、海沿いの国道を行くのがいちばん分かりやすいです。この交差点で左折すればすぐ駅前通りに出ますから。国道は所々で歩道が狭くなりますから気をつけてください。ここは飛ばす人が多いので」
冨岡のスマホを見ながらルートを確認すると「それでは、道中くれぐれもお気をつけて」と係官は笑顔で会釈した。炭治郎と冨岡も再度感謝を伝え、ふたりは警察署を出た。
「概算7.5km。一時間半で目的駅に到着する」
警察署前の自販機でミネラルウォーターを二本購入し、そのうちの一本を炭治郎に手渡しながら冨岡が言った。
炭治郎は礼を言って受け取りながら、頭の中でざっと速度を計算した。時速5km。長距離走で5km走ることを考えれば、この距離も速さもそれほど苦ではない。体育教師である冨岡にしてみれば尚更だろう。
それぞれの荷物を肩に、男子高校生と体育教師のふたり連れは警察署の敷地を出て道へと足を踏み出した。
東京と異なりひと区画ごとが広い町並みは、昼過ぎの人出が少ない時間帯であることもあってか不思議なほど静謐だった。海に近い町であるために周囲には潮の匂いが常に漂い、時折流れてくる風も匂いを押し流すことはない。
細い街路樹は潮風に合わせてゆらゆらと揺れている。微かに聞こえる海鳥の声は、まるで何かを挟んだかのように耳に遠い。
―――なんだか、海の中を歩いているみたいだ。
炭治郎の前を行く冨岡は、まるで知った道のように速足で先へ進んでいく。彼の風に靡く黒髪も相俟って、炭治郎は海中を自在に泳ぐうつくしい大きな魚の後を辿っているような心地になる。
やがて潮の匂いがぶわりと強くなり、建物の合間に本物の海が姿を見せた。ついさっきも車窓から見ていたはずの海は、こうして間近に直接見ればいよいよ陽の光を弾いて煌めいていた。
波音は遠く近くさざめき、渡り来る風は塩気を含んでいる。水平線の彼方に白々と光る雲の他は、海も空もどこまでも澄んで青い。
東京に住んでいる炭治郎は、もちろん海は見たことがある。だが炭治郎が知る海は、コンクリートの護岸で固められ人工物の間に寄せてくる海だ。東京湾も少し沖側に出ればまったく様相が変わると聞くものの、そちらまで足を延ばす機会はこれまで一度もなかった。
家業のために家族旅行の経験もなく、小学校での臨海学校は希望制だったので参加していない。つまり東京以外の海を訪ねたのは、初めてのことだったのだ。
海沿いの道に進み海岸間近から海原を眺めれば、なぜかとてつもなく懐かしい場所に来たような気がした。炭治郎は訳も分からず滲んできた涙を、潮風のせいにして袖でぐいと拭った。
「どうした」
「……いえ、なんでもないです。この道をしばらく真っ直ぐ行くんですよね」
海岸線に沿って続く道を見遙かせば、しばらく道沿いに家屋や工場が続いた後に線路が内陸側から現れ横を走り始めるのが分かる。
やがて陸側は大きく起伏し、海に面して高い断崖となる。国道は崖の中腹を抉り海側に支柱を立てた洞門の中を通っていくが、線路はその脇のトンネルへと消えていく。電車で通った時にやや長いトンネルを通り抜けたことを炭治郎は思い出した。
そして洞門の途中で道は大きくカーブし、その先まで窺うことはできなかった。
「直進でおおよそ6.5kmだ。歩道はあるようだが一応車には注意しろ。休憩は入れないが、歩きながらでも水分は忘れず補給すること。気分が悪くなったらすぐに言え。いいな」
「はい」
冨岡の声は硬く、その口調は授業と同じように教条的だ。
こんな態度をとられても当然だ、仕方ないと落としかけた肩を炭治郎は無理強いにも引き上げた。決して遅れることなく歩き通して、この上彼に迷惑がかからないようにしなければ。
国道ということは幹線なのだろうが、平日の昼日中であるせいか通る車はごく少なかった。炭治郎たちの他には歩行者の姿もなく、こんなにいい天気であるにも関わらず海岸には人影もない。
同じ海沿いでも、東京のベイエリアとはまったく様相が違う。そう思うと、まるで見知らぬ国にふたりきりで来たような感覚になった。
知らない道を躊躇わず進む冨岡の背を、炭治郎はただひたすらに追う。アスファルトを踏むふたり分の足音が、砂を噛むノイズを伴わせながら先へ先へと続いている。
