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    07tee_

    @07tee_

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    07tee_

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    なんちゃって江戸時代パロ。作者は江戸時代についてほとんど知らないので暖かい目で読んでください。
    潔愛され要素有り。潔がモブに迫られるシーンがあります。
    bllメンツも冴にいちゃもみんなサッカーはやっておりません。剣術やっております。
    受けが息するように女体化してます。男装注意。

    #凛潔
    #凛潔♀️
    #女体化
    feminization

    時代劇凛潔♀️(一)――――本当にどこまでも腹正しい、クソ野郎な兄貴だぜ。
     我儘で横暴な兄の存在に、糸師凛は腸が煮えくり返る思いであった。
     凛には兄がいる。四年前に隠居した父の代わりに藩主になった兄だ。その追随を許さぬ流麗なる剣技を持つ天才、『日ノ本の至宝』と呼ばれている、あの若き藩主である。その実態は、暴言をまき散らし我儘し放題家老の進言すら跳ねのける暴君こそが兄…糸師冴の本性であることを、十五歳になった凛はよくよく思い知らされた。おそらく…いや確実に、糸師冴の専らの被害者は、実弟である凛なのは間違いない。身内に対しても兄は毎日暴言三昧。兄から浴びせられる冷えた暴言を浴び続けた凛は、やがて兄を潰すのはこの俺だと憎悪を募らせるようになっていた。
     今日という今日こそは絶対に許せなかった。耐え続けていた凛であったが、とうとう堪忍袋の緒が切れたのだ。
    「凛。お前の養子先が決まった。喜べ」
    「…は?」
     突然のことに、凛は目をかっ開いて兄を凝視した。
    「俺の、何…?」
    「あ?同じこと言わせんな。お前本当に頭緩いな。そんなんじゃあこれから先やっていけねえぞ。俺の弟だからって今まで甘やかしてきたが、元服したら今まで通りのぷう太郎生活なんざ許さねえぞ」
     流れるように暴言を並び立てる兄の言動に、凛は蟀谷の血管がはちきれる程に腹を立てた。
    「誰がぷう太郎だクソ兄貴!」
    「お前のことだこのカス。まだ元服してないからって馬鹿の一つ覚えみたいに木刀振ってそれ以外に能のねえ剣術馬鹿が」
     いい加減にこの兄を殺してもいいと本気で思う。凛は何度目にもなる殺意を迸らせた。八寒地獄のごとくの殺意を向ける弟と、弟を煽りに煽りまくってより凍った地獄を作る兄の、この修羅場は鬼ですら裸足で逃げ出すと有名である。
    「…で、だ。剣でしか生きられねえ哀れなお前のために、元服の道を用意してやった」
    「あ?誰もそんなの頼んでねえ…」
    「ついでに、お前の引き取り先を見つけておいた。元服と同時に可愛い嫁も手に入れられるぞ。俺に感謝しろよ、凛」
     兄に対抗すべく暴言に暴言を返そうとしていた凛は、目を開いたまま硬直した。
     凛は十六歳になる。十三歳で元服を済ませた兄とは違い、まだ済ませていない。別に珍しいことではない。武家の次男は家督を継ぐ権利はなく、家も地位も与えられない。それは藩主の家系であったとしても例外ではない。大抵の場合、部下の家に養子入りすると同時に元服し、晴れて藩士となって藩を支える…のであるが…。
     確かに今まで養子入りの話が無かったわけではない。しかし、凛は全て突っぱねてきた。家老?上士?それ全員兄貴の部下だろ?そんなとこに入っちまったらあのクソ兄貴に仕えなきゃならねえじゃねえか。死んでもやらねえ。だから失せろ。二度とこんな話を持ち込んでくるな。…と八寒地獄の獄卒かと疑ってしまう程の恐ろしい形相で睨まれたので逃げる他やむ無し…ということで、この歳になっても凛は元服ができずにいたのである。
     いつまでも家から出ようとしない弟に、兄が強引に取り決めたらしい。凛の了承も無く。歳を取って得た娘を猫可愛がりしている老中に押し付けられるのか…と思いきや、聞いたことのない下級武士の家系。その家には息子はおらず、娘が一人だけという。
     兄の横暴さに、凛もまた、とうとう溜まりに溜まっていた不満を爆発させ、追い出される前に城を出てやった。向かうは城下町の外れの小さな町の手前である。凛の知らない土地だった。
     季節は春の盛り。並木道は薄桃色の雪が散っている。涼し気な表情で、凛は自分を引き取ろうという物好きな家へと向かう。
     凛が住んでいた城とは真反対のこじんまりとした武家屋敷が見えた。ところどころ痛んでいるところを見れば、禄が少なくて修繕が追い付いていないのだろうと察しがつく。戸を叩いて、無遠慮に敷地へ入った。屋敷の前で立ち止まる。誰も出ない。仁王立ちのまま止まる。まだ来ない。凛が一声かければ家人の誰かが出迎えるのだが、凛が一言も発しないので、来訪者に気付ける筈もないのは当たり前。誰もいねえのかと一人勝手に完結して、凛は勝手気ままに敷地内を周りだした。
     蔵と母屋があって、離れがある。そこに近付いた凛は目をわずかに見開いて足を止めた。
     離れの前には桜の木が植えられている。その根元に、人が立っていた。袴を纏ったそれは、桜の木を見ず、俯いて深く考え込んでいる様子で、凛に気付いていない。その横顔は思い詰めているようにも見えた。
    「おい」
     凛が無遠慮に声をかけると、驚いた様子で振り返った。
     凛よりも低い背丈の、同年代の少年、といったところだろうか。太刀と小太刀を差していても、幼さと未熟さが抜け切れていない。この家には男児はいない筈。
     けれど、そんな疑問は、凛にとっては些細なことだ。この家と関わる気は一切無いのだから。
    「お前は潔家の関係者か?」
    「…だとしたら何だ?お前誰だ?」
     礼儀そのものが欠けた凛の態度に警戒しながらも向き合ってくるそれから、剣客特有の匂いを嗅ぎ取った。貧弱そうでも一端の剣豪なのだろうが、独特なものを感じる。限りなく凛に近い…けれども、凛とは違う異質な気を、その男から感じてならない。極めつけはその目だ。気を抜けば吸い込まれそうな青の色に、ここに来た理由を忘れそうになってしまう。
    「…だったら話は早え。俺は糸師凛だ」
    「…ああ、お前が」
     目を一瞬丸くした男が何か言い出す前に、先手を切った。
    「この家の主に伝えろ。俺は、一つの場所に収まるつもりはねえ。俺には目標がある……兄貴を超えて、日ノ本一の剣豪になることだ。それ以外に興味はねえ」
     凛と男の間に、桜の花びらを含んだ風が舞った。凛の言葉に、男は大きな目をいっぱいに丸くしていた。
     言いたいことを言い終えて、凛は去ろうとする。
    「…そうか。お前もか」
     目の前の男が、口元を小さく吊り上げて笑ったのを見て、引き返すのを止めた。
    「糸師凛…話は聞いてる。けど、安心してくれ。お前の邪魔をする気はないよ」
    「あ?」
     男は凛の目を真っすぐ見つめ返しながら続けた。
    「実はな。潔家の一人娘は風変りなもんで、良妻賢母の修行に嫌気を差して誰にも嫁がないと言い張って、持ち込まれた縁談に応えるつもりは無い様子…それで、俺が養子として引き取られた」
     男は目元を少しだけ和らげて笑う。
    「俺の名前は潔世一。潔家の跡継ぎだ」
     桜が舞った。男は挑戦的に笑っている。その顔から、凛は目が離せなかった。その顔が心の内側に入り込んだ錯覚を覚えたからだ。
     それが、潔世一との出会いだった。




     半年が経過した。
     夜明け前に、凛は起きた。秋に入ってから早朝がやけに冷え込む。温かい布団に包まれるよりも、身体が鍛錬を求めた。布団から起き、寝着から袴だけを履くと、木刀を手に上半身裸のまま家の周りを外周した。十周りした後は、素振りを千回。それが凛の朝に行う鍛錬だ。雪が降っても逆に暑くなるので、毎日半裸で行っている。
     定例の鍛錬を終えれば、丁度朝を迎えた。井戸の水を頭から被って汗を流すと、母屋からもくもくと上がっている煙に目がついた。あいつ、今日もかよ。心内で嘆息すし、身だしなみを整えて厨へと向かうと、見慣れた特徴的な髪のてっぺんが、釜の作業に精を出していた。
    「おはよ」
     こいつ、一応武士なんだよな?武士が何で厨仕事してんだよ。たすき掛けをしていても、袴の格好で釜の火を焚いてる姿は、凛にとっては異質でしかない。
    「勝手に入るなっつってんだろ」
    「それが朝餉を作りに来てやった俺に言う台詞かよ」
    「武士は朝餉は作らねえんだよ」
    「俺の父さん武士だけど、母さんと一緒に厨に立つことあるけど?」
    「お前んちが変わってんだよ」
     ほわほわした潔の両親の、仲良く厨で戯れる姿を、容易に想像できてしまう。
    「凛、漬物切るから火を見てて」
    「何で俺が?」
    「じゃねえと朝餉食えねえぞ」
     火吹き棒を渡されてしまって、凛は苦虫をたくさん嚙み潰したが、空腹を訴える腹に逆らえず、潔が移動した後の竈の前に立つ。
    「今日は一緒に寺に行かね?紅葉と銀杏が綺麗なんだよ」
    「そんな暇はねえ」
     漬物を切り分ける潔の誘いを、凛はぶった切った。だけど潔はそれも慣れた様子で笑って受け流す。
    「暇はねえって、お前山に籠ってばっかだろ?ろくに道場に顔も出さないでさ」
    「あんなぬるい空気なんざ一瞬たりとも吸いたくねえ。あいつらがやってるのは剣術じゃねえ。ちゃんばら遊びだ」
    「お前、自分が剣客だってこと忘れてない?」
     ふん。凛はそっぽを向いて流した。
    「道場は自由でいいけどさ…紅葉には付き合えよ。お前初めてだろ?見せてやるよ」
    「頼んでもねえのに勝手に連れまわそうとすんじゃねえ」
    「まあまあ…お前もきっと興味の出る話があるんだよ」
    「あ?」
    「後で話す。ほら、おむかばあちゃんの漬物切れたぞ」
     切り分けたなすびの糠漬けを、潔の指から口の中に放り込まれる。確かに美味かった。
    「――――凛は、宮本武蔵って知ってるよな?」
     一刻の後、朝餉を終えた二人は、片付けをご近所のおむかの好意に甘えることにして、秋の並木道を歩いた後に、町近くの寺へ入った。木々は全て赤と黄に揉んでいて、道の上にも散りばめられている。この綺麗な風景を肴に茶と団子があれば心も腹も満たされることとなるだろう。
     通りすがりの坊主に挨拶を交わしながら中庭を探索している最中で、やっと潔が本題を口にした。
    「知らねえ奴はもぐりかド素人のどっちかだろ」
     宮本武蔵――――江戸初期に活躍した、日ノ本一の剣豪である。
    「…で、それがどうしたってんだ?」
    「昨日隣町の知り合いから小耳に挟んだんだけど……宮本武蔵らしい人間が、町の入り方を尋ねてきたらしいぞ。もしかしたら、もうこの町にいるかも。日ノ本一の剣豪がさ」
     潔は上目遣いで凛の反応を伺うが、凛には興味の欠片も無い話だ。
    「ただの噂だろ。本当にいるのなら目の前に現れるまでは、俺は信じねえ」
    「じゃあ本当に目の前に現れたら?」
    「俺の前に立ちはだかる敵は全員潰す」
    「こんの、悪役気取り」
     紅葉も見終えて、二人は石階段への道へ戻る。
    「この後、一緒に団子食いに行かね?」
    「一人で行け」
    「良いじゃん!三色団子がうまいんだよ。凛も好きだろ」
     これ以上無駄な時間は費やしたくないとは思うが、団子を食ってこいつを連れまわすのも悪くないという本音と葛藤を始めた時だった。
    「うおおおおおい潔ぃ」
     石階段から駆け上がった坊主頭が潔の名前を大声で叫び、両膝に手をついて大げさに息を乱していた。
    「イガグリ…お前、またお勤めサボってたろ?」
     冴えない面をした坊主頭を、潔はそう呼んだ。
     坊主頭の本名は五十嵐栗夢という。この寺の跡取りである坊主見習いであるが、本人は寺を継ぐつもりは一切無く、しょっちゅう寺を抜け出しては遊びまわるか剣術道場に潜り込んでいる。半眼になってイガグリを咎める潔であったが、イガグリは焦燥した表情で声を荒げた。
    「そんなんはどうでもよくて大変なんだって――――宮本武蔵って名乗った野郎に、今道場が襲撃されてるんだって」
    「えっ?」
     つい今しがた話題に出していたその名に、潔と凛は同時に目を丸くした。
    「本当に、宮本武蔵なのか?あの日ノ本一の剣豪の?」
    「多分…っ。てか、のんびりしてる場合じゃないんだって突然道場にやってきて、看板を奪おうとしてるんだよもう何人もやられてる最後の一人が粘ってるが、時間の問題だ」
    「蜂楽や國神は?」
    「あいつらは今日はいない誰もいないんだよだから、お前らだけが最後の頼みの綱なんだ」
    「…わかった。行くぞ!」
     潔は駆けだした。遅れてイガグリも後を追う。凛は……我関せずを貫いた。
    「お前も来るんだよ、凛」
    「あ?嫌だ」
    「嫌だじゃないんだよ」
     凛が動かないのに気付いた潔が急停止して凛に吠えた。凛は涼しく受け流す。
    「どっかの無法者に看板を取られたんなら、その程度だったって話だろ」
    「お前、剣客だって自覚無いだろ」
    「非情すぎるわこの天才が南無三」
    「早く来いって凛」
     このまま山に向かってやろうかと半ば本気で考えた凛であったが、非常に不服であるが、潔に付き合ってやることにした。
     急いで駆けつけたが、時は遅し。一難一心流剣術道場の看板が道場から消えていた。中は死屍累々だった。折れた木刀が散乱する床に、師範と門下生が一人残らず倒れていた。息の音はあるが虫の息。
    「多田ちゃん、大丈夫か」
    「い、いさぎ…っ。ごめん、時間稼ぎも、できなかった…っ」
    「こんなんで全滅するとか、この道場終わってんだろ。寧ろ無い方が」
     最後まで言い切ろうとした台詞は、凛!と嗜めの声によって中断された。
    「多田ちゃん…本当に、宮本武蔵がここに来たのか?」
     潔が顔を覗き込みながら問うと、ぶるりと背筋を震わせた。
    「あいつ…本物だった…っ。本物の、宮本武蔵だった…っ!」
     恐々とした声で紡がれた名前が、不穏に響いた。




