時代劇凛潔♀️(二)一
秋の終わりが見せ始めた頃になって、ようやく糸師凛の婿入りの日取りが決まった。イガグリが修行している和尚の伝手で占い師に吉日を占じて、春の大安吉日に祝言を挙げることとなった。
それから数日が経過した訳であるが、凛の周りは祝言前とは思えない程、ゆっくりとしている。凛がこれから婿入りする潔家が慌てていないというか、おっとりとした家系であるのが一番の要因だと思われる。潔家は武士の家系ではあるが、下士の中でも平民に近いので、武士にしては謙虚な一家であった。藩主の弟で邪魔者扱い同然に追い出された凛を快く受け入れるあたり、寛大さを証明している。
ここ数日間、凛は潔家母屋に入り浸っていた訳であるが…朝餉から眉間に深い皺を寄せている。
「うめえ」
「何が?」
「米」
「ああ、それ俺が炊いた」
「おかわり」
「はいはい」
隣から聞こえる呑気な会話に耳を閉ざすことが出来ず、凛は眉間の皺を増やし、用意された自分の分の飯を口の中に掻き込んだ。
「お前らもやっとか…」
「気が早いって。春はまだ先だよ」
「そう油断してるとあっという間だぞ。凛、お前も油断してんじゃねえぞ。毎日潔の飯が食えることを有難く思え」
口の中に放り込んだ米を全て咀嚼して嚥下すると、器と箸を叩きつけるように膳に戻した。それから、眼光を宿した双眸を、今日もまた脱走した兄に向けた。
「朝から胸糞悪い面を見せてくんじゃねえ。帰れ」
「言われなくても用が終わったら帰るぞ。お前と潔の邪魔はしねえからな」
「そもそも、冴はこんなに頻繁にうちに来て大丈夫なん?」
「大丈夫だろ」
藩主を務める兄…糸師冴はしれっとそう答えるが、朝一番から脱走した藩主の大捜索が行われていることを知りもしないし、知ったところでどこ吹く風のように受け流すのである。
「あまり困らせるなよ?」
「弟とその嫁の様子を見に来て何が悪い?」
「心配してくれるのは嬉しいけどさ…」
凛にとっては、糸師凛のこれまでの人生をぶち壊してきた兄が同じ空間にいるのも嫌だし、それ以上に兄が潔と親密に会話しているのが気に食わない。弟の嫁だと言っているが、隙あれば奪ってくるんじゃないかという疑惑が、凛の中にはあった。
「で、用事って何なん?」
食事を終えた兄はすかさず茶を一服し始めた。飲み終えたところで潔が尋ねると、ようやく兄は用件を切り出した。
「用があったのは、凛、お前だ」
「あ?」
警戒と邪険を露わにする凛に、冴は持参した風呂敷を突き出した。
「これ、お前用だ。潔のいないところで読めよ。俺は帰る」
と言って、兄は出て行った。
兄に突き出された風呂敷を受け取らなかった凛は、苛立ち紛れに舌打ちを鳴らした。
「凛、何それ?」
「知らね」
兄に対する対抗心もあってか、凛は見ないように斜を睨んだ。凛とは反対に、潔は興味津々だ。
「本、みたいだな…もしかして戦術書かも。この前冴と盛り上がったんだよね」
「あ?お前、俺の兄貴まで色目使ってんのか?」
「おい言い方!てかお前も一緒にいただろ!」
ちっ。凛は忌々しさを込めて舌打ちを鳴らした。この潔世一は正式に祝言が決まったというのに、目を離していなくてもこうしていろんな男を誑かす。
そんな凛の苛立ちなんて気付きもせず、開けていい?と呑気に請うてくる。勝手にしろとそっぽを向いて、潔の好きなようにさせた。
潔は今も袴を着ている。珍しく小袖を着た潔を拝めたのは先月が初めてだった。あの時の衝撃は今でも覚えているし、たまに夢にも出てくる。次にまた見られるとしたら、春だ。小袖ではなく、白無垢になるだろうが…。
「ひゃい…っ」
「…あ?」
隣から素っ頓狂な悲鳴が聞こえて振り向いた。風呂敷を広げた潔が真っ赤になって固まっていた。広げた風呂敷に収まっていたのは数冊の書物。ぺらぺら読んでいた潔の手から転げ落ちている一冊に目をやる。開いた頁に絵が描かれていた。画集かと思いきや、凛は二度見して目を大きく見開いた。その頁に書かれていた二人の男女がもつれ合っている…生々しい情交の様子が描かれていた…つまり春画である。
凛は反射で動いた。転げ落ちていたそれも含めて風呂敷に雑に収めると、ひん掴んで外へ飛び出した。全速力で駆けて、帰り途中の兄に追いついた。
「このクソ兄貴」
「何だクソ愚弟?」
足を止めて振り返る兄に、急停止した凛は思いっきり風呂敷をぶん投げた。兄に向かって。兄は難なく受け止めた。
「何てもんを押し付けてきやがるクソが」
「あ?お前、見るの初めてか?あまり興奮しすぎると笑われるぞ」
「違えよテメエのせいで潔が見ちまっただろうが」
「だから潔のいないところで見ろっつっただろうが。まじで人の話を聞きゃあしねえ。潔が可哀想になってきたな」
「こんなもんを持ってくる方がイカれてんだよクソ野郎」
怒り心頭で怒鳴り散らす凛であるが、冴は揺るぎのない至って冷静な態度であった。
「んなことはねえぞ、凛。よく聞け。これは指南書だ」
「は?指南、書…?」
「そうだ、主に…――――夜のだ」
兄は昔から冗談は言わない。真顔で真剣に答えた兄に、凛は感情が一周回ってどん引きした。
「頭イカれたのか…?」
「それはお前のことか馬鹿」
いいかよく聞け。兄は春画を弟に押し付けながら諭し始めた。
「夫婦になるっていうのは、ただ一緒に生きるってだけじゃねえ。二人の子どもを作るってことでもあんだ。お前はただナニを突っ込んで気持ち良くなるだけで終わるけどな、お前の相手となる潔には相当な痛みと苦しみが生じるんだぞ」
いつになく本気で説いている兄の雰囲気に呑まれて、凛は春画を両手で抱えながら、無意識に固唾を呑み込んだ。
「初夜で失敗した夫婦が離縁したって話はごろごろ転がってんだ。お前だって胡坐掻いてる場合じゃねえんだぞ。一度も抱けねえで潔から三行半叩きつけられたら、お前どうすんだ?」
「そ…」
「だからそうならないように、それを読んで手順を学んどけってんだ。良いな?」
兄は言いたいことを言って、また自分勝手に去っていった。
兄の言葉を浴びた凛は、呆然と立ち尽くした。地面に足が付いている筈なのに覚束ない心持ちで、仮住まいの屋敷に戻った。一人になって心を落ち着けようとすればするほど、兄の言葉が何度も反芻した。
今更真に受けることでもない筈だ。だってあの兄だ。勝手に夢を書き換えて弟を突き放したあのクソ兄貴なんぞの言葉に振り回されてる場合じゃない。祝言は決まったことだし、失敗なんかしない…しない…。
そう思っていても何度も繰り返し蘇る兄の言葉に感情と思考がぐちゃぐちゃにかき乱されてしまって、集中ができない。
無理だと判断した凛は、山に籠ることにした。真剣を持って、理性を取り戻すために修行に打ち込んだ。
三日三晩過ぎて、凛は山から降りた。
仮住まいに戻った直後、潔が待ち構えていた。険しい顔つきで。
「…どこ行ってたんだよ?」
「…どこだっていいだろ」
凛は潔から視線を逸らして、ぼそっと答えた。口が裂けても言える訳もなく…お前のことを考えてたってことを言ってしまったら負けのような気がして…顔が見れなかった。
潔を見ていなかったせいで、凛は気付かなかった。潔から漏れる、普段の穏やかさから逸脱した、不穏な空気を。
潔の脇を通り過ぎた凛は、無反応さに、やっと振り返る。
「おい、飯。腹減った」
だが、返ってきたのは、鋭い眼光であった。
「あ?俺を三日もほっぽっておきながら開口一番がそれかよ?このイカレ天才野郎」
「…あ?」
「こんな大事な時に、テメエは呑気に木剣振ってたのかよっつってんだよ…クソ下まつ毛…っ」
潔は激怒していた。苛烈な光を宿した眼光は、潔の怒髪天を表していた。思ってもみなかった潔の反応に、凛はほんの一瞬たじろいだが、ふんとそっぽを向いた。
「知らねえよ、んなもん。俺が何しようがお前には関係無えだろ。俺の勝手だ。邪魔すんな」
つい意固地を張ったのが悪手だと、凛は気付いていない。結果、潔の怒りに油を注いだ。
「何だよそれお前俺とお前、二人のことだろ」
「だったら何だ?お前の嫁入り道具を俺も一緒に選べってか?」
「そういうことじゃねえだろ何だよその態度お前の覚悟はその程度なのかよ」
「はあ?」
意味が解らない。潔が怒っている理由も意味不明だ。凛は本気でそう思ってる。
「てか、朝一番にきゃんきゃん吠えんな。腹減ったから、さっさと飯作れ」
「―――――――は?」
今まで聞いたことないような低い声が響いた。潔の双眸から眼光が消えた。虚無。それが潔の本気であることを、凛は知らない。その時までは。
「…そうかよ。だったら、もういい。飯でもなんでも勝手にしろ。俺も勝手にする」
いつもは穏やかに、凛を呼ぶ声は、全ての感情が抜け落ちていた。流石に凛も狼狽えて、潔の肩を掴もうとしたが…届く前に、潔は出て行った。
…何だよあいつ。意味解らねえ…。まあいい。その内、ひょっこり現れるだろ。いつもころころ感情変わるし。と凛はそっぽを向いた。
――――だが、二日過ぎても、潔は現れなかった。
流石に現れないものだから、凛の方から会いに行った。潔家に駆け込んで、出迎えた潔の母に所在を尋ねると。
「世っちゃん?あらぁ…やっぱり怒ってたのねえ。世っちゃん、ずっとどこか出かけてるわよ?」
ほわほわとした返答に、凛はやっと潔が本気だったと理解した。ここに兄がいたなら、このクソ愚弟!馬鹿カスクソ野郎が!と本気の拳が繰り出されていたところだった。