電車の中からは聞くことのできなかった不規則な波音が、ふたりの道行きを覆い尽くすように高く低く響き続けている。
この海を遠く車窓から眺めていたほんの数時間前、炭治郎はボックスシートで冨岡と向かい合って座っていた。
彼が好きで、かなうことならいつまでも一緒にいたいと願った。もし受け入れられずとも、きっといつかこの想いを伝えようと決意した。
だがその望みは、こんな短い時間の内に最悪の形で崩れ去ってしまった。
何もかも自分が悪かったのだと納得しようとしたところで、胸を切り裂かれるような痛みは消えはしない。
―――もう好きでいたら、いけないのかな。
―――諦めて、忘れてしまわないといけないのかな。
そうしなければならない日がいつか来ることは覚悟していた。だけどそれは決していまではなかった。炭治郎は零れそうな涙を手の甲で必死に拭い、唇を噛んで嗚咽を殺した。前を行く冨岡にはそれを気づかれることがないように。
いつしか道は洞門へと差し掛かり、じりじりとした空気は一転暗く冷える。陰鬱な気分と裏腹に初夏の日差しから解放された身体は心なしか軽くなり、肩にかけた荷物の重さも不思議と減ったように感じられた。
無意識にほっと息を吐きまた支柱の合間から見える海へと目をやったところで、前を歩く冨岡の歩調が少し緩んだことに気づく。どうしたのだろうと目を遣れば、どうやらボストンバッグに入れたペットボトルを取り出すのに苦戦しているようだった。中で何かに引っかかっているらしい。
反射的に炭治郎が手を出してバッグを支えてやると、冨岡はもう片方の手もファスナーの中に入れて無事ペットボトルを取り出した。
「ありがとう。助かった」
振り向いた冨岡と目が合い、炭治郎は心臓を跳ねさせた。その口元に、これまで見たことのない無防備な微笑みがあったからだ。
「え、いえあの、ぜんぜん」
思いもかけないその表情に、炭治郎は上擦った声を返すことしかできない。その様子に何か気づいたのか、冨岡ははっとした顔でまた前を向きペットボトルの水を呷った。
「お前も水分補給しておけ」
肩越しに聞こえた声はまた元の硬さになっていたが、炭治郎は不思議と肩の力が抜けたような心地になっていた。
―――このひとを好きでいるのをやめるなんて、無理だ。
さっきほんの一瞬見せてくれた、何気ない笑顔。子どものように素直なありがとうという言葉。
財布を失くした炭治郎のために付き添ってくれたこと。電車の中で熱中症を心配してくれた時の不安げな表情。
厳しさの中に時折見え隠れする優しさ。口下手で不器用でぶっきらぼうで、でも生徒の様子を常に気遣っていることが分かる態度。清らかな水のように澄んだ匂い。
入学式の日に見た、凛と佇む彼の姿。
こんなに何もかもに惹かれているのに、想いを閉ざすことなどできるはずがない。そう思い知らされた途端、忘れなければと凝っていた気持ちがふっと解けたのだ。
―――受け入れてもらえなくたっていい。あなたの迷惑にならないように、ひそかに心で想うだけにしますから。
そのくらいは、許してもらえますよね。
炭治郎は少しだけ足を止め、海から差し込む光に冨岡の背を見た。体育教師らしく筋肉が張り詰め真っ直ぐに伸びたその背中は、初めて彼の姿を見たあの入学式の日と変わらずにうつくしかった。
やがて洞門が途切れ、眩しさに一瞬閉じた目を開いた時には視界いっぱいに空と海の青が広がっていた。道は洞門の先から内陸側にカーブしてゆき、海に突き出すその突端に出口があったのだ。
山並みは陸側の奥へと遠ざかってゆき、国道添いには再び民家が立ち並び始めている。いずれも昔からここにあったことをうかがわせる、古い木造の平屋である。
線路はと周囲を探したが、やはり海から遠ざかってしまったのか近くに見つけることはできない。そういえばUターンのために降りた駅からは既に海は見えなかった。
炭治郎は左手首の腕時計をちらりと確認した。午後1時20分。ここからまたしばらく、海岸線に沿って道は続いてゆく。
道すがら眺める家々には確かに誰かの生活があり、だがその気配をいまこの時道端からうかがうことはできなかった。きっと人々が仕事や学校に出ていく朝や帰ってくる夕方、あるいは休みの日であれば、ここの住人たちの姿を見ることもできたのだろうに。
