雪鳴り 細雪のしんしんと降る夜は、山になにひとつの音もない。
生き物たちがたてる微かな物音もみな雪に呑まれ、風鳴りがやめばあとは静寂があるばかり。山中のこの粗末な炭焼き小屋でも囲炉裏に灰をかぶせたところであったので、いまは暗がりの中に小屋の主である男の静かな呼吸が聴こえるばかりだった。
この炭焼きの男は、名を炭治郎といった。数えで二十になったばかりの、まだ歳若い男だった。
山深い里に暮らす者が多くそうであるように、炭治郎もまた春から秋は里にある小さな田を耕して暮らし、稲刈りが終われば山に入って炭を焼いた。
だが炭治郎は他の里人がそうするように里と山を行き来することはせず、冬になれば山にこもり切りになった。かれには一昨年町に嫁いだ妹の他に家族がなかったので、誰もいない家に都度帰ることをしなくなったのだ。
この冬は、雪がよく降った。
いつもの年ならば松が取れてようやく膝丈を越えるほどの雪が、今年はまだ師走半ばで腿の高さになっている。これは正月を待たずして山を下りなければならないかもしれない。そう炭治郎は思っていたところだった。
明日の雪の具合を見て山を下りるか決めよう。そう考えていると、小屋から少し離れた辺りから獣の鳴き声が聞こえてきた。
けぉん、けぉん、けぉん。
途切れず続くそれは、狐の声だった。
子どもが親とはぐれたのだろうか。つい哀れを誘われ、炭治郎は半纏を着て外に出た。自らも幼い頃親を亡くしている炭治郎は、生来の優しい気性もあってどうしても知らぬ振りをできなかったのだった。
雪の中を少しばかり歩くと、木々の合間を三匹ほどの狐が跳ねていた。狐らは炭治郎に気づいて散り散りに逃げていき、これがあの鳴き声の主だったかと炭治郎は安堵して少し笑ったが、すぐにその笑いは凍りついた。ちょうど狐が跳ねていた辺りに、雪の上にわだかまる黒い影があったからだ。
急いで駆け寄れば、果たしてそれは人であった。
「大丈夫ですか!」
俯せる肩に触れれば冷たく硬く、生き死にすらも分からない有様だった。
狐らはおそらく、この人が死ぬのを待って喰おうと家族を呼び寄せていたのだ。それを悟り炭治郎はぞっと肩を震わせた。
「もし仏様になってたって、食い荒らされたくはないよな。狐たちには悪いけど……」
ともかく小屋へ運ぶために腕を引いて背負い上げようとすると、凍てつき始めていたその身体の主がううと小さな声を漏らした。
「よかった、生きてる!」
炭治郎は驚き、そして大慌てに冷たい身体を背負って小屋へと戻った。
小屋の戸を閉めるのももどかしく、炭治郎はさっきまで自分が潜り込んでいた薄い蒲団にその人を寝かせ囲炉裏に火を熾した。外の雪を鍋に詰めて炉の鉤にかけてから改めて様子をよく見れば、それは炭治郎より幾つか上と見えるほど若く、そして息を呑むほどに優艷な男だった。
凍えて血の気の失せたその肌は、まるで雪で型どられたように白く透き通っていた。固く閉ざされた目蓋は黒く長い睫毛に縁取られ、火灯りに濃い影を落としていた。
話に聞く都人とはかくのごとくかと思われるほど、その人はすがしくうつくしかった。
炭治郎はどうしても、この青白い小さなくちびるに血を透かしたような赤みが戻るのを見たくなった。その目蓋が上がり、かれの瞳が自分を映すところを見たくなってしまった。
見たこともないほどゆかしい男の姿に、炭治郎はすっかり魅入られてしまったのだった。
男の身なりは小袖に袴、羽織物と小綺麗なものであったが、それは到底雪山の寒さから身を守れるものではなかった。
一応手甲や脚絆といった旅支度はしていたものの、足元が足袋に草鞋では雪焼けを起こすばかりであっただろう。こんな雪の中を歩くには、必ず藁沓かかんじきが要るのだ。
京には雪は降らないのだろうか。かれが都人だと決まったわけでもないのに、炭治郎はふとそんなことを思った。
その手甲や脚絆、足袋を外し、小屋にあるばかりの布を湯に浸して、炭治郎は赤く腫れた男の手足を温めた。本当は湯桶があればいいのだが、この炭焼き小屋にそんなものがあるはずもない。炭治郎もここにいる間は、こうして沸かした湯で身体を拭くばかりであったのだ。
