世界の終わりに ――その日の夕方、トーマスが帰宅すると、屋敷の使用人たちがバタバタとなにやら慌ただしい様子であった。
何かあったのだろうか? と彼が不思議に思っていると、ちょうどハトコが屋敷の奥からやってきた。
「トーマス君、今帰ったのか……あぁ、やはりお一人で戻られたか」
落胆してため息をついたハトコに、トーマスは怪訝な顔を見せた。
「仕事のときはいつも一人ですが……あの、何か?」
「いいか、トーマス君。落ち着いて聞いてくれ。――サラ君が、いなくなった」
「…は? え、サラが?」
話をにわかに信じられずトーマスは聞き返すと、ハトコは眉間にシワを寄せた。
「君がそう言うのも無理もない。私も報告を聞いて、初めは耳を疑った」
歩きながら話そうとハトコに言われ、トーマスは彼の背中を追いかけるように廊下を進む。
「彼女の性格からして、行き先を言わずに姿をくらますなんてことは、ありえないはずです。それにこの屋敷に入るには……」
「必ず屋敷の者の誰かが来訪者をチェックをしているし、外部の者が勝手に出入りできるようにはしていない。だが、これは現実に起こったことだ」
見なさい、と彼はサラが使っている部屋のドアを開けて、トーマスに中に入るよう促す。
「部屋はあえて片付けず、そのままにするよう私が指示した」
トーマスが彼女の部屋に入ると、その異様な光景に息を呑む。部屋は荒らされた形跡はなく、窓辺近くの椅子のそばには割れたカップがそのまま残され、こぼれた紅茶が床に染みを作っていた。
「――彼女は朝の仕事が終わった空き時間に茶器を持って自室に入った姿を、執事が見ていたそうだ。だが、それから昼食の時間になっても姿を見せず、誰も彼女を見ていない」
「この部屋で、彼女が忽然と姿を消した……と言いたいのですか?」
そうだとハトコが頷いたのを見て、トーマスは彼に背中を向けた。
「まだ遠くに行ってないはずです、探してきます」
「待て、トーマス君!」
トーマスは制止しようとしたハトコの言葉も聞かず、部屋を出た。大股で廊下を歩きながら、彼は自分の胸元を強く握り、はやる心臓の音を抑えこもうとした。
「信じないぞ、俺は…サラがいなくなるなんて」
こうしてトーマスは、彼女が行きそうな場所を複数訪ねたが、ついぞ見つけることができなかった――
✽✽✽
トーマスは街中を走ってサラを探す。しかし通行人の顔を見ても、彼女らしき人はいなかった。
(ありえない、サラがいなくなるなんて…朝はあんなに幸せそうだったのに)
思い浮かぶのはいつだって笑顔の彼女だった――次第に周りの景色が変わっていく、そして走るうちにトーマスは足を止めてしまった――…
「‼ ハッ! はぁはぁ……」
寝室で目を覚ましたトーマスは勢いよく上体を起こす。額には汗がうっすらとにじんでいた。
「……夢か、そうだよな…だってサラは…」
隣を見ると、同じベッドですーすーと寝息を立てて寝ている彼女がいて、トーマスはホッと安堵の息を漏らす。
「あれから、時間は経っているのにまだ夢に見るんだな……」
――今から数ヶ月前のこと、サラをアビスから救ったトーマスたちは、東の国からピドナへと帰ってきた。生活を立て直し、普段の暮らしがやっと戻ってきた矢先に、あの日のことを夢に見たのだ。
「はぁ…気分が悪いな」
このまま寝直すことができないトーマスは、まだ朝と呼ぶには早い時間帯であったが、ベッドを抜けて洗面所へと向かった。用意された水挿しから洗面ボウルに水を注ぎ、顔を二度ほど洗う。冷たい水が汗をさっぱり流してくれたが、気分まですっきりとさせてはくれなかった。
「そう簡単には拭えないか…」