できることなら、自分たちとは違う場所で違う暮らしを営むその人たちの姿を見てみたかった。
そして見たもの感じたことを、いま前を往くひとと並んで語り合ってみたかった。
―――先生の隣に行きたいな……。
洞門までと比べ、歩道は少し広がっている。ふたり並んで歩けないことはない幅だ。仮に写真のことがなければもしかしたら隣を歩くことができたのだろうか。そう考えると前後に歩くこの形が一層切ない。
きっともう、彼とふたりで歩く機会など二度とないだろうに。
それに生徒と教師としても、この先ずっとこんなふうにいなければならないのだろうか。冨岡に背を向けられ、自分からは近くに寄ることもできないような関係のままで。
―――それは、嫌だ。
特別な関係になれずとも、少なくとも教師としては向き合ってもらえる関係でいたい。下心を許してもらえないのは当然としても、生徒としての自分まで見捨てられたくはない。
炭治郎は教師としての冨岡も尊敬している。彼の教えを受けることができて本当によかったと、心から思っているのだ。
―――ちゃんと謝らなくちゃ。
考えてみればまだ、冨岡の写真を勝手に撮って所持していたことを謝罪していなかった。自分の立場ばかりに気を取られ、その場で謝ることができずにいたのだ。
―――いくら動揺してたとはいえ、謝ることすらできなかったなんて恥ずかしいぞ、炭治郎。俺は弟や妹たちの手本にならなきゃいけない人間なのに。
いつ、どう切り出して謝ろう。そう考えるうちに冨岡の背の向こうに建物が寄り集まっているのが見えた。おそらくは駅を中心にした市街地で、ここまで歩いた距離からしてきっと目指す駅がそこにあるのだろうと見当がつく。
この道程が尽きてしまうことを惜しむ一方で、初夏の陽射しに摩耗した身体はようやくひと段落つけそうなことに安堵していた。持たされたペットボトルの水ももう残り少ない。
「そこの町まで、あと1.5kmといったところだな」
やはり先が見えたことにほっとしたのか、冨岡が後ろを振り向くことなくそう告げた。はい、と炭治郎は応じ、そしていよいよ冨岡に切り出す覚悟を決めた。
「冨岡先生。あの、……すみませんでした」
思い切って呼びかければ、冨岡は足を止めずに炭治郎の方をちらと見た。彼の表情は常と変わらないように見えたが、僅かに顰めた眉が前髪の奥に垣間見えた気がした。
「財布のことなら、俺に謝る必要はない。お前に落ち度がなかったとはいわないが、少なくともお前の責任じゃない」
「それだけじゃなくて、その……写真のこととか」
彼は再び前を向き、小さく首を落とした。
「了承も得ずに人の写真を撮るものじゃない。それくらいは分かっているな」
「……はい」
「分かってるなら、それでいい」
冨岡は静かにそう言うと、再び口を閉ざした。
「写真、俺が持ったままでいいんですか」
「写真の所持は校則に違反しない」
「でも」
「……俺がやめろと言えば、やめるのか」
最初に宣言した通りこれまで休むことなく歩き続けていた冨岡が、突然に足を止め炭治郎を見据えていた。
逆光で陰になった青みの瞳が、底知れぬ深さを湛えている。その奥にひそむ言葉も感情も炭治郎には窺い知れないというのに、どうしてかその瞳にどうしようもなく揺さぶられる。
少しの沈黙の後に、炭治郎は「いいえ」と答えた。
冨岡の問いは、単純に写真の保持について質したものだったのかもしれない。だが取りようによっては、炭治郎の恋情にまで問いかけたもののようにも感じられた。
彼を追うことはせずとも、想いを捨てることはしない。それは今しがた決意したばかりのことだ。もしそう感じたのがただの勘違いであったとしても、そこで頷くわけにはいかない気がしていた。
「なら、謝るな」
冨岡はそう言うと、振り切るように再び背を向け歩き出した。
これでいいのだろうか。炭治郎は一瞬そう思いかけ、慌ててかぶりを振って冨岡の近くまで駆け寄った。謝るべきことはきちんと謝ると決めたのだ。このまま曖昧にやり過ごすことはできない。
「黙って先生を撮ってしまったことは謝罪します。失礼なことをして、本当に申し訳ありませんでした!」