湯が冷める前に次の雪水を火にかけ、そうして炭治郎はかれを夜っぴて温め続けた。やがて空が白々と明ける頃に男はようやく血の気を取り戻し、炭治郎の前にゆっくりとその目蓋を開けて見せたのだった。
男の瞳は青みがかったうつくしい色をしていた。山深い湖に空の青が映り込んださまを炭治郎は思った。
かれは炭焼き小屋の様子とおのれのありさま、そして布を湯に浸しては手足に当てている炭治郎を見て、自分がここにいるいきさつをすっかり承知したようだった。男は身を起こし「世話をかけて申し訳なかった」と炭治郎に深く頭を下げた。
「寒さでお身体が弱っていて、手足も雪焼けしてしまっています。まだ動かしてはいけません」
炭治郎は慌ててかれを元のまま横にさせようとしたが、男はかぶりを振った。
「すまないが、ここにいるわけにはいかないんだ。これは少しばかりだが礼として取っておいて欲しい」
男はまだ利かない手で懐から巾着を取り出し、糸で束ねた小銭を炭治郎に渡そうとした。炭治郎はそれを押し返した。
「お礼なんて要りません。俺が助けたくて助けただけですから。だけど本当に、あなたはまだ動ける具合ではないんです。いま無理をすればまた雪の中で倒れて、きっと今度こそ死んでしまいますよ」
「それでも俺は、もう行かなければ」
かれは炭治郎が止めるのも聞かず足を踏み出そうとし、そして大きくよろけた。炭治郎は慌ててそれを支えた。
「どこもかしこも冷えてしまって、まだ血が充分に身体を巡っていないんです。お願いですからもうしばらくここに留まってください」
「……だが」
「少なくとも、この雪が止むまではここにいてください。いずれにしてもこの雪の中を行くことはできませんよ」
炭治郎は蔀戸を上げてかれに外の様子を見せた。細雪は未だ弱まる気配もなく降りしきっていた。
男は悩む風情であったが、炭治郎の言う通りと思ったのか結局は「すまないがいましばらく世話になる」と再び頭を下げたのだった。
男は「義勇」と己の名を告げた。かれはおそらく姓のある身分であろうと炭治郎は思っていたが、身許を明かしたくはないのだろうとあえてそれ以上を訊くことをしなかった。
「俺は炭治郎といいます。いまはここで炭を焼いていますが、在所は下の里です」
「農民か」
「はい。春から秋は田畑を耕して暮らしています」
そうか、と義勇は小さく呟き俯いた。髷が解けて流れた射干玉の髪が、火灯りに照らされて濡れたように輝いていた。
鍋に米と塩漬けの菜や干した魚を入れ、炭治郎は囲炉裏で粥を炊いた。菜や魚はここで正月を迎えることになったときのためにと山に持ち込んだものであったが、炭治郎はこの人をある限りのもので持て成してやりたかったのだ。
腹が中からぬくまれば、今度は薬籠に入った軟膏を手で温めながら丁寧にかれの雪焼けに塗った。それはなんだ、と義勇は炭治郎に問うた。
「熊の脂に蓬を練り込んだものです。雪焼けにはとてもよく効くんですよ」
「大事な薬だろう。俺などに使っていいのか」
「大事な薬だから、あなたに使って欲しいんです」
爪先や指先に軟膏を塗り込みながら、炭治郎はまだ赤く腫れたその箇所をやさしく摩った。こうしてよく摩ったり揉んだりしてやるだけで、雪焼けは不思議と早く治るのだ。
「温かい」
されるがままにしていた男が、目を細めてぽつりと言った。
「よかった。温かいならきっと効いているんです。早くすっかり治ってくれるといいんですが」
「軟膏もそうだが……お前のてのひらが触れた場所がどこもずっと温かくて、気持ちいいんだ」
かれの長い睫毛の下で、青い眼が炎に合わせてゆらりと揺れた。それがあまりに艶やかであったので、炭治郎の心臓はばくばくと暴れ出して止まらなくなってしまった。
炭治郎は摩っていたかれの手をそっと置き、一歩分だけ下がって姿勢を正した。
「……義勇さん。俺は、あなたのことを好いてしまったみたいなんです」