凛は別方向から潔を探すことにした。別に謝る為ではない。勝手にどっか行くんじゃねえと文句を言う為である。
生家以外の、潔が行きそうな場所は、凛が考える限りはいくつも存在している。潔は無駄に交流関係が広く、潔を匿いそうな男はごまんといる。その一人一人に当たるしかない…想像しただけでも途方に感じた。
まずは寺に向かうことにした。いつも潔と出歩く並木道を進み、目的の場所まで近づいた。見え始めた石階段に、潔の行方を知っていそうな奴らをさっそく見つけた。
「お、凛じゃん」
「うーっす」
「よ、凛」
「来た…」
潔の仲間であるイガグリ、我牙丸、國神、雷市であった。凛は三人の名前を憶えていないし覚える気も無い。
「潔はどこだ?」
開口一番に切り出すと、四人は揃って呆れの視線を投げて寄越した。
「知らねーよ。てかお前、やっと潔のこと探し出したのかよ?今更すぎ」
「潔、めちゃくちゃ怒ってたが、喧嘩でもしたのか?あいつがあんなに怒ってたの久々に見たな」
「町にいないのは確かだぞ」
「まあな。普通嫁のこと放置して好き勝手する旦那なんて最低だと思うぞ」
遠慮の欠片もなく好き勝手に言う面子に、凛は凄んだ。
「御託はいいからさっさと吐けテメエら。潰すぞ」
「出た、お得意の暴言」
「俺ら潰したところで潔は見つかんねえぞ」
「それ同意」
にっちもさっちもいかない空気に、いい加減に凛は激昂しかける。
「いいから答えろっつってんだろ。潔知らねーのか知ってんのか、どっちだ?」
「キレ散らかす男はもてねーぞ」
「潔には通用したかもしんねーけど、他じゃあ通用しねえからな」
三人からの視線がやけに痛いのは、決して気のせいではない。
「潔はここにはいない。てか、町中探しても無駄だと思う。お前に会いたくないって言ってたぞ」
國神だけがまともに答えたが、凛には頭の痛い話であった。
「だったらどこに行けばいいんだ?」
「いやだから!潔はお前に会いたくないんだって!」
「だから何だ?そんなん理由になんねえ」
「ダメだこれ。まじで人の話聞かねえ」
「潔はこんな旦那で良いのかよ?」
「それ以上無駄口叩くようならお前ら潰す」
蟀谷に太い血管を何本も収縮させて睨むと、三人は迫力に呑まれて委縮した。
「潔なら、数日前に見た。山の向こうの町に行ったぞ」
答えたのは我牙丸だ。凛は、眉間に皺を寄せて睨んだ。
「町?」
「おう。一山超えたところにもう一つ町がある。そこでも潔は大人気だ」
「あいつどこでも仲良くできるからなー。知り合いも多いし」
我牙丸に続いたのは、丸い後頭部に手を組んで仰け反るイガグリである。
「お前らが痴話喧嘩すんのは勝手だが、俺らを巻き込むんじゃねーぞってこった」
最後に嫌味をぶっ放したのは雷市である。
山を越えた先の町…そんなところにも、潔の包囲網があったとは。不本意たっぷりに、凛は無言でそこに向かうことにする。
と、直前で、イガグリが、おーい!と呼びかけた。
「向こうに行ったら、清羅に会いに行くといいぞ!潔とも親交がある奴だ!」
言い方からして男なのだろう。どんだけ男との親交が広いんだあいつは。苛立ちの舌打ちを鳴らして、凛は聳える山へと向かった。
二
獣道をひたすら歩き続けて、息が切れることなく折り返し、傾斜を下っていく。
やっと麓に近付いた時、木々の向こうに、特有の賑わいが聞こえるようになった。イガグリらが言っていた町に近付いている証拠だ。
森を抜けると直ぐ、民家が並んでいた。一難町とは違った、比較的に大きな町に、到着したのだ。
まずはイガグリが言っていた、清羅なる人物を探すことにした。
イガグリ曰く。清羅は隣町の自警団、つまり國神みたいな奴だ。いつもは賭場に詰めてると思うから、そっちに当たれば高確率で会えると思うぞ!
――――坊主頭はそう言ってた。行ってみるか。
賭場は西にあると、通りすがりから聞いた情報を頼りに、西へと足を向ける。
賭場は最端にあった。開けると、熱を孕んだ風が直撃した。賭場は大盛り上がりしており、怒号に近い声が行き通う。城育ちの凛には初めて見るものであった。参加する者のほとんどがならず者のようで、凛が返って悪目立ちしている。
熱中した空気の中で、違う空気を纏っているのが一人だけいる。凛よりも小柄で、黒い短い髪はうねっていて、その目つきは鋭い。侍とは程遠く、自警団と聞いていたのだが、どちらかというとならず者のような恰好をしている。
凛は賭場を横断して、その男に近付いた。
「おい。テメエが清羅って奴か?」
呼びかけると、賭場に向いていた目が、凛に振り返った。
「そうだが?」
「潔はどこだ?」
凛の声は異様な歓声によってかき消された。だが、清羅の耳に、その単語が聞き取れていた。
「…この町の人間じゃねえな。誰だお前?」
男からは鋭い刃のような覇気を感じ取った。只者でないのは明らか。男の傍らには納刀された刀が置かれている。この男もまた剣客……それも腕の立つ。
男の鋭い視線を睨み返しながら、凛は答える。
「糸師凛。潔世一を探している」
「…そうか。お前が、潔が言っていた野郎か」
清羅は賭場に向いていた身体を凛の方に向き直した。
「お前の音は聞いていた。で、潔を探してるのは何故だ?」
「探すのに理由がいんのか、クソチビ」
「…血の気の多い奴だと聞いていたが、まじのようだな。潔も男の趣味が悪いな」
「あ?」
どうにもこの男…清羅からは、煙に巻かれているような感覚しか感じられない。強いのだろうが、何だろうかこの独特の雰囲気は。またあいつはこういう癖の強い人間ばっか誑かす。…その癖の強い人間の代表が自分であることを、凛は自覚していない。
「…お前らの痴話喧嘩の仲裁に入るつもりはねえ。だがそうだな…」
清羅は凛に向きながら、親指を賭場に向けた。
「ここは賭場だ。欲しいものがあるなら、死ぬ気で勝ち取れ」
清羅の双眸は挑戦的に輝いていた。凛は無言で、受けて立った。
双方、対岸に坐し、睨み合う。
「賭場の経験は?」
清羅が問う。
「ねえ」
凛は清羅を睨みながら答える。
凛と清羅。突如始まった対決に、客達は観客へと周って、どっちが勝つか賭け始めた。
「規則は簡単。丁と半。賽子の出目が奇数だったら半、偶数は丁。一と一はピンゾロだ。三回勝負」
「潰してやるよ、チビ」
「威勢がいいのは潰し甲斐があっていい。かかってこいよ、でくの坊」
凛の視線と清羅の視線がぶつかって、激しい火花を散らした。
一回戦目。賽子が壺の中に振られて、茣蓙に落とされる。
「先行は糸師凛(お前)に譲る」
「……丁」
「なら、俺は半」
丁!半!と外野が騒ぐ中、壺が開く。四と二。丁。
「一回戦目はお前の白星だ」
全く悔しがってもいない清羅に、凛は小さく鼻を鳴らした。
二回戦目。賽子が振られる。先行は清羅。
「半」
「……丁」
壺が開く。五と六。半。二回戦目は清羅の白星。
三回戦目。最後の一振りが投じられる。先行の凛は、静かに精神を落ち着かせ、直感のまま言い放つ。
「一と一のピンゾロ」
奇跡が起こる確信をもって、宣言した。
一瞬の緊張の後、壺が開かれた――――――一と一。ピンゾロ。的中。
大歓声がふって湧いた中、敗北した筈の清羅は冷静な表情で、凛を眺めていた。いかさまの可能性を考えている様子だが、一挙手一投足観察している中で、怪しい動きが無かったことを認めて、小さく嘆息した。
「俺の敗けだ」
やけにあっさりとした反応に、凛は懐疑的に睨んだ、その直後。外が騒がしくなった。ばーん。外界との境界線であった痛んだ襖が外から強引に開かれて、いかにもカタギでない集団が、殺気立った様子で押し入って来た。清羅、と名前を口にしながら。
「あ?」
「何の用だ?」
中断された凛と清羅は、その集団に視線を投げて寄こした。テメエを探していたんだよ、清羅。男達は目的を明らかにした。凛は清羅と男達にそれぞれ一瞥を投げた。
「…商売柄、人の恨みはよく買われるが…ヤクザもんが何の用だ?」
「やっぱりヤクザなのかよコイツら。てか、ヤクザに恨みを買われるって何したんだ?」
「さあな」
凛の問いを、清羅が涼しく受け流した直後、押し入った集団の方が激昂を見せた。よくもいけしゃあしゃあと言えたもんだな清羅テメエ俺らの稼ぎの邪魔しやがってテメエのせいで頭は牢獄の中だよくもやりやがったなクソ野郎…と口々に砲火する彼らに対して、清羅は何も感じてないような表情で一言。
「知らねえよ豚共」
と、挑発の言葉を返した。
清羅の言葉に、怒り心頭になった集団が一斉に清羅に襲い掛かった。
得物を持って突撃してくる相手に、清羅は怯えた様子も見せない。獣のような低い体勢になったかと思うと、身体を独楽のように回して、向かってくる敵の足場を崩しながら顔面や胴体を蹴り飛ばしていく。
ヤクザ者らの標的は清羅だけでなく、凛にも向かった。こいつも仲間だ!一人の号音により、興奮した牛の群れのように凛にも突撃してくる。凛も同様に涼しい表情を浮かべ、静かに居合の構えに入る。全身に力を集中し、畳がひっくり返る威力で蹴り上げた。目にも止まらぬ速さで抜刀し、得物を振りかざす敵の一陣に漏れなく一撃を入れた。
「峰打ちだ」
かちん、と収めたと同時に、どさっと一斉に倒れた。
最後の一人を蹴り倒した清羅もそれを目にして、嘆息をする。
「お前、やるな」