走った勢いで、炭治郎は思い切りよく冨岡に頭を下げる。冨岡の歩調が少し緩み、肩の向こうで小さな溜息が聞こえた。
「……別に怒ってない」
「でも」
「こういう仕事だ。多分お前以外にも、知らないうちに勝手に写真を撮っている奴はいる。いちいち咎めるほどのことじゃない」
その言葉に、炭治郎は何も言えなくなった。
冨岡は厳しい生徒指導で恐れられてはいるが、顔立ちもスタイルも整っていて格好がいい。彼の写真をこっそりスマホに収めて見せ合っている女子生徒を、炭治郎も何人か知っている。
冨岡だけではない。キメツ学園には男女ともに見目のいい教師が何人もいて、彼らも同様に生徒たちの憧れの対象となっている。考えてみれば、そういった風潮を教師たち自身が知らないはずもない。
だが冨岡が続けて言ったのは、生徒たちの意図とはまったく逆のことだった。
「学園内の風紀を保つためとはいえ、俺のことはうるさくて憎らしいだろう。写真に恨みをぶつけるくらいのことはしてもいい。お前にもかなり厳しく指導しているし、仕方ない」
はっとして、炭治郎は胸ポケットに手をやった。いつも着用しているピアスだがさすがに風紀主任の冨岡と行動するのに着けたままというわけにもいかず、外してポケットにしまっていたのだ。
父の形見であるこれは、冨岡の指導対象である。竹刀を持って追いかけられ没収されたことは枚挙にいとまがない。
だがそれは、冨岡の仕事だからだ。それで冨岡を恨みに思うことなどあるはずがなかった。
「違います!」
炭治郎は咄嗟に叫んでいた。冨岡がさすがに驚いた顔で後ろを振り返った。
「俺は、先生のことが嫌いで写真を撮ったわけじゃありません。ぶつける恨みなんてひとつもありません。俺は、俺がこの写真を撮ったのは―――」
駄目だ。この先を言っては駄目だ。炭治郎は震える拳を握り、唇を噛み締めた。
何もかも勘違いされていた。気持ちが悪いと忌避されていたわけじゃなく、嫌われていると思って距離をとってくれていた。
「竈門、もういい。無理をするな」
「―――先生。俺、先生のこと尊敬してます」
誤解をされたままにはしたくない。でもいま本当の気持ちを言うことはできない。だから生徒として、先生への思いを伝えよう。炭治郎は真っ直ぐに冨岡の目を見て口を開いた。
「誤魔化したり都合のいいことを言ったりせず、いつでも真剣に指導してくれる先生を尊敬してます。俺たちのことをちゃんと見て考えてくれる、厳しいけど本当は生徒思いな先生を尊敬してます」
「竈門」
「俺のことを心配してわざわざ付き添ってくれた、優しい冨岡先生が好きです。尊敬してます」
―――あなたが俺たちを、生徒を愛してくれているように、あなたもまた愛されるべきひとなんだと知ってほしい。
「不思議だな。お前にそう言われると、本当のような気がしてくる」
炭治郎が見つめるその先で、冨岡が微かに口元を綻ばせた。切れ長の目元も僅かに緩み、常にはないやわらかな気配を纏っている。
炭治郎はそれに一瞬見蕩れ、上手く言葉が出てこなくなった。
「嘘、じゃないです。ぜんぶ」
「そうだな。お前は嘘をつかない。だから、本当のことなんだろうな」
ありがとう。少し気恥ずかしげに頬を染めながらも、炭治郎の顔をしっかりと見返して冨岡が言った。炭治郎は小さく首を振り、強いて笑ってみせた。
恋する相手にこんな表情を向けられただけで幸せで仕方ないのに、慕情は尚更につのり炭治郎の胸を締めつける。
もっと彼の傍に行きたい。抱き締めて愛していますと告げたい。なのに何故それが叶わないのかと、心のどこかが泣いている。
「さあ、あと少しだ。行くぞ」
冨岡は表情を引き締め、足を踏み出した。
炭治郎もまた気持ちを切り替え元のように冨岡の背を追おうとしたが、ふと思い立って足を速め彼の隣に並んだ。
「先生、隣を歩いてもいいですか」
見上げて問うと、冨岡は一瞬不思議そうな顔をしたもののすぐに「構わない」と応じた。嬉しさに頬を緩ませ、炭治郎は冨岡と肩を並べて歩き出した。
彼とふたりきりで歩くのが、これで最後になったとしてもいい。そう思えるようにしたかった。
いよいよ海沿いの国道を離れ駅へと続く道へ曲がると、周囲は次第に飲食店や雑居ビルが多くなり人通りも増えてきた。さっきまでの静寂が嘘のようだった。