炭治郎は真っ正直な若者であったので、偽りなくかれに想いを告げずにはいられなかったのだ。だがすぐにかれを慮り、頭を下げて「ごめんなさい」と詫びた。
「俺のような侘しい身の上の、しかも男に、こんなことを言われてもお嫌ですよね。どうか俺の言ったことは忘れてください。お慕いする思いがなくたって、あなたに尽くして差し上げたい気持ちは変わりません」
義勇は白い頬を僅かに赤く染め「詫びるな」と小さな声で言った。
「俺も、お前のことを好ましく思う。……もっと触れてほしいと、思う」
赤く腫れた指を炭治郎の手に伸ばし、義勇は仄かに笑んだ。
炭治郎は想いが通じた嬉しさに呆然となり、かれの手を取り「義勇さん、義勇さん」とうわ言のように幾度も繰り返した。
目の前のうつくしい男は炭治郎を抱き寄せ、小さなくちびるを炭治郎のそれと合わせた。かれのくちびるは山桜の花びらのようにやわらかく、一度は頭に昇った血が身体中を駆け巡り炭治郎は言葉も出なくなってしまった。
かれはゆっくりくちびるを離し、炭治郎のそんな様子をひたと見据えた。
「お前が童ならばここまでだ。だが大人なら、その先がある」
炭治郎は齢二十になる男であったので、かれの言ったことの意味を理解できた。理解できたからこそ、かぶりを振らないわけにいかなかった。
「義勇さん、あなたのようなご立派な方が、俺みたいに出会ったばかりの相手とすぐに枕を交わすような真似をなさってはいけません」
炭治郎がそうたしなめると、義勇は柳眉を僅かに顰めた。
「俺は誰彼構わず共寝するような真似はしない。お前ひとりと心にさだめたからそうしたいと思った。それでも駄目か」
炭治郎は義勇の眼を間近に見て、その言葉に偽りがないことを悟った。
「お恥ずかしいですが、俺は誰かをこんなふうに想うのも、こういった意味で触れたいと願うことすら初めてなんです。お慕いしていると言っておきながら、なんの作法も知りません。きっとあなたに嫌な思いをさせてしまいます」
「それでいい。痛みもままならなさも、お前がくれるものなら喜んで受け取ろう」
そのときには炭治郎も、このひとはこの世にふたりといない愛しいものだと心にさだめていた。炭治郎は先だって嫁にいった妹のことを誰よりも慈しんでいたのだが、かれのことは妹とはまた違った意味ながら同じほどに愛しく思ったのだった。
そうして炭治郎は、義勇と契りを交わした。
はじめは何もかもがおぼつかず、炭治郎はおそるおそるに義勇の新雪のような肌に触れた。だが義勇がその身をくつろげ中に招き入れてくれたそのとき、かれをいとおしむ思いが温かな水となって炭治郎の大きな眼からぼろぼろと零れた。そうして炭治郎と義勇は離れることができなくなった。
それから二日二晩、まるで身体が溶け合ってしまったようにふたりの男は身を寄せて過ごした。義勇の傍に在るためにこれまで生きてきたのではないかと思うほど、炭治郎は幸せであった。
しかし三日目の明け方、とうとう雪がやんだ。約束だと言って、義勇は元のように支度を整えた。
炭治郎は一度だけ義勇を留めようとしたが、かれが頷くことはなかったので仕方なしに手を離した。雪がやんだらかれを見送るのは炭治郎から言い出したことで、違えることはできなかったのだ。
義勇が炭焼き小屋を出るとき、炭治郎は自分の藁沓を義勇に履かせた。自分より足の大きな義勇にこれを履かせるために、炭治郎は藁沓を湯に漬け木片を入れて伸ばしていたのだった。
果たして藁沓は義勇の足にぴたりと合った。「これを俺が履いていってはお前が困るだろう」と義勇は断ったが「俺はなんとでもなるので大丈夫です」と炭治郎は言って、隙間から雪が入り込まないよう沓の履き口を縄で括ってしまった。
戸口を開けて空を見れば、雪はやんでいるというのに黒い雲がいまだ空を覆っていた。せめてかれが山を下りるまではふたたび降り出すことのないよう、炭治郎は祈らずにいられなかった。
「炭治郎。俺のような者がここに来たことを、決して他で話してはならない。たとえお前の妹であってもだ」
