「手を出せ」
唐突にそう言われて、ジークフリートは不思議に思いながらも両手を顔の前に出し、左右とも五指を拡げた。
「こうか?」
ろくに説明も無いまま何かを求めるなど、パーシヴァルにしては珍しい。彼に限って悪さをすることは無いであろうが、どういうつもりなのだろう。
「そうではない。こっちだ」
パーシヴァルは斜め向かいからジークフリートの両手を見遣りつつ、瞳を細めた。その手には何か小さな箱がある。表情は読みにくい。敢えて言えば、冷静そうに澄ました真顔だ。
「それと、片手でいい」
「ほう。なら、こうかな」
左手をパーシヴァルのほうへと差し出す。ここまで言われてようやく、彼はジークフリートの手に何かを施したいのだと言うことに気がついた。彼らしくもなく言葉足らずなその求めの真相を楽しみに思い、ジークフリートは大人しく腕を出したまま静かに待つ。
「これを――」
手に持った箱の中から出てきたのは小振りで華奢な指輪だった。一見して女物のように見えるが、おそらく何か特殊な魔力の籠められたものであろう。その詳細が何であるのかはジークフリートには嗅ぎ取ることができないが、単なる装飾品というわけではなさそうだ。
パーシヴァルはジークフリートの左手を取り、恭しいしぐさでその指輪を中指に嵌めようとした。しかし、明らかにサイズが合わない。小さくて指の頭すら入らない。そのサイズだと小指でも無理であるように見えるのだが、どういうつもりなのであろう。
「……こっちにするか」
中指を諦めたようで、薬指の頭に指輪の銀色が触れた。
到底通りそうにもない小さな指輪がじわりと熱を持って発光し、白い光に包まれながら形を変える。膨らむようにして少しだけ大きくなった輪が薬指を通ってゆく。熱いように感じるのはこの不可思議な光のせいだろうか。悪い心地ではない。
「これを、嵌めていろ。異国の教会で祈祷されたという聖なる指輪だ。邪気除けの効果がある」
「なるほど。そういうことか。いきなりどうしたのかと思ったぞ」
意図を理解したことで奇妙な緊張がほどけてゆき、ジークフリートは安堵した心持ちでパーシヴァルに微笑みかけた。しかし彼はまじめくさった真顔を崩さず、むしろ引き結んだ唇をへの字に曲げるようにしながらジークフリートの瞳をじっと見つめてくる。
「危険な依頼にひとりで赴くと聞いた。身を守るためのものは持っていて損は無い」
「団長に聞いたのか?」
「手紙のやりとりの中で話題に出てきた。ちょうど、魔除けの指輪を売る行商人がウェールズに来ていてな。お前が近くに居るなら出立の前に渡したいと思ったまでだ。足労をかけた」
薬指に収まった銀色の指輪は、壁のランプの光を受けてきらきらと光を反射させていた。魔法の作用するものだからなのか、初めに見た時とは形を変えて、今は男の指に嵌めてもそこそこ馴染むシンプルなデザインで指の根元を飾っている。
きらめく銀色は濡れたような艶を備え、不思議な色気を放っていた。見た感じでは普通の銀や白金ではなさそうだ。ジークフリートはこういった装飾品についての知識は持たないため詳細はわからないが、仮に特別な素材ならば貴金属よりも高価ということだってあるのかもしれない。
「しかし、すまないな。こういうのは結構値が張るだろう」
「気にするな、対価は不要だ。お前が無茶ばかりするからせめて守護になるものを持たせておきたいと俺が願ってのことだ」
「しかしな。貰いっぱなしと言うのも申し訳ない……」
ジークフリートは己の薬指へ視線を落とした。魅力的な銀色に心を奪われるようにして指を揺らし、角度を変えながら光を当てて様々に煌めかせる。綺麗だ。パーシヴァルからの贈り物であると思うと、この指輪がここに嵌まっている限り彼の気配を感じることができるかのようで、うれしい――。
指を持ち上げ、指輪の匂いを嗅ぐ。匂いは無い。あるいはほんの少しの金属めいた匂い。
「……おい」
「あ」
