時代劇凛潔♀️(三)一
江戸時代某年。三百人の剣客が江戸に集まり、日ノ本で史上初の全国剣豪大会が行われた。
三百人を退いて優勝したのは、無名の剣客、潔世一。宮本武蔵に次いで、日ノ本一の剣豪の称号を手に入れる。
その直後、潔世一は消息を絶った。その足取りは誰も知らない。
それを機に、四年に一度行われるようになったが、潔世一は一度も姿を現さなかった。
それから、十年の時が過ぎた。
鎌倉藩の領土内にある町に、ある剣客が訪れた。
彼の名は、烏旅人である。
生まれは大阪の商人の一家。長男として生を受けたが、剣客の才能を早くから自覚して、関西一の剣術道場の門を自ら叩いて剣豪の道を志した。十年前の剣豪大会にも出場したのだが、優勝に届かずに敗退した。試合での実力を、名門北辰一刀流に見込まれて、ここ十年は江戸で腕を磨いて、幾度も剣豪大会に挑み続けている。
ひと月前、彼は唐突に江戸の道場を抜けた。こんな片田舎の町に、わざわざ足を延ばしたのだ。彼一人ではなく、二人のお付きとともに。
「やっとか。これで野宿とおさらばや」
「烏ちゃ~ん、俺、温泉入りて~んだけど?烏ちゃんの奢りでな」
「知るかボケ。自分で払えや」
「ふむ。なるほど。この町で一番強い奴を見つけて倒して次の町へ行くんだな?」
「何一つ掠っとらんわ。いい加減黙れや」
そのお付き、というのは、烏が知る中では、難がありすぎて扱いが難しいが剣術においてだけはうってつけの人材を言う。
一人は士道龍聖。一人は剣城斬鉄。彼ら二人も剣豪大会での縁で出会った剣客である。特に士道龍聖は十年続いて優勝候補五本指の一人に数えられている。
山をいくつも超えた烏一行は町へ入り、宿屋を探すよりも先に、とある人物を探した。途中士道が腹減ったから飯屋に行きたいと一人勝手に行動するだの、玩具の屋台を目にした斬鉄が迷子になりかける等の予想外の事態を紙一重で回避しながら、情報を頼りに足を進める。
町の一角にひっそりと営んでいる薬屋、『氷織屋』の戸を無遠慮に開く。
「邪魔するで」
がらり、と開いた向こうには、多量の薬の匂いに囲まれて、談笑する男達…否、剣客が二人いた。
一人は烏一行に目敏く気付いて振り返り、一人は誰もいない方向を見つめたまま静止している。
「氷織くん、今、お客さんが来たのかな?」
「いいや、ユッキー。お客さんじゃああらへんよ」
眼鏡をかけた長身の男と、柔和な双眸の男の二人。彼らもまた、烏と同じ剣客であり、十年来の知己である。
「おうおう、雪宮もおったんか。相変わらずの優男ぶりやのう」
「この声…烏くんだね?一年ぶりぐらいかな?」
眼鏡をかけたうねる黒髪の優男は雪宮剣優といい、女人に見紛う美貌の持ち主の優男は氷織羊と言う。雪宮剣優は十年前の大会からの戦友であり、氷織羊は大阪の剣術道場の後輩にあたる。
「何の用や、烏?」
「烏“君”やろ。お前の生意気な口も相変わらずやのう」
「相変わらずかあかあ喧しい烏やね」
「耳が聞こえんくせしてよう言うわ」
氷織の嫌味な口調も慣れた様子で烏は打ち返す。烏に続いて、士道と斬鉄も店の中に踏み入った。
「ありゃりゃ、これまた久しぶりな面子じゃね?」
「よう!グッドイブニング!」
「それはおやすみの挨拶だよ」
あまり興味の無い士道の後に、間違った外国語を口にした斬鉄を、雪宮がやんわりと訂正を入れる。
「江戸で木刀振るのに忙しいって聞いてた烏が、わざわざこんな町中に来て、何を企んでるん?」
「人聞きの悪いことを言うなや、ど阿呆。遠路はるばる来た先輩に、茶一つでも出さんかい」
と、言いながら遠慮なく店の中にずかずかと入り込んで、氷織と雪宮が談笑していた茶の間に割り込んで、胡坐をかいた。
「烏に出す茶なんて無いわ…と言いたいところやけど、同門のよしみや、仕方ない」
「氷織君…結構辛辣だよね?」
「烏相手に遠慮なんて馬鹿馬鹿しいわ」
「それが先輩に対する態度か後輩?」
このやり取りの間に士道は草履を投げ捨てて畳の上に寝っ転がっており、斬鉄も士道にならって行儀悪く寝っ転がった。知己とは言え、無遠慮を通り過ぎて無礼講であるが、氷織はそちら二人には目をつけなかった。
「茶飲んだらさっさと巣に帰りや」
「無論や。こんな田舎にいつまでもおらへんわ」
「大阪育ちの鳥は言うことが違いますなぁ」
「それはそうと、烏君はどうしてこの町に?」
二人の毒舌合戦の直ぐ近くにいた雪宮が烏のいる方向を耳だけで感知して向く。烏は待ってましたと言わんばかりに、口元を吊り上げた。
「用があるんは、氷織、お前や」
「…何や?また碌でもないことに巻き込むつもりなん?」
「せやから人聞きの悪いことを言わんなや…お前、情報屋も兼ねてんやろ?細部まで聞き出すから覚悟せえ」
「金によるけど…で、何が訊きたいんや?」
烏は好戦的にも似た笑みで、氷織と雪宮に返す。
「――――一難町の黄金伝説」
日ノ本各地には、黄金小判にまつわる伝説がいくつも転がっている。その中で、比較的に新しい伝説が、この隣町の一難町に伝えられている。
一難町は、烏が聞いたところによると、かなり風変りな町である。氷織と雪宮が居を構えるこの町と同じく、鎌倉藩の領土内ではあるが、藩の支配が届いていない、完全に独立した小さな町であるそうな。その町に伝わるのが、黄金小判の伝説である。
「…どこから聞いたんや、その話?」
「乙夜からや。あいつ、今その一難町におるんやってな?」
「まあ、そうやけど…」
氷織は口調の割には涼しい態度で相手にしている。雪宮は虚を突かれた顔で、烏の声に向いている。
「…烏君がそういう話に飛びつくの、意外だね」
「ま、俺かて一生道場で食い扶持繋ごうなんて思っとらんわ…で、どうなんや?伝説はホンマなんか?」
「それは…」
雪宮は顔を動かした。氷織がいる方向に。
雪宮は全盲だ。全盲であるが、剣客としての腕はかなりのもので、この十年の間も大会に出場し続け、惜しいところで優勝を逃している。その雪宮が勝ち続けていたのは、全盲の代わりに得た聴覚と直観によるものである。わずかな音でも的確に拾い上げ、敵の位置を瞬時に聞き分けることができるものだ。烏とは別の名門道場に声をかけられたらしいが、全盲を理由に辞退しており、この何の変哲もない田舎町で穏やかに暮らし続けている。
対して氷織は聴啞である。先天性ではなく、彼の場合は後天性。生まれの環境によるものだ。音が拾えないのに、こうして会話が成り立っているのは、卓越した反射神経と動体視力で相手の唇の動きを読んでいるからである。また、氷織は相手の表情から表層心理を読むことができる。
「…相変わらず、しょうもないことばっか考えとるんやね」
「他人に馬鹿にされようがどうでもええねん、非凡」
氷織は凪いだ双眸で、烏をじっと見つめた。
「……聞こうか」
佇まいを直して正面から向き合う氷織に、烏は己の計画を話し出す。
「…………三代前、突如、小さな町に出現した黄金小判は一人ずつ配られたっちゅう……残りがある筈や。俺はその残りが欲しい!」
拳を握って野心の火を灯す烏の目を、氷織は静かに見つめ、雪宮は思慮深く考え始める。反対に士道は無関心に拍手をして、斬鉄も士道につられて同じ動作をした。
「烏君、それは…」
「やっぱりしょうもないことやったわ。で、それが欲しくてわざわざこんな片田舎まで来たん?ご苦労様やな」
雪宮の言葉を、氷織が言葉をかぶせて遮った。
烏は続ける。
「そんなもん?氷織、お前かて考えた筈やろ…町一つ救った黄金小判が、本当に三百枚ぽっきりやったやろうか?ってな…」
氷織は、ふうん、と相槌を打つ。
「伝説ってのは眉唾に過ぎん。だが、火のない所に煙は立たぬ…黄金小判が見つかった直前、藩主が病死した。この時期、ちいっと怪しいと思わんか?」
「…何が言いたいん?」
「一難町には名医がおったって話やんけ?名医がいながら藩主は没した。こういう可能性は考えられへんか?――――――その黄金小判を発見した侍は、別の場所から小判を盗んだ。そんで、町人に配った。その黄金小判の持ち主は……死んだ藩主のもの、侍は藩主を殺して黄金小判を奪った…てな?」
烏は氷織の反応を伺う。氷織は静かな表情を崩さない。氷織の隣の雪宮の反応も同時に伺う――――雪宮もまた、氷織と同じく静かな表情であった。氷織よりも雪宮の方が感情が表に出やすいのを熟知している烏は、雪宮が氷織と同じ思考に至ってると読む。二人は知っている……一難町の黄金伝説の真実を。
「つまり、そのメイイさんて侍を見つけて勝負するってことだな?」
「それぜってーちげぇ。てか、話まだ終わんないの?温泉行きてえんだけど?」
「黙っとれ阿呆ども」
まるっきり話を理解できていない斬鉄とまるっきり我が道を行く士道を、烏は鋭い一言で黙らせる。
「どや?お前らも同じなんやろ?」
氷織と雪宮程の剣客が、ずっとこの町に居続けている…その理由は、二人もこの伝説を聞き及んでのことだと、烏は睨んでいた。二人の表情を眺めながら、烏は口端を吊り上げる。
何か言いたそうにしている雪宮を、氷織が挙手をして制し、静かに告げる。