数百メートル歩くと、突き当たりに目的の駅が見えてきた。午前中乗り降りした小さな駅とは異なり、町の賑わいにそぐうコンクリート造りの中規模な駅だ。
駅前には車を回すためのロータリーと大きな駐輪場が配置されており、ロータリーの中心にある花壇は手入れがされて色とりどりの花が咲いている。
ロータリーを回って駅舎に入ると中は小さいながらもホールになっていて、子どもたちの絵や売店が炭治郎の目を引いた。だが冨岡は改札脇に張り出されている臨時運行表へと真っ直ぐ歩み寄り自分の腕時計と見比べていた。
「思ったより早く着けたな」
冨岡の呟きに、炭治郎は改札の上に設置された掛け時計を確認した。午後1時45分。運行表を見れば13時の欄に50分と記載がある。
「先生、5分後に出る電車があるみたいです。急ぎましょう」
この電車を逃せば、次の発車は14時25分だ。だが冨岡はスマホで何かを確かめ「間に合うな」とまた独り言ちた。
「竈門、来い」
炭治郎に声をかけ、冨岡はさっさと駅舎を出て行く。まさかこの先もまだ歩くつもりなのではと炭治郎は一瞬ひやりとしたが、ロータリーを出た冨岡が向かったのは駅前の蕎麦屋だった。
あの、と声をかける炭治郎に構わず、冨岡は暖簾の裏の引き戸を開ける。来い、と言われたんだからついていっていいんだよなと、炭治郎も躊躇いつつも冨岡に続いた。
店内は古びてはいたが小綺麗だった。時間が遅いせいか他に客の姿はなく、冨岡と炭治郎は手近なテーブルに向かい合わせで座った。
「少し遅くなってしまったが、昼食を済ませてしまおう。蕎麦でいいな」
そういうことは店に入る前に訊くものじゃないだろうか。そう思いつつも炭治郎ははいと頷く。炭治郎はパン屋の息子ではあるが蕎麦も好物だ。基本的に嫌いな食べ物がほとんどない中でも、かなり好きな方だと言っていい。
「でも、いいんですか。お店で……」
元々は買って済ませるということだったので、コンビニでおにぎりかサンドイッチでも買うものだと思っていた。「時間なら気にしなくていい」と冨岡は答えた。
「ここから〇〇海岸には一時間半で着く。さっきの電車に乗ってしまうと逆に時間が余る」
「あのいえ、それもですけどそれだけじゃなくて」
そこへ若い女性店員が注文を取りに来た。まだ品書きを見ていなかったと炭治郎は焦ったが、冨岡は躊躇いなく「ざる三枚ずつ」と炭治郎と自分を指して注文を告げた。
数に驚いて目を丸くした炭治郎をよそに「大盛りが二枚分入っていてお値段お得ですよ」と店員が言った。「では大盛り一枚普通盛り一枚ずつ」と冨岡が注文を言い直し、店員はそれを承けてカウンターの方へ戻っていった。
呆気にとられている炭治郎に、冨岡はこともなげに「成長期なんだから食べられるだろう。三枚」と言った。
「食べられます、食べられますけど」
「ここは俺が出すから、値段も返却も気にしなくていい。あれだけ歩いたんだから腹が減っているはずだ。しっかり食べろ」
「だ、駄目です! 先生は先生なんですからそういうのは駄目です! 帰ってからお代はちゃんとお返しします!」
職務中の教員に奢らせるわけにはいかないと炭治郎も必死で言い募ったが「この程度は問題ない」と一蹴されてしまった。
「他のものが食べたかったならすまないが、さすがにゆっくり食事をするほどの時間はないからこれで許してくれ。蕎麦は好きか」
「はい、大好きです」
「そうか」
冨岡はふふと笑い、ちょうど運ばれてきた大盛りの蕎麦に「いただきます」と手を合わせて箸をつけ始めた。こんなことがあって大変だったけど、先生の笑顔を何度も見れて嬉しいなあ。そう思いながら、炭治郎も同じく手を合わせて蕎麦を口に運んだ。
普段家で使っている市販のめんつゆよりも甘めの蕎麦つゆは、かつおの出汁が利いていて太目の麺によく合った。旨い、美味しいと言い合って食べるうちに大盛りの蕎麦は瞬く間になくなっていき、いつの間にか随分腹が減っていたことに今更に気づく。考えてみれば昼食にはかなり遅い時間だ。
冨岡の方といえば既に大盛りのざるを食べ終わり、普通盛りの方を食べ始めていた。学校での彼が普段簡単にパンやおにぎりで済ませていることを知っているので、今日はやっぱりたくさん歩いてお腹が空いたんだろうな、と炭治郎は彼が黙々と食べる様子を微笑ましいような気持ちで眺めた。