去り間際にかれは振り向き、炭治郎にそう念を押した。何故かとは問いがたく、ただよほどのわけであろうと炭治郎はそれを呑んで頷いた。
「お前がこれを守ってくれれば、いずれまた会えることもあるだろう。どうか、頼む」
「必ず守ります。そうすればまた義勇さんに会えますか。会いにきてくださいますか」
炭治郎は堪え切れず涙をぽろぽろと零し、幼な子のように義勇にしがみついた。義勇は炭治郎の身体をかたく抱き返し「きっと」と絞り出すようにひと言だけ言った。
身をひるがえし、雪を踏みしめて二、三歩行きかけ、義勇はそこでまたふと立ち止まった。
「この山には、松があるな」
「はい、たくさんありますけど……」
炭治郎が答えると、義勇は少し考える様子を見せてから思いもよらぬことを言った。
「山を下りたら松明を作れ。秋までに千……いや、少なくとも二千本。里の者が総出でやればできない数ではないはずだ。松が足りなければ近隣から買い集めてでも作れ」
「二千本、ですか!?」
炭治郎は仰天した。何に使うにせよ、考えられない数であった。
「大きくなくていい。秋に刈り入れが終わったら、空いた田畑や畦道に二尺の間隔を置いて並べて立てろ。次の雪が降るまではそうしておくんだ。いいな」
かれは青い眼に鬼火のような光を灯して炭治郎に強く言いつけた。これまで見ることのなかったかれの穏やかならぬ雰囲気に炭治郎はわずかに竦んだが、訳の分からないことであっても義勇がそう望むならきっとひとりでもやってみせようと炭治郎は決意した。
炭治郎が頷いたのを見てとって、再び義勇は雪を踏んで歩き出した。きゅっ、きゅっと雪を踏む足音が、かけがえなくいとおしく触れた背と共に遠ざかっていった。
ああ、あのひとはきっと俺の思いもつかないような遠くへと帰っていくのだ。そう思えば身が千切られるように切なく寂しかったが、かれを押し留めるすべが炭治郎にあるはずもなかった。
さて、義勇と名のみを炭治郎に名乗ったこの男は、実は冨岡という立派な姓を持った武士であった。
かれは再び雪雲が迫ってきていることを見てとると大急ぎで山を越え、峰に隔てられた隣の領国へと入った。山のこちらは向こう側と異なり、冬でも雪が積もらない土地である。だが義勇は途中で藁沓を脱いで草鞋に履き替えることはしなかった。
川沿いの道を丸一日休まず歩き、義勇は周囲にひときわ高い城へとたどり着いた。これがかれの主君の居城であり、義勇は名乗りを上げて城門を通った。かれの主君は居室で義勇の訪れを待ち兼ねていた。
主は平伏した義勇に対して開口一番「ずいぶん遅かった」と咎めた。義勇はただ申し訳ありませんとだけ詫びた。
「相変わらず仔細は話さぬか。して、首尾はどうであった。人馬が通れる筋は見つけたか」
「は……」
義勇は小さくいらえを返し、そしてくちびるを引き結んだ。
この国は隣国に攻め込み領地を奪おうと長く画策していたが、あいにく平地の国境には相手方の家臣の城がある。それも音に聞こえたいくさ上手の武将であり、まともに攻め込めばその先のいくさが立ちゆかぬほど兵力を削られるのは必定だった。
これを撃ち破るには地の利のある場所を選ぶほかはなく、そのためには是非にも国境の向こうに陣を敷きたい。考え出された策がおよそ道などない山中の行軍であった。これならば警戒の目をくぐって兵を入れることができるからだ。
さらに降りた先には山に囲まれた小さな里があり、これが出城の代わりにうってつけであった。住んでいるのもわずか百人かそこらの農民ばかり。先遣隊が夜襲をかけて余さず踏みつぶしてしまえば、すぐさま敵陣に知られることもなく悠々と拠点を持てるといった寸法である。
ただしそれには、山中に人馬が越えられる道筋を得ることが要であった。義勇はそれを探す役目を命じられていたのだ。
冬のさなかにあえて山に入ったのは、草木が繁る時季であっては見通しが利かないからだ。当然里人に見つかることはあってはならないが、雪中を行き来する者はそう多くはないだろう。そう踏んだ上での探索行であった。