清羅からの賞賛の一言を、凛は風のように受け流した。
終息したかに思えたが、外から押し寄せる集団の気配を察知する。
「多いな…ずらかるぞ」
冷静に判断を下した清羅であるが、凛は鼻で笑った。
「ずらかる?ぬりいこと言ってんじゃねえぞ」
「は?」
今度は一陣と比にならない数の増援が入り込んで、あっと言う間に凛と清羅を囲った。
「おい!」
「全員、皆殺しだ」
「待て!」
清羅の制止の声も聞かず、敵陣の中を、凛は単騎で突入した。舌打ちを打った清羅もまた迎え撃つ。
半刻後、宣言通り、敵は漏れなく一掃された。殺しはせず、重傷を与えるだけで済ませた。覚えてろよ~!ぼろ雑巾のようにぼろぼろになりながら退散していくのを一瞥して、凛は嘆息する。
「雑魚がいくら集まったって雑魚なんだよ」
静かになったところで、おい、と凛は清羅に振り向く。潔のことを問いただそうとするが………清羅の身体から溢れる異常なまでの汗の量に、目を若干見開いた。
「おい…」
「馬鹿、が…」
嫌な予感がした直後、清羅の身体が傾いて、畳の上に盛大に倒れた。
「は?おい!」
片膝をついてうつ伏せになった身体をひっくり返す。息を異様に荒く吐き出して、皮膚が火のように真っ赤になっている。先ほどまで涼しく対峙していたのとは別人のようであった。小柄な身体から漏れ出る汗の量が尋常ではない。
凛は医者ではないが、危険な状態であることは、火を見るよりも明らかだ。
「医者を…」
「やめろ…いい…ねぐらに運べ…」
「はあ?ふざけん…」
テメエでなんとかしろ、と暴言を吐こうとしたが、清羅から漏れだす尋常じゃない熱気に言葉を失い、クソが!と悪態をつきながら担いだ。
清羅が住んでいるという長屋の一角に辿り着いたと同時に、清羅は意識を失った。おい、と呼んでも虫の息しか返って来ない状況に、凛は非常に狼狽えた。
医者を。でも、今離れてしまったらいけない気がする。だけどこのままだと死にそうだこいつ。こいつから潔の手がかりを聞かねえといけねえのに。
直ぐ布団を敷き、そこに清羅を横たわらせた。汗は堰を切ったように止まらず、額に触れてみると火が噴いてるんじゃないかと錯覚するぐらいに熱い。人体の度を越えた熱さであった。
そもそもさっきまで涼しい顔してたじゃねえか。あんな激しい動きをしてる間も汗一つかいてなかっただろ………。
“汗一つかいてない”?
はっと息を呑んで、視界を一周させ、目的のものを見つけて駆け出す。木桶と手ぬぐいを掴むと、水甕に直行して、木桶に水を汲んだ。こぼれないように運びながら早足で戻り、水で濡らした手ぬぐいを額に置く。そして、息切れを起こす口に水差しで直に水を入れた。これを何度も繰り返した。中々熱と汗が止まらなかったが、時が経つと落ち着きを見せ始め、穏やかな寝息を立てるようになった。今日は聞けそうにない、と判断した凛は、清羅の住処を後にし、宿を探した。西通りに旅籠屋があると聞き、そこで宿を取ることにした。
宿は満室であったが、凛の相貌を目にするなり頬を赤らめた女将が、雇人の仮眠室なら空いております…と熱っぽい声で案内をし、六畳の間であったけれども、凛には充分であったので、そこで一晩過ごした。
回想。
――――潔家の蔵には数えきれない程の蔵書が保管されている。それらは全て、潔の先祖が書き記したものだ。ほとんどが医学書であった。東洋から蘭学までの知識が豊富に収められている。
正式に婿養子の話が決まった直後くらい。凛はそこで虫干し作業をしていた潔をじっと眺めていた。潔は作業をサボって医学書を読み流していた。
「俺の曾おばあちゃんは、女医師で、袴を着て、町の人達のために毎日休まずに働いていたんだって。おじいちゃんから聞いた話、曾じいちゃんと夫婦になる前、中国で三年、阿蘭陀で三年修行して帰って来た豪傑な人だったらしい」
潔家の先祖とは思えない苛烈な人物像だったらしいが、試合になると鬼のように人が変わる潔を知っている凛としては、しっかりとその血が受け継がれていると確信した。
「今でも曾おばあちゃんの秘書を求めてやってくる奴がいる…目が見えなかったり、耳が聞こえなかったり、足が治らないとか。俺は医者じゃないから、曾ばあちゃんの書を貸してやることしかできないけれど」
凛も無造作に一冊引っこ抜いて開いた。蘭学の人体解剖書であったが、これまた興味深く、ついつい夢中になって読んでいると、潔も横から覗き込んできて、あれこれと解説してきた。その一つに、確か、このような話をしていたと思う。
「人の身体は熱に弱い。熱を逃がすために出るのが汗だ。汗が出なければ熱が身体から出て行かない…だけどたまに、生まれた時から熱を感じるのが鈍い奴がいる。そういう奴は常に命がけだ。熱が身体の中に留まったままだと死んでしまう」
お前の曾ばあちゃんは、そういう奴も相手にしていたのか?と訊くと、多分ね、と返って来た。
「曾ばあちゃんの書だと……ここ。ひたすら熱を冷まして、汗が出過ぎると身体の水が抜けてしまうから、水を飲ませ続けろって」
その後に、潔は凛を見上げて、笑いかけた。
「実際に隣町の俺の知り合いに、そういう奴がいるんだよ。いつか会わせてやるからな」
その時凛は、そんな気遣いいらねえ、と答えた。
三
翌日、凛は宿を後にして、清羅の塒に向かった。
清羅はすっかり元気になった様子で、長屋の中で凛を出迎えた。
「昨日は世話になった」
斜に構えて無愛想に礼をする清羅であったが、凛にはどうでもいいことであった。
「御託はいいからさっさと潔の居所を吐け」
地を這うような声で切り込むと、清羅は眉間に皺を寄せて、は?と返した。
「さっさと潔を出せっつってんだろ。これ以上時間を取らせんな、クソチビ天パ」
容赦なく言い放つが、清羅は小さく首を傾げた。
「……三日前に潔と会ったが、潔は帰った筈だ」
その刹那、長くはない凛の気がぷつんと切れた。
「だからその潔がいねえからわざわざ出向いてやったんだろうが。隠し立てすんならテメエも潔もろとも細切れにして豚に食わせる」
お前本当に潔の婿か?清羅は涼しい表情であったが、凛の怒り心頭振りにどん引きした。
「…本当に俺は知らん。三日前、潔が俺のもとに来たのは事実だが、話をして直ぐに帰った」
「……本当か?」
「嘘をついて何になる?」
凛は清羅を睨みつける。清羅から嘘をついている気配を感じられない。どうやら本当に話をして別れたらしい。だが、清羅の言葉が正しいなら、矛盾が生じる。潔は帰ってきていないのだから。つまりは骨折り損。
クソ潔…。潔への怒りを募らせて、凛は出て行こうとした矢先、待て、と呼び止められて振り返る。
「これ以上テメエと話をすることはねえ」
「潔を探しているのか?」
「だから何だ?」
二本目の血管がぶち切れる寸前、清羅が涼しい表情で言った。
「潔はこの町にも広く人脈を持っている…その中でも親交が厚い連中がいる。そいつらに当たれば、手がかりはあるかもしれねえ」
「あ?」
凛は思った。そいつら全員男じゃねえだろうな?と。
「そいつらの名前は、黒名、雪宮、氷織という。この町における潔の仲間だ。黒名なら直ぐに見つけられる。町の便利屋だ」
凛は礼も言わずに清羅の元から去った。
黒名、雪宮、氷織…凛の知らない名前を頭の中で反芻しながら歩く。あれだけ働いたというのに、結局潔の行方は未だ知れず…尻尾も掴めていない。
凛の心情は、不安よりも怒りの方が勝っていた。潔如きが手を焼かせやがって…っ。という理不尽な怒りを募らせた。
ぴい。潔の癖に、潔の癖に、潔の癖に。凛は往生のど真ん中を突っ切った。どろどろの激しい念を振りまきながらだ。通行人が凛を見て顔面蒼白になって距離を取る。
ぴっぴい。ぴっぴい。クソ潔、クソ潔、クソ潔。そもそも凛はこの騒動の発端について、何ひとつ理解していない。どっちが悪いのかすらも。
ぴいぴ。ぴ。潔が勝手に怒って勝手に消えた、というのが凛の認識である。つまり凛の中では、勝手にいなくなって探させる潔が悪いという決断である。
ぴ。…先ほどから耳につく笛の音が、凛を更に苛立たせた。
どこのどいつだ、と騒音の元を目で追うと、背丈の低い男が短い笛を鳴らしながら、町民と話し込んでいた。町民からありがとうとお礼の言葉を受け取ると、笛の男は、ぴい、と軽く鳴らして素早く去っていく。
一難町の奴らも変人揃いだが、この町にもいんのか。凛は心の声で漏らすが、もしこの声を蜂楽達が聞いていたなら、お前に言われたかねえと総じて突っ込まれていたところだ。はあ。凛は嘆息を漏らした。
歩みを再開したところ、凛の耳に些細な会話が入る――――いやあ、いつも助かるねえ黒名君には。そうねえ。笛で会話するってところがちょっと難点だけど、良い子よねえ――――――いた。黒名。
「てかさっきのチビか」
凛は勢いよく振り返った。ちょっと目を離した隙に、黒名の背中が小さくなっていた。足がとんでもなく早い。
「待ちやがれクソチビ…っ」
凛は地を蹴った。少しずつであるが、黒名との距離が縮まっていく。ぴ?凛の気配に気付いた黒名が肩越しに振り返った。
「待てっつってんだろ、止まれ、チビその二」
凛の苛々は既に頂点に達している。おどろおどろしい気を発して、黒名を追いかけている…迫りくる鬼のような形相に、黒名は肩を小さく鳴らすと速度を上げた。凛も舌打ちを鳴らして速度を上げる。