「…一つ、勘違いしてるで、烏。僕とユッキーがこの町に来た理由は、そんなものの為とちゃう?」
「…はあん?」
氷織から嘘の気配を感じ取れなかった烏は、怪訝に氷織を睨む。
「僕は、この町に逃げてきたんや。この耳を理由に」
氷織は京出身。両親は武家の出。両親は家系から日ノ本一の侍を誕生させようという願望があり、その期待は全て氷織に注がれた。幼い頃から厳格な教育を受けさせられた氷織は、あと少しで元服を迎えるという時期に、耳が聞こえなくなった。両親は目に見える程落胆した。そんな両親の姿を見るのも耐えられずに、氷織は家を出た。旅の道中で日ノ本で五本指に入る名医がいるという噂を耳にして、一難町にまで辿り着いた。結局、その名医は当の昔に没していた。
雪宮は九州の出である。居合に置いて右に出る者は無しと謳われていた雪宮は、自分の意思で日ノ本一の剣豪を夢見ていたのだが、原因不明の目の病に罹ってしまった。まだ目が見えるうちにと、氷織と同じく一難町の名医を尋ねに行った。結局目は治らなかったが、盲目の戦法を編み出し、更に腕を磨いた。
「この町に来なかったら、僕はとうに死んでた…ユッキーもや。僕らは生かされたんや。小判なんてもんにしがみついてる連中と一緒にせんといてや」
「氷織君に同意するよ。それに、僕はまだ、日ノ本一の剣豪になることを諦めてないからね」
二人の表情が研ぎ澄まされるのを、烏は確かに見た。
「…そうかい。まあええ。お前らの目やら耳やらはどうでもええ。で、俺が聞きたいのは、黄金小判の在りかや。お前ら何か知ってるか?」
烏も気を引き締めて、二人に問う。雪宮が氷織に密かに目で合図を送ったのを見逃さない。斬鉄は腕を組んで頭の上にいくつも疑問符を浮かべ、士道はだらしなく横に寝そべって大きな欠伸をかいた。
「…はあ。結局そこに巻き戻るんか。まあええ。僕と烏の仲や。特別に、これだけ言うとく」
「ははっ。流石俺の後輩や」
「黙れや、烏」
憎まれ口をたたきながら、氷織は告げる。
「黄金小判を探したければ――――潔世一を探せばええ」
間。間。間。
「――――――――――――は?」
烏は目をまん丸にして、思わず声を漏らした。
「聞こえんかったん?潔世一を探すんや。そしたら手がかりはある」
「…ちょいまて、氷織。何でそこで潔世一の名前が出てくるんや?」
潔世一。大阪一の剣豪である烏とて、その名を知らない訳ではない。寧ろよく知っている。十年前の初の大会で戦い、負かされた相手であるからだ。
「何や?知らへんかったんか?一難町は潔君の出身地やで?爪が甘いんとちゃうん?」
「いや、それは知ってたけど…せやけど黄金伝説と潔とは、密接なつながりは無いんとちゃうんか?」
「へえ。烏君にしては察しが悪いね」
雪宮まで皮肉を言う始末で、烏はぐぐっと押し黙った。
「僕から言えるのはそれだけや…あとは自力で何とかしいや」
「待て、氷織待て。その潔世一はもうどこにもおらんて噂で…」
「運が良ければどこかで会えるんとちゃうん?ほな、話はこれでお仕舞や。さっさと宿で休んできいや」
西通りの旅籠屋がおすすめやで。あそこはご飯も美味しいし、内湯も最高や。それでも引き下がらない烏に、氷織は満面の笑みを浮かべて、ぶぶ漬け食わすで?と追い出した。
二
氷織が勧めた旅籠屋に向かう道中、烏は重い肩をぶら下げて、何度も溜息をついた。
「烏…溜息をつくと、生気が逃げるぞ」
「それを言うなら幸せが逃げるやろうが。人の寿命を勝手に縮めるなや阿呆」
「なあ、宿はまだ着かねえの~?」
斬鉄は徹頭徹尾理解が追い付いていないし、士道は完全に興味が無い。氷織のような頼れる仲間がいないこの絶望的な状況に、悲嘆を感じるしか他無かった。
「…で、烏ちゃんのその暗い面は一体何?」
「士道…お前、ほんまに呑気やな?てか、さっきの話聞いてたんか?」
「いんやあ。潔ちゃんを探せってのだけは聞こえたけど?」
それ以外は全く聞いていないらしい。烏は説明することすらも億劫になった。
――――潔世一を探せ。氷織はそう言ったが、それは絶望的な観測だということを、烏は十二分に知っている。
潔世一とは――――現日ノ本一の剣豪の名である。その潔は、優勝したその腕を見込んで、幕府が江戸での役職を用意したのにも関わらず、褒美と共に姿をくらました。その行方は誰も知らない。烏も不審がったものの、それ以上の情報を手に入れることすらできなかった。
「早速難問すぎるやろ…」
烏は額を抑えた。特大の溜息をつきたいのを、ぐっと堪える。
「潔ちゃんねえ~。俺は潔ちゃんの爆発、大好き♡」
「潔世一…そいつをこれから探すってことだな?」
「おう眼鏡、珍しく察しが良いじゃん」
そんな烏の懊悩をよそに明るい士道と斬鉄がなんと羨ましいことか。今日はもう考えるのを止めよ。腹が減ったし身体も疲れたし。今必要なのは休養や。今はたらふく飯が食いたい気分なのである。
「ん?」
空気を感じて、烏は顔を向ける。殺伐とした空気が、この賑やかで和やかな町の中に紛れているのを感じ取った。
続いて、殺気を感じた。甚大の殺気だ。この空気を、烏は十年間に嫌という程に浴びてきた。烏に続いて、斬鉄と烏も感じ取る。
「む?何だ?」
「お?殺し合いか?」
三人は殺気が渦巻く場所へと視線を走らせる。この町にあってはならないものを発している――――巨大な影が二つ。
およそ十間の距離。それでも、その二体の容貌を捉えることができる。そこまでに強烈な持ち主であったのと―――――よくよく見知った面であった。
片や、とんがった頭髪をした筋骨隆々の大男。烏と並ぶ長身である。見てくれだけ見れば堅気でない、やくざの大親分のような出で立ちだ。
「…おい、テメエ、今何言った?」
鋭すぎる三白眼には眼光が走っており、眉間には深い皺を寄せ、眦を下げた睨むその相貌はまるで悪鬼羅刹のごとく。地を這うような低い声色は、噴火寸前の火山を想起させる。腰には太刀と小太刀を差しているが、それが無ければ剣客には見えなかったであろう。その者の名を、烏は知っている。
「馬狼、照英…っ」
全国剣豪大会常連にして、全国五本指に数えられた剣豪である。そして、潔世一に敗北した好敵手の一人。潔世一に対する並々ならぬ因縁を持っている剣豪だ。その相変わらずの猛々しさ…馬狼を危険視していた烏は、思わぬ遭遇に冷や汗を垂らした。
次にそれは戦慄へと変わった。その馬狼照英と対峙している人物を見て、だ。
馬狼と並ぶ長身。鋼の肉体を包み隠す袴姿と、太刀と小太刀。その肉体の上に乗っかっているのは、冷え冷えした相貌である。流れる黒い錦糸の髪に、切れ長の瞳に、長いまつ毛…特に下まつ毛が長い。馬狼が悪鬼羅刹であるのなら、対するこの男は八寒地獄の獄卒だ。
その男は、烏が最も忌避したい剣豪である。潔世一と優勝争いをし、次点に転んだ、最も日ノ本一の剣豪に近い男。その名は。
「糸師……凛……っ」
急に真冬のような寒さが肌を撫でた。それは錯覚に過ぎない。糸師凛から発せられる殺気によるものだ。
どうしてこいつらがここに…これは、一番危険な展開や…っ
どうするか、烏は思考する。何も見なかったことにして逃げるか…否、甚大な殺気に当てられて、身体が停止してしまっている。怖気づいているのではない、高揚しているのである。日ノ本一の剣豪に近い二人を、偶然にも目にしたからだ。
距離が空いていても、馬狼の声が耳朶を通った。二人を取り巻く空気が無音と化したお陰だ。
「…黙ってないで、俺の質問に答えろ、天才下まつ毛……潔が何だって言いやがった…っ」
馬狼の口から出た言葉に、烏は自分の判断が間違ってなかったことに更に高揚した。この男も潔世一を探しているのだ。だが、早合点はしてはいけない。馬狼の目的は違う。馬狼は、消えた潔世一を十年間血眼になって探しているという評判だ。その執念深さは恐れ入る。
そして、その馬狼が相対している糸師凛…この男に関しては、黒い噂が絶えない。
この男も潔世一との再戦に執念を燃やしている…それは噂などではなく、事実。消えた潔世一の代わりに江戸での参内を引き継いだのが、糸師凛であった。これは噂である……潔世一と糸師凛が闇試合を行い、潔世一は糸師凛に葬られたのではないかと、まことしやかに噂されている。烏もその噂の信憑性を感じ取っていた。十年前の決勝戦を目にすれば、嫌でもそう思わざるを得なくなる。
潔世一と糸師凛の決勝戦を間近で見た烏は、今でも鮮明に思い出せる。それほどに熾烈で、それほどに血なまぐさい――――相応しい言葉は、修羅の巷だ。
ごくりと無意識に喉を鳴らす烏の視線の先に、激昂する馬狼とは反対に、糸師凛は氷のような冷たさであった。
「聞こえなかったのか、とんがり頭………」
糸師凛の声は、まるで氷のように冷たい。その声色は、遠くにいても耳によく響いた。
「――――潔世一は俺のものだ。生死も全部。誰にも譲らねえ」
その言葉に予感が走る。これはいよいよ、あの噂も真実味が増してきた。
だったら、潔世一は、もうこの世には――――――?