だがそこまで思案していても、やはり思いもよらぬことはあるものなのだ。
「……当地は峻厳にて足場悪く、到底人の通えるような場所ではございません。お屋形様にはどうかいま一度、この策をお考え直しいただきたく」
主は義勇の具申を聞き、眉間に皺を寄せて手に持った扇子をぱちりと鳴らした。気に入らぬものを見聞きしたときの癖であった。
「あの山は確かに遠目には険しいが、山腹に馬が通れるほどのなだらかな場所も多くあるはずぞ。でなければ、百姓どもが出入りすることもなかろう。草の者らからもそう聞いておる」
草の者、つまり金で働く忍のことだ。家臣には明かすことなく、領主は密かに彼らを雇っていたのだ。
「しかし草の者に道を決めさせるわけにはいかぬ。あやつらは金でいくらでも裏切りおるからな。さればお前に任せたのだ。……だが」
義勇の主はぎゅっと眉根を寄せ、義勇を睨み据えた。
「儂に隠し事をしておるな」
「……いいえ」
義勇はぎくりと身を縮めたが、悟られてはなるまいと腹に力を込め顔を伏せた。ふん、と主は鼻を鳴らした。
「分からぬと思うてか。お前の父が存命の頃より儂はお前を見知っておるのだぞ。いつものように口をつぐんでおっても、腹に後ろ暗いものを抱えておるのはよう見える。……向こうで誰ぞと通じたか」
通じるとはつまり、敵方と内通しているということである。義勇は額が床につくほど深く平伏した。
「内通はしておりません。ですが、雪山で難渋したところを下の里の者に助けられました。平生をつましく過ごす心優しい者です。彼らを殺すことは人の道に悖ります。どうかご再考を」
「絆されおって、痴れ者が!」
領主はいきり立ち、手にしていた扇子を義勇に投げつけた。扇子は伏したままの義勇の肩を打ち、床にぱさりと落ちた。
「斯様なところで足踏みしておっては、天下に覇を唱える機を永遠に失うてしまうわ。貴様は主家がいずれ滅亡の憂き目に遭えばよいとでも思っておるのか」
気の利いた者ならば主を宥める一語も出ようものだが、口下手な義勇は生憎そのようなわざを持ち得なかった。ただひれ伏し黙する義勇の頭上に、金物を触れ合わせるような怖気のたつ音が降った。
「どちらにせよ、内通の疑いある者を家中には置けぬ。恨むならおめおめと戻った己の不明を恨め」
義勇は深く息を吐いた。
きっとこうなるであろうことがかれには分かっていた。分かっていても主を諌める為に戻らずにはいられなかったのだった。
―――炭治郎。それでも俺はお前に逢えてよかったよ。僅かな時とはいえ、お前と契りを交わせて幸せだったよ。
―――守ってやれなくてすまない。どうか無事で。
「……ご存分に」
伏したままの義勇の背に重いものが振り下ろされ、それきりかれの意識は絶えた。
次の間から呼ばれた近習の家臣は、襖越しに事の次第をすべて耳にしていた。かれは事切れた同輩を痛ましげに見た後「内通の疑いがあったならば、すべて吐かせてから処分された方がよろしかったのでは」と讒言した。
「この木石のような男が内通などしておるものか。百姓やらに絆されたのは真のことであろう。―――しかし内通はしておらずとも、下賎の者を憐れみ刃を鈍らせるような者は信がおけぬ。軍の士気にも関わるわ」
「では、策は変わりなく」
「うむ。他に誰ぞ立てて山中を探らせねばなるまいな。明年の雪が降る前に、なんとしても城のひとつふたつは奪いたいものよ」
此奴の骸は人目につかぬ場所に埋め、家中には雪山で遭難したものと申し伝えよ。近習にそう言いつけ、領主は居室を出ていった。近習は頭を下げて主を見送ってから「いま横槍を入れるようなことを申せば殿のご勘気に触れると、冨岡殿とて分からぬではなかっただろうに」と呟いた。
あるいはそうしてでも構わないと思うほど、その農民とやらはこの男に重い存在であったのか。だがそれをかれに問い質すのももう叶わぬことであった。近習はかれに思いを至らせることをやめ、この始末を任せられる口の堅い小者はいるだろうかと考えを巡らせた。