     翌日も潔は朝から厨に現れた。
    「今日は蜂楽のところに行こうと思うけど、一緒に来てくれない?」
    「嫌だ」
     炊き立ての白米を頬張った後に、焼き立てのあじの開きを箸でほぐして口の中に放り込んだ。うまい。朝から焼き魚は贅沢すぎる。味噌汁も口に含むが、白みそと油揚げの相性が良い。
    「そう言うなって」
    「何でお前の道楽に付き合わなきゃいけねえんだよ」
    「道楽じゃねえよ…ん、開きうんま~!」
     頬を緩ませて堪能する顔に向かって、阿呆面と呟く。
    「多田ちゃんたちの証言を元に、蜂楽に人相書きを書いてもらって、町に注意喚起してもらおうと思ってる。手伝ってくんない、凛?」
    「無関係な俺を巻き込むんじゃねえ」
    「お前もがっつり関係者だからな」
    「俺の前に現れねえ内は敵ですらもねえ」
    「自分が世話になってる道場の看板を取り返そうって気概すらも無いのか、お前?」
    「弱いあいつらが悪い」
    「そういっちゃあ元も子もないでしょーが」
     凛が籍を置いている剣術道場は潔の紹介によるものだ。今住んでいるこの屋敷もそう。半年前、縁談の断りを入れに行った筈だが、実家を出るつもりなら誰も住んでいない別宅があるからそこを使えよ、と仮屋暮らしの場をもらい、職が無いんだったら道場が剣客を募ってるから紹介してやるよ、と食い扶持まで間接的に世話になっているのだから、実質凛は潔に養われているような状態なので、実質凛は潔に従うしかないのである。
     朝餉の後に、さっそく町へ踏み入った。昨日の道場の一件がすでに知れ渡っているのか、あちこちで自警団を見かけた。変わりない賑やかさの中に薄っすらと緊張感が孕んでいた。
     町の一角にある長屋の戸を、潔が先頭になって開いた。
    「蜂楽、いる?」
     室内を横断する洗濯紐にも絵が描かれた紙が隙間なくぶら下がっており、壁にもびっしりと絵が貼られている。床も真っ白な紙や落書き、絵具が散乱しており、山積みにされた本が六つもあった。とてもじゃないが人が住めるとは思えない空間の奥から、は~い!と明るい声が上がった。
     紙束の山と山の間をひょいと抜けたこの魔境の主が、明るい顔で二人を出迎える。
    「おはよ、潔!凛ちゃんも!お二人嫉妬しちゃうくらいに仲良しだね!」
     顔に絵具が付いていても拭うこともしない、天真爛漫な笑みで出迎えたこの少年は、蜂楽廻という。一難剣術道場の四本槍の一人であるが、今は若手新鋭の絵師として活動している。
     ちなみにこの蜂楽という男が、凛は気に食わない。誰にも馴れ馴れしくて無遠慮で距離を詰めて来て、初対面でお前の中の怪物を見せてよ、なんて狂人めいた妄言を投げてくるわ、あんたみたいな寂しそうに刀を振る人初めて見た、やら人を寂しがり屋呼ばわりしてくるのである。凛からしたらこの男の方がよっぽど寂しがり屋だと思っている。
     どうやらこの男は潔と大の仲良しらしく、凛よりも潔にべったり付きまとっている。
    「仲良しじゃねえよ。それよかお前、またこんなに散らかしたのかよ?ごはんは?」
    「ん~。まだ!」
    「そういうと思って握り飯作ってきたよ」
    「ほ~い、ありがと相棒!」
     こうして目の前で一方的に肩を組んで引っ付く当たり、やはりこの男こそが寂しがり屋だと思うのだ。潔と密着しているのを目にすると、何故か胸の内がむかむかしてくる。
    「オイ、さっさと用件を済ませろ、クソ馬鹿潔」
    「あ、ごめん。蜂楽にお願いがあって来たんだけど、良い?」
    「もっちろん!なんでも言ってよ相棒!」
     陽気に蜂楽は答えて、適当に座って、と紙が散乱した床を指差した。こんな場所でゆっくりいられるかよクソおかっぱ、と暴言を吐こうとした寸前で潔が押し入れから手慣れたように座布団を敷いたのだが、勝手知ったる他人の家のように動いているのが殊更むかつく。
    「蜂楽に書いてほしい人相書きがあるんだよ」
    「ほいほ~い。何なに?」
    「実はな…」
     昨日の道場破りの一件を話し、門下生が目撃した宮本武蔵なる浪人の人相書きを頼むと、りょーかい!任せて!と蜂楽は二つ返事で即答した。
    「えーと」
     蜂楽は床に半紙を置いて早速筆を走らせ、潔は懐から引き抜いた走り書きを述べ始める。
    「背丈は六尺ほど。肌色は土気色。顔は平べったく頬骨が浮いていた。顎は四角。髭が濃い。鼻は馬みたいに長く。目は細め。眉は太い。ちりちり髪。耳は平べったい。太い喉笛…」
    「できた!」
    「早くない?」
     潔が言い終わるのと紙一重で蜂楽は書き終えた。半紙に書かれた人相を、凛と潔は同時に覗き込む。いかつい男の人相は、あちこちで噂されている宮本武蔵と呼ばれていても違和感を感じない迫力があった。
    「ありがと。じゃあ、これを多田ちゃんたちに見せて、合ってるかどうか聞いてみるよ」
    「まだ歩くのかよ?」
    「当たり前だろ」
     不服そうな凛を嗜めた後、人相書きを一瞥した潔は、ん?と小首を傾げた。
    「蜂楽、この左首下の斑点は何?」
    「黒子だよ~」
    「え?俺言ったっけ?」
     走り書きの目撃証言にはそんな特徴は無い。傍で聞いていた凛もそんな記憶が無いと言える自信があった。
    「だってこれ、俺が見たから」
    「へ…………へ?」
     潔は目をまん丸にして、凛は眉間に皺を寄せた。
    「オイ、どういうことだ?」
     にかって笑いながら、蜂楽は答える。
    「だって俺、こいつに会ったもんね」
    「…へあ」
     白い歯を見せる蜂楽の証言に、驚愕せざるを得なかった。
    「オカッパ、いつこいつを見た?」
     凛が潔の手を掴んで人相書きを蜂楽に突き付けながら詰め寄る。
    「今日の夜明けぐらい」
    「今日」
    「ついさっきかよ。どこで?」
    「橋の近くで」
     にゃははは。蜂楽はまるで他人の冗談を笑っているかのような調子で証言した。
    「イガグリと雷市と明け方まで呑んだ帰り道に、死角から突然こいつに襲われて。不意を突かれたけど、蹴散らしてやった!」
     にゃはははは。と蜂楽はまだ笑っている。そんな蜂楽とは反対に、潔は血の気を引かせ、凛は苛々を募らせた。
    「蜂楽…そういう大事なことは、先に言いなさい!」
    「にゃははは~!でもほら、俺無事だったし!良かったでしょ?」
    「それは良かったけど、根本的に解決してないんだって!」
    「そういう問題じゃねえんだよ、クソおかっぱ」
     まだ明るく笑う蜂楽に凛が殴りかかる前に、退散することにした。




     翌日もまた、凛は潔によって連れ出されてしまった。町へ着くなり、立ち食い蕎麦の屋台に吸い込まれるように入り、月見そばを二つ注文をした。
    「…で、今日は何するってんだ?」
     ずずず、と蕎麦をすすり、素朴な味を噛みしめて飲み込んだ後、隣でお行儀よく蕎麦をすする潔に用件を問う。
    「昨日版画お願いしたろ?版画した人相書きをもらって、町に協力を仰ぐんだよ」
    「見つけたら報せろってか?」
    「まあそんなとこ」
     ずずず、とすすって、頬をとろけさせる顔に、内心で阿呆面とぼやく。
    「…てかそれ、お前がすることか?」
    「誰かがしないといけないのは当たり前だろ?」
     先に空っぽになった器に箸を置いた凛が、まだ食べ終えていない潔に重ねて問う。
    「奉行所や藩に訴えたらいいじゃねえか。名主でもねえお前がしゃしゃり出ることじゃねえだろ」
    「まあ、そうなんだけど」
     潔は最後の一口を咀嚼して嚥下した。
    「この町は藩から外れた場所にあるし、昔から有事の際は町の力で解決するようにしてきたんだよ」
     一難町は片田舎の小さい町ではあるが、藩の影響をほとんど受けない自治力の高い自治体である。ほとんどの若衆は一難剣術道場の出身で、道場の出身者の有志が集まり、自警団を結束し、治安を守っているという独特な自治力があった。藩主の家系に生まれた凛から見れば、ここまで独特な自治体は他に無いと断言できる。そして、その町の中心にいるのが、潔である節を薄っすらと感じ取っていた。
    「凛、行くぞ」
     その当人はというと、蕎麦を食い終わると御馳走様と律儀に礼をして、今日も今日とて凛を振り回そうとしている。仕方なく凛は、潔に付いて行ってやることにした。もし、潔が件の宮本武蔵に襲われてしまったら雑魚だから絶対に死ぬと確信を持っている。ちなみに潔は一難剣術道場の免許皆伝であり、強豪四本槍の一人であるので、申し分のない実力者…つまりは凛の偏見であった。
     多めに増版された人相書きを凛と潔で半分ずつ持って、町を歩き回った。自警団や寄合に顔を出して、人相書きを何枚か手渡し、何かあったらすぐに報せてくれと頼んで、次に回る。大工寄合を後にした後、商家の方へ足を向けようとしたところで、潔が町人に呼び止められた。
    「ごめんな、凛。ちょっと行ってくる。そこで待ってて」
     どうやら諍いが起こったらしく、その仲裁に潔が駆り出されてしまい、凛は一人ぽつんと置いて行かれた。
     そこへ、わらわらと町人の子どもたちが寄り集まって来た。
     子どもたちは数に任せて凛を囲い込むと、好き放題言い出した。世っちゃん様のお婿さまだ。大きいねえ。ねえ、世っちゃん様といっしょじゃないの?幼子の声を、凛は一切無視した。潔のお婿と呼ばれ、そんな言い方だとあいつの婿になったみたいじゃねえか、とも、その話は当に無くなってんだよ、とも言い返してやろうかと思ったが、子どもが苦手なため無視を決め込んだ。
     凛が沈黙を破ったのは、ねえ、玉蹴りしてよ。と、幼子から声をかけられた時だった。
    「しねえ」
     無駄を一切省いた端的な返答で一刀両断した。ここで泣かれて当然なのだが、この町の子どもたちは肝が据わっていた。
     どうして?できないの?と追い打ちをかける言葉を、眉間に皺を寄せて無視したが。世っちゃん様はできるのに、お侍さんはできないの?…という無垢な言葉に、蟀谷に青筋を立てた。
    「あ?できるに決まってんだろうが。あいつにできて、俺にできねえことは存在しねえ」
     ほんとに?世っちゃん様は三百回できたけど、お侍さんにはできる?悪意のない純粋無垢な幼子の言葉が、凛の負けず嫌いに油を注いだ。
    「余裕に決まってんだろ」
     凛は子どもに向けてはいけない形相で断言した。
     急遽、糸師凛の玉蹴りの挑戦が始まる。

     やれこまったこまったこまったにゃあ。
     あすくうものも、きるものも、なんもないでこまったにゃあ。
     あのいえ、このいえ、そのいえも、なんもないでこまったにゃあ。

     聞いたことのない童歌から始まって、両足だけでなく頭も胸も使って鞠を自由自在に操ると、子どもたちの目がきらきらと輝いて釘付けになった。
     右足左足、踵に、頭に、と鞠を操る。なんてことはない。幼い頃からこの遊びは、兄と何万回もやってきたのだ。身体はまだこの感触を覚えていただけのこと。
     回顧の念に駆られながら没頭する凛の姿を見ていたのは、子どもたちだけではない……一悶着を解決させた潔も、子どもたちが百を数える前から見ていたのである。戻ってくるなり子どもらに囲まれて童遊びをしている凛を見て、きょとんと目を丸くしていたのだが、本気になって自分を超えようとやっけになっている姿を見て、くすくすと笑いを溢した。
     さんびゃ~く!と合唱の後、高く蹴り上げた鞠が地面に着地すると同時に足で止めると、大拍手が巻き起こった。
     すごいすご~い!世っちゃん様をこえちゃった!お侍さんすご~い!邪念の欠片もない賞賛のど真ん中に立っていた凛は涼しい顔をしていたが、内心では達成感と満足感で満たされていた。
    「凛、待たせたな」
    「遅え。待たせるんじゃねえ、クソ潔」
    「悪かったって」
     小走りで寄ってくる潔は言葉の割には笑っていた。鞠を返して次の場所に赴く前、一人の童が潔に駆け寄り、袖を引く。
     世っちゃん様、夫婦になるの?大きな目を潤わせて見上げる顔に、凛は眉間に皺を寄せる。
    「いいや。その話は無くなったんだよ」
     ほんとう?と尋ねる幼子に、潔はそうだよと柔和に答える。すると、童は袖を引いたまま、だったら俺が大きくなったら夫婦になってくれる?とぶっ放してきた。
    「そうだな…もし大きくなっても俺のことを好きでいてくれて、俺が誰とも添い遂げていなかったら、その時は考えるよ」
     幼子は顔を輝かせて、ほんとう?約束!と指切りをすると、満足一杯に子どもの輪に戻っていった。
    「…期待持たせて弄んでんじゃねえよ、男誑し」
    「へ?何で俺、罵倒されてんの?」
     凛は潔を凝視しながら、こいつ、無自覚かよ。質悪い。と心の中で宣う。そんな凛の思考を、潔は読めずにひたすら小首を傾げた。
    「それよか行くぞ。まだ行くとこ残ってんだから」
     半分くらいに減った人相書きの束を持って、西へ向かった。商家が立ち並ぶ通りの一角に、この町で一番派手で大きな問屋がある。その暖簾をくぐった。
    「千切―。いるかー?」
    「ほーい。呼んだ?」
     番頭台には美しい少女が……ではなく、美少女と見紛う美しい男が番をしていた。着物を流し着て豹の毛皮を纏った、まるで傾奇者のように派手な格好をした男は、千切豹馬という。千切は揃って入って来た凛と潔を見るなり、にんまりと口角を吊り上げた。
    「へえー。夫婦道中の真っ最中?熱々じゃん」
    「そういうのじゃねえから。てか、それ蜂楽にも言われたんだけど?」
    「お前ら端から見たらそうとしか見えねえんだよ」
     この千切という男は、この一難町一の問屋『千切屋』の跡取りであり、剣客としても実力が高く、潔と蜂楽と同じ強豪四本槍の一人である。
    「で。お前らの要件って、宮本武蔵のことだろ?」
    「流石。話が早くて助かるよ」
    「こんな小さな町だと噂は直ぐに広まる。他の寄合にも顔出すつもりでいんだろ?俺がやっとくよ。見つけたらお前に報せるようにする」
    「ありがと。頼りにしてる、千切」
     二人のやり取りを一歩後ろから傍観していた凛であったが、二人の間に流れる馴れ馴れしい空気に、どうしてか苛々してきて仕方ない。眉間に皺を寄せる凛を、千切は一瞬だけ一瞥すると、凛に見せつけるように潔の肩に手を回した。
    「潔、ちょっと来い」
    「うえ?」
     何で一々密着する必要があんだよ?凛の蟀谷に太い血管が浮き出た。
    「お前、あの話まじなのかよ?」
    「あの話って?」
    「凛のことだよ」
    「ああ。あの話は無かったことになったよ」
    「本当に?」
    「どうして疑うんだよ?」
    「だってな……お前らずっと一緒なんだろ?」
     ひそひそ、ひそひそ、と顔を突き合わせて、声を潜めて話し合う二人に、凛はさらに苛立った。
    「おい」
    「みんな噂してっけど、お前、本当にその気がねえのかよ?」
    「無いよ。俺のことよく知ってるだろ?」
    「おい、いい加減にしろよ、てめえら」
     潔の腕を掴んで、乱雑に手繰り寄せた。
    「お、っとっと…お前な!いきなり引っ張るなよ!」
    「黙れ。さっさと帰るぞ」
    「仲良く帰れなー」
    「じゃあな千切!何かあったらよろしく!」
     と、千切と別れた、その二刻後のことである。
     湯殿の湯が沸いたので、凛がひとっ風呂浴びようとしたその矢先。式台の方より、たのもー!と声が上がる。そして潔と凛がいる奥の間へと無遠慮に入って来たのは、千切であった。全身びしょ濡れの状態で、両手に黒い毛むくじゃらを大事そうに抱いていた。
    「千切お前、どうしたその恰好」
    「汚ねえ恰好で勝手に入ってくんじゃねえ赤髪」
    「ここお前ん家じゃねえだろ。それよか、こいつ頼んだぞ」
    「へ?…わ!」
     千切が抱えていた黒い毛皮を潔に押し付けると、潔の腕の中で、にゃあ、とか弱い声で鳴いた。
    「ね、猫…?」
    「川に流されたのを拾った。ついでに湯殿使わせてもらうわ」
    「オイ、勝手に決めんじゃねえ」
    「俺が風邪ひいたらどうすんだよ?」
    「知らねえよ、そこらへんで野垂れ死んでろ」
    「潔借りるな~」
     千切は堂々と凛の脇を通り過ぎて、湯殿へと向かう。凛相手に大胆不敵である。拳を握って全身を微動する凛を、潔はどうどうと窘めた。
    「凛、手伝ってくれ。この子弱ってる」
     潔の腕の中で丸くなっている小さな猫は、にゃーんとか弱く鳴いている。千切への苛立ちや潔への不満をごったまぜにした大きな舌打ちを鳴らした。
     急ぎ潔が近所へ駆けていき、猫を押し付けられた凛はぬるま湯で猫の身体を綺麗にする。何度も手の中で暴れられ、日ノ本一の剣豪になるために鍛えた手が爪で引っかかれた。
    「お待たせ、凛!」
    「遅え」
     清潔な布で毛を拭いて、潔が調達した山羊の乳を茶碗に入れて、猫の前に置く。猫はすんすんと鼻を寄せた後、小さな舌で懸命に舐め始めた。
    「よくがんばったな」
     よほど腹が減ってたのか必死に乳を舐める猫の背を、潔の手が撫でつける。潔の手もまた分厚い。凛程ではないが、剣術一本磨き上げ続けた手だ。その手を握り込みたいという謎の衝動が生まれかけた寸前。
    「あがったー。ひとっ風呂あんがとさん」
     微妙な間で千切が戻ってきて、凛は舌打ちを鳴らした。
    「人んちの風呂を何だと思ってやがる?ここは湯屋じゃねえ」
    「そういうけどな。ここはお前んちじゃなくて元は潔が所有していた別宅な。だからお前に文句言われる筋合いはねえから」
     生意気な口調であるが、言ってることは正論である。凛は奥歯をぎりぎりと噛みしめて、湯上りの千切を忌々しく睨んだ。
    「おお。綺麗になってるじゃん」
    「綺麗な黒毛だな」
    「こいつ雌?」
    「雌だったよ」
    「へえ、美人じゃん」
     山羊の乳を飲み終えた黒い猫を抱き上げて、丸くなる背を、千切は慣れた手つきで撫でつけた。
    「千切おつかれ」
    「ちっかれたー。飯無い?」
    「風呂だけで事足りず飯までありつけようとしてんじゃねえ。帰れ」
    「お前に聞いたんじゃねえし」
    「冷や飯あるけど、茶漬けにする?」
    「お。いいじゃん。食う」
    「ふざけんな赤髪、帰りやがれっつってんだろ」
     凛が殺気を振りまいて脅すも、千切はどこ吹く風で受け流し、堂々と居間に腰を下ろした。我がもの顔の千切に、凛は蟀谷に太い血管を浮かばせる。甲斐甲斐しく世話する潔が、さらに血管を増やす。
     んめー。茶碗を傾けて一気食いする千切の隣に潔は腰を下ろして、にこにこと笑っている。そんな密接な二人を視界に入れないように、凛は距離を取っている。
    「ぷはー。食った食った」
     満腹の腹をさすって寛ぐ千切を、潔は労う。
    「千切お疲れ」
     潔の膝の上には千切が助けた黒猫が寛いでいる。その黒猫を、千切が手を取ると、腕の中に大事そうに抱えた。
    「ほんと大変だったー」
    「でも、何でここまで走って来たんだ?ここより、お前んちの方が近いだろ?」
    「そうなんだけどさー」
     ごろごろと喉を鳴らす猫の背を撫でながら、千切は語り出した。
    「國神を茶化しに行ったんだけど、あいつ留守でさー。暇そうな蜂楽捕まえて呑み明かそうって出歩いていたんだよ」
    「あまり國神を困らすなって…」
    「だーってそんな気分だしー」
    「あのな…」
    「まじでついてなかったんだよなー。散歩してたらいきなり襲われるしさー」
    「へぇ……え?」
    「…は?」
    「お前が持ってきた人相書きにそっくりなおっさんが死角から飛び出して、刀ぶん回してきたんだよ。ま、返り討ちにしてやったけど」
    「あの、千切…お嬢?」
    「おい」
    「あのおっさん負けを悟って逃げ出して、俺の足から逃げられると思うなよって追いかけて」
    「千切、千切!オイ、千切お嬢様!俺らの声聞こえてるー」
    「…………」
    「あと少しってとこで、この猫が川に流されてたから、川に飛び込んだ…てこと」
     まるで世間話のように語り終えたが、凛と潔は揃って絶句していた。
    「……つーことはテメエ、道場破りよりも、猫を優先したってか?」
    「当たり前だろうが。小さな命でも命。命は大事にしなきゃだろ?」
     至極当然という顔をしているが…………言えることは一つ。
    「…せめてそういう大事なことは早く言ってくれませんか?我儘お嬢様…」
     潔は額に手を置いて、小さく呻いた。




