身も心も(前編) サラがピドナにいるトーマスの元に戻ってきて数日が経ち、秘書の仕事もできるほど彼女の体力は回復した。そして仕事終わりにお茶を飲むこの時間は、以前よりさらに特別で幸せなことだと、二人は噛み締めていた。ここにまた戻ってこれたこと、いつもの生活の営みの尊さ、そして……好きな人と一緒にいられること。いつにも増してサラの笑顔は和やかであった。そんな幸せそうな彼女を、トーマスは目を細めて見ていた。
(…思えば長い道のりだったな)
破壊するものを倒して世界が生まれ変わり、情勢が変化した。ピドナに戻ったトーマスは膨大な情報整理に追われた。同盟相手のフルブライトと協議したり、トーマスのはとこやノーラ、ミューズにも手伝ってもらったりと、忙しい日々を送っていた。
彼女が帰ってきたのは、そんな忙しさがひと段落した頃。シノンで療養して元気になったサラは彼のいるピドナに戻り、二人はやっと公私ともにパートナーとして歩むことになったのだ。
仕事の疲れはどこへやらというほど頬を緩めて上機嫌なサラを見たトーマスは、紅茶を口にしながら考えていた。不安視していた彼女の体調は問題なく、仕事も充分にこなしている……
(…そろそろ、次の段階に進んでもいいだろうか?)
恋人同士になった二人だが、お互いのことで知らないことはまだたくさんあった。
「ごちそうさまでした、美味しかったわね」
ポットの中の紅茶がなくなったら、お茶の時間も終わりの合図である。サラは茶器を片付けようと立ち上がると、トーマスが話しかけてきた。
「なぁ、サラ」
片付ける前に呼び止められたサラは手を止めて、彼の方へと顔を向ける。
「なぁに、トム?」
呼びかけられたサラは穏やかに微笑むと、トーマスは彼女の手を取って立ち上がり……そして何も言わずサラの手を両手で包む。
「あの…?」
いつもと様子が違う彼にサラは戸惑っておずおずと聞くと、トーマスはやっと口を開いた。
「今から話すことで、サラが嫌だと思ったら、今日はもうこの部屋に来ないでくれ」
いいか? と返事を促されて、サラは眉をひそめるものの頷く。
「わ、わかったわ…」
サラは何を言われるのだろうかと、もう片方の手を自身の胸に置き、緊張を抑える。
トーマスは優しく彼女の手を撫でた後、いつも見せてくれる柔和な表情ではなく、ひどく真剣な顔をしてサラを見た。
「今夜……一緒に寝ないか?」
「え…」
その言葉を理解するのにサラは少し時間を要した。
(夜のお誘い……ってことよね?)
簡潔な言葉ではあるが、彼の真意がわかるとサラの頬はぽっとピンクに染まる。彼女は恋人として彼のいるピドナに来たのだから、答えは一つしかなかった。
「……はい」
近づかないと聞き漏らすほどの、か細い声でサラが返事をすると、トーマスは目元が優しくなった。
「ありがとな、サラ」
そして就寝時間――先に身体を清めてパジャマに着替えたサラは、トーマスの部屋のベッドの端に腰掛けて小さくなっていた。恋人同士になったのだから、そういう日がくることを彼女も願っていた。情事のことが書かれた小説を読んだりして、彼女なりに『今からすること』を想像してきたが……
(ちょっと、怖いかも……)
実際にその時が迫ってくると緊張と不安で、サラは自分を抱きしめる。頭の中ではどうしようとぐるぐると悩んでいるところに、ドアの開く音がした。部屋の主が戻ってきたことに気づいたサラは、びくっと体をすくませて下を向いてしまった。
トーマスが部屋に入ると、ベッドの端で縮こまって座るサラを見つけて小さく笑う。彼女が緊張していることは明らかだった。近づくと少し震えてることもわかり、彼は彼女を安心させようとサラの頭をポンポンと撫でた。
「まぁ緊張するなって言う方が、無理な話だよな」
「…ごめんなさい。こんな直前で…」
サラが下を向いて謝ると、トーマスは話しをしやすいように、彼女の前で膝をつく。
「そんなことないさ、今言ってくれて良かった。俺は、嫌がるサラに無理強いをしたくはないよ」
それを聞いたサラは胸がいっぱいになり顔を上げる。いつもと変わらない微笑みをくれる恋人に、彼女は抱きついた。
「わ! おっと…」
いきなり胸に飛び込んできた彼女をトーマスは抱きとめるが、勢いが強くて彼はサラを抱えて尻もちをつく。
「ありがとう、トム。いつも、優しくしてくれて……大好きよ」
サラは彼の胸に頬を擦りつける。トーマスはそんな彼女の背中を優しく撫でて答えた。
「どういたしまして。俺もサラが好きだよ」
抱き合ったまま数分続いたが、緊張が解れてきたサラが腕の中から彼に顔を向ける。
「ん? どうした?」
腕の中にいた彼女がこちらを向いたので、トーマスは優しく微笑む。そんな彼の笑顔をじっと見ながら、サラはなにか考え込んでいたようだが、そのうち小さくため息をついた。
「あの、トム……」
「なんだい?」
トーマスは彼女の背中に置いた手を、サラの頭に移して優しく撫でる。
「その……キスしてもいい?」
「えっ?」
今日はこれまでだと思っていたのに突然の彼女の言葉に、トーマスは頭を撫でていた手を止めた。
「……どうしてか、聞いてもいいか?」
そう彼が聞くと、サラは頬をサッと赤くして頷く。
「私、いつもトムの優しさに甘えてばかりだから…何かお返ししたいと思っても、何も思いつかなくて。それで……」
サラの告白に、トーマスは彼女から視線をそらして顎に手を置き、考え込んでしまった。それを見たサラは彼の腕の中で縮こまる。
「ごめんなさい…変なことを言ったわね…」
トーマスは、しゅんとして謝る彼女に向き直し、間を置かずに違うと答えた。
「そうじゃないんだ。その気持ちと申し出はとても嬉しいが……ただ、今夜俺は、サラを抱くつもりでここにいるから、それをされたら部屋に返すことはもうできない」
それでもいいか? と問うてくる誠実な彼の言葉とその瞳に、サラの胸の奥に熱いものが宿る。どこまでも優しい彼に心をギュッと掴まれたサラは、両手を伸ばす。相手の首の後ろに回して、ちゅっと彼の唇に軽く触れた。
「うん、いい……」
次の瞬間、返事を言い終わる前に、サラはトーマスに唇を奪われた。