クソ。黒名との距離は縮まっている筈なのに届きそうにない。黒名は素早い。千切と良い勝負だ。凛の追跡を撒こうとして路地裏に逃げ込んだ黒名を、凛は感覚を研ぎ澄ませて追いかける。黒名は猫のような身軽さでひょいひょいと障害物を飛び移って、民家の屋根に逃げ込んだ。
「クソチビが…」
凛も負けじと障害物に飛び移って屋根に飛び乗った。屋根から屋根へと走っていく黒名を見据えて、凛も同様に駆ける。黒名は追ってくる凛の気配から逃げようと屋根を伝い、身軽に飛んで大通りの地面に着地して素早く駆けた。凛も黒名と同じ動きで追いかける。素早さでは黒名の方が上。だが、体力面では凛の方が上。長く走れば走る程、黒名の足が遅くなる。それが凛の狙いだ。
「おい――――鬼ごっこは終わりか?赤毛チビ」
ぴぴいぴぴい。迫りくる凛の怒りを滲ませた表情に、黒名は少しだけ顔を白くさせた。凛は速度を上げて、黒名との距離を縮めた。首だけ振り返った黒名に向かって腕を伸ばす。黒名は身体を捩じって避けようとしたが、襟元を掴んだ。
「終わりだ。クソ猫赤毛チビ……」
猫のようにぶら下げると、ぴい、ぴい、と汗だらけの黒名が笛を鳴らした。
「潔の居所、吐かねえとすり潰す」
怨念を込めて脅迫すると、ぴ、ぴ、と笛の音が返される。高い音に、凛の血管がまたもやぶち切れた。
「いつまでそれぶら下げてんだ?答えねえならまじですり潰すぞありんこチビ…っ」
すると黒名が笛を離さないまま諸手を上げた。あ?怪訝に睨むと、黒名は笛を口から離すと……大きく口を開き、ぎざぎざの歯の奥を、指差す。
更に怪訝になった凛であるが、黒名の言わんとしていることを察した。
「……口が利けねえのか?」
こくこく、黒名は頭を縦に振った。凛は頭痛のする頭を抱えた。どうして、潔の知り合いにはまともな人間がいないのか…それをもし潔が聞けば、お前が言うなと鋭く返していたところだ。
凛は黒名を下ろした。目を丸くする黒名を鋭く見下ろしながら、凛は両手を動かした。
「潔を、探してる」
指文字…うろ覚えの記憶を辿りながら両手を動かすと、黒名は更に目を丸くした。意思疎通が怪しい空気に、凛は眦をぴくぴくと痙攣させたが……凛の指文字に、黒名が同じ指文字で答えた。
――――お前が糸師凛か?
やっと糸を掴めた凛は、ぎこちなく両手を動かして、意図を伝える。
「そうだ」
すると、黒名は、声を必要としない言語で答えた。
――――お前のことは、潔から聞いている。
それから黒名は、自分自身のことを打ち明けた。名前は黒名蘭世と言い、潔とは剣術を通して知り合い、困りごとがあった時は互いに助け合う仲であると。町の便利屋として生計を立てているが、時には潔のように町で起きた厄介ごとを引き受けており、手に負えない場合は潔に助力を請うていると。潔とは友人であると同時に仲間であり、潔は黒名を、俺の惑星だと呼んで頼りしている。この笛も、声が出せない黒名の為に、潔がくれたものだ、とまでも…。
それを知って、凛が思ったことは一つ――――――やっぱり、潔の周りにいる連中は男ばっかりか…っであった。
嫉妬の炎を燃やす凛を、黒名はじっと凝視する。
「何だ?」
その視線を鬱陶しがっていたところ、黒名はまた笛を口にして、ぴい、と鳴らした。
――――三日前、潔と、会った。
黒名の指文字を解読した凛は、目を丸くした。
――――ただし、簡単には、教えない。
凛と負けず劣らずの能面の表情を浮かべる黒名の指文字に、凛は眉間に皺を寄せた。
「テメエ、潔を庇うってか?」
詰問しようとしたところ、ずいっと、一枚の紙きれを目前に押し付けられる。人相書きであった。突きつけられたそれを奪って、まじまじと眺めた後、ぴい、と軽い音を鳴らした黒名に視線を戻した。
――――その男を、捕まえたら、教えてやる。精々頑張れ。
「ふざけんな、面倒ごとを押し付けんな!」
逃げようとする黒名の襟首を捕まえようとしたが、するりと猫のようにすり抜けられ、ぴっぴー!と音を鳴らして逃げられた。凛は忌々しく睨み、舌打ちを鳴らす。苛々のあまり、黒名から奪った人相書きをぐしゃりと握り潰した。
クソが…っ次から次へと…どうして迂回させられる…っ
凛は結論に至った。こんなに苛々するのは――――全部、潔のせいだ。
潔、コロス。凛は怒りの炎を、轟々と燃やした。
怒りを燃やしたところでにっちもさっちも行かず。黒名から渡された人相書きの男を捕まえることで鬱憤を晴らすことにした。
人相書きの男は、定吉という。スリと盗みの常習犯であった。ほとほと困った町の者らが、蜂楽に依頼して人相書きを町中にばら撒いて、足取りを追っているらしいが、悪知恵に富んでおり尻尾すら掴めずにいるらしい……と、凛は一旦戻った旅籠屋の若旦那からその情報を聞き出した。
思った以上の面倒ごとに、凛は更に苛々した。あまりにも苛々していたので、甘いものが欲しくなった。団子屋であんみつを一皿ぺろりと平らげると、今度はしょっぱいものが欲しくなった。まだ夕刻前だが、小腹も空いたところなので、早い夕餉を食すことに決めた。
茶漬けが食べたい衝動に駆られたので、偶然見つけた小料理店に入り、茶漬けを注文した。どん、と鯛茶漬けが置かれた。凛の大好物である。ずず、音を立てて茶に解れた米を流し込む。茶漬けうま。鯛もこれまた美味い。
けど、味気ない。何故?考える。何かが足りていない。――――うまそ。一口くれよ、凛。――――ここにはいない筈の声がして、無意識に茶碗を隣に寄せてしまった後、我に帰った。本当に無意識だった自分の行動に、凛は驚きが隠せなかった。
そういえば、潔とこんなに離れたのは、初めてな気がする。一難町に来てからは、ほとんど毎日、潔と顔を合わせていた…正確に言えば、潔の方から凛に歩み寄る。一方的に面倒を見ようとするだけでなく、美味しいものを分かち合おうとしてきたり…凛は誰かと分かち合うことなどしない。そんなぬるい共有は毛嫌いしている。だけど、潔相手に、嫌いなんて感じたことは一度も無かった……。
――――て、こんなことになってんのは潔のせいなのに、どうしてしんみりしねえといけねえんだよ
苛々を思い出した凛は、二杯目を注文した。二杯目が卓に置かれるとすかさず凛は箸を取り、掻き込んだ。潔のことを考えないように茶漬けに集中しているあまり、店主が声をかけてきたことに気付かない。あの、席が空いていないので、相席よろしいですか?凛は周りの声を一切遮断している。諦めた店主は凛の真向かいに客を案内した。見も知らぬ他人が真向かいに座ったことにも気づかずに、凛は茶漬けを掻き込んで、最後の一口をひと思いに飲み込んで丼を置いた。ごちそうさまでした。その時になってようやく正面に座る一庶民の存在に気付いた。一人を好む凛は気分を害するが…真向かいの顔に既視感を覚えた。
この顔どこかで。ん?眉間に深い皺を寄せたまま、懐にしまい込んだ人相書きを出した。お通しを口にする男と人相書きを交互に睨む。よく見れば――――人相書きとそっくりの男が目の前にいた。
熱燗を注文しようとして顔を上げた男とばっちり目が合ったと同時に、凛は男の頭を鷲掴んだ。
「見つけた…………このクソ野郎が」
そして、思い切り卓に頭を叩きつけた。木製の卓に皹が入った。うわああ。お客さん、騒ぎは勘弁してくだせえ。誰か奉行所を呼べ。周囲から上がる悲鳴など気にも解さない。頭をひどく叩きつけられて意識朦朧の状態で逃げようとする男を逃さず、地面に引き倒し、馬乗りになると、ぼこぼこに殴った。潔への怒りを上乗せして。男が気絶するまで。
膨れ上がった顔に、凛は清々した。溜まっていた鬱憤もこれにて解消。
が。今度は町奉行が雪崩れ込んだ。であえであえー。狼藉者め、大人しくお縄に付けい!包囲されたのは、凛である。は?と目を丸くする凛はあれよこれよで奉行所まで連行された。捕まえた定吉と共に。俺は無罪だと主張するが、大多数の人間からの目撃情報により投獄されて、牢屋で一晩明かすこととなった。
回想。
潔が三色団子を食べたいというので付き合ってやった昼下がりの頃。千切がやって来て、潔に頼みたいことがあると申し出た。
千切の店の前に行くと、老婆が座り込んでいる。老婆の手前では、千切の姉が困り果てている。聞けば、あの老婆、朝方からずっと座り込んでいて、ほとほと困っているというのだ。追い返せばいいじゃねえか、と凛が言うと、そんなことしたら店の評判に傷がつくだろ単細胞と返されて、千切と目線で火花を散らした。
潔は老婆を観察して、何かに気付いた様子で、臆することなく近付いた。そして、老婆に向かって話しかけた。もしもし、ここに何か御用でしょうか?潔が話しかけるも、老婆は見向きもしない。このババア、頭がおかしいんじゃねえか?と凛が突っ込んだところ、潔は老婆の肩を優しく叩き、両手の指を動かした。老婆は驚いたように潔の指の動きに注目して、潔と同じように両手を動かした。
「このおばあちゃん、迷子になっただけなんだって。俺、送ってくよ」
たった一人で老婆を送ろうとするものだから、凛も付いていった。老婆は無事に長屋に住む息子夫婦のもとに返された。
「この世には、生まれ持って耳が不自由な人がいるんだって。そういう人たちの為の言語があるんだ。それが、これ。指文字ってわけ」
それもまた、潔家の蔵に保管されている蔵書の知識の一つである。帰りがけに蔵に寄った際に、その本を見せられた。