     凛は難しい顔で朝一番に家を出た。向かうは潔家である。半年前婿入りの申し出を断りに行ってから、訪れるのは二回目である。
     門をくぐると、参勤前の潔の父と、その御内儀と鉢合わせた。
    「やあ、凛くん。元気にしてたかい?」
    「おはよう、凛くん」
     娘との縁談を断った不届き者に対して、この夫婦は大らかな様子でもう一人の息子のように接してくる。
    「潔は?」
    「世っちゃん?朝餉のところよ。凛くんも食べていく?」
    「そうしなよ。て、俺は今から出仕なんだけど。ゆっくりしていいからね」
     潔の父母の好意に甘えて、凛は遠慮なく潔家に上がり込んだ。
     居間へ行くと、潔は味噌汁をすすっていた。居間に置かれていた膳は三つ。その内の二つは空であった。
    「おはよ、凛。珍しいな、お前がうちに来るなんてさ」
     凛が来たというのに普段の調子を崩さない様子に、凛は眉間に皺を寄せた。
    「…テメエ、どういうつもりだ?」
    「いきなり何だよ?」
     口を開けて白米を頬張る阿呆面に、凛の苛々が募る。
    「とぼけてんじゃねえ…昨夜、俺の家の周りをうろついていた連中は、お前の差し金だろ?」
    「流石にお前も気付いたか。そうだよ」
     指摘されても狼狽するどころか反省もなく肯定する潔に、凛は眉間の皺を更に深くする。
    「そんな苛々すんなよ。飯食ってねえだろ?食ってけよ。話はその後だ」
     食べ終わって茶をすするその阿呆面を今すぐにでもぶん殴ってやりたかったが、潔の母親の手前なので理性で引き留め、その隣に遠慮なく腰を下ろした。
    「はい、たくさん食べてね」
     山盛りに盛られた炊き立ての白米を前にすると、爆発寸前だった苛々は収まった。
     凛が食べ終わったところを見計らい、潔は提案した。
    「ここで話すことでもねえから、外行こうぜ」
     断る理由も無かったので、潔と共に凛は外へ出た。
     町まで足を運ぶと、橋に上がり、欄干に凭れながら、先ほどの話の続きをした。
    「で、お前は何に怒ってるわけ?」
    「殺すぞ」
    「そう直ぐに殺すとか言わないの」
     年上ぶって窘めてくる潔に、凛はさらに苛立ちを覚えていると、複数の視線を感じた。町娘たちが熱を上げる視線を凛に送っていた。煩わしくて舌打ちを鳴らすと、潔が呆れた表情を浮かべて物言った。
    「お前ね。綺麗な面してんのにそんな顔すんなって。もったいないぞ」
     女子なんて興味が無い。話題が逸らされている。本題に戻す。
    「俺の家の周りに鼠を張り巡らせる悪趣味なお前に言われたくねえ」
     昨夜、好き放題やっていた千切が夜分に帰って行って、潔も出て行って、やっと落ち着けると思っていたのに、月が中天に差し迫った頃に、家の外から人の気配を感じ取った。家に入ってくる様子が感じ取れなかったので放っていたのだが、気配が何度も立ち入れ替わっていた。監視されている、凛は直ぐに気付いた。そして、こんなまだるっこしいことをするお人よしの差し金にも直ぐに行きついた。結局夜明け前までずっとうろつかれたので、凛は寝不足だった。
     反省の様子もない横顔に、寝不足も相まって機嫌がさらに急降下していった。
    「…お前。俺が闇討ちに遭うなんて思ってんのか?」
    「いいや。お前は強いよ、凛。誰よりも強い。日ノ本一の剣豪に一番近いのはお前だと思ってる」
    「だったら何でまだるっこしいことをしやがる?」
     凛は潔を睨んだ。一睨みすれば、大体の人間は怯んで逃げ腰になる。だが、潔は真っすぐ凛を見つめ返している。その青は、いつも見入ってしまいそうになる奇しきな色だ。
    「…お前の気に障ったことをしたのは謝る。けど、お前を信用していないからじゃない。お前の実力は俺がよく知ってる。もしお前が宮本武蔵と戦ったら、お前が勝つって信じてる」
    「…何が言いたいんだ、お前?」
    「だけど、こんなにも被害が多く出てるからには看過できない。それに、お前も妙だとは思わないか?」
     潔が言わんとしていることを、凛は読み取る。
    「一つも目撃情報が上がってないことにだろ?」
    「そうだ。町全体で網を張ってるのに、誰からも情報が無い…そもそも闇討ちの目的が解んねえ。道場の看板を奪ったのに、関係者を狙う目的が」
     宮本武蔵なる下手人が道場の関係者を狙っているのは確か。そうと仮定すると、次に狙われるであろう人物は、自然に割れる。
    「次に狙われるかもしれないのは、凛(お前)か潔(俺)の可能性が高い」
     そんなこと、凛だって当の昔に気付いている。潔が最近やたらと凛を連れまわす理由がそれに起因していることにも。
    「これ以上被害を出したくない。だから、俺かお前の前に現れたら直ぐに捕まえられるようにお願いしてたんだよ」
    「つまり、俺は囮ってか?」
    「お前だけじゃねえ。俺もだよ」
     ふん。凛は鼻を鳴らした。この自分を囮にしようなんざ豪胆な奴は、潔世一以外に存在しないだろう。
    「ぬりいやり方しやがって」
    「悪かったな」
     凛は欄干に背を凭れ、袖の中に腕を突っ込んだ。
    「…そもそも。件の宮本武蔵は、どうせ偽物だろ」
    「やっぱそう思うよな」
     潔が袖の中から包を取り出して、丁寧に畳みこまれていた草餅を、凛に手渡した。それを手に取ると、凛はがぶりと大きな口でかぶりついた。
    「闇討ちとか日ノ本一の剣豪がすることじゃねえだろ。宮本武蔵を名乗る浪人の仕業ってとこだろ」
    「そうだな」
     草餅を咀嚼しながら隣の男に視線を投げる。たまに何を考えているのか思考の読めない男は、呑気な顔で草餅を頬張っている。憎たらしいその顔を盗み見ながら、残りの草餅を三口で食べきった。潔は口が小さいので、七口ぐらいで食べきった。
     会話も切れて佇んでいたところ、巨体が橋に昇ってきて、潔と凛に近付いてきた。
    「よっ」
     手を掲げた巨体の気配に、潔と凛は同時に振り向く。
    「悪いな、國神。疲れてるとこ来てもらって」
    「さっき一眠りしたところだから、気にすんな」
     橙色の髪をした、凛と張り合うぐらいの長身の体躯の大男。その男も潔の同門であり、一難道場四本槍の最後の一人、名を國神という。
    「凛も昨夜は悪かったな」
    「解ってんならうろつくんじゃねえ、潰すぞ」
    「凛…悪いな國神。ここんとこ、こういう調子で」
    「いや…それにしてもお前ら、仲良いな」
    「それは違うって。蜂楽も千切にも言われたけどさ…」
    「昨日の夜、夜警の見廻りの途中で千切に会ったが、燕の番みたいに引っ付いて回ってるって言ってたぞ」
    「番って、いや、もっとねえから…」
     自分の知らないところで妙な噂を垂れ流している赤髪の男の顔を想起して、今度会ったら潰す、と凛は決心した。
    「で、國神。足取りはどうだ?」
    「ああ…」
     國神は潔の隣に凭れて、語り出した。
    「夜警の数を増やして探してるが、何も見つからねえ」
    「そうか。もしかしたら、この町にいない可能性も考えられるな…」
    「隣町の自警団に注意喚起を促して、情報を頼んでるところだ」
    「それがいいかもな。國神、お前も気をつけろよ」
    「お前もな」
     お互いに拳を握って、軽く小突き合ったのを見た凛は、また胸の内がざわついたのを感じたが無視した。
    「悪かったな、凛。潔と仲良くやれよ」
     凛にも國神は言葉をかけて自分の任へ戻っていく。
    「さ、俺達も行こうぜ。茶団子食べたい」
     潔に手を引っ張られて、凛は少し気が紛れた。
    「潔」
    「ん?」
    「この後、付き合えよ」
    「いいぞ。その前に茶だぞ」
     茶を一服した後、道場へと足を運び、凛と潔は手合わせをした。
     その夜のことであった。凛は深く寝入っていた。
     瞼を閉じて眠っていたが、気配を感じ取り、意識を浮遊させた。
     誰かがいる。気配が直ぐ近くまで来ている。襖を開き、褥で横になる凛の枕元までに…。
     至近距離まで近づいた刹那に、それの腕を掴み、引き倒した。
    「うわっ」
    「……あ?」
     軽い感触。凛よりも小柄だ。畳に引き倒した人物の顔を、馬乗りになりながら見下ろす。
    「……何してんだ、お前?」
     不届き者は、潔だった。
    「お前…いきなりは止めろよ、怖いだろ」
    「お前が襲い掛かってきたんだろうが」
     身を引くと、潔は掴まれた手首を擦りながら上半身を起こした。
    「…で、こんな夜更けに何だ?お前も闇討ちに来たのか?」
    「ちが……」
     否定した後、潔は罰が悪そうに顔を逸らした。
    「…昼間はお前のこと信じてるって言ったけど……やっぱ、心配になってきて、だな…悪いとは思ったけど、安全を確かめたら直ぐに帰るつもりだったんだよ…ごめん」
     素直に白状した潔の顔を見つめながら、凛は嘆息した。腰を上げて、寝着を脱ぎ出した。
    「い、いきなり何してんだよ」
    「あ?着替えてんだよ。見て解んねえのか?」
     ぱさりと寝着を落として褌だけの姿をさらすと、潔は夜闇でも解る程真っ赤に膨れ上がって、顔を両手で覆って隠した。
    「せめて合図しろよ、変態」
    「お前の方が何言ってんだよ」
     袴に着替える間、潔はずっと背を向けて見ないようにしていた。男同士で何を照れる必要があるのか、凛は謎を抱く。
    「オイ、行くぞ」
    「いっ…おい、そこ掴むなよ!」
     頭の癖毛を引っ張ると、真っ赤に膨れたままの潔が猫みたいに睨み上げるのが、小動物にしか見えなかった。
    「お前のせいで目が覚めた。風に当たる。お前も付き合え」
    「お、おう…」
     熱の冷めてない顔で潔は頷いた。
     いざ外に出たのはいいもの、妙な空気が流れている。潔の様子がおかしいせいだ。妙に沈黙しているというか、さっきから妙に緊張している様子だ。歩いていても微妙な半歩分のずれがあって、微妙に並んでいない。何を緊張しているのか、全くの謎。盗み見てみれば、頬がまだ赤い。謎は深まるばかりである。
     凛は視線を斜め下に向けた。足に合わせて揺れ動く潔の手をしばし見つめる。特に何も考えず、ただそこにあったので、ぐしゃりと掴んでみた。
    「おわっなな、何、何、いきなり」
     剣だこがいっぱい出来上がってはつぶれてを繰り返した厚い皮膚の手。小さいとは思っていたけど、実際掴んでみると想像よりも少し大きい。
    「凛…?」
    「俺から離れるな」
    「へ?それって、どういう…?」
    「あ?迷子になんじゃねえっつってんだよ」
    「子ども扱いすんなよ。俺の方が年上だぞ」
    「たった数か月の差でいばんな、チビ」
    「誰がチビだ!」
     何も考えずに掴んでみたものの、微妙な空気は拭えていない。そもそもどうして俺はこんな行動に出たのかと、凛は自問自答して、妙に早鳴りする自分の身体に益々謎を深めていった。
     これは潔のせい。これは潔のせい。これは潔のせい。心の中で念仏のように唱えながら、借り家の周りをぐるぐると歩く。
     曲がり角の死角から、昼間会った國神が出て来て、凛と潔を見るなり目を丸くした。
    「お前ら…何で手を繋いでんだ?」
    「こ、これは違う!深い意味はねえって!」
     潔の方から誤魔化すように手を振り払らわれて、小さい喪失感が凛の手のひらに残った。
    「潔…やっぱり、お前、凛のこと…」
    「へ?何?凛がどうした?」
    「…いや」
     國神は何かを悟った様子だったが、視線を逸らした。
    「それよりも國神。情報はあったか?」
    「いや。已然と状況は何も変わらねえ」
    「そっか。忙しい時に無理言ったな」
    「気にすんな。お前の気持ちもよくわかる。これ以上被害を食い止めたいと思っているのは、お前だけじゃない」
     國神は農民の出であるが、幼い時分より剣術に深く影響され、正義の剣客を志し、実家の稼業と自警団の頭目の二束わらじの生活をしている。町からの信頼も厚く、潔もまた信頼を寄せている。凛にとっては面白くない話であるが。
    「凛。しばらく窮屈な想いをさせるだろうが、捕まるまでの辛抱だ。いざって時は、お前が潔を守れよな」
     信頼の証として、國神が拳を小突き合わせようとしたけれど、凛は無視した。
    「潔も気をつけろよ。お前だって標的候補の一人なんだからな」
    「ん。ありがと、國神」
     道端で國神と話し込む潔を、凛は傍でじとりと睨む。さっきまで無言だったのが、堰を切ったように喋り出したのも、自分といる時よりも楽しそうなのも、何故か腹が立つ。潔のくせして。
     潔に集中する凛。話し込む潔。…………暗闇に紛れて監視する影が、一つ。
     気取られないように速やかに退散しようとするも、僅かな足の動きを、潔が先に気付いた。
    「――――っ」
     潔とほぼ紙一重の差で凛も察知する。潔と凛が同時に、國神が出てきた角の向こうへ身体ごと振り向いた。
    「誰だ」
     潔が叫ぶ。気付かれた影は闇夜に身を隠したまま逃走を計った。
    「いたのか?」
    「ああ!」
     潔と國神よりも先に凛が駆けた。闇が深すぎて人相が見えない。影の動きを目で捉えて追走した。
    「國神!俺達で挟み込むぞ!」
    「おう!」
     潔と國神は凛とは違う方向に向かって駆けた。
     影の逃走経路を凛は的確に見抜き、距離を詰めていく。影は何度も凛を撒こうとするが、勘の良さと慧眼で、凛は逃がさなかった。國神と潔も別経路……民家の屋根を伝いながら、追跡していた。三叉路の差し迫ったところで、正面の道には國神が、分かれ道には塀の上から着地した潔が立ち構える。
    「止まれ」
     潔が影に向かって叫ぶ。影は減速するどころか加速し、懐に手を突っ込んだ。その動きに、潔と凛の直観が働いた。影が走る先を、反射で計算する。影が狙う先、それは。
    「――――逃げろ、國神そいつの狙いはお前だ」
     國神に向かって潔が叫ぶ。國神が刀を抜いたのと同時に、影は手に持っていたものを、國神に投げつけた。小袋の中身が、國神の眼前で舞う。目を刺激する粒子の霧が、國神の視覚を潰しにかかった。
    「…っ」
     腕をかざして顔面を守ったが、一瞬の隙をついて、刀を抜いた影が躍り出る。
     白刃が振り下ろされる寸前、横から潔が体当たりをかました。直撃した影は横に重心が傾いたが、態勢を整えて、國神を庇う潔を睨んだ。
    「とっとと退け、潔」
     その隙に、凛が刀を抜いて、影に向かって振り下ろした。不意を突かれるが影は凛の一振りを刀で受け止めた。鋼と鋼がぶつかる音が夜の帳に鋭く木霊する。
    「凛」
     凛の攻撃を止めて押し出す。凛は直ぐに二劇目を繰り出す。紙一重の差で回避されたところを、続けて三劇目を繰り出して連撃する。鋭く的確な剣劇に、影は凛の強さを実感する。潔と、それから立ち上がった國神を視認すると、不利を悟って逃げ出した。
    「待て」
     追いかけようとするも、小刀が飛んだ。潔に向かって。眉間に突き刺さる前に、凛が柄を掴んだ。
    「あ…凛、怪我は」
    「ねえよ。ぼさっとしてんじゃねえ、雑魚潔」
    「ごめん…」
     影は消えた。跡形もなく。闇が深すぎるので、その足取りを追うのも難しい。
    「逃げられた…」
    「それより、お前は大丈夫か、潔?」
    「あ、うん。國神は?」
    「お前のお陰でな。でも、無茶すんな」
     大きな手を頭に乗っけてきた國神に、潔は首を縦に振った後に、地面に視線を投げる。
    「あ…」
     斬り合いが行われた場所へと足を進めると、しゃがみ込んだ。
    「凛、國神……もしかしたら、足取りが掴めるかもしれない」
     地面に落ちていたものを拾い上げて、潔はそう断言した。
    「そうか。潔、凛。あとは俺達に任せて、お前らは休めよ」
     國神はそう言い残して、町に向かって歩き出した。