声を掛けられ、我に返る。不躾だったかもしれないと反省して顔を上げると、パーシヴァルは特に不満そうでもなく、ただ少しだけ首を傾げてこちらを見つめていた。
「すまん。品の無いことを」
「匂いがするか?」
「いや。お前の気配を感じられるかと少々期待はしたが、さすがにそんなことはないな」
己の行動についてを説明しているうちに自分が変なことを言っているような気がしてきて、ジークフリートはそのまま言葉を重ねてゆく。
「絆を結ぶために、契りの徴として指輪を贈る文化があるだろう」
「……」
「だから、お前に指輪を貰ったことが、なんとなく、嬉しいというか……くすぐったくてな。ああ、いや、深い意味はないんだが……」
「……ジークフリート」
言葉を遮られ、捕らえようとするかのような声に名を呼ばれた。
ジークフリートは言葉を止め、息を呑み、パーシヴァルの視線に射止められる。なにか、もうすこし弁明を重ねたかったはずだったのに、かき集めた言葉は全て流れ出して散り散りになってしまった。
「俺に指輪を贈られたいと願うなら、今度、もっとお前に似合うものを見繕ってやる」
「……しかし、俺はもうこの指輪で満足している。幾つも貰ってしまうわけにはいかない」
「俺が贈りたいだけだ。不要であれば受け取らんでも良い」
「だがそのような無償の施しなど、……」
「次は身を守るための道具ではなく、お前と絆を結ぶための指輪を贈ろう」
強引に話を進められてジークフリートは気圧される。
返す言葉をうしなうほどに真剣に見つめてくる瞳は赤い光が揺らめいて甘く鋭く美しい。火影のようだ。灼かれて溶けてしまいたくなる。
言葉の意味が頭に入ってこない。何を言われているのかさえ理解できなくなってきて、ただ絡め取られて閉じ込められ、情熱じみたものに染め上げられていった。どこにも逃げられなくなり、喉が詰まったようにうまく息が吸えなくなる。胸が苦しい。つかまってしまっている、そういう気がする。深々と足を取られて、もう、何処へも。
「楽しみにしているといい。その時を迎えるために、此度も必ず無事に戻れ」
鷹揚なようでいてどこかぎりぎりの、瀬戸際のひたむきさを滲ませた声と言葉が感情に刺さってくる。高圧的な微笑にも真摯な切情が見え隠れしている。こんなに一生懸命に訴えられたらむげになど出来るわけもない。反抗の手段も逃げ道もないのだから、もはやどうしようもなく、ただ大人しく従うことしかできそうにない。
それに、そういうことを自分自身も望んでいるような気がする。現に自分はパーシヴァルにもう一度指輪を嵌めてもらうときのことを想像して楽しみにしている――だから、パーシヴァルがそうしたいと望むのならば断る理由などひとつもないのだ。
観念した心地で頷く。
真っ直ぐに向かってくる赤い瞳を見つめ返すと、その綺麗な赤色の表面が僅かに潤んで、色白の頬に少々の赤みが差した。
「……わかった。無事に戻る。その際にはもうひとたびこの邸に立ち寄ろう」
「そうだ。それでいい」
約束が成立した瞬間に緊張がほどけて空気がやわらぎ、つられるようにしてジークフリートも瞳の表面が熱く微かに濡れる感覚を味わう。年甲斐もなくどきどきしてしまった。パーシヴァルにばれていなければいいが。
「ふふ……無茶はできなくなってしまったな」
「当然だ。初めから俺はお前に無茶を許してなどいない」
「俺の帰りを待っていてくれるか?」
「無論。急ぐ必要は無い」
パーシヴァルは深い優しさを奥に湛えた微笑を浮かべて手を伸ばす。その指先は、どこか魂が抜けたように佇むジークフリートのほうへと近づく途中で、ためらうようにして翻り、引いていった。
離れてゆく指に縋るような視線を向けながら、ジークフリートは、触れて欲しかったと焦がれ望んでいる自らの想いに気づいてしまう。その感情は甘い思慕を多分に含んで濡れそぼっていて、気づいたが最後、手がつけられないほどに膨れあがって見たこともない色を撒きながら感情のうちのいちばん深いところに根を下ろしてしまうのだった。