サラはこちらに無事に生還を果たしたが、彼女と再会するまでの苦い記憶は今でも頭の中にこびりついて離れなかった。
✽✽✽
トーマスは思い当たる場所に掛け合いサラが来てないかと訊ねたが、旧市街のミューズの家にも、ノーラの工房も、馴染みの店でも、みんな首を横に振って答えた。城の衛兵や、港にいる船員にまで声をかけたが、同じ反応でトーマスは肩を落とす。
「サラはいったいどこに……?」
遅い時間になっては捜索どころではないと判断した彼は、屋敷に引き返す。ハトコ達も一緒に探してくれたが、有益な情報はなかった。
翌日、業務をハトコに任せて、自身はツテを頼りに情報を得ようと奔走する。方々で探し回って帰ってきた頃には、夕方になっていた。
「ランスにいるエレンには早馬を使って手紙を出した…フルブライト商会にも一報いれたし、あとは…」
自室を歩き回りながらトーマスはブツブツと呟いて考えをまとめる。あまりに没頭しすぎて、ハトコがドアをノックして部屋に入ってきたことにも気付けなかった。
トーマス君! と強く名を呼ばれて、彼はハッとした顔をハトコに向ける。ハトコは眉根を寄せて一つため息をついた。
「その様子だと、昨日から何も食べてないのだろう? コレを食べなさい」
紅茶セットとパンを乗せたトレイを机の上に置くも、トーマスは首を振って拒否の意を示した。
「いりません。今は何も口に入らないので…」
「君がここで倒れてしまっては、サラ君も悲しむ。食べなければ明日の捜索の活力も湧かないぞ?」
彼女の名前を出されてしまい、トーマスは渋々といった様子で席につき、トレイを手元に引き寄せる。見覚えのある丸いパン二つに気づいた彼はハトコに説明を求めた。
「これは……どういうことですか?」
「昨朝、サラ君が作ったパンの残りだよ。たくさん作って夕食に使うつもりだったと、彼女と一緒に作業をしていた使用人が話してくれたよ」
ハトコは話の途中にも関わらずトーマスに背を向けて、涙声になるのを耐えようと拳に強く力を込めた。
「私を含めて屋敷のみんなは食べたから、それはトーマス君が食べなさい」
それだけ言って、ハトコは部屋から出て行った。
彼が去った後、机の上に視線を落としたトーマスは短い息を吐く。そして恐る恐る手を伸ばしてパンを取り、まじまじと見つめた。
あそこまで言われてしまった今、コレを食べないということはできず、トーマスは思い切ってパンにかじりつく。すると、目から自然と涙が溢れた。
昨日の朝食の席で幸せだと話したサラのことを思うと、何度目を拭っても止めることはできなかった。
捜索を諦めたわけではない。だが今この場にいないことがどうしようもなく悔しさと、切なさが募り――トーマスは机に突っ伏して声を出さないよう歯を食いしばり、泣くのだった。
――そして翌朝、身だしなみを整えたトーマスは最後のひとかけらのパンを口に放り込み、仕事の席につく。流した情報の返事が来るまで時間がかかる。連日の捜索の疲れで目は赤くなっていたが、ただ待つだけでは落ち着かないため、溜まっていた書類に目を通すことにしたのだ。
始業して数分後…いつもは静かな時間の屋敷の廊下からドタバタと騒がしい音と声が聞こえた。
「なんだ…? 誰か来たのか?」
もしや招かれざる客かもしれないと、席を立ったトーマスは背後の壁に立てかけてあった自分の槍を後手で持つ。
部屋の主の返事も待たずに勢いよくドアが開き、入ってきたのは――
「トム!」
「ユリアン! どうしてここに ミカエル様の命令でタフターン山にいたんじゃないのか?」