     朝が来て早々、凛と潔は町へ向かう。町の一角の、修繕中の屋敷の前に止まった。
    「おおーい我牙丸―っ」
     作業中の大工達に向かって、潔は声を張り上げた。すると、屋根の裏から、ひょこりとひょろ長い顔が出てきた。
    「おー、潔―!」
     ひょろ長い体躯の大工見習の男が潔に向かって手を振っている。男の名は我牙丸という。我牙丸もまた一難道場の出であるが、山で育った野生児という奇異な経歴を持っている。
    我牙丸は猿のような身軽さで屋根から降りて、潔の前に立った。
    「我牙丸、お前の力を貸してくれ」
    「うっす。いいぞ」
     間延びした声色で男は即答する。
    「すみませーん、我牙丸借りまーす!」
     まだ作業中の大工集団に向かって叫ぶと、おおおう!いいぞお!と気前の良い返答があった。
    「よ、凛。久しぶり」
     我牙丸が凛に話しかけてきたが、凛は苦虫を嚙み潰した。凛がこの男と初めて謁見したのは、山中である。道場のあまりのぬるさに見限って、一人で山籠もりをしていると、この男が突然眼前に現れたのだ。熊の毛皮を着ていたので熊が現れたと勘違いした凛は、気が抜けて修行どころの気分で無くなってしまったのだ。それから山籠もりをしているとたまにこの男は出現し、木の実やら捌いた処理済の肉を置いていくのである。
    「で。こいつに何させようってんだ?」
    「ん?それは…これ」
     潔は袖の中に入れていたものを引き抜いて見せた。それは、昨夜潔が拾ったものだ。擦り切れた袖の端切れ……凛が斬りつけた際に落とした、下手人の着物の一部だ。
    「これを、こうすんだよ」
     潔はそれを我牙丸に向かって掲げた。我牙丸はそれに顔を寄せて、鼻をすんすんと動かす。匂いを覚えると四つん這いになり、鼻を動かしながら、地面の上を這いずり回り出す。それを見て、凛はぼそっと呟く。
    「犬か」
    「犬じゃねえよ、我牙丸だよ」
     潔曰く、犬よりも我牙丸の嗅覚の方が信頼できる、とのことだ。だが、犬みたいに地面を這いずり回る男と一緒に歩くのはかなり気が引ける。平然としている潔の方が神経を疑うぐらいだ。
     鼻を動かしながら町を外れて、侘しい道通りへと進む我牙丸の後を、ただ付いていく。すると、前方の角に、武家屋敷が見えた。
    「あ~…もういいぞ、我牙丸。ありがと」
     途中で潔がそう言いだして立ち止まった。
    「あ?」
    「凛、俺、甘いもの食いたい」
    「潔、お前…」
    「団子食いに行こうぜ。奢るからさ」
     腕を引く潔の顔にほんのわずかな違和感を感じたが、凛は口を噤んで、潔に付いて行った。
    「はあ、腹減った~。凛も食えよ、まじでうめえからさ」
     町に戻ると、潔は真っすぐ団子茶屋に入り、団子と茶を注文した。凛は潔の隣に座り、まず茶から飲み始めた。潔の足元には我牙丸が獣座りしており、団子を串ごと逆さにして、あーと行儀悪く口に放り込む。
    「ところでさ。凛はどうして、日ノ本一の剣豪を目指してんの?」
     凛にとって、その問いは、今更すぎるものだった。
    「お前は一々生まれた理由について考えるのか?日ノ本一の剣豪になりてえなんて夢物語を語ってるんじゃねえ。そうなるために生まれたようなもんだろ」
     そう答えると、潔はそっか…と妙に納得したような反応をした。
    「確かにな。それでこそお前だよ、凛…」
     潔が一瞬だけ静かになる。その些細な反応を、凛は見逃さなかった。かといって、追及もしなかった。
    「…冴は何言ってんの?」
    「あ?」
     突拍子も無く出てきた忌まわしい名前に、凛は眉間に皺を寄せた。
    「だって、凛がここに来たのは、冴に言われたからだろう?冴は凛の夢のこと、何か言ってんの?」
    「どうしてあいつの名前が出るんだよ、クソが」
    「そりゃだって、家族だから気にはしてんじゃねえの?」
    「そんな訳があるか。あいつに限って」
     自分によく似た憎たらしい顔を思い出してしまい、凛は団子を乱雑に食いちぎった。
    「前から思ってたんだけど…凛って兄ちゃんと仲悪いん?」
     凛は口をわずかに尖らせて固まった。口の中に放り込んだ団子を強めに咀嚼して、ごくんと嚥下してから口を開いた。
    「別に。潰したいと思うぐらいには良好な関係だ」
    「良好な関係じゃねえじゃん」
     ほら、これやる。と潔がさりげなく差し出した団子を遠慮なく奪って食べた。
    「お前の兄ちゃんも日ノ本一の剣豪を目指してた?」
     潔が兄についてこんなにも食いついたのは今日が初めてだ。それが凛には面白くない。
    「だから何だよ?」
    「気になって聞いてみただけじゃん。そんなにも冴のこと嫌いなん?」
    「うるせえよ…」
     凛はそれ以上兄のことを話したくなかった。凛にとっては、忌まわしい記憶だからである。
    「まあ、お前らの都合に首を突っ込むつもりはねえけど。でも、冴は凛のこと心配してると思う」
     凛は猛烈に腹を立てた。潔が兄の名前を口にするのが気に食わない…自分たち兄弟のことに口を挟んでくるのが一番に腹正しかった。腹いせに団子二本を潔の皿から分捕って一気に頬張った。
    「ぬりいこと言ってんじゃねえよ……俺はいつか、こんなところから出て行ってやる」
    「え?」
     目を丸くする潔を、凛は睨んだ。
    「当たり前だろうが。こんな片田舎にいつまでもいられるか。その内この町を出て、日ノ本一の剣豪になってやる」
    「……そ、そ、っか…」
     それきり、潔は押し黙った。まだ腹の虫がおさまらなかった凛は、空になった皿と潔と我牙丸を置いて、森へと向かった。日が暮れるまで自分の身体を追い込むように鍛錬に没頭し、一人帰路につく。
     借り家の前で、凛はぴたりと止まった。門の扉に文が一通挟まれている。手に取り、表にすると、それには果たし状と大胆に書かれていた。




     果たし状に記載された日付当日。凛は決闘の場所に行く前に、潔家に立ち寄った。門前で掃き掃除をしていた潔の母が、大らかに凛を出迎える。
    「おはよう、凛くん」
    「潔はどこにいますか?」
    「ごはんを食べて直ぐに離れに行ったわよ」
     潔の母親から潔の居場所を聞くと、凛は足を向けた。母屋とつながった離れの家屋があり、そこが潔の部屋である。初めて潔と出会ったのは、その離れの中庭…桜の木が植えられた場所である。
     離れの縁側に、潔はいた。思い詰めた表情で、座り込んでいる。
    「潔」
    「……何だ?」
     自分が来たことなんて直ぐに気付いていたくせして、潔は凛を見ようとせず、淡泊な反応を返す。
    「昨日、これが家の門に挟まってた」
     果たし状を潔の傍らに置く。潔は一瞥しただけで、目線を前に戻した。
    「そっか」
     潔の様子がおかしい。凛は眉間に皺を寄せた。
    「例の偽者からだ」
    「…それが何?」
     潔の反応はあまりにもそっけない。厚い壁をわざと作っているような態度であった。
    「何じゃねえ。ついてこいって言ってんだ」
    「何で?」
    「はあ?」
    「お前ひとりで行けばいいじゃん。俺には関係無い」
     潔の態度が、大して長くない凛の短い気に触れた。
    「偽者とっ捕まえたいんじゃなかったのかよ?人を散々振り回しといて、何だよその態度?」
    「その果たし状に書かれてあんのお前じゃん。俺が付いて行かなくたって、お前ひとりでも勝てるだろ?日ノ本一の剣豪になるって夢はただの飾りだったのか?」
     潔は凛にそっぽを向いている。凛は苛々を募らせて、舌打ちを鳴らした。
    「だったらもういい。お前との縁もこれまでだ、クソが」
    「どうぞご自由に。じゃあな、凛。検討を祈る」
     あっさりと突き放した潔の態度に、苛々が最骨頂に到達する。腹いせに桜の木をぶった切ってやろうかと物騒な考えが頭の中に過ったが、流石にそれはやりすぎだと常識的な感覚は残っていたので、盛大な舌打ち一つで許してやった。
     去り際に、潔の母が、弁当を持たせてくれた。途中の橋の上で、行儀悪く弁当の包みを広げると、白むすびが三つ入っていた。大きく一口頬張ると、塩が利いた米の甘さが口内に広がって、苛立ちを少しだけ収めた。
     腹を満たすと、川のほとりで、例の男を待つ。偽者は来ていない。腕を組んで、待つことにした。半刻過ぎた。偽者は現れない。二刻が過ぎた。偽者はまだ現れない。二刻と半刻が過ぎた。それでもまだ偽者は現れない。
     凛は冷静沈着でいることに集中した。これは、巌流島の策の再現だ。宿敵である佐々木小次郎との対決で、宮本武蔵はわざと遅刻して、佐々木小次郎を感情的にさせて倒したという…。
     俺は佐々木小次郎じゃねえ。糸師凛だ。偽者だろうがなんだろうが、日ノ本一の剣豪になるのは、この俺だ。剣豪相手に負けるかよ。
     じいっと、石のように待てども、偽者はまだ現れない。
    「おーい、何してんだ、お前?」
     土手の方からかかった声が、凛の集中を途切れさせてくるが、凛は無視する。
    「おい。聞こえてんだろ?」
     無視に徹していたけれど、どうしても空気を読まない声に嘆息して、顔だけを振り向いた。
    「朝から何してんだ、お前?」
     人力車を率いる男が土手の上から凛に声をかける。その男もまた潔の仲間で、雷市という名前だったと、凛は微かな記憶を手繰り寄せた。
    「邪魔すんじゃねえ、ギザ歯」
    「お前の方がよっぽど邪魔だっつうの。ど真ん中に何刻立ってんだ?」
     人力車を置いて降りてくる雷市に果たし状を突き付けて、説明を省いた。雷市は中身を見るなり…眉間を寄せた。
    「お前、場所間違えてっぞ」
    「は?」
     凛は雷市を睨んだ。
    「川って書いてあんだろうが」
     低い声で返すと、雷市は呆れた口調で言い放った。
    「上流と下流で名前が違うんだよ。書状(これ)に書いてあんのは梅上川。ここは梅下川だ」
     ぴた。空気が停止する。長い間が置かれた。
    「それを先に言いやがれテメエ」
    「いや知るかクソがあっ」
     怒髪天を衝いた凛に、雷市は怒鳴り返した。
    「クソが…っ」
     凛は地面を蹴り、川に沿って上流に駆け上がろうとするが、雷市が引き留めた。
    「その先水路工事が始まってんだから行けねえんだよ」
    「どうしろってんだ」
     雷市に向かって吠えると、雷市は人力車を指差した。
    「連れてってやるからさっさと乗れっつってんだよ」
     完全に八つ当たりである。怒り心頭だった凛は、逆切れ状態の雷市の人力車によって運ばれることとなった。
    「行くぞオラアアア」
     雷市は凛を乗せると直ぐに発進した。猛烈な勢いで。長身の男一人を乗せているとは思えない疾風のごとき速さであった。オラオラオラオラあと吠えながらである。
     土手に沿って走っていた雷市であったが、突然急に停止した。
    「着いたのか…っ」
     振り下ろされないように耐えた凛が雷市に問うと。
    「いや…黒猫が通り過ぎた」
     雷市は震えた声で答えた。
    「猫が何だってんだ早く行けよ」
    「黒い猫が横切った道は通っちゃいけねえんだよ」
    「知るか」
     吠える雷市に、凛も負けじと同量の声量で吠え返す。
    「ちと回り道すっぞ」
    「近道を行け」
     凛の突っ込みは空しく、雷市は旋回した。町中を猪のように突進していくが、今度は相撲の集団が道を塞いだ。
    「何でだよ」
    「テメエの日ごろの行いが祟ったんだろうが」
    「関係ねえだろ俺は大吉以外引いたことがねえ」
    「誰も聞いてねえよ」
     仕方なくまた道を迂回する。またもや大幅に遅れてしまった。まだまだ不運が続く。今度は道端で産気づいた身重の女性とその旦那とに出くわしてしまった。頼む!産婆を呼んできてくれないか子どもが生まれそうなんだ泣きつかれたせいで動けなくなってしまった。
    「だから何でだよ」
    「言ってる場合じゃねえんだよ緊急事態だお前が産婆を連れてこい小さな命が生まれようとしてんだよ」
     死にそうな呻き声をあげる女性を見てしまえば、流石の凛もほっぽり出すことはできなかった。クソがあああああああ八つ当たりの咆哮を上げながら、産婆を探した。夫婦は人力車によって自宅に運ばれた。凛は産婆を背負うと、夫婦の家に駆けた。赤子は無事に生まれた。
     だが。結局、時刻は大幅に過ぎていた。人力車に乗った凛は戦う前から疲労困憊だった。どうして俺がこんな目に…っ運が無かったせいか?そもそもは場所を間違えたからだ。知っていたら間違えずに済んだ。そう……潔が最初から付いてくれば、そもそも間違えることは無かったのだ。
     全部、潔のせいだ――――――――……っ凛は感情の矛先を全て、潔に一点掛けにした。
     やっとのことで、上流にたどり着いたわけであるが、指定した時刻より四刻も過ぎている。夕方になっていたが、川のほとりに、六尺ほどの大男が律儀に立って待っていた。
     人力車から降りた凛は、ゆらり、ゆらりと土手から降りた。大男はほくそ笑んでいる。我こそは宮本武蔵!この二刀流の刀術が証である!うんたらかんたらと長口上を並べている。
    「オイ……長ったらしい自己紹介はもういいんだよ。さっさとかかってこい」
     全部が凛には癇に障るしかなく。殺気立って、男へ眼光を飛ばした。大男は喉をつっかえて怯んだ。と、人力車に凭れて休んでいた雷市が、大男を見るなり首を傾げた。
    「お前、部坂じゃねえか?江戸で一旗揚げるってんで家を捨てて出て行った薄情者だろ?今になって何で帰って来た?」
     雷市の指摘に、大男は解りやすいぐらいに跳ねた。ち、ちがう!我は宮本…。と言い募ろうとする男を、雷市は腕を組んで一蹴する。
    「そういやあ、江戸で有名な道場の剣客になったのはいいもの、遊女に貢ぎすぎて馘になったって噂流れてたな…ありゃお前のことか?馬鹿か、お前」
     真実を突かれた大男はぐぐぐ…と喉を詰まらせた。宮本武蔵の正体が割れたところであるが…凛には至極どうでもいい。
    「いいからさっさと殺しに来い。殺してやる」
     見開いた瞳孔に殺気を宿して、偽者を威圧した。差してきた刀を抜いた…が、違和感を感じた。
    「ん?」
     やけに軽いと思ったら、それは真剣ではなく、竹光。出る前に間違えてしまったと、今更気付いた。萎縮していた大男が竹光を見るなり調子を取り戻して大笑いを上げる。そんな竹の棒で吾を殺すとは、愚かなり男の口上が、凛の堪忍袋の緒をぶつんとぶった切った。
    「黙れ似非宮本武蔵…かかってこいっつってんだろ。テメエなんぞ、これで充分なんだよ」
     いやそれ間違えて持ってきた奴だろ。雷市は口に出さないで突っ込んだ。凛は構えた。竹光を。竹光の筈が、真剣のように煌めいているのは完全に錯覚。凛から発せられる殺気がそう見せているだけの幻。幻覚。男は再び殺気に呑まれて、震え上がった。目の前にいるのは人か…?否、修羅道から堕ちてきた修羅だ。
     うわああああああ男がなりふり構わず逃げ出したところで、もう遅い。凛は一気に間合いを詰めていた。振り上げた竹光で、男の脳天を全力で割った。ばきいい!男の頭がへこんだだけでなく、竹光が粉々になった。似非宮本武蔵はばたりと倒れた。
     一部始終を目の当たりにした雷市は引き気味にぼやく。
    「あいつは鬼か…?」
     この後、宮本武蔵の偽者の身柄は、國神に引き渡された。