「……何が面白いのか知らないが、俺が食べるのをのんびり見てる余裕はないぞ」
いつの間にか食べるより彼を見る方に気を取られていて、しかもそれを冨岡に見抜かれていたらしい。炭治郎は慌ててざるに残った蕎麦をかき集め、つゆに入れて一気に啜り込んだ。
食べ終わって店を出た頃にはすっかり腹が重くなり、電車の時間は間近に迫っていた。急げ、という冨岡の号令で駅へと走り大急ぎで切符を買って電車に乗り込む。かろうじて駆け込み乗車にはならずに済んだタイミングで電車は走り出した。
電車の座席は午前中と同様にボックスシートで、発車待ちをしていた乗客で三分の一ほどがまだらに埋まっていた。そのうちの空いているボックスに再び向かい合って着座し、炭治郎はようやく落ち着いた心地で車窓を流れる町並みを眺める。
これまでずっと海を眺めながら来たものだから、いざ離れてしまえばどこか寂しい。最後に海岸を訪れれば、それでこの土地のうつくしい海とはお別れとなる。
もちろんこの先永劫に見られないというわけでもないだろうが、東京から遠く離れた場所でもありそうそう再訪問は叶わないだろう。せめて一枚くらい写真を撮っておけばよかったと炭治郎は悔やんだ。
海岸でみんなの到着を待つ間、一緒に写真を撮ってほしいと言ったら先生は嫌がるだろうか。あんなことの後だけど、訊くだけは訊いてみようか。徒歩で疲れた身体を電車の振動に心地好く委ねながら、炭治郎はそんなことを考えていた。
「ところで、竈門。恨みでもないならどうして俺の写真を持っていたんだ?」
同じくぼんやりと車窓を眺めていたはずの冨岡が突然そんなことを訊ねてきたので、炭治郎は思わず座席から飛び上がりそうになった。
なんとなくなあなあになって助かったと思っていたのに、どうしていまになってそれを訊くんですか。写真か。写真を撮りたいなんて俺が考えたからですか。嘘はつけず、かといって本当のことなど言えるはずもなく、炭治郎は口をぱくぱくさせ額に冷や汗を流した。冨岡は詰めるように更に「言えないのか」と見据えてくる。
「あ、あのそれは……先生が、先生のことが……かっこいいからです!!」
苦し紛れに繰り出した嘘でもない嘘は、思うよりずっと大きな声で炭治郎の口から飛び出した。冨岡はぎょっとしたように肩を跳ねさせ、通路向かいに座っていた老婦人ふたり組からも不躾な視線が飛んでくる。
さすがにまずいと炭治郎自身気づいたものの、もうこれを押し通してしまうしかない。
「先生は強くてかっこいいので、俺も先生みたいになりたくて……。それで写真撮って見てましたすみません!」
言ってからまるで子どもみたいな言い分だと恥ずかしくなり、炭治郎は頭を抱えた。
さすがに失笑されただろうか。おそるおそる冨岡を見れば、彼は何故か突然消沈したように目を伏せていた。
「先生、どうしたんですか」
「……なんでもない」
なんでもないと言われても、唇を固く閉じ目を逸らす様はとてもそうには思えない。炭治郎とて好きなひとがそんな顔をしてるのに、心配しないでいられるはずがなかった。
「冨岡先生。もしかして失礼なことを言ってしまったのなら謝ります。でも歩いてたときにも言ったように、俺は本当に先生のことを尊敬してるし、強くてかっこいい人だと思ってるんです。その言葉に一切嘘はありません」
どうか誤解なく届いてほしくて、炭治郎は真剣に力をこめて言葉を紡ぐ。だが冨岡は視線を上げず、小さく横に首を振った。
「違う。お前は何も悪くない。悪いのは俺だ」
「本当に、どうしたんですか。先生らしくないです」
炭治郎が知る冨岡は、いつも毅然と立ち生徒たちを指導していた。猛々しさはないが威厳があり、凛としてうつくしかった。
自分も指導される対象だというのに、炭治郎は彼のそんな姿に見惚れていたのだ。
「……俺は、強くなんかない」
ややあって彼がぽつりと呟いた言葉に、炭治郎は目を見開いた。
「昔から、自分は弱いから何もできないんだという思いが常にあった。何故かはわからない。家族にも、剣道を教えてくれた鱗滝先生にも、道場で出会った友人にもそんなことはないと否定されたが、どうしてもそんな思いを取り去ってしまうことができない」