「…烏ちゃ~ん、まさかひよってる?」
烏の肩を、唐突に士道が叩いた。烏は肩越しに振り向いた。烏と斬鉄ですら硬直するこの凄絶な空気の中で、士道だけが平然としている。否、好戦的に顔を輝かせていた。
「俺は黄金とかどうでもいいが…………こういうのは大好きだぜえ」
士道の目がぎんと見開いたのを見て、しまった、と烏は悪態をついた。
「待て士道…っ」
烏が手で制するが士道は跳ねのけて――――刀を手にかけたまま地を蹴った。
ひゃっはああああああああああああ士道のはしゃいだ声が空気を引き裂く。対峙していた糸師凛と馬狼の目が、突撃をかます士道に向いた。
「てめ…っ」
士道が定めた獲物は、馬狼ではない。抜刀すると同時に刃を、糸師凛に向かって振りかざした。鋼と鋼がぶつかり合う。士道の一太刀を、糸師凛は難なく防いだ。目にも見えない抜刀で。
「お元気でちたか~?お兄ちゃん大好きリンリンちゃんよぉ?」
「どっかで野垂れ死ねば良かったのにな。クソ金髪害虫」
拮抗状態の中で、士道と糸師凛は火花を散らし合った。両者、蟀谷に血管を縮小させて、睨み合った。この二人…士道と糸師凛は、不俱戴天の敵なのである。
そのことを思い出した烏は血の気を引かせた。
「斬鉄士道を止めるぞ」
「任せろ」
この町中で騒動はまずい。烏は斬鉄を連れて士道を止めに入るために駆け込んだ。
と、馬狼の後ろにもう二人、糸師凛の後衛にまた二人と、出現した。
「オシャに、俺、降臨」
「馬狼くん、援護しますよ」
川のように流れる長い黒髪の長身痩躯の男と、前髪で目元を隠した小柄な男。この二人もまた馬狼と同じく剣豪である。前者は蟻生十兵衛、後者は二子一揮。全国剣豪大会の常連だ。
「うわわわ。どうしよう、どうしよう、こんな往生で喧嘩したら迷惑だよね~」
「で、でも、これは仕方ないっす!凛さん、俺らも加勢するっぺ!」
糸師凛の後衛につく二人もまた、よく見知った面々だ。糸師凛と並ぶ長身で、片や弱気な筋肉達磨、片や田舎の方言が目立った真面目男。前者を時光青志、後者を七星虹郎と言う。
「おいおいもっとややこしいことになってんぞ」
「何どこら辺がだ」
「その眼鏡で状況をよく見てみい」
凛と士道はかち合っていた刀を振り払い、互いに間合いを取った。そこに馬狼もまた分け入ろうと刀を抜いた。
「邪魔すんじゃねえ。殺すぞ、ガングロ」
「ひゃっは!いいねいいねこの感じ!爆発しようぜ!」
「どうでもいい。お前らまとめて、俺が殺す」
三つ巴の戦いが、急遽勃発。加速した烏は、士道の背後を取って、羽交い絞めにした。
「斬鉄お前は足元を捕まえ」
「うっす」
「おい、邪魔すんじゃねえ、ぴよ烏」
「阿呆かこんなところで刃傷沙汰起こすなや凛も馬狼も引け」
斬鉄と連携して士道を抑えながら、殺気立つ二人に喚起するも。
「却下」
「俺に命令すんじゃねえ。むしり取るぞ」
時は既に遅し。やはり逃げるべきやった、と悔やんでも遅い。
と。ぴぴい!…場違いな笛の音が、三つ巴の戦場に割り込んだ。
「俺の縄張りで乱闘騒ぎか?いい度胸だな。それ以上荒らすのなら、お縄につけるぞ、馬鹿ども」
ぴぴい。ぴぴい。甲高い笛の音と共に割り込んだ人物によって、殺気が一斉に止まった。
烏は士道を羽交い絞めにした態勢のまま固まった。そして、その人物の登場に驚きを隠せなかった。
「お前……清羅か?」
うねる黒い髪を持った小柄な体躯の男…烏の知己である。名を、清羅刃という。
そしてその清羅に随行する赤い髪の男は、黒名蘭世。喋れないという理由で常に笛を吹いている変わり者であり、潔世一の知己の一人である。
「烏か…どうしてここに?」
「いや、お前かて、何でここに?」
ぴぴい。黒名が笛を吹いて、清羅に合図を送る。清羅は視界を一周させた。
これは幸いと、烏は安堵する。どうして清羅がこんな辺鄙なところにいるのかという謎は置いておいて、この機に乗じて逃げるが勝ちだ。
「丁度ええとこに来たな、清羅。この馬鹿どもをどうにかしてくれや。士道(こいつ)は俺が持ち帰る……」
一刻後。烏は投獄された。斬鉄と士道も漏れなく。
「一晩ここで頭を冷やせ、クソ烏」
「何でやねんこのどチビがあああああああ」
格子の向こうで、黒名と一緒にすんと突っ立っている清羅に噛みつく烏であるが、格子が邪魔して手すらも届かない。斬鉄は何故か素振りを始め、士道に至っては最初は大暴れしていたが飽きて寝ている。
「お前らの騒動で多数の町民が気絶したんだ。一晩ぐらい我慢しろ」
「お前…っこっから出たら覚悟しぃや」
烏の絶叫の合間に、黒名がぴいと笛を吹いた。
「で、何でお前がここにいる?江戸で修練を積んでいたんじゃなかったのか?」
「それは……て、お前こそ何でここにおるやんけ?博多の出やろが自分?」
途中で冷静さを取り戻した烏の問いに、清羅は涼しく構えながら答える。
「俺と黒名(こいつ)は長いことこの町を拠点にしている。この町の用心棒として日銭を稼いでいるんだ」
ぴい。黒名が同意の笛を鳴らす。
「は?そんなん初耳やぞ」
「言う程のことじゃねえだろ。で、お前は何でここに来た?」
それは…と言いかけて、烏は格子の隙間から顔を出して、左右を確認した。清羅と自分ら一行しかいないのを確かめて、声を潜めながら答える。
「俺らは、あるものを目当てにこの町に来た」
「……ていうと、お前らも黄金小判目当てか?」
「おう。話が早くて助かるわ。んでな、さっき氷織と雪宮に会おうたんやけど…」
氷織と雪宮からの話を、烏は清羅と黒名に説明する。斬鉄は居合の稽古に移り、士道はただ寝ている。
「…なるほどな。氷織はそこまで話したのか」
おう。と烏は答える。
「んでな、清羅。俺とお前の仲やんけ。黄金小判の伝説の話、もう少し教えてくれへんか?」
期待を込めて清羅に投げた烏であった、が。清羅は相変わらずの冷めた表情を向けて答える。
「辞めておけ」
「…は?」
「黄金小判なんて諦めて、江戸に帰れ」
ぴい、黒名が同意同意とばかりに笛を吹いた。
「いやいや、ここまで来て今更引き下がれるかって話やろ?それに氷織も認めたで?黄金小判の伝説は本物やって…」
しかし、氷織が言っていた、潔世一を探せ…その言葉が引っかかる。顎に指を引っかけて考え込み始めた烏をじとりと睨んだ清羅は、軽く嘆息した。
「…俺は忠告したぞ。あとはお前の好きにしろ…だが、言っておくが、お前には不可能だ」
「何やねんそれは?」
「俺もこの町が長いからな。お前らのように、黄金小判を目当てに流れ着いた連中を何度も見てきた」
そしてその者らが問題を起こす度にいなしてきたのは、清羅と黒名である。
「お前も奴らのようになるなよ、烏」
「はん!俺を誰やと思ってるんや、ボケ?」
清羅に向かって、挑戦的に烏は笑う。
「…勝手にしろ。明朝にはここを開けてやる…と、俺はお前がむかつくが、お前のことは認めているからな。これだけ言っておく」
踵を返した後、肩越しに振り返りながら、清羅は言い放った。
「潔世一を見つけたければ―――――糸師凛を探せ」
「……………………は?」
おい、待て。と烏は真意を問うが、清羅は黒名を伴って出て行った。
「潔を見つけたければ……糸師凛?」
何で?烏の頭の中で謎が渦巻いた。
「烏。俺達はいつここから出られるんだ?」
烏そっちのけで一汗かいた斬鉄が話しかける。士道は夢の中。烏はそれどころではなく、頭を捻らせた。
三
翌朝。清羅の代わりに黒名が牢を解放した。ぴい。と笛を鳴らして、山の方を指差す。一難町はこの山の向こうだと言いたいのだろうと烏が読み取ると、用が終わったとばかりに俊足の速さで去って行った。
獣道を通り過ぎて、半日ぐらい。山を抜けた烏一行を迎えたのは、これまた小さな町であった。
「ここが一難町か…」
氷織達が住んでいる町よりも更に小規模で、田舎臭い。大きな店が見当たらず、ほとんどが民家だ。
だが、一歩踏み込んだところで、烏は異様さを感じ取った。士道は呑気に温泉だの飯だのとぼやいていて、斬鉄は団子屋を見つけて涎を垂らしている。
「斬鉄、お前、何か感じんか?」
「あの三色団子…食べたいけど、食べたいって言ったら馬鹿っぽいかな?」
「安心せい。お前は馬鹿やない。阿呆や」
烏の皮肉に斬鉄は、本当か!と喜んだ。斬鉄に聞いたのが間違いだったと、烏は後悔した。
「なあ、烏ちゃん」
「飯も温泉も後にせい」
「いやいや違う。今、俺が言いたいのはそこじゃなくて」