もちろん炭治郎は、義勇の身に起きた禍いを知る由もなかった。
義勇を見送ってからすぐに炭治郎は細枝と縄でかんじきを作り、松の枝を打ちながら里へ下りた。このうえ山にいれば雪に降り籠められるかもしれない。そう危ぶんでのことだった。
里の家に戻った炭治郎は、家の破れを直したり縄や草履を編むかたわらに松の枝を割って松明を作った。枝がなくなればまた山の入れるところまで行っては松を伐り、そうしてひとりの正月も過ぎ去る頃には松明の数は四十ほどになっていた。
小正月に里帰りしてきた妹は、小山のように積まれた松明にびっくりした様子だった。
「お兄ちゃんたら、そんな数の松明をいったい何に使うの」
「ううん、それはちょっと言えないんだけど……」
妹に応えながらも、炭治郎は手を休めることなく枝を割っていた。こうして細く割った松を他の燃えにくい木と組み合わせ、まとめて縄で括れば松明ができるのだ。
妹は賢いうえに兄想いな娘であったので、これが兄にとって大切な仕事であることや、兄ひとりでやるにはきっと手数も時間も足りないのであろうことをすぐに理解した。かの女はさっと襷をかけ、みずからも割れた木片を束ね始めた。
「お前はこんなことをしなくていいんだ。せっかく骨休めのために帰ってきたんだから。それに松脂やささくれで手が荒れてしまうよ」
「遠慮なんかしないで。わたしはお兄ちゃんの役に立ちたいんだもの」
妹は炭治郎を助けて十本もの松明を仕上げ、翌日嫁ぎ先へと帰っていった。炭治郎はこれまでに組み上がった松明の数をかぞえ、これはいよいよ人の手を借りなければならぬと悟った。
そして炭治郎は日を置かず、名主の家を訪ねた。
この里の名主は若くして病で両目の光を失っていたが、近在の村に聴こえるほど聡明で思い遣り深い人物であった。かれは炭治郎を座敷に上げると見えない目をひたと向けて、何かあったのかと穏やかに訊ねた。
「わけあって、たくさんの松明が必要なんです。でも俺ひとりではできそうにありません。里の皆の手を借りられるよう、お力を貸していただけますか」
炭治郎が頭を下げて助力を乞うと、名主は静かに微笑んだまま少し首を傾げた。
「いつまでに、どのくらい必要なのかな」
「……二千本、要ります。秋の刈り入れが終わるまでに」
「そうか。それは炭治郎ひとりでは無理だね。だけど里の皆もそれぞれの仕事がある。皆から手間を貰うからには、それだけの理由がなくてはいけないよ」
義勇のことは決して言うことはできない。炭治郎は考えあぐねた挙句、しなければならないことのみを打ち明けることにした。いずれにせよ空いた田畑に松明を立てるには、その田畑の主とこの名主に許しを得なければならないのである。
「刈り入れのあと、空いた田畑に並べて立てます。雪が降る頃まで」
「二尺くらいの幅をあけて、かな」
義勇の言いつけをなぞるような名主の言葉に、炭治郎はびっくりしてかれの顔をまじまじと見た。
「これは炭治郎が考えたことではないね。誰かお前にそうするよう言った人がいるだろう?」
「……すみません。言えません」
約束を違えることはできず、炭治郎はがばりと伏して名主に詫びた。構わないよ、と名主は鷹揚に応えた。
「実を言えば、私にはそれがどのような立場の人かいくらか見当がついている。それに炭治郎がそれほどに信じているのなら、きっと私たちに害を為すような人ではないんだろうね。だから、私も信じることにするよ」
この名主は、幼くして父母を亡くした炭治郎たち兄妹を親のように気にかけ世話をしてくれた人であった。かれの信頼がありがたく、またひとり抱えていた重い荷が少しほどけたような心地にもなり、炭治郎は涙ぐんで名主に礼を述べた。
「ところでその人は、まだ炭治郎のところにいるのかな。できれば私も一度話してみたいものだけれど」
育ての親ともいえるこのお方があのひとと会って下さったらどんなにいいだろう。それが叶わないことを残念に思いながら、炭治郎はかれにすみませんと詫びた。
「その方は、それを言ってすぐにここを発たれました。もうひと月以上も前のことです」