炭治郎は何か否定する言葉を返そうとしたが、何も言うことができなかった。
「鍛えていると、いつかもしもの時に役立つような気がして少し気が楽になった。それで勧められるままに体育教師にまでなったが、それでもまだ自分が無力だという意識が消えない。……多分、本当に俺は弱いんだろう」
絶句する炭治郎の前で、冨岡はゆっくりと目を上げて車窓を見る。炭治郎から目を逸らすように。
「竈門が尊敬していると言ってくれて、嬉しかった。今日だけじゃない。うまく指導できずきつい態度をとってしまう俺に、お前はいつも笑顔で接してくれる。俺はお前にずっと救われていた。
―――だけど、それも何もかも俺が強い人間だと勘違いしていたからだと分かって、少し、つらかったんだ」
「……違う」
厳しい風紀指導を生徒に恐れられても、彼は何ひとつ曲げることはなかった。口下手でも不器用でも、生徒の規範として厳然と立ち続けた。
弱さを抱えてなお強くあろうとしていたなら、それこそがきっと強さだ。
「先生は弱くなんてない。ずっと俺たちを導いて、守ってくれているじゃないですか。弱い人にそんなことはできない。先生は強い人です」
虚を突かれたような表情をした冨岡の手を取り、炭治郎は訴える。
「それに、俺が先生を好きなのは強さだけじゃないです。優しくて、不器用で、真っ直ぐで。目が澄んでいてとてもきれいで。話をじっと聞いてくれるところも、駄目なところは叱ってくれるところも、全部全部好きなんです」
自分の手を取り中腰で滔々と話す炭治郎の顔を冨岡は目をしばたたかせながら呆然と眺めていたが、やがてその顔はみるみる赤くなる。あれ?と炭治郎が首を傾げると、冨岡は手を取られたまま顔を背けた。
「竈門。頼むから口に出す前に考えろ。それは多分、お前が意図したのとは違うように聞こえる」
「えっ」
炭治郎はまだ興奮の冷めない頭で自分の発言を思い返す。冨岡は弱くなんかないと言った。それに他にも冨岡にいいところはあると、自分は彼のこういったところが好きなのだと思いつくままひとつひとつ挙げて、彼の手を握って―――。
「うわ、うわあああっ!? 俺、おれ、おれ」
冨岡への尊敬と愛情は炭治郎にとって不可分で、前者を伝えようとしていたはずなのにいつの間にか好意が混じり告白の様相にしてしまった。もちろん想いを告げるつもりなど寸分もなかった炭治郎は、慌てて冨岡の手を離すと両手で顔を覆って蹲った。とてもではないが冨岡の顔をまともに見られない。
「竈門、やめろ。そんな……。余計勘違いするだろう」
上擦った声音で冨岡が呼びかけてくる。炭治郎は顔を押さえたまま小さく首を横に振った。
嘘はつけない。もしつけたとしたって、このひとにはつきたくない。
自分の心をすべて捧げてもいいと思った、このひとにだけは。
「勘違い、じゃないです」
ひゅっと、冨岡が息を飲む音がした。
「生徒として先生を尊敬してるのも、それとは違う気持ちがあるのもどちらも本当です。先生の近くにいるのが、隣に並ぶのが嬉しかったのも、写真を持っていたのも……」
最初から、望みなどひとつもない恋だった。
こうして不本意な形で彼に打ち明けることになってしまったが、いずれ破れるものが早くなっただけのことだ。
それならせめて、この想いを大切に彼に渡して終わりにしたい。炭治郎は意を決して顔を上げ、冨岡の瞳を真っ直ぐに見つめた。
―――ああ、こんなにも、青い。
「やめろ!」
突然に、冨岡が叫んだ。
炭治郎は思わず口から出掛けた言葉を飲み込んだものの、事ここに及んで「では黙ります」と言えるわけがない。屈せずもう一度声に出そうとすると、今度は手首を掴み上げられた。
「なにするんですか!」
「言うなと言ってるんだ!」
「どうせこれっきりになるんです、聞くだけ聞いてくれたっていいじゃないですか!」
「聞いたら本当にこれっきりになるだろうが!!」
えっ、と声に出し、炭治郎は僅かに高い場所にある冨岡の顔を見上げた。
酷く苦しげに眉根を寄せ、冨岡は炭治郎を睨み据えていた。
「終わらせるために、勝手に始めないでくれ」
冨岡の手が離れてゆき、やがて彼の膝に落ちた。冨岡自身もまたぐったりと肩を落とし、首を前に傾けた。
