ミズヒヨお初「お邪魔します」
ドキドキと足を踏み入れると、「お茶をいれるから楽にしていて」と告げてキッチンに消えたミズキさんに、けれども落ち着かずにその場に立ち尽くす。
(本当にミズキさんの部屋に来ちゃった……!)
いつかは行ってみたいと思っていた恋人の部屋。でもいつも「それは僕の性別を確かめたいってことかな?」と揶揄され、真っ赤になって流されてしまっていたから、今日こそはと特別なこの日を有効活用したのだった。
(やっぱり素敵……)
品のある調度類に、綺麗に整頓された室内。
突然行きたいと言ったにも関わらず整えられている様は常からそうである証で、高揚しながら室内をつい見渡してしまう。
一人で住むには広すぎるのは、以前お兄さんと二人で住んでいたからだろう。
ヒサトさんもDEAD ENDから回復させられたが、異世界人として長くあの世界にいたからか、やはり他の人のようにすんなりと日常生活に戻ることは叶わず、いまだ病院で治療を受けていた。だからこの部屋はまだミズキさん一人だけ。お兄さんが自らキャストとなって消えたあの日から、どんな思いで過ごしていたのだろうと思うと胸が痛んだ。
「そんなに僕の部屋は面白い?」
「……! ご、ごめんなさい。ジロジロ見て」
「いいよ。ただそんなに君の興味をひくものがあったかと気になって」
「……あります。恋人の部屋に初めて来たんですから」
ドキドキと、この部屋を訪れてから収まることのない高鳴りに胸元でぎゅっと手を握ると、やんわりと肩を抱かれて耳元に吐息がかかる。
「……そうだね。僕も少しだけ緊張してるよ」
「え?」
「――この部屋に来たがったのは、もしかして君が僕を受け入れてくれる気になったからかな?」
「……」
「なんてね。いきなりとって食べたりはしないから大丈夫。さあ、座って」
唇に笑みをのせてソファへ促されて、一層早まった鼓動に顔を赤らめながらおずおずと身を沈める。
「さあ、どうぞ。ここの珈琲はおすすめなんだ」
「ありがとうございます」
こだわりのあるミズキさんのことだから、このコーヒーもきっと豆から引いたのだろうと、カフェの珈琲に負けず劣らずの薫りを感じながらカップに口をつける。
「美味しいです!」
「君のお気に召して良かったよ」
私用にミルクと砂糖をあらかじめ調整していれてくれた珈琲は少しだけ懐かしくて、ほわりと胸が暖かくなる。
「こうして君に珈琲をいれるのも久しぶりだね」
何気ない呟きはミズキさんも同じように「あの時」を思い出していたことがわかって、共有する記憶に少しだけ意識を過去に向ける。
ミズキさんと私は、異世界で五年の日々を過ごした。決して短くないその時間に挫けず、目的を達成できたのはミズキさんが側にいてくれたから。
「……帰ってきて驚きました。まさか時間の流れが違うなんて」
「そうだね。まあ、浦島太郎にならなかったのはありがたいかな」
そう、確かに五年の時が過ぎていたはずなのに、戻ってきたらその半分ほどの二年だったことには驚いた。
それでも、同級生達はすでに卒業していて、一学年下だったトモセくんが上級生なのだから、確かに時間は過ぎているのだろう。
「学校はどう? 困ったことはない?」
「留年したことを周りも知っているので、腫れ物扱いのようなところもありますけど大丈夫です。それにトモセくんも凝部くんもいますから」
二年生になってから一度も学校に行っていなかった凝部くんは、獲端くんのおかげでまた来るようになったらしいが、やはり出席日数が足らず一年留年していた。
「凝部くんたら『留年仲間だね☆』とか笑って言うんですよ。何だかんだとトモセくんとも仲良くなってますし」
言い回しには苦笑させられることも多いが、さりげなく様子を見に来てくれたりと救いにもなっていた。そう微笑んで報告すると、ふわりと髪が浮遊して。
「他の男の話をそんな楽しそうに話されたら妬いてしまうね」
「……っ、ミズキさんが聞いたんじゃないですか」
コーヒーカップをテーブルに置いたのをちゃんと確認して引き寄せたミズキさんに、一気に縮まった距離にドキドキと鼓動が早まる。
いつも外で会っていたから、こうして触れ合うことはあまりなく、伝わる温もりに緊張する。