名主はそれを聞き、急に優しげな顔を曇らせてしまった。
「そうか……。ご無事であればいいけれど……」
優しく聡い名主がそう言うのを聞いて、炭治郎の胸にも不安が湧いた。かれはそれを察してすぐに「ごめんね、きっと私の考え過ぎだよ」と言い添えた。
数日ののちに名主は里の者らを集め、秋までに各戸八十本の松明作りを頼んだ。
八十本ともなれば、その分の木を伐るだけでも大変な作業であった。里人たちはしばし渋ったが、炭治郎がかれらの前に自分が発案者であると名乗り出て丁寧に協力を請い願ったことで、炭治郎のためならばやってやろうという向きになった。里人たちはみな炭治郎が幼い頃から苦労して働いてきたことを知っており、また誰かが困っていれば必ず手を差し伸べる優しい若者であることも分かっていたからだ。
さらには名主が「朴の葉で下を包んで泥をつけないようにすれば、火をつけなかった松明は年貢の一部として納めることができる。作り損にはならないよ」と付け加えた。いくさとなれば松明はなくてはならぬものであり、いずれの領主もこれを大量に必要としていたのだ。
そして里を挙げての松明作りが始まった。
炭治郎は手の空く限りの時間を松明作りに注ぎ込んだので、それからひと月もしないうちに割り当て分が終わってしまった。なのでそれからは田畑の準備をしながら、山に行くのが難しい年寄りや病人がいる家の分の松明を作った。
さらには田植えの済んだ頃、町に住む妹がからむしの布を二反も織って届けてくれた。
着物にするには不向きな粗目の布であったが、裂いた布に松脂を塗って木片に巻けばそれだけで松明になる。松の木を伐って下ろす苦労が減るので、炭治郎はこれもまた細かくして里の家々に配った。
昼は田畑を耕し作物の世話をし、暗くなれば目の利く限り縄を編み松明を作り。炭治郎はいつもの年のなん倍も身体を動かして毎日働いた。そうしてくたくたになりようやく床についたときに思い出されるのは、決まって恋しい義勇のことであった。
二千の松明をすべて並べたら、きっと義勇さんはまた俺のところに来てくださる。いつしか炭治郎は何の根拠もなく、そう信じていたのだった。
やがて赤蜻蛉が山から里に下りてくる頃、とうとう松明は百五十本ほど余分をもって仕上がった。
稲の刈り入れが終わり、できた米を俵に詰めて里の蔵とそれぞれの家に仕舞い込んでいると「他の里や町に身寄りがある者は、妻子と年寄りをしばらくそちらに預けなさい」と名主が言った。里人たちはみな不思議に思ったが、この名主が言うことに間違いはなかろうとできる者はみなそうした。そして残った者たちで、朴の葉で泥除けした松明をすべて田畑や畦に立てた。
小高い場所からそのさまを眺めれば、まるで大きななにかの苗をびっしりと植えつけたようだった。
義勇さん、あなたがおっしゃったことはこうして全部できました。どうかご自分の目で確かめに来てください。炭治郎は心の中で幾度もそう呼びかけたが、かれがその姿を現すことはなかった。
それから幾日かのちの、月のない夜のことだった。
どの家の囲炉裏もすっかり冷えた時分、炭治郎が蒲団に横になっていると、戸の表から足音がした。だがそれは奇妙なことに、乾いているはずの土の上をきゅっ、きゅっと音をたてて歩いているのだった。
それはどうしてか、藁沓で雪を踏む音にとてもよく似ていた。
こんな時間にこんな音をたてて、一体何者がどうやって歩いているのだろうか。首を傾げてから、炭治郎ははっとして蒲団を跳ね上げ飛び起きた。それはいつかの時、炭治郎の藁沓で雪の中を歩いていったかのひとの足音と同じであるような気がしたのだ。
慌てて心張り棒を外し、炭治郎は外へ走り出た。だが既に足音は消え失せ、闇間に何者の姿もなかった。
あんまり義勇さんのことばかり考えていたから、空耳がしたんだろうか。首を捻りながら中に戻ろうとしたそのとき、黒々と立つ山にいくつもの光が見えた。山腹の際の方であった。
「あれ、狐火か……?」