     一件落着の後、凛は潔家に寄ったが、潔はいなかった。潔の母親に行き先を尋ねても、行き先も告げずに出て行ったと返された。仕方ないので、明朝、朝餉を作りに来る機を待つことにした。あれほど町を困らせていた宮本武蔵の一件は、直ぐに潔の耳に入るだろうと。潔は直ぐに機嫌を直して、また毎日のようにうちに現れるだろうと。そう高を括っていた。
     だが。翌朝に厨を覗いてみれば、窯の前に立っていたのは、近所の老婆であった。
    「潔は?」
     老婆は答える。世一様から、貴方のお手伝いを頼まれました。老婆は腰が曲がっていてもきびきびと動いて朝餉を用意した。白米と味噌汁と漬物…平凡的な朝餉だ。白米は炊き立てで、炊き方がうまいのか箸が進む。けれど、物足りなさを感じた。大して美味くない米の方が恋しくなってくる。味噌汁もよく出汁が利いているけども、潔が作ったものはもう少し薄かった。
     その内潔が来るんじゃないかと、凛は待つことにして、土間に移動した。式台に一通の文が置かれてある。糸師凛殿と書かれてあるそれを手に取る。少しだけ丸い字癖は潔のものだった。開ける気分になれなくて、胡坐をかいた。頬杖をしながら、潔がやってくるのを待つ。だが、待てど待てども、潔はやってこない。
     門が開く気配がしたので、潔かと腰を上げかけたが、潔ではなかった。
    「凛ちゃんいるー?」
     やって来たのは蜂楽だった。凛は落胆した。
    「ちょっと凛ちゃん!せっかく遊びに来たのに潔じゃないからって露骨じゃない?」
    「黙れよ死ねおかっぱ…」
    「…ありゃりゃ。凛ちゃん、落ち込んでんの?」
     落ち込んでねえし。と返すも、その声に覇気が宿っていないことに、蜂楽は目敏く気付いた。
    「これ上げるから、元気だせば?」
     蜂楽が凛に差し出したのは、つやつやのどんぐりだった。凛はぺしっと払い落とした。
     次にまた人がやってきた。今度こそ潔かと思ったら、やって来たのは千切だった。
    「おっす。凛、大活躍みたいだったな。國神から活躍聞いたぞ。これ差し入れな」
     栗羊羹を片手に千切が話しかけるが、凛はいらねと受け取らずに一刀両断した。
    「何だよその態度。失礼すぎじゃね?」
    「潔じゃないから寂しいんだって」
    「潔じゃなくて悪かったなー」
    「黙れよおかっぱまじで殺す」
     けれど、苛立ちは上がってこない。虚しさにも似た感情ばかりが募る。凛を見つめていた千切が目を瞬かせて、蜂楽と耳打ちを始めたがどうでも良かった。
     三人目がやって来たが、潔ではなく、國神だ。
    「よっ、凛!昨日はまじご苦労さん」
     國神は来るなり、猫背になる凛に、太い木の棒を差し出した。
    「お前が鍛錬が趣味って聞いたから。俺のおさがりだけどやる」
     貰う気にもなれず、いらねとまた俯いた。凛の反応に國神も首を傾げて、蜂楽と千切の輪に入っていったけども、どうでもよく感じた。
     四人目は我牙丸だった。
    「うーす!これ、やるぞ」
     我牙丸が持ってきたのは巨大な猪だった。血抜き処理も済んでおり、いつでも食べれるぞと言えば、蜂楽と千切と國神が顔を輝かせた。凛は嬉しくなかった。
    「いらね。持って帰れ」
     こんな大きな肉を、凛は調理できない。潔だったら捌いていただろうが、潔がいないから無意味だ。
    「そんなツレないこと言わなくてさ!今日はしし鍋にしようよ、凛ちゃん!」
    「じゃあ俺は酒持ってくるな。凛も呑むだろ?」
    「お前ら人んちで好き勝手するんなって…悪いな、凛」
     蜂楽と千切と國神が更に盛り上がったけれど、凛にはどうでもいい。
     五人目がやって来て、雷市が敷地を跨いだ。
    「オイ。これ、この前助けた夫婦から」
     持ってきたのは大籠いっぱいの野菜だ。おおおお。感嘆の声が上がったが、凛は混ざれない。
    「もうこれ、しし鍋決定じゃね?」
    「よくやった、雷市!」
    「別にお前らの為に持ってきたんじゃねえ」
    「良いけど、誰が調理すんだよ?」
     凛をそっちのけで賑わう五人を静かに見据えて、凛はやっと腰を上げた。
    「お前ら……潔に何か言われたんだろ?」
     たった一言で、空気がぴたりと止まった。肯定だと凛は確信した。
    「…潔のクソ野郎から何言われたか知んねえけど、迷惑だ。さっさと帰れ。そんで潔に伝えろ。こんなまだるっこしいことばっかすんなってな」
     五人は顔を見合わせた。
    「ちょっと……集合」
     千切が一声上げたのを合図に、五人は小さい陣を組んだ。
    「もしかして、凛、知らねえんじゃね?」
    「かもねえ」
    「じゃあ、潔は…」
    「昨日のあいつ、ちと様子が変だったじゃねえか?あれじゃあまるで…」
     こそこそと耳打ちし合って、凛を蚊帳の外に追いやった五人に、凛は蟀谷を収縮させた。おい。と文句を言ってやろうとしたところ、六人目が割り込んだ。イガグリである。
    「いやあ~。びっくりしたびっくりした~」
     イガグリは遠慮なく入ると、勝手に土間に座り込んだ。
    「お!でけえな!今晩鍋すんの?俺も混ぜて~」
    「…イガグリ、お前もか?」
     國神が問うと、イガグリは中年くさい息を吐きながら草履を脱いだ。
    「ん?お前らがここにいるって聞いたから、寄ってみた」
    「誰にだ?」
     國神の問いに応えず、イガグリは佇まいを正すと、正座に組み直した。
    「では……よってらっしゃい見てらっしゃい!今からこのイガグリ坊主による講釈をご覧あれ!それでは一つ!」
     …といきなり始めた。

     悪名高き藩主の一難を無事乗り越えて、平和を取り戻した一難町。
     だがしかし!平和だった町を脅かす剣豪が現れる!其れは自らを宮本武蔵と名乗った!
     この宮本武蔵の正体とは如何にそう!奴は宮本武蔵と名乗る偽者であった!
     黒幕は金欲しさに浪人を雇った悪党一家!その目的は伝説の黄金小判!
     悪事の限りを尽くしていた宮本武蔵であったが、一人の屈強な剣客によって倒された!
     これにて、一難町はまた平安を取り戻した。
     これにて読み切りでございます。

     イガグリの講談が終わった。が、しーんと水を打ったように静まった。
    「…………………あ?」
     凛は理解できなかった。が、凛を除いた五人は、顔色を変えた。
    「え……じゃ、もしかして、潔は…」
    「その可能性があるな」
    「俺、黒幕知ってる」
     我牙丸の一声に、えええええと大絶叫が上がって、凛はますます怪訝になった。
    「誰だ」
    「梅野さんの家の手前まで、潔と凛と一緒に行った。途中で潔が引き返した…」
    「やっぱあいつらかよ、クソっ」
     凛には何が何だか意味が分からない。そうこうしている間にも何故か千切が飛び出しそうになっていて、國神が咄嗟に抑えているのかも、意味が解らなかった。
    「てか、何でお前が知ってんだよイガグリ」
    「どうせお前のテキトーだろ?」
    「違えし!今朝、潔がうちにふらっと来て、教えてくれたんだよ。俺、めっちゃ興奮しちゃって、誰かに話したくてみんなを探してたんだって!」
    「で、潔はどうしたの?」
    「え、あ…行くところあるからって別れたけど…」
    「どうしてそこで止めなかったんだよ馬鹿!」
    「え?」
    「え?じゃねーよ!潔の性格を考えろ!自分一人で解決しようって腹に決まってんだろ」
    「あ…ああああああ」
    「馬鹿野郎、イガグリ」
    「落ち着けお嬢」
     揉めている理由がわからない上、潔に絡んだ話で自分だけ蚊帳の外なのが気に食わない。凛の臨界点は突破しかけていた。
    「おい。解りやすく話せ。まず、偽者が何だ?」
     五人はまた顔を見合わせた。凛の問いに、雷市が答える。
    「お前が昨日とっちめたのは、部坂って男だ。あいつは梅野んとこに雇われた浪人だ」
    「梅野って誰だ?」
     今度は我牙丸が答える。
    「二日前に、潔と俺とお前の三人で向かった家」
    「それが何だ?」
    「梅野は士族の家系だ。北の方と馬鹿息子が、金を湯水のように使いまくっているせいで落ちぶれた。父親は勤勉で節約家だったけど、心労が祟って二年前に早死にして、稼ぎ頭がいなくなったせいで、屋敷を修繕する余裕も無いぐらいに急激に落ちぶれた…て、町中で噂になってる」
    「なけなしの金で雇われたのが、部坂だ。部坂は俺様程ではねえけど、“そこそこ”腕が立つ男だから、偽者演じさせるには丁度良かったんだろうがよ。そいつらの狙いは、道場じゃなく、潔が狙いだったんだよ」
     それを聞いて、凛は益々謎を深めた。
    「意味解んねえ。てか、何で潔が狙われるんだよ?潔が狙いで何で道場が狙われてんのかも意味解んね」
    「そりゃあお前、さっきイガグリが言ったことだよ」
    「だからそれを訊いてんだろうが、揃って頭がぴよってんのか?」
     蟀谷に太い血管を浮かせる凛を見て、五人は間を置く。
    「集合」
     二度目の号音が上がって、六人はまた輪になって、ひそひそと小声を交わした。
    「やっぱ凛(あいつ)知らねえんじゃね?」
    「潔は話してねえのか?」
    「潔は自分から言わないよ」
    「まあ、そうだろうな」
    「あんのお人よし」
    「おい」
     そろそろ五人揃って千切って投げてやろうかと物理手段に入りかけたところ、國神が振り向いて答えた。
    「凛…一難町伝説って知ってるか?」
    「…………………あ?」
     凛は眉間に皺を寄せたまま疑問符を打った。
    「この歌、聞いたことねえか?ほら…」
    「待て國神。お前下手くそだから、イガグリが歌う」
    「て、俺かよ」
     千切に吹っ掛けられて、イガグリはこほんと咳払いすると、歌い出した。

     やれ困った困った困ったにゃあ。
     明日食うものも、着るものも、何もないで困ったにゃあ。
     あの家、この家、その家も、何もないで困ったにゃあ。
     神さん頼みで山いきゃあ、千両小判がざっくざく。ざっくざく。
     数えてみよう、いーちまい、にーまい、さんまい…。

    ――――その歌は、凛は記憶にある。この町の童歌だ。三百数えたら終わり…なんて、奇妙なものだとしか思っていない。
    「これは俺らが子どもの頃に散々聞かせられてきたんだが、この歌の起源になったのが、一難町伝説だ」
     イガグリ。またもや千切が言いつけた。イガグリはまた胡坐をかくと、姿勢を正して、講釈を始めた。

     世は、悪徳藩主の時代なり!私利私欲を求めた悪徳藩主が病で倒れ、喪に服した!
     これにて町は平和になったかと思いきや!悪徳藩主の悪行三昧が祟って、財政難に陥った!食うものすらもなく、皆が路頭に彷徨った。
     心優しいの侍が、町の為に、町外れの祠の神に祈りを捧げた。神よ仏よ、どうか、町を救ってください。深く、深く、祈祷する。
     その時、祠が金色に輝いた!開けてみれば、光り輝く大量の黄金小判が現れた!
     心優しい侍は小判を持ち帰り、町の者みんなに配った。
     こうして、一難町は平和を取り戻した…これにて一件落着!

    ――――イガグリの講釈は一旦終わった。
     千切が斜に構えながら説明した。
    「この一難町伝説ってのが、実は本当にあった話ってわけ。藩が財政的に追い込まれた余波をこの町が食らったのも本当で、黄金小判の話も本当の話だ。俺の店もその金が無かったら今頃跡形もなく無くなってたんだよ」
     その時発見された黄金小判については、様々な憶測が通った。豊臣秀頼が大阪夏の陣から逃れた際に密かに持ち出された豊臣家の遺産だとか、徳川家康の隠し財産など…結局それの出処については解明されていない。だが、その黄金小判は実在し、それのお陰で町は最大の一難を乗り越えたのは事実。
     一難を乗り越えた町は、それが大きな機となり、突飛した自治力を育むこととなった。藩の支配を受けず、自治力のみで運営されているのは、その伝説があったからと言えよう。
    「そんでこっから大事な話になるんだが…これに出てくる心優しい侍ってのが、潔のひい爺さんのことなんだよ」
     千切の言葉に、凛は目を見張った。
    「潔のひい爺さんが黄金小判を見つけて、みんなに平等に配った。そのお陰で今がある…だからこの町の中心は潔家だってことが、暗黙の了解になっているんだ。町がみんな潔を特別扱いしてるのはそういうことなんだよ」
     潔家は武家としては下士になるが、この町では主に等しい。それは表で口に出さず、町の共通意識として通っている。
     凛は腑に落ちた。町の一大事に潔が駆けずり回っている理由についても。町の者が潔を慕っている理由についても…。まさかあの兄も、それを知っていて、この町に凛(自分)を放り込んだのでは?と疑惑を抱いた。
    「まあ、潔はそんなこと微塵も思ってねえけど。あそこんち、みんなほわほわしてっし。そういう家系なんだよ」
     凛の頭の中に、ほわほわしながら出迎える潔家親子が思い浮かんで、千切の言葉に納得した。
    「…潔の家に、そんな大金があるとは思わねえ。あったら藩が目をつけてんだろ」
    「潔んちにはもう小判は残ってねえよ。潔のひい爺さんも無欲な人間だったから、自分の分も全部配っちまったんだと」
    「だけど、みんながそうは思ってねえ」
     千切の後に、國神が補足する。
    「中には潔家にまだ黄金小判が残ってるんじゃないかって邪推する輩は少なからずいる。梅野家もその一人だ。あそこはずっと前から潔の婿養子を狙ってたんだよ」
    「馬鹿な北の方と馬鹿息子のせいで、借金が膨れ上がって首が回んねえって噂だし。てか実際そうだし。潔にしきりに求婚してたけど、潔は突っぱねてたから安心しろ。だからそんな殺人鬼みたいな面してんじゃねえ」
    「してねえ」
    「してんだろ。自分の顔を鏡で見てみろ」
     千切に指摘されて凛は益々苛々を募らせた。
    「だから今回は、潔の財産目的の、貧乏士族の自作自演の喜劇だったってのが真相なんだよ。道場破りも、俺らが闇討ち仕掛けられたのも、全部潔への脅迫だったんだよ。そうだろ、イガグリ?」
    「お、おう。そうそう。そんなことも言ってた」
     千切とイガグリの後に、國神が続く。
    「お前への果たし状だってそうだ。お前の矜持をへし折って、この町から追い出したかったんだろ…そうだろ、イガグリ?」
    「そうそう!」
     國神の言葉に、イガグリは縦に激しく振った。
     そこで自分の名前を出されて、凛は眉間の皺をまた増やす。
    「お前らの言ってることが全く理解できねえんだよ。何で俺がそこで出てくる?てか、それでお前らが慌てる理由が一体何だよ?結局潔はどうしたんだよ、オイ」
     またしても、五人は押し黙る。
    「…集合」
     三回目の集合の合図が上がり、六人はまた輪を囲んだ。
    「おいおいおい。あいつ鈍いにも程があんだろ」
    「いやいやいや。千切ん。そもそもの話だけど、凛ちゃんは根本から知らないと見た」
    「どこから?」
    「全部…だって凛ちゃん、潔のことさ…」
    「…えー。まじか。半年一緒にいて何で知らないんだよ?」
    「嘘だろ、オイ。潔の奴は何やってんだ?」
    「まあ、そこはしょうがないだろ」
    「潔だから仕方ない」
    「お前の言う通りだよ、我牙丸」
     またもやの蚊帳の外に、凛はそろそろ五人を蹴散らしてもいいんじゃないか、と思わざるも得なくなる。
     と、五人が、一斉に凛に振り返った。
    「凛ちゃん。よく聞いて?」
     蜂楽が凛に説き出した。
    「凛ちゃんが婿養子の話は俺達の間でもすごく評判だったんだよ。てか凛ちゃん、潔とすごく仲良かったから、みんなからしてみたら、いよいよって思ったわけ。そうなると潔の財産目当ての連中は黙ってられなかったんだよ。だから偽者なんて使って、凛ちゃんを追い出して、婿養子の件を破断にしてやろうってヤッケになってたわけ」
     珍しく真摯な表情で語る蜂楽に、凛は釘付けになってしまう。潔の内容だと、殊更に。
    「今頃潔は、黒幕のところに一人で乗り込んでる…自分が目的だと解って、自分さえ明け渡せば解決するって思ったんだよ、絶対…俺には解る。潔は、そういう奴なんだよ。潔は、仲間を信じることから始めるんだ。俺達だけじゃない。凛ちゃんのことも…潔にとって、凛ちゃんは大切な存在なんだよ。凛ちゃんも同じじゃないの?」
     蜂楽の言うことが、理解できないわけではない。
     ただ――――気に食わない。何故か、そう思う。
     きっと、自分のことが、潔のことを理解しているというその蜂楽の顔が、気に食わなかった。
    「…くだらねえ」
     凛ちゃん!蜂楽から非難の声が上がった。凛は鋭い眼光で、蜂楽を押し黙らせた。
    「潔はそんな簡単に敗北する奴じゃねえ。お前らよりも、俺の方がよっぽど理解してる」
    「いや、凛ちゃん、あのね…」
    「あいつのこと信用してねえのはお前らの方だろオカッパ」
    「いや…だからね」
    「てか、お前らが言ってること、理解できねえんだよ。潔が財産目当てで狙われてるとか意味解らねえ。そもそも婿養子の話はとっくに無くなってんだよ。噎せ返すこと自体おかしいんだよ。お前らが勝手に騒ぐのは勝手だが、俺には関係ねえ。さっさと消えろ」
     今度は五人は半眼になった。
    「………集合」
    「おい」
     四回目の合図が出された直後、凛はイガグリを呼び止めた。
    「あ?何だよ?」
     イガグリが凛に捕まってる間に、五人は密談する。
    「もうあいつ放っておこうぜ!潔が可哀想だろ」
    「待てお嬢。潔の気持ちも考えろ」
    「でもまさか、ここまでとは俺も思わなかったよ」
    「潔の目が腐ってただけだろ」
    「こうしてる間にも、潔、ヤバい」
    「それは解ってんだよ!だけど下手に手を出すと潔の立場が危ねえって話で…」
     と、五人が頭を抱えた、その時。
    「―――――それを先に言え」
     直ぐ間近から轟音が爆発した。心臓が飛び跳ねる想いで振り返ると、イガグリに押し迫る凛が、目をかっ開いて、怒気を纏った全身に震わせていた。
    一同が視線を集めていることに自覚なく、凛は大きく舌打ちをしたかと思えば外へ飛び出した。閉じていた門を開く時間すらも惜しく、思い切り蹴り壊した。
     潔と共に歩いた道を思い出しながら、凛は疾走する。脳裏にふと、桜の花が似合う笑顔が想起する。