「隣町にも同じような友達がいるんだ。気さくの良い奴だよ。今度会わせてやるからな」
花開くように笑う潔に、凛は何て返したか。テメエの交友関係なんざ興味ねえ、と返したかもしれない。
まさかそれが黒名ではあるまいか、と今更になって気付いたのだ。
四
解放されたのは夜明け直後である。二日は狭くて暗い場所で臭い飯を食わねばいけねえのかと覚悟していたのだが、あっさりと釈放された。出ていき間際に、町奉行より文を渡された。宛名は糸師凛殿。送り主は黒名……どうやらあのチビが手配したようだ。
文を広げて、文字を追う。定吉捕縛協力の礼の後に、凛が欲していた情報が書かれていた。
――――数日前、潔と会った。その後、潔は雪宮という男に会いに行った。俺が知るのはそこまでだ。
雪宮…また男か。凛は嘆息する。そして、続きを読む。
――――潔とは、この町に流れてきてからの仲だが、たくさん世話になった。口が利けなくて生きるのも大変な俺が、今こうして働けるのは、潔のお陰だ。潔には恩義がある。だからもし潔を泣かせるようなことがあったら、その時は俺がお前を倒しに行くから覚悟しろ。
結びの言葉まで読み終えた凛は、頭痛を覚えた。
潔との縁談が確かなものとなった直後のこと、この縁談を祝ってくれたのは潔の両親ぐらい……残りほとんどの者からは、因縁をつけられた。蜂楽や千切など、潔の同門の者達が特に顕著であった。
凛ちゃんが強いのは知ってるし、二人が両想いなのも知ってるけど、もし潔を泣かせたら殺しに行くから覚悟してね。潔の好意に胡坐かいてっと、俺が潔を奪いに行くからな。勘違いすんな、俺はお前を認めた訳じゃねえからな。等など、どっと押し寄せて口々に宣言してきたのを今でも鮮明に思い出せる。
あいつ、どうしてこうも男をひっかける天才なんだよ…そして数多の男から好意を寄せられても全く気付いていない潔の鈍感さが、凛の苛々を助長させたのも真新しい。
まさか一難町だけでなく、他の町にまでいたのか…赤毛チビも取り巻きの一人というなら、その雪宮という男もそうじゃねえだろうな…?
今更ながら、潔の鈍感ぶりに、凛は戦慄を覚える。ここまでくると末恐ろしいものを感じてならない。
不吉の予感を抱きながら、雪宮を探すため、凛は町中を彷徨う。雪宮という男もまた剣豪であり、呉服屋の店主であることは、黒名の文に書かれていた。ご丁寧に店の名前と場所まできっちりと。書かれてある通りに進むだけなので、この二日の苦労が嘘のようにあっさりと見つけることが出来た。
呉服屋『雪桜屋』。文の通りの看板を見つけ、暖簾を潜った。
彩多くの反物が飾られた店内の真ん中に、男がいた。男は眼鏡をかけた顔を上げる。
「いらっしゃいませ、どなた様ですか?」
眼鏡をかけた男は壁を向いたまま話しかけた。凛を見ようとしていない。
「すみません…俺は目が悪いものですから、喋ってくれると助かるのですが」
よく見ると、男の視点が合っていない。男の傍らには刀が置かれている。目が見えないと言う男から発せられるのは、手練れの剣気であった。
「…ここに潔はいるか?」
前置きも無く本題に切り込むと、合っていなかった雪宮の視点が、凛が立っている方向を捉えた。
「君は…初めて聞く声だけど、潔の知り合いかい?」
「…糸師凛」
名乗ると雪宮は小さく驚いた反応を見せた。
「君が…そうか、君が糸師凛君か。話は潔から聞いてるよ」
潔から、という言葉が食い気味に発せられたように聞こえたと同時に、嫌な予感が確定した。
「長居するつもりはねえから、さっさと吐け。潔はどこだ?」
雪宮は何か察したように顎に指を構えて、ふうん、と相槌を打った。
「さては…祝言の前に許嫁殿に逃げられた、ってところかな?潔と喧嘩でもしたの?まあ俺もたまに潔と喧嘩するけど、祝言の前にそれはまずいんじゃない?」
初対面だというのにずけずけと急所を突いてくる雪宮の言葉に、凛は殺意を抱いた。
「黙れ、殺すぞクソ丸眼鏡」
「潔から聞いてたけど、かなり物騒な空気だね。潔も男の趣味が悪いねえ」
「あ?」
「ごめんごめん、怒らせるつもりは無いよ」
すでに凛の中でこの男は敵認定していたので今更遅い。凛はいつでもこの男を斬り捨てるつもりで刀の切り口を切った。
「で?潔を探しているんだって?俺で良かったら協力するよ」
爽やかな笑みを浮かべる雪宮に対して、凛は胡散臭さを嗅ぎ取った。
「ただし…タダとは言わないけどね」
それは的中した。
数分後。凛は店頭に立たされた。客寄せして売り上げに貢献してね。と雪宮からの条件を提示されたのだ。今すぐにこの男を叩き斬ろうと殺気立ってた凛は殺意を堪えて条件を飲んだ。
客寄せって何すんだよ…と苛々しながら店頭に立った直後。町娘が次から次へと湧いてくるように寄ってきて、だまが出来上がった。あの、新入りさんですか?お名前なんと仰いますの?剣術を嗜んでらっしゃるの?どちらの道場?雪宮様のご友人ですか?ひっきりなしに寄ってくる黄色い声を、凛は全て無視する。
「やめろ、近寄んな、あっち行け」
鬱陶しくなって追い払おうとするも、喋れば喋る程、娘達は顔を紅潮させた。素敵な腕。と勝手に腕に触れてくるのを、反射的に振りほどいた。はっきりとした拒絶にそれまで熱で浮かれていた娘たちの顔色が変わる。
「やあやあ、娘さん達。今日は新作を入荷してますよ。入って見られますか?」
そこへ杖で地面を突きながら出てきた雪宮が助けの手を出した。凛から雪宮に向いた娘たちは脱兎のように駆け込んだ。あの方怖かったです。ええそう本当にそう。掌を返すような声が凛の耳に聞こえ、それが更に凛の癇に障った。
店に入った娘達が一人漏れず反物を持って店を後にした後、見送りで手を振っていた雪宮が、凛の方向に身体を向けた。
「女性は苦手かい?」
凛は答えなかった。女だけでなく、男も子どもも老人だって、凛にはどうでもいい。凛の世界にいるのは兄……と、潔だけだ。
黙りこくる凛に、雪宮は話しかける。
「君も難儀な男だね。寄りにも寄って、潔に惚れてしまうなんて」
「違え」
雪宮の言葉を、凛は即答で否定する。
「違う?何が?」
「惚れてんのはあいつの方」
雪宮は視点が合ってない目を丸くすると、あはは、と突然笑い上げた。
「流石にそれは説得力無いよ。自覚ない?」
「潰すぞ眼鏡」
殺意を滲ませる凛を、まあまあ、と雪宮は宥める。
「疲れたでしょ?休憩しない?カステラ食べるかい?」
カステラ。いつしか潔と食べた南蛮の菓子に惹かれて、凛は雪宮の後に付いて行った。
目が見えないなりに雪宮は茶を出した。ずっと雪宮の動きを凛は追っていたけれど、どこに何が置かれているのかを把握した正確なものであった。
「俺がこの町に来たのは、潔が目当てだったんだ。ああ勘違いしないで。正確に言ったら潔じゃなくて、潔の曾お祖母さんだったんだよ。潔の曾お祖母さんのことは聞いてるかい?」
凛は出されたカステラを、菓子切りで均等に切って、頬張った。
「突然目の病に罹ってしまって、色んな医者に診てもらったけど原因も対処もわからなくて匙を投げられてしまって…最後の頼みの綱が、潔の曾お祖母さんだったんだ。医者の間では伝説として語り継がれた凄い人だったんだって。流石に生きてないけど、この目を治す手がかりがあると信じて会いに行ったんだ」
雪宮が語っている間、凛はカステラに集中していた。
「曾お祖母さんが残した手記や蔵書を片っ端から読み漁っても、この目の特効薬が見つからなくて……俺も後がないって焦ってしまったんだ。俺には夢があってね。日ノ本一の剣豪になるためなら夢と心中してもいいとすらも考えて、無茶をしたんだ」
凛は湯呑の茶をずずっと一口含んだ。少し濃い。
「そんな俺を止めたのが潔だ。結局目は戻らなかったけど、戻らないなりの戦い方を見つけた。夢もまだ諦めてない。こうして今も夢を追いかけていられるのは、潔のお陰だ」
茶を飲み終えた凛は、ふうと息を突きながら湯呑を置いた。
「で?潔はどこにいる?」
「うーん…この人の話を聞かない感じ、君も蜂楽君や千切君と同じかな?」
「いいからさっさと吐け。無駄な時間を食わせんな」
あははは、雪宮は乾いた笑みを溢した。
「その前に聞くけど…………どうして潔と喧嘩したんだい?」
成熟した雰囲気の口調に、凛は答える。
「喧嘩じゃねえ。向こうが勝手に突っかかってきただけだ」
「凛君。世の中ではそれを喧嘩っていうんだよ」
癇癪を起す子どもを諭すような言い方に、凛は眉間に深い皺を寄せた。
「潔って……君の方がよく知ってると思うけど、穏やかで人当たりが良くて、諍いや問題をほとんど起こさない割に、たまに衝突を起こすことがあるんだよね。俺みたいに」
先ほどから、雪宮の言い方に、ちくちくとした棘のようなものが含まれているような気がしてならない。
「他人の顔色に鋭くて協調性が高いくせして、色恋沙汰にはびっくりする程鈍くなるから質が悪いんだよね」
雪宮が語れば語る程、凛は蟀谷をぴくぴくと痙攣させているのだが、雪宮は全く気付いていない様子で……いや寧ろ最初から分かっている様子で、わざと凛の癇に障るような言い方を続けている。
「俺もその内の一人なんだけど、このまま剣術と添い遂げるつもりなのかなって思ってたから、君との縁談が成立したって聞いた時は悔しかったけれど、心からお祝いしたんだよ」