士道が珍しく気怠そうに目線を周囲に配りながら、鼻の孔をほじくった。
「この町さ…みんな平等って感じしない?」
「は?何言うとんねん?」
烏は胡乱に士道を睨む。士道は指に乗った鼻くそを息吹いて捨てた。
「あいつも、こいつも、みんな同じ空気を感じる…みんな剣術やってんのかな~て思っただけ」
士道に言われて、烏も周囲を見渡す。屋台寿司を売る者、橋を渡る者、町並みを歩く者、子どもに至るまで…共通する空気のようなものを感じてならない。烏の足元を縫って駆け抜けた子ども数人の指を盗み見ると、指に特有の胼胝……木刀を毎日振るわないとできないものがあった。
「何なんや、この町は?」
どこにでもあるような平凡な町だが、烏の目には異様に映った。得体の知れないものを感じてならない。
「ひとまずは宿や」
「それな!腹が減って死にそう!」
「腹が減っただけでは死なんぞ」
「黙れよ馬鹿眼鏡ぇ~!」
「俺の事をまた馬鹿と言ったな?」
士道と斬鉄が無駄な争いをする前に二人を宥めて、宿を探して町の中を歩き回った。通行人に尋ねると、一難町には宿屋自体が無い…けれど、宿泊を兼ねた大店があると聞きつけたので、言われた通りの道を通って進んだ。
一難町に一つしかない宿を兼ねた店…に辿り着いた烏一行は、その看板を目にして、足を止めた。看板には、『千切屋』とある。
まさか。予感を抱きながら暖簾を潜る。真っ先に現れたのは、可憐な美女…かに見える美青年だ。
「いらっしゃいませ……て、烏?」
烏の予感は的中した。
「やっぱりお前やったんか、赤髪お嬢?」
美女に見紛う美貌の青年が、烏一行の前に立っている。赤い髪を靡かせるその青年は、赤豹の異名を持つ一流剣客。その名は、千切豹馬。彼もまた全国大会で名を馳せた剣豪だ。
「斬鉄!士道!お前らまで来てたのか?」
「ちーっす」
「シーユーアゲイン!」
「それさよならの挨拶な?てか相変わらず馬鹿なのな、お前!」
あははは。珍妙な面子に、千切は笑い声を上げた。
「てかさ、お前らも移住してくんの?この町に」
「んな訳ないやろ、ちょいと観光ついでに来ただけや」
「ん?待て、烏。俺達は黄金の…」
斬鉄が口を滑らせる前に、烏は斬鉄の口を塞いだ。手で。もがもが。顔半分を鷲掴みにされた斬鉄は息ができずに藻掻く。
「ずーっと江戸勤めやったさかい、息抜きの小旅行の最中や」
「ふーん、小旅行ね…」
千切は探るような目で睨むが、ま、いっかと流した。
「うちで休んでけよ。ここに来るの大変だったろ?内湯もあるし、あと少しで夕餉にすっから」
「おう、世話なるわ」
うおっしゃー。とはしゃぐ士道と、痛みが残る顔を擦る斬鉄と共に、千切の店に入った。直後、千切の友人と聞き及んで、千切の母と姉が挨拶に来た。長男そっくりの美人母娘の美貌が千切をからかう材料となった。蛇足。
内湯で汗と疲労を流し、部屋に戻れば地元の産物を存分に使った膳が用意されていた。うめえ、うめえ。と堪能していると、大吟醸を片手に持った千切が乱入し…千切の勝手で酒宴が始まった。大阪と江戸で鍛えた烏であったが、千切は烏を上回る酒豪であった。大吟醸一瓶呑み干しても顔色一つ変えないどころか、次々に持ってくる。斬鉄は下戸なのでお猪口一杯で酔い倒れた。士道もそこそこ強い方であるが、南蛮から取り寄せた赤葡萄酒を一瓶呑み干したところで、畳の上に寝っ転がっていびきをかいていた。
烏も千切に付き合っていたものの限界に近い。だが、千切はお構いましに烏のお猪口に酒を注ぎ続ける。
「んで、お前、何でこんな片田舎まで来たわけ?」
「おかしい。同じ量を呑んでて、どうしてこいつは素面なんや?こいつだけ水でも呑んでるとちゃうんか?」
「心の声漏れてるぞー」
くらくらと頭が酔い始めた烏を観測しながら、千切はくいっと勢いよく呑み干した。
「お前も江戸で随分と活躍してたじゃん?それがどうして折角得た地位を捨てて、こんなところまで?」
千切の声が遠く聞こえる。心臓の音がうるさい。相当酒精が回っている。
「うっさいわぼけ…」
「覇気の欠片もねえじゃん、うける」
「勝手にうけんなや、赤髪お嬢…」
「それはもういいとして、で、何で?」
何で?それは……何でやったか…?
ああ、そうだ。このままだと、欲しいもんが手に入らんかったからや。剣客として優遇されて、師範代にまで登りつめたけど、本当に欲しいものが手に入らないと悟ったからで…得るには大きな代償を払わないといけなかったからだ。今ある地位を捨てること。それが烏が払った代償。斬鉄と士道はただのおまけだ。どうせこの二人は地位に執着していないから、使い勝手が良かった。それだけ。
「ふうん。で、その欲しいもん、てのは?」
「それは……おうごん、こばん……」
――――烏が欲したものは、それ以上の価値があるものだ。
「へえ。お前もね。でも諦めた方がいいぞ?」
「氷織と同じこと言うなや…」
「氷織に会ったのか?」
そっか。千切は空になったお猪口に三本目の大吟醸を注ぎ出した。
「で、氷織は何て?」
「…潔世一を…探せって…」
あかん、眠うなってきた。思考と理性が怪しくなってきている。どうして千切(この男)はまだ平然としていられるのか。
「そこまで話したんなら別にいいけど…でも気をつけろよ。潔を狙ってるの、お前だけじゃねえから」
「んあ?俺のほかにも、おうごんこばん探してる奴、おるんか?」
「今のところお前だけだけど」
千切は、口元につけたお猪口を、くいっと傾けて一呑みした。あれだけ呑んでおいて美味しそうに呑んでやがるのが、却って腹が立つ。
「二回目の全国大会の後にな、凪と玲王がこの町に越してきたんだよ。凪は潔を探しに。玲王は凪を心配して。それから二人で店を作って、ずーっと営んでる。うちにも時折卸しに来るんだよ」
「はあ?あの天才と器用大富豪がか…?」
千切の言葉で、酒精が少しだけ飛んだ。そう。と千切は澄ました表情で続ける。
「凪と玲王だけじゃねえ。一回目の全国大会で戦った奴らのほとんどが、この町に集まってる。馬狼もそうだしな…お前はそうじゃなくて、ちょっと安心したけど」
「何で、あいつらここに集まってるんや?」
怪訝に問う烏に、千切は斜に構えて答える。
「みんな、潔が目当てだよ…それ以外に何があんだよ?」
烏は眉間に皺を寄せて固まった後、大きく溜息をついた。
「どんだけ人を誑かすんや、あの非凡は…」
「まじそれな。それほどの器なんだよ、潔(あいつ)は…」
千切は悟ったような表情である。潔世一と同郷である千切は長い付き合いだから達観できるのであろう。
烏が知る中で、潔世一という剣客は……凡、の一言に尽きる。三百人集められた非凡の剣客の中に紛れた凡……言わば川の中に埋もれる小さな石の一つ。誰の目にも止まることのない、ただの凡才。容姿も華奢な方だったし、糸師凛と比べたらかなり貧相だった。顔立ちだって凡。立ち居振る舞いも凡。お人好しで穏やかなところも凡。だが、人を見る目は凄まじかったし、才能を見抜く点においては、烏を凌駕していた。
非凡だったのは、刀を握った時だ。刀を握ると温厚な気配が消え失せて、先手を先読みし、反撃も許さずに圧倒する…そして、華奢な体躯から醸し出す剣気は、底知れぬ沼のように深く、末恐ろしさすらも抱かせた。
烏も潔世一と戦い、破られた一人だ。最初は凡と侮っていた。どうしてこんな凡が三百人の中から勝ち上がって来たのか不思議で堪らなかった。だが、戦いを重ねると潔世一は急速に成長した。烏の方が体格も全て勝っていた筈なのだが、いつの間にか裏を取られて負かされた。
烏は潔世一を非凡だと認めた。だが、潔世一の才能を認めたのは、烏だけではない。潔世一に負けた剣客全員だ。そうして、潔世一は日ノ本一の剣豪になった。その代償に、潔世一は糸師凛や馬狼照英を始めとして、数多くの剣客に因縁をつけられるようになる。その結果が、消失なのかもしれない。
いいや。潔世一は今はどうでもいい。烏の目的は、潔世一ではない。黄金小判だ。それが欲しい。
酔いが完全に回っている。そろそろ寝る。耐えきれずに、烏も雑魚寝になった。千切が冷え切った目で烏を見下ろしていたのだが、気付くことは無かった。
四
「――――おーい、起きろー、朝だぞ、烏」
眠りの中に漂っていた烏を揺り動かしたのは、目が覚めるような美女…ではなく、千切であった。何で女じゃなくて男に起こされなあかんのや、と八つ当たりしながら烏は緩慢に起き上がった。斬鉄も士道も雑魚寝の真っただ中だったので、足蹴で起こした。