掴まれていた手首はひりひりと痛み、全身が強ばり震えていた。なにかとてつもなく良いことが起こったことは理解できるのに、感情が中々追いついてこなかった。
言うなと言われた。好きだと言ってしまえばこれきりになる。炭治郎は生徒で冨岡は教師だからだ。恋情を打ち明けられても、冨岡の立場では拒絶しなければならないのだ。
つまり本当は拒みたくない。終わらせたくない。彼は暗にそう言っている。
ようやくじわじわと、炭治郎の心に歓喜が昇ってきた。
「……待っていてくれるって、そう思っていいんですか? 諦めなくても、ここで終わりにしなくてもいいんですか?」
「いちいち訊くな。俺は答えられない」
冨岡はふいとそっぽを向いた。その頬には赤みが差していて、こんなに可愛らしいところがあるひとなのかと炭治郎はつい笑みをこぼす。
「分かってるのか。何の約束も保証もやれないぞ」
「いいんです。充分です」
彼の本当の優しさ。様々な表情。見せてくれた弱さと改めて知った強さ。想いを向けてくれていたこと。そのひとつひとつが、あと2年を待つに足るものだ。
それから間もなく目的駅の到着アナウンスが流れ、炭治郎と冨岡は荷物を持って立ち上がった。
通路向かいの老婦人ふたり組はいつの間にか下車したらしくいなくなっていたが、乗降ドアへ向かうすがらに炭治郎らと目が合った若いカップルがにっこり笑って目礼してきた。女性の方に至っては小さく拍手する仕草まで見せた。
車内で何をどんな音量で話していたか。それに今更思い当たったふたりは、共に真っ赤に茹だった顔で電車から降りることになってしまった。
駅を降りておよそ20分歩き、炭治郎と冨岡は最後の目的地へとたどり着いた。時刻は午後四時三十分を少し過ぎたところだった。
海を望む高所に整地されたそこは、観光のための展望台となっている。とはいえ無料で出入りできる石畳の広い園地は地元の人々の公園ともなっている様子で、辺りには散歩に休憩にと思い思いに過ごす人たちの姿がある。
海側に張り出した転落防止柵から外を眺めてみれば、眼下に細く道が走っているのが見えた。おそらくあの道は、炭治郎と冨岡が歩いてきたあの国道に続いているのだ。
太陽は西に傾いているとはいえまだ夕色を見せるには至らず、海原も彼方まで青々とうねっている。だが険しい岩肌に囲まれ海中に突き出した岩を点々と見せた眺望は落日ではなくとも充分に素晴らしく、炭治郎は手摺に指をかけてしばらくその光景に見入っていた。
靴音をさせ、後ろから冨岡が隣に並ぶ。彼は到着したことを学年主任の悲鳴嶼に報せる電話をかけていたのだ。
「あと15分程でみんな到着するそうだ」
「そうなんですね。でも、ちょっと夕日を見るのには早いかなあ」
「散策も含めて一時間滞在予定だ。なんとか見られるだろう」
「はい」
炭治郎と冨岡は、ただそこに並んで佇み海を見た。長くふたりに寄り添ってくれた、穏やかに晴れた初夏の海を。
「……先生、手をつないだりとか……」
「駄目に決まってるだろう」
「ですよね……」
苦笑いで肩を落とした炭治郎に顰め面をしてみせた冨岡は、直後僅かに唇をほころばせた。
「写真くらいなら、一緒に撮っても構わない」
「えっ、本当ですか!?」
「ただし並んで写るだけだ。互いの身体に触れるのは禁止。なんらかの意味を想起させるような動作も禁止。極端な表情作りも禁止。それでいいか」
「証明写真じゃないんですから……」
それでも彼とふたりでフレームに収まれるのが嬉しく、炭治郎はスマホのインカメラを立ち上げ、その場でいっぱいに腕を伸ばした。スマホの画面には笑顔の自分と無表情の冨岡、そして背後に広がる青い海が映っていた。
この海が夕陽の色に染まる頃、もう炭治郎と冨岡はいつもの生徒と教師に戻っている。青い海だけを心に残して。
ふたりの間には約束も保証もない。ただあるのは互いに心に秘めた想いと、ふたりきりで小さな旅をした思い出だけだ。
だけどいつか、教師と生徒ではない新しい関係になった彼と、ふたりで海に沈む夕陽を眺める日がきてくれればいい。肩を寄せ手を繋いで、いつまでも海を眺めていられればいい。
祈りのように、炭治郎はそう思っている。
海は、まだ青い。