そろそろ雪宮(こいつ)を叩き斬ってやろうか、と傍らに置いた刀に、凛は等々手をかけた。
「色恋沙汰なんかに興味も向かなかった潔が…………初めて向くようになったのが君だったんだよ、糸師凛君」
雪宮の言葉に、凛はすとんと、一瞬で気が削ぎ落された。
「君と今日会って、分かったよ。潔が凛君を選んだ理由がね。完敗したよ」
雪宮の視点は凛には向いていない。けれど、言葉は正確に、凛を打ち抜いた。
「君…………潔に新しい着物贈ったでしょ?」
的を得る言い方に、凛は図星を突かれた。
「何で知ってるって?目は見えないけど何でも知ってるんだ……嘘嘘。だって君が買った反物、俺が売ったものだもの?覚えてない?」
知らねえよ。凛は眉間に皺を寄せながら否定する。千切の店を間借りして出張した時に凛が購入したというが、凛は覚えていない…店員の顔なんて覚えてられるか、と内心で罵倒する。
「潔、死ぬほど嬉しかったって言ってたよ。俺は目が見えないけど、本心だってことは直ぐに解ったよ」
凛は無言を返した。言葉が出なかった。顔を地面に向けて、湧いて出てくる熱い感情で顔がゆで上がりそうになるのを留めるのに集中していたからだ。
そんな凛の心情を見抜いてか、雪宮は小さく笑う。
「素直じゃないところ、二人そっくりだと思うよ、俺は。案外君達、似たもの夫婦かも」
「…まだ夫婦じゃねえ」
「そう?でも、夫婦みたいなもんでしょ。今更」
雪宮は食えない態度で、やっとカステラに口をつけた。一かけらを口にして、飲み込んだ後。
「今日はもういいよ。ありがとう……潔のことだけど、確かに四日前にここに来て話をした後、黒名くんに用事があるって出て行ったよ。それが俺が知る、潔の最後」
凛は怪訝に雪宮を睨んだ。
「その赤毛チビがお前のところに行ったっつうから来たんだろうが」
「え?」
雪宮の方が目を丸くした。
「黒名くんが?俺にって?」
うーん、と雪宮は小首を傾げる。凛は雪宮を睨んだ。
「そんなに睨まないでよ。本当だって。確かにそう言ってたんだけど…」
雪宮の弁明に、ますます混乱した凛は、深い息を吐きながら首を直角に曲げた。声から凛の調子を読み取った雪宮は、労わるような口調に変えた。
「えーっと、ごめんね?もしかしたら、彼なら何か解るかもしれない…」
と、雪宮は続けた。
「氷織羊くん…潔がこの町で一番信頼している人間だよ。彼なら知ってるかもしれない。教えるからめげないで」
宥めるような言い方が殊更癇に障るが、まさかと浮上した疑問が更に凛の表情を険しくさせた。
「そいつも男か?」
「え?まあ、そうだけど…」
予想通りの情報が、更に癇に障ったことを、雪宮は気付いていない。
回想。
凛にとって、珍しい感情だった。たった一回の気まぐれが、こんな感情を生み出すとは思ってもいなかった。
潔家の離れ…潔の部屋に向かうと、中庭の巨木の下に、潔が立っていた。
潔が着ていたのは、新橋色の小袖であった――――それは先日、凛が気まぐれに買ったものだ。ただなんとなく、潔に着させたいという気まぐれで、商人から買い上げた……それを着物に起こしたのは、潔の母親だ。
「…何だよ?」
こちらに向いた潔の顔はむくれていたが…完全に照れくさいのを隠したものだった。顔全体が熱で赤くなっていたのを、凛は見逃さない。
いつも袴ばかりを着ていて、振舞も男の潔が、生まれて初めて女に見えた。小袖を着て、短い髪に簪を差して、薄っすら化粧をしている。目の前にいる女は、潔。いずれ、自分のものになる女。
凛の中でぐつぐつと熱いものが煮え滾りそうになった。言葉が出ない。頭の中までもが熱いせいだ。
「似合わないなら、そう言えよ…」
凛が何も反応を返さないから、潔が不安そうに呟いた。くるりと踵を返そうとした潔の手を、凛は無意識に掴んだ。本当に無意識だった。だから、驚いたように振り返る潔の顔に釘付けになったまま、どうすればいいのか混乱した。その末に、言葉を捻り出す。
「…今日は、そのままでいろ」
兄がいたなら、もっと言い様があっただろ、だの、褒めるなりなんなり素直に言え馬鹿が、と容赦なく罵っていたところであった。
だが潔は、驚きの表情から――――嬉しい感情を滲ませたものに変えた。
その日は、潔と手を繋いで散歩した。次の日から、潔は袴に戻った。少しだけ惜しい気持ちが残った。
五
雪宮から聞き出した通りの道を行き、一件の民家を見つける。雪宮の言葉が正しければ、そこが氷織という男の店だ。
無遠慮に戸を開けば、鈴が鳴る。鼻につんと着くのは、大量の薬草の匂い。ごり、ごり、ごり、と石器ですり潰す音が止むことが無い。
おい。と声を出そうとしたところ、音が止んだ。
「はい、おこしやす~」
奥から柔らかい声音と共に、長身の影が現れる。
こいつが氷織羊という男だと、凛は一目で看破する。どことなく雰囲気が潔に通じる、長身で逞しい体躯をした、女人の如くの相貌を持った男であった。
「どうもお初にお目にかかります。僕、この店の店主の、氷織羊言います。新顔ですけど、どなたでしょうか?」
京訛の言葉遣いで、氷織は凛に話しかける。
「糸師凛」
端的に答えると、氷織は凛を一瞬凝視した後、にこりと笑みを浮かべる。
「お兄さん、口の動きが小さいねんなあ。すみませんが僕、耳が聞こえないんです」
またか、と嘆息して、指文字を使おうとしたところ、氷織が遮る。
「ある程度は唇の動きで言葉を読み取っておりますけど、間違えることもありますので、ご堪忍なあ」
よいしょ、と氷織は座布団の上に腰を下ろした。
「それで、今、糸師凛と言いましたか?」
このやり取りも飽きたなと辟易しつつ、凛は早めに事を済ませようと切り出す。
「潔はどこだ?」
氷織はじっと凛を見つめる。その目が、どことなく潔に似ていると錯覚を覚えた。
「…ああ、潔君ねえ。僕、よく知ってるよ。仲良うさせてもらってるよ、入り婿殿」
「そういうのは良いからさっさと吐け。じゃねえと潰す」
畳みかけると、氷織は凛から漏れる剣気をもろともせず、穏やかに受け流す。
「あらまあ、物騒やわぁ。潔君の言ってた通り、お口が良い方じゃああらへんねえ」
どうにもこの男、調子が狂いそうになる。なんというか、潔に似ているのに、飄々とおちょくってくるようなこの感じ。潔から凛のこと聞いてはいるだろうから、凛という人間をある程度は把握しているのだろう…やんわりとした雰囲気で支配権を奪おうとしてきているような気ですらも感じられる。この男もやはり、潔世一の仲間だ。
「清羅君からちょっとだけ話は聞いてたけど、僕からは大したことは言えへんよ?」
柔和な双眸の奥には、氷のような鋭さが見え隠れしている。耳が聞こえないというが、この男もまた剣客に違いない。服で隠れているが鍛え抜いた体躯をしている。凛の目は誤魔化せない。
「隠し立てすんなら潰すぞ。良いから俺に従え、水色頭」
眼力を込めて、氷織を睨んだ。背筋から震えてもおかしくない眼光をもろもと浴びても、氷織は臆さない。
「解ったよ。僕が知ってることは何でも答えるよ」
ただし、と氷織は続ける。
「見てわかる通り、僕も暇やない。だから、ちょっとだけ仕事を手伝ってもらうよ」
やっぱりこの展開か…。凛は気が遠くなった。今度は何をされるのやら…。
露骨な表情を露わにする凛に、氷織はにこりと笑みを向ける。
「一難町と繋がってる山にしか生えてない薬草を取ってきてほしいねん。この籠いっぱいに集めてくれたら、凛君が知りたがってること、話たるよ」
部屋の隅に置かれた背負い籠を、笑顔で指差しながら言ってのける氷織に、凛は半眼になった。面倒くさい。露骨に感情を出している凛の顔を見ても、氷織はにこにこと笑っている。
「ほらほら、はよ行かへんと日が暮れるで。よろしゅう」
と、氷織は笑顔を持って送り出した。この町で会った連中の中で、この男が一番食えないと、凛は位置づけた。
町を抜けて、山の中へ入り、木々の間を抜けながら、凛は氷織から渡された薬草帳を片手に奥へ入っていく。動きやすく感じるのは、これまで幾度も一人で修行したい時に籠っていたからである。一難道場の空気は生ぬるく、何より、一難去ってまた一難、みんなでで力を合わせて乗り越える、という信念が凛にはぬるすぎて吐き気がした。全国底辺の雑魚の剣術道場…門弟も雑魚ばかりで話にならない。その道場の中心にいた潔だって、どうせたかが知れている、最初はそう思っていた。
道場に初めて足を踏み入れたその日。潔と試合した。試合は凛が勝った。ただ圧勝ではなく、ぎりぎりで勝った。雑魚だと侮っていたのだが、試合の中で潔は学習し、喰らい付いてくる。五本の内二本も取られ、最後の一本は運で勝ったようなもの…つまり本当の勝利ではなく、凛にとっては敗北に等しい。こんな雑魚相手に苦戦を強いられたことも悔しいが……一番悔しかったのは、運無くして勝てなかったという事実だ。
試合が終わった後の潔は、試合中とは別人だった。初めて会った時と同じ穏やかで謙遜な人間…これが刀を握れば飢えた獣のように貪欲になる。あのぎらついた闘志の目が、凛はずっと忘れられない…その日から凛と潔は宿敵同士となったのだ。
――――余計なことまで思い出しちまった。てか、潔の奴、本当にどこほっつき歩いてんだ。
あの両親は心配しねえのか?祝言前の娘が数日家に帰らずほっつき歩いてるんだぞ。大騒ぎするだろ普通。どんだけ自由なんだあの家は?