朝餉の後、烏一行は町に繰り出した。小さい町であるがそれなりに活気があって、個が個を重んじ助け合う…そんな信条が垣間見えてならない。どこかしら、潔世一の影が感じてしまう…刀を握っていない人畜無害な方のだ。
昨夜の千切の会話を、烏は覚えている。烏は酒に酔っても記憶が飛ばない体質である。重要な情報が盛りだくさんだった。糸師凛もいて馬狼もいて凪もいて…他にも潔世一の首を狙う輩がわんさかいるのならば、早急に潔世一を探さなければならない。
烏の勘であるが、潔世一は、まだ生きている。どこかで身を潜めている可能性が高い。
それに至った確証は――――氷織だって、千切だって、潔世一が死んでいると、言っていないからにある。二人は潔世一と仲が良かったし、千切は潔世一の同郷だ。だとしたら、所在は知っているであろう。場所を聞き出そうとしたけれど、はぐらかされて逃げられた…自分の力で探してみろ、と挑戦状を叩きつけられている気分であった。
まずは糸師凛。あいつは何か知っている。そう、あいつは…………………めちゃくちゃ気が引けるわー。あまりあいつに関わりとうないねん。特に潔絡みだと滅茶苦茶めんどいねん。重たい溜息がまた漏れたのは無自覚だ。
町を散策しつつも、糸師凛を探す――――そう決めて、烏は足を動かした。町の真ん中にある橋が見えた。大往生の様子だ。そう……。
ん?橋の手前で烏は不思議がって足を止めた。大往生かに見えたが、よくよく見ると奇妙な人だかりができている。その向こうに、見知った人だかりが…。
いた。糸師凛、いた。その人だかりの中心にいたのが糸師凛であった。また何か騒動起こしてんのか?どこに行っても面倒な奴…。
「お?リンリンじゃーん!ひゃっほー!」
士道が飛び出す前に、烏が強めに肩を掴んで止めた。
「待てやこの変態。よく見てみい」
お?士道は大人しく、強靭な背中の向こうにある、対峙する長身の影を見た。斬鉄も同じく。
「凪!玲王!」
凛と対峙していたのは、天賦の才を持つ剣客二人組であった。片や雲のような白髪を遊ばせ、縞柄の着物を流し着して、雰囲気も表情も緩み切った長身の男。片や整った容姿を持ち、利己的さが隠しきれていない、身なりも上等な出で立ちの負けず劣らずの長身の男。前者を凪誠士郎、後者を御影玲王という。二人は斬鉄と同門の出であり、全国大会の折には三人で共に出場した。江戸に残った斬鉄と別れ、二人で武者修行の旅に出たとのことであるが…千切が言っていた通り、当の昔にこの町に辿り着いていたらしい。潔世一目当てで。
「そこどけ」
「やだ」
「頭と耳イカれてんのか?」
「イカれてんのはそっちの方でしょ?」
糸師凛と対峙していたのは、凪の方であった。玲王は凪の傍で傍観しながらも、はらはらしている様子だ。凛は変わらず無表情の仁王立ち。七星と時光とは別行動のようだ。
「時間の無駄なんだよ。退けっつってんだろ。三度目はねえぞ、白いの?」
「別に俺は構わないけど?ここであんたと一戦やっても」
怠惰という言葉を体現したと言っても過言でない男、凪が珍しく双眸に炎を燃え上がらせていた。対する凛は氷のように冷たい眼差しで、凪を睨んでいる。
「凪、ここで暴れるのは不利だ。別の場所に移動しようぜ」
「だってさ。どう怪物?俺に負けるのが怖い?」
凪の眼は凛を離さない。発破をかけられた凛は、鼻を鳴らして一蹴した。
「お前なんざどうでもいいんだよ。絡んでくるのが迷惑だ。失せろ」
「ひっど。あんた友達いないでしょ?」
「ぬりいんだよ。どいつもこいつも。そんなもんに期待かけてっからいつまでもど三流のままなんだよ」
「はあ?凪が何っつった?馬鹿にすんじゃねえぞ、天才」
凪が侮辱されたことで、玲王の癇に障った。一触即発の空気が加速した。今にでも火花を散らしかねない緊迫さが流れている。
「弱いのが二人揃ったところで意味ねえんだよ…邪魔すんな。退くか死ぬか選べ」
凪と玲王の剣気を、凛一人で圧倒する。鳥肌を誘う程の凄まじい剣気が、凛一人から発せられている。蚊帳の外で士道と斬鉄を制していた烏は、その余波を浴びて背中に冷や汗を流した。
「おいおい、こんなとこで怪獣合戦でもおっぱじめるつもりか、あいつら?」
「怪獣!俺は好きだぞ、怪獣!子どもの頃に流行った蜥蜴怪獣とか!」
お前はもう黙っとれや、阿呆。意味を全く理解できていない斬鉄を、たった一言で黙らせた。
「死ぬのはごめんだけど…俺、まだ潔を倒せてないから死ねない。てか、いい加減に話せよ…………―――――潔はどこだよ?」
やる気無いのが定石だった凪の目に鈍い光が迸った。凛の剣気に呑まれることなく、剣気だけで対抗する凪の視線が、凛を射抜く。
対して凛は――――一瞬だけ双眸を怪しく光らせた。
「どいつもこいつも、くだらねえことばっか言いやがって…………潔を倒す殺す潰す?勘違いしてんじゃねえ。あいつはもう――――死んでんだよ。俺がそうさせた」
――――潔世一は、死んだ?俺がそうさせた?
その言葉は、烏に重い衝撃を与える。それが隙となってしまった。拘束していた士道がこれ幸いと強引に烏の束縛を解いた。
「あ」
「愛しのリンリンちゃーん俺と殺し合おうぜーっ」
士道は刀を抜きながら高く跳躍した。士道の殺気を察知した凛が鋭い表情で振り向きながら抜刀の構えに入る。
騒動に群がっていた人だかりが蜘蛛の子のように霧散して出来上がった空間に、士道は着地する。抜いた白刃を肩に乗せて、ゆらりゆらりと立ち上がり、参戦した。
「クソ害虫が、性懲りもねえな」
「爆発、しようぜええええ」
凪そっちのけで、凛と士道が触発寸前になっていたので、烏は叫ぶ。
「待てや、士道」
「士道こんなとこで刀を振り回すな怪我人が出るぞ」
続いて玲王も叫ぶ。
直後。士道と凛の間に濃厚な煙が発生した。ぼん、と盛大な爆発音の後に。発生源に近かった士道は不覚にも吸ってしまい、げほげほと盛大に咳き込んだ。烏と斬鉄は視界すらも奪う濃密に漂う煙を前に立ち往生した。
「ずらかるぞ、烏」
烏の耳元に軽薄な声が響く。振り返れば、耳元に近い距離で、気配も音もなく接近していた、見知った顔があった。
「乙夜」
雰囲気も容姿も軽薄な男の名は、乙夜。烏の元相棒であり、一難町伝説の噂を烏に提供した張本人だ。
「呑気に挨拶してる暇ねえかも。こっちだ」
「ちょい待て!」
声を頼りに士道の襟首を捕まえて、斬鉄を連れて、その場を離脱した。煙を抜けて、町の奥まで逃げ込むと、冷や汗一つかいてない乙夜を睨む。
「乙夜…お前もこの町に来てたんかい?」
「まあねー」
烏の問いに、乙夜は長い前髪を指で遊びながら答える。
「テメエ…俺の爆発の邪魔すんじゃねえぞ、クソ忍者」
「クソは余計。一流と呼んでくれ、悪魔」
乙夜は剣客であると同時に忍者である。ノリで生き、ノリで日ノ本一の剣豪を目指したという一風変わった男であった。
「まあええ、乙夜、ようやった。あんなところでまた騒いで牢屋行きされたら敵わんかったわ」
二度も牢屋で一晩明かすなど、御免被るところだ。乙夜は気にすんなーと軽薄に手を振るが…烏に視線を向ける。
「烏さ…まじでこの町、気を付けた方がいいよー」
「あ?何やその言い方?」
「この町……一筋縄ではいかないって話」
乙夜から珍しく本気の雰囲気が漂っている。その珍しさが、却って緊張を孕ませた。
「どういうことや?」
意味深長なものを感じ取って、烏は乙夜に問う。士道は既に興味が失せており、斬鉄は自分をかっこよく見せようと無駄に眼鏡を押し上げた。
「一難町黄金伝説…これ、まじな話らしいよ?藩に見捨てられて、路頭に迷いかけたこの町を救ったのが、降って湧いて出た小判なんだって。それからこの町…藩の支配も受けずに、町の力だけで守って来たんだって」
藩主の支配を受けない、ということは、自治力だけで運営していく、ということ。それは並大抵のことではない。千に届かない小さな町であったとしても、町の自治力だけで成り立つことは、簡単に聞こえるが困難を極める。
だが、一難町ではそれが成立している。それも四代も。それもこれも、一難町伝説が根底にあるからである。
そしてこの町の特色…それは、町民の自由が認められていること。士農工商という江戸の四民制度がここでは通用しない。農民の出であっても武術を習うことができ、自警団に入ることが出来る…つまりこの一難町は、常識が通用しない場所なのである。