    ――――潔。

    ――――凛はどうして、日ノ本一の剣豪を目指してんの?
    ――――まあ、お前らの都合に首を突っ込むつもりはねえけど。でも、冴は凛のこと心配してると思う。
     潔に言うつもりは無いと思っていた答えが、今になって思い出す。
     凛の兄である糸師冴は、藩主になる前は日ノ本一の剣豪になる、と当たり前のように口にしていた。
     そんな兄が、幼い頃は憧れだった。兄は強くて、優しくて、誰よりもかっこいい存在だった。兄は手習いの合間に、いつも凛の相手をしてくれた。よく遊んだのは蹴鞠だった。兄とたくさん蹴鞠をしたので、みるみると上達していった。
     凛が剣術を始めた切っ掛けも兄だった。兄が剣術指南役と修練しているのを、いつも傍らで見て、目で覚えた。幼いながらも大人を圧倒する程の剣技を持つ兄に魅入られ、いつか俺もあんなになりたいと願っている内に、身体が動いたのだ。気付いたら凛は木刀を握っていて、冴の指南役の男を倒していた。勝手なことをして、兄に叱られると怯えていたが、兄は叱るどころか凛の頭を撫でた。
    「よくやった、凛。お前も剣術を習え。お前だったら、俺の次に強くなれる」
     兄に認められたことが嬉しくて、兄と一緒にする剣術が楽しくて、凛は剣術に没頭するようになった。兄と毎日切磋琢磨して、腕を磨く日々が凛にとっては全てだった。
     終わりを告げたのは突然だった。十三歳を迎えた兄が元服を迎えた年に、兄は父の後を継いで藩主となった。それまで毎日凛と一緒に剣術に励んでいたのがぱたりと止んで、凛よりも藩主の務めを優先するようになった。自分だけ置いて行かれた気持ちになって、凛は寂しさを覚えたけれども、冴と肩を並ぶ剣豪になりたいという夢を守るために、毎日欠かさずに剣術に励んだ。
     なのに、兄は、裏切った。藩主となって四年後のこと。冴はいきなり凛に断言した。
    「俺は日ノ本一の剣豪じゃなく――――――――日ノ本一の藩主になる」
     と。いきなり夢を書き換えたのだ。
     凛は激しく動揺した。日ノ本一の剣豪になるのが兄の夢だった筈。二人で全国制覇するのだって、決定事項だった筈なのに。
     その直後、凛は初めて兄弟喧嘩をした。結果、凛は惜敗した。兄は凛を切り捨てた。それから凛は兄に対して激しい恨みを抱いている。自分を裏切って日ノ本一の剣豪になるという夢を捨てた兄を、凛は一生許さない。
     …そのことを、凛はこれからも話すつもりはない。
     だけど、今になってあの時に答えなかったことを悔やむ己がいることに、憎悪した。




     凛が飛び出した後、置いて行かれた一同はしばし呆然としていた。
    「…何あいつ?」
    「人んち破壊しやがったな」
     目をまん丸にしていた蜂楽ら五人は、開いた口が閉じられない状態のイガグリに詰め寄った。
    「イガグリ、お前、何言った?」
     國神が問う。我に返ったイガグリは、大げさに両手を振って弁明する。
    「いやいや!俺は何もおかしなこと言ってない!」
    「いや明らかにお前が何か言って凛がキレたんだろうが」
     雷市がじとりと半眼で睨む。イガグリは更に焦った。
    「ほんとに!変なことは言ってない!俺はあいつに答えただけで」
    「あいつ何か言ったのか?」
     同じく半眼の千切が問いただす。イガグリは頭皮を指で掻きながら答えた。
    「えーっと……あいつが俺を引き留めて、結局潔はどこにいるんだ?って訊いてきて」
    「ふうん」
     雷市がじとりと睨む。
    「だから俺はこう答えたんだよ。黒幕のところに一人で乗り込んだんだろうなって」
    「そうか」
     我牙丸が真顔で相槌を打つ。
    「そしたらあいつが、それでこいつらは何で焦ってるんだ?って訊いてきた」
    「そんで?何て答えたの?」
     蜂楽が問い返す。イガグリは頭を捻りながら答えた。
    「そりゃ……潔の貞操が危ないからだろって……答えた…」
     空気が一瞬止まった。
    「…いや、間違ってねえけど、お前、言い方…」
     國神が額を抑えて呻いた。千切は思い切り嘆息し、雷市はややこしいこと言いやがってと蟀谷に太い血管を浮かばせた。
    「……もしかして、凛は、潔のことが、好」
    「我牙丸。それ以上は言うな」
     國神が言葉途中で我牙丸を窘めた。
    「ねえ!みんな、これ!潔の字じゃない?」
     一人輪から外れていた蜂楽が、糸師凛殿と宛名が書かれた文を発見した。
    「蜂楽、それは今置いておきなさい」
    「読んでみよう!」
    「こら!他人様の手紙を勝手に読むんじゃあ…」
     國神の宥めの声は素通りされ、千切も雷市も我牙丸もイガグリも蜂楽に集まった。こら!お前らまで!全員に向かって國神は制止の声を上げるも、読む気満々の空気を止めきれずに、内心で潔に謝りながら輪の中に入った。
     潔の字で書かれたそれを、蜂楽は開いた。


     町を抜ける道を全速力で駆けていた凛は、様々な感情に葛藤されている自分自身に激しい疑問を抱いた。
     俺は、何を焦っている?何で走っている?
     別にイガグリの話を真に受けた訳ではない。なのに、気付いたら身体が勝手に動いていた。
     潔の強さを、凛はよく知っている。潔とは何度も道場で手合わせしたことがあるから、有象無象よりも遥かに強いことを知っている。あの偽の宮本武蔵を相手にしたとしても、潔だったら打ち負かせることが出来た筈だ。だから単身で黒幕のもとに乗り込んだからと言って、押し負けるなんてあり得ない筈だ。
     そもそも。あの生草坊主が変なことを言うからだ。何だよ貞操って。おかしいだろ。普通そこは貞操なんかじゃなく、童貞…。
     凛は急停止した。ん?今になって疑問が浮上した。は?貞操?は?激しく疑問を抱いた。
     思えばずっと違和感があった。あの五人から真相を聞いた時に。
     狙いは潔だという。まずそこに疑問が生じる。潔は直系ではない。婿養子の話を蹴った一人娘の代わりに養子と迎えられたのが潔だ。その黒幕が潔家の隠し財産を狙っているのなら、一番の障害は自分ではなく潔だ。だとしたら果たし状の送り先を間違えている。何故、凛でなければいけなかったのか…。
     待て。それよりずっと前から違和感はあった。とても小さな違和感だ。
     町の者は揃って、潔世一を中心として扱っていた。では、本来の直系である、一人娘は?
     待て。そういえば――――この町に来てから、凛は一度も、一人娘に会ったことが無い。
     潔家は四人の筈だ。だが、あの離れには、潔しかいなかった。
     潔家の食卓に鉢合わせた時、膳は三つしかなかった。
     いる筈の一人娘は?普段はどこにいる?そもそも……本当にいるのか?
     様々な疑問が浮上してぶつかる。弾ける。走ったせいか、頭がよく冴える。潔の言葉が、顔が、頭の中を占めた。
    ―――――――――――――――――――――――あ。
     そして、凛は、一つの答えにたどり着いた。
     お、俺、は…っ
     あまりの衝撃に頭を抱えた。ぼたぼたと額から流れる汗が地面にしみを作る。
     兄は言っていた。お前ぐらいには、ああいう手前の娘が相性良いだろ。と。
     潔は笑っていた。お前の邪魔をする気はないよ。と。
     今になって、あの時の言葉の意味を、知った。
    「クソがあ……っ」
     血走った両の眼を上げると、凛は再び駆けた。



    幕間
     糸師冴には二つ違いの弟がいる。それ以外の兄弟は存在しない。先代藩主だった父は風変りな人で、二の丸を召し上げることなく、たった一人の女性を愛した。そうして生まれたのが冴と凛である。
     冴は一歳から剣術を始めたのだが、幼いながらも才能を開花させた。八歳になる頃には、日ノ本きっての『天才児』と呼ばれるようになる。
     そして凛も遅れて剣術を始めた。冴が、凛に剣を握れと言ったからだ。純粋無垢な凛は兄を追うようにめきめきと急成長し、いつの間にか凛と揃って『天才兄弟』と呼ばれるようになっていた。
     冴の夢は決まっていた。日ノ本一の剣豪になること。それは凄まじい才能を持つ者として、当たり前の夢だった。弟もまた、兄弟で日ノ本一の剣豪になることを目指していた。才能を持った兄弟で、ともに夢を追いかける日々を送っていた。
     冴が十三歳の時、父が隠居を宣言した。冴が生まれた時から、父はずっと考えていたらしい。さっさと藩主の座を降りて、残りの余生を愛する妻とゆっくり過ごしたかった父はまだ盛りであるというのに、冴が元服するとさっさとその座を譲って、気の早い隠居生活に入った。
     こうして、冴は十三歳で藩主となった。藩主になっても夢が追えると思っていたので、すぐには実感が抱かなかった。しかし、これまで糸師家が守って来た光景を見ていくうちに、冴の中で迷いが生まれるようになった。ここで夢を追うために藩主を辞めるとなると……凛にお鉢が回ってくるのは確実。
     凛に藩主が務まるとは思っていない。弟は筆を握るよりも、和歌を詠むよりも、刀を握る方がしっくりくる性分だ。もしここで我儘を貫いて全てを放棄してしまったら、凛の才能が潰れかねない。凛には日ノ本一の剣豪になる才能がある。認めたくないが、育て方次第では、自分を超える可能性だって…。秀才の自分とは違い、弟は紛れもない天才だった。
     凛の才能を潰すわけにもいかない。でも夢は諦められない。どうするか…。現実に挟まれながら迷った末、冴は答えを出す。
    「俺は日ノ本一の剣豪じゃなく――――――――日ノ本一の藩主になる」
     夢を書き換えることが、冴が出した答えだった。無論、凛から反発が上がった。
    「何でだよ 何で藩主なんだよてか日ノ本一の藩主ってなんだよ」
    「言葉の通りだ」
    「それだけじゃあ解んねえよそんなん兄ちゃんじゃない」
     あまりにも喚くので、冴は妥協案を出した。
    「解った。今から勝負だ、凛。お前が勝ったらもう一度夢を追ってやる。俺が勝ったら二人の夢は終わりだ」
     勝負の結果、冴が圧勝した。ほとんど力技によるものだ。だが、冴は後悔していない。日ノ本一の剣豪になることは諦めても、日ノ本一の藩主になればいいだけの話。かなり未練があるが、それこそが自分の道だと定めたのだ。
     と、いうことで、冴は藩主として責務を全うし続けた訳であるが、十八になると、周りからとやかく言われるようになった。そう、嫁の問題である。
     父は二の丸を持たず、母だけを愛した。子どもの目から見ても、両親は仲睦まじかった。だが、そんな二人を見て育っても、冴の中では妻を迎えることは実感の無い話で、持とうとも思わなかった。今まで剣術しかやってこなかった弊害が生まれてしまったのだ。確かに避けては通れぬ道であるけれど、だが冴はその気はない。普通の女子には興味が持てない。そもそも他人に対して興味が持てない。せめて、剣術が出来て戦術の話も出来てその他武芸の嗜みもある女がいたら話は別だが、そんな娘いる筈が無いというのが現実だ。
     そろそろ嫁を取って下され。婚儀も立派な責務でございます。あの藩と縁を結べば、我が藩も安泰ですぞ。…と家臣が口々に申してくるのも、段々と煩わしくなったのだ。
    「うるせえ。黙れ。俺の勝手だ」
     と家老たちを泣かせ、朝議をぶった切った。外に出たい気分になったので、平民の衣に着替えて、城を抜け出した…冴の脱走癖は常習であり、その度に家老たちを泣かせている。
     いつもの海に行こうかと思ったが、趣向を変えることにした。というのも、昔父が言っていた言葉を思い出したからだ。
    ――――一難町とは親交を持ちなさい。けど、決して手を出してはいけない。あそこは特別な町だから。
     一難町はかなり端にある辺鄙な土地で、その町は藩の影響を受けず、自分たちの力で成り立っていると、冴は記憶してある。どうせだし一度行ってみるか。と、冴は気まぐれに足を向けたのだ。
     行ってみると、確かに父の言った通りの町だった。独特の活気に満ち溢れた町であった。町民全員が顔見知りで、互いに助け合っている。家族というよりも、全体で一つの共同体のような協調性が感じられた。
     へえ。感嘆しながら橋を渡っている最中。肩が強めにぶつかった。冴には風が吹いた程度しかなかったが、ぶつかった相手が大げさにふらついた。
     おいテメエ、前見て歩け。危ねえだろうが。相手は武士の出で立ちをした若い男だ。酒気を纏わせ、顔は火のように赤く、ひどく酩酊している。それだけでも冴に不快感を与えるには充分すぎた。
    「ぶつかってきたのはテメエの方だろう、酔っ払いド三流」
     酩酊していた相手は激情し、冴に突っかかった。何だとテメエ。俺を誰だと思ってる?てかどこのもんだお前?
     男が冴の胸倉を掴みかかろうとしたので、冴は涼しく薙ぎ払おうとした。その寸前、冴の前に風が割り込んだ。
    「おい!こんなところで喧嘩すんな!」
     小袖を着た娘が、冴を庇って男と対峙した。断髪したような短い髪の風変りな娘に、冴は目を丸くした。
    「またお前か梅野。昼間から酒は身体に悪いから止めなって」
     男は据わった目つきで娘を見ると、にたにたと笑い出した。なあ、そろそろ色よい返事をくれねえかぁ?俺は、お前が好きなんだよ。俺の嫁になってくれよ。蜂楽や千切なんかより、良い暮らしをくれてやるぞ。
     突然変わった態度に、娘は気丈に言い放った。
    「だからその話は断っただろ。それより今日はもう帰れ。これ以上迷惑をかけるな」
     すると。周りの通行人が盛り上がり出した。そうだそうだ、この馬鹿息子!お前が真面目に働かないから親父さんも無理が祟ったんだろ。それ以上は止めてやれ。…まるで娘を中心に町が回っているかのようだと、冴の目に映った。
     恥をかいた男は険しい形相になると、娘に向かって掴みかかる。冴は娘を庇って男を投げ飛ばしてやろうかと構えた――――が、冴が動くよりも、娘が動く方が早かった。娘は自分よりも大きな体躯の男を、勢いを利用して投げ飛ばした。男は欄干を飛び越えて、川に投げ飛ばされた。大きな飛沫が上がった直後、拍手喝采が上がった。
    「大丈夫ですか?」
     一部始終を目の当たりにした冴は娘の腕に感心した。娘を観察する。武家の出ではあるが、冴の知っている、花よ蝶よと刀も弓も握ったことのない、甘ったれな世間知らずの武家の娘とは雰囲気が異なっていた。
    「お前…」
    「お怪我が無いようでしたら良かったです。ああいう手前ばかりではございませんが、この町の者はみんな気前が良いものばかりなので、ごゆっくり楽しまれてください。お土産でしたら、三色団子がおすすめですよ」
     娘は冴に興味が無さそうに、颯爽と去っていった。これまた冴には新鮮だった。今まで引き合わされた娘は皆、冴の淡麗な顔立ちばかりに目が行って黄色い声を上げるばかりの、つまらないものばかりであった。娘は冴の顔立ちに興味を示さずに、自分の役割を全うしたとばかりに離れた。世の中捨てたものじゃないと、冴は認識を改めた。
     それから町を歩き回り、もうそろそろ帰ろうかと帰途を辿る途中、通り雨に襲われた。偶然通りかかった屋敷の屋根に逃げ込むも、髪と着物が濡れてしまった。
    「あ。さっきの…」
     このまま雨をやり過ごそうとしていたが、背中の門が開いた。出てきたのは、先ほどの娘だ。
    「…良かったら、中で雨宿りしませんか?」
     娘は冴の状態を見るや否や、警戒無く中に招こうとする。
    「いや、いい」
    「でもこのままだと風邪をひかれますし、それにこの雨は当分降ると思います。貧相な我が家ではございますが、おはぎと茶でも如何ですか?」
     茶が出ると聞いて、冴は頑なだった首を動かした。茶は冴の大好物である。
    「この家は、何て言う名だ?」
     冴が問うと、娘は明るく答えた。
    「はい。潔と言います」
     それが、冴と潔家との初対面である。
     潔家は下士。父親と、母親と、娘の三人暮らし。父親は城に勤めていたので不在。中には母親がいた。母親も娘と似て穏やかだった。
    「あらあらまあまあ。こんな大雨で大変だったでしょう?夫のお召し物でよければお着換えご用意します」
    「じゃあお湯を持ってくるね」
     温かい湯で身体を洗い、あまつさえ着替えまでも用意された。しかも、この家で一番上等なものだった。冴が普段着るよりかなり安物であるが、大切に着られたというのが解る手触りだ。
     冴が着替え終わると、居間に案内され、おはぎと茶が出てきた。どうぞと勧められて、おはぎを一口齧る。程よい甘みが口の中に広がった。茶も一服すると、渋みもほとんど感じず、喉を潤した。
    「うめえ」
     無意識に言葉を漏らしていたことに自分で驚いた。
    「良かった、そう言ってくれて」
     娘は穏やかに微笑した。冴にはその笑みが輝いて見えた。
    「あの、名前、何て言うの?」
    「…冴だ」
    「冴、よろしくな」
     と、娘はまた嬉しそうに微笑んだ。
    「冴って、剣術どこで習ってるん?」
    「北辰一刀流の免許皆伝から」
    「へえ!北辰一刀流!日ノ本一の剣術道場じゃん!すっげえ!」
     娘が目に見えて反応するので、もしやと思って、冴は問う。
    「お前、剣術すんのか?」
    「うん。町に道場が一つしかないんだけど、子どもの頃からそこで学んでる」
    「馬術と弓術は?」
    「まあ一通り嗜んでるけど、剣術が一番かな?俺、日ノ本一の剣豪になるのが夢だから…て、女で剣豪って、やっぱ変だよな?」
     頬を掻いて苦い笑みを浮かべるが、冴が娘に強く引き寄せられるには充分だった。
    「いや…お前の話、聞かせろ」
     すると娘は花が開くように笑顔になった。それから娘は嬉々として語り出した。冴から話を差し込むと娘は何倍にも返して、冴も話している内に夢中になっていて、時を忘れるほど二人で話し込んだ。母親が昼餉の知らせを告げるまでずっと続けていたが、物足りないと感じた。
     昼は茶漬けが出た。茶漬けは温かくて美味かった。久々に温かい飯の味を噛みしめたからかもしれない。藩主になってから毒見が挟むようになったので、飯はいつも冷めていた。
    「嬉しいよ、俺…今までこんなに長く話したの、冴が初めて」
     それは冴とて同じだ。冴はずずっと茶漬けを口の中に掻き込みながら、娘の声に耳を傾ける。
    「また今度遊びに来てよ。今度はうちの道場に案内する」
     道場にはさして興味が無いが、娘には興味が惹かれた。
     ふと、冴は箸を止めて、思考した。
    「冴?」
     剣術が出来て武芸に秀でていくらでも話ができる女。
     いた。目の前に。
    「どうしたの?」
    「…お前、縁談の話はあるか?」
     理想の嫁がいても、相手がいるなら話は別。念の為尋ねると、娘は目をぱちくりさせた後、笑顔で答えた。
    「いや無いよ。俺って風変りで、縁談とか興味が無いんだよね」
     そうか。いないのか。これは好都合だ。後半の言葉など、耳に聞こえていない。
     よし。そうと分かれば帰ったら直ぐに話を進めよう。と、箸を再び動かそうとした冴であるが、次に懸念材料が生まれた。
     どこからどう見てもこの家は下士。父親が城に勤めているというが、冴の記憶に無いということは末端の家系なのだと解る。下士の嫁を迎えるとなると、娘の方が苦労する。母も元は下士の出であったので、色々と苦労が絶えなかったのを間近で見てきた。
     諦めるか。いいやしかし、こんな好条件の娘は他にいない。何より欲しいと思ったら必ず手に入れるのが、糸師冴の欲深さだ。
     茶碗を持ったまま宙を向いて思案する。
    「冴、天井に何かあるの?」
     どうしたものか、と考えて――――――冴は閃いた。
     いるではないか。うちに、凛(弟)が。剣術ばかりで嫁を迎える甲斐性が欠如してるあいつが。このままだと独り身で生を全うすることになるであろう憐れな弟が、いるではないか。
     思いついたら冴はさっそく実行に移る。まず先に、残りの茶漬けを啜った。
    「ただいま~」
    「お父さんおかえり~」
     ずずずっと音を立てて掻き込んでいると、父親が帰って来た。
    「遅かったね」
    「いやあ~。殿様がまたいつものように脱走したらしくって、てんわやんわしてたんだよ~」
     父親は居間に入ると、ん?と茶漬けを掻き込む冴を見た。はあ。冴は茶漬けを食い終わり、器を膳に戻す。
     冴を見るなり、父親は顔色を変えた。
    「と……」
    「と?」
     冴の隣に座った娘が首を傾げた直後、父親は腰を抜かした。
    「殿~~~~~~~~~~~~~~~」
    「え………」
     娘も父親同様に顔色を変えた。母親も同じくさっと紙のように顔を真っ白にした。
     顔面蒼白になった親子はばたばたと慌て出して、冴の前に揃って土下座した。
    「も、もうしわけ、ございません…っ殿とは知らず、無礼な振舞いをしてしまい…っ」
     あれほど親しんだ口調で話しかけてきた娘が、狼を前にした兎のように震えた。
    「父と母は関係ございません…っ此度の無礼は、ひとえに、私一人の問題でございます…っですので、父と母だけは、どうかお許しください…っ」
    「いいえ、我が子には責任はございません…っどうか、この場は私の命一つで収めて下さい…っ」
    「私も切腹でも何でもいたしますので、お許しください…っ」
     何だこの空気は?まるで俺がこの一家を処罰するような空気だな。そんな訳あるか。折角見つけた弟の嫁を処する訳がない。
    「面を上げろ」
     涙目になって震える一家を眺めた後、冴は刀を佩いて、すっと立ち上がった。
    「…お前の名前は何だ?」
     娘は恐々としながら、名乗った。
    「――――潔、世一と申します…」


