アルバノルムの軍勢が国境近くへ侵攻しているという情報が入ってから、数日。フェードラッヘは陣を敷いた軍勢を下手に刺激することのないようにと国境よりやや手前に騎士団の一隊を展開した。迎撃するには規模の足りぬ小隊であったが、背後の駐屯地にはいつでも援軍を出せるようにと騎士達が詰めている。しかし、敵勢と思しき軍は国境の僅か手前でぴたりと進軍を止め、動きの無いまま既に三日が経過していた。こちらの出方を窺っているか、あるいは何らかの事情があるのか――いずれにしろ攻め入ってこない以上はこちらから仕掛けることに大義は無い。動くに動けぬまま、前線や駐屯地では初日の緊張感が薄れ始めているとのことで、明日になって夜が明けても動きが無いようならば騎士団長であるランスロットが国境に赴いて様子を確認するという予定になっている。
パーシヴァルは一旦、ウェールズに戻ることに決めた。このまま開戦するようであれば手を貸そうと考えていたが、時間的余裕があるならば馬を飛ばして兄に会っておきたい。今回のことの事情は既に伝令から伝わっているはずだ。ある程度想定できるとはいえ、ウェールズがどのように動くつもりであるかの確認はしておきたかった。それから自分に任されている領地のことも気がかりだ。しばらく空けてしまっている。
「ランちゃーん、城下の西側の守りを固める人数がちょっと足りないらしいんだけど、どうかな? 西側って今回そこまで人数割けないよな」
「そうだな……ただ、西方は魔物の動きが活発になっていると聞いたのが気になる。念のため兵の配備は手厚くしておきたいところだが……」
「うーん、じゃあ逆に東側の見回りしてる兵に西についてもらう? 東の警備はそこそこ堅いし」
「それが良さそうだな。ヴェイン、すまないがそのように手配してもらえるか?」
「あいよ! あと前線への補給経路についてなんだけどさ……」
数年前に改装され、黒竜騎士団の頃よりもひとまわり広くなった団長執務室に、ランスロットとヴェインがあれこれ相談する声がせわしく響いていた。
パーシヴァルは彼らの手伝いをしたり相談に乗ったりしつつ、今は資料棚の前に立ってアルバノルムについての情報に目を通している。本来ならば早めにウェールズに戻りたいところなのだが、現状、生憎ながら天候がすこぶる劣悪だ。嵐が吹き荒れ、雷が鳴り止まず、昼下がりであるというのに日が暮れたかのように辺りは暗い。空模様を読める者に聞くところによるとこの嵐は少なくとも夜半までは続くであろうとのこと。如何ともしがたい足止めを余儀なくされたことで逆に焦りも失せ、国境の敵軍に動きがないようならばいっそ無理に急がず、出立は明朝でいいだろうと思い直したところであった。
「パーシヴァル、俺にもその資料を見せてくれないか」
背後から声を掛けられて振り向くと、ジークフリートがパーシヴァルの手元を覗き込んでいる。
「構わんが、見えるのか」
読み終わった紙の束を手渡すと、ジークフリートはそれを両手で持ち、鼻の頭に触れそうなほどに顔に近づけた。
「こうして近づければ見えないことはない」
「……。必要なところだけ掻い摘まんで説明してやる」
彼の両目の状態では細かい文字を読むには骨が折れるであろうに、なぜ無理をしようとするのか。読めないことはない、というのが事実であったとしても、非効率も甚だしい。
「それは助かるが、お前はお前でやることがあるんじゃないのか?」
「いや、いい。ウェールズに戻ろうと思っていたが、この天気では外に出られんからな」
「帰るのか?」
「ウェールズにとっても有事だ。兄上と話をしておきたい」
「ふむ、妥当だな」
パーシヴァルはジークフリートに渡した資料を返して貰うと、さまざまな情報の中から比較的重要と思われる事項をひとつひとつ説明していった。と言っても、この資料の内容はやや漠然としていて国家の概要以上のことを把握するには情報が不足している。ジークフリートにも基本的な知識はあるはずなので、一通りの説明はすぐに済んでしまった。