「そうだね。だけど君は少し学ぶべきかな。恋人の部屋で他の異性の話をした場合にどうなるのか」
耳元の囁きに、そのまま髪をかきあげられて唇が触れる。その感触に無意識に逃げようとする身体はしっかりと押さえられて、ふっとかかった吐息に肩が震えた。そして――。
「……っ!」
濡れた感触に身体が跳ねると、舐ぶる水音が鼓膜にダイレクトに響く。さっきよりも強く逃げに入るが、それほど強く押さえられてるようには思えないのに、肩にかけられた腕を振り払えなくて、間近に聞こえる水音と湿った温い舌の感触に身を震わせることしか出来なかった。
「あ……や……んっ」
膝が震えて、傍らのコーヒーカップがカタカタと震える。そのカップと受け皿が触れ合う耳障りな音が、飛びかける意識をかろうじて繋ぎ止めていた。
ペロリと、一舐めして離れたミズキさんに、身体の力が抜ける。そのまま倒れるように隣に座るミズキさんに寄りかかると、くすりと笑う声がして、「君には少し刺激が強すぎたかな?」と呟かれる。
「あまり油断しているとこうして悪い狼に食べられるってわかったかな?」
「……わかりません」
揶揄する響きに唇を尖らせるとミズキさんを見上げて、ぐいっとその距離を縮める。触れた柔らかな唇は少しの荒れもなくて、こんなところも完璧なミズキさんに敵う気なんてしないけれど、一つだけはちゃんとわかってほしかった。
「悪い狼なんてここにはいません。いるのは私の大好きなミズキさんです。もしもミズキさんが狼だって言うのなら、私は知らずに食べられる赤ずきんではないんですよ」
もう一度口づけて、ミズキさんを見つめる。
恥ずかしい。すごく恥ずかしいが、伝えなければ変わらないから。
「……君は勇敢だね。久しぶりにカウンターを食らったよ」
一瞬目を見開いて驚くも、すぐにいつもの表情に戻ったミズキさんがふふっと微笑む。本当に綺麗な人だと感心するが、今日は流されないと気をはって目の前の愛しい人を見続ける。
「それでは僕の彼女は自分から僕の性別を確かめにきたのかな?」
「そ、そうです」
恥ずかしい。恥ずかしいが、決めていただろうと自分に発破をかける。
そう、私はまだ学生だけれど、法の改正で一応は成人していた。結婚はまだ親の許可を得なければ出来ないが、ミズキさんとずっと歩いていきたいという誓いはすでに以前たてていた。
「嬉しいよ」
微笑み頬に触れる指先に、ドキドキと鼓動は壊れんばかりに早鐘を打つ。
「でも、無理することはないんだよ? 向こうで5年も待ったんだ。もう数年待つぐらいどうってことはないんだから」
「ミズキさんは待てても私は無理、です」
側にいれば触れたくて、自分にも触れて欲しくて。そんな欲求を抱くなんて恥ずかしくて戸惑いもした。こんないやらしい子だったかと、泣きたくもなった。けれどもその欲求を抑えることはできなくて、誕生日である今日、実行することにしたのだ。
黙って聞いていたミズキさんは、頬から指先を唇に移すとそっと撫でる。
「……本当に後悔しない?」
「はい」
声が震えてしまうのは止められなかったがはっきりと頷くと、ミズキさんが目を伏せる。流れる沈黙が耐え難く、名前を口にしようとした瞬間抱き寄せられて。「ベッドに行こうか」と囁かれた。
手を引かれて踏み入れた寝室のベッドはきちんと整えられていて、ダークグレーの落ち着いた色合いにミズキさんの寝室であることを意識する。
導かれるままにミズキさんと共にベッドに腰かけると、スプリングの軋む音が現状を認識させて小さく身体が震えた。
「……怖い?」
問いかけに首を振ろうとして……素直に頷く。こうした経験などないからどうしても緊張してしまうし、正直わからないから不安でもあった。
「今なら止めてあげる。でも、その後はもう無理だよ」
「…………っ」
決断を促されてゆらゆら瞳が揺れる。
不安。戸惑い。様々な思いが胸に渦巻くが、ただひとつ揺らがない思いにきゅっと拳を握る。
「止めたくないです。ミズキさんに触れ……」
覚悟を決めてミズキさんを見ると唇に指が触れて、その先の言葉を封じられる。
「好きだよ。だから君を僕に頂戴?」
僕から言わせて? とばかりに紡がれた言葉に頬を赤らめると、小さく首を傾げることで諾を伝えた。