     その後、改めて父親と交渉した。弟を婿養子にさせたいと持ち掛けると、父親がこれまた腰を抜かしてしまった。
     それから数日かけて、冴は家老たちを説得し(実際には弾圧だった)、凛の婿養子を強引に認めさせる。
     冴は幾度も潔家を訪れては、潔に弟の話を言い聞かし、外堀を埋めていった。
     これにて、冴は嫁取り問題という煩わしい問題から無事に解放された訳であるが、自分の知らないところで勝手に縁談を組んでいたことに凛が激昂し、城を飛び出すこととなる。




     拝啓、糸師凛様。
     貴方がこの文を読んでいる頃には、私は貴方の前から姿を消していることでしょう。
     貴方に伝えなければいけないことがあります。貴方への謝罪です。私は最初から、貴方を騙しておりました。
     潔家の一人娘というのは、私のことです。私こそが、貴方と婚儀を上げる筈の娘でございました。
     私は代々家を見守ってきた桜が満開の日に生まれましたが、よく熱を出して、何度も命が危うかったそうです。そこで両親は私が健やかに育つようにまじないをかけました。七つの歳を迎えるまで、私は男児として育てられました。女子に戻るにも、生まれ持っての気性だったのでしょうか。私は花を生けるよりも、刀を握ることに生きがいを見出し、日ノ本一の剣豪を夢を視るようになったのです。
     両親はこんな私を許してくださいました。仲間も、私を女子としてでなく、剣客として接してくれました。私の周りは優しかったのです。
     いつしか私は、自分が女子として生きたいのか、男児として生きたいのか、分からなくなりました。
     そんな時に、貴方の兄君と出会ったのです。兄君は私に、これ以上無い縁談を持ち掛けてくださいました。ですが、私は迷ったのです。このまま良妻賢母として生きていく道が正しい筈なのですが、そんな暮らしを全うする自分が想像できなかったのです。
     両親は優しいので、私に自由に生きてほしいと、言いました。その言葉に励まされ、自分の生きたい道を深く考えるようになりました。
     そこへ、貴方が現れたのです。貴方が、私には眩しく映りました。迷いも無く日ノ本一の剣豪になると断言した貴方を、私はずっと羨望しておりました。
     貴方を騙したことを後悔しております。ですけど、貴方と過ごした日々は決して忘れません。
     私の夢は終わりました。貴方は、夢を叶えてください。
     草々。潔家長女、潔世一。


     凛と邂逅する十日前のことである。
    「潔」
     その日もまた冴が潔家に現れた。中庭で木刀を無心で振っていた潔は、その声に反応して、振り返る。
    「殿様…」
     平民の姿で現れた冴を見るなり、潔は反射的に平伏しようとしたが、脱走癖のある困った藩主は険しい視線を投げて寄越した。
    「それ止めろ。名前でいいってっつってんだろうがタコ」
    「そういう訳には…」
    「あ?俺の言うことが聞けねえのか?」
    「はい……冴」
     藩主に向かって呼び捨てなんて不敬罪で切腹を命じられてもおかしくないのでは、と緊張するのだが、冴の雰囲気が和らいだので、ほっと胸を撫で下ろした。
    「それで、今日もまた抜けて出してきたの?」
    「お前に会いに来た。嬉しくねえのか?」
    「いや、まあ、嬉しくない訳ではないけど…」
     嬉しいというか、困惑の方が強い。こんな辺鄙な片田舎にしょっちゅうやって来れば、さぞ家臣の方々も苦労しているのだろうなと、潔は心中を察した。
     道場着のまま潔は縁側に冴と一緒に座り込んだ。母が茶と茶請けを持ってきて、二人にそれぞれ配ると、奥に引っ込んだ。
     二人きりとなったが、緊張の無い、心地の良い静けさに満たされた。中庭の桜は八分咲き。明日には満開になるだろう。突然訪れた客人と静かに舞い散る薄紅色の花時雨を、目で愉しむ。
    「……で?冴の弟は、何て言ってるの?」
     この御仁が藩主の務めを度々さぼって、こんなほぼ平民の下級武士の屋敷に来る理由など、一つしかないことを、潔は既に学んでいる。
    「まだ何も言ってねえ」
    「…俺としたら、白紙に戻してくれた方が気が楽なんだけど?」
    「木刀振るしか能がねえ愚弟だからな。気苦労が絶えやしねえ」
    「弟のことが可愛いんだったら、もっと良いところを探せばいいじゃん。俺みたいな端っこの身分の女よりもさ」
    「ただの女にあいつの嫁が務まる訳がねえ。それこそ糸師家の血が絶える」
    「弟のこと心配してるのか貶してるのかどっちなん?」
     菓子皿も茶碗も空になっても、冴は直ぐに去ろうとしなかった。しばし、桜を見つめてた。
    「良いな。これ」
    「ご先祖様がこの屋敷を建てた時に植えたんだって。俺らの何倍も長生きしてる」
     自分が生まれた時も、満開の花びらを散らしていたという。何代も見守って来たこの桜は潔家の誰よりも世一のことを見守っているのだと、両親はいつも口にしていた。潔もこの桜の木が大好きだった。
    「お前の両親は何て言ってる?」
     冴の問いに、潔は益々肩を重くさせた。
     両親は、本当に優しい。家のことを考えるなら、一人しかいない娘を良妻賢母に相応しい教育を施して、どこに行っても恥ずかしくないように、武家の娘として育てなければならないのに。
    花を生けるよりも刀を振るうことを、琴を弾くよりも弓を弾くことを生きがいとする風変りな娘を――――家のことなど気にせずに、世一の好きなように生きなさい。と、背を押してくれるのである。
    「…好きにしろって言ってくれた…だから、ごめんだけど、冴の期待には応えられないかも…」
     今まで恋なんてしたこともないし、女として生きたいとも、思ったことが無い。だから、婚姻なんて想像もできない。それに。そう、それに…一番大きい理由は。
    「冴…俺は、日ノ本一の剣豪になりたい。それが、子どもの頃からの夢だった。今でもその夢を諦めたくないんだよ」
     だから、ごめん。もう一度、重たく謝罪した。これで諦めてほしいと願いを込めて。
     冴は沈黙した後、軽く嘆息を漏らした。
    「…やっぱり、俺の目に狂いはねえ」
    「え?」
     予想外の言葉に、潔は目を丸くして、冴へ振り返る。冴は立ち上がると、縁側から中庭に降りて、潔に振り返った。
    「お前なら、凛のこと気に入るだろ。お前も、俺達と同じだ」
    「…それって、どういう…」
     その真意を問おうとしたけれども、言葉の途中で冴は立ち去ってしまった。一人残された潔は、置いて行かれた気持ちにされた。
     十日後。悩みに悩んだ潔は、己の気持ちを確かめることにした。父の衣に袖を通した。袴は身体によく馴染んだ。小袖よりも、ずっと、心地が良かった。
     袴姿のまま中庭に降り立ち、桜の木の下でしばらく考え込んだ。女としての道を選ぶべきか…。考えて、考えて、考えた先に、今の自分が纏う恰好を認めて、答えを出すことにした。
     俺には無理だ。想像が出来ない。冴にはきちんと断ろう。花よりも、刀の方が、落ち着いた――――。
    「――――おい」
     凛が潔の目の前に現れたのは、まさにその刹那だった。
     潔は我に返って振り返る。
     初めて凛を見た刹那を、潔は、一生忘れない。
     そして。
    ――――自分と同じ夢を語った凛の言葉も、一生、忘れることは無い。
     時は過ぎて、偽宮本武蔵騒動が終結した当日のこと。
     凛を追い返した潔は、よし、と腰を上げた。
     まずはおむか婆さんのところへ行く。
    「おむか婆さん…これから凛のこと、よろしく頼むよ」
     と、頼み事をした後、直ぐに町に向かった。
     その途中で雷市とすれ違った。
    「雷市―!」
    「ああん?お前か、潔」
    「おはよ、雷市。仕事の途中で悪いけど、頼みがあるんだ」
    「ああ?くだんねえことだったら許さねえぞ」
    「…凛のこと、頼みたいんだ」
    「は?何で俺が?放っておいても死にはしねえだろ」
    「頼むよ、雷市…俺、しばらく、離れるからさ」
     雷市は目を丸くしたが、潔から何か感じ取ったのか、悪態をつきながら人力車を押して去っていった。この後、雷市は川下にいた凛を拾い上げることになる。
     雷市と別れた後、潔は町へ入って、雷市にしたのと同じことを方々に伝えた。寄合を巡り、我牙丸、國神、千切と回って、蜂楽の元にも訪れた。
     明るく出迎えた蜂楽であったが、潔の顔をじいっと凝視した。
    「離れるって、どこに行くの?」
    「うん、ちょっと」
    「それって、俺にも言えないとこ」
    「その内わかるよ」
     今はまだ言えないと、潔は踵を返す。潔の背中に、うなじに手を組んだ蜂楽は冗談ぽく口吹いた。
    「でもやっぱり、凛ちゃんのこと心配してんだ」
    「だってあいつ、危なっかしくて目が離せねえし」
     ふうん。蜂楽は悪戯っぽく笑う。
    「で、俺以外にも言い回ってるんでしょ?潔って本当に凛ちゃんのこと好きだよね?」
    「うん、好きだよ」
    「にゃははは!やっぱり……」
     え?あっさりとした答えに、蜂楽が拍子抜けした。
    「お前の言う通りだったよ蜂楽…俺、凛のこと、好きみたいだ」
     胸に痛みが走ったのを、無理に笑って誤魔化した。
    「潔…」
    「て、ま。こういうことだから頼むよ。今言ったこと、凛には内緒な?」
     待って。と言いかけた蜂楽を振り切って、潔は蜂楽の家を出る。家に帰る途中で自警団の使いが潔の元へ駆けつけて来て、凛が偽宮本武蔵を破ったと伝えにきた。
     それからこっそり家に帰って、凛と鉢合わせないように隠れた。そして早朝前に出ていき、寺へと向かう。階段掃きをサボって居眠りしていたイガグリを発見した。
    「おいイガグリ。起きろ」
    「んあ?…おお、潔。南無三!」
    「おはよ」
    「そういやあ聞いたぜ。宮本武蔵が捕まったんだってな!これで一安心だな!」
    「うん、そのことなんだけど…」
     寺の中庭を散策しながら、イガグリに事の真相を隠し立てせずに話した。イガグリは始終驚愕しっぱなしで、何度も素っ頓狂な声を上げていた。
    「はあんじゃあ何かあの馬鹿息子のせいで、道場はとばっちりを受けたってことかぁ」
    「そうだな…てか、原因は俺なんだけど」
    「へ?何で?」
    「俺への警告だったんだと思う。蜂楽と千切と國神を襲ったのも当てつけだ」
    「へえ…じゃあ凛は何だったんだよ?」
    「凛は単純に、衆目で恥をかかせたかったんだろ。でも、あいつらは凛の実力を見誤ってた」
    「まあ、あの馬鹿息子、碌に道場に来ねえもんな」
    「それはお前もだろ」
     事の真相を知ったイガグリは腕を組んで、むむむむむ、と顔を顰めた。
    「てかこれ、みんな知ってんのか?」
    「今はまだ」
    「じゃあ!みんなに話してきていいか?」
    「いいぞ」
     イガグリは箒を捨てて、浮足立った足取りで寺を出て行った。
     それを見送った潔は……改めて気を引き締めた。
    「…うっし」
     心を落ち着かせて、ある場所へと向かう。
     町から外れた場所に、廃れた大きな屋敷がある。藩主と深い関わりがあったと言われる名家であったが、先代が早逝されてから落ちぶれる一方であった。
     我牙丸がこの家を示唆した時点で、潔は事の真相に辿り着いていた。この偽宮本武蔵の事件の本当の狙いについて……潔世一(自分)が目的であったことを。
    「たのもう」
     門をくぐり、修繕が間に合っていない大きな屋敷に向かって一声かけた。時間を置かずに、先代の妻であった女性が出迎えた。修繕できていない屋敷とは反対に、女性の着物は随分と新しく上質だ。世一様、ようこそいらっしゃいました。どうぞ、中へ。
    喉元に紐が巻き付いているような息苦しさを感じる屋敷の中へ、潔は一人で入った。屋敷の中も、あまり清潔とは言えなかった。以前は奉公人がいた筈であるが、給金が払えずに解雇したのか、埃臭さが目立つ。女主人の案内の元、縁側を歩いていた途中、蔵が視界の端に移った。
     國神の言葉を思い出す。自警団が総出で探し回っても痕跡を見つけられなかったと。恐らく下手人をあそこに匿っていたんだと察する。
     奥の間に通されて、鎮座して待つ。瞑想しながら待っていると、五感がこちらに近付く気配を感知した。瞼を上げると同時に、襖が開いた。
     女主人と共に現れたのは、小太りの小汚い男。着ている着物は母親と見劣りしない上質なもの。そんなものに金をかけている余裕があるなら、屋敷の修繕に回せばいいのにと言いたくなってしまう。
     やあやあ、世一。ようやく俺の妻になる気になったのか?黄ばんだ歯が見えるようににたりと笑う男に、潔は吐き気を抱いた。
    「…部坂を俺に差し向けたのはお前だな?」
     男はにたにたと笑っている。母親も口元を袂で隠しながら笑っている。
    「俺の周りに危害を加えるのは止めろ。道場の看板を返せ。あの道場は無くてはならないものだ」
     男はにたにたと笑いながら、それはお前次第だよ、と答えた。潔は耐えるために拳を強く握りしめた。
    「前から言ってるけど…うちには小判は無い。全部お前らの妄想だ。俺の家と婚姻を結んだところで、何にもならないぞ」
     うふふ。今度は母親が小さく笑いあげた。血を絶やさず子と孫を残すことは、武士の務め。夫の家に入り、良妻賢母として勤めるのもまた、武士の家の娘として当然の義務ですよ。
     殊更に気を害した。自分が武士の娘に生まれたことに憂いている潔にすれば、女の言うことは呪いでしかない。この家に入って、死ぬまでこき使われるのは目に見えている。夢を諦めて死んだように生きろっていうのか……そんなの、真っ平ごめんだ。
    「…お前も知っての通り、俺は武士の娘としては、下の下だ。俺みたいな風変りの恥知らずを出迎えれば、お前の家名に泥を塗るだけだ」
     卑しい笑みを浮かべる親子は、潔の言葉を真に受けていない様子であった。
     いいだろう、世一。お前だって、このまま引き取り手が無いと困るだろう?お前の家だって、このままだと落ちぶれるだけだ。そういえば、お前、あの藩主の弟とかいう男との縁談はどうなった?本気であの男と夫婦になろうと思っているのなら、止めておけ。城の中でもあいつの話は持ち切りだ。日常的に藩主に盾ついて武士としての誇りも無い恥さらしらしいぞ。藩主も手に負えないから追い出したって話だ。あんな鬼のような男と一緒になっても不幸だ。だから俺がお前を救ってやろうと…。
    「黙れ」
     いよいよ我慢していた激情が表に出た。にやつき顔が膠着した。燃え滾る激情の炎が宿った目で、潔は薄汚い腹の二人を睨む。
    「お前らに凛の何が解る?あいつのことをべらべら語ってんじゃねえよ、雑魚三流」
     潔は知っている。凛のひたむきな想いを。血の滲む努力を。日ノ本一の剣豪になるに相応しい才能を持っていることも。
     凛は紛れもない天才だ。反対に、潔(自分)は秀才だ。才能が根本から違う。
     それでも、理解できない天才であっても、潔は凛を認めていた。凛は、潔世一の宿敵だ。
    「凛に手を出すな。出したら俺がお前らを殺す」
     それをこんな、木刀すらも碌に握れない卑しい奴らなんかに侮辱されるなんて、度し難い程に腹立たしい。
     潔から発する剣気に、親子は怯んだ様子を見せたが、息子の方が冷や汗を垂らしながらもにへら笑いに戻す。
     それはお前次第だよ。男の声が耳障りに潔の耳に入る。お前が大人しくしてくれたら、一生、あの男を付け回さないと約束するよ。睨みつける潔に恐々としながらも、男は続ける。私の親戚筋には様々な者がいるんだ。奉行所勤めに、江戸の剣豪…私の計らい一つであの男の先が別れる。あの男だけじゃない、蜂楽らも路頭に迷わせることもできる…お前の大事な道場も潰せるんだよ。
     これほどに悔しい想いを抱えたことは無い。潔は汚い笑みを浮かべる男を、憎悪を持って睨みつける。
     母親が突然腰を上げた。男が身を乗り出して、すり寄って来た。嫌な予感が背筋に走る。母親が退室した直後、巨体が潔に乗りかかった。
    「わっ」
     畳の上に押し潰されて、匂い消しに使われる強い香の匂いに、頭がくらくらした。
    「やめろっ何すんだよそこどけ」
     押しのけようとしたが、手首を掴まれて、畳に押し付けられた。お前が大人しくしていれば、事は全部解決するんだ、世一。耳元に直接吹きかけられた生臭い息に、息を呑んだ。お前は風変りだけど、体は女だな…。品定めするような目に産毛が総立ちになりかける。
    隙をついて男を押しのけて逃げるのは造作もない…けれど、そうしたらまた、この親子は姦計を計るだろう。次は無事に済まされないかもしれない。
    我慢だ。我慢しろ。我慢するしかない。
    薄っすらと感じる視線に顔を向けた。見ている。退室したと母親が、僅かに開いた襖の隙間から覗き込んでる。嘘だろ。どんな神経してんだよ。だが、歯噛みすることしかできなくて、悔しさに涙を滲ませた。
    こんな男に、俺の人生奪われるんだ…。何がいけなかったんだろうな…。女らしかったら良かったのかな…。早くに剣術捨ててしまえば良かったのかな…。こんな男なんかと所帯を持ちたくない。こんな男…。
    ――――一緒になるなら、あいつが……凛が良かった…。今になって自分の気持ちに気付くとか、俺、まじで馬鹿だった…。
    「う…ひっく…っ」