山には時に怪しい光が出ることがあり、これを狐火と言った。放っておいても何の害もなく、確かめに上がっていっても跡形もない。そういったものである。炭治郎も何度かこの狐火を見たことがあった。
だが炭治郎がこれまで見た狐火は、十かそこらの光がふらふらと同じ辺りを漂っているものであった。この光はおそらく何百もの火が列を成しており、通りやすく緩い斜面を選んでこちらへ下ってきているようだった。
―――人だ。
炭治郎は大急ぎで名主の家まで走って戸を叩き、出てきた名主の妻に大勢が松明を灯して山を下ってきているようだと訴えた。そこへ名主が壁伝いに現れ、落ち着いた様子で山のどの辺りに見えたのかと訊いた。
「上の方です。下ってくるにはまだ一刻よりかかると思います」
「よく気づいて知らせてくれたね、炭治郎。すまないがあまねと手分けをして、里の人たちを起こして回っておくれ。それから早急に、すべての松明に火を灯してほしいんだ。かれらが山を下るより前に」
火種をお持ちください。名主の妻女がそう言って紙の覆いをつけた蝋燭を炭治郎に持たせ、またみずからも同じものを持った。名主も妻女も寝間着ではなく普段と同じ小袖姿であることに、炭治郎はそのとき初めて気がついた。
さあと急かされ、炭治郎は名主の家を飛び出した。
最初に出てきた顔見知りの男に蝋燭を渡して頼み、炭治郎はとにかくも皆に報せまわる役に徹した。あの聡い名主が夫婦で備えていたのだ。いかにものを知らない炭治郎であっても、これが大事であると分からないはずがなかった。
そうして村はずれまで声をかけながら駆け通し、小高いお社の傍まで来て炭治郎は里を見渡した。月のない暗い夜に無数の光が並ぶ光景は、まるで大勢の兵が燈火を持って整然と佇んでいるようだった。
翻って山を望めば、着々と下ってきていた光の列は中腹より下の辺りで止まっていた。里の松明もその数も、遠目に確かめられるであろう距離だった。
やがて隊列は道を引き返し、元来た方へ登っていった。明らかに自分たちよりも多く兵を備えたと見える里の様子に、攻め入るのを諦めたものと思われた。
明るく照らされた里に人々の歓声が響き渡るその一方で、離れた暗がりにいた炭治郎の眼からは次から次へと涙が零れた。
―――義勇さん、あなたは、こうなることをご存知だったんですか。
この戦乱の世では、いついくさに巻き込まれてもおかしくないことであった。
だがこの年のこの時期、しかも夜襲とまで予見できる者はきっと多くない。もしそうした者がいるとすれば、それは攻め込む側に汲みする人間でしかありえない。
ならばかれは、これを炭治郎に教えたかれは。
「義勇さん……」
ことここに至って、あなたは無事なのですか。いまどこにいるのですか。
「義勇さん! お願いです、返事をして。義勇さん! 義勇さん!!」
遠く山に向かい、炭治郎は喉が裂けるほど絶叫した。まだ中腹辺りにいるかれらにまで届くことはないと知りながら、そのひとを呼ばずにはいられなかった。
「義勇さん、会いたい……。ぎゆうさん、……ぎゆう、さん……」
炭治郎はとうとうその場に膝を折り、木の幹に縋って泣き続けた。
松明の温かな炎に照らされた里は、この世のものとも思えないほどに眩かった。
冬が来て、炭治郎は再び山の炭焼き小屋に籠った。また次の年も、そのまた次の年も、どれほど雪深い冬であっても炭治郎が山に籠るのをやめることはなかった。
それから間もなくこの国の領主は周辺十国あまりを従える大大名と主従の誓約を結び、その庇護下に入った。
以来その国が他から攻め入られることはなかったが、隣国を治めていた領主は別の大名に攻め込まれ、呆気なく滅ぼされたということだった。
やがて泰平の世が来るより二年前の冬、小さな里で田畑を耕し暮らしていた男は独り身のまま静かに生涯を終えた。
かれの弔いをするために集まった人々は、いつの間にか土間に揃えて置かれていた藁沓を見て首を捻った。それはかれがこれまで履いていたとは到底思えないほど古く、黒く朽ちかけていたからだった。