なるほど。乙夜の説明を聞き、烏はこの町に入った時からずっと抱いていた違和感の正体に気付いた。この町のどこもかしこにも感じた統率感は、気のせいではなかった。
「この町にいたければ、二つ注意した方がいいぜ?まず一つは無駄な騒動は起こさない」
そして、もう一つ。乙夜は二本指を立てながら、言い放つ。
「決して、潔世一に危害を加えるな」
「……は?」
烏は瞬発的に目を丸くした。士道も潔の名前に反応し、斬鉄も反応を示した。
「おい忍者。その言い方、まるで潔ちゃんがこの町の神仏みたいな言い方じゃね?」
「それに近いっぽい。俺もよく知らんけど」
「どういうことや、乙夜?」
受け流してはならないものを感じて、烏は問う。
「俺もこの町に来てから知ったけど――――――どうやらその一難町伝説に、潔が関係してあるんだって」
「あ?どういう意味や?」
「黄金を見つけたの……潔のご先祖様。つまり潔は、この町における王なんだってさ」
烏は息を呑む。ようやく、氷織が言っていた言葉の意味を悟った。
そういうことか。この町の中心も、黄金小判も――――潔世一(非凡)が中心ってことか。
無意識に烏は口角を吊り上げた。死闘以外に興味を見せなかった士道も好戦的に笑い、それだけ理解が出来た斬鉄は眼鏡を押し上げた。
「上等やないか…俺は『殺し屋』。最初から王の首を掻っ切る覚悟ぐらいあるわボケ」
「それでこそ烏」
「イキり烏最高♡」
「烏は『殺し屋』だったのか…自首するなら今だぞ?」
「お前らもう黙れやボケども」
乙夜とは直ぐ別れた。別れる寸前、乙夜はよしみだからと、潔を見つける手がかりとなる人物の名を告げた。
「蜂楽を見つけてみ?あいつが一番近いって噂」
家の場所も告げて、乙夜は消えた。瞬き一つで姿が消えた…完全に忍者である。
「どろんぱ!」
「まじどろんぱ」
「あいつ…暇なんか?」
好き好きに言った後、蜂楽の家へと向かう。
蜂楽は、潔の親友の名だ。同郷であり、同門であり、同志の間柄だ。全国大会の常連であり、毎回上位に食い込んでいる癖者……その独特の剣技もそうであるが、振舞や性格もかなりの癖者であった。烏には扱いにくい人材である。
あまり乗り気ではなかったが、目的の為に、烏は士道と斬鉄を連れて、乙夜から聞いた道を行く。橋を迂回しながら町の中を歩くこと暫し。長屋の一角に辿り着いた。
ここか。烏は戸を開いた。たのもう。
――――次の瞬間、極寒の空気が烏一行に襲い掛かった。
何故この春の季節に真冬の風が?違う。極寒に限りなく近い殺気が渦巻いていたからである。部屋のど真ん中から。
部屋の中は大量の紙で埋め尽くされていた。畳の上は紙が散らばりすぎて足の踏み場も無いし、天井にぶら下げた紐にも洗濯のようにぶら下げており、壁にも隙間なく張られている。統一性が感じられず、書いて放っているだけのように見えることから、蜂楽のずぼらさが丸見えだ。
その部屋のど真ん中が、空気の発生源であった。その発生源は――――またもや糸師凛であった。
またお前かい!烏は心中で突っ込みながら、大量の冷や汗をかき、口をあんぐりと開いて固まった。
「なっ…こ、ここは地獄の天井か」
「それを言うなら地獄の一丁目や…」
「リンリンじゃん、さっきぶり~。てかお前もう飽きたわ」
斬鉄は烏と同様に愕然としているが、士道は指で鼻の穴の中をほじって受け流していた。
凛の顔が向いた。その表情は、言葉にすることすら恐ろしい程の形相であった。悪鬼羅刹なんてものじゃない。しかし何故こいつがここに?いや、それよりどうしてこいつ、人んちのど真ん中でぶちギレてんのや?蜂楽はいない…。
「うわああああああんどうしよう、七星くぅん」
「お、落ち着いてっすよ、時光さん」
何故か、時光と七星がいた。時光の手には文があり、二人揃ってその文を覗き込みながらてんやわんやしていた。
「い、潔君が…っ潔君が、悪徳藩主に攫われるなんて、どうしよおお~」
「悪徳藩主、っていうか、それ凛さんのお兄さんっす潔さん、凛さんのお兄さんに攫われたっす何で」
「わかんないよ蜂楽くんの文にそう書かれてたからってしか言えないよぉ~」
…馬鹿二人のお陰で、大体状況は読めた。
「リンリンの兄ちゃんって…冴ちゃん?冴ちゃんいんの?」
興味関心が失せていた士道が、その名前を口にした途端にはしゃぎ出す。
直後、凛が一瞬で士道との間合いを詰めて、胸倉を掴みかかった。
「今、俺の前であいつの名前を口にすんじゃねえ、クソ害虫…っ」
「何々まだ反抗期?それともお兄ちゃんに自慰行為を見られた恨みでもあんのかよ?」
「あ?」
「てかいつまで胸倉掴んでんだよ殺すぞ?」
「やめい、お前ら」
烏が二人に制止の声をかけたところで、慌てふためいていた時光と七星が烏一行に気が付いた。
「烏くう~ん良かった、話の通じる人にやっと会えて~」
「烏さん、大変なことになったっぺ」
「解った、解ったから、お前らいっぺん黙れ」
烏は状況を整理した。
どうやら潔世一は生きているらしい。糸師凛一行が潔世一を探していたところにどうやらその潔世一がかどわかされたと情報が入ったところだろう。
その犯人は、悪徳藩主……とこの町で言われているらしいが、その正体は、糸師凛の兄にして、『日ノ本の至宝』と呼ばれる男、藩主糸師冴、である。
『日ノ本の至宝』とは、日ノ本でも最も至高の武術の腕を持つということから付けられた異名である。その『日ノ本の至宝』は、日ノ本一の剣豪…ではなく、日ノ本一の藩主になるという野望を持っているこの人物は、十年前の全国剣豪大会に突如乱入し、大勢の参加者を蹴散らしただけでなく、容赦なく刀と心をへし折った。その時に士道とも戦ったが、士道はいたく糸師冴に惚れこんだ。準決勝で糸師凛と戦い、弟に僅差で敗けた。
そういえば、一難町は鎌倉藩…糸師冴の領内だった。糸師冴が何故潔世一をかどわかしたのか…考えられるとしたら一つ。糸師冴も狙っている可能性が高い。一難町の黄金小判を。
「…で、お前らはどうしてここにおるんや?」
烏の問いに答えたのは、純朴な七星であった。
「はい!実は俺と時光さんは、凛さんに付いて江戸から出てきました!凛さんの江戸城参勤の年季が明けましたので、潔さんを探してこの町まで来たっす!でも、馬狼さんや凪さんに絡まれて…」
騒ぎを起こす前に回避しながら潔世一を探し回り、その所在を知る可能性が最も高い蜂楽を尋ねたものの本人は留守で。その代わりに、凛宛の封書が用意してあったという。それを一読した凛は鬼すら裸足で逃げ出す程に激昂し、時光と抑えながらその文を読んでみると……そこには、潔世一は預かった。返してほしければ実家に帰ってこい。としたためてあった、と七星は語った。
烏は頭痛を覚えた。やっとのことで、潔世一の手がかりを見つけたと思った矢先に、こんな絵に描いた人攫いが起きようとは、誰が想像し得ただろうか…これも潔世一の人を呼び寄せる運のせいなのか、それとも烏に人生にまたとない大厄日が到来しているだけなのか…いかん、余計なことを考えると頭痛が酷くなっていく。
「あくとくはんしゅ…そうか!灰汁を取るのが上手い藩主ということか!」
「違うっす!」
斬鉄がまたもや意味不明な理解に到達し、七星が突っ込んだ。
「冴ちゃん、ここでは天才じゃなくって悪役演じてんの?」
「さあ?俺と七星君はこの町に来たの初めてで、詳しいことはわからないんだけど…ああ、ごめんね!俺なんかが知ったかぶりなんかしちゃって~!」
「誰もそこまで言ってねえんだけど?」
とりあえずまあ、空気の違うあの四人はさておき。烏は殺意と憎悪を渦巻かせる凛を一瞥する。コロス、コロス、コロス。切れ長の目を血走らせて、うわ言のようにずっと繰り返す凛に近付ける胆力が、烏には無い。正直何も見なかったことにして逃げたい気持ちでいっぱいである。
だが、ここで逃げては、欲しいものは手に入らない。その野心が、烏を奮い立たせた。
「おい非凡!」
呼び止めた途端、凄まじい眼光がぐるんと烏に向いた。全身の肌が粟立って、死の想像が何百通りも頭の中に過る。しかし烏は汗を垂らしながらも、好戦的な笑みを作って誤魔化した。
「取引しようか。俺とお前で」
「…あ?」
たった一音。その一音が、空気に岩のような重みを与える程に重たい。喉の圧迫感に生唾を呑み込むが、悟られないように平然を装う。
「見たところ、俺とお前と、目的は同じと見た。俺は潔世一を探しとる。で、お前も同じ…せやったら、ここは手を組もうやないか?」