相手が郷里の幼馴染みだとわかり、トーマスは槍を手放しユリアンに近づく。
険しい顔をした彼は、近づいてきたトーマスの両腕を掴む。
「それどころじゃない…タフターン山のアビスゲートにサラがいたんだ」
あまりにも突拍子もない内容に、トーマスは反応が遅れた。だが次の瞬間、怒りを露わにして眉間にシワを寄せた。
「なんだそれは、どういうことだ? いくらユリアンでも冗談は許さないぞ。それにサラがいなくなったのは一昨日で、各所に知らせを送ったのは昨日だ。そこにいるのはおかしいじゃないか!」
「オレだって、冗談だと思いたいよ! だけどオレ達がビューネィと戦う前にはもう、見知らぬ少年と一緒にサラはゲートの前にいたんだ」
激昂して喋った二人は肩で大きく息をする。嘘が嫌いな親友の真剣な目にトーマスは長く息を吐いて、彼に謝った。
「すまない、ユリアン。気が動転して冷静に受け止められなかった。何があったのか詳しく話してくれるか?」
頷いたユリアンは、その時のことを話してくれた。
四魔貴族の話を聞いたユリアンとその一行は、各地にあるアビスゲートを封じてきた。そして最後のアビスゲートのタフターン山にで今までとは違う光景を見た。ここにいるはずがない幼馴染と見知らぬ少年が、ゲートの前に座り動けない状態でいたのだ。戦闘の前にユリアンはサラとわずかに言葉をを交わしたが、どうして自分がここにいるのかわからないと彼女は首を振ったという。
そして手強いビューネィを倒した後、アビスゲートを閉じようとした少年を庇って、サラは――
話している途中、ユリアンはトーマスの腕を掴んだまま両膝を折り、懺悔するように言葉を吐いた。
「謝んなきゃいけないのはオレの方だよ……そこにいたのに、体が動かなかった」
言葉の最後でユリアンはトーマスの腕から手を離して俯き、自身の膝の上に手を置く。強く握った拳の上に涙が落ちた。
肩を震わせて泣く親友を前に、トーマスは黙って立て膝をつき、ユリアンの肩を優しく掴む。
「悲嘆にくれるのはまだ早いよ、ユリアン。手がかりはある、アビスゲートだ。情報を集めて、エレンがいるランスに行こう」
俺も一緒に怒られるからとトーマスは彼の肩をポンポンと叩く。するとユリアンは鼻をすすりながら顔をあげて、少し口角をあげた。
「ありがとな、トム。でも、エレンに怒られるのはオレだけでいいよ。慣れてるからさ」
そうかとトーマスも少し笑って立ち上がり、ユリアンの前に手を差し出す。彼が手を握ると、トーマスは腕を引き上げるにしてユリアンを立たせた。
「ミカエル様に頼んで、ロアーヌからここまでチャーター便で来たんだ。ヤーマスまではそれで行こう」
「わかった。支度ができ次第すぐ行く」
トーマスはきびきびと動きだし、机の上に広げた仕事道具を片付ける。そんな彼の様子をユリアンは腕組みをしてじっと眺めた。
親友の視線に気づいたトーマスは手を止めて、ユリアンに顔を向けた。
「どうした、ユリアン? 行かないのか?」
「いや、そうなんだけど…やっぱトムって頼りになる男だなぁって感心しちゃってさ」
呆れたような目でトーマスはユリアンを見つめると、彼はヘヘッと照れて笑った。
「それじゃあオレは先に行って仲間に話してくるから!」
ひらひらと手を振って部屋を出るユリアンを見送ったトーマスは苦笑を浮かべた。
「立派でもなんでもない、俺のはただ虚勢を張っているだけだ」
準備ができたトーマスはマントを羽織り、槍を背負う。最後に確認で鏡の前で両頬を二度ほど叩き、よし! と頷く。
――絶対にサラを見つけ出す。
鏡の前で眼鏡の下に隈が残った顔の自分にそう誓い、トーマスは颯爽と部屋から出ていった。