いつもやさしい買い物袋を下げて家に帰ると、女がいた。
風呂上がりらしい様子で、堂々とソファでくつろいでる女は、俺の姿を見て慌てる様子もなく口を開いた。
「お帰り風息」
おまえ誰だ、と形式的に言うべきかと思ったが、しかしそれは無駄と言うものだろう。俺はこの女を初めて見たが、知っている。玄関には無限の靴がいつものように揃えられていた。
女はろくに水気を拭き取っていない長い髪から横着に水分を飛ばし、突っ立って無遠慮な視線を浴びせる俺から視線をスーパーの袋に移した。
「夕食はなに?」
無限が布団を襟元まで上げて、身体を寄せてきた。
自分ではよく分からないが、俺の体温は高いらしい。だから寒い時分にはくっついて寝ると良い塩梅なのだと。
夜着を通してじんわり肌の温度が伝わってくる。いつもなら抱き寄せて温めてやるところだ。が、俺は思わず固まった。肘のあたりに押し付けられている柔らかな感触。明らかに常と違うそれに、無意識に身を引いていたらしい。眉間に皺を寄せて不満をあらわにした無限が、さらにぐいぐいと身を寄せてきて壁ぎわに追い詰められた。
「な、なに」
「……何って、寒いから。なぜ逃げる」
常より高く細い声に問いただされる。
「逃げてない」
「そうか?」
そう言うと無限はひょいと俺の腕を掴んで腕枕の体勢にし、胸に手を置いて思いっきり身体を預けてきた。俺は思わず仰け反り、後ろ頭を壁にぶつけてゴンッッという間抜けな音が部屋に響き渡った。
「すまない、大丈夫か?」
心配げに覗き込む無限の顔が眼前に迫る。
ただでさえ長い睫毛はさらに長く繊細で、ぱちりと開いた大きな目はこころなしか普段よりも表情豊かな気がする。顔の輪郭も首から肩のあたりも、全体にいつもよりまるみを帯びて、骨が細い感じがする。
きれいな顔だと思っていたが、こうして見ると男性的なところがあったんだな……などと思わず釘付けになった視界を遮って、白い腕が伸びてきた。反射的に身構えたが、少し小さな手で頭を撫でる手つきは普段どおりのそれだ。
深呼吸して息を整える。うん、形が違うだけで、これは無限だ。
「……大丈夫」
頭を撫でたあと髪を弄んでいた無限の手に、自分の手を重ねてみた。
「細い」
身長はほとんど変わらないが、無限の手は普段から風息より小さい。今比べて見ると、さらに小さいだけでなくか細く見える。指を絡ませてぎゅっと握ると、目の前に持ってきて観察した。
「女性だからな」
「折れそうだ」
爪までが精巧に形を変えているのが不思議だ。獣から変化するのが当たり前の自分のことは棚に上げて、ぼんやりと考えた。
「試してみるか?」
「え?」
「案外丈夫だよ」
「お、おい、」
意味が分からず固まっていると、無限がもぞもぞと身じろぎして、突然身体ごと乗り上げようとしてきた。不意をつかれた俺は繋いだままの手を顔の横に固定され、ばたばたと魚のように手足を動かして抵抗した。無理に押し退けることはできたと思うが、女の身体にどれくらいの力をかけて大丈夫なのか分からなかったのだ。
力を測りかねているうちに胸あたりにたゆんと柔らかいものが押し付けられ、さすがに無限が何をしようとしているか、理解せざるを得なかった。
「む、むげ」
「嫌なのか?」
見下ろす無限の髪がはらりと落ちて視界の半分が蒼になる。
「嫌、とかじゃないけど」
「じゃあ何」
「……遠慮しとく」
「どうして。この姿の私は好きではない?」
不服そうに見下ろす無限の顔に手を伸ばす。輪郭を確かめるように指を滑らせると、懐くように頰が押し付けられる。柔らかい。
「そんなんじゃない。俺はどんな姿でもおまえが好きだよ。けど、」
これは嘘じゃない。どんな姿に変わっても、無限を見つける自信があったし、好きになる、不思議な確信があった。
「じゃあ問題ないだろう。せっかくだし、試してみたい」
無限の顔に笑みが浮かんで、俺は墓穴を掘ってしまったことを悟った。
「いや、あの、いろいろ分からなくてこわいだろ!戻った時に身体に支障があったら困る。無理するな!」
「してない。問題ないよ」
無限は引き下がらない。こいつはこういうところがあるのだ。
「興味があるんだ。私は普段、おまえと違って変化しないからな」
「……」
完全に結論を出してしまっている様子に、覚悟を決めてこっそりと細い息を吐く。
形を確かめるように恐る恐る触れる。頰から耳朶、首筋、肩。どうやら幻覚ではないらしい。
常より柔らかくきめ細かい肌に、少し細い骨の感触を味わっていると、無限がふふと笑った。
「なんだよ」
「はじめの頃を思い出して。おまえはこんな風に大事にしてくれた」
無限の口調には揶揄いでなく実感がこもっていて、思わず手が止まった。
「最近は、……こんなじゃなかったか?」
自分ではいつだって大事にしているつもりだけれど。意識せず嫌な思いをさせていたのだろうか。不安になる。
確かに時々箍が外れて、無理をさせてしまう自覚はあるけれど。
「すまない、そういうわけではないんだ。誤解させてしまった。おまえはいつだって、優しいよ」
俺の様子に気づいたのか、無限が柔らかく微笑んで
手が背中をゆっくりと撫でる。
「つい懐かしくなって」
くすくす笑いを漏らす唇を塞ぐ。この部分は、あまり男女差がないらしい。