手を差し伸べて、取引を持ち込む。凛の眉間に深い皺が生まれ、瞳孔が見開いた。
「くだらねえ話がしてえなら潰すぞ?」
凛の殺気がどんどん膨れ上がっていってる。言葉選びを一つでも間違えてしまったら首が飛びかねない。それほどの殺気。
「せやな。お互いに腹を割って話そうやないかい…俺は、伝説の黄金小判が欲しい。潔世一はどうでもええ。悪徳藩主から取り戻したら、あとはお前の好きにしたらええ」
「…お前ら虫程度がわらわら集まったところで、門前で潰されるのがおちだろ。てめえらの助力なんざ、微塵も欲しくねえ」
「へえ。言ってくれんじゃん、リンリンちゃんよぉ」
凛の返しに怒り心頭の士道を抑制しながら、烏は続ける。
「せやけどな、お前かて、あの天才の兄ちゃんの実力がどれほどのもんか、よおく知っとるやろ?何も手を取り合って一緒に戦いましょうって言ってるとちゃう。互いに利用し合おうってことや。俺かてお前らが殺されかかっても助けへんし、逆も然りや。乗り込むなら大勢で乗り込んだ方が、派手で動きやすいってことだけや」
どうや?俺と手を組むと言え。眼光を迸らせる凛を烏は睨む。睨み返していた凛から、軽い嘆息が吐いた。
「……好きにしろ。精々俺の死に役となれ」
「はは、それはこっちの台詞や」
大量に冷や汗をかいたが、糸師凛という切り札を得たこの状況に、烏はひそかに拳を握り込んだ。
五
全国剣豪大会の準優勝者(糸師凛)と優勝候補(士道)が揃った時点で、この戦は勝ったも同然だと、烏はほくそ笑んだ。その烏の予想は――――烏の想像を超えて的中する。
城に到着するなり、初手は正面からの突撃突破。強固の城門を凛と士道が同時に蹴破り、堂々の侵入するなり湧いて出てくる藩士らを千切っては投げ千切っては投げていき、屍の山をどんどん積み重ねていった。烏と斬鉄、時光と七星は後から湧いて出てきた守衛を相手にするだけで、特に大きな活躍も無く侵入に成功したのだった。
凛と士道(こいつら)が揃うだけでこんなに楽だったなら最初から誘っておけばよかった、と烏は感慨に耽てしまう。それぐらいに余裕があった。ありすぎた、が正しいかもしれない。
「ひゃっはあああ俺の爆発に、付いてこれるかあ」
「黙れクソ害虫。テメエは俺の支配下に下れ」
いつ衝突してもおかしくないが、一度味方にしてしまえば、これほど心強いとは思いも寄らなかった。今の烏はまさに鬼に金棒であった。
凛と士道という鬼神二体のお陰で易々と、城の最上階に辿り着くことができた。ここまですんなりと来れたのが不思議な程だ。
「んだ~?もうここで終わりかあ~?案外つまんねえなあ」
士道も凛も全く疲労していない。大きく欠伸をかいた士道を傍目に、烏は神経を研ぎ澄ませた。
「士道、気を張れや」
「あ?」
「ここはあの『日ノ本の至宝』の城やぞ…その藩主の姿が、どこにもあらへん」
烏だけじゃない。凛も警戒している。烏の言葉に、斬鉄、七星と時光も警戒した。
「おおお~い!冴ちゃ~ん!あっそびまっしょー!」
「おま、遊びに来たんとちゃうぞ。気を引き締めって言うとるやろうがい…」
刹那。
「―――――黙れ」
研ぎ澄まされた白刃のような澄んだ声が鋭く響いた。
刹那の無音の後、千年鶴と万年亀が描かれた金箔の襖が静かに開かれた。
姿を視認するより先に、殺気が肌を撫でた。凛が氷のような殺意であるなら、これは極限までに研ぎ澄まされた鋼の切っ先…刀のような殺意であった。
「俺の家に土足で何の用だ、てめえら?」
静かな足運びで現れたその人物に、全員の視線が集中する。
来よった。烏は額に冷や汗を一筋流した。
凛に似た相貌、上等な着物で包まれた長身の体躯、醸し出される王の覇気。その手には刀が握られている。無の姿勢であるが隙が無い…この目の前の人物に隙なんてものは端から存在しない。
糸師冴。『日ノ本の至宝』と呼ばれる武の天才。糸師凛の兄。
「凛…友達連れてくんなら一報入れろ」
「あ?友達じゃねえよこいつらは。テメエを殺す為に用意した道具だ」
いやそれもちゃう…。殺伐とした空気の中で始まった兄弟の会話に烏は突っ込みを入れたがったが、糸師冴を目にした途端に血走った凛の目を見て、無意識に口を噤んだ。
「冴ちゃあああああん会いたかった~~~~~」
一人だけこの空気に感化されていない士道が顔を輝かせて、糸師冴に飛びついた。が、糸師冴に触れる前に士道の身体が宙に飛んだ。糸師冴が凛に視線を固定したまま手に持っていた納刀を振り上げて、士道の顎を下から強打した。鈍い音が重く響きながら、士道の身体が上下逆さまに飛んで、頭から畳に直撃した。
「今は弟(こいつ)と話してんだ。待てだ、クソ悪魔」
痛ててて…。強打した後頭部を擦りながら身体を起こそうとする士道を一瞥して、烏はごくりと生唾を呑み込む。あの士道が赤子扱い。糸師冴(こいつ)化け物か。
「…で?道具という割には木の棒よりも役に立たない雑魚連れて。俺に言うことは?」
「絶対に殺す。クソ兄貴」
凛の顔が憎悪に歪んだ。どうしたら実の兄弟相手にそんな顔ができるのか、不思議で堪らない。斬鉄や、七星と時光ですら顔面蒼白だ。
「そう言って未だに俺を殺せてない当たり、まだぬりいな、凛」
「黙れ。殺す」
「さっきからそればっかだな。ガキからまたやり直してこい、知能底辺馬鹿弟」
なんやのこの兄弟さっきから。お前ら揃って口悪。兄弟に向かってそりゃないやろ。烏は心の中で盛大に突っ込んだ。
「おうおう、天才…ちと悪いが、少し口挟ませてもらうで?」
胆力を絞り出して、兄弟喧嘩の間に割り込んだ烏であったが。
「黙れ二流雑魚剣客。気安く俺に口利くんじゃねえ」
「クソ鳥は邪魔すんな。今は兄弟喧嘩の真っ最中なんだよ」
二方向から容赦のない罵倒と殺気が向けられて、背中にたくさんの汗を流す。
「おい凛、契約忘れんなや……糸師冴、これ以上あんたの領地を荒らされたくなければ、俺らの要求を呑んでもらうで?あんたが攫った潔世一を俺らに渡せ。そうしたらここから去ってやる」
言い放った途端に、喉元に切っ先が突き付けられたような錯覚に襲われた。糸師冴から放たれた明確な殺気によるものであった。
「あ?何ほざいてんだ二流。一生口が利けねえように口ン中のもんを全部切り刻むぞ?」
開いた瞳孔が烏に向けられる。キレてるやん。何が地雷だったのか意味不明やん。何なんこの兄弟。まじでおっかないわ。
「…いい加減にしやがれ、クソ兄貴……潔はテメエのもんじゃねえんだよ」
烏を押しのけた凛が、糸師冴に激昂の矛先を向けて唸る。極寒の殺意が泥沼のような重量のあるそれへと変化する。弟からの本気の殺意を受けても尚、糸師冴は顔色一つ変えるどころか、嘆息を漏らす。
「お前がそれを言うか、愚弟。どうやらお前には再教育が必要だな」
「殺す。殺す、コロス、コロス…っ」
両者の殺気がぶつかった。すでに場は、凛と糸師冴の戦いとなっている。烏らは完全に蚊帳の外だ。
「待て、凛」
烏が制止の声を上げるも雑音のようにかき消され。凛と糸師冴、同時に強く踏み込んだ―――――。
――――――――――――直後。右方向にあった襖が、すぱん!と開かれた。
音に反応して凛と冴が真っ先に視線を向け、遅れて烏も振り向く。斬鉄、七星、時光、それから起き上がった士道も同時。
何もいない……と思われたが、視線を下に傾けると――――――袴姿の童が仁王立ちになっていた。幼いその顔立ちは、潔世一に似ていた。
「―――――――喧嘩、両成敗~~~~~~~~~~~」
甲高い幼子の声が響き渡る。
は?と思考が一瞬だけ止まったのと同時に、凛と糸師冴が急停止した。旋回したかと思うと…二人同時にその幼子に駆け寄った。
「無事かいじわるされてないか、このクソあに、ごふっ」
「向こうで遊んでろって言っただろ?」
…この一瞬で殺伐とした空気が霧散した。
「…………………………………………………………………は?」
状況がまるっきり読めなくて硬直する面々を放って、さっきまでの兄弟喧嘩なんて無かったかのように幼子に構い始めている。
衝撃過ぎる光景だった。あの鬼ですら裸足で逃げると評判の糸師凛と糸師冴が、幼子に和らいだ雰囲気で接している。糸師冴に至っては懐から饅頭を出して幼子に食べさせてやってる始末…おじいちゃんと孫みたいだと思った。
ていうか誰だあの子ども?潔世一に似てる……だがよく見ると、下のまつ毛が長い…。え?
