昔の話 まだ残っていたのか。懐かしい。特別大切に保管していたわけでもないのに、案外きれいに残っているものだ。
所々端が折れ曲がって古びてはいるが、ずっと仕舞いっぱなしだったためにほとんど劣化はしていない。日の光に晒されていなかったためもあるだろう。
一生懸命に書かれたであろう墨跡を目で辿って、風息は朧になりかけた面影を思った。
コンコンとドアをノックする音で現実に引き戻された。一拍遅れで応じると、無限が風呂上がりの洗い髪のまま顔を出した。
術を使えば水分をとばすこともできるのに、案外ものぐさなこの男は、長い髪を冬でもちゃんと乾かさずに寝てしまうことがある。
風息が珍しく机の前に座っているのを意外に思ったらしい。小さく瞬きをして、口を開いた。
「邪魔したか」
「いや、全然」
構わない、入ってと促すと無限の後ろでドアが閉まる。
端まで歩くのに数歩もかからない部屋だ。机の前まで来た無限の視線が、座ったまま振り向いた自分の後ろにちらりと向けられ、慌てて逸らされたのが分かった。
「これは、」
「いや、いい」
風息の言葉を遮った無限は、できるだけ机上のものを視界に入れないよう努めているようだった。
一応しつらえてはあるものの、滅多に使わない机の上に広げていたのは随分古びた手紙で、どう見ても最近のものではないことは明らかだ。普段書き物などしない恋人がそんなものを前にしていれば、無限でなくてもわけありだと思うだろう。もしも逆の立場なら、詮索しないでいる自信がない。
だが、無限はそれには触れないことにしたようだった。
「急な任務で、明日朝から出かけることになった。おそらく一週間ほどで帰れると思うが……。すまない。今度埋め合わせをさせてほしい」
明日は珍しく二人で出かける約束があったのだ。申し訳なさそうな、伺うような視線が投げかけられる。
開け放った窓から入ってくる虫の声が一瞬の沈黙を大げさに感じさせた気がして、慌てて言葉を発する。
「そっか、わかった」
もちろん面白くはないけれど、こんなことは初めてではない。
別に大した用事ではなくても、久しぶりに一緒に出かけるのを楽しみにしていたのに。自分だけなのだろうか、と拗ねたような気持ちが心の底に溜まるのを、風息は努めて見ないようにした。
……いや、本当は分かっている。無限のところに依頼が来た時点で、たいがい他の者の手には終えない案件だ。それが分かっているから、無限も断れない。だから、無限の枷にならないように。
「すまない」
「別に。また今度な」
声にも表情にも出さないように気をつけたつもりだ。目線も下げないで、なんでもない風に。
「分かった、明日は朝早いから、寝ていて良いよ」
「言われなくても、そうさせてもらう」
朝飯作らないからなと笑うと、無限の表情に安堵の色が浮かんだ。どうやら上手くいったようだとほっとする。
「うん、おやすみ」
「おやすみ」
風息の言葉に頷く無限の表情は柔らかだった。なのに、踵を返して部屋を出ていこうとする、その背中を見たら、急に何だか堪らなくなった。せっかく上手くいったのにという思いが頭を掠めたが、止められなかった。
弾かれたように立ち上がって、無限の二の腕を掴んだ。振り返った無限の目が見開かれて、大きな瞳いっぱいに風息を映す。
「なに」
「もう寝るんだろ、久しぶりにこっちで寝ろ」
「でも…」
口籠る無限の目が泳いで、珍しく迷いの色が浮かぶ。
「明日は朝早いから」
言外に仄めかされた部分を悟ってかっと顔に熱が集まる。風息はぶんぶん音がしそうな勢いで首を振った。
「そういうことじゃない!……ただ、一緒にいたいと思っただけだ」
やんわり断ろうとする無限に言った、それは本心からの言葉だったが、この点風息は信用されていなかった。 無限がジト目になる。
「だっておまえ、この間も」
「それは、、」
否定できない。心当たりがある。当分帰って来ないと思うと寂しくなって、次の日から任務だというのに抱き潰してしまうのだ。無限じゃなければ、身体に支障があるだろう。……ひと月ほど前にもそんなことがあった。
当然、本当に嫌ならぶっ飛ばされている筈で、甘やかされているのは承知の上だ。でもどうにも抑えられない。この男を前にすると、理性の箍が簡単に外れてしまう。
今も風息の手を振り解こうとはしない無限に、なんだか自分がひどく情けなく思えて、風息は掴んでいた腕を離した。
「……ごめん」
そんなつもりはなかったというのに、思わず沈んだ声が出た。大げさに聞こえすぎたかもしれない、という心配が頭を掠めるのと、無限が身体ごと向き直るのは同時だった。風息の顔をじっと見つめて、眉を下げる。それから、そろそろと手を伸ばして、遠慮がちに風息のTシャツの裾を掴んだ。珍しい光景に目を見張る。
「それに、……ちょうど取り込み中だったようだし」
目を逸らしてぼそりと呟いた無限の表情は、風息が初めて見るものだった。伏せた長い睫毛が揺れて、ぐ、と心臓が素手で掴まれたような気分がする。
何か貴重なものを見るように、無限の顔と、裾を掴む手を交互に眺めて、風息は口角がむずむずするのをぐっと堪えた。このまま眺めていたいと思ったが、風息が固まっているのを訝しく思ったのか無限がちらと視線を寄越したので、慌ててその手を回収する。できるだけやさしく。
乾いた温かな感触が、無限のそれより少しだけ大きい自分の手に預けられるとき、風息は何度でも胸のうちがじわりと熱を持つのを感じる。