    「――――たのもおおおおおおおおおおおお」

    ――――その刹那。途轍もない破壊音が空気を裂いた。
     はへ?は?男は顔を上げて止まった。潔も泣きながら停止した。どたどたどた激しい足音が近づいてくる。な…ここをどこだと思って…っ混乱した声が直ぐ外から響いた、その直後。
     襖が外から蹴破られた。
    「……は…っ」
     潔は瞠目した。外れた襖の真上に両足を踏みしめて、息切れを起こして、汗まで大量に流して突っ立っている…凛の存在に。
    「凛…っ!」
     感動よりも、困惑の方が強かった。
    「退け」
     凛は駆けだすと、青白くなった男の鳩尾に強烈な蹴りを一発入れた。男はくの字に身体を折ったまま中庭まで吹っ飛んで、ため池の中に落ちた。きゃあああ。息子が溺れた池に母親が駆け寄るが、自分で助けようという姿勢ではない。
     そこまでの過程を見送った潔は、凛に振り向いた。
    「凛…お前、何で、ここに…?」
     凛の顔を見てみると、凄絶な形相だった。柳眉は吊り上がり、極限まで縮小した瞳孔の周りは血走っているし、半開きの口から荒い息が繰り返されている。潔は安堵よりも、自身の危険を感じ取った。
     凛は潔を睨むと、着物の合わせを引っ張った。がばり、と。潔がずっと隠していた秘密が暴かれた……女の象徴である胸元を隠す為のさらしが。
    「ひえっちょ、馬鹿、この変態」
     慌てて胸元を隠したもの、もう遅い。ばれたばれたばれた…。と焦燥に駆られていると、左腕を凛の右手によって強く掴まれた。
    「来い馬鹿潔」
    「ふえ…え、ええええ」
     そして、有無を言わせずに、凛は駆けだした。潔を連れて。
     外に飛び出して、町を突っ切る。まるで風のように。途中で何人とすれ違うが、お構いなしに町を横断した。出た後も、凛は止まらない。全速力だ。それに合わせる潔は限界だった。
    「おい、凛止まれってお前、足速いんだって…っ」
     凛に向かって叫ぶも、凛は止まらない。
    「てか、どこ行くんだよ」
    「お前んちだクソが」
     やっと返したかと思えば、意味不明な怒声だった。潔は目を丸くした。
    「はあ何で」
     疑問が尽きない潔に、凛は吠える。
    「お前の親に、頭を下げる婿養子の話、無かったことを無かったことにしてくれって頼む」
    「…へ?」
    「お前には義務がある俺が日ノ本一の剣豪になるのを一番近くで見ろって義務だそんで…俺が死ぬまで俺の傍にいろ」
    「そ、それって…」
     頭で理解するよりも先に身体が一気に熱くなった。走ってるだけではないのは明らか。何で何で何でなんで。熱のせいで頭がイカれた。
    「いいから黙って俺に付いてこいクソ潔死ね」
    「は、はひっ」
     普通そこで死ねっていうだろうかと、後に冷静に戻った潔はそう振り返ることになる。
     凛は宣言通り、潔を連れて、潔家の門を叩いた。
    「たのもう潔家の皆様に、ご拝謁願いたく候」
     凛にしては珍しい丁寧な言葉遣いが潔家を揺るがした。時を置かずに、潔のご両親が驚いた様子で出てきた。そして、二人を見るなり唖然とした。真っ赤になって汗だくで突っ立っている凛と、凛に手を握られ全身を真っ赤にする娘を見れば、当然の反応だ。
    「一度白紙に戻してしまった婿養子の一件でございますがどうかもう一度お考え頂きたく候潔を、俺に下さい」
     結局凛は頭を下げなかった。下げなかったと思われたが…小さく首を下に傾けた。それだけ。それだけのことだが、潔に衝撃を与えるには充分過ぎた。あ…あわ…。口から声にならない声が漏れた。両親は驚きながらも顔を突き合わせる。困ったように。
    「もう遅えよ、愚図」
     …と、空気を裂いたのは、潔でもなければ、潔のご両親でもない。
     この傲岸不遜な声を、凛はよくよく知っている。
    「………あ?」
     遅れて違和感に気付いた。どうして潔のご両親が出てくるのが早かったのか。それは凛の前に先客がいたからだ。
     先客は凛と潔の前に現れた。
    「は?」
    「あ…」
    「今になって白紙を撤回してくださいってか?お前本当にオワッてんな、クソ愚弟」
     なんと、出てきたのは糸師冴。凛の実兄にして、現藩主…この婿養子の申し出たる人物であった。
    「な、何で…?」
    「何でって、そもそもがお前が原因だ、凛」
    「は?俺…?」
     兄の言葉に目に見えて動揺する凛に、冴は冷たい視線と言葉を浴びせた。
    「お前がいつまで経っても潔との仲を深めねえから、詫びに来たついでに、潔を俺にくれって言いに来たんだよ」
    「……はあ」
    「え、俺…っ」
     凛と潔は揃って愕然とした。両親を見れば、二人はいたく申し訳ないと顔に書いている。
    「話したところ、お前の意思を尊重するってことだ……潔」
    「うえっ」
    「愚弟はこんな体たらくだし。だからといって、俺は藩主だし、お前に苦労をかけるかもしんねえが、責任を取る。いいな?」
    「いや…そんなことは…」
     ちらりと、潔は凛を一瞥した。真っ赤に熟れ上がった視線で。冴の目はそれを見逃さず、そしてがっつりと握り合った二人の手を見て、全て納得した。
    「何だ?やっとくっついたのかお前ら。良かったな、凛。お前みたいな不出来合いを貰ってくれる懐深い相手がいてな」
     兄としては激励しているつもりだろう。結果、煽り文となっている。
     兄の言動の全てが、凛の逆鱗に触れた。結果、凛は人生で一番の大噴火を起こした。
    「――――――――ふっっっっっっざけんなクソお兄」
    「ふざけてんのはお前の方だろうが。半年も猶予をやったのに進展一つもねえお前に、俺がどれほど気苦労したのか解ってんのか?」
    「嘘つけそういうタまじゃねえだろ」
    「半年でやっと潔の存在の有難さに気付くとか、まじで救いようのねえカスだな」
    「テメエに言われたくねえんだよこのクソ悪徳藩主お兄テメエのせいで俺の人生滅茶苦茶にされてんだよ解れよ」
    「あ?テメエがいつまで経っても学もしねえで木剣振り回してばっかで実家に寄生してっから、いらん世話を焼いてやったんだろうが。それがテメエ何様だ?」
     弟の暴言につられて冴の暴言も加速した。これは……凛と冴を交互に見ていた潔は、二人の舌戦を傍らに、徐々に落ち着き出した。
    「てか、テメエが潔を嫁にするって何だよテメエがそもそもの元凶だったくせして、テメエが潔に惚れてたのかよ」
    「惚れてなかったらそもそもお前との縁談持ち込んでねえ。考えて見ろクソ愚弟。俺らみたいな兄弟が、普通の女を受け入れられると思ってんのか?」
    「そ、それは…っ」
    「お前だって潔じゃないと嫌だろ?俺だってそうだ。糸師家の嫁に潔の他に要らねえ」
    「え、ええぇ…」
     飛び火を食らった潔は苦虫を噛み潰した。冴の言ってることは滅茶苦茶だけど…納得できるのは何故だろう?でもだからって、俺じゃないと務まらないっていうのも大げさな気が…。
    「凛。いい加減に認めろ。潔が嫁じゃないと夫婦にならないって、認めるんだ」
     仁王立ちで圧力をかけてくる兄に対して、凛は激しく怒りの炎を燃やした。
    「だ……誰が潔なんか認めるか」
    「あ?」
    「だってこいつ全然女らしくねえし食い意地ばっか張ってるし俺より弱いし雑魚だしやたら男を誑かす変態だし足だって俺より遅…」
     ぎゅう。言葉の途中で、潔が凛の手の甲をつねった。い…っ握っていた手を離し、凛は勢いよく振り返る。
    「何しやがる潔…」
     と、途中で止まった。
     潔の目は据わっていた。真顔で、凛を見返していた。
     初めて見る潔の表情に、凛は固まる。
    「…悪かったな。女らしくもなくて食い意地ばっかで」
    「…………」
    「でもな、これだけは言わせてもらうけどな…」
     潔は静かに息を吸い込み………ぎらりと双眸を輝かせた。
    「お前より俺の方が強いわばああぁぁぁぁぁか」
     その日、潔家から一日中激しい罵倒と激闘が繰り広げられたという。
     この後の二人がどうなったのか…それはまた次の話で。
     これにて一旦、幕引きである。
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    07tee_

    DONEなんちゃって江戸時代パロ。作者は江戸時代についてほとんど知らないので暖かい目で読んでください。
    潔愛され要素有り。潔がモブに迫られるシーンがあります。
    bllメンツも冴にいちゃもみんなサッカーはやっておりません。剣術やっております。
    受けが息するように女体化してます。男装注意。

    (NEW)凛潔♀️子有り
    時代劇凛潔♀️(三)
     江戸時代某年。三百人の剣客が江戸に集まり、日ノ本で史上初の全国剣豪大会が行われた。
     三百人を退いて優勝したのは、無名の剣客、潔世一。宮本武蔵に次いで、日ノ本一の剣豪の称号を手に入れる。
     その直後、潔世一は消息を絶った。その足取りは誰も知らない。
     それを機に、四年に一度行われるようになったが、潔世一は一度も姿を現さなかった。
     それから、十年の時が過ぎた。
     鎌倉藩の領土内にある町に、ある剣客が訪れた。
     彼の名は、烏旅人である。
     生まれは大阪の商人の一家。長男として生を受けたが、剣客の才能を早くから自覚して、関西一の剣術道場の門を自ら叩いて剣豪の道を志した。十年前の剣豪大会にも出場したのだが、優勝に届かずに敗退した。試合での実力を、名門北辰一刀流に見込まれて、ここ十年は江戸で腕を磨いて、幾度も剣豪大会に挑み続けている。
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