「おとうさんだ~!」
「おとうさん、おかえり~!」
「おとうさんだっこ~!」
また複数声がしたかと思ったら、似たような女の子二人と男の子が湧いて出て来て、片膝をついて低姿勢になっている凛に抱き着いた。凛は邪険にすることなく、子ども達を受け止めた。ついでに一番小さい女の子を糸師冴がひょいと抱えて膝に抱えた。
「世一は?」
凛が幼子らに問うた。聞いたこともないぐらいに柔らかい声色で。柔らかすぎてこいつ誰?と疑う程であった。
よっちゃんはねえ~。と幼子らが嬉々として駆け寄って来た方向に指を差す。
「凛、おかえり~」
そしてその和やかな空気を更に和ませる声が現れる。
新橋色の小袖を着て現れた女人が、子どもに囲まれた凛に歩み寄った後、硬直する烏らに青の目を向けた。
「はえ烏士道、斬鉄、七星に時光みんな何でここに?」
声も、相貌も、青の目も、潔世一だった。だが、その恰好は、烏が知る潔世一では無い――――完全に女人の姿をしていた。
「――――――――――――――――――――――――――――は?」
今日一番の衝撃に襲われた。
終
むかしむかし、と言っても、そこまでむかしではない、最近のこと。
若き藩主の糸師冴は、剣術一辺倒の弟を持て余していたところ、一難町のとある娘を見初めて、弟を娘の婿養子にと申し立てた。
これに、勝手なことをしやがって、と腹を立てた弟…糸師凛は、白紙に戻すようにと反発したが、あれよこれよと言っているうちに娘…潔世一と恋に落ちてしまい、婿養子となった。
夫婦になって直ぐに二人で武者修行に出たわけであるが、潔世一の恩師から江戸全国剣豪大会開催の一報を受け取って、別の姓で出場することとなった。決勝戦で凄絶な死闘を繰り広げた結果、潔世一が優勝を果たした。
潔世一に優勝の賞金と江戸でのお勤めが与えられたのだが、この時、潔世一の腹に夫との子が宿っていたことが発覚した。
潔世一は母となることを選び、賞金と日ノ本一の剣豪の称号を持って帰り、糸師凛は夫として妻の代わりに江戸でのお役目を全うすることを選んだ。
潔世一が女傑であることはほとんど知られていなかったのもあり、潔世一は忽然と消えたこととなってしまって、根も葉もない噂ばかりが広がった。そして、糸師凛の言動が……言葉足らずな発言の数々が、噂に信憑性を持たせてしまったのだ。
これには糸師凛はかく宣う。
「間違ったこと言った覚えはねえ。潔世一(こいつ)は俺の妻(もん)だ。潔(こいつ)の人生(いのち)が夫(おれ)のもんなのは間違いねえだろ」
これが事の真相である。
これを知っているのは、一難町に住む潔の仲間と、隣町で居を構える氷織、雪宮、黒名、清羅。そして義兄である糸師冴である。
江戸で妻の代わりにお勤めを全うしていた糸師凛改め潔凛は、年に数回は一難町に帰って、妻と子どもを愛する良き父に様変わりしている。
ほとんど家に居ない凛の代わりに、糸師冴は頻繁に子ども達の遊び相手となり、面倒見の良い叔父になっていた。市井では悪徳藩主と称されているが、藩主の務めをサボって潔家に入り浸っていてないで仕事をしろの意味を含めての名称である。
…と、潔世一の消失の真相が明かされたところで、肝心の伝説の黄金小判についての真相を問い正した。
結果を先に記述すると―――――――――黄金小判は一枚も残っていなかった。
潔世一曰く。
「あ~、それね。よく言われるけど、うちには一枚も残ってないんだよね。俺の曾じいちゃんと曾ばあちゃんが町のみんなに全部配っちゃったから、全然残ってないんだよ。ごめんな」
合掌して謝る潔世一に、烏はそれでもと食いつないだ。その黄金小判の出処は、当時の藩主のものであった可能性が高い。三百枚以上はあった筈だ、と。
これを否定したのは、糸師冴である。
「んなわけねえだろタコ。当時の藩の財政は枯渇してたんだぞ。小判どころか銭すらも残ってねえ状況だったんだ。根拠もねえのに勝手に嘯いてんじゃねえ」
烏の徒労は水の泡と化した。
空は青い。雲は白い。太陽は赤い……いや、太陽も白やった。赤って言ったら蜂楽が違うよ太陽は白だよと喧しかった。烏は無人の往生のど真ん中でぼうっと空を見上げていた。
結局全部振り出しか。ざっくざくの黄金小判を求めて遠路はるばるこんな片田舎まで足を運んだというのに、伝説はただの伝説に過ぎなかった、という結論で終わってしまった。
烏は一人になっていた。お供だった士道は冴にお熱を再発して付きまとっている。斬鉄は玲王と凪と再会して、三人で一旗揚げることになったらしい。
これからどうしようか…。日ノ本にはまだたくさんの黄金伝説が散らばっている。それを一つ一つ潰していくとなると、途方が無いのは目に見えている。それだったら、堅実に金を積む方が現実的だ。
そもそもの話、俺みたいな才能の無い人間が、一攫千金を狙うこと自体が身の程知らずだったんやろうか…全部諦めて大阪に帰ったろうかな、とまで思考がぼんやりと浮いてしまう。
「あ、いた!烏!」
背後から耳通りの良い声が聞こえて、眉間に小さな皺を作りながら振り返った。いろんな人間を誑かして振り回す元凶、潔世一が小走りで烏に近寄った。小袖ではなく、質素な袴姿でだ。恰好一つ変わっても印象が変わらないというか、その童顔は十年前と何一つ変わってないのはいっそ怪談である。
「何や非凡。今の俺に話しかけてくるんやない。慰めなら結構や」
冷たい口調で突き放して、そのまま背を向けて、烏は去ろうとした。
「…烏が黄金小判が欲しかったの、武士になりたかったからじゃない?」
潔の声に、足が勝手に止まった。
そうだった。潔世一(こいつ)は、非凡なくらいに人の顔色を伺うのが得意で、非凡に鋭すぎたことを、今になって思い出した。
「……子は親を選べられへん。だけど、金次第では、身分を変えることが出来る。俺の家は商人やけど、金をたくさん積めば、どっかの金好きの養子になれる可能性はあるやろ」
烏が欲しかったのは身分だ。もっと言えば、武士という生き様が欲しかった。
剣術の道を行く者は誰だって憧れる。質実剛健の様に。不撓不屈の生き様に。憧れない筈は無い。烏も幼い時分から抱いた憧れを、今もずっと抱いて生きている。
一商人の子が武士になる。そんな大それた夢を叶えるためにひたむきに努力を続けた。
「けど、俺には向いてなかったんや。凡は凡らしく、相応に生きろということや」
じゃあな、さよならさん。長い腕を振って、これで最後にと、烏は暗に告げる。大阪に帰って、身分相応の生活を送ろう…一からやり直すことなど、もう不可能だ。
「…………諦めるのはまだ早いんじゃない?」
「喧しい非凡。さっさと帰って旦那の機嫌取りしてこいや」
これで最後…と切り上げたいのに、潔世一はしつこく食い下がってくる。そういえばこいつは諦めが悪かった。だから潔世一(こいつ)は、日ノ本一の剣豪なんて大層な夢を叶えることが出来たのだ。
「実はさ…冴が藩士が欲しいんだって」
「………………は?」
間を置いて、烏は足を止めて、思わず振り返る。
「強くて頭がキレる有能な人材を探してるんだって。そういう人がいたら、身分関係なく藩士に召し上げるって言ってた。烏にぴったりじゃない?」
口元を小さく吊り上げて、不敵にも似た笑みを向ける潔から目が離せなかった。言われた言葉を頭の中で整理して、咀嚼して飲み込む。
「……待てや非凡。それってつまり、俺にあの我儘大魔王兄貴の手駒になれっちゅうんか」
「まあ、間違ってないかも…でも、烏の夢も叶うし、冴の『日ノ本一の藩主』になるって夢も叶うし、お互いに好条件じゃない?若くて有能な人材が山ほどいるんだって。七星と時光も冴に着くってさ」
そもそも七星と時光が凛に同行していたのは、新しい職探しの為であったらしい。凛は二人の職探しの手伝いをするつもりはさらさら無かったらしいが。
「馬狼も定着してきたし、凪と玲王も新しい商売始めるって言ってたし、この町はもっと大きくなる…どう?」
大きなまん丸い目が覗き込むように窺ってくる。内面を見透かすような視線に、烏は居心地の悪いものを感じ取った。
確かに身分が与えられるなら何だって支払おう。だが、あの糸師冴の部下になるというのが、多大なる徒労の予感を感じてならない。しかも士道を筆頭に一筋縄ではいかない強者の面々を相手にしていく……考えただけでも臓物が破裂しそうだ。そこが烏を逡巡させる。が、それを打ち壊すのが、潔世一だ。
「それとも烏の夢ってその程度なん?」
純粋な表情でそうと言われてしまったら、後にも引けないものだ。
「上等や。やったろうやないかい」
潔世一は微笑んだ。烏ならそう答えるだろうと思っていたのだろう。そんな笑い方だった。
後に、烏は思い返した。
全部が潔世一の筋書きだったのではないか、と。