「――と、まあ、この程度の情報しかないな」
「わかった。……助かった、感謝する」
「構わん」
ジークフリートとの会話はそこで途切れたが、読んでいた資料を棚に戻しつつ別の書物を手に取ろうとした際に彼が隣で何やら手こずっている様子が目に入ってくる。棚の奥にある本を取ろうとしているのだろうか、しかしその手前に雑然と積まれている資料と筆記具類が邪魔になっているようだ。
「この本か?」
パーシヴァルは片手を伸ばし、ジークフリートが手に取りたがっているであろう書物を奥から取り出した。
助けが入るとは思っていなかったのか、ジークフリートは一瞬だけ隙のある表情を見せたのち、本を受け取りながら微笑する。
「ああ、すまん。助かる」
「無理はするな。やりにくいことがあれば手を貸すから言うと良い」
「お前は本当に頼りになるな」
「隣で困っている者を助けるのは当然のことだ。だからお前は、俺も含め、もっと皆を頼るようにしろ。少なくとも、万全な状態でないうちは一人で何とかしようと思わんことだな」
言い聞かせるように伝えた言葉に、ジークフリートは神妙に頷いた。そうしてそのあと顔を上げ、一呼吸置いてからやわらかく表情をゆるめ、色の抜け落ちたような瞳でパーシヴァルをまっすぐに見る。痛々しい痣があっても甘く深みのある目尻の穏やかさはいつもと同じ形をして、優しい温度で見つめてきた。
「ふふ……お前のその小言が、明日以降は聞けなくなると思うと寂しくなる」
「……。なにも、今生の別れではない。またすぐに会う機会もあろう」
「ああ、そうだな……、なあパーシヴァル、これはまあ、冗談と思って聞いてくれて良いんだが」
ゆっくりと瞬きをする仕草で瞳を閉じ、すこしだけ顔をかたむけて斜め下へ視線を流す。
しぐさや言葉の端々に見え隠れするジークフリートからの好意のようなものに肌をくすぐられるかのようで落ち着かない。無論、悪い気はしない。頼られることを誇らしくさえ思う。
「俺は最近、お前に、傍に居て欲しいと思うことがしばしばあってな」
言いながら彼は手近な椅子の背を引き、本を手にしたまま腰掛けた。見上げてくる視線に他意は無さそうであるが、それでも、まるでこのあと特別な愛でも告げられるのかと錯覚しそうな台詞だ――と、思わずにはいられなかった。特別なことは無いとわかっているつもりでも否応なしに胸は高鳴り、パーシヴァルは無意識のうちに両手で軽く拳を握る。
「お前の気配が傍にあるだけで落ち着くような気がして……ふふ、詮無きことだ。世迷言と思って忘れてくれ」
「……ジークフリート、お前は」
「いや、引き留めようなどとは思っていない。すまんな、今は俺のことは気にせずお前自身が最善と思うように行動を――、む」
肩に手を置き、気づかせて、下を向こうとする顎下を指先で掬い上げ上を向かせる。そこまでされてさすがに言葉を止めたジークフリートの表情は、パーシヴァルが想像していたよりもずっと湿っぽい感傷を滲ませていた。
「俺が居ないと寂しいか?」
「あ、……いや。すまない、変なことを。気にしないでくれ」
いつもと違う色の瞳が揺れる。赤い色を映して。
「だが、口に出したからには本心だろう」
「口が滑っただけだ」
「嘘でないのならば、その気持ち、もうすこし……」
焦れったさを我慢できなくなり、感情が溢れて声が詰まった。
どうにかして捕まえられないものか。せめて二人きりになれれば。狭い部屋に連れ込んで鍵を掛けて距離を詰めれば、素直になってくれるのだろうか。
――もうすこし、聞かせて欲しい。
「少し話がしたい。今宵、このあと、俺とお前の二人だけで、だ。いいな?」
ジークフリートは無言で頷いた。従順を思わせるしぐさだった。
彼は、顎先から離れてゆく指先を目で追いながら、悩ましい吐息を静かに落とした。甘いため息をつくように。