手を引いて机の前に移動すると、無限はおとなしくついてきた。数歩だけだったけれど、いつもの泰然とした歩きかたとは違う、ぺたぺたと音がしそうな、幼子のような歩きかたで。
「これ?」
風息は机に広げっぱなしの手紙を指し示した。別に隠そうと思ったわけではない。だから、ノックの音にもすぐに返事をしたのだ。
無限はやはり文面には目を向けずに頷いた。
「読むつもりはなかったんだ。すまない、目に入ってしまった」
「読まれないようにはしてなかったからな。おまえが謝ることじゃない」
無造作に広げっぱなしだったのだから、当然のことだ。
「おまえに宛てたものだろう。私が読むべきではない」
読まれても構わないと思ったが、それもそうだ。
「昔、人間の娘にもらったんだ」
机上の手紙を元どおりに畳みながら、風息は続けた。
「恋文ってやつ」
読まないとはいうものの気にしないこともできないらしい、それを素直に態度に出せるくらいには、自分は無限に甘えられているのだと気がついて、くすぐったいような気持ちになる。どうしてやれば良いものか逡巡して、やはりそのまま告げるべきだと思った。
予想通りだったのだろう。無限は黙って聞いていた。無言で先を促す、その顔色をじっと観察して風息は続ける。
「ほら、神様だと思われてたから、俺。よく人間が願掛けに来て……聞きたくない?」
「詳細はいい」
半目の瞼がさらに下がる気配を察知する自分はなかなかだ。
少しむすりと聞こえる声。一見平静に見える恋人の眉間にこっそりと寄った皺に思わず頰が緩みそうになる。が、ここで笑うと大惨事になるだろう。
「ほんとに?」
「ああ。それで、……返事は書いたのか?いや、言いたくなければいい、単なる好奇心だ。すまない」
普段迷いの無いもの言いをする無限が、言葉を探しながら喋るなんて珍しい。風息はこそばゆいような気分で、繋いだままの手から伝わる温度を噛みしめる。
「いや、書いてない。当時は読み書きができなかったからな。この手紙を読んだのは、ずっと後のことだよ」
もしも返事をしていたら、違う思い出もあったかもしれない。
「誰かひとりに特別な感情を抱いたのは、あのときが最初だったと思う」
「……そう」
「人間を嫌いになる前の大切な思い出だ」
風息の中でも既に朧になりかけているその景色がはっきりと伝えられるはずもないが、じっと風息の目を見ている無限はきっと、想像しようとしているのだろう。できることと言えば、その視線を受け止めることだけだった。
「おまえに、人間との良い思い出があって嬉しい」
無限がゆっくりと言った。穏やかな声。嘘では無いと思う。それが自分との思い出でないことを、少し残念に思ってくれれば良い。
そんな下心に気づかれないように、風息は手紙を机に仕舞った。
「ものを捨てる習慣がなかったから、何となくずっと持ってたんだ。この間、霊域で見つけて……読み返そうとしたところで、おまえが」
無限が大きな瞳をぱちりと瞬かせた。
探しものをしに霊域に入った風息が、早々に呼び戻されたのは他ならぬ無限のせいだ。確か作り置きの食事を温めようとして、いつも通りとんでもないことになった。霊域の中にまで焦げくさい匂いが漂ってきて、風息は慌てて戻ってきたのだ。
「……すまなかった」
心当たりがあるらしく、無限が所在無さげに言う。
「いいよ」
上目遣いにちらりと伺うのがおかしくて、思わず声の端が笑ってしまう。
まあ食事を温めるくらいは、できるようになって欲しいけれど。
「すまない、詮索するようなことを。……おまえが、見たことのない顔をしていたから」
一瞬の沈黙。
「妬けるな」
「え」
予想外の言葉に上手く反応できなくて、間抜けな声が出た。
「……冗談だ」
「ほんとに?」
まぁ今日のところは、揶揄われた、ということにしておいてやっても良い。
「私もおまえに書こうかな」
冗談なのか本気なのか分からない表情で無限が溢すのを聞いて思わず、風息は無限の背中を抱き寄せた。薄い夜着越しの体温が手のひらから、合わせた胸から伝わる。
ぐり、と無限の首筋に頭を押しつけると、鼻先が乾ききっていない横髪を分けてひやりとする。
「……つめた」
少し身体を離そうとして、服の裾を掴まれていることに気がついた。顔を見られたくないのか、俯いたままの無限が二人のあいだにできた隙間を拒むように身体を寄せてくる。今度こそ風息は、ははっと笑いを漏らした。「ほら、タオルかせ」
無限の肩にかかっていたタオルを引き抜くと、頭から被せてわしわしと水分をふき取る。
「やめろ、髪が痛む」
「普段ほったらかしのくせに、よく言う」
乱暴そうに見えても、実は細心の注意を払っているのだということは黙っておく。普段から、少なくとも無限よりは風息のほうが、無限の髪を丁重に扱っているのだ。
やめる気のない風息に、無限が抗議の目を向けて髪の水分をまとめて飛ばした。
ベッドに先に腰を下ろして、手を引くと無限はすんなり風息の腕の中に収まった。
するすると絹のように滑る夜色の髪に指を通しながら顔色を伺う。
「……明日は早いと言っているだろう」
睨む視線に先ほどの威力はない。ほんの少し上気している頰に手を伸ばすと、少し身じろいで、無限がその手に顔を預けた。
「大丈夫」
無限が反論するよりも早く、風息はその口を塞いだ。寝台の軋む音が虫の声に混じる。