元々娘には甘い家だったというか、華道や茶道ではなく剣術道場に通わせるような風変りな家っていうか、藩主が縁談持ち込んでもはっきり否と答えられる当たり、穏やかだけでなく肝が据わってる節すらも見えてくる。
なんというか…人が良すぎるのだ、あの家は。家族そろって大らかで穏やか。で、天然。凛だって認めてしまうぐらいに心地良い家族なのは間違いない…だが少しは娘のことを心配しろと、今回ばかりは思った。
そんな心労を抱えつつ山に入ること一刻…………凛の背負い籠は、あっと言う間に薬草でいっぱいになった。
薬草だらけの背負い籠を見た氷織は目を点にした。
「おい、終わったぞ」
大した労力ですらなかったと戻って来た凛に、氷織は豆鉄砲を食らった鳩のような顔をした。
「うそん…ああ、ごめん。悪い意味やないんよ」
持って帰って来た薬草を一掴みして確かめた氷織は、唐突に謝り始めた。
「ホンマにごめんね。僕、まさかこんなに早く帰ってくるとは思ってなかったんよ。二三日は帰ってこんかと…」
氷織の言っていることが、凛には意味が解らない。凛はただ山に入って、薬草帳と同じものを見つけて取って来ただけだ。それだけのこと。
と、凛は思っているが、実は氷織が指定したものは希少な種類であり、特定の場所にしか生えていない少量の種類であったのだ。氷織はそれを知っていて取りに行かせたのだが、まさか短時間で大量に取ってくるとは一切思ってもいなかった。
そう、凛はただ山の中を進んでいただけ。それだけで、その希少な薬草の群を見つけた。それだけのことだ。それがいかに強運であるか…凛は知る由も無いし、氷織も同じ。
「お疲れさん、これ、つまらないもんやけどお一つどうぞ」
薬草だらけの空間に、氷織は抹茶と饅頭を用意した。遠慮なく胡坐で座り込み、饅頭を手に取って、一口で丸々飲み込んだ。饅頭うま。もぐもぐと咀嚼し、餡子の味を堪能した後、抹茶をぐびっと飲んだ。遠慮の無い凛を見て、氷織は微笑ましいものを見ているかのような表情をしている。
「潔君が凛君に惚れたの、ようわかったわあ。凛君なんやろ?偽の宮本武蔵を退治したの?潔君からよう話を聞いとるよ」
少し前の騒動の話をされても、凛には些末なことでしかない。それよりもだ。
「潔はどこだ?」
「うん?ああ、そうそう、潔君。そうやったねえ」
わざとらしい態度の氷織を、凛は睨みつける。先ほどからこの男、凛の剣気に全く怯んでいない。耳が聞こえないとか、そういう次元ではない。
「その前に、凛君に言いたいことがあんねんけど…」
氷織は佇まいを正すと、にこりと、笑みを作る。
「あんな凛君…………これから祝言を挙げる相手を数日もほったらかしにすんのどうかと思うよ、僕」
数日前も雷市らに言われた言葉であるが、氷織ははっきりと言い放った。
「…………は?」
「は?じゃあらへんよ。確かに剣術も大事やけど、祝言だってとーっても大切なこととちゃうん?潔君だってそりゃ不安になるに決まっとるやん」
「…う、うるせえ。俺の勝手だろ」
「へえ、俺が関白やって言いたいん?潔君がそういう男あんまし好きじゃないってこと、凛君知らへんの?いつまでも潔君に愛されるって自信しかないん?そんな自分のことしか頭に無い男なんて、たとえ面が良くたって、潔君も愛想尽かすで?ええの?」
ずばずばと、氷織は遠慮なく突いてくる。流石の凛も閉口した。押し黙った凛に、氷織は満足そうにした。
「…だけど、凛君やって、この数日で思い知らされたんとちゃうん?」
何が、とは言わないが、氷織の言いたいことが、凛には読めた。
「君らってホンマに似たもの同士やわあ。剣でしか生きられへん馬鹿やわあ。そんな二人だから好き合ってるんやって、みんな解っとるよ」
氷織だけでなく、雪宮も黒名も清羅…そして一難町の者らもみんなそう。
凛は険しい顔で氷織を一睨みした後、つんと顔を背けた。いじけた子どものような反応に、氷織はくすりと小さく笑う。
「では、潔君のこと話そうか」
凛は訝しそうに氷織を睨み、言葉を待つ。
「四日前のことやな。うちに潔君が突然来てなあ。君に対する不満を全部ぶつけてきたわあ。今回の件で相当怒ってたで。あんなに怒った潔君を見るのは珍しかったわあ」
無遠慮に赤裸々に話す氷織に、凛は居た堪れないものを感じて、苛々を募らせた。
「吐き出すもん吐き出し終わったけど、それでも気が済まない様子やったよ。凛君に一泡吹かせてやるってぷりぷりしながら出て行ったわ」
この男、案外性格悪いな。と凛は今更ながら認識した。
「で、最後に言うてたけど……雪宮君のところ行ってくる言うて、出て行ったよ」
「………………は?」
凛は耳を疑った。そんな凛の反応を、氷織は驚いたな表情で見つめ返す。
はあ?氷織の言葉を反芻する。“雪宮のところに行った”…どういうことだ?その雪宮は黒名のところに行ったと証言し、その黒名は雪宮のところに行ったと言う…矛盾していると気付いたと同時に、果ての無い迷宮に迷い込んでしまった。
頭を抱えて混乱する凛を、氷織は思考しながら眺める。
「なあ、凛君。ここに至るまでの経緯を話してくれへん?」
凛は怪訝に氷織を睨みながら、端的に話した。氷織は傾聴し……正確には凛の唇を読んで言葉を理解し……話し終えると、深い思考に入る。
「なるほどね……」
氷織は悟ったようにぼやいた。
「潔君も性格悪いわあ。まあ知ってたけど…」
意味深長な言葉をつぶやいて、氷織はまたにこりと笑顔を凛に向ける。
「凛君。潔君は、凛君に知ってほしいことがあったんやと思う。せやからこんな遠回りな道を用意したんやと思うで」
「んだよ、それ…」
「矛盾しているけど、紐解いてみたら、意外と単純。どんなに絡まった紐も真っすぐに戻すことができる」
あと一つ言えば、と氷織は言い紡いだ。
「君がこの四日間に出会った中で、一人だけ嘘つきがおるねん。それが解ったら、潔君の居場所がわかるよ」
それ以上、氷織は何も答えなかった。あとは一人で考え、と返された凛は仕方なく氷織の店を後にした。
――――結局、全部無駄足だったのかよ。旅籠屋に向かう足は酷く重く感じた。自分らしくなく奔走した結果が、これ。骨折り損のくたびれ儲け。途方に暮れた。犬も歩けば棒に当たるとはこれのことを言うのだろうか。
あと少しで夕暮れだ。時間がかかりすぎた。一晩過ごしたら帰ろう。その内、ひょっこり現れるだろ。あいつは…。
そう思うが、凛の中で虫が騒ぐ…………このまま二度と会えないんじゃないか、という不安が騒ぐ。
潔は不安だったのだろうか。何が?意味解らない。凛には他人を理解する力が無い。今まで凛の世界は兄だけ。兄と仲違いしてからは、世界は自分一人だけ。
その世界にいきなり飛び込んできたのが、潔。
確かに最初は偶然だった。兄の突拍子の無さが起こしたものだ。
でもあの時、最初に出会ったあの日―――――桜の下で佇む潔に、一瞬でも目を奪われたのは確か。
その日から始まっていた。凛と潔の物語が、始まっていたのだ。
別れるなんて考えられない。凛の人生に潔は必要不可欠。潔はそうでなかったとしても、凛がそうなのだから確定事項。手放すなんてことは、考えられない。
――――氷織の言葉を頭の中で反芻する。絡まった紐は元を正せば一本になる。
嘘つきは一人。その一人は?記憶を思い返す。清羅、黒名、雪宮、氷織の証言を思い返し、思考を巡らせる。潔にできて、凛にできないことは無い。潔の思考を読め。
思考。思考。思考。思考。思考。思考。思考。思考。思考。思考――――――。
――――その末に、一本の道を正した。
凛は行く。行きついた答えに向かって。町を抜けて、山を登る。日は暮れて、夜がやってくる。幸運なことに雲が少ないお陰で、暗い獣道も月明りと星々の光で何とかなった。
山を抜けた頃には、夜が明けた。凛は足を止めない。一難町を横断する。
そして、潔家に辿り着く。迷うことなく門を潜った。凛の足は裏に回る。屋敷の裏にある蔵。その戸を開ける。
日が差し込んだ向こう側。書物が積み重なった奥――――蝋燭が灯す一か所に、佇む背中が見えた。
「潔」
呼べば、背中が振り返る。五日ぶりの再会だった。
「…あと少し来るのが遅かったら、一生会わないつもりだった」
潔は静かに立ち上がり、凛と向き合う。凛を見つめる顔からは、感情が読み取れない。
「外で話そ、凛」
潔の隣を凛は付いていく。中庭の木の手前で止まる。枝に付いていた枯れ葉が地面に広がり、その上に踏み止まった。
「………で、凛はどうやってここに辿り着いたん?」
くるりと振り向いた潔が、凛の顔を真っすぐ見上げて問う。
凛は答える。
「……水色頭が言っていた。事は、複雑に見えるが、案外単純なんだと」
清羅、黒名、雪宮、氷織……四人の証言を並べる。
清羅は、潔は家に帰った、と言った。
黒名は、雪宮に会いに行った、と。
雪宮は、黒名に会いに行った、と。
氷織は、雪宮に会いに行った、と。
この四人の中で、虚言は一つ。
そこで、凛は気付いた。潔は、一人ずつに会いに行ったのだとするなら、正しい並び順があるのではないか。そこから、一人だけ矛盾した証言を口にした者を当てることができる。
虚言を申したのは――――――黒名だ。
だとしたら、潔が会いに行った順は、こう。
氷織、雪宮、黒名、清羅。
そうすると、潔の居所がはっきりとわかる。そして潔家の中で、隠れられる場所があるとしたら……ここしかないと、凛は踏んだ。
それを端的に話すと、潔は大して驚いていない様子だった。
「…みんなには、もし凛が尋ねてきたら、こう答えてくれって事前に頼んでたんだ。ここまでうまくいくとは思ってなかったけど」
潔はふいっと顔を逸らした。凛は潔の横顔を、じっと見つめた。喜怒哀楽が顔に出やすい潔の表情を見る。眉間に小さい皺を寄せた潔が再び凛を見上げる。
「…何だよ?」
凛は潔を凝視する。凛には、潔のように、人の感情を読み取ることはできない。今もそう。どんなに潔を欲しても、潔を理解することはできない。
――――いいや。そんなの、凛潔(おれたち)の間に要らない。
凛は潔が欲しい。潔は凛を理解する。…それが、凛潔(おれたち)の在り方だ。
「潔」
凛は潔を、潔は凛を、見つめる。
「…………言いたいことがあんなら、言え」
凛には、他人を理解する能力自体、持ち得ていない。だから、直接訊く。それが、凛ができる譲歩。
凛を見つめる潔の顔が、初めて歪んだ。凛から目を逸らし、眉間を少し寄せ、下唇を巻き込んだ。
「…………俺、凛が、たまにわかんない時がある……」
潔は、語り出す。初めて、本心を打ち明けた。
「凛、前に言ってたよな。いつかこの町を出るって……なのに、俺と一緒になって、いいんかな?って思った」
でも。潔は続ける。
「こうも思ったんだよね……凛はずるい。凛はどこにも行ける。俺は違う。凛はどこにも行けるけど俺はどこにも行けない。凛の帰りをずっと待ってないといけない」
それがずるい。と潔は言う。逸らしていた潔の顔が、凛に向く。いつもの能天気な笑顔ではない。悲しいのと、寂しいのと、嫉妬がぐちゃぐちゃになったような顔だと、凛は感じた。
「俺だって、日ノ本一の剣豪になりたいお前だけじゃない俺だってずっと夢見てた」
こうも、潔が感情を爆発させたことはあっただろうか。凛に向けて、さらけ出すことなんて…………初めて試合をしたあの日、凛が潔を負かせたあの日にしか見ていない。
だけど、凛には響かない。潔が泣いたって、同情すらもしない。できない。
凛が持っているのは――――潔が欲しいという感情だけだ。
「――――馬鹿潔」
アホ。クソ。雑魚。と続けると、潔は半眼になって、喧嘩売ってる?と返してきた。
案外何も解っていない潔に、凛は、はっきりと言ってやった。
「お前も連れて行くに決まってんだろ」
潔の目が、大きく見開いた。
「……うへえ?」
「勝手に突っ走ってんじゃねえって話だ、馬鹿が。お前も連れて行く。そしてお前は、俺が日ノ本一の剣豪になる瞬間を、一番近くで見届けろ。異論は認めない」
潔はぽかんと口を開けて固まった。間抜け面。それから、くしゃりと歪んで泣きそうな顔。そして、目元を柔らかくして笑った。
「そっか……」
ありがと、凛。潔の笑った顔が、深く突き刺さる。血が熱くなる。
「でもな、凛!日ノ本一の剣豪になるのは俺だからな!はき違えんなよ」
子どもみたいに屈託なく笑う顔が心地良い。もっと欲しいと、本能が働く。
笑う潔の顔を固定する。顔を近づけて――――唇を奪った。
軽い音を立てて離れる。潔は何をされたのか分からないという顔をしたかと思えば。
「………………………はへえ」
火にくべた湯のように茹った。
「何すんだよ変態!」
凛を押しのけて、潔は逃げ出した。
「…………は?」
背中を向けて脱兎のごとく駆け出した直後、凛はむかっと苛立って、潔を追いかけた。
「待ちやがれクソ潔」
「誰が待つかよ変態―っ」
しばらく二人の掛け声が、響き渡った。
終
時は過ぎ。春の大安吉日。糸師家、潔家の祝言が行われる。
三々九度の儀を持って、糸師凛改め潔凛と、潔世一の婚姻が結ばれた。
祝宴は続き、夜が来る。初夜である。
凛が一年以上を過ごした屋敷にて、ひっそりと行われた。
一つの褥の上に、二人は向かい合って座り込んでいる。凛は袴を脱いで、襦袢姿であり。潔は打掛を脱いでいる。膝と膝が指一本分の隙間ぐらいしかない距離なのに、じぃと固まって、かれこれ四つ半時は過ぎようとしている。普段は男のように活発な潔は珍しく初々しく固まっており、それならば男の凛が優しく手指を動かさなければならぬのだが、切迫した表情で固まっていた。
潔も初めてであるが…凛もまた、女を抱くのは今日が初めてだ。いくら兄が御膳立ての為に色物を寄越したところで、一朝一夕に自信がつく筈もなく、ある程度の知識は有していても、いざ事に移ろうとすると、緊張が昂って動けなくなるというのが、人の性というものである。こんなに緊張すること、凛にとっては初めてのこと。初めて好いた女を目の前に何を臆するか、誠に不甲斐ない男であるな、と凛の頭の中にいる兄が容赦なく罵倒してくるのに、流石に何も言い返せないでいる。
時間ばかりが過ぎる中で、今日はもう寝て過ごすか…と面倒臭くなった頃。
「なあ」
無言の間が、破られた。
潔が赤くした目元を恨みがましく細めながら、自分の帯に指をかけた。
「早く外せよ……いい加減に、きついんだけど?」
凛と負けず劣らずの緊張した声音で、潔は誘う。緊張で張っていた糸が、静かに切れた。
時は過ぎ、葉桜の頃。街道の途中の甘味処で、袴姿の二人連れが立ち寄った。
店主も奥方も、その二人組を見るなり目をまん丸にした。片や首をもたげないと顔が見えないぐらいの長身な上に美麗の相貌の持ち主で、片や相方よりかは小柄であるけれども柔和な印象の強い雰囲気が目立っていた。そして両方とも、腰に刀を差していた。剣客なのは明らか…もしかしたらよく見かける武者修行の旅、といったところか?
お二人さん、御兄弟で旅されてるんです?仲がよろしいことですな。店主が話しかけると、答えたのは柔和な方であった。
「いえ、俺達は夫婦です」
は?店主と奥方は揃って混乱し、夫婦だと言った二人を交互に見た。いわゆる衆道…?にこにこと笑うのに対して、連れの方は不動の表情なので、真相がわからない。
一休みを終えた二人組……潔と凛は腰を上げた。
「行くぞ」
「うん。夜までに次の町に着けるといいな」
二人は歩き続ける。同じ道を、同じ時間を、共に。